吟遊詩人がつづる「日本の神々」

 

〔1〕カムオオイチヒメ(神大市比売)   (吉備邪馬台国神話篇)

    ――大市場と分銅形土製品の始まり――

 

(スサノオのカムオオイチヒメとの出会い)

 ヤマタノオロチ(八俣の大蛇)を退治して、吉備高原にクシナダヒメ(櫛名田比売)と愛の巣を構えたスサノオ(須佐之男)は、しばらくしてクシナダヒメが懐妊し、ヤシマジヌミ(八島士奴美)が誕生しました。幼い頃は泣いてばかりいたスサノオも艱難辛苦の風雪を経て、分別ができる精悍な壮年に成長していました。日毎に大きくなる息子を見守りながら、淡路島を出立して西国諸国を放浪した後、高天原から放逐され、人間社会に住み着いて子孫が誕生した道筋を思い起こして、スサノオは深い感慨にふけります。

 

 ヤシマジヌミが歩き始めた頃、父のイザナギ(伊邪那岐)との約束を思い出して、母イザナミ(伊邪那美)が棲む根国に渡る機が到来したことを悟りました。クシナダヒメと両親のアシナヅチ(足名椎)とテナヅチ(手名椎)もスサノオとの別れを惜しんで引きとめようとしましたが、最後は「これもイザナギさまが定めた宿命」と慰留を諦めました。

 吉備を去るにあたって、高天原のウケイ(誓約)で誕生した宗像三女神の娘たちにも一言だけでも別れの挨拶をしておかねばならないと思いいたりました。アシナヅチの話では、宗像三女神はアシナヅチの父神であるオオヤマツミが引き取って、アシナヅチの腹違いの妹であるカムオオイチヒメに預けている、ということです。

 

 「そのカムオオイチヒメは吉井川の河口地帯にある香登(かかと)に住んでおります。瀬戸内海から黒潮が流れる紀伊までの道案内も乞われたら宜しいでしょう」とアシナヅチが伝えます。アシナヅチの話では、吉備の聖山である熊山の山麓地帯にあたる、吉井川下流域の長船から伊部を経て東の片上湾に到る地域は古くから良質の粘土を産出する地域で、カムオオイチヒメは父オオヤマツミの意向により、香登(かかと)に御殿を構えて、粘土から土器を作る陶工集団を統括しているということです。

 福田から吉井川を下っていったスサノオは長船で下船して香登のカムオオイチヒメの御殿を訪れました。可愛い少女に成長した宗像三女神にまとわれつかれながら、カムオオイチヒメが微笑みをたたえて面会します。

 

 数日、御殿に滞在するうちに、スサノオはカムオオイチヒメに惚れこんでしまった自分に気づきました。カムオオイチヒメはクシナダヒメより十歳ほど年長でした。とり立てた美人ではなく、骨太で大柄でしたが、性格が温厚で、気立てがよい成熟した女性でした。威張らず肩肘をはったところがなくいことから宗像三女神も馴染み、陶工たちから慕われていました。

「根国へはいつでも行ける。しばらく香登に留まることにしよう」。

 スサノオは唐突に気が変わってしまう気まぐれな性格がわざわいして、高天原で狼藉をはたらいてしまいましたが、その悪癖はまだ治ってはいなかったようで、御殿にそのまま居座ってしまいました。父神の滞在延長を喜んだ三姉妹はカムオオイチヒメに仕込まれた舞を嬉しそうにスサノオに披露します。スサノオは淡路島から兄ツキヨミ(月読)が棲みついた壱岐島に行く道中に、貧しいながらも丁重にもてなしてくれた、備後の芦田川河畔に住む蘇民将来を思い出して、備前の陶工が造る高坏や壺を贈りました。

 

(オオトシとウカノミタマの誕生)

 やがてカムオオイチヒメとの間に双子の二男神オオトシ(大年)とウカノミタマ(宇伽之御魂)が誕生しました。

 クシナダヒメと両親のアシナヅチとテナヅチは、スサノオが公言した根の国への旅立ちを延期して香登に居続け、おまけに双子までもうけたことに驚きました。カムオオイチヒメに嫉妬心を抱いたクシナダヒメは「まだ海を見たことがないから」との口実を作って、息子のヤシマジミヌを伴って高原から下りて行きました。

 

 后二人と息子一人、娘三人に囲まれたスサノオはご満悦で毎日を過します。香登のカムオオイチヒメの許に宗像三女神に加えて、スサノオも住みついた噂が船乗り仲間へ伝わっていきます。宗像族の船乗りを始めとして、吉井川河口や片上湾に立ち寄る交易船が増えていきます。船乗りたちは備前産の土器の優秀さに気づいて、陶器市が立つほどになりました。、カムオオイチヒメの調整能力が優れていたこともあって、海の幸と山の幸、東西の商品が交差する市場として繁盛していきます。「私こそが正后ですよ」と最初のうちは年上のカムオオイチヒメと張り合う気持ちが強かったクシナダヒメも次第に穏やかな性格のカムオオイチヒメと打ち解けて、姉妹のような仲睦まじさになりました。

 

 子供たちの成長ぶりを見ながら、このまま人間界に留まっていくのも悪くはないと思ったりもします。スサノオは「この子たちが倭国の人間社会を築いていく」との予感を強めていきます。スサノオは姉オオヒルメのような優等生ではなく、時には突発的な衝動に駆られて、嵐のように暴れ狂うこともありますが、普段は穏やかな人柄で、先を見越す眼力もありました。

両親が自分に託した使命は何だったのであろうか」を冷静に考えてみます。「神々が住む高天原を見たし、人間が住む地上界も見て子孫も残した。私の次の仕事は子孫の繁栄を望みながら、海の底から日本列島に恵みの雨をもたらしていくことだ。やはり母が棲む根国へ行くことにしよう」と腹を固めました。

 

「あなた方の祖父母であられるイザナギとイザナミは日本列島の島々と自然の神々をお生みになった。私は父イザナギと約束したように、母イザナミが棲む根の国に行きますが、海の底から日本列島に恵みの雨をもたらしていきましょう。あなたたちは地上界で持ち場を分担して、人間社会を繁栄させていきなさい」。

「ヤシマジミヌは大土地王として、国土の支配者となりなさい。クシナダヒメは国母と敬われていくでしょう。オオトシは産業と商業、ウカノミタマは農業の支配者となりなさい。カムオオイチヒメは海の幸と山の幸、東西の商品が交差する市場の母となるでしょう。宗像三女神は船乗りと東西交易の統括者として、タギリヒメ(多紀理毘売)は沖合いの長距離航海、イチキシマヒメ(市寸島比売)は陸沿いに進む近距離航海、タキヅヒメ(多岐都比売)は入り江と河口の統括をしなさい」。

 こうしてスサノオは根国に旅立って行きました。

 

(分銅形土製品とスサノオ族)

 地上界を去るにあたって、スサノオは疫病や厄払いに効果がある二つのお祓い具を子供たちに授けました。

 一つは備前の陶工に造らせた分銅形土製品でした。「自分なりの願いを込めて首からぶら下げて日常の厄除けとしなさい。人顔やかたどったり、ノコギリ状の刺突、櫛目、渦巻きなどの文様をほどこしたり、朱で塗るなどは自分の願いと好みに応じて決めなさい」。

 もう一つは茅の輪でした。「茅の輪をくぐると、夏場の疫病や厄除けの祓えとなります」と茅の輪くぐりの秘法を伝授しました。

 

 スサノオの子孫が栄えていくにつれて、分銅形土製品はスサノオ族のシンボルとなり、茅の輪くぐりの祓いはスサノオ族に欠かせない夏越しの大祓の儀式となっていきました。

 スサノオの旅立ちを見送った後、クシナダヒメとヤシマジミヌは吉備高原に戻り、三姉妹は宗像族が引き取って本拠地の筑紫へ向いました。カムオオイチヒメ の双子オオトシとウカノミタマと子孫は交易商人、工業・稲作の神として、瀬戸内海、ことに東部で大繁栄をしますが、それについてはまたの機会につづりましょう。

 

 

 カムオオイチヒメを祀る代表的な神社 

大内神社 (岡山県備前市香登本)

壹栗(いちくり)神社 (岡山県真庭市湯原)

市比売神社 (京都市下京区河原町 宗像三女神も祀る)

 

 

 

〔2〕ツキヨミ (月読、月夜見) (イザナギ・イザナミ神話篇)

 

(ツキヨミの筑紫下り)

「オオヒルメは高天原を治めなさい。ツキヨミは日と並んで天の事を治めなさい」。

 イザナギの命令により、姉のオオヒルメと弟のツキヨミは『中つ(の)国』にある吉備の旭川の蒜山高原へと上っていきました。オオヒルメは蒜山高原を見下ろす蒜山三山の真ん中にある中蒜山を棲みかと決め、蒜山高原が神々が集う高天原となりました。

 天上に上ったオオヒルメは「葦原中つ国の山中にある盆地にウケモチ(保食)という神がいて、食べ物をたっぷりと備蓄して高天原の神々が食べる食材を一手に引き受けていると聞いています。いったい、食材をどのように作り、確保しているのか。ツキヨミよ、ウケモチの許へ行って様子を見て私に報告しなさい」と命じました。

 

 ツキヨミはその詔を受けて、高天原を下ってウケモチの棲みかを捜しあてると、盆地の村はずれに住んでいました。「小太りの普通のおばさん」といった感じで、「なぜ、こんなおばさんが食材を一手に引き受けることができるのか」と不思議に感じました。

「そうですか、わざわざ高天原からお越しいただいて。今夜は歓迎のしるしに、ごちそうを差し上げることにしましょう」。

 ツキヨミは奥に引っ込んだウケモチが始めた挙動を物陰からうかがってみます。ウケモチは首をめぐらして南の国に向って口から飯となる「稲、稗(ひえ)、粟、麦や豆の穀物」を出しました。北の海に向って「鯛、ヒラメやスズキ」などの鰭(はた)の広(ひろもの)、「鯵、鯖、イワシやニシン」などの 鰭の狭(さもの)を口から出しました。脚をからませた「タコやイカ」すら口から次々と出て来ました。東西の山に向って、毛のあらものの「猪や鹿」、毛の柔(にこもの)の「キジやウズラ」を口から出しました。その品(くさぐさ)の物をどっさりと百机(ももとりのつくえ)に置いて、ツキヨミに饗しました。

 

 この様子を見て、ツキヨミは「何と穢(けがわら)しいことだ、鄙(いやし)いことだ。何があったとしても、口から吐き出した物を私に食べさせようとするのは許すことはできない」と言い放って、剣を抜いて、ウケモチを撃ち殺してしまいました。

 意気揚々と蒜山高原に戻ったツキヨミは、オオヒルメに復命して、つぶさにその事を報告しました。するとオオヒルメは大いに怒って、顔を真っ赤に染めて言い放ちます。

「御前はなんとういう悪い神なのだ。ウケモチがいなくなってしまったら、私たちは飢え死にするだけではないか。もうお前の顔など見たくない、高天原から出ていきなさい。これからは私と並んで天の事を治めることはなりません。私は昼を治めますから、お前は夜を治めなさい。お互いを隔てて、お前は別の場所に棲みなさい」。

 

「それなら、私は蒜山の隣にある大山の剣ヶ峰に棲むことにします」。

「生意気なことを言うのではありません。私が棲む蒜山より高い大山に棲むなぞ、絶対に許しません。安来の飯梨川の『広瀬の月山』に棲むのなら許しましょう」。

「いくらなんでも『広瀬の月山』は低すぎます。こんな低すぎる山に誰が住めましょう。姉を私を見くびりすぎます。姉の目が届かない、遠い場所を私の棲みかとしましょう」。

 

 蒜山高原を下って日本海に出たツキヨミは『東の国』に向うか『西の国』に向うか迷いましたが、とりあえず西側の出雲の国をさまよううちに、筑紫のムスビの神々の縄張りだった島根半島に迷い出て、カムムスビに遭遇します。

「あなたは『東の国』の淡路島で誕生した神ではありませんか。なぜこんなところに来られたのか?」

 ツキヨミはざっくばらんに事情を話し、「姉の目が届かない場所を棲みかにしようと、その場所を探しています」と語ります。

「それなら、私の故地である筑紫に行ってみたらよいでしょう。筑紫はオオヒルメが夕刻に沈む場所ですから、あなたと目を合わせることはないでしょう。オオヒルメが沈んだ後、天を回ればよいでしょう」。

 

(農業と養蚕の始まり)

 その間に、高天原の神々が食す食材の確保を心配したオオヒルメはアマノクマヒト(天熊人)を遣わして、ウケモチの様子を見に行かせました。

 ウケモチはすでに死に絶えていましたが、その頭の頂に「牛馬」が化身していました。額の上に「粟」が、眉の上に「蚕」が、眼の中に「稗(ひえ)」が、腹の中に「稲」が、陰(ほと)に「麦、大豆と小豆」が生まれていました。

(注:古事記のスサノオ篇では「殺されたオホゲツヒメ(大気津比賣)の頭から「蚕」、二つの目から「稲種」、二つの耳から「粟」、鼻から「小豆」、陰(ほと)から「麦」、尻から「大豆」が生え、カムムスビがこれらを取って種としました」となります。)

 

 クマヒトはそれらをすべて持ち去って、オオヒルメに奉りました。オオヒルメは喜んで告げます。「この物は、顕見(うつ)しき蒼生(あをひとくさ)の、食らいて活くべきものなり」とのたまって、粟稗麦豆は陸田種子(はたけつもの)、稲は水田種子(たなつもの)としました。そして天の邑(むら)の君(長)を定めました。

 その稲種をもって、初めて天の狭田および長田に植えました。秋になると実をずっしりとつけた稲穂が八握(やつかほ)にしなって垂れ下がり、はなはだ快い風景です。また口の裏(うち)に蚕を含んで、糸を抽くことができました。これが養蚕の道の始まりでした。

 高天原に水田ができ、畑地が広がり、絹から錦を織る機織りの音が響くようになりました。

 

(壱岐島のツキヨミ)

 ツキヨミはカムムスビが手配した船に揺られて、無事に筑紫の港に到着しました。筑紫のムスビの神々は人間の眼で見ることができない「万物創生の神々」でしたので、自然の事物に化成した東の国の神が物珍しく、一目でも見ようと港に押しかけて来て、「なぜ西の国にやって来たのか」と質問攻めにします。

「筑紫に棲んでも構わないだろうが、イザナギ・イザナミを筆頭にして、東の国の神さんたちが怒って、文句を言ってくるだろう。少し離れた壱岐島なら、無難で問題はないだろう」と衆目の意見が一致しました。

 

 壱岐の島は「朝鮮半島と筑紫」の間、「筑紫から佐渡島まで日本海」を行き来する海人(あま)の拠点でした。ツキヨミが望んでいた高山はありませんでしたが、回りを海に囲まれた、それでいて絶海の孤島でもなく、棲むのに適当な広さもありました。

 棲み馴れていくうちに、「父イザナギは『日と並んで天の事を治めなさい』と申したのだから、姉と目を合わせなければ、昼に顔を出しても構わないだろう」と、気が向くと姉が天を回っている昼間にも顔を覗くようにもなりました。

 そのうち、壱岐の海人たちは、昼も夜も関係なく、ツキヨミが東から天に顔を出し始めると、海が満ち潮に向かい、西に沈みだすと引き潮が始まることに気づきました。

 それ以来、ツキヨミは潮の満ち干を治める神さまとして、日本列島の海人や漁民から崇められるようになりました。

 

 そのうちにオオヒルメは弟が昼間にも顔を覗かすことに気づきました。月が日中に顔を出すと陽の光りが一層強まるのは、ツキヨミの姿をオオヒルメが拭き消そうとしているからです。

 

 

ツキヨミを祀る代表的な神社

月読神社 (長崎県壱岐市芦辺町)

月読神社 (京都市西京区松室町山添町。松尾大社摂社)

月山神社 (山形県東田川郡庄内町)

月山神社 (山形県東田川郡羽黒町月山)

皇大神宮別宮 月読宮 月読荒御魂宮 (三重県伊勢市中村町)

豊受大神宮別宮 月夜見宮 (三重県伊勢市宮後町)

 

 

ウケモチを祀る代表的な神社

田根(たね)神社 (岡山県真庭市種)

中谷神社 (岡山県苫田郡鏡野町中谷)

勝部神社 (岡山県津山市勝部)

保食神社 (岡山県倉敷市粒浦八軒屋)

保食神社 (長崎県壱岐市郷ノ浦町渡良浦)

 

 

 

〔3〕アマツヒコネ(天津日子根)とアメノユツヒコ(天湯津彦)  (大和建国神話 下篇) 

          (参照 邪馬台国吉備・狗奴国大和説 補遺2「大和の日本統一にかかわった氏族」 

 

1.筑紫の長タケコロ(建許呂)

「タケハニヤスビコ(武埴安彦)殿が天下取りに成功しておられたなら、今頃、私は大和の都に凱旋して、大臣として重用されていただろうに。このまま筑紫に埋れてしまうのだろうか」。

「殿、壁に耳ありですよ。そんなことをおっしゃっていると、イサセリビコ(伊佐勢理毘古。吉備津彦兄)が放っている密偵に感ずかれて、すぐに朝廷に密告されますよ。くれぐれもご用心下さい」。

「密偵が、密偵が」と耳にタコができるほど繰り返す部下の忠告に閉口しながら、筑紫の刀禰(とね。長)を務めるタケコロ(建許呂)はじくじくたる毎日を送っていました。西暦280年から283年にかけてのことでした。

 

 河内の八尾を根拠地の一つとするタケハニヤスビコはオオビビ(大毘毘)大王(開化天皇。治世推定247267年)の腹違いの弟でしたが、母ハニヤスヒメ(埴安媛)の父は河内青珠繫(青玉)で、河内のアマツヒコネ族の首長でしたから、タケコロと同じアマツヒコネ族に属していました。腹違いの甥にあたるミマキイリヒコイニエ(印恵)大王(第十代崇神天皇)治世下の277年に反乱をおこして鎮圧されるまでは、時の流れはタケコロの目論見どおりアマツヒコネ族の全盛が続いていました。しかし今やミマキ大王は政権を不動のものに固め、外戚のオオビコ(大彦)とタケヌナカハワケ(武渟川別)親子が我が世の春を謳歌する時代となって、アマツヒコネ族は賊軍扱いをされて肩身の狭い日々を送るようになっていました。

 

 難攻不落と一時は攻略を断念した大和による吉備邪馬台国制覇は、タケコロを総帥とする水軍(海軍)の奇襲攻撃で達成することができたことから、一躍、タケコロは吉備征服の隠れたヒーローとなりました。吉備邪馬台国の首都である吉備津を攻略した後、「さらに西進して一挙に筑紫に攻め込め」というオホビビ大王の命令に呼応して、タケコロが率いる水軍は息をつく暇もなく、備後の芦田川を落としいれ、続いて投馬(伴)国の首都がある安芸の太田川河口に攻め込んでいきました。

 太田川流域の攻防は抵抗が強かったためてこずりましたが、何とか征服の目処がついた矢先の267年春、オオビビ大王急死の報がタケコロの許に届きました。数日おいてタケハニヤスビコの急使が「すぐに河内に上って来るように。上る途中で吉備津に立ち寄って、吉備の特殊壺と特殊器台(向木見型)、それに陶工も加えて、河内まで運んでくれ」という指示を伝えました。

 タケコロは護衛も兼ねるお供の数艘をひきつれて太田川河口を出発し、吉備でイサセリビコ兄弟に再会しました。イサセリビコは吉備統治の総帥の地位にありましたが、水軍の奮闘で吉備邪馬台国の征服が実現したことを承知していましたので、丁重にタケコロをもてなしました。 

 

 特殊壺・器台と陶工の大和送りの手配はすでに整っていましたが、イサセリビコは幾分か痩せて、憔悴した印象を受けました。

「かなりお疲れのご様子ですが」と心配声でタケコロが語りかけますと、「ウラ(温羅)の残党の排除にてこづっている。それに加えて、大和入りされたトヨ(台与。ヤマトトトビモモソヒメ)さまが、オオビビ大王の急死で宙に浮いてしまわれるのではないのかと、心配でならない。様子をうかがいに大和に飛んで戻りたいが、残党処理で吉備から離れることができない」。

 タケコロをすっかり信用しているのでしょう、さらにあれこれと心情を吐露します。

「オオビビ王が吉備の特殊壺・器台と陶工を大和に運ぶのは、トヨさまを后にされて大和と吉備が融合したことを象徴づけたいご意向があったことによるようだが、突然の死で、先行きが分らなくなってきた」。

 

 河内湾に入り、大和川河口の八尾に無事に到着すると、タケハニヤスビコが出迎えています。

「なるほど、これが噂に聞く特殊壺と器台か。思っていた以上の大きさだ」と后アタヒメ(吾田媛)を伴ったタケハニヤスビコが大魚を手中にしたかのように誇らしげに見惚れています。

「まだ確定はしていないが、わしが兄を継いで大王となることは間違いがない。兄の長子のミマキ皇子を推挙する勢力もあるが、まだ若すぎる。下手に政敵に刺激を与えてしまう恐れもあるから、タケコロ殿は大和入りする必要はない。太田川からさらに西に進んで、筑紫の西の端まで支配下に治めた後、大和に凱旋してきなさい。大臣の座を用意しておく」。

 「筑紫を制覇した後は大臣の座だ」。

 上げ潮に乗った気分のタケコロは意気揚々と安芸に戻り、太田川河口を拠点に周防、対岸の伊予へと支配領域を広げていきました。

 

 

2.大和の水軍

 タケコロが一族に連なるアマツヒコネ族は初代イハレビコ大王(神武天皇)兄弟のお伴として日向から大和入りした従卒を祖としていましたが、第六代クニオシビト大王時代から頭角を現わし台頭していきました。

 大和盆地の西南部を本拠地とする葛国は第五代ミマツヒコカエシネ大王(孝昭天皇。治世推定170195年)の時代に尾張族を主体として、伊勢、美濃、尾張の東海三国の制覇を成し遂げたことから膨張が始まりました。第六代クニオシビト大王(孝安天皇。同195215年)時代になると、東海三国制覇の勢いに乗じて支配領域を大和盆地全域に広げましたが、アマツヒコネ族は登美(とみ)王国が維持してきた大和盆地西北部と河内湾につながら生駒地方を地盤とする物部族の一部を追い出して、山城と河内に勢力を拡大していきました。追い出された物部氏の主力は尾張に送られ、尾張氏の下で三河と遠江制覇の尖兵役を果たしていきます。

 

 第七代ネコヒコフトニ大王(孝霊天皇。同215239年)による近江攻略で、東軍の尾張氏に対し、アマツヒコネ族は西軍として活躍し、東の尾張氏と西のアマツヒコネ族が新興国大和の進撃を担う東西の陸軍の長となりました。アマツヒコネ族は淡路島や播磨の海人から船の技術を取り込みながら、本家の陸軍の分家筋となる水軍を興し、大和川河口に本拠を構えていきます。

 第八代ネコヒコクニクル大王(孝元天皇。同239247年)は、次の標的として倭国の盟主である吉備邪馬台国に照準が絞り込みましたが、魏の帯方郡からの支援もあって吉備邪馬台国の防御は固く、攻めあぐねます。ようやくネコヒコオオビビ大王下の266年に吉備邪馬台国の首都を制圧することができましたが、タケコロは水軍の長として評価を高めました。

 

 

3.タケハニヤスビコの野望と大和の西征

 オオビビ大王の後継者問題はオオビビ王と同腹の兄でミマキ皇子の舅であるオオビコと異腹の弟タケハニヤスビコとの一騎打ちの形となりましたが、オオビコが推すミマキ皇子が後継者に決まり、オオビビ王の死の翌年268年に即位しました。まだ20歳手前のミマキ大王にとっては前途多難な旅立ちとなりました。

 オオビコに対抗するタケハニヤスビコはミマキ大王の即位後も大和軍の征西政策の実権を保持し、西征で河内湾に運びこまれる戦利品も巻き上げて、財力を蓄積していました。吉備の陶工と倭国の盟主の象徴とも言える特殊器台・壺も大和盆地には運ばず、河内の身内一族の墳墓に飾りました。天下を奪い取る陰謀にそって、自分が倭国の盟主であることを誇示する狙いでもありました。吉備から徴用した陶工に新たな特殊器台・壺の製作を命じ、宮山型が誕生します。

 

 タケコロ軍による投馬国と対岸の伊予の征服達成の報を受け取ると、タケハニヤスビコは西国制覇の攻撃の手をゆるめることなく、神武天皇の長男を祖とする皇別氏族の意富氏のタケヲクミ(健緒組)を将軍とする西征第二陣を伊予に送り込みました。タケコロには周防、長門経由での筑紫攻略、タケヲクミには豊後経由での肥国攻略を命じました。二手に分かれての九州攻略でした。

 タケコロは安芸と伊予の後始末をアメノユツヒコ族に委ね、周防、長門へと西征を継続しました。アメノユツヒコ族は河内に留まった物部族に属していましたが、アマツヒコネ族の配下となっていました。

 タケヲクミ将軍は伊予から豊予海峡を渡り、豊後に上陸して土賊を蹴散らしながら、阿蘇の山脈へと進軍しましたが、最も危険な前衛部隊には吉備の捕虜兵が組み込まれていました。

 

 270年に入った後、タケコロは筑前の奴国の征服に成功しました。さらに筑後、肥前へと、西下を進めようとしましたが、筑後と肥前の有明海連合軍は予想以上に手強く、吉備から一気呵成に進んできたタケコロ軍も筑前で小休止をせざる状態に陥りました。海戦や海からの攻撃には長けていましたが、筑前から筑後への陸からの攻撃は不得手だったこともあります。潮の流れが上げ潮から引き潮に変わっていくような思いがしました。

 タケヲクミ軍は阿蘇の山脈を越え、肥後を征しました。タケカシマ(建鹿島)を首領とする吉備の捕虜軍団は有明海対岸の雲仙に渡り、有明海を北上して塩田川まで支配下に置きました。肥前の有明海北部と筑後は筑前と肥後から挟まれる状況に陥りましたが、何とか持ちこたえていました。

 

 

4.タケハニヤスビコの反乱と四道将軍

 ミマキ王は当初はつまづきましたが、次第に王権を固めていき、タケハニヤスビコが指揮を執る征西政策にも口をはさむようになります。焦ったタケハニヤスビコは277年秋に決起しましたが、反乱はオオビコとイサセリビコにより鎮圧され、アマツヒコネ族は連座して下降線をたどっていきます。

 翌278年春にミマキ王は四道将軍の大号令を発しました。丹後王国に腹違いの弟ヒコイマス(日子座) 北陸道にオオビコ、東国にタケヌナカハワケを送り込みました。吉備に駐在するイサセリビコには西征の集大成、ことにまだ達成できていない筑後と肥前の制覇を命じました。

 

 吉備から大軍を率いて筑紫に到着したイサセリビは、タケコロがタケハニヤスビコの一味で、いまだに反乱を企てている疑いもありますから、うってかわってタケコロを冷たくあしらい、タケコロをつんぼさじきに置きました。兵士の数で圧倒するイサセリビコは肥後のタケヲクミ軍と呼応して、筑後と肥前北部の強敵を挟み撃ちにしてあっという間に平定し、大和の西征事業の終幕を果たして吉備へ引き上げていきました。筑紫に取り残されたタケコロは280年から数年間、うつうつとした毎日を送りました。

 その間も、大和の首都は揺れ動いていきます。吉備の捕囚の陶工が製作した宮山型の特殊壺・器台が大和に運ばれ、同時に都築型埴輪や初期の円筒埴輪の製作も始まりました。280年冬に自害したトヨを称える箸墓の造営も始まりました。282年にはタケカシマと意富族のタケヲクミの息子たちが常陸に上陸して東国征服事業を開始しました。

 そうした風の便りもタケコロにとっては遠い世界の話となっていました。

 

 

5.東国への転出

「俺はこのまま筑紫の土豪として埋れてしまうのだろうか」

 タケコロは子宝には恵まれ、河内の后と筑紫の后たちから八人の息子が生まれていました。鬱々と毎日を過すうちに、284年に筑紫から東国の常陸の国へ、配下のアメノユツヒコ族も含めた移動命令が伝えられました。

「確か、東国はタケヌナカハワケの統括のはずだ。どうして我々が東の端に島流しとなるのだろう」と不審に思いながらも、朝廷の大王の命令には従わざるを得ません。タケコロと息子たちは周防と安芸のアメノユツヒコ族も加えて河内に向いましたが、反乱を危惧されたのか河内湾に立ち寄ることはできず、船団は淡路島の手前で右折して阿波の鳴門海峡を抜けて、紀伊半島に入り、黒潮の流れに乗って常陸の鹿島に着きました。

 

 常陸国で意富軍の長であるタケヲクミの長男に出会いました。

「東国支配はオオビビ親子のはずなのに、なぜ我々が東国に送られて来たのかが分らない」。

「ミマキ大王と舅のオオビコとの確執は根が深いらしい。義弟は東国と制したと吹聴しているが、東山道沿いの首長たちに銅鏡を配って安全を確保しながら会津まで行っただけにすぎず、肝心の関東平野の支配は手付かずのままだったことも明らかになって不興をかってしまった。タケヌナカハワケはあなた方に代わって筑紫送りとなるようです」。

「三河と遠江に主力が移った物部氏はオオビビ側についている尾張氏に擦り寄って、大和での復権を目論んでいるとも聞きます。貴殿の地元の河内と生駒地方も、アマツヒコネ族と物部氏の関係が微妙になっているようですよ」。

 

 意富氏は王族出身の皇別氏族であるためか、さすがに朝廷の情勢に詳しく、なるほどとタケコロは事情を飲みこんでいきました。

「それにしても、なぜ敵国の兵士だったタケカシマたちが重用されているのかが理解できない」。

「捕虜として河内に連行された後、豊後と肥後攻略で武勲をあげて父の信頼を勝ち得ました。イサセリビコとトヨさまを通じて、ミマキイリエ大王の覚えもめでたいようです。トヨさまが自害したのは、正后たちの嫉妬に耐えかねたかららしいとの風評も流れています」。

「我々は常陸の大半をおさえ、下野と上野も征しました。これから陸路での東国入りの街道の確保をめざして、信濃征服に進みます。貴殿たちには東国の残された地の制覇と陸奥地方への北進をお願いしたい」。

 タケコロと息子たちは284年から287年にかけて、まず常陸国の北部を征した後、北の陸奥地方はアメノユツヒコ族に託し、南の上総と相模を征服していきました。残りは頑強な武蔵だけとなりました。

 

 288年になってミマキ大王の第一皇子トヨキイリヒコ(豊木入日子)が東国支配の統括者として東国入りしました。早速、タケコロを招き、その功績を称えましたが、「中央ではアマツヒコネ族の復権を懸念する声がまだまだ根強い。アマツヒコネ族とアメノユツヒコ族が征服地の長(国造)になることは認めるが、すまないが表立って祖神を祀ることは避けて欲しい」と説得されて、タケコロは無念の涙を流しました。

 

 

6.タケコロの遺言

 臨終の床で、タケコロは息子たちやはせ参じたアメノユツヒコ族に言い残しました。

「俺たちは大和の忘れられた英雄だ。日本の西と東の征服の立役者だ。この史実を子孫達に語り伝えてくれ」。

 タケコロの末裔たちは遺言を守り、吟遊詩人の歌い上げた詩を語り継いでいきました。

 

河内のタケコロよ アマツヒコネ族の誇るべき海の英雄

吉備のタケコロよ 陸から攻めあぐんだ吉備邪馬台国を海から攻め落とした英雄

西のタケコロよ 筑紫を落とし入れた誇るべき刀禰(とね)

東のタケコロよ 大和の東の領域を阿武隈川まで拡げた英雄

倭国のタケコロよ 大和の東西倭国の統一を成就した陰の主役

その名は倭国の歴史に刻み込まれていく

 

 

アマツヒコネを祀る代表的な神社

多度大社 (三重県桑名郡多度町多度)

馬見国神社 (滋賀県近江八幡市馬渕町東山)

御上(みかみ)神社 (滋賀県野洲市三上。祭神は子神アメノミカゲ天之御影)

鏡神社 (滋賀県蒲生郡竜王町鏡)

高市御縣(たけちのみあがた)神社 (奈良県橿原市四条町宮坪)

 

アマツヒコネを祖とする国造

「国造本紀」ではタケコロは国造・縣主の制度が成立した成務天皇時代の人物と見なされていますが、アメノユツヒコ族や意富族の国造系譜等と比較すると、開化・崇神天皇時代の初代が登録・記載された、と解釈できます。

凡河内国造(大阪府東部)、山城国造(京都府南部)、山背国造(京都府南部)

周防国造(山口県東部)

タケコロ:茨城国造(茨城県石岡市・笠間市)

タケコロの息子六人

  :道口岐閉国(茨城県日立市)、須恵国造(千葉県上総)、馬来田国造(千葉県上総・木更津)、師長国造(神奈川県相模)、道奥菊多国(福島県いわき市)、石背国造(福島県岩城)

 

 

アメノユツヒコ系を祀る代表的な神社

速谷(はやたに)神社  (広島県廿日市市上平良かみへら。祭神はアキハヤタマ)

安芸津彦神社  (広島県広島市安佐南区)

野間神社  (愛媛県今治市神宮。祭神はアキハヤタマ)

磐船神社  (大阪府交野市私市)

安積国造神社  (福島県郡山市清水台)

 

アメノユツヒコを祖とする国造

西国

  :阿岐国造(広島県西部・安芸国)、波久岐(はくき)国造(山口県東部・吉敷)、怒麻(ぬま)国造(愛媛県宇摩)

東国

  :阿尺国造(福島県郡山市)、思国造(福島県)、染羽国造(福島県双葉)、信夫国造(福島県信夫)、

   白河国造(福島県白河)、伊久国造(宮城県伊具)、佐渡国造(新潟県佐渡)

 

 

                                                                                      著作権© 広畠輝治 Teruji Hirohata