その4匂(ニオイ)宮      

 

4.フランスの首都がロワールからパリへ復帰、イングランドとの戦争と帝国第五次戦役

                           (カオル十三歳~十七歳)

(首都のパリへの復帰)

 カオルが十三歳になって、官位五位の侍従に続いて官位四位の右近衛の中将に昇格した年、六月に安梨王がパリ市に入城して、正式にフランスの首都がロワールからパリへ復帰することが具体化しました。桐壷王の祖父王の時代から百二十年余りの歳月が経過していました。

 王宮はルーブル宮となり、王室を支える王族や貴族たちもロワールの住まいを保持しながらも、暫時、拠点をパリ地方に移していくことになり、夕霧はパリ北部のモンモランシー(MontMorancy)に新しい邸を確保しました。自分勝手なニオイ兵部卿はルーブル宮住まいを敬遠して、パリ東端に位置するヴァンセンヌ(Vincennes)城を住まいにしました。

 

(イングランドの動向 エドワード六世の死でメリー女王の治世へ)

 まだ少年の新王エドワード六世の摂政となった叔父サマセット侯爵(エドワード・シーモア)はピンキー・クルー(Pinkie Cleugh)の戦いでスコットランド軍に勝利した勢いに乗じて、フランスへの攻撃を始め、ブローニュを再度手中に入れました。イングランド西部のカトリック派の反乱から世論の眼をそらせる目的であったことでしょうが、メアリー・スチュアート王女をフランスに奪われてしまった腹いせもあったことでしょう。

 ところがイングランド西部の反乱の鎮圧で力をつけたジョン・ダドリーがサマセット侯を失脚させて実権を握り、シーモア一族を粛清した後、フランスと和平協定を結び、ブローニュはフランスの手に戻りました。ダドリーはエドワード六世の後継者としてヘンリー八世の妹の孫ジェーン・グレイ(Jeanne Grey)を据えました。

 ジョン・ダドリーが実権を握った四年後、病弱のエドワード六世が十六歳で亡くなりました。ダドリーは躊躇なくジェーン・グレイに王位を継がせましたが、即座にヘンリー八世の最初の后でスペイン王国の王女キャザリン・ド・アラゴンが産み残したメリー王女を支持するカトリック派が蜂起して、ジェーン・グレイの王位はわずか九日で終わってしまいました。

 メアリー王女の即位で、ヘンリー八世がキャザリン・ド・アラゴン王妃との離婚と虹バラとの再婚騒動でローマ教皇と決別して、プロテスタントの国教会を創始してから十九年後に、イングランドは再びカトリックに戻ることになりました。

 

(神聖ローマ帝国とオスマン・トルコの対立から帝国第五次戦役へ)

 クレピーの和議で第四次戦役が終了して、フランスとの関係は平静が続いている中、神聖ローマ帝国とスペイン王国を率いるカール五世は自分の引退後を考えたのか、第一王子フェリペ二世にオランダ17県を継がせました。フェリペ二世はポルトガルのプロテスタントのオランダ移住問題などを処理しながら、二年余り滞在してスペインに戻りましたが、オランダをスペイン領にする布石となりました。

カール五世が直面している焦点はハンガリーと地中海の覇権をめぐるスレイマン一世が率いるオスマン・トルコとの争いでした。オーストリア・ドイツの統括を任せている実弟

フェルェルディナンド一世をハンガリーの唯一の後継者としたものの、これに反発したオスマントルコ軍がダニューブを越えてハンガリーに進軍し、ハンガリー戦争が始まりました。今回はオーストリア・ドイツ軍が優勢に戦ったことから、トルコ軍がダニューブからベルグラードに退却し、翌年ハンガリー戦争が終結しました。

 

 地中海では北アフリカ地域への進出を進めるオスマン・トルコ軍に対しモロッコとサハラ王国が反撃している渦中、カール五世はマヨルカ諸島のパルマ(Parme)へ進攻しました。反発したパルマはフランスと同盟条約を結び、住民の抵抗でカール五世軍は撤退しましたが、これをきっかけに神聖ローマ帝国とオスマン・トルコの対立にフランスが巻き込まれていくことになりました。オスマン・トルコ側に付いたフランスはドイツのプロテスタント派シュマルガルデン(Schmalkalden)と秘密条約を結んだ後、オスマン・トルコ、ドイツのシュマルガルデンとフランスの三者が連合するシャンボール条約が成立しました。さらに安梨王はローマ教皇と和解調停を結びました。

 カール五世包囲網を固めたフランスは先手を打って安梨王自らフランス東北部のメッツに入城したことから、クレピーの和議で第四次戦役が終結した八年後に帝国第五次戦役が始まりました。フランス軍が占領したメッツは帝国軍に巻き返されて膠着状態となったまま、戦局はイタリア中西部フィレンツェ南のシェナ(Siena, Siene)に移りました。

 シェナではスペイン軍への抵抗が生じていましたが、安梨王はシェナへの支援を支持したことから、シェナ側が巻き返すことができました。フランス軍は連合しているオスマン・トルコの艦隊支援でコルシカ島を占領するまでに至りました。

 

 フランス北東部では帝国軍は巻き返したメッツに本部を置いたものの、三か月で敗退してしまったことから、カール五世は攻撃を西北部の西フランドル地方からピカルディ地方への侵入へと切り替えました。まずアルトワ地方のテルアンヌ(Therouenne)とエスダン(Hesdin)での攻防に勝ち、ピカルディ地方のバポウム(Bapaume)まで攻め入りました。夕霧元帥が奪還を試みましたが、あえなく敗退してしまい、「やはり軍人としての能力はロラン大将より劣る」と陰口を叩かれてしまう始末でした。

 

(宗教界の動き)

 マルチン・ルターの願いがかなった第一回トリエント公会議は伝染病の流行による中断を経て、ようやく四年後に終了しました。終了した二か月後に教皇が亡くなり、翌々年に新教皇が第二回会議を開きましたが、ドイツのプロテスタント派シュマルガルデンの反対で中断となってしまい、中断は十年間も続くはめにおちいってしまいました。

スイスのジュネーブで神権政治を始めたジャン・カルヴァンは市民に厳しい規律と戒律を課しながら、穏健なルター派と過激なツイングル派の中間に位置する「聖餐の教義」を公表した後、自派の教育を受けた牧師をフランスに派遣する試みも始めるなど、西ヨーロッパ諸国への影響力を高めて行きます。対抗するイエズス会は公会議に正式に招かれるようになるなど、カトリック内での発言力を強めつつ、積極的に南アメリカと東アジアへ進出を継続しており、インドネシア諸島に滞在していたフランソワ・ザビエルは日本列島に向かい、鹿児島に到着した後、二年余り日本に滞在して伝道を試みました。

 

 

5.冷泉院の第一王女ジゼルと夕霧の第六女君フローラ。賭弓の還饗 (カオル十八歳~十九歳)

カオル中将はヴァンセンヌ城に住まいを構えた兵部卿の許をいつも訪れるようになり、管絃の遊びなども張り合いながら音色を吹き立て、若い同士が互いに好敵手と認め合いながら仲良くしていました。例によって世間の人々は「匂う兵部卿、薫る中将」とやかましいほど囃し立てています。その当時、見栄えが良い娘を持つ高貴な方々は、心をときめきさせながら娘に好奇心を持たせるようにしています。

ニオイ卿は興味が惹かれそうと思われる辺りには様々に手紙を送ったりしながら、相手の人柄や様子を探っていますが、特に心をかけてまでと思う娘はいないでいました。

「冷泉院の女君ジゼルと結婚できるなら、生き甲斐があるのではないか」とニオイ卿が思っているのは、母アンジェリクの身分がとても重々しく、心憎いほどの賢明さがある上に、ジゼルの気配も有難いほど本当に優れている、といった評判も聞こえて来るからです。ましてジゼルに少しでも近くに仕え馴れている侍女などが、何かの機会にジゼルの様子を詳しく話したりすることもあるので、ますます我慢できない思いでいました。

 

カオル中将の方は、世の中を味気ないものと悟り澄ました思いでいましたから、「生半可、女性に執着してしまうと、この世を棄てがたい思いが残ってしまう」などと考えるので、「親との関係が厄介になりそうな女性に関わるのは慎んでおこう」と諦観しています。とは言っても、さしあたっては心を打ち込むような相手がいないので、賢人ぶっているだけなのでしょう。まして人が許しそうもない恋愛などは思いも寄りません。

満十八歳になる年に官位三位の宰相に昇格しましたが、中将との兼任となりました。安梨王もサン・ブリュー王妃もカオルに愛情を注いでいるので、臣下の身分としては誰に遠慮することもない人望を得ています。しかし本人の心中では自分の出生について思い知るところがあるために物悲しい気持ちを覚えることもあるので、勝手気ままな好色事はおさおさ好まずにいました。何事につけても控え目に振る舞っているので、自然と落ち着きのある老成した性格であることを人にも知られるようになっています。

 

年齢がたっていくにつれてニオイ卿が心を砕いている冷泉院の娘ジゼルの様子を、カオルは同じ城内に住んでいることから、何かにつけて見たり聞いたりしています。

「なるほどジゼルは並々ではなく上品に振る舞っているようだから、同じことなら、こういった不足がない女性と一緒になれば、生涯を連れ添っても満足できるであろう」と思っているものの、大概のことはカオルに隔てを置かない冷泉院もジゼルに関してはカオルと分け隔たりを置いて、できるだけ遠ざかっているように習慣づけていました。それを承知しているカオルは煩わしいので、強いてジゼルに近づこうとはしないでいます。

「万が一、ひょんな料簡を起こしてしまうと、自分もジゼルにとってもよろしくない」と心得て、ジゼルと親しくしようとはせずにいました。

ただカオルは「女性に慕われるように生まれついた」といったような有様でしたから、ちょっとした戯れの言葉を投げてみると、格別あらがおうとする気持ちも抱かずに靡いて来る女性もいて、自然とかりそめに通う所は多くありました。とは言っても、相手の女性に大袈裟な扱いをするようなこともなく、うまく紛らわせて何となく愛情がないでもない程度にしているので、相手にとっては苦労の種になります。本心からカオルに思いを寄せている女性は、気が引かれるままにランブイエ城に奉公に上がる者も多くいました。侍女仕えが出来るほどの身分ではない女性でも、冷淡な態度を見せられてしまうのは苦痛であるものの、「すっかり仲が途絶えてしまうよりは」と心細さに堪えかね、はかない契りに望みをかけてランブイエ城に勤めている者も多くいました。何と言っても優しみがあり、見るだけで情感がわき起こる人柄でしたから、皆、カオルへの恋心に翻弄されながら、毎日を送っていました。

「母上が存命している限りは、朝夕、側を離れずに目をかけてあげたい」とカオルは思い、それを公言していますから、夕霧右大臣も大勢いる娘たちの誰か一人はカオルに嫁がせたいとの願望を抱いているものの、口に出すことが出来ないでいました。

「何と言ってもカオルとニオイ卿も近い縁者すぎる」と夕霧は考えるものの、「この二人の貴公子を除くと、今の世の中では他に婿として似つかわしい人物を探し出すことは出来ない」と困っています。

 

愛人エレーヌが産んだ第六姫君フローラの方が、本妻の雲井雁が産んだ娘たちよりも器量が勝って美しく、性格なども申し分なく育っているのに、世間では「愛人の娘だから」と低く見られているのが惜しく不憫なので、「落葉上は子供たちがいなくて手持ち無沙汰にしているから」とフローラを落葉上に養女として迎えとらせることにしました。

「わざとらしくはなく、二人の貴公子にフローラを見せたら、必ず惹かれてしまうことだろう。女性を見る目に肥えている者なら、きっと気に入るに違いない」と夕霧は考えて、フローラに対しては厳しい監督はさせずに、当世風に花やかで洒落た暮らしをさせて、男が言い寄るきっかけを多く作るようにしていました。

 

夕霧は、明けた年のルーブル宮での賭け弓の後の饗宴をモンモランシーの自邸で入念に催して、王子たちも招こうとういう心積もりをしました。当日の賭け弓には成人式を済ませている王子たちが皆、参加しました。サン・ブリュー王妃がもうけた王子たちはいずれともなく気高く美麗な顔立ちでしたが、中でもニオイ兵部卿は本当に勝っていて立派に見えました。某貴婦人が産んだ第四王子でボルドーのジロンド県知事のパスカルは思いなしか、気配は格段に見劣りしていました。

いつものように賭け弓は左方が勝ちました。試合が通常より早く終わり、夕霧元帥は退出しましたが、ニオイ卿、パスカル県知事、別の貴婦人が産んだ第五王子アルベールを自分の馬車に招き乗せて帰宅しました。カオル宰相兼右近衛の中将は負け方なので、そっと去ろうとしていましたが、夕霧が呼び止めました。

「王子たちが馬車に乗られています。貴方も一緒に参りませんか」と誘ったので、カオルは夕霧の息子たちの衛門督アンドレ、権中納言アラン、右大辨マルタンやその他の大勢の高官などと誘い合ってあれこれの馬車に乗り合って、モンモランシーの夕霧の邸に向かいました。

 

やや遠い道のりを進む間に、雪がちらほら降って来て、優艶な黄昏時となりました。車内で面白く笛を吹き立てながら、夕霧の邸に着きました。パリ盆地を見下ろす絶景を見て、「全くこんな場所を除いて、どのような神の国を捜したら、こうした折節に心を楽します場所があるだろうか」と思われます。本館の南向きの廂に、いつものように中将と少将たちが着席しました。北向きに対坐して饗宴の相伴役として王子たちや高官たちの席が設けてありました。

 酒杯の宴が始まって、段々と座がはずんで来ると風俗歌「ニンペー(精霊)」が舞われて、ひるがえす袖の羽風に煽られて、今を盛りと咲きこぼれている、会場近くの梅の花の匂いが漂います。カオル中将の例の薫りがますます引き立てられ、言いようもなく優美なので、物陰から覗いている侍女なども、(歌)春の夜の闇で 梅の花もはっきりしない 色こそ見えないものの 薫りが隠れている といったように、「はっきりとは見えないものの、あの香りこそ、本当に似たものなどありませんね」と褒め合っていました。

 夕霧大臣も同じように「めでたい香りだ」と感じ入っていました。容貌も風采もいつも以上に行儀正しく座って澄ましているカオルを見て、「近衛中将も一緒に歌って欲しい。あまりに客人ぶっているのも」と声をかけたので、カオルは不愛想にならない程度で、(歌)ニンペーよ 私のニンペーよ 神々がいるオリンポスの原に立つニンペーよ と声を揃えました。

 

 

6.メアリー・チューダー女王によるカトリック復帰とカール五世の譲位。帝国第五次戦役から

  第六次戦役へ                             

                                (カオル十八歳~二十一歳)

(イングランドのメアリー・チューダーのカトリック復帰)

父王の宗教改革を覆して、十九年ぶりにカトリックに戻したメアリー女王は徹底してプロテスタントを迫害したことから「血生臭いメアリー」とまで恐れられるほどになりました。即位した翌年、母方のいとこにあたるカール五世の意向を受けて、三十八歳のメアリー女王と二十七歳のカール五世との長子フェリペ二世王子の結婚が発表されました。誰もが十一歳の歳の差婚に驚くと同時に、二人の間に男児が誕生すると、スペイン王国とイングランド王国の両国を継承することになり、実質的にイングランド王国はスペインに飲み込まれてしまうことになります。とりわけプロテスタント派の反発を危惧したメアリー女王は王位継承の政敵となったジェーン・グレイを処刑し、プロテスタント派が女王の座を推する虹バラが生み残したエリザベス一世をロンドン塔に幽閉しました。

フェリペ二世は十三か月ほどイングランドに滞在し、その間にメアリー女王に妊娠の兆候があったものの、卵巣の腫瘍の病状にすぎなかったことが判明して、メアリー女王は涙を流しました。

 

(帝国第五次戦役の終了とカール五世の引退。第六次戦役の開始)

フランス北西で帝国軍にピカルディ地方のバポウム(Bapaume)まで進攻されたフランス軍はアンジュー公ロランの指揮下でオランダ領に押し返したものの、帝国軍が再度進攻してくるなど、オランダとの国境での争奪戦が続いて行きました。

 イタリアのシェナを巡る攻防ではフランスとローマ教皇が支援するシェナに対して、フィレンツェ共和国が帝国軍と結び、教皇も他界したことから俄然、帝国側が有利となって、ついにシェナが降伏しました。巻き返しを図ろうとフランス軍はピエモン地方に入りました。

 そうした中、五十五歳となったカール五世は神聖ローマ帝国、スペイン王国に加えて新大陸の南アメリカと、史上でも稀な広大な地域の統治者となったものの、フランス、オスマン・トルコ、ドイツのプロテスタント諸侯との争いに明け暮れた三十六年間に疲れ切ったこともあって、譲位を公表しました。オーストリア・ドイツは弟フェルェルディナンド一世に、スペイン王国と南アメリカはフェリペ二世王子に譲り、オランダはスペイン領としました。

 四か月後の翌年五月、カール五世は安梨王とヴォ―セル(Vaucelles)で五年間の休戦を結んで第五次戦役を終了させました。しかし第五次戦役の終了は束の間の気休めにすぎませんでした。スペインの新国王となったフェリペ二世は父王に勝る野心家でした。カール五世がオランダからスペインに戻り、エステ修道院に隠棲を始めた同じ月、在イタリアのスペイン軍に教皇領への侵攻を命じて、ローマ教皇を拘束してしまいました。安梨王は教皇救出に向け、ロランが指揮するフランス軍を派遣することを決めましたが、同じ頃、左大臣が他界したことから、夕霧は左大臣兼元帥、ロランは右大臣兼大将となりました。

 

 年が明けた一月にロラン大将が率いるフランス軍はトリノに向けて出発したことから、第六次戦役が始まりました。イタリアへの進軍は表向きはローマ教皇救出でしたが、安梨王とロラン大将の思惑は、十三世紀後半から十五世紀前半にかけてアンジュ―公家が支配していたナポリ王国の再支配にありました。ことに柏木の死後、アンジュー家の総帥となったロランにとっては悲願とも言えました。フランス軍はトリノを経て三月にローマに到着した後、ナポリ征服を目指したものの、四月下旬から五月中旬にかけてのナポリ手前のチヴィテッラ(Civitella)で敗退を食らってしまい、ロラン大将の夢は崩れ去りました。

 フランス王宮に衝撃を与えたのは、六月に入ってイングランドのメアリー・チューダー女王が夫君フィリップ二世の要請を受けて、第六次戦役への参戦を表明したことでした。これに加えて、領土問題でフランス王国と揉めているサヴォワ公国もスペイン側に組して、スペイン・イングランド・サヴォワ連合は八月に、六万人の軍勢でオランダ南部のフランドルからピカルディ―地方に攻め入りました。夕霧元帥が率いるフランス軍が迎え撃ったものの、サンカンタン(Saint Quentin)で敗北した上に夕霧元帥は囚われの身となってしまいました。首都パリへの侵攻が現実味を帯びてきたことから、急遽、ロランがイタリアから呼び出されることになり、またしても夕霧は面目丸つぶれとなりました。ロランが去ったイタリアでは、フィレンツェ共和国がシェナの所有をめぐる条約をスペイン軍と結んだこともあって、ローマ教皇はスペイン王国との和平協定への署名を強制されてしまいました。

 

 

                著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata