その39.夕霧               50

 

4.ル・リヴォ夫人急逝後、夕霧のオービュッソン訪問

 

 いつの間に知れたのかと驚くほど、あちらこちらから弔問の使いが来ました。夕霧元帥もことのほか驚いて、すぐに使いを立てました。ヒカルからもアントワンからも、他の諸々の人たちからも弔問がひっきりなしにありました。修道院に住む朱雀院も聞いて、まことにしみじみとした弔いの手紙があって、落葉上は父からの手紙で、ようやく頭をもたげました。

 朱雀院からの手紙には、「長らく、ル・リヴォ夫人が重く患っておられると聞いていたが、いつも病気がちとばかり聞き慣れていたので、つい油断してしまっていた。歎いても仕方がないことはいたし方がないものの、貴女がどんなに思い悲しんでいるか、その様子を想像すると、何とも気の毒で心苦しく感じます。これもすべて世の中の定めだと考えて、自分を慰めて下さい」とありました。落葉上は涙でよく見えないものの、すぐに返信をしました。

 

 日頃から「遺体はすぐに埋葬して欲しい」と話していたので、「今日にでもただちに葬送しなければ」と夫人の甥のパリ知事が万事のことを取り仕切りました。「せめて遺骸をもうしばらく見ていていたい」と落葉上は名残を惜しんでいましたが、「もう仕方がありません」と皆が急ぎの仕度で騒ぎ立ている最中に、夕霧がやって来ました。

「今日でないと、その後は日柄が悪いから」などと人前を繕いながら、心中では「落葉上はさぞかし悲しんでいることだろう」と推察して、「そんなに急いで訪問すべきではありません」と周りの人たちが引き止めたものの、無理をして訪れました。

 道のりは遠く、ようやく山荘に着くと寂しさに包まれていました。不吉な感じを引き離そうとしているかのように仕切りで囲んだ式場を隠すようにして、侍女たちは夕霧を例の西側のテラスに案内しました。パリ知事が出てきて、涙を浮かべながら来訪の礼を述べました。テラスの張り出しにもたれながら、夕霧は侍女を呼びましたが、誰も誰もが落ち着かずにいて、どうしたら良いか分からないでいました。こうやって弔問にやって来たことに少しは気を持ち直したのか、少将の君が応対に出て来ました。

 

普段は涙もろくもない気丈な人なのですが、夕霧は物も言えないまま、侘しい山荘の人々の気配を思いやるとたまらなくなって、「無常な世の中の摂理は自分に身近な人にも同様なのだ」と非常に悲しくなりました。しばらくためらってから、夕霧は「病状が良くなられたように聞いていたので、油断しておりました。悪夢でも覚める時がありますが、何とも残念なことです」と切り出しました。

落葉上は「夕霧元帥がされた行為を変に思い込んでしまったことが、母上の心痛の一番の原因だった」と考えると、そうなる宿命だったと言いながらも、夕霧との因縁がとても恨めしく、返答すらしないでいました。

侍女たちが「何と答えられた、と伝えたら良いのでしょう」、「身分が軽くはないお方で、こうしてわざわざ急いで来られた心遣いを理解されないようにされるのはあんまりです」と口々に言い寄りますが、「適当に推し量って答えておきなさい。私は何と答えていいのかも分かりませんから」と言って、臥してしまうのももっともなことでした。

 

「ただ今のところ、落葉上は亡くなられたお方と同然のような有様です。お越しになられた趣旨は伝えておきました」と夕霧に話しました。侍女たちもむせび泣いている様子なので、「何と慰めるべきか、言葉もありません。私自身も今少し心を静め、落葉上も冷静になった時分に再訪しましょう。どうしてこう急に夫人が亡くなってしまったのか、その様子を知りたくて訪れて来ました」と夕霧が伝えると、少将の君はすっかりではないものの、夫人が煩悶していた様子の一端を話しました。

「何か恨みごとを私が話したように聞こえましたでしょうか。今日は私もとても心が入り乱れ、頭が混乱しておりますので、間違ったことを話してしまうこともありましょう。と申しても、このように悲しみに暮れている気持ちにも限りがありますから、もう少し気分が落ち着いた頃にお話を承ります」と正気でもない様子なので、夕霧は話したいことも口に出さずにいました。

 

「本当に闇の中に迷い込んでしまった気持ちがする。もう一度話をして慰めて、わずかにでも返事をいただけたなら」などと話しながら、立ち去りにくそうにしていましたが、それも軽々しそうでもあり、さすがに人々の出入りが激しいこともあって、諦めて帰ることにしました。今夜中とは思っていなかった葬送を、急ぎながらもてきぱきと進められていくのがあっけなさすぎると感じたので、夕霧は近くの荘園の人々を呼び寄せて、しかるべき手伝いを指図してから、発っていくことにしました。急なことなので、簡略にならざるをえなかった葬送が、人数が増えて立派になったので、パリ知事も「元帥の有難いお心遣いだ」などと喜んでお礼を申し上げました。

 母君の名残もなくなった浅ましさに、落葉上は身をよじって泣いていましたが、どうすることも出来ません。「母親といえども、こうまで親しみ合うべきではなかったのだ」と落葉上の様子を見ている人々も、こうした状態をひどく心配していました。

 パリ知事は葬送の後始末を済ませてから、「こんな心細い住まいでは辛抱ができないでしょう。心が休まる時もないでしょう」と話しますが、「やはり母上の墓に近い場所で偲んでいたい」と落葉上は「この山里で住み果てよう」と考えていました。

 忌中で籠っている僧たちは、祈檀を設けていた東面の部屋や渡殿、主殿の背後にある小屋などに、ちょっとした仕切りをして住み込んでいました。落葉上は西側の控えの間を服喪用のしつらえにして、生活していました。

 

 日が暮れるのも夜が明けるのも分からないように暮らしながら、月日が経過していき、十月に入りました。山おろしの風がひどく激しく吹き、木の葉が散り落ちて、あらゆることが物悲しく感じられる中、落葉上は大空を見つめていると感慨を催して、涙が乾く間もないほど思い嘆いていました。

(歌)命さえ 思い通りになるのなら どうして別れが悲しいものになるでしょう といったように、世の中が厭わしく悲しく感じ入っていました。仕えている侍女たちも何かにつけて物悲しく、どうしたらよいか戸惑っていました。

 夕霧元帥からは毎日のように見舞いの手紙が届きました。寂しそうにしている祈祷僧などの気分が紛れるように、色々な物を送って慰問をしました。落葉上には、しんみりと情愛の籠った言葉を書き尽くして、自分に対する冷淡さを恨んでみたり、ル・リヴォ夫人への尽きない哀惜を書いていたりしますが、落葉上は手紙を手にとろうともしないでいました。母上が病で衰弱した身の中で、予期していなかった浅ましい出来事を、二人が初夜を過ごしたのだ、と疑いもせずに思い沈んだまま亡くなったことを思い出すと、「後の世の罪にすらなってしまう」と胸がつかえてしまう心地がするので、夕霧のことをちょっとでも口にする者がいると、ますます辛く情けない涙が誘い出されるように感じていたので、侍女たちは何を話したらよいのか、困り果てていました。

 

そんな具合で一行たりとも返信がありませんが、「しばらくの間は気が転倒しているからだろう」と夕霧は思っていました。それでもあまりに日が過ぎていくので、「悲しいことにも、限りというものがある。どうして私の胸中を汲み取ってはくれないのだろう。張り合いもない、子供じみた人だ」と恨めしい思いでいました。

「恋とは筋違いかのように『花よ蝶よ』と書き綴ることがあったとしても、自分の心に物悲しさを感じている中で、何となく嘆いていることに同情して『どうされておりますか』と見舞ってくれる人に対して親密さを感じ、嬉しく思うのが人情ではないだろうか。

 祖母の大宮が物故した際、一途にたまらなく悲しいと思っていたのに、実の息子であるアントワン太政大臣はさして思い嘆くこともなく、『この世との別れは道理に適ったことである』と、ただ格式ばった儀式だけを執り行って、供養をしたことが辛く面白くもなかった。これに対して父はとても手厚く後々の供養も営んだので、身内の者と言いながらも、どんなに嬉しく有難かったものか。

 そう言えば、亡き柏木を取り分け好ましく思うようになったのは、その時のことだった。人柄がとても物静かで落ち着いていて、祖母の死も含めて物事をしみじみと心に留めるところがあって、哀れみを感じることも普通の人より勝って深かった点に好感が持てた」などと所在なさの中で、そんなことを思い続けながら暮らしていました。

 

 雲井雁はそうした夕霧の様子を窺いながら、「落葉上との関係はどうなったのだろう。ル・リヴォ夫人とは手紙のやり取りを親密にしていたけれど」などと腑に落ちないでいます。夕霧が夕暮の空を眺めながらソファに横になっていると、雲井雁が若君にメモ用紙を持って来させました。ちょっとした紙の端に歌が詠まれていました。

(歌)貴方の胸中の悲しみは 何が原因かを解釈して慰めてあげたら良いのでしょう

     生きている人が恋しいのか 亡くなった人が恋しいのか

「どちらだか分かりかねているのが気になっています」と書いてあるので、夕霧は微笑して「色んな風に気をまわしているようだ。夫人の死を悲しんでいるなんて、とんだ見当違いだ」と思いつつ、すぐに無難な返歌を詠みました。

(歌)とりたてて 誰といって悲しんでいるわけではありません 

      消えて行く露も草葉の上だけではないし 人の身の上も 露と同じ世の中なのだから

「そもそも無常な人生そのものが悲しいのです」と書いてありました。

雲井雁は「やはり何か隠し立てをしているのだ」と、はかなく消えて行く露の哀れなどさしおいて、いわくありげに嘆きましたが、夕霧の方は「このままでは不安にかられてしまうだけだ」と、またしてもオービュッソンに向かいました。

 

「五十日の忌み期間が過ぎて、落ち着いてから」と自制していたのですが、とてもそれまで辛抱できません。「今はもう、身に覚えがない噂を立てられてしまったのだから、何もことさらはばかることもない。ただ世間並みの男のように、突き詰めた思いを叶えるだけだ」と思い立ったわけです。正夫人がどう推察しようとも、強いて言い訳をすることもありません。

「落葉上当人はまだつれない思いでいるにしても、あの『一夜だけの宿』と詠んだル・リヴォ夫人の手紙を拠り所にして、掻き口説いていこう。汚名を洗い清めることは出来ないのだし」とそれを頼みとしました。

 

 十月の十日過ぎのことで、野山の景色は情緒を深く知らない人でも、当たり前に感じることはありません。山風に堪えられない木々の梢や峰のツタの葉も気ぜわしく先を争って散っているのに紛れるように、尊い誦経の声がかすかに祈り声ばかりが聞こえ、人の気配がとても少なく木枯らしが吹きはらう中、鹿が簡単に柴を粗編みしただけの垣の側に現れて、葡萄畑の鳴子にも驚かずに葡萄の実に交じって鳴いているのも、秋らしい物悲しさを誘う風情でした。滝の音はひとしお物思いをする人を驚かす顔をして、やかましく轟き響いています。草むらの虫だけが頼りなさそうに弱々しく鳴き、枯れた草の下から青い桔梗の花がひょっこりと這い出して、しっとり露をおびているなど、すべて例年の秋の景色ですが、折柄や場所柄のせいか、堪えがたいほどの物悲しさでした。

 

 夕霧は例のテラスの張り出しに立ち寄り、そのまま物思わしげに周囲を眺めていました。着馴らした上着の下に絹を打って光らせた濃い紫の中着を着た姿が、輝くように美しく透き通ったように見えます。光りが弱くなった夕日がそれでも何気なく射しているのをまぶしそうにさりげなく扇をかざしてよけている手つきを、侍女たちは「女性こそ、こうあって欲しいものです」、「いえ女性でもこうは行きませんよ」と言いながら覗いていました。淋しい物思いで暮らす人たちの慰みになるような笑顔を見せながら、夕霧は特別に少将の君の名をあげて呼び出しました。二人が対面したテラスが狭いので、「奥に人がいるかもしれない」と気になって、細々と話すことはできません。

「もう少し近くに寄ってください。逃げようとはせずに。こんな山深い所まで分け入って来た私の志をくんで、打ち解けて下さらなければ。霧も大層深いことですし」と、わざと少将の君を見るでもないふりをして、山の方を眺めながら「もうちょっと近くに」としきりに言うので、少将の君は服喪中の鈍色のカーテンの垂れ布の端から少し押し出すように出てきて、ドレスの裾を引き寄せて座りました。パリ知事の妹で、幼少の頃からル・リヴォ夫人から離れずに育って来たことから、喪服の色は取り分け濃く、ドングリのかさ汁で染めた黒のドレスの上に黒のベストを着ていました。

 

「こうした尽きることのない嘆きは申すまでもないが、落葉上の何とも言いようがない冷淡な仕打ちの辛さを考え合わせてみると、心も魂も身体からさまよい出してしまい、それを見る人ごとに怪しまれてしまう。今はもうこれ以上、耐え忍ぶことができない」と様々に恨み続け、夫人がいまわの際に送った手紙の内容を話し出して、激しく泣いてしまいました。

 まして少将の君もそれ以上に泣き入りながら、「あの晩、返信すらいただけないので、もはやこれ限りだと意気消沈され、その上、暗くなっていく空模様に気分を悪くされてしまいました。そういった弱り目に例の物の怪が付け入ってしまったのだと思われます。過去に父親の大納言や婿の柏木様の死といった不幸に直面した際も、もう少しで絶え入ってしまいそうな折々が度々ありました。ただ落葉上が夫人と同じように沈み込んでおりましたので、何とか力づけようという気丈さから、意識がはっきりしたものとなりました。夫人の死後、落葉上は自分なのか他人なのか正体が分からない気分のまま、途方に暮れて過ごしております」などと落ち着かないまま嘆きながら、はきはきと話せない状態でした。

 

「まあ、それにしてもあまりにも他愛のない、どうしようもない心の持ちようだね。恐れ多いことだが、今から誰を頼りにされるお積りなのだろう。修道院住みの朱雀院は、峰深い雲の中で世間を断ち切っている状態で、手紙のやり取りですら難しい。是非とも、こうしたつれない態度を私に見せているだけで良いのか、と説得して欲しい。あらゆる事にはそうなる運命があるのです。この世に生きていたくはないと思われても、望み通りには行かないものです。望み通りに行くというなら、第一に母上と死別することもなかっただろうに」などと、数々の言葉を投げかけますが、落葉上からの返事もなく、ただ溜息をつくだけでした。鹿がしきりに鳴くのを聞いて、(歌)秋なので 鹿が山に響くように鳴くけれど 私は鹿より劣っているのだろうか といった歌を思い起こしながら詠みました。

(歌)人里遠いオービュッソンの 篠原を踏み分けてやって来て 私も鹿のように 

      声を惜しまずに泣いています

 すると少将の君が返歌を詠みました。、

(返歌)喪服も涙で湿っぽく 秋の山荘に住む私どもは 鹿の鳴く音に声を添えて泣いています

大して良い返歌でもありませんが、その場の状況に合わせた、ひっそりとした声の調子に夕霧は優雅さを感じました。

 その後も、あれこれ取次ぎをさせましたが、少将の君は何とか「今はこうした浅ましい夢のような世の中におります。その思いが少しは覚める折りがありましたなら、度々のお見舞いに対するお礼をいたしましょう」とだけ素っ気ない返事を引き出して伝えたので、夕霧は「何という情けない心持ちなのだ」と嘆きながら帰って行きました。

 

 

5.ヒカル、夕霧と面談。落葉の帰邸。雲井雁の嫉妬。

 

帰途の道中も物悲しい秋の空を眺めていると、十三日目の月が非常に花やかに射し出したので、周囲の山々も小暗くはないように感じていると、途中にル・リヴォ城がありました。ひどく荒れ果てていて、西南の方角の塀が崩れているのを見かけて中を覗きこむと、一面の戸が閉じられていて、人影も見えません。月だけが池の水面にきらきらと澄んで映っていました。柏木大納言がここで管絃の遊びをしていた折々を思い出しました。 

(歌)あの人の姿が もはや水面に映らなくなってしまった池を 秋の夜の月が 独り宿って守っている

と独り言を呟きながら、自邸のアゼイ・ル・リドー城に戻ってからも、なおも月を見ながら心は上の空でした。「まあ何て見苦しい」、「今までにはこんな振る舞いはなかったのに」と侍女たちは夕霧を批判していました。

 

 雲井雁は本気で心配になって、「すっかり浮かれ切っている。こうした色ごとに元から馴れているヴィランドリー城の婦人たちを、どうかすると良い例として引き出して、私を融通のきかない女のように思っているのは、何ともやりきれないことだ。私としても、結婚した当初からそうした家風に馴らされて来たなら、世間の目にも動じないで、平然と過ごしていられることだろう。『世の中の手本にもなり、心映えもある夫を持った』と親・兄弟を始めとして、皆から幸せのあやかり者のように言われて来たが、とどのつまり、最後には外聞が悪い目に遭ってしまった」とたまらなく歎いていました。

 夜も明け方近くになるまで、お互い打ち解けようともしないで、背中を向け合ったまま歎き明かしていましたが、夕霧は朝霧の晴れ間を待たずに、例のように落葉上宛ての手紙を急いで書き出しました。それを見ながら雲井雁は「何て不愉快な」と感じていましたが、先日のように手紙を奪い取ることはしないでいました。

 

 夕霧は情愛をこめて書いた後、ペンを置いて息をついています。小声でしたが、雲井雁にも漏れ聞こえていました。

(歌)明けない夜の夢が覚めた折りは と一言おっしゃいましたが いつになったら 訪ねていって良いのでしょうか

どうやら(歌)オービュッソンの山の上から落ちる 音のない滝のように 返事はありませんが とか書いたようです。封をした後も夕霧は「どうしたらよいだろうか」と歌の続きを口ずさんでいました。

 夕霧は人を呼んで手紙を託しましたが、それを見ながら雲井雁は「せめて相手の返信だけでも読んでみたいものだ。それにしても、どういった関係になっているのだろう」と様子を知りたい思いでいました。

 

 翌々日、使いは日が高くなってから返信を持って戻って来ました。紫色の濃い堅苦しい紙にそっけなく書かれていたものは、少将の君の代筆でした。相も変わらず、どうにもならない様子が書かれていましたが、「あまりにお気の毒なので、いただいた手紙に手習いをされていたものをこっそり盗み取りました」と言って、封書の中に引き裂かれた紙片が入れてありました。

「そうか、目に留めてくれてはいたのだ」と、夕霧は考えるだけでも嬉しくなりましたが、体裁が悪い思いもしながら、とりとめもなく書かれている手習いを見続けました。

(歌)朝な夕なに 声を立てて泣いている オービュッソンの山で ひっきりなしに落ちる涙は 

      音のない滝になるのだろうか

といったように読み取れましょうか。その他にも古い歌などが悩ましげに書き散らされていますが、筆跡などにも見所がありました。

 他人の身辺でこうした恋に心を砕いている様子を見ると、歯がゆくて正気沙汰ではないと感じていたのに、実際に自分の身に降りかかってみると、確かに恋とは非常に耐え難いものでした。

「不思議なことだ。どうしてここまで落葉上のことを思うようになってしまったのだろう」と考え直したりしますが、どうにもならないことです。

 

 ヒカルもそんな様子を耳にして、「夕霧はこれまで分別があり、何につけても自制し、人から非難される所もなく、無難に過ごして来たことは晴れがましいことだった。自分の若い頃は、好色な振る舞いをして浮名を流してしまったが、息子が名誉回復をしてくれたことを嬉しく思っていた。ところがこんなことが起きてしまった。雲井雁と落葉上のどちらにとっても気の毒で心苦しいことだ。落葉上の亡き夫は雲井雁の兄でもあるから、まるっきりの赤の他人ではないし、アントワンなどもどう思うことであろう。息子もそのくらいの道理ぐらいは分からないはずがないのだが、運命というものは逃れることが出来ないものだ。とは言っても、自分はとやかく口出しはすべきではない」と考えていました。

「女性の身で考えてみると、雲井雁と落葉上のどちらにとっても残念なことだ」と不愉快になって嘆いているうちに、紫上のこれまでのことや行く末のことを思い浮かべました。

「こういった噂を聞くにつけても、私が死んだ後が気掛かりになっている」と紫上に話すと、紫上は顔を赤らめて、「情ないこと。そこまで私を後に残して、あの世に行こうとされているのか」と感じました。

「本当に女ほど、身を処していくのに窮屈で痛ましい者はいない。物悲しいこと、時には楽しいことすら分からないように身を引いておとなしくしていると、一体どうやって生き甲斐のある晴れがましさを味わい、はかない人生の所在なさを慰めることが出来るだろうか。女といえども、世間一般の物の道理を知らず、面白みのない人間になってしまったなら、育てて来た親にとっても口惜しくはないのだろうか。僧たちが悲しい事例に挙げる、生まれてから十三年間、何もしゃべらずにいた無言王子のように、悪い事、善い事を知り抜いているのに、じっと心に納めたまま口に出さずにいるのはつまらないことだ。自分としても、どうやって適度な身の処し方を保っていくことが出来るだろうか」と紫上が考えてみるのも、自分が養育しているサン・ブリュー王妃の第一王女を思いやってのことでした。

 

 夕霧元帥が訪れて来た機会に、ヒカルは夕霧がどんな気持ちでいるのかを探ってみたくなりました。「ル・リヴォ夫人の五十日は明けたのだろうね。柏木の死は昨日か今日のことと思っていたが、もう三年も経っているのだね。人生というものは悲しく味気ないものだ。夕刻の露のかかる間の寿命にすぎないのに、欲深く物に執着して一体何になるのだろう。私は何とかして髪を切り落として、この世のすべてを捨て去ってしまいたいと考えながらも、のんきそうに日々を過ごしている。まことにいけないことだ」と話しました。

「本当にこの世に惜しげがなさそうな人でも、それぞれの身になってみると、世の中を捨て難いものです」と夕霧は答えた後、「夫人の五十日の追悼行事などは、夫人の甥のパリ知事が一人でやってくれていますが、気の毒なことです。しっかり頼りにできる者がいない人は、死んでしまったらそれっきりなので、死んでからが悲しいものです」と話しました。

 

「朱雀院からも弔問があることだろう。あの第二王女はどんなに思い嘆いていることだろうか。初めのうちはよく知らなかったが、最近になって何かの折々に見聞きしていると、ル・リヴォ夫人はしっかりして良く出来た人物だったようだ。世間一般から見ても、惜しい方だった。生きていて欲しいと思う人が、こういったように亡くなっていく。さぞかし朱雀院も驚かれていることだろう。あの第二王女は、この城にいる第三王女の次に朱雀院が可愛がっておられた。人柄も良いのだろうね」とヒカルが尋ねました。

「性格はどういったものでしょうか。ル・リヴォ夫人は申し分のない人柄で気配にも心ばえがありました。親しげに打ち解けることはありませんでしたが、ちょっとした折に自然とその人の心配りが外に現れます」と答えたものの、落葉上については一言も触れずに澄まし込んでいました。

「こうまで真面目で一本気な人間が思い染めていることを諫めることはできまい。聞き入れそうにもない忠告を賢そうに意見がましく言っても面白くない」とヒカルは感じて、それ以上話すのを止めてしまいました。

 

 こうして夫人の追悼祭事は夕顔がすべてを取り仕切って世話をしました。自然とそうした噂が隠れることもないので、アントワン太政大臣の耳にも入り、「そんなことがあって良いことか」などと落葉上を薄情に思ったりしましたが、どうしようもありません。祭事の当日には、これまでの縁故関係もあるので、柏木の兄弟たちも参会しました。アントワンが祈祷などを盛大にさせました。あちらこちらから、布施などが負けず劣らず寄せられたので、今をときめく人物の祭事にも劣らないほどになりました。

 落葉上は「このままオービュッソンで住み果てよう」と決心していましたが、誰かが朱雀院にそっと漏らしたようです。

「そんなとんでもないことを。確かに未亡人の身で、色々な人と身の関りを持つべきではないが、世話をしてくれる人もいないまま、なまじっか修道女の身になって、あるまじき浮名が立ったり、罪を犯してしまったなら、現世でも来世でもどっちつかずになり、非難されてしまって悪名を負ってしまう。このように私が世を捨てているのに、第三王女が同じように修道者になってしまった。第二王女まで修道者になってしまうと、私の一族の将来は絶えてしまう、と思われてしまう。世を捨てた身で、そんなことを思い悩むべきではないが、自分や第三王女と同じように競って修道の道に入るのは感心しないことだ。世の中が辛いと言って、安易に修道女になるのは決して体裁の良いものではない。何か悟るところがあった上で、今少し冷静になって、心を澄ましてから、ともかく実行した方が良いのでは」と、朱雀院は度々手紙を寄こしました。

きっと夕霧との浮いた噂を聞いたからでしょうし、「そういったことが思うようにならなかったのを悲観して修道女になったのだろう」と言われてしまうことを案じているのでしょう。そうかと言って、逆に「恋沙汰が露見して、公然と一緒に暮らすようになるのもいかにも軽薄で好感が持てない」と思いながら、結局、「恥ずかしい思いをさせてしまうのもいじらしいし、自分までが何かと余計な口出しをすることもあるまい」とも考えて、この件に関しては一言も触れないでいました。

 

夕霧は「あれこれ言葉を尽くしてみたが、このままでは今は面白くない。落葉上が心から私を受け入れることは難しそうだ。世間には『ル・リヴォ夫人は承知済みだった』と匂わせておこう。やむをえないことだが、亡くなった人には少し浅い罪を負ってもらい、いつからそうなったかは曖昧にして、一緒になってしまおう。今さら、若い頃に戻って恋に色めいて、涙を流してつきまとうのは気恥ずかしいことだし」と覚悟を固めました。

落葉上がル・リヴォ城に帰る日取りを何日ごろと決めた後、パリ知事を呼び出しました。しかるべき諸式を説明して、ル・リヴォ城の清掃や飾りつけを申しつけました。何と言っても女性ばかりが住んでいたので、手入れが不十分で草深くなっていた城を磨き立てたように美しくし直して、間仕切りの布、屏風、カーテンや座席などの細部まで配慮しながら、何から何までしかるべきように、急いで整備するように指示しました。

 

 当日は夕霧自身はル・リヴォ城に留まり、馬車や前駆役の人たちを迎えに出しました。落葉上は「決して戻りはしません」と言い張りましたが、侍女たちが熱心になだめすかし、パリ知事も「そんなことは全く承諾できません。心細く悲しそうにされている様子を拝見して心を痛めて、葬送時より今まで、できる限りの御世話をいたしました。これから知事としてパリに向かわなければなりません。あなた方の世話を引き継いでくれる人も見当たらず、この不都合をどうしたら良いのか、と案じていたところ、こうやって夕霧元帥が色々と面倒を見てくれています。本当にこれほどの思いやりを見せておられます。強制すべきではありませんが、昔から本人の意志がなくとも再縁された例が多く存在します。再縁されたとしても、世間は一方的に貴女を非難することはありませんし、再縁を拒むのはあまりに幼稚な考えです。気丈に振る舞っている、と思っていても、女性の身一つで自分の身の振り方をきちんと処理し、分別することができるでしょうか。やはり貴女を大切に尊重されている人に助けられてこそ、深く賢い思慮が出て来るものです。仕えている侍女たちはその道理をよく説明していくことしかありません。すでにそうあるべきではない手紙の取次ぎをした者もいますが」と言い続けて、左のお守り役や少将の君を責めました。

 

 そこで侍女たちが寄ってたかって口々になだめすかして説得するので、落葉上は仕方なく、侍女たちが晴れやかな衣装に着替えさすままにしていました。心中は我にもあらずといった気持ちで、いまだに一途に切り捨ててしまいたい長い髪に櫛を入れてみると、身の丈ほどの長さで、以前より量は少し減っていますが、他の者の目にはみっともないようには見えません。それでも本人は「ひどい衰え方だ。こんな姿を男の人に見せることができるだろうか。何やかやと、不幸にむしばまれた身体なのだから」と思い続けて、着替えた姿のまま横に臥してしまいました。

 侍女たちは「時刻が過ぎてしまいました」、「夜も更けてしまいます」と騒ぎ立てました。時雨が大層慌ただしく、風に吹き混じって降り出して、何事にもつけうら悲しい気分でした。

(歌)母上の魂が昇って行った 峰の煙と一緒になって 思ってもいない人に靡かずにいたいものだ

と口ずさんだように、自分一人は気強い思いでいますが、その頃には侍女たちは修道女にさせないように、ハサミなどはすべて隠していました。

「こんな風に大騒ぎはしなくとも、自分は惜しまれもしない身であるし、みっともない子供のように隠れて髪を切るようなことはしない。そんなことをすると、人が聞いても異様なほど強情だと思われてしまうだけだ」と考えるので、修道女になる本意を実行するわけにもいきません。

 

 侍女たちは皆、引越しの準備を急いで、各自、櫛・手箱・イタリア製の櫃やあれこれといた品々をつまらない袋入れのような物に詰めて、先に送り始めました。自分一人だけが留まることも出来ないので、落葉上は泣く泣く馬車に乗り込みました。隣の空席ばかりが目について、オービュッソンに移って来た時、亡き母上が容態が悪いにもかかわらず、自分の髪を掻き撫でて繕ってくれた後に馬車から降ろしてくれたことを思い出して、目が掻き曇って何も見えなくなってしまいました。

 場所の座席の脇には守り刀と一緒に、側から離れないように聖典を入れた箱が置いてありました。

(歌)亡き母が恋しい思いを 慰めてもくれない形見であるが 玉のようなこの箱も 涙で曇ってしまう

 喪中の聖典箱は黒塗りであることが決まりでしたが、まだ間に合わなかったので、亡き夫人が使い馴らしていた螺鈿の箱でした。祈祷してもらった布施として僧に渡す予定でしたが、母の形見として残しておいたものでした。さぞかし、久しく遠方に出ていた故郷に戻って、亡き母の形見を見出した思いがしたことでしょう。

 

 

                 著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata