その37.横笛            ヒカル 満四十八歳

 

3.夕霧の夢と雲井雁の嫉妬。柏木への追善供養

 

 夕霧が自邸のアゼイ・ル・リドー城に戻ってみると、すでによろい戸が閉じられ、皆寝ていました。

「このところ落葉上に思いを寄せられて、何かと親密な様子で訪問されております」などと告げ口をする者がいるので、正夫人の雲井雁は夫がこんな具合に夜更かしをするのが癪に触って、室内に入って来た物音を聞きながら、寝たふりをしてやり過ごしていました。

貴女と私が一緒にいる、あの山の」と、夕霧は流行り歌を独り言のように口ずさみながら、「どうしてこんなに早く戸を閉め切ってしまうのだろう。ああ、陰気くさい。今宵の月を見ようとしない里もあろうとは」と不満げに言って、よろい戸を開けさせ、カーテンも開かせて、月が見える端近くに横になりました。

「こういった見事な月夜に、安穏と寝入ってしまう者がいるものなのか。少し出てきて月を眺めてみなさい。つまらないではないか」などと雲井雁に話しかけますが、不愉快さが積もっている雲井雁は聞えないふりをしていました。

 

 子供たちのあどけなく寝ぼけた気配があちこちから聞こえてきて、侍女たちも混みあいながら臥せている、人気が多い賑やかさと、先刻までのル・リヴォ城の様子を思い較べてみると、何という違いでしょう。

 夕霧はル・リヴォ夫人から贈られた横笛を吹き出しながら、「私が去った後の余韻の中で、どんな思いでこの月を眺めているのだろう。私も弾いてみたハープなどを調子も変えずに奏でているのだろうか。そう言えば、ル・リヴォ夫人はフランス風ハープが名手だったはずだ」などと思いを馳せながら就寝しました。

 それにつけても夕霧は「亡くなった柏木は落葉上を、ただ上辺だけは大切にもてなしているようにしながら、心から深く愛してはいなかった気配だった」とひどく不審に思っていました。「実際に顔を合わせて、見劣りする器量であったなら気の毒である。世間でも普通に評判の良い人はそうした場合がよくあることだし」などと思うにつけ、雲井雁との仲はこれまで浮気ごとなどのいさかいが起きたこともなく、少年・少女の頃から愛し始めた年月の長さを数えてみると、悲しいかな、雲井雁がここまで我を張って増長する癖がついてしまったのももっともなことだ、と感じました。

 

 少し寝入った頃に夢が現れて、あの柏木がそっくりあの時の白い重ね着姿で近くにいて、横笛を手に取って見ていました。

夕霧は夢の中でも「この笛が気になって音色を聴きに来たのだ」と感じました。

(歌)この横笛に吹き寄る風のように 同じことなら 私の子孫の末にまで 

   音色を長く伝えて欲しいものだ

「私が伝えたい人は、君とは違うのだ」と柏木が言うので「その人は誰ですか」と尋ねようとしているところで、幼な児が寝おびえて泣く声で目が覚めました。

 幼な児がひどく泣いて乳を吐いたりするので、乳母が起きて騒ぎ立てました。雲井雁も灯火を近くに寄せて、邪魔にならないように額の髪を左右の耳の後ろへ掻きやって、せわしげにあやしたり抱いたりしました。とてもよく太り、ふっくらした綺麗な胸を開けて、乳をふくませていました。幼な児は美しく色白で可愛らしいのですが、雲井雁は出そうもない乳を気休めにふくませているだけでした。

 夕霧もそばに寄って「どうしたのだろう」などと話しかけました。魔除けのまじないで小麦などを撒き散らしたりして、ざわついてしまったので、夕霧が見た夢の哀愁など、どこかに紛れ込んでしまったことでしょう。

「ひどく苦しそうにしています。近頃あなたが花やいだ女性に夢中になって、夜更けの月をめでようとよろい戸を開かせてしまったので、例の物の怪が入り込んで来たのでしょう」と二十七歳になっている雲井雁は、今なお大層若々しく愛らしい顔で恨んでいるので、夕霧は笑いながら「私が怪しげな物の怪の道案内をした、ということか。確かに私がよろい戸を開けさせなかったら、入って来る道はなかったが、大勢の子供たちの母親になるにつれて、上手い思いつきが出来るようになったものだね」と夕霧が目を向けると、目が合った雲井雁は気後れがしてしまって、それ以上は愚痴をこぼさなくなりました。

「もうここから出て行ってください。侍女たちが見ていて見苦しいですから」と明るい灯でまともに見られてしまうのを、さすがに恥じらうようにしている様子は悪くはありません。

 

 幼な児は苦しそうに夜通し泣きむずかりましたが、夕霧は先刻見た夢を思い出しました。

「この横笛は面倒なものになってしまった。この笛には柏木の執念が籠っているのだから、私の手元に来るものではなかった。ル・リヴォ夫人から譲渡されても何の甲斐もないことだ。あの世の柏木はどのように思っているのだろうか。在世中にさほど気にかけていなかったことも、いまわの際になって思い詰めた恨みや悲しみが残ってしまうと、それに引きずられて、後々の世にまで闇の中で迷ってしまうものである。それだからこそ、『何事にも執着を留めさせておいてはならない』と考えなければいけない」と思い続けたので、アンジュ公家ゆかりのフォントヴロー僧院で祈祷をさせました。

 さらに柏木が心を寄せていた教会でも祈祷をさせましたが、「この横笛は由緒の深いものとして、ル・リヴォ夫人が譲ってくれた物であるから、すぐに教会へ納めるというのは、尊いことであるとは言うものの、あまりにあっけなさすぎる」と夕霧は考えながら、ヴィランドリー城を訪れました。

 

 

4.夕霧のヴィランドリー城訪問とヒカルの訓戒

 

 その時、ヒカルはサン・ブリュー王妃の住まいを訪れていました。第三王子は満二歳になっていて、とりわけ美しい児でしたが、第一王女と同様に紫上が引き取って養育していました。

 その第三王子が走って来て、「大将さん。私を抱いてサン・ブリュー王妃の住まいに連れていらっしゃい」と自分からうやうやしい言葉使いをしながら、幼げに言い出したので、夕霧は笑いながら「では参りましょうか。それでも紫上の面前を通るわけにはいきませんよ。無作法な行為は許されません」と抱き上げると、「誰も見ていないよ。私が顔を隠してあげよう。さあさあ」と言って自分の袖で夕霧の顔を隠してみせますが、あまりに可愛らしいので、そのまま抱きながらヒカルがいるサン・ブリュー后の住まいへ行きました。

 

 こちらでは第二王子と山桜上の若君が一緒になって遊んでいました。二人をヒカルが可愛がっていましたが、夕霧が第三王子を隅の所に下ろすと、第二王子が見つけて、「私も大将に抱いて欲しい」と言うと、第三王子が「大将は私のものだ」と夕霧の上着を引っ張って放しません。

 それを見ていたヒカルが「なんてまあ行儀が悪い仕草をするのです。叔父様は王さまの側近としてお守りする重要な人物なのに、『自分のお供として独占しまおう』と言い争いをするなんて。第三王子の方こそ意地悪です。いつも兄に負けまいと競い合っている」と注意しながら仲裁しました。夕霧も笑って「第二王子はすっかり兄上らしく、弟に譲ってあげるなど、思いやりがありますね。お歳の割に恐ろしいほど、よくお分かっていますね」と言ったりしました。ヒカルもにこにこしながら、「二人ともとても可愛い」といった表情をしていました。

 

「こんな場所は見苦しく軽々しいから、あちらの方で」とヒカルに促されて行こうとしましたが、王子たちがまとわりついて、どうしても夕霧から離れようとしません。

「山桜上の若君は王子たちと同列に扱うべきではないのだが」とヒカルは内心思いながらも、「そんな態度を見せてしまうと、山桜上が邪推して僻んでしまうことになる」と、このところの性分になってしまったように山桜上が気の毒に感じるので、二人の王子と同等に若君を愛らしい子として扱っていました。

 夕霧は「この若君をまだじっくり見たことがなかった」と気付いて、若君がカーテンの隙間から顔を出したところを、枯れ落ちた花の枝を取ってみせて呼んでみると、走って夕霧のところに来ました。青紫色の上着だけを着て、大層色白につやつやと輝いた美しさは、王子たちよりも細やかな美しさがあり、ふっくらと清らかな印象を与えます。何となく柏木と較べてみたい気持ちがあるので、そのつもりで見てみると、目つきなどは柏木よりも今少しきつく、才気ばしった様子は勝っていますが、切れ長な目尻が美しく薫るような感じが非常によく似ていました。口元がことさらに花やかな様子で、笑っているところなど、自分の目の思い込みなのでしょうか。父上もきっと気付いているに違いない」と夕霧はいよいよヒカルの本心を探りたくなりました。

 

 王子や王女は気持ちの持ち方からして気高く見えるものの、世間に普通にいる可愛らしい子供と同じように見えますが、この若君は貴族らしい上品さを持ちながら、その上に違った美しさがあるのを夕霧は見較べました。

「ああ、哀れ深いことだ。もし私の疑いが事実であるなら、柏木の父大臣があれほど痛々しく気落ちしてしまい、『柏木の子供だ、と名乗り出て来る者もいない。せめて息子の形見と思わせる名残をとどめている者がいたなら』と泣き焦がれていることだけでも伝えておかないと、罪作りなことになる」などと思うものの、「いやいや、どうしてそんなことがありえようか」と夕霧はなおも納得がいかず、判断をつきかねていました。そんな夕霧の思いも知らずに、若君は気立てまでが親しげで愛らしく、王子たちと仲良く遊んでいるので、夕霧は一塩いじらしく感じました。

 

 夕霧はヒカルと一緒にヒカルの住まいへ行って、落ち着いて話しを交し合っているうちに、日が暮れていきました。昨夜、ル・リヴォ城を訪れ、落葉上とル・リヴォ夫人の様子などを夕霧が話すのをヒカルは微笑みながら聞いていました。

 柏木の生前の話に関連した部分では、ヒカルは相槌を打ったりしましたが、「その『夫への恋想い』を落葉上と二人で弾き合わせた趣は、確かに昔物語の好場面として引き合いに出せそうでもあるね。それでも女性というものは、男の心を動かすような嗜みがあったとしても、そんなことを通り一遍に漏らしてはいけない、と思い知ったことを私は多く経験した。故人の遺言を忘れずに『こうやって、後々まで真心を尽くす気持ちを知ってもらいたい』ということであるなら、同じことなら心を潔白に保って、何やかやと関わったり、とんでもない間違いをしでかさないようにしていた方が、どちらにとっても奥床しく、見苦しくもないものだ』と私は考えている」とヒカルは諭しましたが、夕霧は「なるほど、自分のことは棚に上げて、他人への説教になると賢がっているが、こうした場合、父上ならどう処していくのだろうか」と苦笑いしてしまいました。

 

「そんな間違いなど起こしましょうか。差し当たって無常な世の悲しみを慰め始めただけす。気短になって訪れないようにしてしまったなら、それこそ世間にありふれたことで、かえって疑わしいことがあるように見られてしまいます。『夫への恋想い』の曲については、ご自分から進んで弾き出した、ということなら、非難されることにもなるでしょうが、もののついでにちょっとだけ弾かれたのは、その折の情緒に合う風流なものでした。

 何事も人柄により、場合によるものです。落葉上は年齢から言っても、それほど若がっているわけでもなく、また私も不真面目で好色がましい気配などは持ち合わせてはおりませんから、自然と打ち解けるのでしょう。大体において優しく無難な様子をしています」と答えながら、ちょうど良いきっかけが出来た、と感じた夕霧はヒカルに少し近寄って、柏木が現れて横笛を手にした昨夜の夢を話すと、ヒカルはすぐには物を言わずに耳を傾けていましたが、思い当たることがありました。

 

「確かにその横笛は、こちらに置いておく因縁がある。元々、横笛は桐壷王の父王の所有だったが、故式部卿が賜って秘蔵しておられた。あの柏木は子供の時から、大層格別な音色を吹き立てていたので、それに感動した式部卿は自分が催した萩の宴の日に柏木に贈り物として与えたものだ。ル・リヴォ夫人はそうした事情を深く考えずに、貴殿に贈ったということだろう」と言いながら、心中では「その横笛を末の世に伝えて行くのは、山桜上の若君を除いて誰がいるであろうか。柏木もそのように思っていることだろう」と考えながら、「息子も思慮分別に富んでいるから、何となく山桜上と柏木の関係を察しているのだろう」と思ったりもしました。

 

 夕霧はそんなヒカルの表情を見て、いったん躊躇して切り出すことはしませんでしたが、せめて耳に入れておきたい気持ちがあるので、事のついでに今思い出したようにとぼけながら「もう臨終という時に見舞いに伺いました。柏木は死んだ後のあれこれを言い残したのですが、その中で『これこれのことで、ヒカル様に対して深い罪を感じております』といった旨を返す返す申しておりました。一体どういったことがあったのでしょうか。今もって、その理由が分からないまま、気にかかっております」といかにも腑に落ちないように話しますので、ヒカルは「やはり夕霧はあの件に気付いているのだ」と思うものの、当然ながらあれほどの事情を隠さずに打ち明けることも出来ません。

 しばらくの間、何のことか理解できないようなふりをして、「そうは言っても死んだ後まで人の恨みが残ってしまうような不快な顔つきを、どんな機会に漏らしたのだろうか、自分自身でも思い出せない。いずれ落ち着いた時に、その夢のことで思い合わすことがあれば、話すことにする。『夜中に夢の話はしないものだ』と侍女たちが言い伝えているからね」とヒカルは言って、きちんとした返事をしないので、逆に夕霧はあえて柏木の遺言を持ち出したことを「どのように感じたのか」ときまりが悪い思いをしてしまいました。

 

 

5.第三次戦役の終了。ヘンリー八世の王子誕生とアントワンの末娘が

  スコットランド王国へ

 

 昨年六月から始まった神聖ローマ帝国との第三次戦役は、小競り合いは幾つかあったものの、膠着状態が続いていました。七月にスレイマン一世が率いるオスマン・トルコ海軍がイタリア半島の東南端に位置するオトランテ(Otrante)へ攻撃を仕掛け、八月から九月にかけての三週間、オトランテ対岸のギリシャのコルフゥ(Corfou)を拠点に、ベニス共和国領の島々の港の占拠を進めたことから、フランスとの戦役どころではなくなった帝国は、十一月にフランス王国に三か月間の休戦を申し入れましたが、そのまま第三次戦役は終幕となりました。

 

 帝国との第三次戦役が始まった後、南部のプロヴァンス地方と北西部のピカルディ

―地方への帝国の侵攻を何とか食い止めた十二月、イングランド王国の脅威を危惧するスコットランド王国のジャック五世がフランスを訪れ、冷泉院が住むフォンテーヌブロー城に滞在しました。スコットランド王の目的はフランスと姻戚関係を結ぶことでしたが、安梨王の了承も得て、身分が低い貴婦人が生んだ冷泉院の王女との婚姻が決まりました。翌年一月にジャック五世は新妻を伴ってスコットランドに帰国しましたが、元々病弱だった王女は北国の風土になじめなかったこともあり、半年後に他界してしまいました。

 同年十月になって、虹バラが斬首されてからわずか十日後にヘンリー八世が再婚したジェーン・シーモア王妃は待望されていた王子を出産しました。初の王子の誕生で、ヘンリー八世が狂喜したことは想像に難くありません。ところが母親のジェーン・シーモアは産褥中に急死してしまいました。

 跡継ぎの王子の誕生で、ヘンリー八世が領土拡大の野望をさらに強めていくことを恐れたためか、ジャック五世は再度、フランスに姻戚関係を求めて来ました。たまたま夫に死に別れて間もないアントワンの末娘シャルロットが候補にあがり、ジャック五世も快諾したことから、二十二歳のシャルロットは三歳の息子をフランスに残してスコットランドへ旅立っていくことが決まりました。

 

 

 

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