邪馬台国論争が新井白石以来、三世紀以上も決着がつかない二つの要因と自虐的古代史観  

      ――二つの要因は、①魏志倭人伝の編纂者の誤判断、

             ②日本書紀での神功皇后と卑弥呼・台与との曖昧な同一視――

 

《1》  三国志・魏志倭人伝の編纂時の政治状況

      参照:自説の要旨2.⇒邪馬台国の鬼道は神道にすぎない

 

(後漢と魏時代の旅行記と外交記録をもとに、西晋が編纂)

倭国から中国への遣使は、後漢(25年~229年)、魏(220年~265年)、西晋(265年~316年)にまたがる六回が記録されています。後漢時代では「57年の奴国の金印」と「107年の帥升」、魏時代は女王ヒミコによる「239年、243年、245年」の三回、西晋が成立した翌年266年のトヨ(台与)による遣使となります。

 

ヒミコの一回目の遣使は、遼東の公孫康が204年に置いた帯方郡を魏が238年に手にした翌年に当たり、朝鮮半島への影響を強めていた魏の倭国への関心が高かったことが窺えます。これに対し、魏から西晋へ禅譲された265年の翌年、台与がすかさず西晋に朝貢したものの、西晋は南の呉を倒して全国統一を果たすことを優先したこともあって、倭国にはさして興味を持ちませんでした。北西部の満州地域、北東部の朝鮮半島と倭国を軽視した結果、北西部の部族が勢いをつけ、西晋の短命につながって行きますが、266年のトヨの西晋への遣使から仁徳天皇の413年まで中国との交信記録は途絶えます。

 

「三国志・魏志倭人伝」の編纂は西晋の成立から15年後の280年から始まりました(280年~289年)。黄河中流に位置する洛陽の魏志倭人伝の編纂者チームは、実際に倭国を見聞した者は皆無で、後漢・魏時代の複数の旅行記や「魏略」(魏の末か西晋の初めに公表)と魏時代から引き継がれた外交記録や帯方郡からの報告書を素材としました。

 

(方位に対する帯方郡と首都の洛陽との見解の相違)

編纂作業に加わった西晋の若手スタッフの一人が「夏の皇帝の子が会稽に封じられる、水に潜る、入れ墨の風習」などから沖縄諸島を連想して、倭国は「まさに会稽・東冶の東」と言い出しました。呉を破った直後の西晋にとっては、呉に何かの大事が生じた場合に、呉の東海に位置する倭国が役立つのではないか、との期待もあったのかも知れませんし、「魏時代の誤りを見つけた」と魏を見下す気持ちもあったことでしょう。

この結果、不弥国から投馬国、邪馬台国、狗奴国への方角を原資料の「」から「」に変更しましたが、これが「邪馬台国は九州か大和か」論争の要因になりました。魏略でも女王国から狗奴国への方角は「」となっていますが、半世紀後(432年~449年代)に編纂された「後漢書」では「」になっています。西晋の発足後、呉の制圧を期待する洛陽の有識者の間では、「倭国と沖縄諸島を同一視する」風潮が高かったことが窺えます。

 

(邪馬台国の国名と神秘的なイメージ)

魏志倭人伝で「邪馬台国」を指す箇所を見ると、「邪馬台(壹)国に至る。女王の都する所なり」、「女王国」、「親魏倭王」、「倭王」、「倭の女王」が挙げられますが、「邪馬台(壹)国」の記述は一か所のみです。

ここから、女王が支配する国名は「倭国」であり、「女王の都する所」は「倭国の王都・王宮がある場所」の意味にもとれます。

自説の邪馬台国吉備説では、酒津か原津の港に着いた帯方郡の使者団の一人が、「王宮はどこにあるのか」との問いに、船着き場の倭人が「山手(YAMATAI)にある」と答えたのが通称になったのではなかろうか、と推測しています。ちなみに、大和の場合は「山門(YAMATO」、下の道に対する「上の道の入り口」との意味合いになります。

 ヒミコは「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」の一文から魔術師を連想してしまい、邪馬台国をますますミステリアスな国だと、想像を膨らます人も多いようですが、神道の「神託を受ける儀式」を実際に見聞したのではなく、又聞きをしたにすぎません。

 以上の点から、魏志倭人伝を絶対視するのではなく、あくまで副次的な参考資料と読み進める必要があります。

 

 

《2》  日本書紀の編纂時の政治状況

 

(飛鳥時代後半から奈良時代初期の国際情勢)

 大化の改新により、各国の行政は地元の豪族である「国造」から、中央政府が任命して派遣する「国司」の時代に入りました。「日本・百済対新羅・唐」の対立の中で、白村江の戦いで唐軍に敗北した後、新羅・唐連合が日本に襲撃してくる恐れが生じたことから、平安時代初期まで、北部九州に防人(守備兵)が置かれます。古事記と日本書紀はこうした状況の中で編纂されました。

645:大化の改新。663:白村江の戦いで唐軍に敗北。672:壬申の乱。

712:太安万呂(意富氏の末裔)が古事記を編纂。目的は氏族の系譜の整理。

720:舎人親王を中心に日本書紀を編纂。目的は唐・新羅に誇れる国史の編纂。

 

(古事記に対する遣唐使経験者、渡来人系学者からの批判と質問)

 古事記の編纂は、大化の改新以後の混乱により、乱れが目立ってきた「氏族の系譜」を整理整頓する目的で実施されました。編纂者の太安万呂(おおのやすまろ)は神武天皇の王子で、第二代綏靖天皇の兄カムヤイミミ(神八井耳)を始祖とする意富(おふ)氏につながり、大和王朝の歴史を伝承する役割を担う一族でした。

 

古事記が公開された後、遣唐使経験者を主体に「こんな生ぬるい内容では、唐・新羅の歴史書には対抗できず、不十分である」、「歴代天皇の年代の記載が欠如している」なとの声が上がりました。応神天皇の治世下、五世紀初頭から渡来してきた漢籍学者からは、「三国志や後漢書などに言及されている『邪馬台国』の国名・場所、女王ヒミコ(卑弥呼)とトヨ(台与)の記載がないのは何故か」、「随書(629年に編纂)は『邪馬台国は大和国』だと言及しているが」などとの疑問が噴出しました。

 

(折衷案は、神功皇后と卑弥呼・台与を曖昧なまま同一視する)

 ところが日本側は、邪馬台国、ヒミコとトヨの存在や名前すら聞いたことがありません。苦肉の策として、神功皇后と一世紀余り前のヒミコ・トヨを合体させる妙案が発案されました。

 魏志倭人伝と晋書起居や百済記を参考にしながら、干支を二運(120年)下げて、ヒミコが最初に魏に朝貢した239年は359年(神功紀三十九年)、トヨが西晋に朝貢した266年は386年(神功紀六十六年)とされました。

 

 日本書紀では神功皇后=ヒミコ・トヨと断定しているわけではなく、あくまで参考資料の形で記述されていますが、ここを基準に辛酉革命説が加味されて、神武天皇即位を縄文時代、中国の東周時代の紀元前660年とする各天皇の年代が創作されました。

渡来系漢籍学者も含めた編纂者により、漢文での秀麗で勇壮な歴史書が完成しました。責任者の舎人親王を筆頭に朝廷関係者は大満足で、これ以降、「神武天皇即位は紀元前660年説」が国家公認の基準となり、第二次大戦までの「紀元節」、大戦後の「建国記念日」へと続きますが、逆に言えば、神武天皇は実在した人物ではなく、あくまで神話上の人物であることを国家が認めていることになります。

 

 

《3》第二次世界大戦後の自虐的古代史観

                       参照:謎の四世紀解読          

 歴史を見る視点は、編纂される時代の政治・社会状況に左右されることは、現代においても変わりはなく、266年のトヨの西晋への遣使から413年の仁徳天皇の東晋への遣使までを「空白の150年」とするミステリー・ゲームに興じている方々がいまだに多く存在しています。

 

(騎馬民族説と欠史八代説は、氏族の動向を無視した自虐的古代史観)

騎馬民族説は、朝鮮半島の南端にいた倭人の崇神天皇が騎馬軍を引き連れて筑紫に上陸した後、大和朝廷の始祖になったとする説で、一時は世論を席巻しました。しかし、崇神天皇を三世紀後半ではなく、半世紀遅い四世紀前半の人物と想定したことから発想されたこともあって、現在では否定されています。

 

 騎馬民族説と並行して定着した「欠(闕)史八代説」は、明治時代から第二次世界大戦までの「皇国封建史観」が反転して、神武天皇と二代目の綏靖天皇から九代目の開化天皇までは実在しなかった神話上の人物と見なすものです。さらに神功皇后と武内宿禰まで抹殺されてしまい、266年から413年の147年間が「空白・謎の一世紀半」と見なされるようになっていますが、これは第二次世界大戦後の「いじけた古代史観にすぎません。

 

自虐的古代史観の最大の特徴は、

  一万年もの長きに渡り継続し、現代に至るまで、南の沖縄諸島から北の北海道・樺太までの縦軸を形成している縄文文化、

  神武天皇から欠史八代までだけではなく、神功皇后・応神天皇に至るまでに登場する氏族の動向、

の二点を無視するか、おざなりにしていることです。

 この結果、「箸墓は卑弥呼の墓説」という、「騎馬民族説」と並ぶとんでもない珍説まで登場してしまっています。仮に「箸墓卑弥呼説」、「卑弥呼の首都は纏向」とするなら、「卑弥呼を支えた氏族は?」、「ヒミコ・トヨに続く王様や氏族は?」といった疑問への答えは出ていません。

 

 

《4》神武天皇から神功皇后までの氏族の動き

      参照:邪馬台国吉備・狗奴国大和説

⇒補遺2.大和の日本統一に関わった氏族

           補遺3.欠史八代説を第一王朝の皇別四氏族から検証すると 

         自説の要旨1.⇒伊勢神宮の地を選んだヤマトヒメの再評価              

 私も長らく「欠史八代説」を鵜吞みにして、崇神天皇以前の氏族の動向には無関心でいました。暦が20世紀から21世紀に変わる頃、古事記を読み返して、神武天皇からの氏族の動きを日本地図を頭に浮かべながら、じっくりと追って行きました。

古事記と日本書紀に記載されている氏族を「国造本紀」や全国一の宮などの古社(過半数は第一王朝に由来)も含めて見ていくと、神武天皇は一世紀後半に実在した人物であり、「空白の150年」どころか、大和王権が日本統一を達成し確立するまでの、多彩なドラマが内蔵されていることが浮上してきました。

 

 各天皇の治世の核の点だけを抜き出しますが、ことに「吉備の特殊壺・器台が大和盆地に伝搬した際の海路での経由地と考えられる大阪府八尾市周辺での、アマツヒコネ(天津彦根)族とタケハニヤス(建波禰安、武埴安彦)、吉備の中臣氏、周防の玉造連の四者」について焦点を当てます。

 

神武天皇大和王朝の土台となった『葛(狗奴)国』の初国知らしし王)

:一世紀後半に実在した大和第一王朝の始祖。なぜ日向から関門海峡を越えて西の遠賀川河口に最初に向かったのか、がポイントになります。

 

綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇

:磯城氏との婚姻関係の意味は、宇陀野から磯城を経て南葛城に至る水銀朱街道の保持。

 

孝昭天皇

:尾張氏の濃尾平野への進出。これにより全国統一に向けた葛(狗奴)国の発展が始まります。   

          (尾張一の宮:真清田神社)(尾張国造、丹波国造)

 

孝安天皇

:実兄が大和盆地北部を治め、和邇氏、柿本氏、小野氏など大和の名族の祖となる。

 アマツヒコネ族が生駒山周辺を本拠地とする物部氏の領地に入り、河内アマツヒコネ族が摂津と淡路島の海士を取り込んで水軍を増強。 (凡河内国造、山背国造、山城国造)

物部氏の本流は尾張国に移動し、三河、遠江、伊豆へ侵攻。 (参河国造、遠淡海国造、伊豆国造)

 

孝霊天皇

:大拡張時代。近江・丹波・摂津・淡路島・阿波と東西へ勢力圏を拡大。

 

孝元天皇

:吉備津兄弟が吉備王国への攻撃開始。魏の帯方郡が女王ヒミコを支援。

 河内の青玉(アマツヒコネ族)の娘ハニヤスビメとの間でタケハニヤスが誕生。

 

開化天皇

:吉備王国を撃破。(備前一の宮=吉備津彦神社、備中一の宮=吉備津神社)

 水軍の河内アマツヒコネ族とアメノユツヒコ族(生駒山西麓の物部氏の分派と推定)が安芸・周防・長門・筑紫を制覇。

         (アマツヒコネ族:周防国造、穴門国造)

         (アメノユツヒコ族:安岐国造、波久岐国造)

 タケハニヤスとアマツヒコネ族の本拠地の八尾市に吉備の特殊壺・器台文化と周防の宝飾文化が流入 

一つ目の解釈は、吉備と周防の集団が八尾市に入り、アマツヒコネ族を傘下に組み込んだ後に大和盆地に入った。但し、ヒミコより後の時代となり、アマツヒコネ族との争いがあったはずです

二つ目の解釈は、秘かに天下取りを狙っているタケハニヤスがアマツヒコネ族に命じて吉備と周防の工人集団を八尾市周辺に運び込んだ。タケハニヤスの滅亡後、崇神天皇が吉備と周防の工人集団を大和盆地に引き入れて、吉備の特殊壺・器台の第三段階の宮山型の製造が始まる。

    (玉祖神社:周防の玉祖神社を招請したのは701年の和銅一年ですが、それなりの理由があったからです)

(恩智神社と枚岡神社:中臣氏の元春日と本春日)(河内一の宮:枚岡神社)

 

崇神天皇(日本統一を達成した初国知らしし王)

:タケハニヤスの乱の鎮圧。北陸に向かうオオビコが謀反を察知した後、タケハニヤスが大和盆地の北の木津川、妻アタヒメが大和川河口と大和盆地の境の大坂で撃破される。

(東西日本の統一に向けた四段階

1.四道将軍

    北陸道と東山道:オホビコとタケヌナカハワケの安倍氏親子が会津で合流。

(岩代国一の宮=伊佐須美神社){若狭国造、高志国造、那須国造}

    丹波・丹後道:崇神天皇の弟ヒコイマス(日子坐王)が丹後王国を制覇。

    西道:筑後王国の制覇 (筑後一の宮=高良大社)

2.意富氏と中臣氏による霞ケ浦・常陸・下野・上野の制覇

(常陸一の宮=鹿島神宮、下総一の宮=香取神宮) (印波国造、仲国造、科野国造)

3.一石三鳥策

安倍氏親子が東国の利権を独占するのを避けるためタケヌナカハワケを筑紫へ、西日本での反乱を警戒してアマツヒコネ族とアメノユツヒコ族の一部を東国・陸奥地方に移動させる。東国の統括者としてトヨキイリヒコ王子を下野に遣る。

タケヌナカハワケ(筑紫国造、末羅国造)

アメノユツヒコ族(茨木国造、東国七つの国造)

トヨキイリヒコ王子(下野一の宮=宇都宮二荒山神社) (上毛野国造、下毛野国造)

4.西出雲王国の制覇

西出雲の住民の一部が武蔵・陸奥地方へ移住。

(武蔵一の宮=氷川神社、陸奥国=都々古別神社)

 

垂仁天皇

:サホビコ(沙穂彦。ヒコイマスの息子)の乱。

 富士山麓の開墾で東海道が東国まで開通。 (伊豆一の宮=三嶋大社))

 ヤマトヒメが伊勢神宮の地を選定。

 

景行天皇

:王朝の爛熟と王子・王女を各国の首長にする企てに各国の国造や豪族が反発。  (例:讃岐国造、日向国造)

 妹ヤマトヒメの腐敗王朝への批判。

 

神功皇后

:母方は新羅地方からの亡命者が建国した但馬国。

  新羅地方の亡命王子アメノヒホコが但馬に定住   (但馬一の宮:出石神社)

  新羅を警戒する西南の伽耶地方のソナカシチないしツヌガアラシトの来日。

  有明海勢力(筑後、肥前、肥後)が新羅と結んで、反乱の兆候。両者の連合を断ち切る目的で、神功軍が洛東江に侵攻。

ヤマトヒメが第一王朝から第二王朝への移行の後見役となる。

                    参照 自説の要旨1.⇒伊勢神宮の地を選んだヤマトヒメの再評価

 

(表)大和の支配側氏族と被支配側の比較と分布

 

支配側氏族

国造所在地

 

被支配側氏族

徴発地

尾張氏

尾張国、斐陀国

丹波国

 →

伊勢サルタ彦族

阿波忌部族

大和盆地

大和盆地、一部は安房へ移住

ワニ(和邇)氏

武社国

 →

物部氏

大和軍の尖兵

吉備津彦兄弟

吉備5

国前国、葦分国

 

 

 

カムヤイミミ(神八井耳)

オホ(意富)族

伊予・大分・阿蘇・肥国

仲国・印波国・科野国

 

 →

吉備人

讃岐人

常陸国

印波国

 

アメノホヒ

 (天穂日)

出雲、波岐、二方国

武蔵国と東国9

 

 →

 

出雲人

 

武蔵

アマツヒコネ

 (天津日子根)

凡河内、山背、山城

周防国と穴門国

茨城国と東国7国

 

 →

 

周防人

 

東国

アマノユツヒコ

 (天湯津彦)

阿岐国と波久岐国

陸奥5国、佐渡国

 

 →

 

安芸人

 

陸奥

トヨキイリヒコ

 (豊城入彦)

下毛野国、上毛野国

浮田国

 

 

 

阿倍氏

(オオビコとタケヌナカハワケ親子

若狭国、高志国

那須国

筑紫国、末羅国

 

 

 

物部氏

久自国

参河国・遠淡海国

久努国・珠流河国

伊豆国

 

 

 

 →

 

 

 

伊予人

 

 

 

富士山麓