その35.若菜 下                               

 

4.冷泉王の譲位        ヒカル 45

 

柏木が山桜上(第三王女)の小猫を入手し、白菊とヒカルが主導したカンブレイ和平が調印されてから五年の歳月が流れ、冷泉王の在位は十八年目に入っていました。

 フランス国内では、カンブレイ和平から約四年が過ぎた頃から、イタリア半島への再進出とミラノ公国の奪還の機運が高まって来ました。カール五世側に傾きがちになっていたローマ教皇への接近を試みながら、ドイツのプロテスタント三地方ザクセン、ヘッセン、ババリアと結んだ「シェイエルン条約」を継続していました。またスペインとポルトガルが先行した新大陸への進出に向けてジャック・カルチエ船団を派遣し、加えて地中海地域の強化に向けて、一千人単位の六つの歩兵隊で構成されるプロヴァンス軍団が創設されました。

 

世間では神聖ローマ帝国・スペイン王国を率いるカール五世、オスマン帝国のスレイマン一世、イングランドのヘンリー八世とフランスの冷泉王が覇権を競い合う「四英傑時代」と呼ぶ者も出ていましたが、そんな噂を冷泉王は面はゆい気持ちで聞いていました。

「スレイマン一世とは出逢ったことはないが、カール五世とはマドリードで、ヘンリー八世とはブーローニュで出逢った。二人とも自分より年長だが、私より覇気がありカリスマ性もある。やはり自分は軍事や国際紛争には脆弱で不向きではないだろうか。イタリアのパヴィアの敗戦時に負った古傷がうずく時など、敗戦と捕虜生活がトラウマになっていることを自覚する。

 反面、文化・学術・美術面での振興や国庫の設立など内政では業績を出した、と自負できる。自分には次の王を継承する男児が生まれなかったので、張り合いがなく、寿命がいつまで続くか分からない気もする。幸いなことに。スイス・ドイツ、イングランドなどと違って、ローマ教皇との関係は良好であるし、カトリックとプロテスタントの両立化政策に破綻はなく、国内情勢も安泰している。安梨王太子も二十歳が目前で、後を託しても問題はない。私は覇王としてではなく、文化王として後世に名を残そう。そうした意味では、今が潮時なのだろう。これからは気楽な身の上になって、親しい人々に出逢い、美術や文芸などの私事に身を入れて、ゆったりと暮らしていきたい。譲位してフォンテーヌブロー城とシャンボール城を拠点に、学術と文化の奨励に集中していこう」と、常日頃、ひそかに思い立っていたことを、その頃、重い病気を患ったこともあったので、ヒカルや周囲の者にも相談せずに、突然、譲位を宣言して、王位を安梨王太子に譲ってしまいました。

 

 世間の人々は「まだ二十七歳の盛りの年齢なのに、王位を投げ捨ててしまうのは」と惜しみ嘆きますが、「安梨王太子も成人されて、来年は二十歳になられることだし、跡継ぎの男児も誕生したことだし」と納得する人たちも増えていきました。世の中の政治などは引き続き、大きな変化はなさそうでした。

 冷泉王の退位を機に、太政大臣アントワンは辞表を出して、自邸のソーミュール城に籠ってしまいました。「世の中には常というものは無く、賢王も位を下りたのであるから、老境に入った自分の退官に何の惜しいことがあろう」という考えのようでした。

 ヒゲ黒左大将が右大臣に昇り、政務の重責を務めることになりました。ヒゲ黒の妹で、新王となった安梨王の実母はすでに他界していたので、王太后の称号を授与されたものの、草陰に隠れてしまい何の意味もないものの、黒ヒゲ大将にとっては同じメディチ家出身の教皇との関係強化が期待できました。

 王太子にはサン・ブリュー新女王が生んだ最初の男児がつきました。そうなることは誰もが承知していましたが、それが現実となったので、やはりめでたいことだ、と人々は目を見張っていました。

 

 夕霧右大将は官位第三位の大納言となって、慣例どおり左大将に移りました。アントワンの意向でアンジェ城はアントワンの息子たちが引き継ぐことになったこともあって、夕霧は住まいをアンジェ城からアゼイ・ル・リドー城に移しました。

 ヒゲ黒右大臣と夕霧左大将はますます望ましい間柄となりましたが、冷泉王の譲位に続くかのように、九月二十五日にローマ教皇が他界した報が入り、時代の変わり目を印象付けました。

 ヒカルは退位した冷泉位に世継ぎの男児がいなかったことを、内心では飽き足らない気持ちでいました。新しい王太子はヒカルの孫というものの、女系の血統でした。冷泉王が在位中に出生の秘密を漏らすこともなく、ヒカルと藤壺の密通の罪は世間に知られずに済んだこともあるものの、自分の男系の血筋を末の代まで王位を伝えることが出来ない宿命が口惜しく、物足りなくも感じましたが、他人に話せることではありません。

 

サン・ブリュー女王は、その後も多くの子供を産み、新王の寵愛は並ぶ者がいないほどでした。冷泉王に次いで安梨新王の王妃もフランス王族の出自で、国外から招いた王族ではないことに物足りなさを感じる人もいました。秋好前王妃は跡継ぎの王子を産まなかったのに、あくまで女王の座を続けられる取り計らいをしてくれたヒカルの志を考慮してみると、年月の経過と共に、ヒカルの存在がこの上なく有難いものに感じていました。冷泉院は望んでいたように、気楽にシャンボール城やフォンテーヌブロー城などに出掛けることができるようになって、「思った通りだった」と満足していました。

 

安梨王は腹違いの妹である山桜上のことが気にかかっていました。世間の人も山桜上を大切に存じ上げているのですが、どうしても紫上の威勢に勝ることはできません。ヒカルと紫上の間柄は年月を経てもしっくりいっていて、仲良く睦まじくしていますから、紫上にいささかの不満はなく、よそよそしさも見えません。

ところが紫上は「今はこういった出入りが多いヴィランドリー城の住まいを離れて、心静かな勤業生活を送りたい」と考えていました。

「この世の中はこれだけのもの」と見極める心地がする年齢にもなっていました。それも当然なこと、と許可してください」と真剣にヒカルに話す折々がありましたが、「とんでもない。そんな辛いことを考えるなど、ありえない。私自身、勤業生活に専念したい深い意思があるものの、後に残される貴女が寂しく感じ、これまでと打って変わった境涯になりはしないか、と気がかりだから、現状のままでいるのです。私が勤業の本懐を遂げた後にと、ともかく考えていなさい」とだけ話して、紫上の希望を制していました。

サン・ブリュー女王はひたすら紫上を本当の母親のように慕っていました。実母のサン・ブリュー上は蔭の世話役として謙遜さを失っていないのが、かえって今後に向けて頼もしく見えました。老修道女もややもすると、感激に堪えない涙を流したりしていますが、眼のふちを拭き直して、長生きをして幸福者になった実例のように暮らしていました。

 

 

5.ヒカルのモン・サン・ミシェル参詣と王宮の檄文事件     ヒカル 四十五歳

 

「何はともあれ、モン・サン・ミシェルに願を果たしたお礼詣でをして、サン・ブリュー王妃の門出を祈ろう」とヒカルは考えて、あの修道僧が託した木箱を開けてみると、様々に含蓄のあることが書かれた願文が多数ありました。毎年の春と秋の讃美歌に合わせて、子孫の永遠の繁栄を祈願した願文類は、なるほど本当にサン・ブリュー姫がこのような勢いにならなければ実現できないものでした。単に走り書きをしたにすぎないような趣の筆跡でしたが、いかにも学識があり論旨もしっかり書かれていて、神もキリストも聞き入れてくれそうな文章でした。

「どうしてあのような在俗修道僧の聖心さで、こうした望みを思いついたのであろうか」と感服し、分を過ぎたことでもないように感じながら、願文を読んで行きました。

「ひょっとしたら、しかるべき因縁があって、ほんの少しの間、サン・ブリュー姫の祖父になろうと、身をやつしてこの世に姿を現した、功徳を積んだ昔の聖僧だったのだろうか」などと考えると、軽んじることはできません。

 

 それでも今回は、表向きにはこの修道僧の願ほどきとはせずに、ただヒカルの参詣ということにして出発しました。サン・マロやサン・ブリューを浦伝いにさすらった、あの気ぜわしかった日々にかけた願はすべて達成することができましたが、なおこの世に生きながらえて、こうした色々な栄華を見るにつけても神様や聖人の加護は忘れ難い上に、紫上も伴って参詣に向かいましたから、世間の評判も大変なものでした。

 細々としたこともできるだけ簡略して、「周りの迷惑にならないように」と削っていくものの、限度というものがありますから、近頃でもまたとない立派な行列となりました。

 上官たちも左右の大臣二人を除いて、全員が付き従っていました。舞人は近衛府の中将の中から、顔と容姿が良く、背丈も揃っている者を選んでいました。この選考に漏れたことを恥として、嘆いている芸熱心な者もいました。専門職の楽人や舞人も、シャルトルやトゥールの臨時祭りなどに召される者の中から、とりわけその道々に秀でた者ばかりを揃えていました。それに加える二人として、近衛府の名が知れた者も呼ばれていました。讃美歌を担当する者も多くの人が集められていました。王宮、王太子邸やヴィランドリー城に勤める役人たちが、それぞれに分かれて親身に御用を務めていました。

 数が分からないほど色々と趣向を凝らした高官の馬、鞍、馬添いの男、随身、近習の童子たち、下級役人などまで立派に飾り揃えた行列はまたとない見物でした。

 

 サン・ブリュー女王と紫上は同じ馬車に乗っていました。後続の馬車にはサン・ブリュー上と母の修道女がこっそりと乗っていましたが、サン・ブリュー女王の乳母を務めていたマリアンヌも古くからの知人として同乗していました。侍女たちの馬車は紫上付きが五輌、サン・ブリュー女王付きが五輌、サン・ブリュー上の分が三輌で、目もくらむほど華美に飾り立てた衣装や様子は言うまでもありません。

 実を言うと、「どうせなら老修道女も老いの皺が伸びるようにしてもらって、人並みな一員として参詣してもらおう」とヒカルが申し入れたのですが、サン・ブリュー上は「今回の参詣は、このように世間でも大騒ぎになっていますから、年寄りが交じってしまうのは水を差すことになります。父修道僧が願ったとおり、サン・ブリュー姫が女王として落ち着いた後も母が生きながらえていましたら、母と願ほどきの参詣をいたします」と断りました。ところが老修道女は「余命も覚束ないし、とにかく様子を見たいから」と馬車に乗り込んでしまいました。そうなる運命と元々から栄華が咲き匂う高貴な方々よりも、幸運な運命がはっきりと見て取れる老修道女でした。

 

 一行はモン・サン・ミシェル島を臨む松原に落ち着きました。十月上旬でしたが、神聖な場所をめぐらす垣に這うツタの葉も色が変わり始め、松の下の紅葉の風景など、風の音だけが秋を聞き知っているのではない、といった風情でした。

 仰々しく奏でるフランドルやイタリアの楽曲よりも、ケルト風の風俗歌に合わせて奏でられる曲が場面に適って親しみやすく面白く、波と風の声と響き合います。木高い松風に吹き立てる笛の音も、他所で聞く調べと変わって、身に沁みます。ハープに合わせる拍子も鼓を使わずに取るので、大袈裟な勇壮さはなく、場所柄もあって一段と優美に面白く聞こえました。

 舞人の山藍色に染めた衣装模様が松の緑と同化し、帽子に飾った色とりどりな造花は秋の草花と見境がつかないほど、どれもこれもが風景と入り混じって見分けがつきません。

 ケルト調の曲「求める子」が終わる時分に、若い士官たちは正装の上衣を肩脱ぎして、舞の場に加わりました。光沢のない黒い上衣の下の、紫がかった紅色の葡萄染をした長衣の袖がにわかに露見して、濃い紅の中着の袂に時雨が降りかかって、幾分濡れてしまったのが、松原にいることを忘れさせ、紅葉が散っているように見えました。こうした見栄えがある姿の若い士官たちが、大層白く枯れたススキを高々とかざしながら、舞のほんの一節だけを舞ってみせたのがとても粋で面白く、いつまでも見ていたい気にさせました。

 

 ヒカルは昔の出来事を追憶していました。不運にもサン・マロとサン・ブリューに沈んだ当時の様子を目の前のことのように思い出しました。その場には、その当時のことを遠慮なく語り合える相手はいませんので、無理をしてサン・マロに尋ねて来てくれたアントワンを恋しく思いました。

 ヒカルは二番目の馬車に目立たないように寄って、サン・ブリュー上にメモ用紙を渡しました。

(歌)私の外に 誰がまた 昔の事情を承知して 神代を経たモン・サン・ミシェルの松に 話しかけたりしましょうか

と、書かれていました。

 ヒカルの歌に老修道女は心をうたれて、しんみりしています。今日の花やかな光景を見るにつけても、「今はもう、これ限り」とサン・ブリューでヒカルと別れた時のこと、サン・ブリュー王妃がまだお腹の中にいた様子を思い出すと、もったにないほど恵まれた運勢を感じ入っていました。世の中に背いて山中に入った夫のことも恋しく、あれこれと物悲しくなりましたが、「こんな晴れの日に涙は縁起が悪い」と言葉を慎みました。

「返信が遅くなっては失礼だ」と、老修道女はただ心に浮かんだままを詠みました。

(歌)年を取った修道女も モン・サン・ミシェルの渚は 生きて来た甲斐があるものだと 本日知りました

そしてこんな歌も独り言のように口ずさみました。

(歌)モン・サン・ミシェルの聖人の あらたかな霊験を見るにつけても 昔のことが忘れられない

 

 歌舞の遊宴は一晩中続きました。満月から下弦に向かっている月が澄み照らし、はるかに海面が美しく見え渡り、霜が白く下りて松原が前日と色が変わり、周りのすべてが妙に肌寒くなった秋の興趣ある朝を迎えました。

 紫上はいつもヴィランドリー城内にいて、折々につけて城内の面白い朝夕の遊宴を見たり聞いたりしていますが、城より外の見物はめったにしないでいます。まして今回のようにロワールを離れた外出はこれまでなかったことなので、すべての見聞が珍しく、興味深く楽しく思っていました。

(歌)モン・サン・ミシェルの浜の松に 夜深く下りた霜は 神様が白いカツラを お懸けになったように 

   白く美しく見える

押韻派の詩人が(歌)この松は 神の心を宿したものに違いない ブルターニュの山々に白いカツラが下りている と詠んだ雪の朝を紫上は思いやると、「この霜は神様が今日の祭りの志を受け止めてくれたもの」に見えて、ますます頼もしく感じました。

 サン・ブリュー王妃が詠みました。

(歌)祭りの主が手にした月桂樹の葉に 夜更けの霜が白く下りて カツラを懸け添えたように見える

 続いて紫上の侍女のアメリーが詠みました。

(歌)神に仕える人々の 白い布のカツラと見違えるほど 霜が下りたのは おっしゃるとおり 神が受納なされた 

   明白な験(しるし)でございましょう

 その他の人々も次々と数え切れないほど、多くの歌を詠みましたが、何もいちいち書き留める必要はありません。こうした場面で詠まれる歌はいつも名手と言われている男たちでも、案外、出来栄えはぱっとしたものではありません。「松の千歳」といった決まり文句以外の目新しい句など浮かびませんので、書き留めるのは面倒です。

 

 夜がほのぼのと明けて行くにつれ、霜はますます深くなって行きました。讃美歌の前方と後方のどちらを歌うのかが分からなくなるほど酔い過ぎた讃美歌の演者たちは、自分の顔がどうなっているのかも気付かないまま、早朝の面白さに心を奪われ、篝火が消えかかっているのに、まだ「ブラボー、ブラボー」と月桂樹を打ち振りながら祝っていました。ヒカル一族のますますの繁栄を思いやっての祝いでした。

 すべてのことが限りなく面白く進みました。(歌)長い秋の千夜を 一夜にしたとしても 語り尽くすことができないのに 夜明けを告げる鳥が啼き始めた としたいくらいの一夜でしたが、あっけなく夜が明けてしまったので、渚から返る波のように、この松原を去らなければならないのを若い人たちは残念がっていました。

 松原にはるばる連なる馬車の群れが風にうち靡いて、馬車の下簾の隙間から様々な衣装が常盤の松の陰に花の錦を引き並べたように見えました。官位四位以下の役人が、四位が深い緋色、五位が浅い緋色、六位が緑、と位階ごとの色の上衣を着て、朝食の風雅な配膳を配って回っているのを下級職の従者たちが羨ましそうに眼を留めていました。サン・ブリュー老修道女にも沈香木の折り箱を青鈍色の織物に包んで、修道女向けの精進物が運ばれているのを見て、「何とも幸せな運勢を持った女性だな」と仲間内で陰口を言っていました。

 

 往路はものものしく、もてあますほどの奉納品が色々と所狭しに積まれていましたが、帰路はあちらこちらを逍遥しながらロワールへ戻りました。それを書き続けるのは面倒なくらいです。

 あのサン・ブリュー修道僧がこうした有様を見聞できない山奥にいることだけが、ヒカルにとっては物足りないことでした。でも、それも難しいことでもありましたし、実際に修道僧が加わっていたら、見苦しいものになっていたことでしょう。世間の人は修道僧を手本にして、志を高く持つようになることでしょう。

 人々は何かにつけて、老修道女を羨ましがって、幸運な人の例として「サン・ブリューの修道女」を挙げるようになりました。あのアントワン家のヒヤシンスも、サイコロを振る時は狙い目が出るように「サン・ブリューの修道女、サン・ブリューの修道女」と唱えていました。

 

(衝撃の檄文事件)

 モン・サン・ミシェル詣でで、念願だった願ほどきを果たしてロワールに戻って来たヒカルを待ち受けていたのは、十月十三日に新教皇の決定した知らせでした。前任者と違って、メディチ家出身ではなかったことから、ヒゲ黒右大臣は「見込み違いをした」とこぼしていました。

 数日後の十月十八日、「檄文事件」が発生し、王城に激震が走りました。王の間のドアに「教皇ミサの濫用」と題する檄文が掲示されたのですが、プロテスタント急進派の何者かの仕業であることは明らかです。安梨王にとって最初の試練となりました。

 疑惑を審査する議会委員会が発足して、調査した結果、マルクール(Antoine Marcourt)牧師の作成と判明しましたが、二十四歳の新進プロテスタントのカルヴァンも連座して、フランスを離れました。

「スイスやドイツと違って、冷泉王の時代まで、フランスはカトリックとプロテスタントを巧妙に並立させて来たが、とうとう我が国でも両者の対立が激化していくに違いない」と懸念する声が巷で流布して行きました。

 

(時代の変化に対するヒカルの感慨)

 檄文事件を知ったヒカルは時代が変わって行くのを実感しました。

「私は子供の頃から、人道的なユマニズムに触発されながら大人になった。ロッテルダムの尊師、フランスのデタルプ先生やモー派を率いたブリソネ先生、イングランドのトーマス・モアなどから多大な影響を受けた。形式的な観念論に固執した中世のスコラ哲学からの脱皮を図ろうと、聖書の教義の解釈の見直しから始まった、知識人主導の教会刷新化の運動だった。それがマルチン・ルターの登場で、単なる教理論争だけでなく、これまでにない社会をめざす政治・社会問題と変化し始めた。ルターはまだ穏健的であったが、ツウィングリから過激化しだして、宗教戦争へと高まっていく国も増えて来た。イングランドは『離婚』という予想もしなかった理由から、ローマ教会から離れてしまった。

 振り返ってみると、オランダの白菊総督の死が人道的ユマニズムの終焉を予告したのかもしれない。今年一月にブリソネ先生が他界してしまったし、ロッテルダムの尊師とデタルプ先生も高齢となった。フランスでもプロテスタント過激派が浮上してしまったが、これからどうなっていくのだろうか。少なくとも、自分はもはや過去の人間になったのだろう。修道の道に入る時期が到来したようだ」。

 そんなことを思い浮かべていると、イングランド議会が至上権法典を決議してヘンリー八世がイングランド教会の首長になったものの、これを非難したトーマス・モアとジョン・フィッシャー(John Ficher)が十一月四日に逮捕された報が伝えられました。

「いっそのこと、二人をフランスに招いてみようか」とヒカルは考えたりもしました。

 

 

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