1. ポワシー会談の結果
サン・ブリュー大后とマルク王がカトリック派とプロテスタント派の和合と共生を目標として開催されたポワシー会談は、国内だけでなく、ローマ教皇、スペイン王国のフェリペ二世やイングランド王国のエリザベス一世なども注視していました。両派は礼拝様式など統一の基台となりうる、ある程度の一致は得たものの、協議に対する思想の溝が大きく広がっていることが明確になったことから、物別れの形になってしまいました。
こうしたことから、夕霧左大臣から、スペイン王国に嫁いだ姉エリザベトを通じてフェリペ二世のフランスのカトリック派への介入を緩めてもらうことを依頼されたニオイ卿、過激に行き過ぎているカルヴァン派への説得を頼まれたコンデ公の両人とも、面目を失ってしまいました。
王宮で姉エリザベトからの朗報を心待ちにしていたニオイ卿は、フェリペ二世がイエズス会などを通じてフランスのカトリック派の支援を強めるだけでなく、スコットランド王国に戻ったメアリー・スチュアートがイングランド王国の王位の正当な継承者であることをローマ教皇達に訴求していることを姉から知らされて失望してしまい、しばらくの間は、政治的な問題から遠ざかることにしました。
これに対して、ポワシー会談でカトリック派と対等の立場を保証されたプロテスタント派は勢いづき、カルヴァン派も含めたプロテスタント派の頭目と見なされているコンデ公を盛り立てて行く方向を強めて行きました。玉鬘の長男コリニー、次男フェルナン、三男セバスチャンもコンデ公との関係を高めました。
カトリック派は中世からの荘園制を引き継ぐ地主貴族と農村社会、プロテスタント派は勃興している都市部の商工業従事者が基盤でしたが、両者とも各地で不満者が続出して来て、両派の色分けが弱まり、混乱度が増して行きました。
プロテスタント派の台頭に対して、カトリック派の首謀者と自他共に自負しているロラン大納言は、依然として首都パリでの人気は高かったものの、フィリップ王の病死で外戚としての立場を失い、姪のメアリー・スチュアートの帰国でさらに痛手を負ったことから、失地挽回に本腰を入れ出しました。ことにロランの正妻である真木柱は、コンデ公が自分に冷淡だった前夫の蛍兵部卿の息子であること、コリニー三兄弟が最愛の父である黒ヒゲを奪った玉鬘の息子達であることから、ロラン大納言以上にプロテスタント派への憎しみを深めていました。
2.浮舟からマドレーヌへの便りをニオイ卿が一見。若宮への厄除け
ポワシー会談にあまり貢献も出来ず、味気ない思いでヴァンセンヌの自邸に戻ったニオイ卿は、いまだに誰とも分からない女性との、あのほのかな夕刻を忘れずにいました。
「それほど高い身分ではなさそうだったが、人柄が真面目そうで、心が引かれてしまったものだ」と浮気性なこともあって、「口惜しいことに、何事もなく終わってしまった」といまいましい思いになるままに、何ということもなくマドレーヌにも愚痴をこぼしたりします。
「あの女性について思いもかけてくれないとは心外なことだ」とマドレーヌを恥じ入りかせたり、恨んだりします。その折々にマドレーヌはたまりかねて、「浮舟について実際のことを話してしまおうか」との思いはするものの、「カオル様が正規の伴侶のようには扱っていないものの、浅くもない様子で、気付かれないように隠している女性について、仕方なく話してしまうと、ニオイ卿はそのまま聞き流してしまう性格でもない。側に仕える侍女たちの中でも、『ちょっとした軽口でも交わしてみたい』と思い立つと、とんでもない場所にでも尋ねて行く、という性質が良くない本性を持っているのだから、あれから随分と月日が経過しているのに、思い染めているのだとするときっと見苦しいことが起きてしまうことだろう。
しかし、浮舟についてニオイ卿が余所から伝え聞いたとしたら、どうなることだろう。カオル様と浮舟の双方にも同情は出来るが、ニオイ卿の心理や様子は防ぎようもないのだし、他の人以上に、私のみに聞き難いことばかりが生じてしまうと考えるべきだろう。いずれにしても、自分の油断から破局が出ないようにしよう」とマドレーヌは思い返して、ニオイ卿には気の毒なようでもあるものの、浮舟については何も話さずにいました。とはいうものの、それ相応に言うことも出来ないので、じっと押し黙りながら、焼きもちを焼く普通の女性のように振舞っていました。
そうした中、カオル大将はたとえようもなく悠長に構えていて、「浮舟はきっと待ち遠しい思いでいることだろう」と心苦しく思いやりながらも、窮屈な身分ですから、しかるべきついでがないと、気軽に通うことも出来ない道のりなので、「恋しいのなら来てごらん 恋は神様が禁止するものでもないのだから」といった歌のように出来ないのが辛いことでした。
そう思いつつ、「今のところはコンフランで大切にしておこう。元々、山里のコンフランへ行った際の話し相手にしたら、というつもりだったのだから。数日でもしばらくの間、滞在できる口実を作り出して、ゆったりとした気分で逢いに行ってみよう。しばらくはコンフランを人に知られない住まいにして、それ相応に段々と浮舟の心を落ち着かせて、自分にとっても世間から非難されないように穏やかに進めて行こう。『急にパリに迎えるとは。一体、誰なのか。いつからの関係なのか』などと、人から聞き咎められてしまうのも面倒なことだし、第八卿を慕って通い出した初心と違ったことになる。またヴァンセンヌ邸にいるマドレーヌが耳にすることを考えてみても、第八卿一家の邸から浮舟を未練なく引き離してしまうと、第八卿やジュヌヴィエーヴのことを忘れてしまうようになって、ひどく不本意なことになってしまう」などと考えてしまうのは、いつもの落ち着きすぎる性格だからでしょうか。それでも、浮舟をパリに迎え入れる場所を用意して、内密に準備を始めていました。
マドレーヌとの間柄は、頻繁とは言えないようになっていましたが、途絶えることもなく好意を寄せているのは、これまでと同様でした。カオルとの仲を疑いの目で見る侍女もいましたが、マドレーヌもようやく世の中というものが分かって来て、カオルの様子を見聞きするにつけても、「これこそ、本当に父卿や姉との昔を忘れずに、その名残を息長く続けてくれているのは、浅くはない例です」と、しみじみと感じる折りは少なくありません。
年齢を重ねて行くうちに、人柄も世間の評判も並々ならぬ人物になっているカオルに較べて、ニオイ卿の心情があまりに頼りないことを見せつけられてしまう折々には、「思いもしなかった運命だった。亡き姉がカオル様との仲を取り計らってくれたようにはならずに、好ましくもない方向に引っ掛けられてしまった」と嘆く時が多くありました。
そうと言っても、カオルと対面することは難しいことです。あれから年月が過ぎ、昔の話になってしまったものの、マドレーヌの心の内を深く知らない侍女は「普通の身分の人なら、その程度の由縁で尋ねて来て、親密さを忘れないでいるのは当たり前のことです」とも話しています。それでも限りがある貴人と並みはずれた付き合いをするのは気が引けますし、ニオイ卿がカオル様との仲を絶えず思い疑っているのも、いよいよ心苦しく、気兼ねをするようになっているので、カオルに対して自然とよそよそくなっていますが、そうであってもマドレーヌに対するカオルの思いは、絶えず変わらずにいました。
ニオイ卿も浮気な本性から、マドレーヌが嘆く仕打ちをすることもあるものの、若君トマスがとても可愛らしく成長して行くままに、「他の人はこういった児を産んでくれそうもない」とマドレーヌを大切な者に思って、打ち解けて親しみがもてる人として、夕霧の娘フローラよりも愛しがってくれるので、マドレーヌは一頃よりは物思いが落ち着いて暮らしていました。
新年元旦が過ぎた頃、ニオイ卿はマドレーヌの部屋に行って、歳を一つ取ったトマスをあやしながら可愛がっている昼時に、小さい童女が緑の薄目の大きな包み紙を、編み残った部分をアゴヒゲのように編んで、小ぶりの松をつけた籠に入れたものと、きちんとした白紙の封書を持って、足早に入って来て、マドレーヌに渡しました。
「それはどこから届いたのか」とニオイ卿が尋ねると、童女は「コンフランから副侍女長にと、使いの人が持ってきました。勝手がわからなかったのですが、いつものようにマドレーヌ様がご覧になるものだと思って受け取りました」と息を弾ませながら答えました。
「この籠は金製で、色どりも良くて、松の小枝も本物によく似せて作っていますね」と童女がニコニコしながらしゃべり続けるので、ニオイう卿もつられたように笑って、「どれどれ私にも見せてみなさい」と童女を呼び寄せると、マドレーヌは都合が悪く感じて、「封書は副侍女長に渡しなさい」と指示しました。
マドレーヌが顔を赤らめたのを見たニオイ卿は「カオル大将がさりげなく寄越した手紙ではないのか。コンフランから、というのにも合点がいく」と気付いて、封書を取ってしまいました。「大将からのものであったら」と思うと、むずむずして来ます。
「開けてみるよ。恨み言は言わないで」と言うと。マドレーヌは「見苦しいことを言いますね。侍女同士が取り交わす、打ち解けたやり取りの手紙を読まれても」と答えて、動揺している気配はありません。
「それでは開けてみよう。侍女達の書きぶりはどんなものだろう」と、まず包み紙を開いてみると、大層若やかな筆跡で、「お逢いしたいと思っているうちに、年が暮れてしまいました。山里は何かとうっとうしく、丘陵の霞も晴れることがなく」と書いていて、端に「これを若君に。つまらない品ですが」と書かれています。
格別に物馴れて洗練された所は見えません。誰が書いたのか思いも寄らないので、封書の方を開けてみると、確かに女性の筆跡でした。
「年が改まりましたが、いかがお過ごしでしょうか。副侍女長様もさぞかし楽しい喜びごとが多くおありなことでしょう。こちらはとても結構な住まいで落ち着いてはおりますが、姫君にはふさわしくないように感じております。『こうした具合にしんみりと暮らしているよりは、時々はパリのそちらへ伺って、気晴らしをされたら』とも思いますが、姫君はあの恥ずかしく恐ろしいことに懲りているのか、『気が進まない』と嘆かれています。『若君のお前に』と新年の邪気払いの品を進上いたします。卿がおられない時にでもお見せ下さい」などと、年の初めに縁起でもない泣き言も含めて、だらだらと書き連ねていました。
ニオイ卿は繰り返し何度も、「不思議な手紙だ」と感じながら、「もう話しても良いのでは。誰からの手紙なのか」と問うので、マドレーヌは「その昔、あの山里コンフランで仕えていた侍女の娘さんが、仔細があって最近、あちらに滞在している、と聞いております」と答えたものの、「そうした普通に仕える女性の書く文章には見えない」と悟ったニオイ卿は。「あの恥ずかしく恐ろしいこと」と厄介なことに触れていることから、合点が行きました。
邪気払いの品も丁寧に作られていて、「隙を持て余している人の仕事ぶりに見えます。二股の枝に赤い実を刺した松に、歌を詠んだ紙が付いています。
(歌)この二股の枝はまだ古い木ではありませんが 若君のために 心から長寿をお待ちしている松の木だと存じます
とりたてて秀でた歌ではないものの、「ずっと思い続けている人が詠んだものだ」との思いに至って、目を留めました。
「返事をして上げなさい。さもないと、情がないことになる。隠し立てをするような手紙でもないのに、どうして機嫌が悪い顔をしているのです。私は退席するよ」とニオイ卿は部屋から出て行きました。
マドレーヌは侍女の少将などを相手にしながら、「困ったことになってしまった。あの童女が受け取ったのを、どうして誰も見ていなかったのでしょう」などと小声で呟いています。
「私どもが見ておりましたなら、どうしてニオイ卿にお見せしたでしょうか。何にせよ、あの児は気配りもせずに、出過ぎたことをしますから、この先が案じられます。人というのは、おっとりしているのが愛らしいのですが」などと憎らしがりますが、「そこまで幼い児に腹を立てても」とマドレーヌが諭しました。
その童児は昨年の冬からマドレーヌの許にいるようになって、顔がとても美しかったので、ニオイ卿がとても可愛がっていました。
3.カオルの事務長の婿アルノーが、ニオイ卿をコンフランへ案内
ニオイ卿は自分の部屋に戻って、「不思議なこともあるものだ。カオル大将がコンフランに通っていることは、随分前から続いていると聞いているし、中には『こっそり夜も泊まる時もあります』という者もいるが、『マドレーヌの姉の形見の住まいだからというものの、度が過ぎてああいった場所で旅寝をするのはどういうことか』と感じていた。さては、ああいった女性を隠し置いているのだな」と思い当たる点もあり、あの封書のこともあるので、出入りさせている文書室のアルノーが都合が良いと思い出して、呼び出しました。
アルノーがやって来たので、「『隠し文字当て』をするから、そこの書棚に詩集などを選んで積んでおいてくれ」と指示をしながら、「カオル右大将は相変わらずコンフランに行っているのか。立派な礼拝堂を造った、ということだが、是非とも見に行きたいものだ」と話すと、「とても貴く厳めしい礼拝堂を造られて、祈禱所なども尊く定められておられる、と聞いております。コンフランへのお通いは昨年の秋ごろから頻繁になったようです。下人が内々で話しているのは、『女性を隠し置かれておられる。その女性はそう悪くもなく、思いを寄せている人なのだろう』、『近辺にある領地の人たちが皆、挨拶に伺って、宿直をさせながら、パリやランブイエ城から秘かにやって来て、しかるべき世話などをされている』、『どういった幸せな人が、さすがに世間体をはばかりながら、心細く暮らしているのだろう』と、つい先月、昨年十二月にそんな話を聞きました。
「非常に嬉しいことを聞いた」とニオイ卿は思いながら、「その人が誰なのかを確かめたのか。カオル大将は以前からそこに住んでいる老修道女を訪ねていると聞いているが」と問うと、「その修道女は回廊側に住んでいます。その女性は今回建てられた方に、小綺麗な侍女など大勢置いて、体裁よく暮らしている気配です」とアルノーが答えました。
「興味深いことだね。どういう人をそうやってコンフランに置いているのだろう。やはりカオルは何かと普通の人とは違っているところがある。夕霧左大臣などは、『あの人はあまりに修道心が強すぎて、どうかすると夜間にすら修道院に泊まる軽々しさがある』と批判しているとも聞いてもいるが、どうしてキリスト道のために忍び歩きまでするのだろうか。『やはり、マドレーヌの姉ジュヌヴィエーヴがいた、あの場所に心残りがあるのだ』と聞くので、そういった理由もあるだろう、実際にはそういうわけだった。『人よりは真面目だ』と賢人ぶっている人の方が、かえって世間の思いも及ばない裏の部分があるのだ」とニオイ卿は「中々興味深いことだ」と思いました。
このアルノーという人物は、カオル大将にごく親しく仕えている事務長の婿なので、事も聞いているはずです。
ニオイ卿は心の内では、「どうやって、その女性が『ヴァンセンヌ邸で見た人だ』と見定めることが出来るだろう。カオル殿がそうまでしてコンフランに隠しているということは、並大抵の女性ではない。それにマドレーヌとはどうして疎遠でもない関係なのだろう。カオル殿がマドレーヌと示し合わせて隠しているのも、ひどく妬ましいことだ」と思いながら、この頃はただ、浮舟のことばかりを思い詰めてしました。
一月中旬の賭け弓や内宮での宴会の儀式が済むと余裕もでき、役人人事など人々が気に掛ける方面には無関心なので、ニオイ卿はどうやってコンフランへ忍んで行くかだけに思いをめぐらせていました。アルノーは立身出世の願望があるので、夜となく昼となく、「どうやったらニオイ卿に気に入られるだろうか」と気にかけていることもあるので、ニオイ卿はいつもよりも目をかけて使っていました。
「私の言うことなら、どんなに難しいことでも、うまく取り計らってくれるだろうか」などと問うと、アルノーは「かしこまりました」と肯きました。「感心できないような話だが、あのコンフランに住む女性は、ずっと以前に私がちょっと逢ったのに、行方が知れなくなったのだが、『どうやらカオル大将が尋ね出して引き取っている』と耳にすることがある。それが確かなことなのか知るすべはないが、ただ物陰から覗くなどして、『そうに違いないか』を見定めたい」と考えている。少しでも人に感づかれないようにするには、どうすべきだろう」と尋ねました。
「ああ、これは面倒なことになった」とアルノーは戸惑ったものの、「コンフランに行くのはひどく荒れた坂道ですが、さほど遠くはありません。夕方にパリを出れば、午後十時か十二時頃にはコンフランに到着します。そして明け方にはパリに戻って来れます。それを承知している者はお供に連れて行く者だけにして、その上に深い事情は分からないようにいたしましょう」と答えました。
「もっともなことだ。かって一度か二度、通ったことがある道だ。軽率な行動だと非難されてしまう世間体が気にもなるが」と、返す返す、やってはならないことだと自分自身思うものの、ここまで言い出した手前、思い留めることは出来ません。
お供には、以前もコンフランへの案内をして、勝手を知っている二三人、それにアルノーに加えて乳母の息子で庶務係から官位五位に昇格した若者といった、顔見知りの者だけを選び、アルノーに「カオル大将は今日、明日はコンフランへは行かないようだ」などを確認させてからパリを発ちましたが、カオルに連れられてマドレーヌに逢いに出掛けた、あの頃を思い出しました。
「あの時分は不思議なほど気が合い、自分を手引きしてくれたカオルに対して、後ろめたいことをすることになってしまった」とあれこれ思い起こしました。
パリの中だけでも、無闇な忍び歩きは出来もしない身の上ですが、怪しい姿に身をやつして馬に乗っている心地は何となく恐ろしく、気が咎めるものの、何かにつけて好奇心が強い性格なので、セーヌ川を越えて坂道を深く分け入って行くにつれて、「早く逢ってみたいが、どうなることか。顔を見合わせることもなく戻って行くようになったら、気持ちも落ち着かず、みっともないことになってしまう」と思うと胸騒ぎがします。
エルブレイ(Herblay)のサン・マルタン教会のあたりまで馬車に乗って、後は馬をあてがわれました。道を急いで、宵が過ぎた時分にコンフランに着きました。アルノーが邸の勝手をよく知っているカオルの身内の者に問い聞きをしていたので、アルノーは宿直人がいる方には寄らずに、東の垣根で囲っている西面を静かに少し壊して邸内に入りました。
アルノーは自分で見たことがなかった住まいなので、さすがに心もとないのですが、邸内の人目が少ないので、さらに進んでいくと、主殿の南面にほの暗く火影が見えて衣擦れの音がしました。アルノーはニオイ卿のいる所に戻って、「侍女たちはまだ起きているようです。こちらから入って下さい」と案内をして、ニオイ卿を邸内に入れました。
ニオイ卿は主殿の外側の通路にそっと上がって、よろい戸に隙間があるのを見つけて近寄ってみると、薄手のカーテンがさらさらと鳴るのでハッとしました。出来上がったばかりの主殿は清らかですが、まだまだ乱雑で隙間もあったものの、「覗きに来る者は誰もいないのだから」と気を許している侍女たちは、よろい戸の隙間も塞がずに、カーテンの垂れ布を上にはね上げて、横に押しやっています。
灯火を赤々に灯して、三四人の侍女たちが物を縫っていました。可愛い姿の童女が糸を縒っています。その顔をまず見やると、ヴァンセンヌ邸で見た童女でした。「見間違いか」とやはり疑わしかったのですが、ジゼルと名乗っていた侍女もいました。浮舟は腕を枕にして、灯火を眺めていましたが、その目つきや髪が垂れかかった額付きなど、とても上品でみずみずしく美しく、マドレーヌによく似ています。
ジゼルは縫い物に折り目をつけながら、「姫君は母君と一緒にシャルトル詣でをされますから、ここにはすぐに戻っては来られませんね。昨日のカオル様の使いも『カオル殿は役人人事が終わってから、二月一日頃には必ずこちらにお越しになる』と申していました。お手紙にはどんなことを書かれていましたか」と話すものの、浮舟は答えることもせずに、ひどく考え込んでいる様子でした。
「折も折に逃げ隠れをするように見えてしまうのは、体裁が悪いですね」とジゼルが言うと、差し向かいにいる侍女たちが、「そうなら、こういった事情でシャルトル詣でをカオル様に知らせておいた方が良いのでは。どうやったにしても、軽々しく無断でシャルトルに向かうと、身を隠したようになりますし」、「シャルトル詣での後は、すぐにでもこちらに戻って来て下さい。ここは寂しいようですが、気兼ねなくのんびりした暮らしをさせていただいてますし、むしろパリに住む方が旅をしているような気分になりますね」などと話しています。
また別の侍女が「やはり、当分の間はここにおられて、カオル様のお越しを待ち受けているのが平穏で、体裁も良いでしょう。カオル様が姫君をパリかどこかに迎えられた後に、母君にも落ち着いてお逢いなされば」、「「それにしても、姫君の乳母は、なぜ急に思い立ってシャルトル詣でを決めたのでしょう。昔も今も、気を長くおっとりとしている人の方が、幸せな目に遭うと言うのに」などと話しています。
ジゼルが「どうして誰も乳母の思い付きを止めなかったのでしょう。年を取った人は気難しいことを言い出しますからね」と憎らしげに話すのは、やんわりと乳母を非難しているからでしょう。よろい戸を隔てて聞き入っているニオイ卿は「そういえば、無遠慮で勝気な乳母がいたな」とあの夜を思い出して、夢を見ている気分になりました。
侍女たちは、あけすけに打ち解けた内緒話を言い合っています。
「一番幸せなのはマドレーヌ様でしょうね。夕霧左大臣はあれほど結構な威勢があって、ニオイ卿の後見にひどく躍起になっていますが、若君が誕生した後は、ニオイ卿はフローラ様よりもマドレーヌ様をこの上もなく大切にされています。姫君の乳母のようなおせっかいな人もいず、心のどかに上手にとりなしをされているからでしょう」とジゼルが言います。
「カオル様だって、姫君への誠実な思いを変えずにいましたなら、姫君だってマドレーヌ様に劣ることはありませんよ」と侍女の一人が言い返すと、浮舟は少し起き上がって、「とても聞き辛いことを言いますね。別の人なら、『劣っている』とも『どうやったら』との思いはするでしょうが、マドレーヌ様を引き合いに出すのはなりません。マドレーヌ様が漏れ聞いたなら、私が困ってしまいます」と言いました。
「それにしても、マドレーヌと女君はどういった親族なのだろう。顔立ちはとてもよく似通っている気配がする」とニオイ卿は二人を思い較べました。気恥ずかしそうにして気品があるところは、マドレーヌの方が格段に優れている。この人はただ可愛らしく、細部まで美しい。たとれ、たいしたこともなく、欠点を見つけたとしても、あれほど『心が惹かれる』と思い込んだ女性を目の前に見ながら、止めてしまう性分ではなく、仔細に見るにつれて、「どうしたら手に入れることが出来るだろうか」と分別がなくなるほど思案にくれてしまいました。
「この人は物詣でに行くようで、母親も付いていく。とすると、今ここで逢うべきであろう。今夜中にどうすべきか」と心も上の空になって、なおも浮舟を見守りました。
するとジゼルが「とても眠たくなりました。昨夜も予期もしないまま、夜を明かしてしまいました。縫いかけは早朝に済ませることにします。母君が急がせたとしても、迎えの馬車が着くのは日が高くなってからでしょうから」と言って、作業をしていた物を取り集めて、内カーテンに打ちかけたりなどして、うたた寝のような格好で眠ってしまいました。
浮舟も少し奥の方へ行って横になりました。ジゼルは北面に行ってから、しばらくして戻って来て、浮舟の裾近くで寝付きました。眠たがっていたジゼルがすぐにすやすやと寝入った気配を見て、ニオイ卿は仕方なく、よろい戸をひそかに叩きました。それをジゼルは聞きつけて、「どなたでしょうか」と問います。ニオイ卿が低い声を出すと、「上品な咳払いをされている」と解釈して、「カオル様がお越しになったのだ」と感じて、起き上がって来ました。
「まず、よろい戸を開けてくれ」とニオイ卿が言うと、「奇妙なことに、思いにも寄らない時にお越しになりますね。夜のひどく更けましたのに」とジゼルが口にしました。
「『姫君がどこかに出掛けるらしい』と事務長が話すので、驚くままに出てき来たのだが、途中の坂道でひどい目に遭ってしまった。とにかく開けておくれ」ととても上手くカオルに似せた声でひそひそと話すので、ジゼルはニオイ卿だとは思いも寄らず、開けてしまいました。
「道中でとても耐え難く恐ろしいことがあったので、怪しい姿になってしまったから、灯火を暗くしてくれ」と言うと、「あれまあ、大変だ」とジゼルは慌てふためいて、灯火を遠ざけました。
「誰にも私を見せないでくれ。『私が来た』と言って、侍女たちを驚かせてはいけないよ」と、こういった点では物馴れていますから、カオルに元々、少し似ている声で、カオルそっくりの気配を真似して、室内に入りました。
「『とんでもないことに遭った』と話すからには、どんな姿になられたのだろう」と気の毒なジゼルは、自分も物陰に隠れながらニオイ卿を見やりました。
とてもきめ細かい、しなやかな服を着て、焚き染めた香りのこうばしさもカオルに劣りません。浮舟に近寄って、上衣などを脱いで、馴れた顔をして横になりました。「いつものお席に」などとジゼルが言いますが、ニオイ卿はものも言わずにいました。
ジゼルは浮舟に夜着をかけて、側で寝ている侍女たちを起こして、浮舟から少し引き離れて、皆、寝につきました。カオル大将が来ると、お供の人たちはいつも別の場所で休むことになっていますが、「夜更けにお越しになるとは趣が深いですね」、「姫君はこうしたカオル様の心持ちを分かっておられるのでしょうか」などと、おせっかいな話をする侍女もいますが、ジゼルは「お静かに。黙っていて下さい。夜のひそひそ声は耳に着きますから」などと言いながら、寝てしまいました。
浮舟は「カオル様とは違う人だ」と気付いて、嘆かわしくとんでもないことに驚いてしまいましたが、ニオイ卿は浮舟に声すら立たせないようにしました。ひどく気が引けてしまう所でさえも、分別をしない性分ですから、浮舟にとってはひたすら情けないことです。初めから「カオル様とは別の人物だ」と知っていれば、少しは抵抗することも出来たでしょうが、浮舟は悪夢を見ているような気持でいます。
ニオイ卿は少しずつ、ヴァンセンヌ邸で浮舟が冷淡であったこと、それ以来、浮舟を思い続けている様子を話すので、「相手はニオイ卿なのだ」と気付きました。ニオイ卿だと分かるとますます恥ずかしく、マドレーヌ様のことを思うと、今は何としようもないので、際限もなく泣いてしまいました。ニオイ卿も中々、容易に逢い見ることが出来ないことを思って涙を流しました。