大物主と三輪山

 

 

崇神天皇が大和系の神ではない、吉備発のオオモノヌシ(大物主)を三輪山に招請したことから分かること

  ――スサノオ、オオモノヌシと中臣氏の根源地は吉備の吉井川中流域――

 

1.   箸墓の主はヒミコかトヨか

 相変わらず「箸墓は邪馬台国の女王ヒミコ(卑弥呼)の墓で決まり」とはしゃいでおられる方々がまだまだ多いようですが、日本書紀が箸墓の主と伝えるヤマトトトビーモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)が紀元三世紀前半のヒミコとするなら、同三世紀後半に王位を即位した崇神天皇と、どうして対話を交わすことが出来たのか、を解明する必然があります。 

 むしろ、265年に魏を乗っ取る形で誕生した晋(西晋)に翌年の266年に遣使を遣った後、消息が不明なヒミコの後継者トヨ(台与、壱与)こそ、モモソヒメであると見なすと、つじつまが合いますが、トヨの名が出て来ていないのは不思議です。

 邪馬台国吉備説を提唱している私は、ヒミコの墓は吉備津の鯉喰神社弥生墳丘墓で、トヨは晋に遣使を派遣した後、大和軍が侵攻して吉備王国が崩壊した後、開化天皇の后候補兼人質として、大和盆地に移送されたのではないか、と考えています。

 

 

2.大物主の三輪山への招請

 崇神天皇は即位しした後、治世六年まで国内の疾病や流出者多く出現して苦慮しました。そこでアマテラスと倭大国魂(やまとおおくにたま)を宮中で祀りますが、両神は合い入れません。治世七年になって、モモソヒメが大物主(オオモノヌシ)の招請を提唱し、大物主の孫タケミカヅチ(建甕槌)の息子大田田根子(おおたたねこ)を祭主として三輪山に大物主を招請すると国内は平穏になり、崇神天皇の治世は軌道に乗りました。

 大物主はスサノオと奇稲田姫(櫛名田比売)の間に生まれた八島士奴美の五世孫オオナムチ(大己貴)に総称される神々の一神ですが、それぞれの神は主要地域やオオナムチと見なされるようになった時期は異なっているようです。

(オオナムチの神)

 オオナムチ(大己貴)は「大きい土地の王・主」と解釈できますが、複数の神々が該当します。

オオクニヌシ(大国主) 出雲と日本海

アシハラシコヲ(葦原醜男) 西播磨

ヤチホコ(八千矛) 越地方

オオモノヌシ(大物主) 瀬戸内海。ことに吉備と讃岐。塩飽(しあく)諸島と金刀比羅宮

 大物主が瀬戸内海の神と見なすなら、モモソヒメと瀬戸内海は何らかの関りがあるのではないか、と考えても不自然ではありません。

 

 

3.百襲姫モモソヒメは吉備邪馬台国の最後の女王トヨではないのか

 モモソヒメを調べていくと、どういうわけか、讃岐(香川県)での存在が目立ちます。

田村神社 祭神はモモソヒメが主神で、五十狭芹彦(いさせりびこ。吉備津彦兄)、伊勢の猿田彦、尾張氏の天隠山・天五田根親子も祀る。

百相(ももそ) 田村神社近くの宿場町。数十の家々が軒を並べていた。

水主神社 東かがわ市。祭神はモモソヒメ。八歳の時に大和から到着し、水路を開いて稲作を助ける。

モモソヒメの忘れ形見の衣 引田から三本松に出る際に松の小枝にかけた衣が忘れ形見となった。

 

 讃岐に攻め入った吉備津彦兄を鼓舞するために実姉のモモソヒメが讃岐まで駆け付けた逸話や、五歳で東香川に漂着したとする伝承はモモソヒメを美化しようとする後世の後付けの印象を与えます。

 むしろ大和軍の急襲で王宮を脱出したトヨは実家の田村宮に逃れたものの、最後は大和軍に包囲され、吉備津彦兄の説得で大和盆地に移送され、讃岐の百相から来た「モモソヒメ」と呼ばれるようになった、と見なす方が自然です。吉備王国制覇に向けた総帥である吉備津彦兄、水軍を率いる天津彦根(アマツヒコネ)族に対して、陸軍を率いる尾張氏の天隠山・天五田根親子にとっては、吉備邪馬台国制覇の最終地となったわけです。

 大和軍が讃岐も含む吉備王国を制覇した後も、備中、備後、瀬戸内海の女木島(鬼ヶ島)など、各地でゲリラ反撃が相次いでいました。しか大物主の三輪山への招請され、トヨが健在しており、水軍のアマツヒコネ(天津彦根)族・アメノユツヒコ(天湯津彦)族の舩で、河内湾の八尾周辺に運ばれた大田田根子も無事であることが分かった後、ゲリラはぷっつりとなくなって瀬戸内海の治安が改善したことから、崇神天皇の治世がようやく軌道にのりました。

 

 

4.スサノオ、オオモノヌシと中臣氏の根源地は吉備の吉井川中流域

(富村と剣神フツヌシ)

 弥生前期半ば、前334年に楚に敗れた越からの亡命集団が淡路島地域に定着した後、中国山地で銅鉱山が発見されて、津山盆地が銅器製造の拠点となり、その警護役として剣神フツヌシ(布都主)を信奉する富(とみ)族が登場しました。津山盆地の北西にある富村(鏡野町)はその名残を残した地名でないか、と考えます。

 富族は銅剣などの銅器を携えて瀬戸内海東部に進んでいき、河内湾を臨む生駒山地域(富雄町)に後の物部氏につながる登美(とみ)王国を建てました。

 

(吉井川の中流域)美咲町から赤磐市にかけて

 スサノオは出雲の神とする見解が根強くありますが、スサノオ系譜の神々が集中して登場するのは全国の中でこの地域のみですし、単なる偶然とは思えません。

 自説では、弥生時代中期の半ば、紀元前108年の前漢の武帝の朝鮮半島の植民地化の後、最先端の鉄製武器・農具を携えて筑紫地方から東下して来たムスビ系の興台産霊(こごとむすび)の子である天児屋(あめのこやね)に加えて、柵原(やなはら)で鉄鉱山が発見されたことを察知した荒くれ集団が押し寄せます。荒くれ集団は鉄鉱石を求めて、中国山地を荒らしまわった結果、先住の旭(あさひ)族と対立します。抗争に敗れた荒くれ者は高ノ峰に下り立ちます。多くは筑紫に戻って行きましたが、残った一部の者が頑丈な鉄製農具を使って荒れ地の開墾を始め、各地に水田を広げていったことから、「スサ(周佐、須佐)のオ(男)と歓迎されます。

 スサノオ族は周匝に本拠を置いて、吉備地方全域と伯耆・東出雲へと勢力を広げて行き、吉備邪馬台国として発展して行きました。

上山宮-周佐(すさ)-王入 

高ノ峰の北麓にある上山宮はスサノオを祀り、吉井川の対岸にはスサ(周佐)の地名があります。王入もスサノオを連想させます。

柵原鉱山

柵原鉱山は主に硫化鉄鉱の産出ですが、鉄剣の素材となる磁鉄鉱の産出もありました。

筑紫地方の荒くれ者たちが磁鉄鉱を求めて、宗像氏の舩に乗って吉井川を上がって来た理由が柵原鉱山の発見にあり、スサ族とスサノオの誕生に繋がります。

藤原と藤の原

藤原氏は、中臣鎌足の邸宅が飛鳥の藤原にあったことから、天智天皇が授けた姓ですが、中臣氏の根源地は柵原の対岸の「藤原」の地ではないかと見なすことも出来ます。中臣は「中富」でもあるとすると、吉井川の中流域にあっても奇妙ではありません。中臣氏の祭神は天児屋(あめのこやね)、比売(ひめ)君、武甕槌(大物主の孫神)、布都主(物部氏系)の四神ですが、ムスビ系の天児屋、スサノオ系の武甕槌、富族の布都主が融合したのが中臣氏である、と言えます。中臣氏は三つの異なる要素を合体させて、スサノオ王国を統括したわけですが、祭祀系(大田田根子)と武人系(建鹿島)の二系統で構成されています。

(神。こう)ノ峰と金刀比羅山

美作と備前の境をなす高ノ峰は蒜山高天原を追われたスサノオの降臨地にふさわしい地です。近くに大物主につながる金刀比羅山があります。

血洗いの滝-宗形神社-周匝(すさい)

高ノ峰の南麓にある血洗いの滝はスサノオが大蛇(オロチ)を斬った剣を洗った地と伝えられています。

宗形神社の祭神はスサノオの剣をアマテラスが三段に折って嚙み砕いて誕生した三女神です。

周匝は「すさひ」で吉井川の流れを意味する、と解釈されていますが、「スサノオの居場所」との解釈も可能でしょう。

室御所-竜天山-石上布都魂(ふつたま)神社

室御所はひょっとしたらスサノオと奇稲田姫(櫛名田比売)の御殿だったのではないか、との思いをはせていますが、近くに大蛇を連想させる竜天山があります。

石上布都魂神社の祭神はスサノオと布都主の二神ですが、スサ族と富族が融合しています。日本書紀はスサノオが大蛇を斬った剣がある場所と記しています。

 

(吉井川下流域)

 どういうわけか、下流地域は「富」がつく地名が、福富-徳富-万富-斎富と続きます。

熊山神社と大内神社

熊山の山頂には大国主を祀る熊山神社がありますが、明治維新後の廃仏毀釈以前は帝釈山霊寺の仏教寺院でした。瀬戸内海を望む地形から、本来は大国主ではなく、大物主とするのが妥当でしょう。

大内神社の主要神はスサノオの第二の后神大市姫(カムオオイチヒメ)で、神大市姫は大年(オオトシ)と宇迦之御魂(ウカノミタマ)を生みます。大年の子孫神は大国御魂(オオオクニミタマ)など、播磨、摂津へと主に東に向けて多数存在します。崇神天皇は即位後、倭大国魂(ヤマトオオクニタマ)とアマテラスの両神を王宮に祀りますが、二神とも共生を認めませんでした。これはスサノオの系譜とムスビ神の系譜が共存出来なかったことを示しています。

富田-富岡-富崎-大富

安仁(あに)神社

吉井川河口近くにあり、神武天皇の兄五瀬(イツセ)を祀っており、神武兄弟はこの地を拠点に舩で吉備王国の警備を行った模様を類推できます。警備を担った高島は笠岡沖と穴海の入り口の二か所にありますが、二手に分かれての警備だったとすると、高島が二か所にあったとしても納得できます。

 

 

5.四道将軍と箸墓

 第十代崇神天皇は三人の后を持ちます。正后は大彦の娘御真津(みまつ)比賣で、次の垂仁天皇となる伊玟米入日子(いくめいりひこ)伊沙知(いさち)紀国造の娘遠津年目(とほつあゆめ)目微(まくはし)比賣豊城入彦(とよきいりひこ)、尾張氏の大海(おほしあま)媛は景行天皇の正后の父となる八坂入彦(やさかいりひこ)を産んでいます。

 

(四道将軍の派遣と武埴安彦の反乱)

 百襲姫(ももそひめ)等の忠言により国内が落ち着いた崇神天皇は、治世十年、四道将軍の遠征を決めました。正后御真津比賣の父安倍氏大彦(おおびこ)に北陸道、大彦の息子武淳川別(たけぬなかはわけ)に東国、腹違いの弟日古坐(ひこいます)に丹後王国、吉備津彦兄に九州の筑後川流域など未制覇の地域の獲得を命じました。

 すると崇神天皇の腹違いの叔父で母がアマツヒコネ族の河内青玉繋の娘にあたる武埴安彦(たけはにやすびこ)が反乱を起こしました。

 水軍の河内アマツヒコネ族は吉備王国を制した後、傘下のアメノユツヒコ族を引き連れて備後、安芸、周防、調布へと海から攻め込み、ついに筑紫まで手中におさめました。アマツヒコネ族は開化天皇の末期から崇神天皇の治世初期に吉備や周防の武人や工人、住人を河内湾に次々と運び込み、八尾の一族の墓に倭国の盟主の象徴である吉備の特殊壺・器台を飾りました。

 祭祀系の大田田根子たちもそうした事情で河内周辺に送られていました。武人系は意富氏の建緒組(たけをくみ)の配下として、伊予経由で豊後、筑後を制圧し。首領の建鹿島(たけかしま)の下で有明海西部の島原半島の杵島、鹿島地域に定住しました。

 

(四道将軍の帰還と箸墓)

 北陸と東国から無事に戻って来た阿部氏親子は不在中に、崇神天皇とモモソヒメとの仲がとても親密となり、大物主の祭主となった大田田根子(おおたたねこ)が三輪君の称号を受けていることに驚きました。加えて筑紫遠征に出た吉備津彦兄が、肥後と肥前の有明海西側を制覇した意富氏と中臣建鹿島を伴って戻って来たことにも面食らってしまいました。

「ミマキ(御真木)王(崇神天皇)はなぜ大和が破った吉備王国の者たちを優遇するようになったのか。モモソヒメが正后である娘の御真津(みまつ)比賣を押しやってしまう懸念もあるし、孫の伊沙知(いさち)が次代王に即位するのも不確実になった」と

安倍氏大彦(おおびこ)は、尾張氏も巻き込んで白蛇などを使ったモモソヒメへの嫌がらせを繰り返しました。

 阿部氏親子たちの執拗な嫌がらせに困惑したモモソヒメは自害の道を選びましたが、その原因は阿部氏親子と尾張氏にあったことを察知した崇神天皇は、纏向の大市に隣接した大規模な箸墓を築造することを命じました。これには阿部氏親子と尾張氏に対する見せしめの意図もありました。

 

6.崇神天皇対阿部氏・尾張氏

意富氏と中臣建鹿島の関東平野北部の制圧)

 阿部氏親子が北陸と東国を支配したと吹聴しているものの、実際には武淳川別は碓氷峠から下野に入った後、関東平野の北西部の端を素通りして会津入りをしたに過ぎず、広大な関東平野は手づかずのままであることが判明しました。そこで崇神天皇は関東平野の制圧に向けて、信頼できる意富氏と中臣建鹿島の派遣を決めました。意富氏と中臣建鹿島は房総半島北端の犬吠埼の水道から霞ケ浦に入り、磐城、下野、上野の関東平野北部の制圧を果たました。しかし利根川から南部の武蔵、下総と相模の制圧には至らないままとなりました。

 

(崇神天皇の一石三鳥策)

 崇神天皇は後継王に大彦の娘が生んだ伊玟米入日子(いくめいりひこ)伊沙知(いさち)にすることを決め、大彦親子(阿部氏)を喜ばせますが、大彦親子が北陸と東国の支配を踏み台にして、王朝の実権を握ろうとする野心を警戒しました。また武埴安彦の没落で中央での勢力をそがれたものの、西日本の安芸から周防、長府、筑紫などで勢力を保持しているアマツヒコネ族と傘下のアメノユツヒコ族の反乱も危惧されます。

 そこで、目微(まくはし)比賣の息子豊城入彦(とよきいりひこ)を東国の統括者として下野に送り、東国と陸奥の未支配地域の制圧に向けアマツヒコネ族とアメノユツヒコ族の一部を送りこみ、武淳川別を筑紫に送って阿部親子を分断する、という一石三鳥策を実施しました。

 この結果、崇神天皇による東西倭国の統一と日本国誕生は軌道に乗りましたが、

崇神天皇派と阿部氏・尾張氏との対立は崇神天皇の後の垂仁天皇、景行天皇、成務天応の時代まで続きました。