「古事記の吉備津彦二兄弟の吉備国平定の逸話が、大和国は邪馬台国ではなかったことを明白に語っている」

     ――吉備、大和と邪馬台国に関する「古事記と日本書記の編纂者の相違点」――

 

 16年ほど前に古事記を再読して、「邪馬台国は吉備、大和が狗奴(葛)国」だと気付いた頃から、ずっと気になっていたことは、「第七代孝霊天皇の節」での、古事記と日本書記の「吉備」に関する記載が異なっていることです。

 この箇所に絞り込んで考察していくうちに、

大和朝廷側は西暦400年前後から始まる渡来系漢籍学者の来朝以前は、「邪馬台国・卑弥呼・台与」の名前や実像を知

  らず、3世紀前半に「邪馬台国」という国が帯方郡・魏と交流があったことも知らなかった、

渡来系漢籍学者(唐系か百済系)は神功皇后以前の日本(倭国)の実史を知らず、日本書紀の編纂時には、六世紀前

 半に成立した「隋書」の記述を鵜呑みにして「邪馬台国=大和国」と思い込んでいた、

 

という、大和朝廷側と渡来系漢籍学者の二者の間に「相互不理解があり、この相互不理解をうやむやにしたまま、国家事業として日本書紀の編纂を遂行したことが、今日に到るまで、日本の上古代史の解釈を混乱させる要因となったことが分かってきました。

 

(1)大和国の吉備国平定を明記している古事記と、はしょっている日本書紀

 

 第七代孝霊天皇の「吉備」に関する記載を比較してみます。

 古事記(公表は西暦712年)では「吉備津彦二兄弟が吉備国を平定したこと」を明記しています。古事記から8年後に公表された日本書記(同720年)は、性格的に古事記を補足する意味合いもあって、通常は古事記よりも詳細に書かれていますが、どういうわけか、この節では古事記よりもあっけないほど簡潔となっています。 (注:文末の追記 参照)

 

(古事記)

大吉備津日子若日子建吉備津日子とは、二人相携えて、播磨(針間)の氷川に拠点を置き、播磨から吉備国を平定した(言向け和したまひき)。

大吉備津日子は吉備上道(備前)の祖である。

 若日子建吉備津日子は吉備下道(備中)と笠臣の祖である。

 日子寝間は播磨の牛鹿臣の祖である。

 日子刺肩別は越の利波臣、豊国の国前臣、五百原君、敦賀の海直の祖である。

(日本書紀)

二兄弟の吉備征服」については記載せず、あっさり「稚武彦(日子建吉備津日子)は吉備臣の始祖である」の一文だけに留めて、大吉備津日子、若日子建吉備津日子、日子寝間と日子刺肩別の四王子の子孫の紹介もありません。

吉備津彦兄(比古伊佐勢理毘古)の同腹の姉である夜麻登登母母曾毘賣(やまとととももそひめ。倭迹迹日百襲姫)は孝霊天皇の次の孝元天皇の王女である倭迹迹姫(やまとととひめ)と重複しており、父王は孝霊天皇ないし孝元天皇のどちらかと決めかねている印象を与えます。

 

 

(2)古事記と日本書紀の編纂方針の相違

 

 古事記も日本書紀も天武天皇の指示で、ほぼ同時進行の形で始まった、と推察されていますが、編纂意図の相違で両者の性格が異なっています。

 古事記は「虚偽を排除して、正しい帝記と旧事を伝えよう」とする目的で、渡来人系学者の意向が加味されていない純国産」であるのに対し、日本書紀は渡来系学者が編纂の主体となって、当時の国際情勢を意識した、国威発揚の色合いが濃厚な点に違いがあります。

 

1)古事記編纂の目的 

 古事記は、序文に言及されているように、天武天皇が「諸家が保有する帝記及び本辞(旧事)はすでに正しい事実と違い、多くの虚偽を加えている。今の時点でその失(あやまり)を改めないと、幾年も経ないうちに、その旨が滅びてしまう」と嘆いて、稗田阿礼(ひえだあれ)に勅令をくだして、帝記と旧事を暗誦させ、その口承伝承を太野安万侶(おおのやすまろ)が渡来系漢籍学者等の助けを借りながら、万葉仮名で文字化したものです。最大の目標は、壬申の乱の動乱などで混乱した王族や有力氏族の系譜や伝承を正しく規定することでした。

 太野安万侶は、先祖を第一王朝初代王の正后の長男「神八井耳かむやいみみ」とする、皇別氏族の意富(おお)氏の出自です。意富氏は次第に同じ皇別氏族の和邇(わに)氏にひけをとるようになりまますが、崇神天皇の時代には、西の肥前・肥後、東の常陸征服と大和による東西日本統一を実現させた立役者の一翼を担った名族です。代々、大和王家の伝承を伝える役割を担う一族だった、と考えられます。古事記は大和朝廷の視点から見た純粋な日本の作品と言えます。

 

 着目すべき点は、以下の二点です。

「邪馬台国」に関する知識が欠如している

 古事記を先入観念なしに冷静に読んでいきますと、「邪馬台国の女王である卑弥呼と台与に該当する言及も系譜」は見当たらず、「帯方郡・魏と交流があった国」も見当たりません。

 ということは大和朝廷は「邪馬台国」、「卑弥呼・台与」という名称を知らず、知識もなかったことを示しています。大和朝廷が「邪馬台国」であった場合は、何らかの形で帯方郡・魏との交流を伝承として残していることは必然です。

 

各王の寿命年齢は、「一年二倍説」に沿うと、ほぼ妥当と言える

 歴代王の寿命(年齢)が記載されていますが、三国志・魏志倭人伝で「魏略に曰く。その俗、正歳四節(四季)を知らず。但し春耕、秋収(穫)を記し、年記となす」を考慮しますと、中国暦が導入されるまでは、「一年が春秋(春期と秋期)の一年二倍説」であった可能性が強くなります。

 第十代崇神天皇の168歳(但し日本書紀では120歳)、第十一代垂仁天皇の157歳(同140歳)は長すぎる感はいなめませんが、神武天皇の137歳(実年68.5歳)、孝安天皇の123歳(同61.5歳)、孝霊天皇の106歳(同53歳)と、大まかな辻褄は合います。

 

 

2)日本書紀編纂の目的 

 日本書記は、天武天皇の治世十年に、複数の王族と有力氏族に「帝紀及び上古の諸事を記し定めること」を命じて、国家事業として着手されました。

 編纂の統括者は天武天皇の王子である舎人親王ですが、主要な編纂者は渡来してきた唐人で、大学の音博士であった続守言と薩弘格が「非倭習」部分を、新羅に留学した学僧である山田史御方が「倭習」部分を分担して編纂した、と推定されています。編纂過程では、有力氏族や東漢氏を中心とした百済系の漢籍学者、遣唐使から帰国した学者等の意見もあったことでしょう。

倭習は第1~第13(神代~允恭・安康)、第2と第23、第28と第29、非倭習は第14~第21(雄略~用明・崇峻)、第24~第27≫

 

 時代は白村江の戦いで唐・新羅連合に敗北して、再出発をはかっている頃です。唐・新羅軍の襲来を懸念して筑紫地方では防人(さきもり)が配置される一方、平城京の都の建造が始まっています。

 編纂の目標は、中国の歴史書に対抗できる、「きっちりした編年体」の歴史書の完成です。渡来系御用学者や遣唐使の経験者の中から「古事記の内容では唐や新羅の歴史書よりも低く見られてしまう」という声も上がったことでしょう。唐・新羅への対抗意識から、ことに朝鮮半島との接触が強まる、神功皇后以降からが重視され、百済を主体とした朝鮮・中国との対比、中国・朝鮮の歴史書の知識が加味されて、「純国産の域」を飛び越えています。

 古事記に対する批判、反省も強まりました。ことに

神代篇などでの異伝の紹介による古事記の補完の必要性、

古事記には生没年の記載がないことから、編年体での神武天皇以降の歴代王の生没年の明記が渡来系学者に託され、期待されました。

 

 

(3)なぜ日本書紀が神功皇后=卑弥呼・台与を同一視したことへの疑問が湧かなかったか

 

 歴代王の生没年が明記された編年体の歴史書を完成させることは、大和朝廷側と渡来系漢籍学者の両者に共通していた目標でしたが、

大和朝廷側は邪馬台国・卑弥呼・台与の実像を知らなかった、

渡来系漢学者は神功皇后以前の倭国(日本)の実史を知らなかった、

という、両者の相互不理解から、大きな矛盾が生じたことが、今日に至るまで諸説が紛々としてしまう要因となってしまいました。

(歴代王の生没年の決定)

 古事記と日本書紀の大きな違いは、

古事記の内容を伝承した稗田阿礼は「邪馬台国、卑弥呼・台与」の存在を知らず、編纂者である太野安万侶は「邪馬台国、卑弥呼・台与」の存在を聞いていたとしても、その重要性に気付かなかった、

日本書紀の編纂者は一世紀ほど前に公表された隋書の「倭国は邪靡(摩)堆に都す、則ち、『魏志』のいわゆる『邪馬台』なる者なり」の記述にそって「邪馬台国=大和国」を信じて疑わなかった、

にあります。

 西暦608年に隋使の裴世清(はいはいせい)一行が来日した際に、通訳をした先住の渡来系漢籍学者たちとの間で「三国志などで紹介されている邪馬台国はどこか」という議論が起こり「邪馬台国=大和邪靡堆)」とする結論に達して、それ以後、渡来系学者たちの間では「邪馬台国=大和国」で固定化していたことも考えられます。

 

 渡来人系学者は、神武天皇以降の帝記(王朝系図)の中に、実年代が確実な「卑弥呼と台与」の該当者を物色しましたが、男王だけで女王を見つけ出すことができません。

 そこで「神功皇后」に着目して「卑弥呼・台与」にあてることを思いつきました。これにより、実年より120年早めた年代基準の方向が決定しました。推古天皇9年(601年)の辛酉の年を基点として神武天皇の即位を紀元前660年に規定されたと見る説もありますが、その場合でも「神功皇后=卑弥呼・台与説」が基点となっています。 

 

 邪馬台国・卑弥呼・台与の伝承がなく、実像を知らない朝廷(日本)側の多くは、240年対360年の120年の時間差に気付かず、神功皇后とヒミコ・トヨの同一視にも疑問を抱きませんでした。さらに神功皇后は朝鮮半島への倭軍進出を始めた源であることから、対唐・新羅に対する誇示につながる、として「神功皇后=卑弥呼・台与説」を歓迎しました。

 渡来系学者や日本側の知識人の中には、120年の時間差に気付く者もいたでしょうが、編年体化を優先事項とする大勢にとっては「460年前と340年前との時間差は、どうでもよい」雰囲気でした。それでも「神功皇后=卑弥呼・台与」を断定するのではなく、神功紀の中に、あたかも「神功皇后=卑弥呼・台与」との印象を与える書き方で焦点をぼかす、という配慮をしています。

 結果として、五世紀になって渡来系学者が来朝するようになって文字が一般化してからが「日本の歴史時代の始まり」、それ以前の「神功皇后」から前の時代は「神話の世界」という線引きが固定化してしまい、現代まで尾を引いています。

 

 

(4)日本書紀が吉備平定をはしょった理由

 

 ここで「吉備」の話しに戻ります。

 

 古事記では「大和国の吉備国平定が、日本統一へのきっかけとなったことを認識しており、吉備津彦一族を詳しく記録しています。

 

 日本書紀が吉備津彦一族の紹介を省いた理由として以下の二点が考えられます。

渡来人系学者側は、隋書に従って「邪馬台国=大和国」を信じて疑わず、吉備津彦兄弟の吉備国制圧は、「大和朝廷に対する地方国の反乱・抵抗したレベル」、「平定ではなく、鎮圧」と見なして重要視しなかった。

吉備に詳しい人の中には、邪馬台国は吉備国であり、大和国が倭国の盟主である吉備を平定して東西日本の統一を作ったことを、うすうす気付いていた人も存在したかもしれませんが、中央政府の意向に沿って沈黙した。あるいは日本書紀の編纂者側の中にも、邪馬台国は吉備国であることに気づいていた人物もいたので、「邪馬台国=大和」の趨勢の中で、「大和の吉備津彦による平定」については省略する方向を選んだ。

 

 邪馬台国が大和ではなかったとすると、邪馬台国九州説を筆頭に、各地の邪馬台国町おこし提唱者が勢いを盛り返そうとする気運も高まっていくことも予想されますが、

ウラ(温羅)伝説

伽邪国を連想させる「賀陽」の地名

鯉喰神社弥生墳丘墓と楯築遺跡

と、邪馬台国に関する伝承と史蹟の両者が揃っているのは「吉備」のみであることを忘れないでいただきたいものです。

 

 

(付記)

 

孝霊天皇(大倭根子日子賦斗邇、大日本根子彦太瓊。ふとに王)

 

古事記 (王子5人、王女3人)

細比賣(くしはしひめ。十市縣主の娘)を娶って、大倭根子日子国玖琉(くにくる。孝元天皇)を生む。

春日の千千速真若比賣(ちちはやまわかひめ)を娶って千千速比賣(ちちはやひめ)を生む。

意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おほやまとくこあれひめ)を娶って、夜麻登登母母曾毘賣(やまとととももそびめ)、日子刺肩別(ひこさしかたわけ)、比古伊佐勢理毘古(ひこいさせりびこ。大吉備津日子)、倭飛羽矢若屋比賣(やまととびはやわかやひめ)を生む。

蠅伊呂杼(はえいろど。阿禮比賣の妹)を娶って、日子寝間(ひこさしま)、若日子建吉備津日子(わかひこたけきびつひこ)を生む。

大吉備津日子若日子建吉備津日子とは、二人相携えて、播磨(針間)の氷川に拠点を置き、播磨から吉備国を平定した(言向け和したまひき)。

大吉備津日子は吉備上道(備前)の祖である。

 若日子建吉備津日子は吉備下道(備中)と笠臣の祖である。

 日子寝間は播磨の牛鹿臣の祖である。

 牽日子刺肩別は越の利波臣、豊国の国前臣、五百原君、敦賀の海直の祖である。

日本書記 (王子5人、王女2人)

細媛(ほそひめ)あるいは春日の千乳早山香媛(ちちはややまかひめ)ないし真舌媛(ましたひめ。十市縣主らの祖の娘)を娶って、大日本根子彦国牽(くにくる。孝元天皇)を生む。

倭国香媛(やまとのくにかひめ、又の名は某姉はえいろね)を娶って、倭迹迹日百襲姫(やまとととびももそひめ)、彦五十狭芹彦(ひこいさせいびこ。吉備津彦兄)、倭迹迹稚屋姫(やまとととわかやひめ)を生む。

某弟(はえいろど。某姉の妹)を娶り、彦狭嶋(ひこさしま)、稚武彦(わかたけひこ)を生む。

稚武彦は吉備臣の始祖である。

  

孝元天皇

古事記

内色許売(うつしこめ)を娶り、大毘古少名日子建猪心(すくなひこたけいごころ)、若倭根子日子大毘毘(おおびび。開化天皇)を生む。

日本書紀

鬱色謎(うつしこめ)を娶り、大彦稚日本根子彦大日日(開化天皇)、倭迹迹姫(やまとととひめ)を生む。

 

 

 

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