吟遊詩人がつづる「日本の神々」

 

〔4〕有明海の神々    (地方の神々篇)

 

1.有明海を囲む三国

 有明海を取り巻く肥前、筑後と肥後には遠い遠い昔から、地元民が慕う神さまが棲んでおられました。有明海の奥まった北部に位置する肥前は与止日女(よどひめ)、東側に位置する筑後は高良玉垂(こうらたます)、南部に位置する肥後は阿蘇津彦・阿蘇都比咩(アソツヒメ)の夫婦神ですが、いずれも淡路島を中心に誕生したイザナギ・イザナミ神話とは無縁の神々です。

 

(1)肥前の神ヨドヒメ

 ヨドヒメは後世になってから、応神朝の開祖である神功(じんぐう)皇后の妹神と遇されるようになりましたが、それ以前から佐賀平野をうるおす嘉瀬川の上流、川上川に棲む女神でした。

 理由は定かではありませんが、佐賀平野は女性天下の地域で、首長や巫女(みこ)として活躍している女性が目立ちます。ヨドヒメの守り役としては、川上川の南にオオヤマダメ(大山田女)とサヤマダメ(狭山田女)、西の嬢子(おみな)山にヤソメ(八十女)たちが陣取っておりました。

 毎年、春の田植えと秋の収穫が一段落すると、皆が打ちそろって、西南にある杵島(きしま)山に登って、男女が歌い踊り、恋のささやきをする歌垣の祭りを楽しんでいました。三峰からなる杵島山は比古(ひこ)と比賣(ひめ)の夫婦神と息子の御子(みこ)の三神が棲んでいましたが、御子は佐賀平野を守る軍神でもありました。

 

(2)筑後の神コウラタマス

 筑後を守るコウラタマスは筑後川を見下ろす高良山に棲み、筑後川の上流にあたる豊後の日田(ひた)から河口まで睨みをきかしていました。淡路島を拠点に日本列島を形作ったイザナギ・イザナミ、出雲の島根半島を造ったヤツカッヅズオミヅノ(八束水臣津野)のように、九州の島を造ったのはコウラタマスの神だったと信じる人も多くありました。機嫌が悪くなったり、怒ったりすると筑後川が荒れ、氾濫して渡ることができません。

 気性が荒い欠点もありましたが、女性達が一目惚れしてしまう美男子でもありましたから、お忍びで通う女性はあまたおりました。その数があまりに多いせいか、まだこれぞと見込んだ正后はおらず、肥前のヨドヒメを正后にしたいと願っており、毎年、大魚となって小魚の大群を引き連れて、ヨドヒメのご機嫌を伺いに嘉瀬川を遡上していきます。付き従う家来たちも肥前の女性たちとの逢瀬を楽しみにしていました。

 

(3)肥後の神アソツヒコ

 肥後のアソツヒコは阿蘇山に棲み、火を噴く神として畏敬されていました。外から見ると恐そうなアソツヒコは内側から見ると、外戚にあたる正后アソツヒメの一族に牛耳られて、肩身が狭い日々を送っていました。

 阿蘇に棲む神々の順位は第一位はアソツヒコ、二位が正后アソツヒメでしたが、三位と四位はアソツヒメの両親クニタツ(国竜)とヒメミコ(比咩御子)が占め、アソツヒメの兄弟ニイヒコ(新彦)が七位、その后ニイヒメ(新比咩)が八位、二神の息子ワカヒコ(若彦)が九位、ニイヒコの別の后ヤヒメ(弥比咩)が十位に配置されていました。アソツヒコとアソツヒメの息子ハヤミカタマ(速瓶玉)は本来は後継ぎとして第三位の位置にあるべきでしたが、外戚たちが盛り立てているアソツヒコとアソツヒメの孫ヒコミコ(彦御子)とその后ワカヒメ(若比咩)の五位と六位に対し、十一位と壁際に追いやられていました。十二位はアソツヒコの叔父カナコリ(金凝)でした。

 

2.有明海をはさんだ三神の交友

 日本海側に面している肥前の北部はヨドヒメの管轄外でした。この地域は古くから壱岐島と対馬を中継した朝鮮半島や中国大陸との交易で栄えていましたが、交易は東に位置する筑前の伊都国と奴国が牛耳り、半島や大陸から流入する文化や舶来品は、南の有明海三国よりも、日本海を北上するか、瀬戸内海を東上するかの東への流れが主体でした。吉備邪馬台国の勢力が奴国と伊都国に及んだ後もこの構図は変らず、基山(きやま)が筑前と肥前、肥後の自然の国境となっていました。もちろん、有明海の三国にも独自のルートで機織りたちが訪れてくるなど半島とのつながりを持っておりましたが、奴国以東の影響はあまり蒙らず、有明海の三神がもちつもたれつの関係で平和な日々を送っていました。

 

 ヨドヒメはコウラタマスが思いを寄せ、正后の座を用意していることを承知していましたが、数々の浮いた話を流してきたコウラタマスは、いざ、自分のものにしてしまうと、それまで浮気を流してきた女性と同様に、別の新たな女性に気移りして、自分もあまたの女性の一人になるだけと達観していました。ヨトヒメを囲む女首長や巫女たちも、ヨドヒメがコウラタマスに輿入れすると、肥前の国は筑後に乗っ取られてしまうことを危惧していました。しかし敵が押し寄せると、女中心の肥前はもろく、筑後の男の力を頼みにしなければならない弱みもありましたので、つかず離れずの関係を維持していました。

 

 阿蘇で肩身が狭い日々を送っているアソツヒコはアソツヒメの目を盗んで、阿蘇名産の凝灰岩(ぎょうかいがん)に彫った大小の彫像を片手に足繁く嘉瀬川に通い詰めるようになりました。小さめの彫像は自分の味方につけようと、ヨドヒメのお付きの女性達に配ります。それを横目に見ながら、コウラタマスはそ知らぬ顔をよそおっていましたが、内心はヨドヒメを横取りされてしまうのではなかろうかと穏やかではなく、肥前のヨドヒメをめぐって、筑後の高良神と肥後の阿蘇神の微妙な三角関係が続いていきます。

 

 

3.大和軍の侵入

 有明海の平穏を破ったのは大和軍でした。タケコロ(建許呂)を頭とするアマツヒコネ(天津彦根)族が吉備邪馬台国を破った勢いに乗じて西国諸国を次々と陥れ、遂に筑前を制覇してからでした。西暦270年代前半のことでした。筑紫の統括者として筑紫刀禰(つくしとね)に就任したタケコロは引き続いて筑後と肥前の制圧を目論みましたが、コウラタマスの陣頭指揮もあって、筑後と肥前の勢力は基山(きやま)で大和軍の南下を食い止めることができました。

 そこで大和朝廷は九州制覇の第二陣として大和の初代王イワレビコ(伊波禮毘古)の皇子カムヤイミミ(神八井耳)を祖とする意富(おう)氏のタケヲクミ(健緒組)を送り込みました。伊予から豊後に入ったタケヲクミ軍は日田から筑後川を下っていく筑後ルートを回避して、難攻不落と言われていた阿蘇越えを選びました。タケヲクミ軍の先鋒は大和に敗れた吉備邪馬台国の捕虜兵たちを中心に構成されていました。

 

 豊後の土グモを蹴散らしながら竹田まで進んだタケヲクミ軍は果敢に阿蘇に攻め入りました。アソツヒコ親子と外戚のきしみが災いして、足並みが不揃いだった阿蘇軍は意外に脆く、外戚たちが早々と白旗をあげてしまいました。タケヲクミ将軍は戦勝を祝って、イワレビコの孫神で意富氏の祖神であるタケイワタツ(健磐龍)を阿蘇に祀りました。後年になってタケイワタツとアソツヒコは同一の神と見なされるようになりましたが、元々は別々の神です。 

 肥後の最後の砦となった益城(ましき)郡の朝来名(あさくな)峯に打猴(うちさる)と頸猴(うまさる)が徒衆(ともがら)百八十人余りを率いて陣取って奮闘しましたが、捕虜兵のタケカシマ(建鹿島)の獅子奮迅の活躍であえなく陥落してしまいました。

 白河(しらかわ)と緑川の流域を制したタケヲクミ軍は熊本で二手に分かれました。南下したタケヲクミは八代郡の白髪山で不知火(しらぬい)を目撃しました。数年後、大和に戻って、ミマキイリヒコイニエ(御真木入日子入恵)王に肥後の不知火を報告してタケクミは「火君」の称号を賜わりました。

 対岸の雲仙に渡ったタケカシマは島原の半島を北に進んで杵島まで占拠しました。ヨドヒメたちが頼りにしていた御子神はタケカシマ(建鹿島)の刃にかかって憤死をとげてしまいました。困ったヨドヒメや巫女たちは、筑後のコウラタマスに助けを求めます。巫女たちの中には筑後に逃れてコウラタマス配下の男の妻となるものもおりました。コウラタマスはヨドヒメに自分の真価を見せ付け、正后に迎える好機到来と存分に力を発揮しましたから、吉備邪馬台国出身の捕虜を主力とするタケカシマ軍も塩田川を境に北上を断念せざるをえませんでした。

 

 こう着状態が数年続いた後、イサセリビコ(伊佐勢理毘古。吉備津彦兄)を将軍とする大和の第三陣が筑前にやって来ました。兵士の数は筑後と肥前の兵士をはるかに上回る数万の大軍でしたから、肥後のタケヲクミ軍と挟み撃ちにされる状態で、あっという間に筑後と肥前はイサセリビコ軍に呑み込まれてしまいました。大和は九州南部の熊襲を除いて、九州制覇を成し遂げました。アソツヒコに次いで、コウラタマスとヨドヒメも軟禁状態となり、その行方は大和次第となりました。

 

4.大和支配下で平和を取り戻す

 幸いなことに、大和軍の総帥となったイサセリビコは情に厚い、太っ腹の人物でした。イサセリビコは肥前、筑後と肥後の神に対し寛大な処置をとり、三国の土着の神であるヨドヒメ、コウラタマス、アソツヒコをこれまで通り敬慕することを住民に認めましたが、同時に大和の威信を誇示すべく、イザナギとイザナミが九州に振り分けた神々を、新生倭国の西端を守る神として雲仙岳に祀りました。

 筑紫(筑前と筑後)は白日別(しらひわけ)、肥国(肥前と肥後)は速日別(はやひわけ)、豊国(豊前と豊後)は豊日別(とよひわけ)、熊曽国は建日別(たてひわけ)でしたが、イハレビコの故地である日向国の豊久土比泥別(とよくじひねわけ)も加えて、五神とする場合もあります。

  (注:古事記では建日向日豊久土比泥別を肥国としていますが、意味合いから判断すると速日別が肥国とするのが無難です。)

 

「筑前と筑後の神さまがシラヒワケ、肥前と肥後の神さまがハヤヒワケになるそうだ。ヨドヒメ、コウラタマスとアソツヒコと、どう棲み分けたらよいのだろう」。

 有明海三国の住民は寝耳に水の御触れを聞いて、戸惑いながら首を傾げましたが、少なくともヨドヒメ、コウラタマスとアソツヒコの命運は保証されたことを知って胸をなでおろし、住民たちはそれまで以上の尊敬の念で三神を祀ります。

 こうして三国は大和政権下で平穏を取り戻しましたが、大和と有明海三国の関係を示すかのように、地元勢力の不穏な動きを察知すると雲仙岳が噴火し、逆に大和の要求が過酷すぎると阿蘇岳が噴火し、筑後川と嘉瀬川が氾濫します。三神の微妙な三角関係も復活して、いまだに尾を引いています。

 

有明海の神々を祀る代表的な神社

与止日女を祀る神社 与止日女神社(佐賀県佐賀郡大和町川上)

高良玉垂を祀る神社 高良大社(福岡県久留米市御井町)

阿蘇津彦・阿蘇都比咩を祀る神社 阿蘇神社(熊本県阿蘇郡一の宮町宮地)

九州の四ないし五神を祀る神社 温泉神社(長崎県南高来郡小浜町雲仙)

 

 

 

[5]信濃の神々  (地方の神々篇)

      (参照 吉備と出雲の勃興3.「オオクニヌシと日本海」

 

1.イクシマ(生島)・タルシマ(足島)神

 イザナギ・イザナミが日本列島を形造る、ずっと以前の縄文時代から、東日本の村々ではイクシマ(生島)とタルシマ(足島)の夫婦神が崇められていました。イクシマとタルシマは、代々、自分たちが住み着き、住み慣れている大地を守り成長させる国魂(くにたま)の神さまでした。縄文人は日本列島全体の形状はまだ知らず、天と地と下界の認識もありませんでした。集落には外部から侵入する疫病や害悪を防ぐ塞(さい)の神(ミシャグジ)の依り代(よりしろ)となる樅(もみ)の木の御柱(おんばしら)が天高くそびえ立っておりました。

 

 日本海に注ぐ越後の信濃川の上流である千曲川の周辺に居住する縄文人は拠点とする集落に定住する人も季節の変化に応じて移動する人々もおりましたが、鹿や猪、秋に遡上する鮭を主体にした川魚の狩猟、山菜や栗・胡桃・どんぐりの採集に加えて、雑穀や野菜を育てるささやかな焼畑農業も始めていました。北の日本海、南の太平洋から遠く離れた内陸部の山岳地帯でしたが、山や森や河に棲息する精霊たちの宝庫でした。

 

 

2.タケミナカタ(建御名方)の侵入

 隣り合わせる部族とのいがみ合いや小競り合いはもちろんありましたが、大規模な戦いも知らず、平和な日々を送っていた千曲川の住民の平穏を破ったのは西暦2世紀前半に、出雲のオオクニヌシ(大国主)の王子タケミナカタ(建御名方)軍の侵入でした。

 タケミナカタはオオクニヌシと越中・越後の盟主オキツクシイ(意支都久辰)の娘ヌナカワヒメ(奴奈川姫)との間に生まれ、異母兄のアヂスキタカヒコネ(阿遲鉏高日子根)と共に出雲の神門湾の王宮で育ちました。気弱な兄アヂスキタカヒコネに較べて、幼い頃から武芸に秀で、大人になったら信濃を制覇することを父オオクニヌシに公約しており、オオクニヌシもその実現を楽しみにしていました。

 

 軍勢は直江津から飯山経由で信濃に入り、千曲川沿いに上がって小布施(おぶせ)で最初の強敵に遭遇します。敵は鉄鏃も鉄剣も、青銅製の刀剣も持ちませんでしたが、弓矢にすぐれ、屈強で手強い相手でした。それでも粘り強く戦い続けて小布施を征することができました。

 次の強敵は千曲川の上流の上田で待ち構えていました。敵は攻めると山に逃げ、夜間にゲリラ戦で急所を攻めてくる巧妙さで、タケミナカタ軍を苦しめます。

 攻めあぐんだタケミナカタは戦術を見直して贈り物作戦に切り替えました。まず集落に住む女性達の懐柔を試みます。武器を持たずに集落を訪れたタケミナカタの部下たちは、越特産のヒスイに加えて出雲の花仙山産の碧玉(青メノウ)の珠や勾玉をばらまきました。それになびいて出雲の兵士の恋人となる集落の乙女も出てきました。その様子を見て心配そうに山から集落に下りて来る男達もおりました。

 

 頃おいを見て、タケミナカタは敵の本陣を訪れ、首長たちに鉄剣や鉄鏃などの鉄製武器、絹製の錦、青銅鏡などを見せつけました。

「見てのとおり、出雲には貴殿たちが羨望する品々がどっさりある。出雲と手を組むとこうした品々を手にすることができ、貴国はさらに繁栄していく。我が軍と戦いを続けて消耗していくより得策ではないか。信濃を征服したあかつきには貴殿を上田の郡主(縣主)としてとりたてよう」と直談判をしました。

 宝飾に目がくらんだ女性達の後押しもありましたが、タケミナカタが持ち込んだ品々に首領たちの目もくらんでしまったようです。イクシマ(生島)とタルシマ(足島)を祀り続けること、御柱の儀式の継続を条件に首領たちはタケミナカタに恭順しました。

 

 一団は上田の生島足島族の案内で和田峠を越えて諏訪湖に入ることができました。諏訪湖周辺は諏訪湖に棲む竜神を祖とする一族の領域でした。上田と同じ贈り物作戦で湖を囲む村々を手中にすることができましたが、しばらくするうちに集落の市場に入ってくる品々から、諏訪湖は日本海と太平洋、東本州と西本州の分岐点に位置していることが分りました。

 諏訪湖に発し伊那谷を下って太平洋に注ぐ天竜川をとりまく森林には、遠くから望むと箒を立てた形に見えますが、近くに寄ってみると形が見えなくなる伝説の樹木「帚木(ははきぎ)」が存在することも知りました。森林に棲む精霊のいたずらでしたが、そうとは知らないタケミナカタはその正体を見極めようと、 帚木を追って伊那谷を下っていきました。とうとう恵那山がそびえる美濃と遠江の国境に位置する園原(そのはら)までたどり着きましたが、疲れきった部下達が不平をもらしだしたこともあって、タケミナカタは帚木の追跡を諦めて、諏訪湖に戻りました。

 

 諏訪に戻ったタケミナカタは諏訪湖の竜神一族の娘ヤサカトメ(八坂刀売)を后に迎え、信濃を統括する宮殿を構えました。御子神は十三柱と子宝に恵まれましたが、期待はずれだったことは、月の輪熊や鹿、イタチ、ムササビなどの毛皮の宝庫ではありましたが、ヒスイ、銅や鉄など期待した鉱物資源を発見できなかったことでした。山国の信濃は気候が寒冷すぎて水田耕作には不適な土地柄でしたから、年貢として米を出雲に上納することもできません。一計を案じたタケミナカタは納税・年貢の代りに農民や子息たちを出雲の王宮を警護する近衛兵として送り込む制度を思いつきました。

 

 

3.意富族の信濃入り

 出雲文化の下で貧しいながらも平穏な日々が百数十年続きました。信濃の女性達は近衛兵の仕事を済ませた夫や息子が出雲から持ち帰る絹の錦や碧玉の勾玉・ペンダントなどの品々を楽しみにしていました。

 

 再び平穏が破られたのは280年代半ばのことでした。今度は北の日本海からではなく東からでした。初代王イワレビコ(伊波禮毘古)の皇子カムヤイミミ(神八井耳)を祖とする意富(おう)氏のタケヲクミ(健緒組)の息子たちが率いる大和軍が、東国との境の碓氷峠を越えて上田に襲来しました。

 その前兆として第十代ミマキイリヒコイニエ(御真木入日子入恵)王(崇神天皇)による日本統一四道将軍の一人であるタケヌナカハワケ(武渟川別)一行が美濃から伊那谷を上って諏訪湖に入り、東国への道案内を乞うてきたことがありました。日本海の出雲とは違う、太平洋側の王国が肥大していることを噂では聞いていましたが、諏訪に陣取るタケミナカタの子孫たちや村々の首長たちは、太平洋側との交易が拡大することを期待がして丁寧に応対し、諏訪から上田、碓氷峠まで案内をつけました。タケヌナカハワの一行は村々の首領に銅鏡を配りながら碓氷峠を越えていき、数か月後、復路も信濃を通過して大和に戻りました。

 

 大和に戻ったタケヌナカハワは、あたかも東国を制覇したかのように吹聴しましたが、時が経過するうちに、実際は上野と下野を通過して、岩代の会津で父オオビコ(大彦)と再会したにすぎず、広大な関東平野に広がる常陸、武蔵、房総の国々は手つかずだったことが判明し、義兄であるミマキイリヒコイニエ王の不信が強まります。その以前から外戚であるオオビコ・タケヌナカハワケ親子の勢力拡大を警戒していたイニエ王は東国征伐からタケヌナカハワケをはずし、九州の肥国征伐で武勲を高めた意富氏と吉備邪馬台国の捕虜兵から出世したタケカシマ(建鹿島)を抜擢しました。

 伊勢から海路、常陸の霞ヶ浦の入海に入った大和軍は攻めあぐねた土グモをタケカシマの機転により退治した後は、向うところ敵なしの破竹の勢いで下野、上野を制覇し、東国制覇に目処をつけました。そこに浮上した問題は、大和、伊勢と尾張から東国に陸路で入る東海道は富士山の噴火で裾野が塞がれ、駿河と相模の間が足止めとなっていたことでした。このため東国への兵士の移動や武器・物資の輸送は船に依存せざるをえませんでした。海路は陸路よりも大量輸送には勝れていましたが、嵐で転覆、難破するとすべてが気泡に帰して危険度が高い欠点があります。何としても安全度が高い陸路ルートを固める必要がありました。そのためには尾張、美濃から信濃を経由する東山道を確保するしかありません。意富軍は東国をアマツヒコネ族のチクシトネ(筑紫刀禰)に任せて、信濃攻略に着手しました。 

                                     

 そうした事情を知らない上田の首長は今回も快く大和の一行を迎え入れました。すぐに前回のタケヌナカハワケとは違い、信濃に攻め入る侵略軍であることを感ずきましたが、もはや手遅れでした。加えて運が悪いことに、出雲の国王フルネ(振根)の要請で、通常の近衛兵に加えて多くの兵士や農民が出雲に送られていましたから、信濃国内の警護は手薄状態になっていました。 兵士の数で圧倒していた意富軍は上田を攻め落とし、上田に本拠地(科野大宮社)を構えて、あっという間に信濃を占領してしまいました。

 

 

4.タケカシマとタケミナカタ

 信濃の攻略で東国の支配も確実になったミマキイリヒコイニエ王は日本統一で最後に残された西出雲王国の征伐に取り掛かりました。

 出雲はアメノホヒ(天穂日)族が制覇したはずでしたが、次第に征服したのは意宇郡を中心にした東出雲だけで、西出雲王国は依然として独立を継続していることが判明しました。信濃が送ってくる近衛兵の増強もあって西出雲王国の防御の壁は固く、東出雲の大和軍は中々、西出雲に攻め入りすることができません。出雲に駐在する信濃の近衛兵たちは、故郷が大和軍に征服されたことを憂えて、信濃奪還を計画していました。

 膠着状況が続く中で、意富氏タケオクミの推薦もあって、イニエ王は常陸駐在のタケカシマを切り札として送り込むことを決めました。タケカシマは出雲王国の姉妹国である吉備邪馬台国の兵士でしたから、出雲王国の事情にも詳しく、何らかの突破口を開いてくれるだろう、との期待を抱いたからです。

 

 その頃、西出雲王国はフルネ(振根)王が絶対的な権力を握り、軍事大国の道をまっしぐらに進めて、農民たちに重税を課していました。筑紫諸国の残党や壱岐国、対馬国、あわよくば半島の伽邪諸国も巻き込んで、反大和同盟の結成を目論んでいました。その協議に向けて壱岐島に出掛けていました。留守中は弟のイヒイリネ(飯入根)がアヂスキタカヒコネに加えて父神のオオクニヌシを、もう一人の弟ウマシカラヒサ(甘美韓日狭)と息子ウカヅクヌ(鸕濡渟)が島根半島のコトシロヌシ(事代主)を祀っていました。

 武神タケミカヅチ(建御雷、武甕槌)と剣神フツヌシ(経津主)を掲げて、船団を率いて西出雲の伊那佐の小濱(をばま)に到着したタケカシマは、吉備王国出身の自分の体験を語りながら、時代の流れは大和に傾いていることを順々とイヒイリネ、ウマシカラヒサに語り、恭順を説得します。

 

 兄が課す重税に苦しむ農民達を見かねていた、心やさしいイヒイリネはタケカシマに同調し、ウマシカラヒサも恭順に同意して、出雲の財宝を差し出しました。ところが大和に怨みを抱くタケミナカタを信奉する信濃の近衛兵は大和への恭順を拒みました。やむやくタケカシマと信濃の近衛兵たちは衝突しますが、タケカシマ軍に力負けし、屈した近衛兵たちはこれからは信濃に閉じこもることを公約しました。

 西出雲に戻って来たフルネは弟たちが勝手に国譲りをしてしまったことを知って激怒します。イヒイリネを斐伊川の止屋(やむや)の淵に誘って、騙まし討ちで殺してしまいました。恐れおののいたウマシカラヒサは息子ウカヅクヌを伴って意宇郡のアメノホヒ軍のもとに逃げ込みました。

 朝廷は吉備にいる吉備津彦兄弟一族と筑紫に移動していたタケヌナカハワケに西出雲への進軍を命じました。東のアメノホヒ軍に加えて、南と西から攻撃されたフルネ軍は総崩れとなり、西出雲王国は崩壊し、ミマキイリヒコイニエ王は東西日本の統一の偉業を成し遂げました。

 

 信濃は新たな支配者である大和の下で、経済的にも人的交流でもそれまでとは一皮向けた発展を遂げていきます。大和の東国支配の陸(東山道と北陸道)の中継点として、西国と東国、表日本と裏日本を結ぶ主要交易街道の交差点として賑わいを増していきます。出雲の捕虜兵士や村人が信濃経由で、東国、ことに最後の強敵である武蔵の制覇と開拓に送り込まれるようになりました。

 信濃に閉じこまることを約束した近衛兵たちは四方を御柱に囲まれた聖域に祀られるタケミナカタやイクシマ・タルシマなど信濃の神々を守り続けています。

 

 

信濃の神々を祀る代表的な神社

生島足島神社 (長野県上田市下之郷)

生国魂(いくくにたま)神社 (大阪府大阪市天王寺区生玉町)

諏訪大社 上社本宮(長野県諏訪市中洲字宮山)

               上社前宮(長野県茅野市宮川字宮山)

               下社春宮・秋宮(長野県諏訪市下諏訪町)

        上社はタケミナカタ、下社はヤサカトメが主神です。

科野大宮社 (長野県上田市常田)

     初代の科野国造である神八井耳(カムヤイミミ。意富氏の祖)の孫(子孫)タケイオタツ(建

     五百建、建五百連)が建立。科野国造の宮殿があった場所と伝わります。

 

 

 

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