日本誕生叙事詩         

箸墓と日本国誕生物語 ―― 女王トヨと崇神天皇 ―― 

 

 

主な登場人物

 

吉備・邪馬台国

女王トヨ(台与)=邪馬台国の最後の女王

侍女アヤメ

侍女スミレ

侍従タケカシマ

ウラ(温羅)とオニ(王丹)兄弟=魏の帯方軍の張政が後を託した将軍

 

大和・狗奴国

オオビビ王=第九代開化天皇

ミマキイリヒコイニエ王=第十代崇神天皇

イサセリビコ=吉備津彦兄

ワカタケヒコ=吉備津彦弟

オオビコ=オオビビ王の兄で、ミマキ王の義父

尾張オオマツ=ミマキ王の義父

ミマツヒメ=オオビコの娘で、ミマキ王の正后

マクハシヒメ=紀伊出身のミマキ王の后

オオシアマヒメ=尾張オオマツの娘でミマキ王の后

 

 

[その一] 王宮落城 

 

一.晋への遣使

 

二六六年三月二0日

 トヨ(台与)の目覚めは晴れやかだった。きっとオオヒルメさまが祝福してくれているのだろう。自分でも気分が高ぶっていることがわかる。今日は私が主役なのだ。ヒミコ(卑弥呼)さまの重しからようやく抜け出して、私の時代始まりだ。充溢感と昂ぶりが交錯して身震いがした。戸外を見ると雨雲がゆっくりと東に動いている。私の新しい門出を祝って、せめて祝宴の時だけは降らないで欲しい。

 

侍女たちがトヨの着付けを始めた。絹の衣は帯方郡から届いたばかりで、洛陽製の赤と紫をあしらった豪華な錦に牡丹の刺繍が縫いこまれていた。着てみると、ずしんと肩に重みが加わる。 

「転んだらどうしよう」、「正面をきっと見つめておられれば、転びはしませんよ」

侍女二人が入念に髪を手入れする。髪飾りには象牙の櫛笥と桃の花のかんざし。胸にはヒスイの勾玉。まるで天女のようで、邪馬台国の女王としてふさわしい。銅鏡に映る自分の顔を覗いてみると、自分でもほれぼれする出来上がりだった。

 

外を見ると、雨雲からうっすらと陽が射していた。トヨの心配は杞憂だったようだ。中国伝来の梅の枝に、目の周りが真っ白で羽が黄緑色のメジロが器用に留まりながら白い花の蜜を吸っている。メジロは梅の花の蜜が好物とは聞いていたが、トヨが目撃するのは初めてだった。ホーホケキョの美声が生垣の藪から響いた。藪に目を向けると、顔だけ出した茶褐色の小鳥だった。やはりホーホケキョと鳴くのはメジロではなかった。容姿はメジロ、声はウグイス。私はどちらだろう。ヒミコさまは舞いがお上手だった。私は舞いは下手だし、声も悪い。私のとりえは何だろう。

 

集合室で待機していた将軍や臣下たちはトヨの晴れ姿を見て息をのみこんだ。こんなに美しいトヨさまは初めてだ。将軍たちを引き連れてトヨが王宮の広場に面する縁壇に現れると、トヨの豪華な衣裳に場内の婦人たちからため息とどよめきの声があがった。縁壇に首相ミヤベ、大将オオアサヒ、中将タケカガミ、中将イハラヲ、中将ヤシマヒコ、帯方郡のウラ(温羅)将軍など吉備邪馬台国の重臣が勢揃いした。上座にトヨと並んで、宗家のスサヤマヲとスサタケヒコ親子が座った。

 

「今日のトヨさまは格別にお美しい」

「まるで高天原のオオヒルメの神を見るようだ

「これでトヨさまはヒミコさまを越えられたかも知れない」

 

三十路に入ったトヨは少し太めとなっていたが、ふくよかさが女王としての貫禄を増していた。トヨは感嘆の目で自分を見やる場内の雰囲気を受け取れる余裕があった。今日の祝宴は成功するに違いない。

 

舞台の前には総勢二名の男女が集っていた。吉備と讃岐の名家豪族が一同に会した大規模な祝宴だった。ここ三か月間、トヨの肝いりで念入りな準備がなされてきた。十八年前に一三歳で女王に就任してから初めてと言える大舞台となった。 

甲高い音色の笛が会場に響きわたりやがてドーン、ドーンと勇壮な太鼓に変った。朝鮮半島の帯方郡を経て中国の首都洛陽に向かう遣使一行が登場した。ぎこちない歩き方から緊張で固くなっているのが見てとれる。万雷の拍手がわいた。遣使一行がトヨたちに一礼して、祭りが始まった。

 

第一幕 国生み

 イザナギとイザナミが舞台に登場した。二神は鉾を受け取ると宙吊りとなって、雲海へと昇っていく。雲海の上から鉾をかき混ぜていくとしずくが垂れていく。するとおのころ島が舞台に出現した。

 

舞台の中央に据えられたおのころ島にイザナギとイザナミが降り立った。二人が御柱を周るごとに、淡路島、本州、四国、九州など大八島を模した仮面をつけた幼児が登場する。続いて太陽神オオヒルメ月神ツキヨミ嵐神スサノオの三貴神が誕生する。可愛いお稚児さんたちに観衆がやんやの喝采を送る。 

イザナミは火の神ホノカグツチにほと(陰部)を焼かれて黄泉の国へと旅立った。傷心したイザナギがホノカグツチを斬ると富(とみ)族の武神タケミカヅチと剣神フツヌシが誕生する 

 

「今日の舞台は中々の出来だ」。観衆は身をのりだしていく。

 

第二幕 高天原

 第二幕は、高天原で武装したオオヒルメの登場から始まった。海上の暗雲に乗ってスサノオが高天原に上がってくる。

 

 待ち構えたオオヒルメが怒声をあげた。

「何をしに、高天原に上がってきたのだ。私の国を支配しようと目論んできたのか」

「私は海底の根の国に行く前に、姉君においとまの挨拶をしようと高天原に上がってきただけです」

しかしオオヒルメの疑心はまだ晴れない。いらついたスサノオが挑発する。

「それほど疑われるなら、お互いにウケイ(宣誓)をして、私の潔白さを証明しましょう。私の持ち物から男児が生まれるなら、私はクロ、女児が生まれるならシロ、潔白です」

 

オオヒルメがスサノオから剣を受け取って噛み砕き、青いを噴出すと三人の女児(宗像三女神)が生成した。スサノオがオオヒルメの珠飾りを噛み砕いて赤いを噴出すと、五人の男児(旭川五部族)が生成した。誕生した八神に扮した幼い女児三人と男児五人が鈴を振りながら、笛に合わせて踊る。 

あの可愛いい女の子たち三人は宗像族の子供たちなのだろうか。トヨ場内を見渡した。しかしいつもは中臣なかとみ族、忌部いんべ族たちに混ざっても、目立った存在感を示す宗像族のクボヒコの姿を見つけることができなかった。クボヒコは欠席したのだろうか。どうしたのだろう。

 

舞台ではウケイで潔白さを証明したスサノオが増長して高天原を荒らしまわり、悲嘆したオオヒルメが天の石戸に隠れたところだった。忌部族のアメノフトダマが上枝に勾玉(まがたま)、中枝に銅鏡、下枝に楮(こうぞ)の白和幤(しらにきて)、麻の青和幤(あおにきて)を飾った榊(さかき)の大枝を打ち祓い、中臣族のアメノコヤネが祝詞(のりと)を奏上する。アメノウズメに扮したハギメが踊り始める頃になるとトヨは宗像クボヒコのことを忘れていた。

 

腰をひねらせながら、滑稽に踊るアメノウズメの舞いに場内は笑いの渦となった。ウラ(温羅)の夫人アソヒメなど婦人たちも爆笑する

「さすが、ハギメのアメノウズメは天下一品ですね」

「舞いの名手でおられたヒミコさまもハギメの舞いには一目置いておりましたもの」

一段と円熟味が増しました

 外の爆笑に不審を抱いたオオヒルメが石戸から顔をのぞかせると、すかさずアメノタヂカラヲが石戸を押し開いて、オオヒルメを外に引き出し、注連縄(しめなわ)を張ってオオヒルメが石戸に戻れないようにした。

 

第三幕 イソタケルの舞い

 第三幕の背景は朝鮮半島南端にある金官伽耶国の聖山、伽耶山だった。ドーン、ドーン、ドンドンドンと太鼓の大音響が会場に響きわたった。牛皮をはった大太鼓は倭国では珍しかった。腹にまで沁みこむような重厚な響きを初めて耳にした観衆が多かった。洛東江の流域に拠点を置く伽耶の船乗りたちが登場し、イソタケルを称える勇壮な舞いを披露した。船に杉、ヒノキ、マキ(槙)の、楠の枝葉を満載して、流れが速い対馬暖流をエイホ、エイホと大型の構造船で乗り切っていく。

 

第四幕 ヤマタノオロチ

 藁(わら)で造った大蛇ヤマタノオロチが登場した。毎年、里に下りてきて、いけにえの娘をさらっていく。ヤマタノオロチは舞台の上から糸で操られていた。八つの頭が酒船に突っ込んで酒を飲み干し、寝入りこんだ。スサノオに扮した紅顔の少年が一つづつ、頭を切り裂くごとに、エイヤと掛け声がかかり、鮮血が飛ぶ。その迫真さに悲鳴をあげる婦人もいた。尾を切り裂くと草薙の剣が現れた。若武者は草薙の剣をトヨに献上する。

 

第五幕 トヨの祈祷

 トヨが舞台に上がった。周匝(すさい)の宗家の跡継ぎでトヨの従弟にあたるスサタケヒコが従った。鹿骨を使った骨占いの儀式が始まる。占い師が鹿骨に火箸をあてていく。「吉が出ました」とトヨに報告する。

 トヨは北西の蒜山に向かってオオヒルメ、北東に向かって石上(いそのかみ)のスサノオとフツヌシ、神ノ峰のオオヒルメと那岐山のイザナギ・イザナミ、東の熊山に向かってオオモノヌシへ祈りを捧げた。観衆もトヨに合わせて合掌する。

 

第六幕 洛陽の舞い

 帯方郡の一行が、魏の首都の洛陽で流行っているという、新しい舞楽を披露する。派手な衣装を着込んだ五斗米道(ごとべいどう)の踊りだった。会場にはこれまで嗅いだことがないような怪しげな香りが漂った。吉備の人たちもその神秘性に包まれていく。

 

第七幕 オオモノヌシの舞い

最後は熊山に棲むオオモノヌシに捧げる巫女たちの舞いとなった。神主のオオタタネコを先頭に五人の巫女(みこ)が登場して、遣使の航海の無事を祈る。笛、琴と太鼓に合わせて、乙女たちが鈴を鳴らしながら舞う。舞が終わると五人は一斉に早咲きの桜の花を舞台に、場内に振り撒いた。舞台も場内も花吹雪に包まれ、大歓声がわきあがった。

 

晋への遣使派遣

二六五年一二月に中国の魏王朝が司馬氏の晋王朝に政権を禅譲した急報は、二六六年の初め、帯方郡の使者からもたらされた。実際には簒奪(さんだつ)による王朝交代だったようだ。二四九年に司馬仲達がクーデターをおこして魏の実権は司馬氏が握り、いずれは司馬氏が王位につくことを吉備王国の中枢は見越していたが、いよいよその時が到来した。

 

「ヒミコさまが魏の王様から拝受した金印が交易品の封印に使えなくなるわけですから、すぐにでも晋に遣使を送るべきです。晋の新しい王さまもきっと我が国に関心を持っているはずですから、新しい金印を賜るのは間違いないでしょう」 

外務担当の大夫オシオの主張に帯方郡や三韓の商人、さらに張政が帯方郡に戻るにあたって後を託したウラ将軍も賛同したため、首相ミヤベがトヨに奏上した。

「トヨさま、晋に遣使を送ることに大勢が決まりました」

「念のため、占いで確かめてみたらどうでしょう」とトヨが指示を出した。

 

 トヨの指示に従って、鹿骨占いをすると吉が出た。「でも途中でひどい嵐に遭遇する兆しも出ておりますが」と占いを仕切る讃岐忌部のチヤマが少し顔を曇らせた。  

「嵐を乗り切ったらよいのでしょ?」

いつもは控え目で聞き役が多いトヨが珍しく明快な意思を示した。いつもは遠慮がちに発言するトヨの思いがけない言葉に一同は驚いたが、この一言で遣使派遣が決定した。

 

帯方郡側も陰陽五行の占いをした。すると凶が出た。果たして晋の新しい王、武帝(司馬炎)が帯方郡と倭国に関心を示してくれるだろうか。大使オエツは心配になった。司馬仲達のクーデター以来、司馬氏批判派が都の洛陽から帯方郡に逃亡してきたこともあり、洛陽と帯方郡との関係はあまり良好とは言えなかった。船乗り達の噂では、新王はあまり朝鮮半島方面に関心がないらしい。帯方郡の行方すら定かではない。 

しかし王室は遣使をなるべく早急に派遣する方向で動き出した。遣使の出発は旧暦正月開けの三月初めか中旬頃と決定した。

 

豪勢な昼食会

 昼の饗宴は、壇上にトヨの膳が据えられ、総勢約一00人が王宮の集会場にひしめきあい、華やかな雰囲気に包まれた。吉備邪馬台国の重鎮が一堂に会するのはめったにないことだった。自分も演出に加わった朝の祭りが大好評を博し、トヨは満足感に浸っていた。私の門出としては上出来だった。

各人の膳には鯛、スズキ、サワラの瀬戸内の春の名物三魚、蒸しアワビと干しナマコ、肉は鹿と雉春の菜としてセリ、フキノトウ、ゼンマイ、ワラビと山海のごちそうが彩り鮮やかに盛られていた。

 

「つい先日まで乙女のようだったトヨさまもずいぶん成長された。女王としてどっしりとされてきた」

「錦の着物は魏の王さま直々の贈り物だそうですよ」

「女王トヨさまの本当の時代が始まった」という話し声がとぎれとぎれにトヨの耳にも伝わってくる。運命のいたずらで幼くして女王になってしまったが、いつの日かヒミコさまを越えたといわれる女王になろうと辛抱してきた私もようやく報われてきたのだろう。自然に微笑みがこぼれていく。

 

 場内は次第に酒の酔いが広がっていく。

「中国の貴人はアワビとナマコを精力剤として珍重しているそうだ。ミヤゲとしてどっさりと積んで行きなさい」

「船乗りが船の中でこっそり味見してしまったらどうする。精力がつきすぎて、おなご欲しさにたえられなくなって、楫取りが狂ってしまうではないか」

酒で赤ら顔になった男が真面目なそぶりをして冗談を飛ばすと、どっと笑いに包まれた。ウラ将軍と日本人妻アソヒメもその笑いの中にいた。二人は声高に浮かれていた。ウラ将軍は帯方郡から張政のお供として、二四七年に弟のオニ(王丹)と一緒に邪馬台国の都にやってきた。翌年、張政が帯方郡に戻る際に後を託されて帯方郡や伽耶国出身の兵士たちを統率する将軍となり、数年してアソヒメと結婚した。

 

あれから、もう十八年にもなる月日が流れるのは速いものだ。張政将軍との約束を守り通すことができた。妻も現地の人間だし、吉備津に骨を埋めよう。 

「遣使が晋の王さまの金印を携えて戻ってきたら、王国も安泰ですな。狗奴(葛)国など蹴散らしてしまいましょう」

 うなずくと思っていた隣席の帯方郡の大使オエツは浮かぬ顔をしていた。オエツはどうしたのだろう。体調が悪いのかとウラは気になったものの、周囲の雑音が懸念を掻き消した。

 

遣使の代表として、大夫オシオ、次使ミマツ、お伴アオヒコの三人が壇上のトヨに挨拶する。父のナシメ(難升米)を継いで大役を任されたオシオは緊張したままだった帰化人だった父は中国語を話せたが、倭国で生まれ育った自分は、漢字は読解できるものの、中国語の会話には自信がない。 

「旅のご予定は?」

「帯方郡に五月ころに到着し、秋には洛陽に到着の予定です」

「お父さまのナシメは魏の王さまに大層気に入られたと聞いています。今度はあなたが晋の王様に気に入られるとよいですね」

にこやかに話しかけるトヨの言葉がますます重しとなる。父の時は、予期していなかった金印授与など破格の待遇を受けた。今回は金印をもらってくることが義務づけられている。オエツからそれとなく、中国統一を目論む新王の武帝は東方政策にあまり乗り気ではないこと、帯方郡の役人人事も大幅に変る可能性もあることも知らされていた。

 

 宴は終わった。トヨは王室に戻り、扉を開けて足守平野を眺めた。祝宴の出席者たちが部下を引き連れて、家路についていた。

「祝宴に宗像族の姿が見られなかったのはどうしてだろう」

トヨはなんとなく胸騒ぎを覚えた。

 

                        

二.狗奴国の急襲

 

出陣 三月十九・二十日

その頃、瀬戸内海東部では、邪馬台国の長年にわたる敵である狗奴(葛)国の大規模な吉備攻略作戦が始まっていた。総指揮はイサセリビコ(伊佐勢理毘古。大吉備津彦)と弟のワカヒコタケキビツヒコ(若日子建吉備津彦)が担っていた。イサセリビコは東播磨の加古川畔の丘に置かれた本陣に陣取り、ワカタケキビツヒコは前線で指揮をふるった。総勢八人の部隊は陸軍と水軍の二手で構成されていた。陸軍は尾張オオマツと丹波尾張コシマの二人が率い、その配下に意富(おお)氏と物部氏、水軍は河内のアマツヒコネ(天津彦根)族のタケコロ(建許呂)の下にアメノユツヒコ(天湯津彦)族、加えて阿波伊勢イタハマが阿波・淡路島軍を率いていた。

 

第一陣はすでに前日、播磨の加古川河口と阿波の鳴門のウチノ海から家島諸島に上陸していた。播磨からの軍は丹波尾張コシマ軍、鳴門からの軍は阿波伊勢イタハマ軍が主体だった。いずれも艘の船に二人が乗り込んだ。狗奴国の精鋭部隊だった。四人の軍勢は家島、西島を中心に家島諸島に分散して待機態勢を取る。兵士を降ろした船団は姫路の市川と淡路島の湊に引き返していった。西播磨の赤穂と備前の片上に基地を置く吉備水軍に気づかれないように、迅速な隠密作戦だった。

 

吉備の王宮で祝宴がたけなわの頃、姫路の市川から尾張オオマツ軍が率いる二人、淡路島の湊からアマツヒコネ・アメノユツヒコ軍が率いる二の兵士を乗せた艘の船が第二陣として小豆島を目指して船出した。日が暮れた頃、姫路勢は小豆島の福田、淡路島勢は坂手の浜に上陸して山林の中に忍び込み、土庄(とのしょう)への進撃にそなえた。兵士を下ろした船団はすぐさま第一陣がいる家島諸島に向かった。

 

嵐の前 三月二一日

翌朝、遣使一行が高梁川河口の酒津港から旅立ちする時刻、トヨはお供を連れて吉備中山に登った。陽が昇る東方に向かってオオヒルメにお祈りした後、西方に向かって海の神スサノオと瀬戸内海の神オオモノヌシに遣使一行の無事を祈った。 

祝宴は誰もが満点をつけてくれたようだ。大成功だった。 

「これで一段落した。新たな時代の始まりだ。私もようやくヒミコさまと肩を並べることができた。新しい晋の王さまとの時代が始まる。小姑のようなアヤメの忠告も減っていくことだろう」。

 

 思いもよらずに十三歳でヒミコの後継者に選ばれてから十八年が経過していた。王宮に入ってからは戸惑いばかりの毎日だった。自由さ、気ままさがなくなったことが一番辛かった。

 

 約半世紀もの長い間、女王を務めたヒミコの従者の多くはヒミコの死に合わせて殉死したが、二0代前半だったアヤメは殉死の対象からはずれ、トヨの養育係となって姉のような存在となった。トヨにとっては口うるさい小姑だった。

「ヒミコさまだったら、そうはされませんよ」、「魏の王さまと友好を結ばれて、狗奴国の攻撃を揖保川で食い止めたことはヒミコさまの最後の置き土産でした」と、何かにつけてヒミコの名を口に出す。その度に「なにさ。私だって十八年近くも狗奴国の侵入を防いでいます」とトヨは不愉快になる。晋から金印が下賜されたら、アヤメも私を見直すことだろう。ようやくヒミコさまから自立できる。私が跡継ぎと期待している宗家の従弟スサタケヒコにも晴れの舞台を見せることができた。ヒミコさまの過ちの一つは庶子(私生児)を生んだことだった。その庶子を跡継ぎにされてしまって、亡くなった後に動乱が起きてしまった。私は処女王で全うして、スサタケヒコに王位を譲る。これで吉備邪馬台国は男王の時代に戻る。

 

 鼻歌を歌いだしたい気分だった。トヨの新しい門出を祝福するかのように、ウグイスの美声があちこちから飛び交った。

 

トヨは幾つかの磐座(いわくら)を詣でた。その時、穴海の先に浮かぶ児島の貝殻山から赤くくすんだ狼煙(のろし)があがった。

「この色は敵の襲来を知らせる合図だ。なぜだろう。そそっかしい兵士が遣使の旅立ちを祝す狼煙と間違えたのだろうか」

 

狼煙は狗奴国軍上陸の動きを察知した小豆島の土庄の砦からの狼煙を受けて、児島の貝殻山の砦が吉備津の王宮に敵襲来を報せる警報だった。しかし、敵は総計八人に及ぶ大軍だとは吉備側は気がついていなかった。

 

 吉備中山を下りる間にスミレがしきりにシダ藪の中に入って衣を露でぬらしながら、無心にワラビやゼンマイを摘んでいる。スミレは祝宴の舞台でオオモノヌシに奉げる舞いを演じた巫女の一人だった。

「あなたも私の侍女になったのだから、もうそんなことはおやめなさい。露まみれになって山菜摘みなどしなくても、王宮の厨房に行けば、いくらでもあるでしょうに」

「すみません。春の山菜取りは小さい頃からの習慣で、シダ藪を見るとつい、手が伸びてしまいます」

 

スミレが首をすぼめた。私もスミレの年頃に王宮に入ったのだ。私が十五で結婚していたら、ちょうどスミレくらいの娘ができていたのだろう。自分の娘のような気がした。

「スサノオを演じた昨日の少年はりりしかったですね。何というお方ですか」

「あの少年は下市(しもいち)の中臣タケカシマといって、剣を握らせたらかなうものがいないほどです。大将オオアサヒの甥で将来の大将候補と騒がれています」とお供のトリヲがスミレに答える。

「あなたの舞いも筋がよいですね。どこで学んだの?」

「周匝(すさい)は王家発祥の地ですもの。周匝周辺の娘たちは幼い頃から舞いを学んでいます」

 

周匝から奥に入った是里(これざと)の高原育ちのスミレが自慢げに返答する。祝宴でオオモノヌシへの舞いを演じたのは周匝の少女たちだったのだ、とトヨは合点がいった。是里高原を下ると吉井川と支流の吉野川が合流する周匝がある。ヒミコさまも周匝育ちだった。神がかりとまで噂されたヒミコさまの舞いを一度だけ遠くから実見したことがある。確かにヒミコさまとスミレの舞いには似たところがある。讃岐育ちの私には真似ができない。

 

 王宮に戻ったトヨは「貝塚山から狼煙が上がっていましたが、何の狼煙なのでしょう」と念のため首相ミヤベに訊ねた。

「狗奴国の軍団が小豆島に上陸したようです。でも、ご心配には及びません。片上の水軍が小豆島に向かっています。山国の王国なので船の数はさしたるものではありません。陸には強いが海には弱い連中ですから、小競り合いで退却するでしょう。」

 それは吉備側の慢心だった。すべての関心が新しい王朝の晋に向けられていたことも判断ミスにつながった。

「宗像族は昨日の祝宴には出席していなかったようですが、何かあったのですか」

「筑紫の総領アシヤミミが重い病気にかかったとのことで、一族総出で見舞いに出かけたということです」

 

嵐の襲来 三月二一日夜半~二二日早朝

 その夜、直島諸島に潜んだ第一陣の四人を乗せた船団が小豆島の福田沖に集結した。ワカタケヒコ王が陣頭指揮をふるう丹波尾張族勢と阿波伊勢族勢だった。

先頭の船に陣取ったワカタケヒコ王がかがり火を高く掲げると、海一面に勝どきの叫びがわき上がった。筑紫に見舞いに戻ったはずの宗像族の海人(あま)たちが水先案内役を務めていた。いざ、穴海へ。船団は一路、吉井川河口に進撃する。

 

小豆島の山林に潜んだ第二陣の尾張勢の兵士たちも沖合のかがり火を見て、松明に火をつけ、土庄に向けて一斉に前進を始めた。大軍と松明の群れに仰天した猿の群れが木々の上から奇声を発する。水軍にとっては島を進む兵士たちの松明がよい目印となった。アマツヒコネ・アメノユツヒコ勢も坂手から進軍を始めた。

 

満月だった。船団の道案内をするかのように月光に浮かぶいわし雲が西にたなびいていく。狗奴国の大軍急襲に真っ先に気づいたのは熊山の山頂の見張りだった。満月の下、どす暗い赤色の狼煙を吉井川河口と貝殻山の砦に向けてあげた。 

満潮は五時十三分頃、日の出は六時頃だった。夜が白け始めたころ、第一陣の船団が犬島沖に到達した。ワカタケヒコ王がかがり火を振り回すと、船団は一斉に穴海に突入した。丹波尾張軍の先鋒が吉井川河口の砦を襲った。その間隙を縫って船団は穴海に突撃する。阿波伊勢軍の先手が高島の砦を急襲した。島に接近し火矢を次々に放つと高島が真っ赤に燃え上がっていく。それを目印に後続の兵士たちは吉井川と高島の間にある砂川河口に上陸する。対岸の児島に陣取る邪馬台国の警備兵たちは、ようやく事態の深刻さに気がついたようだ。松明の火が点々と動き出していた。

 

事前の申し合わせどおり、砂川の右岸に丹波尾張軍、左岸に阿波伊勢軍の兵士が続々と上陸していく。統率がとれていた。狗奴国軍の下級兵士は富士山の噴火で避難してきた駿河、遠江、三河出身の子孫も多く、手柄をたてようとわれさきに先頭に立って突き進んでいく。 

艘の船は手際よく順番に兵士を上陸させた後、小豆島に向けて引き返していった。児島の貝殻山から、白じんだ空に真っ赤な狼煙が幾つも上がった。

 

狗奴国軍の進軍 三月二二日

右岸に上陸した丹波尾張軍の大将コシマが号令をかける。

「砂川に沿ってまっすぐ進め」

コシマの号令に呼応して部隊は一気に下市を目指す。満月の明かりも味方した。砂川河口から瀬戸まで十キロメートル、瀬戸から下市まで五キロメートルの道のりだ。 

 左岸に上陸した阿波伊勢軍は旭川河口の網浜まで直進した後、要所、要所に兵士を配置しながら、牟佐(むさ)に向かって旭川を上っていく。

 

丹波尾張軍は一挙に下市に攻め入り、昼前には下市の環濠を包囲した。下市は首都の吉備津に次いで重要な町だったが、警護の兵士の数が少なかったこともあり、反撃もできずに、ほどなくして白旗をあげた。息をつかせず大将コシマは部隊の半分にあたる一人を吉井川の要地である周匝に進軍させた。 

阿波伊勢軍の先行隊が牟佐を経由して下市に到着した頃には、旭川を見下ろす本宮高倉山に狗奴国の旗がひるがえっていた。総帥ワカタケヒコは下市に本陣を設置した。日が沈む頃に捕虜たちが一か所に集められた。その中にタケカシマの父もいた。捕虜たちは突然の襲撃に呆然としたままだった。東海の兵士たちの方言をよく理解できず、混乱した

 

動揺する王宮

日が昇り出した頃、王宮は貝殻山から上がる幾つもの狼煙で敵の襲来に気づいた。同じ頃狗奴国軍の砂川上陸の急報も王宮に伝わった。王宮はにわかに騒然となった。トヨもいざに備えて、身仕舞いを急いだ。王室の財宝が秘密の場所に隠匿された。 

「ヒメは備中か讃岐に逃れなさい。私どもは旭川で迎え撃ちます」

「いえ、私も王宮に残って、敵と戦います」

 

大将オオアサヒの一軍が旭川に出陣した。しかし旭川の対岸の網浜、牟佐などの要所はすでに狗奴国軍が警護を固めており、渡河ができぬまま旭川を挟んでにらみ合いとなった。

 

前日、王宮から各地に戻っていった中将たちに急使が送られた。吉備国は戸数七万戸あまり、人口約三十五万人を数え、兵士は人口の約二パーセント強にあたる八人を数えた。しかし広域な領土兵力分散していたことが致命傷となった。狗奴国が陸からではなく、海から攻撃を仕掛けてくることは想定外だった。狗奴国軍に急所をつかれてしまった。 

西播磨は二千人の兵士、龍野の揖保川河畔の粒丘(いいぼのおか)を本営として揖保川河口の狗奴国軍と対峙していた。美作・伯耆も二人の軍勢で、津山の中将タケカガミが率いていた。王宮がある吉備津と備前は大将オオアサヒの下に二人の兵士が分散していた。鬼城山の麓の阿曽から高梁川にかけて帯方郡のウラ軍が一人常駐していた。備中・備後は中将イハラヲが井原、新市、三次を統率していた。讃岐は中将ヤシマヒコが率いて坂出に本営を構えていた。

 

前日、津山への帰途についた中将タケカガミは旭川を渡った神目(こうめ)の宿場で狗奴国急襲の知らせを受け取り、津山へと帰路を急いだ。備中・備後を守る中将イハラヲはすでに井原に到着していた。讃岐を守る中将ヤシマヒコ一行は帰途の船上から男木島の砦の狼煙に驚き、坂出港への帰航を急いだ。 

前日、下市で一泊した宗家のスサタケヒコ親子は早朝に周匝に向け出発していた。二人を追うように、狗奴国軍急襲の急報が昼過ぎに届き、緊急に環濠を巡って土嚢が積まれた。しかし悲しいことに兵士の数が少なかった。

 

夕刻になって、周匝の町は丹波尾張軍に包囲された。

「決戦は明日だろう。明日になれば津山からタケカガミ軍が救援に駆けつけてくる」

 その判断はあまかった。日が暮れる頃、あちこちから環濠を越えて火矢が飛んできた。逃げ惑って環濠の外に出たものは、狗奴国の兵士に惨殺された。暗闇の中で、あちこちから火が燃え上がり、阿鼻叫喚の地獄絵となった。一夜で周匝は全滅した。宗家のスサ家の一族も無念の死をとげた

 

第二波襲来

狗奴国勢の小豆島攻略はあっけないほどだった。尾張軍は本州側の海沿いから福田、小部に進み、大部(おおべ)の港で片上の吉備の水軍と合戦となった。吉備水軍は兵士の数で圧倒する狗奴国軍に太刀打ちできず、船に火が放たれた。主力は小海(おみ)、屋形崎と進んだ。アマツヒコネ・アメノユツヒコ軍は四国側の海沿いに坂手、草壁、池田と進む。二手から進軍した四人の兵士たちは昼過ぎには児島半島を臨む土庄の手前で合流した。土庄の砦や高見山の砦から赤い狼煙が盛大にあがるのがむなしかった。吉備の兵士は皆殺しにされ、突然の襲撃に肝をつぶした住民は山中に逃げ込んだ。

土庄攻略はあっけなかった。完勝だった。負傷した狗奴国の兵士はごくわずかだった。明け方に穴海に第一陣を上陸させた船団は犬島沖に引き返して土庄の成り行きをうかがっていたが、昼過ぎに楽々と土庄港に入港した。兵士たちは戦勝の夕飯をたいらげた。陽が沈んだ頃、小豆島を占領した第二陣の兵士を乗せて、二艘の船団は意気揚々と再度、穴海に向かった。

 

三月二三日の明け方、まだ黒煙がくすぶる高島をぬけて穴海の中心部に突入する。旭川沖で吉備軍の守護船団三十艘と激突した。吉備勢の多くの船は帯方郡に向かう遣使の見送りを兼ねて備中の笠岡、備後の鞆まで同道していたため、大和勢の速攻に後手、後手に回っていた。三十艘対二艘では勝敗は明らかだった。狗奴国軍の船から飛んでくる矢の嵐に、吉備軍の兵士が次々と倒れ、吉備軍の船が炎上する。 

旭川河口を過ぎて、先鋒の船が足守川河口に突撃し、河口を守る吉備勢と相対した。そのすきに主力は手前にある警備が薄手な笹ヶ瀬川に次々に上陸した。アマツヒコネ軍は右方の旭川方面に進み、尾張軍は吉備中山の山麓を迂回するように進軍する。 

吉備中山を挟んで、尾張勢と王宮の吉備勢が向かい合った。ウラ将軍が率いる帯方郡の軍勢が吉備勢に合流し、尾張勢を押し返していった。

 

トヨの王宮脱出

トヨは侍従に叩き起こされた。首相(輔臣)ミヤベ、内相(大卒)シマヲ、通産相(大倭)タチハヤオも王宮に駆けつけていた。

「ヒメさま、敵が間近に迫ってきました。すぐにお逃げください」

 トヨは実感がわかなかった。悪夢を見ているようだった。精鋭を誇る吉備勢がそれほどあっさり負けるはずはない。荷造りをする余裕もなかった。トヨが唯一、持参できたものは弧帯文が彫られた白い長石、小刀と宝石箱だけだった。お供にはハタツミ,トリヲ、タケカシマ、アヤメ、スミレの五人がついた。

 

まだうす闇だった。足守川の河口あたりから、激突する怒声がかすかに響いてくる。急を知って松明をかざして王宮に馳せ参じようとする兵士や住民とぶつかりながら、足守川河畔に出て、橋を渡った。人が入り混じれた橋には欄干がなく川に落下する者もいた。 

トヨは早く、早くとせかすお供の声を無視して、楯築王とヒミコの墳墓に詣でた。露で湿った野原に入り、早咲きの山吹、スミレなど春の野の花を摘んだ。お供たちにも命じて、楯築王の墳墓に上がる丘に生える白木蓮の花、椿の赤い花、榊(さかき)の枝を摘んだ。手当たり次第に摘んだが、黄色、紫、白、赤、緑の色が揃った。楯築王の墳墓の後、矢部のヒミコの墳墓に花を飾った。

 

三輪を過ぎ総社の高梁川河畔に出て、お供五人と船に乗りこんだ時はすでに昼を過ぎていた。高梁川河口の酒津には敵はまだ到達していなかったが、突然の敵襲来で港は混乱をきわめていた。酒津で舟を乗り換え、児島を抜けて塩飽(しわく)列島の本島の笠島港に到着した時は陽が沈む頃だった。

 

笠島では首領シワクヒコがトヨ一行を出迎えた。笠島の漁民が歓声をあげ、トヨにひれ伏した。皆、女王トヨを見るのは初めてだった。

「でもまさか大量の船を使って穴海に突撃してくるとは予想にもしませんでした」

「どうも宗像族が狗奴国側に寝返ったようですよ」

「まさか。宗像族が寝返ることはないでしょう」

「いえ、漁師たちの噂では、宗像族は完全に狗奴国側にまわったようです。私どもが狗奴国の船団の西下を防ぎます。その間に備後の芦田川の神辺(かんなべまで行かれて、吉備軍の態勢を整えられて反撃に転じるのが穏当でしょう。芦田川まで私が同道しましょう」

 

宗像族が狗奴国に寝返ったのは本当だろうか。トヨは一年前の御前会議の争論を思い出した。帯方郡、伽耶国の国外勢力擁護派と国内勢力派の対立だった。国内勢力派の先鋒は宗像族だった。対韓、対中貿易は帯方郡、伽耶国の交易人に独占されつつあり、宗像族には死活問題となっていた。

その背景には伽耶系の海人イソタケル族と筑前を根拠地とする海人宗像族との利権争いがあった。いずれも父神としてスサノオを信奉しているが、朝鮮半島と倭国を結ぶ交易で競合していた。吉備ではイソタケル族は主要な外港である酒津周辺と足守川を独占していたが、宗像族は周辺の島々や足守川より川幅が狭い笹ヶ瀬川でしか荷降ろしができなくなっていた。

 

国内勢力派を代表して宗像クボヒコが詰問した。

「邪馬台国はあまりに帯方郡の言いなりになりすぎております。そのうち帯方郡に乗っ取られてしまうのではありませんか」

「ヒメ君はどう思われます?」

 トヨは宗像族の訴えは誇張しすぎていると感じていた。「邪馬台国が魏と帯方郡に乗っ取られてしまうことなど、ありえない。宗像族は声高にイソタケル族を批判するが、それほど深刻でもないだろう。帯方郡にはヒミコさまの時代に狗奴国の攻撃を防いでもらった恩義がある。十三歳で青天のへきれきで女王に就任したトヨにとって、帯方郡の張政は邪馬台国を救ってくれた畏敬すべき存在だった。今でも張政があとを託したウラ兄弟たちが首都を守ってくれている。灌漑池の土木技術など新しい技術と工人ももたらしてくれる。トヨは自然に国外勢力擁護派に傾いていた。

 

 それ以来、笹ヶ瀬川上流の大窪を拠点とする、クボヒコが率いる宗像海人の動きはひっそりとなった。あの時の争論が分かれ目だったのかもしれない。でも宗像族は吉備邪馬台国に恩義があるはずだ。そうたやすく狗奴国側にまわるわけでもないだろう。

 

 翌朝、トヨは気分を入れ替えるため散策に出た。トリヲとタケカシマが護衛に付き、スミレも同行した。真っ先に判断しなければならなかったのは、備後に逃げて態勢を整えて反撃に転じるか、生まれ故郷の讃岐に戻るかだった。

頭の整理がつかない。四日前は盛大な祝宴だった。三日前は遣使の出発だった。一昨日の早朝、狗奴国が砂川を急襲した。昨日は狗奴国が王宮に迫り、着の身着のままで本島に逃げてきた。わずか四日で、明から暗に転じてしまった。これで邪馬台国滅亡してしまうのだろうか。約二世紀続いた邪馬台国は終わってしまうのか。それを防ぐには、どうすべきなのだろう。

 

新在家の浜を過ぎて、甲生(こうしょう)の浜に出ると讃岐の山々が真正面に見えた。右手に大麻山と象頭山の連山。正面に飯野山(讃岐富士)を筆頭になつかしい三角錐の死火山が数珠繋ぎになっている。私の古里だ。やはり、讃岐に戻ろう。死ぬなら讃岐しかない。中将ヤシマヒコたちが讃岐を守り抜いてくれるだろう。備後からではなく、讃岐から反撃すればよいのではないか。

 

 笠島港に戻ったトヨは自分の生まれ故郷に戻るとシワクヒコ達に明言した。もはや説得は不可能だった。翌朝、シワクヒコたちにオオモノヌシお守りを託して本島を出航した。舟が坂出港に着くと、出迎えの群れの中に急を知って弟の坂出の砦に出陣していた弟のモモソヒコもいた。弟に護衛されながら、実家の田村宮に落ち着いた。なつかしい楠の大木はなにごともなかったように昔のまま枝を広げていた

 

明くる朝、田村宮のわきに湧き出る泉で身を清めた後、宮殿に閉じこもって思案にくれる。わずか四日間での暗転に動転して、心は動揺したままだった 

 田村宮には弟一家が住んでいた。弟は父の死後、家督を継いでいた。トヨの一族は讃岐忌部族だったが、ヒミコの妹が二00年頃に田村宮に嫁ぎ、息子二人を産んだ。長男はトヨとモモソヒコをもうけ、次男は周匝の宗家に養子入りしてスサタケヒコをもうけた。

 

 

三、王宮包囲

 

旭川殲滅と王宮包囲 三月二三日と二四日

 旭川に進んだ大将オオアサヒ軍は旭川の玉柏たまかしと牟佐を挟んで狗奴国軍とにらみ合っていたが、笹ヶ瀬川から進んできたアマツヒコネ軍が背後から襲ってきた。それに呼応して阿波伊勢軍が旭川を渡り、オオアサヒ軍は両サイドから挟みこまれて殲滅した。おびただしい鮮血が旭川を染め、無数の兵士の死体が穴海に浮かんだ。

 

吉備中山では尾張軍が吉備勢に押されて後退しつつあったが、オオアサヒ軍を壊滅したアマツヒコネ軍が加勢してきたこともあり、次第に狗奴国勢が巻き返していった、ウラ軍を主体とする吉備勢は足守川にじりじりと後退せざるをえなかった。やがて王宮と吉備勢が分断され、王宮は狗奴国勢に包囲された。狗奴軍はさらに加茂まで吉備津地区を制圧した。しかしどういうわけか、狗奴国勢はそれ以上の深追いをせず、王宮にも攻め込まなかった。尾張軍は笹ヶ瀬川の楢津に近い首部(こうべ)に前線基地を構えた。

 

西播磨陥落

 狗奴国が王宮より先に優先したのは、備前、美作、西播磨の吉備軍の壊滅だった。宗像族を仲介にした事前工作により、安芸勢と伊予勢は吉備勢に加担せず、中立を貫く密約が取り交わされていた。安芸と伊予には宗像族の居住地があって宗像族の影響力が強く、両国とも国内勢力擁護派に属していた。

 

新市の本陣に陣取ったワカタケキビツヒコは近くの片山神社で西播磨攻略の戦勝を祈った後、播磨に向けて進攻した。

 

西播磨攻略は三手からの攻撃の手はずとなっていた。一手は海からの攻撃で、阿波伊勢軍が海上から片上、赤穂の吉備水軍を攻めた。二手目の丹波尾張軍はすでに占領した周匝から吉野川沿いに林野、佐用に出て西播磨に入った。三手目は本隊から別れた意富軍で、龍野に向けて山陽道を東進した。 

東播磨では穴海上陸作戦成功の報を受けて、加古川の丘に陣取るイサセリビコ将軍が西に向けて動き出した。それに呼応して但馬のアメノヒホコ軍北の揖保川上流に攻め入り、龍野に向けて揖保川を下っていった。アメノヒホコ族にとっては大和に恩を売っておく絶好の機会だった。アメノヒホコ族の目標は但馬を拠点に斯羅(しら)に奪われた新羅地方の国々を奪い返すことにあった。大和に恩を売っておけば、祖国奪還で大和も加勢してくれるに違いない。

 

 四方向から攻められた龍野の吉備勢はひとたまりもなく壊滅し、多くが捕虜となった。イサセリビコは弟のワカタケキビツヒコと龍野で再会し、奇襲作戦成功の歓喜をわかちあった。十数年待ち続けた瞬間だった。

西播磨と龍野征服を見届けた丹波尾張軍は間髪を入れずに美作に戻り、津山盆地に下っていった。向かうところ敵なしの勢いで津山盆地を征し、追分を越えて旭川沿いの中国勝山まで支配下に置いた。中将タケカガミは峠を越えて伯耆の日野川へと逃げ落ちていったが、それを意富軍が追っていった。

 

備前、美作、西播磨の吉備軍の捕虜や壮年の男たちは、船や陸路で河内や和泉に送られていった。その中にはオオモノヌシの祭祀を司るオオタタネコをはじめ、神官たちも含まれていた。

 

王宮落城

 狗奴国の狙いは無血開城にあった。宗像クボヒコの示唆もあって、吉備王国の壊滅ではなく、女王トヨを大和に招聘し、表面的には平和裏に政権譲渡を行なうことが目標だった。狗奴国は倭の国の東端の新興国で、西日本の国々をまとめていくには、一六0年以上盟主として君臨してきた吉備の威光必要としていた。宗像族にとっても吉備から大和への政権移譲は、あくまで外的勢力である帯方郡とイソタケル族に対する国内派の巻き返しであることを示す大義名分となる。中国の後漢から魏へ、魏から晋への禅譲と同じ図式が倭の国でも起きたと説いていけば、安芸や伊予など倭の中堅国に加えて、すでに狗奴国の勢力下に入った阿波や播磨の不満分子をも納得させることができる。さらに吉備王家のシンボルである弧帯文を女王トヨから譲り受けることができるなら禅譲は万全となる。

 

 鬼城山の麓の阿曽に撤退したウラ軍は阿曽と加茂の間にある備中高松あたりで狗奴国軍とにらみ合いながら、反撃の機会を狙っていた。王宮に篭城する吉備勢力を助けだすのが、さしあたっての課題だった。しかしウラ軍だけでは心もとない。備中のイハラヲ軍や安芸、伊予からの援軍を待った。

 包囲は長引き、四月、五月と持久戦が続いた。王宮の篭城者は数百人あまりと予想された。いずれ兵糧がつきるだろう。狗奴国軍は夜陰に乗じて忍びの者を王宮内に忍びこませ、兵士を暗殺するなど危害を加え、篭城者を衰弱させていった。ある夜、忍びの者が大物とは知らずに首相ミヤベを刺殺した。ミヤベの死で隠匿された財宝の隠し場所が分からなくなってしまった。篭城者の覇気もなえてしまった。内相シマヲと通産相タチハヤヲはもはやこれまでと、数日して白旗をあげた。

 

 予定通りの無血開城となった。しかし王宮に入ったワカタケヒコと尾張オオマツはトヨが不在なことに落胆した。財宝が少ないことにも失望した。宝庫とおぼしき蔵には数百枚の銅鏡などがあり、王宮にはスサノオが退治した八岐大蛇の尾から出現した剣と伝わる「草薙の剣が飾られていたが、他にめぼしい財宝が見当たらない。どこかに隠匿されているのだろう。各所をしらみつぶしに探したが、発見できなかった。

 女王トヨはどこに消えたのか。女王の行方を追うことが真っ先の課題となった。

 

 タケコロが率いる河内アマツヒコネ族とアメノユツヒコ族を主体とする水軍は、王宮陥落を見届けた後、備中、備後、安芸の投馬国へと進撃して行った。

 

 

[その二] 吉備邪馬台国の歴史 

 

縄文から弥生へ   

 約一万年間続いた日本列島の縄文文化は、今から約二六00年前の前六世紀頃から変貌を始めます。変貌のきっかけは水田による米の生産、青銅器と高床式住居の伝来にあます。鉄器も同じ頃伝えられますが量的には限られていました。水田技術と同時に鶏と豚の家畜、鵜飼、桑と養蚕技術も伝わります。陸稲は縄文時代すでに日本列島に到来していましたが、大豆、小豆、稗(ひえ)、粟(あわ)などと同様に雑穀の扱いを受け、焼畑農法で作られていました。

 

田畑を平らにして水をはる水田耕作には灌漑土木技術が必要でしたが、焼畑農法による陸稲よりはるかに収穫量く、自然の幸に頼る縄文社会よりも余剰の米類の貯蔵が可能になります。人口が次第に増大していき、山と海の風景に水田が加わった村が拡大していきます。日本列島の人口は、縄文時代の五0~六0万人から約万人と二倍に増えその後も八世紀の奈良時代に約六万人、一二世紀の鎌倉時代に約一万人、江戸時代に約三万人へと増加していきます

 

弥生文化をもたらした人々は朝鮮半島や中国からの渡来人で。早期、前期前葉、前期中葉、中期前葉、中期中葉を見てみると、それぞれの期の始まりは朝鮮半島や中国の政変や社会の変化と連動していることがはっきりします。 

 早期は朝鮮半島南部からの伝来や渡来によります。前期前葉は前四七三年の呉の滅亡前期中葉は前三三三年頃の越の滅亡をきっかけにしたボートピープルの渡来に由来があり、前期後葉に北部九州にムスビの神々の誕生、淡路島を中心にイザナギ・イザナミ国つくり神話と銅鐸文化が発生したことにつながります。中期前葉は前二二一年の秦の始皇帝による中国統一と前一九五年の衛氏朝鮮の成立中期中葉は前一0九年の前漢の武帝による朝鮮半島の植民地化の影響を受けています。

 

一.弥生早期

伝説では、前一〇二七年頃、殷(商)時代末の聖人である箕子(きし)が朝鮮半島に逃れ、半島西北部に箕子朝鮮を建国し、前一九四年まで続きます。半島の西南部では春秋時代(前七七0~前四五三年頃)初期の前七00年代から水稲耕作が普及していきますが、箕子朝鮮の勢力は及ばず、半島南部は村々が点在する程度にすぎませんでした。

 

倭の国と朝鮮半島の交易は縄文時代から存在しており、その延長線として朝鮮半島南部から水稲文化を携えた人々が九州北部や日本海沿いにポツリ、ポツリと移住してきます。玄海灘に面する糸島、奴国、遠賀川などに弥生集落ができたものの、まだ決定的な社会変革とは言えませんでした。

 

弥生前期

(一)弥生前期前葉 (前四七三~前三三四年頃)

 

呉の滅亡

 日本列島が弥生文化へ転換していくことをを決定づけたのは、前四七三年の揚子江河口地域の呉の滅亡にあります。呉は黄河流域の漢民族とは言語、文化、風俗が異なる揚子江流域の呉越族に属しています。南船北馬とよくいわれるように、北の黄河地域は水稲に適さない乾燥地域でアワ、ヒエ、麦の畑作の穀倉地帯で。これに対し南の揚子江流域は河川が多く、運河も発展した水稲に適した地域で、河姆渡(かぼと)遺跡などすでに前五千年以上も前から水稲栽培が始まり、日本米のジャポニカの故郷で

 

 春秋時代の後半にあたる前五00年代に揚子江下流域、黄海に面する江蘇省あたりに呉(首都は蘇州近辺)が歴史に登場してきます。同じ頃、揚子江南部、東シナ海に面する浙江省あたりに越(首都は会稽)が勃興します。これ以後、呉・越より先に揚子江中流域で勢力を強めた楚(首都は紀南城)の三国による勢力争いが激しくなっていきます。前五0五年に、呉が楚に攻め入り呉の首都が手薄になった時、越が呉に侵入しました。

 前四九四~前四七三年の約二0年間にわたって、呉王・夫差(ふさ)と越王・勾践(こうせん)の熾烈な戦いが続きます。前四九四年に呉の夫差は越の勾践を大破し、勾践は会稽山に追い詰められ自害を覚悟しました。しかし夫差は忠臣、伍子胥(ごししょ)の忠告を無視して、情けをかけて勾践を殺さなかったことが、倭国の歴史にも影響を及ぼすことになります

 

 越を破った後、呉は黄河を目指して北上してい、前四八六年に邗江(かんこう)運河を掘って揚子江と、揚子江と黄河の中間に位置する淮水(わいすい)をつなげます。前四八五年に呉は山東半島一帯を支配する斉を海路から攻撃します。前四八二年にさらに北上して黄河中原の晋と争います

 しかし報復を誓った越王・勾践は薪の上に寝てにがい肝をなめる臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を貫き、国力を復活させて前四七八年に呉を包囲します。前四七三年に呉王・夫差は自害に追いこまれ、呉は滅亡します。越軍の侵入に泡を食った黄海沿岸部の住民の一部は難民となって船で東に向かい、朝鮮半島南部、斎州島を経て、九州西部、北部に逃亡してきました。これがボートピープルの第一波です朝鮮半島南部に定着した呉族は土着人と融合していきながら、韓族を形成していきます。

 

 

(二)弥生前期中葉 (前三三四~前三00年頃)

 

越の滅亡

呉を破った越は呉の領土を併合し、戦国時代(前四五三~前二二一年)に入ると、黄河への北上を目指して、前三八0年に山東半島の付け根にある江蘇省瑯邪(ろうや)に首都を遷します。次第に越と楚の抗争が激しさを増していきます。少なくとも越と楚は五度戦い、前三三四年に越は壊滅的な打撃を受け、前三二九年に楚が越を大破、越は崩壊に向かっていきます。旧呉国の領域も含めた越族の一部が第二波のボートピープルとなり、日本列島へと旅立っていきます 

越族は九州の西部や北部の沿岸地帯にたどり着きました。しかし一帯はすでにムスビの神々を信奉する呉族などの先住者が住みついていて、入り込む余地がありません。越族はさらに東へと舟を進めます。ある集団は日本海を上し、ある集団は関門海峡を越えて瀬戸内海に入るか豊前、豊後と九州東部を南下していきます。瀬戸内海に入った越族は、最後に東端の淡路島にたどり着き、ようやく安住の地を見つけます。

 

(三)弥生前期後葉 (前三00~前一八0年頃)

 

イザナギ・イザナミ神話と銅鐸 

 淡路島と周辺地域に定着した越族は、中小河川の湿地帯を開墾していきます。葦原を燃やし泥や土を盛り、杭(くい)を打ち込み、地面を固め、村と水田を造っていきます。その痕跡はクニノトコタチ(大地)、クニノサヅチ(土)、トヨクムネ(稲の豊穣)、ウヒヂニ・スヒヂニ(泥)、オオトノヂ・オオトマベ、オモダル・カシコネの神々に残されています

 

次第に淡路島周辺にたどり着く越族の数が増え、播磨、摂津、河内、和泉、紀伊、阿波の対岸を含めると、約四人の規模に達しました。戸ほどの単位で、あちこちに部落や村が建設されていきます 

越族と土着の縄文人には補完作用がありました。縄文人が利用しなかった葦原の湿地帯が豊かな水田に生まれ変わり、秋には冬を乗り切るのに充分な稲の収穫がありました。物々交換など両者の交流が増え、次第に婚姻などを通じて融合していきます越族が故郷を偲んで、重すぎて舟に乗せることができなかった水牛の牛鈴を振っていると、先住の縄文人は金属の音色に魅了され、祭りで使われる銅鐸へと発展していきます。鹿や猪の肩骨を使って吉兆を判断する骨占いも伝播しました。

 

越族は故郷の越の神話を土台に国生み神話を創作していきます。イザナギとイザナミが天上から下界を見下ろすと、下界はどろどろとした混濁の世界でした。イザナギが柄杓で混濁の海を掻き回すと、柄杓からしずくが垂れ落ちて、おのころ島が誕生します。おのころ島は淡路島の南端の沖合に浮かぶ沼島(ぬしま)と伝えられています

 

 おのころ島に降り立ったイザナギとイザナミは御柱の周りを回り、妻のイザナミが先に誘って寝屋に入ると子供が生まれません。天の神々に相談すると、妻が先に誘ったのが悪いと言います。今度は夫が先に声をかけると四国を先頭に、島々が次々に誕生します

 次に太陽神、月神、嵐神の三貴神が誕生した後、山の神オオヤマツミなど自然界の神々が登場します。イザナミが火の神カグツチを生むと、イザナミは陰部を焼かれて死んでしまいます。焼かれ苦しむイザナミから小水がこぼれ、土の神ハニヤスビメが生まれます。イザナミは紀伊の熊野の花の窟(いわや)から黒潮に乗って、太平洋のかなたの根国へと旅立っていきました。

 天に昇った太陽神と月神は昼夜を分担して統治します。嵐神は母イザナミの死を嘆いて泣いてばかりいました。神々造りの使命を終えたイザナギは淡路島の幽宮(かくりのみや)に隠棲します

 

 イザナギ・イザナミ国生み神話は水田技術や銅鐸祭祀、骨占いと共に近畿地方の東西に拡散していきます

 

津山盆地の発展 

イザナギ・イザナミ神話と銅鐸文化は、西播磨からの移住者とともに、前三00~前二00年に瀬戸内海と日本海の中間に位置する津山盆地にも伝えられ、吉井川と支流の湿地帯が水田に変貌していきます。桑畑も増え、織物作りも発展します。津山盆地を見下ろす那岐山(なぎせん)にイザナギとイザナミが祀られました中国山地で銅が産出することも分かり、津山盆地で銅鐸など青銅器の製造が盛んになります。

 

イザナミが火神カグツチに焼かれて死ぬ場面が増幅されて、怒ったイザナギがカグツチを斬ると、武神タケミカヅチと剣神フツヌシが誕生し、津山盆地を中心にタケミカヅチとフツヌを信奉するトミ(富)族が勃興していきます。イザナギはイザナミを追って鍾乳洞から黄泉の国に入りますが、死の世界に入ったイザナミの姿に恐れをなして、地上に戻ってきます。イザナギ・イザナミ神話は伯耆(ほうき)・東出雲、備中・備後に伝わり、伯耆と備後の二つの比婆山イザナミの御陵となります

 

吉井川と並行して吉備の中央部を流れる旭川流域の住人は山岳部の縄文文化を残し、太陽神オオヒルメを信奉するオオヒルメ族と呼ばれていました。オオヒルメ族は①旭川の水源―蒜山・湯原、②上流―勝山、③中流―落合、旭町、④中流―建部・加茂川、⑤下流―御津(みつ)・浜野(岡山市)の旭川五部族から構成されていました。オオヒルメの棲みかは旭川の水源地の蒜山でした。太陽神オオヒルメは毎日、東から昇り、西に沈み、蒜山で眠りにつき、翌朝、再び東から天に昇っていきます

 

 

弥生中期

(一)弥生中期前葉 (前一八0~前一00年頃)

 

秦の始皇帝と衛氏朝鮮

前二00年前後、朝鮮半島南端の弁韓・伽耶地方―対馬―壱岐―北九州を結ぶ地域が大きく動き出します。その理由は中国の黄河流域と朝鮮半島、北九州を結ぶ交易が発展したことにありました。日本列島で産出するヒスイ、真珠、干しアワビと干しナマコなどが輸出品になります。

 

前兆は、前二二一年、秦の始皇帝が中国を統一し、朝鮮半島に隣接する斉(山東地方)、燕(遼東半島)も秦の領土となったことですこれにより、中国の東海への関心が高まっていきます。除福の一団がはたして日本列島に渡来したか否かは不明ですが、前二一九年に不老不死の薬を求めて東の海に進んだ除福伝説もこの流れに沿ったものです

前二一0年に秦の始皇帝が没し、前二0二年に前漢が誕生します。前一九五年、燕が前漢にそむいて匈奴に降服したことが引き金となって、燕人の衛満(えいまん)が鴨緑江(おうりょくこう)を渡って箕氏朝鮮に亡命します。その頃、中国と朝鮮の国境地帯には、秦から漢に移行する混乱期に、黄河北方の燕、斉、趙等からの亡命者数万人が滞在していました。衛満は亡命者を巻き込んで、翌前一九四年、箕氏王を謀略で追い出し、衛氏朝鮮を建国しました。衛氏朝鮮は前一0九年に前漢に敗北するまで八年間、王国が継続します亡命者の一部は半島南部に下り、後の辰国の母体となっていきます。

 

中国と朝鮮半島の新しい胎動の影響を受けて、対馬暖流を挟んだ対馬―壱岐―玄界灘沿岸で中国商人含め交易と人々の行き来が盛んになります。前二00年頃には壱岐の原の辻に伊都国の住人が移住し始めるなど、北部九州側も交易を積極化していきます。交易の発展と合わせて人口も増大し、各地の村はクニへと膨張していき、倭族としての共同体意識が芽生えていきます。倭族はタカミムスビなど、ムスビの神々を信奉していました。次第に倭族が住む地域が倭国と呼ばれるようになり、日本列島西部全体を意味するようにもなっていきます。

北部九州が日本列島の中心部になっていきますが、クニ同士の勢力争いが高まります。中国製の銅鏡が王族の富と力の象徴となり、鉄の輸入が増え、鉄鏃やじり)や鉄剣など青銅製より強靭な鉄製武具が登場します。

 

北九州の倭族の東下

倭族のクニグニは、交易と経済の発展に伴い人口が増え続け、飽和化していきます。しかし悩みは対馬と壱岐の二島は平地が少なく農業には不向きで、北九州地域も山岳部が海岸線にせまり水田や畑地に適した平坦部が少なかったことにありました限られた平坦部をめぐって勢力争い高まりクニから国へ統合化が進みます。この中で、大陸への窓口である伊都国と加工産業の奴国が抜きん出た存在になっていきます

 

はみ出された倭族の一部新天地と交易を求めて、東への移住を開始します。移住の仲立ちをしたのは北九州の宗像海人(あま)族でした。宗像族は、大陸からの渡来品や加工品(鉄器、銅鏡等)と米、生糸、水銀朱、海産物等の物々交換の交易者として、日本海、瀬戸内海、九州東南部で活躍していました。 

ムスビの神々を信奉する倭族は、先端技術と先進知識の持ち主として各地のクニで歓迎されました。九州東部ではタカミムスビ、出雲ではカミムスビ、丹後半島ではワクムスビ、瀬戸内海では忌部族のアメノフトダマ(祖神はタカミムスビ)、中臣族のアメノコヤネ(祖神はツハヤムスビ―イチタマ―コトムスビ)とムスビの神々が広がっていきます。

 

中臣族と忌部族

瀬戸内海に入った二族のうち、中臣族は祭祀儀式の知識を持ち、忌部族は農業と産業の先進技術を持っていました。忌部族降雨量が少なく水田には不向きですが、麻、木綿(ゆう)などの畑作に適し、石鏃(やじり)などに加工できる硬いサヌカイト石や銅も産出され讃岐に新天地を見出し阿波へ拡散していきます

 

備前の吉井川をさかのぼった中臣族と忌部族は津山盆地でトミ族と遭遇し、銅鏡など青銅加工の新技術を伝えます。イザナギ・イザナミを祖神として武神タケミカヅチと剣神フツヌシを祀るトミ族とアメノコヤネを祀る中臣族は次第に融合していきました。 

 次第に吉井川を縦軸として、津山盆地―瀬戸内海―讃岐を結ぶクニ連合が伸展を始めていきます

 

(二)弥生中期中葉 (前一00~前五0年頃)

 

前漢の武帝が朝鮮半島を植民地化

衛氏朝鮮の治世が八年間経過した後、朝鮮半島が再び大きく変貌します。前一0九年、前漢の第七代武帝が衛氏朝鮮を破り、朝鮮半島を植民地化します。武帝は半島北部に玄莬郡、西北部に楽浪郡(首都は平壌市)、半島南部に真番郡(前八二年に廃止)、日本海側の東北部に臨屯郡を置きます秦から前漢への移行期に半島中部・南部に亡命・逃亡した集団が辰国としてまとまり、土着の韓族は三韓(馬韓、弁韓、辰韓)の国々を打ち立てていきます。辰国は前漢が真番郡を廃止した後、真番郡に代わって中国文化の担い手役となります。

 

中国商人は辰国、韓地方まで往来し、北九州との交易は一段と興隆します。中国商人の狙いの一つは鉄鉱山の発見にありました。武帝は前一一九年にすべての鋳鉄所を国有化(国営製鉄所は四十六か所)し、塩とともに鉄の専売事業が前漢の屋台骨を支える資金源としました中国商人が先兵役となって、半島南部でも鉄鉱石探しが進められました。 

ある時、伽耶地方にいた交易商人が、真っ黒な良質の磁鉄鉱を市場で見つけます。磁鉄鉱は製鉄の原料でしたが、漢方薬で毒性がある辰砂(水銀朱の素材)の代用として鎮静・催眠のために用いられ、希少価値がありました。交易商人が出所を探っていくと海の南方海上にある倭の国からのものと判明します

 

倭の国に良質の磁鉄鉱が産出するらしい。噂はたちまちのうちに伽耶の港に広がります。一攫千金を夢見る伽耶の船乗りやあらくれ者が倭の国をめざします。北九州に着いた彼ら磁鉄鉱の出所を探すと、どうやら瀬戸内海の中央にある吉備の吉井川流域が産地のようで。北九州の倭族も追従して、吉井川をめざしていきます。荒ぶ(スサブ)集団と呼ばれるようになった彼らを宗像族の海人たちが船で運んでいきました

 

スサ族の誕生 (前一00~前八0年頃)

 倭族の海人、伽耶の海人、一攫千金を夢見る冒険者たちが雑多に混ざったスサブ集団は吉備に到達してから、吉井川の中流地域に大規模な鉄鉱地帯が存在する噂を聞きつけ、吉井川と支流の吉野川が合流する周匝(すさい)の港におしかけます。その数は約三人にも膨れ上がり、スサブ集団はスサ族と総称されるようになります 

噂は本当でした。吉井川周辺から、確かに磁鉄鉱、硫化鉄鉱、赤鉄鉱が産出していました。良質な磁鉄鉱を求めて、スサブ集団の先陣争いが始まります

 

高天原神話 (前八0~前五0年頃)

スサ族は鉄鉱石を求めて吉井川をさかのぼり、トミ族の中心部である津山盆地に入ります。宗像族の説明を受けて、新しい交易資源発見に興味を抱いたトミ族と中臣族はスサ族を受け入れます。スサ族の一部は上流の奥津、人形峠へと上ってき、他の一部は出雲街道を西に進み、追分を越えて落合で旭川に行き当たった所で、オオヒルメ族に取り囲まれますオオヒルメ族は、スサ族は中国山地の銅山を乗っ取りに来たと疑いをかけます。 

不信感を強めるオオヒルメ族に対し、スサ族の首領格となっていたイトヒコは「我々は領地を荒らしに来たのではなく、単に鉄鉱石を探しに来ただけだ」と釈明します。しかしオオヒルメ族の疑念は晴れません。

 

それならウケイ(誓い)をして、どちらが正しいかを立証しよう。自分たちの持ち物から男子が生まれたら領地を侵略しに来たと思われても仕方がない。女子が生まれるなら、侵略の野心はないことが証明され、私たちの潔白が証明される。 

まず旭川族の女首長がイトヒコの剣を受け取って噛み砕いて噴出すと宗像三女神が生まれます。次にイトヒコが女首長の珠飾りを受け取って噛み砕いて噴出すと五男神が生まれました。 

ウケイで潔白さが証明されたため、オオヒルメ族はスサ族を受け入れます。問題はその後に発生しました。スサ族はまだ統率がとれた集団ではなく、不届き者やならず者も紛れており、良質の磁鉄鉱を探そうと、砂鉄がある花崗岩脈の周辺を手当たり次第に掘り起こしていきました。このため山が荒れ、大雨が降ると里の川や田畑に土砂がなだれこむ災害が頻発し、オオヒルメ族とスサ族の間でいがみ合いが頻発します。オオヒルメ族はスサ族に戦いを挑みますが、鉄剣と鉄鏃を持つスサ族にかないません。勝ち誇ったスサ族は調子に乗って、鉄鉱石を求めて旭川族の領地をますます荒らしまわります。

 

 スサ族の狼藉に恐れをなした女首長や巫女(みこたちは奥地の蒜山高原に逃げ込んでしまいます。困りはてたオオヒルメ族は津山盆地のトミ族と中臣族、忌部族に泣きつきます

 スサ族を案内してきた宗像族も困惑します。トミ族、中臣族、忌部族と宗像族はスサ族を旭川流域から追放することを約束します。お詫びのしるしとして、オオヒルメ族に銅鏡を贈ります。太陽の光りを反射する銅鏡は太陽神オオヒルメが宿る神器として、オオヒルメ族が垂涎する品でした。約束どおり、スサ族は旭川流域から追放され、蒜山高原にたてこもった女首長や巫女たちも戻ってきました。

 

 オオヒルメ族や中国山地の部族は、太陽の光りが最も衰える冬至に、太陽の活力の復活を祈る祭りを盛大に行なっていました。オオヒルメ族トミ族・中臣族・忌部族・宗像族の和解の証として、オオヒルメ族の太陽神復活の冬至祭を土台に、太陽神と嵐神のウケイの対決と岩戸隠れの筋書きが付加された高天原神話が創作され、盛大な祭りが催されました。新しい冬至祭にはアメノコヤネとアメノフトダマの祝詞アメノウズメに代表される織姫たちの舞いの儀式も加わり、嵐神はスサノオ(すさの男)と呼ばれるようになりました

 

ヤマタノオロチ神話とスサ王家の誕生 (前五0年頃)

 旭川流域から追放されたスサ族は旭川を下り、中流の福渡(ふくわたり)に至ります。一団の首領イトヒコは、吉井高原を越えて周匝に戻ってから出直しをはかろうと考えながら、神目(こうめ)に着くと、土地の農民たちが一団にすがってきました。

「どうか人喰い大蛇(おろち)を退治してください。退治してくださるなら、我らの王とあがめま

 人喰いオロチはイトヒコたちがこれから越えようとしている竜王山と高ノ峰の間にある吉井高原に棲みついている、ということです。中でもひときわ巨大なオロチは毎年、里に下りてきて幼女を飲み込んでいくと恐れられていました。

 筑紫出身のイトヒコは故郷に戻ることを決めていましたが、置き土産として農民たちを助けてみる気になりました

 

一団は吉井高原に踏み入れます。確かにいたる所に小蛇が出没していました。土地の者に聞くと「人喰いオロチはそんなちっぽけな蛇ではない。ヒノキの大木のような胴体とウロコを光らせ、八つの頭を持っている」と言います

 オロチは確か酒が好物のはずだ、イトヒコは農民たちに酒を用意させ、八つの酒舟にたっぷりと酒を注ぎ、部下とともに夜がふけるのを待ちました。

 夜が明ける頃、地鳴りとともに見たこともない巨大なオロチが出現します。木陰にひそんだ部下たち腰を抜かしたほどでした

 八つの頭を持ったオロチは酒船に首をつっこみ、酒を飲み干した後、酔いがまわってその場で寝こみます

 

 イトヒコは意を決して、木陰から飛び出し、鉄の大刀で首の根元を一気に斬リ落とします。うねり狂うオロチの首根からものすごい量の鮮血が噴き出し、イトヒコも返り血をあびます。日が昇りだした頃、ようやくオロチは身動きをしなくなりました。イトヒコが太刀で胴体を斬っていくと、尾のあたりでカチッと金属音がします。切り裂いて見ると鉄剣が出現しました。飲み込まれた兵士が帯びていたものに違いありません

 狂喜した農民たちはオロチの死骸をとりまいて踊り狂います。五0人が列なるほどの巨大なオロチでした。約束どおり、イトヒコは吉井高原の王者に祭りあげられます

 

 吉井高原の里人たちの英雄となったイトヒコは周匝に戻ってから、吉井川流域に散らばるスサ族を束ねていきます。次第に吉井川流域から産する鉄鉱石の主体は硫化鉄で品質が低いことが分かってきました。良質の磁鉄鉱はごくまれにしか産出しません。鉄の精錬技術も知りませんでした。もう吉備に留まっていても仕方がない。スサ族の多く筑紫や伽耶に戻った方がよいと郷愁を抱き始めていました。イトヒコは宗像族の海人と筑紫に戻る船便の調達の相談を始めます

 

 その時、津山盆地のトミ族と中臣族が訪れてきました。ヤマタノオロチの尾から出現した剣を実見したいという申し入れでした。

「あっ、これは間違いなく行方不明になった大将の剣だ。スサ族のイトヒコ大将の仇を討ってくれたのだ」

 トミ族の大将も農民の要請を受けてオロチ退治に吉井高原に踏み入れましたが、行方が分からなくなっていた、ということです。イトヒコはトミ族から一目置かれる存在となります。

 

 そんな折り、伽耶国から来たあらくれ者の中に、鉄の精錬作業を実地に経験していた者がいました。徒労に終わることを承知で、粘土で炉を造り、磁鉄鉱、赤鉄鉱石や硫化鉄を薪と一緒にセ氏五度から六度に熱して還元させていくと、酸素が抜けてスポンジ状になった鉄塊ができあがりました。鉄塊を石槌で鍛錬して炭素など不純物を除去していく過程を繰り返していくと、粗製の鉄の塊から鉄を造ることができました。

できあがった鉄鎚は脱炭素度が低く、鏃や武具、農機具に加工するにはもろすぎましたが、灌漑土木用の木棒や板を打ち込むには役立ちました。あらくれ者の中に、伽耶国の洛東川などで大規模な土木工事の経験者もいました。

「鉄を使って荒地を開墾していったら、どうだろう」

 

 イトヒコたちは手始めに吉井川の両岸の微高地の荒地を開墾していきます。微高地は次第に広大な水田や畑に変貌していき、トミ族や中臣族を驚嘆させます。スサ族は、鉄製のを使って、河川の洪水を防ぐ堤防を築き、大規模な水田を開墾する灌漑土木集団へと変身していき、農民たちから尊敬を集めるようになります。スサ(つち)族の誕生でした。周匝イトヒコを王としたスサ王家の拠点となりました。

 

 

(三)弥生中期後葉 (前五0~七五年頃)

 

吉備勢力の膨張   

スサ王家の下に灌漑土木集団として新たにまとまったスサ族はトミ族と中臣族も加わる形で、各地に迎え入れられていきます。美作、備前では洪水を防ぐ治水工事が進み、荒地が肥沃な水田に変貌していき、スサ王家の富も増していきます。中臣族がスサ王家の祭祀を司るようになり、スサノオとヤマタノオロ神話が創作されていきました。

スサ族の象徴として、分銅形土製品(ふんどうがたどせいひん)が考案されます。分銅形土製品縄文時代の平板土偶が変化したものともいわれまが、祈祷用に神棚に飾られるか、ペンダントのように首からヒモで吊るし、目的が満願成就されると壊されますスサノオの娘神を祀る宗像族も飾るようになり、瀬戸内海全域に広がっていきます。

 

スサ王家の初代王となったイトヒコはイナダヒメとカミオオイチヒメの二人の后をめとります。カミオオイチヒメの子孫は近畿地方を主体にした瀬戸内海沿岸部、イナダヒメの子孫は山陰地方も含めた中国地方で発展していきます。それに伴って分銅形土製品日本海地域にも普及します

 

東と西に向かった勢力 カミオオイチヒメ・オオトシ系  (前五0年頃)

カミオオイチヒメの系統は灌漑土木集団として、イザナギ・イザナミ神話の流れに逆流する形で、播磨、摂津、山城へと東下していきます。スサ族に加えて、トミ族集団に加わっていました。近畿地方への進出は、攻撃的というよりも、豊穣をもたらす土木工事集団として拡大します。次第に小規模都市のクニが各地に勃興していき、砦として高地性集落が登場します。生駒山を挟んで大和地方と河内地方に誕生した登美(とみ)国もその一つでした。 

それに合わせて、カミオオイチヒメの子孫の系譜が近畿地方に拡がっていきます。子神オオトシはカガヨヒメ、アメシルカルミヅヒメ、イヌヒメの三人の妃を迎えますが、播磨を拠点にミトシ(御年)、オオヤマクイ、オオクニミタマ、オオヤマクイなどオオトシの子神を祖と仰ぐクニグニが増えていきます。

オオトシ系は西へも進出して行き、安芸の太田川河口を中心部とした広島湾に、筑紫と吉備、伊予と出雲を結ぶ中継貿易国「投馬(伴)国」を建国しました。

 

中央勢力 イナダヒメ・スサ王家 (周匝と下市時代)

 周匝に残った宗家は、前五0年から五0年の一00年間は、津山盆地、備前の周匝と下市、讃岐の縦軸を中心にゆっくりと成長していきます。強みは周佐(すさ)周辺の鉄鉱山の利権を握っていたことにありました。また讃岐の忌部族が産出するサヌカイト製の鏃も役立ちましたし、備前と讃岐では土器に濃縮した海水をためて火で焼く製塩業も発達していきます

 

大土地王オオナムチ

六世代が過ぎ五0年頃には、瀬戸内海中央部のスサ王家は大勢力となっていました。周匝のスサ族の宗家は、土木技術者と道具、食糧を提供して、湿原地を大型開拓する事業の勧進元になっていき、貴族化と荘園化が進みます。開墾団はスサノオ祖神とするスサ族オオナムチ集団と呼ばれるようになり、次第に瀬戸内海地域、日本海地域で勢力を広げていきますオオナムチには、大規模な土地を切り開くという意味がこめられていますが、開墾団の神さまとして信奉されていきます。

 

瀬戸内海側では備前を中心としたグループが成長していきます。宗家の次男が下市を拠点として吉備スサ王国を建国し、大規模な開拓事業を通じて、備中・備後と西に向けて勢力を拡大していきます。旭川の西にある吉備津は足守川河口から高塚を経て総社平野高梁川に至る三日月地帯が発展しました。開墾団は高梁川を越えて山陽道を進み、備後の芦田川流域まで達し、吉井川、旭川、高梁川、芦田川の吉備四大河川の河口の扇状地やデルタ地帯が肥沃な水田に変貌していきました開拓団は余勢をかって備後北部の三次盆地まで進出します 

吉備は、大河川がなく山がちで水田開発に限りがある九州北部に米を輸出する穀倉地帯となり、吉備スサ王国の土台ができあがります。オオナムチの神瀬戸内海を守る神オオモノヌシに昇華していきます

 

讃岐・阿波では忌部族を主導に畑作が発展し、麻と木綿の大産地になります。ことに吉野川流域に広大な沖積平野が広がる阿波では、農業が大発展し、阿波王国は強力となっていきます。 

日本海側では伯耆・東出雲を主体としたグループが発展していきます。伯耆に入ったオオナムチ集団は日野川沿いにり、紀元初め頃に淀江に拠点を構えて米子、安来、東出雲(意宇郡)へと進んでいきます。淀江港を見下ろす丘陵に大規模な砦集落(妻木晩田遺跡)が造られました。

 

備前北部の、吉備、安芸、出雲、石見の四地方交錯する地点に位置する三次盆地のスサ族は、現地人と融合してヒトデのような形をした四隅突出型墳丘墓を造り出した後、西出雲に下っていきます。主力は三次盆地から出雲の赤名、多根を経て斐伊川沿いの三刀屋に出て、飯石郡と大原郡を占拠します。その後、斐伊川を下り仏経山麓の出雲郡で、東出雲から西進してきたスサ族と合流して、筑紫地方から移ってきたカムムスビ族が治める西出雲王国に侵入し、七五年頃に神門湾地域に神門王国を樹立しました。三次盆地で発生した四隅突出型墳丘墓が出雲地方に拡がっていきます。出雲地方では土着神のヤツカミズオミヅノ、カミムスビに、スサノオ系譜の神々も加わり、オオナムチはオオクニヌシに転化します

 

 

四、弥生後期

(一)弥生後期前葉 (七五~一五0年頃)

 

西日本の覇者に  (吉備津時代)

中国では前漢が衰退し、八年に王莽が「新」王朝を設立して青銅貨幣「貨泉」を発行しますが、二二年に滅びます。二五年に光武帝が後漢を樹立し、五七年に倭の奴国に金印を与え、北九州を中心とする倭国は後漢の柵封体制の中に組み込まれます。後漢から金印を授与された奴国は倭国の中心国となり、奴国で加工、製造される青銅・鉄製品、ガラス製品は西日本の諸国へ輸出されていきました。しかし奴国は周辺の国々を統合して自国の領土を拡大する軍事大国には至りませんでした

 

逆に吉備国の西進は着々と進行します勢力を拡大していくスサ族勢力にとっては、鉄の確保が必須でした。鉄は武器用だけでなく、鋤、鍬、鎌など農機具向けに必要不可欠でした。

 鉄の輸入を押さえる北部九州の奴国と伊都国を勢力下におさめることが吉備勢力の最終目標となります。スサ王家の下に中臣、忌部、宗像の三氏族が連動し、これに出雲王国と阿波王国も加わり、五0代年から七0年代にかけて、九州東部の豊前を制圧した後、北部の筑前地方を奴国に向けて進んでいきます。吉備連合が奴国・伊都国に攻め入る過程で、日向のヒコイツセとイハレビコ(神武天皇)一族が宗像族の仲介で遠賀川河口の岡の湊の警護役として雇われました。

 

 宗像族の手引きと西出雲の神門王国の助けもあり、吉備スサ王国はついに奴国と伊都国を制覇し、西日本の覇者、倭国の盟主となりました。その直前、奴国は後漢の光武帝から授与された金印を、朝鮮半島との交易海人である安曇族の本拠地志賀島に隠匿しました。奴国征服を象徴するように福岡平野の東部にイザナギ、西部の早良平野の飯盛山にイザナミが祀られます

 当時の産業センターだった奴国の工人は豊前や瀬戸内海の吉備スサ王国圏へと徴発されていきます。奴国の王家は滅亡しましたが、伊都王国は壱岐、対馬、伽耶国、後漢とを結ぶ交易国、吉備の傀儡国として王家は継続されます

 実力を評価されたヒコイツセとイハレビコ一族は安芸の太田川河口、吉備の吉井川河口の警護を任された後、吉備王国と宗像族の要請を受けて、八三年頃に水銀朱の交易路開拓で大和地方に進出し、八七年頃に大和盆地南西部に狗奴()国を建国します

 

一00年頃、吉備スサ王国は首都を備前の下市から、旭川と高梁川の中間に位置する足守川の吉備津に遷し、吉備邪馬台国王国が誕生します。吉備中山の山麓に位置する足守川流域は、イザナギを祀る那岐山、オオヒルメを祀る神ノ峰、スサノオとフツヌシを祀る石上布都魂神社と直線上に位置しています。出雲の神門王国と阿波忌部王国が姉妹国として成長すると同時に独立性を強めていきます

 

吉備国王の師升が一0七年に後漢に遣使を送り、自ら進んで後漢の冊封体制下に入りました。奴国、伊都国を経由して、朝鮮半島南端の伽耶国と瀬戸内海の吉備を結ぶ交易海路が確立し、イソタケルを信奉する伽耶国の海人たちの船が瀬戸内海や日本海に寄航するようになります。イソタケル族は外洋を乗り切る大型船の造船技術を倭国に伝え、紀伊や出雲、佐渡島にまで寄航します。いつのまにか、イソタケル族は宗像族の向こうを張って、俺たちもスサノオの子神を祖とすると自称するようになります。古代朝鮮語で「神」を意味する「クマ」をつけた熊野、熊山などの地名がイソタケル族の寄港地の出雲、安芸、吉備、紀伊などに残されていきま。同時に後漢の中国文化や民間道教、陰陽五行説の理念も伝えられますその一方、吉備邪馬台国王国ではオオモノヌシ信仰が膨らんでいき、熊山と穴海の守護神となります

 

 吉備津の市場が盛大となっていきます。水流が多く水深も深く安定している高梁川河口の酒津や原津が国際港になります。酒津に加えて児島周辺の島々、足守川河口の上東港や笹ヶ瀬川がイソタケル族、宗像族など交易海人の拠点となっていきますが、この頃からイソタケル族と宗像族の交易権争いが芽生えていきます

 

 

(二)弥生後期後葉 (一五0~一九0年頃) 

  

楯築王の絶頂

二世紀後半に入ると中国の後漢は分裂状態に陥っていき、冊封体制にもひび割れが生じていきますが、吉備邪馬台国王国は三代目か四代目にあたる楯築王の時代に絶頂期に達します。直轄地は吉備、讃岐、西播磨、伯耆の一部(淀江)、影響圏は九州北部と東部、四国全域、瀬戸内海東部、日本海西部に及び、倭国の盟主として君臨します。スサ族王家の象徴は分銅形土製品から弧帯文に変り、銅鐸が消滅していきます

 

楯築王は小柄で小太りだが精力絶倫の頑丈な身体を誇っていました。性格は豪放で猪突猛進的ながむしゃらさがありました。在世中から倭国最大となる自分の墳丘墓造成を始め、円球部分の径が四十メートル、左右の細長い方形突出部がそれぞれ二十メートルの大規模なものになりました。 倭国の盟主の座を象徴するかのように、墳丘墓には大型の特出壺と器台(立坂形)が飾られます。

 しかし悲しいかな、数名の后をかかえていたものの子宝に恵まれませんでした。姉は姉妹国の出雲王国に嫁いでおりましたが、それが楯築王の死後、倭国大乱の要因となります

 

倭国大乱 

一八0年頃、楯築王が急逝しました。後継者は育っていませんでした。真っ先に王位継承を名乗り出たのが、楯築王の姉の息子である出雲の神門王国の王でした。しかし吉備王国内だけでなく、阿波、播磨勢力が反発し、倭国連邦は南北分裂の様相を呈していきます。

側は日本海側の出雲を主体に伯耆、備後と安芸の北部が呼応しました。南側は吉備王国内の備前、西播磨、讃岐に加えて、阿波王国と伊予勢力が加担します。しかし南北とも一枚岩ではなく、それぞれの思惑も複雑に絡んで収拾がつかなくなり、倭国は十数年間も続く大乱となります。

 

仲裁役は周匝のスサ宗家でした。スサ宗家は実権は失っていましたが、形式的には瀬戸内海地方と日本海地方に拡散したスサ族を統括する象徴的な威厳は維持していました。

 周匝のスサ宗家に何度も仲裁が求められます。しかし宗家の主は優柔不断な性格でした。宗家の総領としての自負心だけは強いが、媚びやごますりには弱い人物でした。宗家の復権を画策して、時には伯耆、出雲勢につき、時には讃岐、阿波勢につきます。双方から賄賂も受け取り、もつれた糸球はますますもつれていきます。宗家には息子一人、娘が二人いましたが長男は病弱で、意志も薄弱でした。父と兄に代わって、各国の使者や密使を鮮やかに取り仕切っていったのは、一五歳に成長していた長女ヒミコだった。

 

ヒミコは時代の荒波に翻弄される父の後ろ姿を見ながら巧みな社交術を見につけていきます。まだ十歳代の若さでしたが、気丈夫なしっかりもので、各国からの使者の応対にたけ長男と長女が逆だったらと周囲が嘆いたほどでした。ヒミコは幼い頃から宗家の巫女としての修養をつみ、ことに舞いは名人の域に達していました。内乱が長引くに連れ、各国は宗家の主は信用できないことに気づいていきます。北側も南側もヒミコを女王に担ぎ上げれば、事態は丸くおさまり内乱は収束するのではないか、と感じるようになります

 

 

五.弥生終末期

(一)弥生終末期前葉 (一九五~二四七年頃)

 

ヒミコの即位

一九0年代の中頃、十数年に及んだ内乱の後、ようやく宗家の長女ヒミコ共立で東西の間で意見がまとまりました。一七八年頃に生まれたヒミコは一七歳になっていました。身長一六七センチメートルくらいのほっそりした、当時の女性としては長身でした 

ようやく楯築王が自ら築き、弧帯文が刻み込まれた立坂たちざか形の特殊壺・特殊器台が据えられた墳丘墓に、各国、各地の王族と豪族が集まり、王権をヒミコに継承する秘儀がおごそかに行なわれます。墓前でヒミコが舞います。秘儀にいあわせた誰もがヒミコが発する神秘性に女王としての資質を感じ取りました。

 

しかし吉備王国の弱体化はいなめません。ヒミコが就任してからも、出雲王国と阿波王国、それに続いて丹後王国と半島への窓口である伊都国が独立性をさらに強めていきます。出雲ではオオクニヌシ信仰、阿波ではアメノフトダマの子神アメノヒワシ信仰がより盛んとなります。出雲神門王国は倭国の新しい盟主の座をあきらめず、吉備の工人に特殊器台と特殊壷を発注し、中国山地を越えて出雲に運び込みます。発足まもないヒミコ政権は横槍を入れることができず、出雲のなすがままにさせるしかありません。運び込まれた特殊壺と特殊器台は後に大型の四隅突出型墳丘墓の西谷二号墳と三号墳に飾り立てられます出雲王国に覇を競うように阿波王国でも円球部の径二十メートルの前方後円形の萩原二号墳が築かれ、大和型前方後円古墳の祖形となります。丹後王国でも赤坂墳丘墓、伊都国では平原墳丘墓といった大規模墳丘墓が築かれました。 

ヒミコ政権は王国の中枢を固めるためにヒミコの妹を讃岐忌部族の田村宮に嫁がせます

 

帯方郡との交易

 その頃、中国や朝鮮半島では後漢の支配力が低下していいました。そのどさくさに乗じて、一九0年に公孫度(たく)が玄莬郡の下役人から出世して遼東太守に昇進した後、玄莬郡と楽浪郡を手中にしします。後漢の首都洛陽では一九六年に曹操が後漢の実権を握り、魏王朝の基礎を作ります。公孫度は余勢をかって二0四年に楽浪郡の南に帯方郡を設置して、韓族や日本列島の倭国まで、新しい帯方郡に属することを示しました

 

女王に即位したものの、ヒミコ体制は倭国大乱の余波が残り、支配体制脆弱でした。二一0年頃、公孫氏の帯方郡から使者が訪れ、倭国大乱後、途絶えていた中国との交易が復活します。帯方郡との関係強化はヒミコにとって、吉備邪馬台国のひび割れと弱体化を防ぐ好機到来でした。独立性を強めていた傀儡王国である伊都国の警備がヒミコ政権の手で再整理され伊都国を窓口に帯方郡との交易権を独占する体制ができあがります。安芸、伊予、出雲経由の三交易ルートが再活性化していきます

 

狗奴国の阿波侵入

倭国大乱の動乱期、西日本の東端では大きな変化が生じていました。大和盆地西南部の南葛城地方に八七年頃に建国された狗奴国は第五代カエシネ王(孝昭天皇)の時代に伊勢、美濃、尾張の国々を破り、東海地方に勢力を拡大しました。二世紀末の第六代クニオシビト王(孝安天皇)の時代に入ると、大和盆地全域を制覇した後、紀伊の紀ノ川河口から淡路島南部に進出し、第七代フトニ王(孝霊天皇)の時代に阿波王国の本拠地である吉野川河口に攻め入りました。

 

阿波王国はヒミコ政権に支援を求めましたが、帯方郡との交易ルートの確保と維持を優先せざるをえないヒミコ政権には阿波を支援する余裕はありませんでした。讃岐忌部は大坂山の峠で狗奴国軍の進出を何とか食い止めました。しかし狗奴国二二0年までに阿波王国を征服し、倭国は西の吉備邪馬台国、東の大和狗奴国の二大国時代に入ります。狗奴国軍の侵入を受けて、阿波の吉野川中流の住人は讃岐に、南部の住人は舟で東国に逃れていきます。東の大和狗奴国の急膨張に対応して、ヒミコは帯方郡との関係を強化していきます。宗像族は狗奴国と邪馬台国とのバランスに配慮しながら、仲裁の役割も果たしつつ狗奴国との関係を深めていきま

 

ヒミコの治世 

 二二0年、後漢は曹氏の曹丕に禅譲されて魏王朝が成立し、魏、蜀、呉の三国時代に入っていきます。中国北東部と朝鮮半島西部をおさえる公孫氏は魏と呉の間を巧みに泳いでいきます。

 

 二二0年代に入ってようやくヒミコ体制が安定し、吉備邪馬台国は落ち着きを取り戻します。男弟が政治を補佐する形で、比較的平和な時代が二四0年頃まで続きます側近の一人がヒミコの内縁の夫となり、息子が二一三年頃に生まれます側近は王族ではなく、身分が低かったことから息子は公表されずに隠し子として王宮の中で内密に育てられます

朝鮮半島との交易が発展し、新文化が入ってきましたヒミコは中国製の着物を愛用します。舶来の着物は色彩が豊富で、背が高いヒミコが着ると美しさがひときわ目立ち、誰もが畏敬の念を抱くようになります。竪穴式の墳丘墓は木槨からへと進歩します灌漑用の溜池の技術が伝わり、陰陽五行説の方位学も理解度が深まっていきます。吉備津では高塚遺跡周辺から高梁川にかけてが渡来系交易者の居住地になります

 

吉備の文化と神道祭祀も成熟化していきます。神話はイザナギ・イザナミ、オオヒルメと高天原、スサノオのヤマタノオロチ退治、オオナムチ・オオモノヌシが体系づけられていきます。墳丘墓を飾る特殊壺・器台は華麗な向木見むこうぎみ形へと発展し、二三〇年代には吉備邪馬台国の文化最高潮に達していきます

 

周匝の宗家は、跡継ぎであるヒミコの兄が幼い頃から病弱で、複数の后をめとったものの子供に恵まれせんでした。讃岐の田村宮に嫁いだヒミコの妹が産んだ二人の息子のうち、次男が宗家の養子に入り、名前もスサヤマヲに改名して宗家安泰となります。田宮宮の跡取りの長男はトヨとモモセヒコの一男一女をもうけました。

 

魏への遣使 

 二三八年に魏が公孫氏を破り、帯方郡の新しい支配者となりました、すかさず邪馬台国は翌二三九年に魏に使者として帰化人のナシメ(難升米)等を遣り、魏に忠誠を誓います進んで魏の冊封体制に入った理由はひたひたと勢力を拡大している大和狗奴国を牽制する意味合いもありました。ヒミコはすでに歳を越えていました。

 

第一回遣魏使は、ナシメが皇帝の明帝に好印象を与えたこともあり、破格の待遇を受け大成功となりました。その当時、首都洛陽では、日本列島は九州島から東北方向ではなく、西南方向に細長く伸びて、敵の呉の沿岸地域に接近していると考えられていました。公孫氏が支配した帯方郡が魏と呉の双方の間を狡猾に泳いだ前例を避けるため、魏王は呉が先手を打つ前に、倭国を自国の柵封体制の中に組み込み、東海地域を安定させたい政策もありました 

「呉が魏に攻め入った場合は、倭国が呉に攻撃を仕掛けましょう」とナシメが大見得をきった場面が想像できます。

 

 明帝はその直後に他界し、二四0年(正始元年)、斉王芳(せいおうほう)が即位しましたが、倭に対する好意的な政策は変わらず、梯(てい)しゅんが明帝が約束した贈り物を届け、ヒミコは返礼の遣使を送ります。二四三年(正始四年)、第三回目の遣魏使が派遣されました。

道教教団の五斗米道などの魏の民間信仰が伝わり、ヒミコは五斗米道の踊りに興味を持ちました。異国の舞いの影響を受けて、六歳を越えた後もヒミコの舞いはますます磨きがかかっていき、神秘性増していきます。神々に祈るヒミコの舞いを見る者はヒミコがまるで女神のように見えました。

 

狗奴国の挑戦 

二三0年代に入ってから、東の狗奴国は第七代フトニ王(孝霊天皇)の下で、播磨に向けて着実に勢力を伸ばし二三九年にフトニ王が他界した頃にはとうとう、東播磨まで支配下におさめ、吉備邪馬台国の国境に近づいていました。狗奴国の王は息子のクニクル王(孝元天皇)が継ぎます。フトニ王の兄、クニクル王の叔父にあたるオオキビモロスス(大吉備緒進)将軍の指揮下で、西播磨攻略が図られ、度々吉備軍と衝突するようになります

 

二四五年頃になると、朝鮮半島きな臭くなってきました。魏の支配に対し、北方では高句麗が反旗をひるがえしましたが、魏は即座に高句麗を攻撃して打ち破ります。半島南部の馬韓諸国の反抗も表面化します。反乱が倭国に飛び火することを警戒した魏は二四五年(正始六年)、吉備邪馬台国のナシメに黄色の軍旗を賜(かし)します 

翌二四六年、馬韓諸国が帯方郡を攻撃しました。宗像族から馬韓諸国の反乱を聞いた狗奴国クニクル王は、呼応するように邪馬台国に大攻勢を仕掛けます。狗奴国軍は東播磨の加古川から西播磨に進み、揖保川河口を占拠します。オオキビモロスス将軍に従って、クニクル王の弟たち、ヒコサシカタワケ、イサセリビコ、ワカヒコタケキビツヒコ、ヒコサメマの四人も、まだ)十歳前後の少年でしたが従軍しました。

 

 しかしクニクル王の期待に反して、魏と帯方郡は馬韓諸国の反乱を押さえ込みます。二四七年(正始八年)、ヒミコは帯方郡に緊急の遣使を送り、狗奴国との交戦状況を説明して支援を求めます。帯方郡は張政を将軍とする支援軍を吉備邪馬台国に派遣し、ウラと弟オニ(王丹)も部下として来日しました。狗奴国では、その間にクニクル王が他界してしまいました。クニクル王を継いで第九代を即位したオオビビ王(開化天皇)は父の遺言に従って吉備攻略を継続しますが、帯方郡の援軍を得た吉備勢が巻き返します。両軍は揖保川河口と龍野の粒丘(いいぼおか)を挟んでこう着状態となります

 

ヒミコの死

狗奴国からの攻撃を防ぐことに成功して一息がついたものの、老衰に心労が重なり、ヒミコも同じ年に六十九歳の長寿をまっとうしました。治世年数は半世紀を越えていました。楯築王の墳丘墓の近く、足守川を見下ろす矢部の尾根に東西四十メートル、南北三二メートルの前方後方の墳墓が築かれ、ヒミコはおごそかに葬られました。墳墓には第二期の向木見形の特殊壺・器台がられます百人の男女の従者殉死しましたが、わずかに侍女アヤメなど若い数名殉死を免れます

 

ミコの遺言は隠し子として育った息子を跡継ぎの王にすることでし遺言どおり、三四歳になっていたヒミコの隠し子が王位を即位しましたが、日陰の子として育ったこともあり、王としての威厳や統率力欠けていました。多くの豪族や諸国は新王を承服せず、一人以上が殺しあう内乱となり、新王は殺されてしまいます

 

翌二四八年、ヒミコの妹が讃岐に嫁入りして生まれた息子の長女、三歳のトヨが新女王に選ばれました。阿波を征服した狗奴国への牽制のため、讃岐勢力との結束強化の意味もありました。トヨは歳の頃、王宮の祭りの際に、父親と共にヒミコに面会し、ヒミコの舞いを見たことあったが、すごく老けた大叔母という印象しか残っていませんでした。

 

 トヨが女王に就任すると、ようやく王国内は安定します。それを見届けた張政は後事をウラ兄弟に託して帯方郡への帰還を決めました。

 トヨは張政、通訳、大夫ナシメの大人たちに囲まれて励ましを受けます。張政はおどおどする三歳の少女に慈父のように優しく語りかけました。通訳を通じて理解したことは「私は帯方郡に戻るが、ウラ兄弟と兵士たちを残していく。狗奴国が再度攻め込んできても、魏と帯方郡が必ず撃退するから心配はいらない。どうかヒミコさまを継ぐ立派な女王になられてください」という内容でした。

 

 気がついてみたら、女王に祭りあげられてしまっていた。なぜ、そうなってしまったのか、いまだに実感がわかない。大変な重荷を背負わされてしまったことは間違いない。とにかく大人たちの言うことを素直に聞いて、いざとなったらウラ兄弟と帯方郡を頼りにすればよいのだろう。

 

(二)弥生終末期後葉 (二四八~二六六年頃)

 

トヨの時代

張政は二四七帯方郡に帰還しますが、張政を帯方郡まで送り届ける形で、トヨの第一回遣魏使が派遣されます。洛陽に着いた遣魏使一行を皇帝の斉王芳(せいおうほう)が厚くもてなします。トヨの献上品は生口三人、白珠五孔、青大句珠二枚、異文雑錦二匹などでした。

 

 しかし翌二四九年、頼みにする魏にひび割れが生じます。一月に司馬仲達がクーデターを起こして魏の実権を握り、魏王朝は事実上、司馬氏に握られてしまいました。司馬氏の目標は魏、蜀、呉の三国に分裂した中国統一にあり、朝鮮半島や倭国に対する東方政策は二の次になってしまいました。

 

時代は乱世をはかなんだ竹林の七賢人、老荘思想が流行する世になっていました。 帯方郡は司馬氏の台頭に批判的だったこともあり、批判派の政治亡命者が洛陽から帯方郡に押しかけます。帯方郡は中央政府の司馬氏への対抗意識もあって、倭国との交易を重視し関係を深めます。帯方郡からは交代で大使が派遣され、邪馬台国と帯方郡との関係はますます緊密になりました。大規模な貯水池を造る最新の土木技術が伝わり、トヨ政権は灌漑土木による農産物増大に力を入れます。ことに阿波を征服した狗奴国への対策も念頭にして、故郷の讃岐に灌漑池を築いていきました。

 

吉備・邪馬台国は平静を取り戻します。狗奴国とは揖保川を境として対峙したまま、二六六年までこう着状態が続きます。平穏の日々が続き、トヨの養育係となった侍女アヤメは神に奉げる織物作りをトヨに教えます

 

 中国では魏の実権を握った司馬氏による中国統一化が現実味を帯びていきます。二六三年に魏が蜀を滅ぼし、三国時代が終了します。江南の呉の勢力も弱まっていき、呉の海岸線に接近していると考えられてきた倭国の重要性が薄らいでいきます。

二六五年一二月、魏は司馬炎に禅譲されます。司馬炎は晋の武帝(在位二六五~二九0年)となり、晋国が誕生しました。間髪を入れずに、翌春、トヨは十八年ぶりに中国に遣晋使を遣ります。不運なことに遣晋使が出立した直後に、吉備邪馬台国は大和狗奴国の急襲を受けましたが、遣晋使はそれを知らないまま、帯方郡に着きました。

トヨと邪馬台国の思惑は、晋国の建国に合わせて洛陽の中央政権との関係修復にありました。帯方郡も邪馬台国の遣使に期待を寄せましたが、東方政策にあまり乗り気ではない武帝は遣使を冷遇しました。

 

晋は二八0年に呉を併合し、六0年ぶりに中国全土の統一が達成されます。二六五年から二九0年の二五年間が晋の絶頂期となりますが、二九0年に武帝が没した後、八王の乱や北方民族の侵入により晋は衰退していきます

 朝鮮半島北部では高句麗が息を吹き返し三一三年に楽浪郡、三一四年に帯方郡を占拠し、楽浪郡と帯方郡滅亡します。三一六年に晋(西晋)が滅亡し、晋王室は南部の建康を首都にして東晋を始め、中国北部は五胡十六国の時代となります。半島南部は、馬韓では百済、辰韓ではシラ(斯蘆)が勃興して、それぞれ統一に突き進んでいきます

 

 

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