連載小説の主旨

西暦3世紀後半に大和(大倭国)が東西日本の統一を達成する以前、1世紀末から3世紀半ば過ぎまで、吉備邪馬台国が西日本(倭国)の盟主であったことを実証していくシリーズです。

構成は「吉備邪馬台国の奴国・伊都国制覇」、「吉備勢力の出雲制覇」、「オオクニヌシと日本海」、「吉備の楯築王から倭国大乱へ」の4連作となります。

 

第三編 オオクニヌシと日本海

 

〔第1章]少年時代

   

その1.因幡の白兎

 

1.神門王国の伸張

 カムムスビ族の西出雲王国を滅ぼした三次王が1世紀半ば頃に創始した神門王国は吉備邪馬台国と協調しながら、代目王の時代に地盤を固めました。東出雲はスサノオの子神の子孫たちが分割統治、伯耆は吉備勢力も入って渾然としていましたが、神門王国は東出雲と伯耆への影響力も強めていきます。

 その頃、吉備は瀬戸内海の覇権を握った勢いに乗って、筑紫の奴国と伊都国も傘下に組み込んで倭国(西日本)の盟主として、絶頂期へと向かう扉を開けていました。神門王国も同盟者として吉備の筑紫制覇に援軍を送り込みましたから、勝者側についた恩恵もこうむって、筑紫から舶来品、越から米とヒスイなど、日本海の東西貿易が盛んとなり、王国は順風でした。

 

 代目王は人の后を持ち、息子人と多くの娘をもうけていましたが、五人目の后として播磨の刺国からサシクニワカヒメ(刺国若姫)を迎えて、男の子が生まれて小雲(こぐも)と名づけられました。刺国の王家はスサノオの子神オオトシ(大年)からの出自でしたから、瀬戸内海東部の諸国と縁戚関係がありました。

 末っ子として生まれた小雲は幼い時から利発で、父王はいつも手元において可愛がりました。そのために、まとめて八十神(やそがみ)と呼ばれた兄たちからやっかまれ、母のサシクニワカヒメも三次出身の正后を始め、后たちからいじめを受けていました。

 

 父王は幼い王子だった頃、父に連れられて吉備に行き、オオモノヌシを直に見た思い出があります。小雲が成長するに従い、その眼差しがオオモノヌシの眼差しに似ていくことに期待をふくらせます。攻撃的性格ではなく、いつの間にか相手を優しく包み込んでしまうような、包容力の大きさを子供の頃から自然に身につけていました。

「吉備のオオモノヌシは瀬戸内海を制覇されて倭国の盟主の道を開かれた。小雲は日本海を制覇して、日本海の国々が出雲に参詣してくるオオクニヌシになるのだ」と父王は幼い頃から口癖のように小雲に言い聞かせていました。

 嫉妬する兄たちは小雲の幼い頃から、鍛錬だと称する剣術の稽古で、口から沫が吹き出すほど痛みつけます。小雲を凌ぐ体格をした兄たちにかないはしませんでしたが、次第に自分よりも体格が大きい者の攻撃から身をかわし、返しうちで相手を打ち落とす俊敏さを会得していきます。

 

 

2.因幡のヤガミヒメ(八上比売)

 神門王国は伯耆の隣に位置する因幡との友好関係も深めていました。因幡国は日本海北部の丹後、越(北陸)と瀬戸内海東部の播磨と摂津を結ぶ位置にあり、戦略的に重要でしたから、逆に近隣諸国は手に入れようと虎視眈々と機会をうかがっていました。

 因幡の王には人の后がおりましたが、残念なことに子供はヤガミヒメだけでした。父王は一人娘のヤガミヒメを手塩をかけて育てますが、心配は自分が亡き後のヤガミヒメと因幡国の行方でした。「わしがあの世へ行ったら、やはり神門王国を頼るしかないだろう」と国王は日頃から家臣にもらしていましたが、ヤガミヒメが17歳になった頃、他界します。周辺の各国の王さまが后にして因幡の国を呑み込もうと、あの手この手で婚姻を迫ります。越の幾つかの国からも后に欲しいと申し入れがありました。

 

 父母やお付きから大事に育てられたヤガミヒメは周りの助言を素直に聞く、口数が少ない乙女に成長しました。一見、控えめな性格に見えましたが、人となりを見抜く洞察力は優れていて、自分の直感で決めたことは反対されても押し通す芯の強さを持っていました。

 困りきったヤガミヒメのお付きは神門王に助けを求めていきます。その代わりとして、神門王国の王子と結婚させても構わない、という生前の国王の言葉も伝えます。神門王も王子の后にヤガミヒメを迎えることに異論はありません。

 父王は王子たちを一堂に集めました。どういわけか集まったのは八十神だけで、小雲の姿はみえませんでしたが、父王はヤガミヒメを娶った者を跡継ぎにすることを明言しました。

 そこで兄たちはそれぞれヤガミヒメに求婚しようという下心を抱いて、勇んで因幡の首都へ出かけますが、父王は小雲も同道させることを命じます。小雲は14歳の成人式を過ぎたばかりでした。

 

東出雲を過ぎて伯耆の国境までは周囲の眼をはばかって八十神は末弟をかばうそぶりを装っていましたが、因幡の国に入ると、態度を一変させて小雲を召し使いにして、全員の荷物を小雲に背負わせ、自分達はわれ先に因幡の首都の鳥取の町に向かいます。

 八十神が気多(けた)の岬にやって来た時、皮をはがされて丸裸になった兎が横たわっていました。それを見た八十の神々は「お前がその身体を治したいのなら、潮水を浴びて、風の吹くのにあたって、高い山の頂に寝ておれ」と教えました。そこで兎は、八十神の教えた通りにして、山の上に横になりました。ところが浴びた潮水が乾くにつれて、兎の体の皮膚がすっかり風に吹かれてひび割れていき、兎は苦悶します。

 

 

3.白兎の苦悶

 思い荷を背負った小雲は兄達より数時間ほど遅れて岬を通りかかりますと、皮がはがれて丸裸になった兎が痛み苦しんで、泣き伏しています。

「どういうわけで、お前は泣き伏しているのか。丸裸では苦しいだろう」と尋ねます。

 

「私の父は因幡の国王の家臣で、ある郷の長も務めております。いずれは私が父を継ぐ予定でしたが、私は好奇心が強いこともあり、倭国の盟主となった吉備の繁栄ぶりを一目でも見たいと思いまして、吉備に向かいました。

 那岐(なぎ)の山を越えて吉備に入ろうと登っていくうちに、たまらなくなるほど空腹になってしまいましたので、那岐の神さまへのお供え物を失敬してしまいました。おまけに大木に小水をしたところ、那岐の神が大切にしておられた大木だったのです。それですっかり那岐の神さまを怒らせてしまい、兎に化身させられた上に、麓の里人の手で隠岐島に流されてしまいました。

 隠岐島では何とか本土に戻り、元の人間に戻りたいと願いながら、毎日、海を眺めていました。あれこれ渡る方法を思案しているうちに、名案を思いつきました。海を泳いでいたサメ(ワニ)をだまして、『私とお前と較べて、どちらが同族が多いかを数えてみたい。そこでお前は同族をありったけ連れて来て、この島から気多の岬まで、みな一列に並んで伏してみなさい。そうしたら、私がその上を踏んで、走りながら数えて渡ることにする。こうして私の同族とどちらが多いかを知ることにしよう』と申しました。

 騙されたサメたちは一斉に並んで伏している時、私はその上を踏んで、数えながら渡って来て、まさに地上に下りようとする寸前、気が緩んでしまって『お前は私に騙されたのだよ』と言い終わるやいなや、一番端に伏していたサメが私を捕えて、私の白い上着をすっかり剥ぎ取ってしまいました。地上に臥して泣き悲しんでいたところ、八十の神々が通りかかって『潮水を浴びて、風にあたって寝ておれ』と教えました。それで教えの通りにしましたら、私の体は前身傷だらけになってしまいました」と返答します。

 

 小雲は「今すぐにこの河口に行って、真水でお前の体を洗って、ただちにその河口の蒲(かば)の花粉を取ってまき散らし、その上に寝ころがれば、お前の体は元の膚のようにきっと直るだろう」と教えます。それで教えの通りにしたところ、兎の体は元どおりになりました。

 苦しみもがきながらも八十神から、ヤガミヒメへの求婚の話しを耳にしていた白兎は「八十の神々はきっとヤガミヒメを娶ることはできないでしょう。大袋を背負ってはおられるが、ヤガミヒメを娶られるのはあなた様です」と感謝の気持ちもこめて申し上げました。

 

 

4.因幡の首都 

 八十神の一行は昼頃、千代川と湖山湾の間にある鳥取の町に入りました。町を取り巻く環濠を過ぎると、祭り場から琴のたおやかな音色が響いてきます。池には木工用の材料に使う木材が幾つも浮かんでいました。水に漬けて加工しやすい柔らかさにするためです。

 浜辺には小舟を従えるかのように大型船が艘、停泊していました。少し前に帰着したばかりなのでしょう。大ぶりのマグロやブリを陸揚げしています。もう一つの大型船からはイルカとサメが引き揚げられていました。こうした大魚を仕留める本の銛(もり)を結合した大銛も見えます。西出雲よりも遠洋漁業が盛んな様子です。

 

 中心部にある市場は人群れでごった返っていました。分銅型土製品やサメの歯や猪の牙をペンダントとして首から吊らしたり、巻貝や土玉の腕輪で飾る男女が行き交っています。

「神門王国の杵築の港町よりは小ぶりだが、大いに繁栄している。ヤガミヒメを手中にすれば、ここも自分の領地となる」と八十神はほくそえみます。

 市場には各地から来た交易人の出店が軒を並べていました。越の商人はヒスイと越特有の赤塗りの土器を売っていました。摂津や吉備の土器(器台、壺、水差し)や青銅製品、出雲のメノウ、筑紫の鉄製工具(斧、ノミ、槍鉋(やりがんな)、服装と色彩の違いが際立つ朝鮮半島の商人は珍しい毛織物を扱っていました。

 

 因幡の国は木製容器の技術と美しさで名高い産地でした。黒や赤の漆塗りの木製の椀、高抔、鉢、壺、桶、槽、さじ、片口、一木をくりぬいた腰掛や槽と種類が多様で、とりわけサメの図柄を描き込んだ木工品で知られていました。

 弓、矢じり、小刀、斧、クジラの骨製の矢じりの武器類や、石包丁、木包丁、鍬(くわ)、鎌、ワラ打ち用の槌(つち)の農器具、クジラの骨製の針、組みひも、籠などの生活雑貨を売る店もありました。

 

 市場を臨む小高い丘の上に王宮がありました。ヤガミヒメは宮殿の隙間から雑踏にいる八十神たちを観察します。ヤガミヒメはその人の眼差しを注視して、直感でその人となりを判断するクセがありました。八十神の一人、一人の目を観察していくと、みな、瞳が澱んでいて、瞳が澄んでいないことに失望しました。神門王国の王子たちの中には、私が恋焦がれるような、これぞと見込むような人物はおられないようだ、とため息をもらしました。

 

(現代語訳)

オオクニヌシの兄弟には、多くの神々がおられた。しかし皆、この国をオオクニヌシにお譲り申し上げた。お譲りしたわけは次の通りである。

その大勢の神々は、皆それぞれ因幡のヤガミヒメに求婚しようという下心があって、一緒に因幡に出かけた時に、オオナムヂ(オオクニヌシ)に袋を背負わせ、従者として連れていった。

気多(けた)の岬にやって来た時、丸裸になった兎が横たわっていた。これを見た大勢の神々が、その兎に言うには、「お前がその体を直すには、この潮水を浴びて、風の吹くのにあたって、高い山の頂に寝ておれ」と教えた。

それでその兎は、神々の教えた通りにして、山の上に寝ていた。すると浴びた潮水が乾くにつれて、兎の体の皮膚が、すっかり風に吹かれてひび割れた。

それで兎が痛み苦しんで、泣き伏していると、神々の最後について来たオオナムチ神が、その兎を見て、「どういうわけで、お前は泣き伏しているのか」と尋ねると、兎が答えて申すには、「私は隠岐島にいて、ここに渡りたいと思いましたが、渡る方法がなかったので、海にいるワニをだまして、『私とお前と較べて、どちらが同族が多いかを数えてみたい。それでお前はその同族を、ありったけ全部連れて来て、この島から気多の岬まで、みな一列に並んで伏しておれ。そうしたら、私がその上を踏んで、走りながら数えて渡ることにしよう。こうして私の同族とどちらが多いかを知ることにしよう』と、こう言いました。

そして、ワニが騙されて並んで伏している時、私はその上を踏んで、数えながら渡って来て、今や地上に下りようとする時、私が『お前は私に騙されたのだよ』と言い終わるやいなや、一番端に伏していたワニが私を捕えて、私の着物をすっかり剥ぎ取りました。そのために泣き悲しんでいたところ、先に行った大勢の神々が言われるには、『潮水を浴びて、風にあたって寝ておれ』とお教えになりました。それで教えの通りにしましたら、私の体は前身傷だらけになりました」と申し上げた。

そこでオオナムチ神は、その兎に教えて仰せられるには、「今すぐにこの河口に行って、真水でお前の体を洗って、ただちにその河口の蒲(かば)の花粉を取ってまき散らし、その上に寝ころがれば、お前の体は元の膚のようにきっと直るだろう」と仰せられた。

それで教えの通りにしたところ、兎の体は元どおりになった。

これが因幡の白兎である。今もこの兎を兎神と言っている。

そこでその兎は、オオナムチ神に、「あの大勢の神々は、きっとヤガミヒメを娶ることはできないでしょう。袋を背負ってはいるが、あなた様が娶られるでしょう」と申し上げました。

 

 

その2.兄達のいじめと殺害

 

1.ヤガミヒメの一目ぼれ

 市場の雑踏を抜けて、王宮の入り口に到着した八十神たちはすぐにでもヤガミヒメに面会させろと、門番や侍従をせつきますが、王宮からの応答はありません。八十神たちは「俺たちは西出雲の神門王国の王子たちだ。それ相応の応対をしないのは失礼だ」といらつきながら、人が減って店じまいを始めている市場をうろつくだけでした。

 日没間際になって、大きな袋を3つも抱えた、というより引きずって、小雲は街に到着します。小雲は神門王国の者であることを示す紋様を織り込んだ服を着ていましたから、高殿から一瞥したヤガミヒメは、どうせ八十神のお供だろうと目を離そうとしました。ところがよく見ていると、それほど偉丈夫ではありませんが、瞳はりんと透き通っていて、振る舞いも貴人の風格をたたえています。この人が、父王から溺愛されているが、兄たちから嫉妬されいじめられていると話しに聞く小雲に違いはない。

「私の夫となる人はこの人だ」と直感します。

 侍従に「あの袋を引きずった青年を丁重にもてなすように」と命じます。小雲には八十神の宿から離れた、格上の宿が提供されました。

 

 翌日、ヤガミヒメは宮殿に小雲を招きいれ、時のたつのを忘れて楽しい時を過ごし、気がつくと一夜を共にして、小雲が忘れることができない初めての女性となりました。ヤガミヒメは17歳、小雲は14 歳でした。翌日も小雲とヤガミヒメは王宮内を散策しながら、互いの夢を語り合います。二人とも、未来に対する夢は具体的には見えませんでしたが、何か期待できそうな、ふわふわした大きなものが浮かんできます。 ヤガミヒメは草花に詳しく、小雲の手をとりながら、王宮に咲く草花を説明します。小雲はヤガミヒメが見込んだどおりの好青年でした。

 

 ヤガミヒメからそっぽを向かれた八十神たちは、小雲が連日、王宮に招かれていることに気づき、侍従に怒りをぶつけます。それでもヤガミヒメは面会を拒否します。

 ようやく滞在最後の日になって、ヤガミヒメは八十神の要望を受けて面会に応じます。小雲は広間の奥にある小部屋で聞き耳をたてています。ヤガミヒメ(八上比売)は八十神たちに答えて、「私はあなた方の言うことは聞きません。小雲さまと結婚します」とはっきりと口にしました。

 

 

2.淀江の街

 これを聞いた八十神たちは怒りで腹が煮えくりかえり、小雲を殺してしまうことで意見がまとまります。翌朝、八十神と小雲は鳥取の町を発ちます。ヤガミヒメは名残惜しそうに小雲の後姿を見送ります。小雲に助けられた白兎は小雲を心配して、一行の後を追っていきます。

 八十神は因幡に来た時と違って、小雲を丁重に扱います。周りの人たちの目をはばかっての芝居でしたが、いつ小雲を殺害してしまおうか、と機会をうかがっていました。

 

 小雲は、いつも通り、八十神とは距離を置いて、一人で歩いていましたが、ヤガミヒメと過ごした数日を思い出すと、八十神に感ずかれはしないかと気になりながらも、自然と笑みがこぼれてしまいます。武力ではなく、女性と愛しあいながら、領土を広げていくのが自分に適っているようだ、とふと思ったりします。

 一方の八十神は父王が疑問を抱かないように、不運の事故死をよそおって、どうやって小雲を殺そうか、とそれだけを考えあぐねています。

 

 伯耆に入って、淀江の町に滞在します。淀江は吉備のスサノオ族が伯耆・東出雲へと伸張した後に地元の伯耆だけでなく、美作から中国山脈沿いに備後まで続く吉備北部の外港として整備されました。スサノオ族はカミムスビ族が治める西出雲王国と対立したことから、 砦の意味合いも含めた高地性集落が港の背後を囲む標高100メートルほどの丘陵地に造成されます(妻木晩田遺跡)。三次勢力が西出雲王国を攻撃した際にも拠点の役割を果たし、備前から勢力を広げた吉備王国が美作を併合した後は、吉備王国の日本海側の港としても重要性を増して、高地性集落は拡張を続けていました。

 高地性集落も含めた淀江の町は、伯耆・東出雲勢、吉備王国、神門王国の発祥地である三次勢の3勢力が雑居する、スサノオ族による一種の都市国家となっており、首長は勢力の交代制となっていました。

 

 淀江の港、細長い夜見島、島根半島、晴天の時にははるか隠岐島まで見える丘陵の先端部分には環壕が掘られ、墳墓地区として三次盆地で発生した四隅突出墳墓も幾つか築かれていました。敷地は総面積170ヘクタールに達し、首長たちが集まる政治地区や土を葺いた竪穴住居を主体に幾つかの住居エリア、工房エリアがありました。

 淀江の首長は八十神たちの滞在を歓迎し、饗宴でもてなした後、賓客用の大型の竪穴住居に宿を提供します。夏が近づく蒸し暑い夕刻でしたが、地上から70センチメートルほど掘られた竪穴住居に下りると、ひんやりして快適でした。

 

 いつも通り、小雲は八十神と離れた位置で寝につきましたが、八十神たちの気配から、ひょっとしたら、襲われてしまうのではないか、と気になって、まんじりもせずに朝を迎えました。

 

 

3.小雲の死と蘇生

 淀江の町を発って、東出雲との国境近くの伯耆国の手間の山の麓にやって来た時、八十神の一人が妙案を思いつきました。

 「この手間の山には深紅の色をした大猪が棲みついていて、麓の畑を荒らしまわっている、ということだ。里人の窮状を救うことにしよう。俺たちが山の頂から弓矢で赤猪を追い込んでいくから、小雲は麓で待ち受けて、捕らえなさい。もし待ち受けて捕らえなかったら、必ずお前を殺してしまうぞ」と脅して山に登っていきます。

 山頂に到着した八十神は鎮座していた磐座(いわくら)の大石に目をつけます。姿形が猪に似ていたからです。人そろって落ち木を拾い集め、磐座を真っ赤に燃やして、ころがし落としました。

 

 麓で待ち構えていた小雲は、不審に思わぬまま落ちてきた大石を捕えようと抱きつきます。たちまち焼け石に焼きつかれて、小雲は死んでしまいました。

 それを目撃した白兎は真っ青になって、すぐに小雲の母の許に知らせに走りました。幸運にも、小雲を心配して、サシクニワカヒメ(刺国若姫)はたまたま東出雲に来ていました。白兎の報告を受けて、小雲の母は泣き悲しんで高天原に上がって、大地の女神カムムスビに救いを請いました。

 

 カムムスビの子孫が築いた西出雲王国はスサノオ族の手で敗北しましたから、カムムスビはスサノオ族に恨みの気持ちも抱いておりました。それでも征服者となった小雲の祖父にあたる三次王はカムムスビ族に寛容な態度で臨み、カムムスビ族の聖地である朝日山や加賀の潜戸(くげど)は破壊せずに、手付かずのままにしましたので、カムムスビも小雲の母の嘆願を聞き入れることにしました。カムムスビはただちにキサガヒ(赤貝)ヒメとウムギ(蛤はまぐり)ヒメの娘二神を遣わして、治療をさせます。キサガヒヒメは貝殻を削って粉を集め、ウムギヒメはこれを待ち受けて、蛤の汁で溶いた母なる乳汁を塗ったところ、オオナムチ神は立派な男子に蘇生して元気に歩きだしました。サシクニワカヒメと白兎は随喜の涙を流しながら、小雲を抱擁します。

 

 

4.人間に復帰できた白兎

「ところで、お前は兎のくせに、なぜ人間の言葉を話せるのだ」。

 サシクニワカヒメの問いに白兎はこれまでの経緯を話します。

「それなら、人間の姿に戻るように、私が那岐の神さまにかけあってあげよう」。

 

 白兎の功を尊んだ小雲の母は今の姿を不憫に思い、那岐の神さまの怒りをおさめて、人間の姿に戻してもらおうと、白兎を連れて那岐の山に向かいました。

 日野川を上り、根雨(ねう)から四十曲峠を越えて、旭川が流れる勝山に入り、さらに追分を越えて津山盆地に入ると、前方に穏やかな表情をした那岐山連峰がくっきりと浮かんでいました。那岐山は因幡側からは峰々に隠れてははっきり見える場所は限られていますが、初めて吉備側から眺めた白兎はその秀麗な姿に見とれました。

「本当に那岐の神さまに失礼なことをしてしまった」。

 白兎は心底、自分の罪を恥じました。

 

 美作の首都の津山は吉備邪馬台国の初代王オオモノヌシが美作と讃岐を併合した以降、瀬戸内海と日本海を結ぶ宿場町として、ますますの繁栄を続けています。機織りと青銅器の製作が盛んで、あちこちから機織りと青銅器を叩く音色が響いていました。吉井川と支流の周辺には水田が広がっていました。

 母は播磨のオオトシ系の出自の小国ですが王家の出身でしたから、那岐の神さまに縁が深い淡路島にも津山にも縁者がおりました。幾つものつてを頼って、白兎を人間の姿に戻してくれるように、那岐の神さまに懇願します。

 願いが届けられたのか、白兎が熱心に祈りを続けているうちに、人間の姿に戻ることができました。20代前半の若者でした。

「これからは、私が貴方様の息子を陰でお守りしてまいります」と、白兎はサシクニワカヒメ に誓いました。

 

(現代語訳)

そこで、ヤガミヒメ(八上比売)は八十神たちに答えて、「私はあなた方の言うことは聞きません。オオナムチ神と結婚します」と言った。

それでこれを聞いた八十神たちは怒って、オオナムチ神を殺そうと思い、皆で相談しました。

 小雲も助けられた白兎は一行の後を追っていきます。

伯耆国の手間の山の麓にやって来ました。言うには、「赤い猪がこの山にいる。我々がいっせいに追いおろしたら、お前は下で待ち受けて捕らえなさい。もし待ち受けて捕らえなかったら、必ずお前を殺すぞ」と言って、猪に似た大石を火で焼いて、ころがし落とした。

そこで追いおろすのを捕えようとして、オオナムチ神はたちまちその焼け石に焼きつかれて、死んでしまわれた。

 それを見た白兎は真っ青になりましたが、すぐに小雲の母の許に知らせに走りました。

このことを知って、御母神(刺国若姫)が泣き悲しんで高天原に上がって、カムムスビに救いを請うた時、ただちにキサガヒヒメとウムギヒメとを遣わして、治療して蘇生させられた。その時、キサガヒヒメは貝殻を削って粉を集め、ウムギヒメはこれを待ち受けて、蛤の汁で溶いた母の乳汁を塗ったところ、オオナムチ神は立派な男子となって元気に出て歩かれた。

 小雲の母は白兎の功を尊んで、カムムスビに頼んで、人間の姿に戻してもらいました。

 ところが八十神たちはこれを見て、またオオナムチ神を騙して山に連れ込み、大木を切り倒し、楔(くさび)をその木に打ち立て、その割れ目の間に入らせるやいなや、その楔を引き抜いて殺してしまった。

 

 

その3.紀伊への逃亡

 

1.小雲の再蘇生

 手間の山の神は、自分が宿る磐座(いわくら)を焼いた上に山頂から落としてしまった八十神に怒ったためでしょうか、八十神たちは手間の山を下る途中で道に迷ってしまいます。

 ようやく、麓に辿りつくと、小雲が何事もなかったように山里で兄達の戻りを待っていました。

「なんだ。死んだはずではなかったのか」「これは一体、どういうことなのか?」

八十神は狐につまれたように啞然とします。

「お前は俺たちが命じたように、赤猪をきちんと抱きとめただろうな」。

「抱きとめましたが、赤猪ではなく、真っ赤に焼けた大石でした」。

「それならお前は焼け死んだはずだが」。

 

 兄達は本気で私のことを憎んで殺そうとしたのだ。幼い頃から兄達にしごかれながらも、兄だからと一目を置いてきた無垢な小雲も、ようやく兄達の性悪さに気づきました。

「確かに大火傷を負って意識不明になってしまいました」。

「だのに、なぜそんなに元気なのか。火傷の跡も見えない」。

「天の神さまが私のことを哀れんで、蘇生してくださったようです」。

「天の神さまだと?赤猪を恐れて、抱きとめもせずに逃げただけだろう」。

 

 天の神が小雲の命を救った話しなどは信じもしない八十神は寄り集まって「話は簡単。もう一度、小雲を殺害するだけだ」と目配せします。

 一行は西出雲へ戻る旅を再開します。小雲は八十神から数歩離れて付いていきますが、これまでと違って、八十神への警戒は怠りません。

 伯耆と東出雲の国境は一面の森となっていました。見通しが悪い藪の中を小雲がかきわけながら進んでいくと、潜んでいた兄達に不意をつかれて、縄で縛りつけられてしまいます。

 

 八十神は大木を切り倒し、その木に楔(くさび)を打ち込んで割れ目をつくり、その割れ目に逃げようとする小雲を挟み込み、楔を引き抜いて圧死させてしまいました。

「父王には、小雲は森の中で狼に襲われ、食い殺されてしまった、と報告しよう」としめし合せて、西出雲へ戻って行きました。

 

 

2.小雲の紀伊行き

 美作から伯耆に戻ってきた白兎とサシクニワカヒメは小雲が行方知らずになったことに驚きます。

 母が泣きながら息子を捜したところ、大木の割れ目に挟まれた小雲を見つけます。幸いなことに、小雲が逃げようともがいた際に、割れ目の付け根に石が入り込んで圧縮を歯止めする作用を果たしたため、息たえだえでしたが、まだかすかに息はありました。

 青年の姿に戻った白兎が、ただちにその木を裂いて小雲を取り出して二人で蘇生させます。サシクニワカヒメはわが子に告げました。

「あなたはここにいたら、ついには八十神たちによって滅ぼされてしまいます。紀伊のオホヤビコ(大屋毘古)の許に行って、しばらく姿を消しなさい」とすぐにオホヤビコ(大屋毘古)族の許を訪れることを諭しました。 

 

 小雲は因幡のヤガミヒメの後見を白兎に頼んで、紀伊に向けて一人で旅たちました。 

 一人で旅をするのは初めてで、まして14歳の少年ですから、心細くないといったら、嘘になります。母と白兎が那岐山に向かったと同じ出雲街道を進み、津山に入りました。八十神や一味がいつ襲ってくるか分かりませんから、那岐山連峰など周囲に景色に見とれる余裕はなく、播磨へと道中を急ぎます。

 西播磨に入り、佐用(さよ)を過ぎて揖保川を下っていきますと、前方に家島諸島、右手に小豆島、左手に大きな淡路島が見えました。荒波の日本海に較べると、瀬戸内海は穏やかな海でした。冬でもめったに雪は降らないらしい。小雲は瀬戸内海の風光に見ととれながら、一息をつけることができました。

 淡路島では偶然、イザナギがお隠れになった幽宮(かくれみや)と呼ばれる磐座(いわくら)を通りかかりました。「日本列島を造られたイザナギの神さまは那岐山にお棲みのはずだが」と小雲は不思議な思いをします。

 

 オホヤビコ族はイザナギとイザナミが生んだオホヤビコを祖神として祀る、家屋造りを主業とする集団で、大樹が多い紀伊を本拠地にしていました。大型の竪穴住居の建造も請け負いましたが、王宮や高倉(倉庫)向けの高殿造りの秘伝を伝承していることから、一族や徒弟は瀬戸内海沿岸を中心にした各地に散らばって活躍しており、サシクニワカヒメの実家の刺国の宮殿もオホヤビコ族の手で建造されました。それを知っていた小雲の母は各国の事情に精通しているオホヤビコ族に小雲を託せば、義兄たちの襲撃を防ぐ手立てをしてくれると思った次第です。

 

 すでに母からの伝言が届いていたようで、オホヤビコ族の族長は、神門王国の王子である証しの剣を見せると、小雲を快く迎え入れてくれました。

「紀伊を気にいったなら、いたいだけ滞在して構いませんよ」と親切に応対してくれました。

 

 

3.紀伊での生活

 族長の屋敷に居候をしながら、小雲は剣術の稽古に励みます。暇な時は紀ノ川河口にある紀伊の首都の街を散策します。街の繁栄ぶりに驚きながら、日本海育ちの小雲には、初めて見聞きすることばかりでした。

 工人として筑紫から各地に拡がった忌部族は出雲にもおりましたが、阿波の忌部族を見るのは初めてでした。特産の藍染した麻布製の貫頭衣を着ていましたから、一目で分かります。東海から来た人たちの衣服はつぎはぎがある粗末なものでしたが、上質の粘土が産出されるのか、土器を売る露天でよく見かけます。東海よりさらに東北に上がった東国から来た人たちは琥珀玉や熊やイタチなどの毛皮を売っていました。

 

 港では吉備のオオクニタマ族、筑紫の宗像族に加えて阿波の海人たちがせわしげに船を動かしています。海人たちが奪い合っているのは紀ノ川上流の吉野川から下ってくる水銀朱でした。

 水銀朱は吉野川の先の大和盆地の南西に位置する葛国から来ている、ということです。数年ほど前に、日向出身のイワレビコが吉備王国と宗像族からの要請を受けて、大和の山中に入り、艱難辛苦の末に水銀朱を産出する宇陀野を征服した後、大和盆地を牛耳る登美(とみ)国のナガスネビコ将軍や土賊を打ち破って、西南部に葛国を打ち立て、宇陀野から葛国経由で紀ノ川河口に至る水銀主交易路を確立しました。イワレビコ王が建国した葛国は水銀朱と葛粉の輸出を武器に順調に発展し、オホヤビコ族も王宮や高倉の建造で首都の街づくりの一翼をになっていました。

 

 小雲が驚いたのは、火の神カグツチに焼かれて亡くなったイザナミが向かった先は吉備と出雲の境の地底にある黄泉の国ではなく、紀伊半島の南端を流れる黒潮に乗った、はるかかなたにある根の国ということです。また嵐神スサノオは淡路島にいた時は泣いてばかりいて手間がかかるだけでしたが、吉備へ行ってから国土開発の英雄へと勇躍を遂げたことも知りました。

 イザナギ・イザナミ、スサノオとも故地は淡路島ですが、吉備、出雲へと拡散していって、より偉大なる神へと成長していったことを肌で実感しました。

「自分もスサノオの流れを汲んでいる身だ。成長した姿で故郷に戻らなければいけない」。

 

 15歳の誕生日を迎え、少年から青年へと、自我が目覚めていく時期でした。

「日本海を制覇して、日本海の国々が出雲に参詣してくるオオクニヌシになるのだ」と父王が幼い頃から口癖のように小雲に言い聞かせてきた言葉の意味を初めて理解できました。

 おとなしくしていたら、駄目だ。自分の道は自分で切り開いていく。父王の期待に答えるオオクニヌシとなるのだ、と自分に言い聞かせます。そのためにはまず、兄達を撃退しなければいけない。小雲は武術の稽古、研鑽をこれまで以上に積み重ね、それまでの引っ込み思案の少年から大望を抱く青年へと成長していきます。

 

 

4.八十神の襲撃

 神門王国に戻った八十神は、父王に小雲の不慮の死を報告し、嘆き悲しむ父王に神門王国の譲渡を言い寄ります。

 そのうち、死んだはずの小雲は生き延びて、紀伊に逃げていることを風評で知りました。こりもせずに何としてでも小雲を殺害しようと、八十神の幾人かが家来を引き連れて紀伊に追いかけていき、小雲はオホヤビコの族長の許にいることをつきとめました。

 八十神と家来の一団は族長の屋敷を取り囲み、弓に矢を番えて、小雲を引き渡せと脅迫します。

「こうなったら、吉備の宗主の許にお逃げなさい。八十神といえども、宗主の庭先では弟を襲うという悪事を躊躇するはずです。きっと宗主が貴方を良い方向に導いてくれるでしょう」と族長は案内役となる従者を呼び出します。

 小雲は従者の後について、屋敷に隣接する木材置き場の木々の股をかいくぐって八十神たちの包囲網を抜けました。万が一の八十神の襲撃を用心して、夜半に友が島海峡を渡り、淡路島から小豆島と島づたいに吉井川河口に入りました。

 

 翌朝、屋敷の門を開いた族長は「小雲殿はスサノオの神にお会いするために、根の堅州(かたす)国に向かわれた」と言い放ちます。

「黒潮の彼方までは追ってはいけない」と八十神たちは歯軋りしました。

 

(現代語訳)

そこでまた、御母神が泣きながらオオナムチ神を捜したところ、見出すことができて、ただちにその木を裂いて取り出して復活させ、わが子オオナムチに告げて、「あなたはここにいたら、ついには八十神たちによって滅ぼされてしまうだろう」と言って、すぐにオホヤビコ神のもとに、方向を変えてお遣わしになった。(母は紀伊と地縁か血縁があった。イソタケルとの関係)

ところが八十神たちが捜し求めて追いかけてきて、弓に矢をつがえてオオナムチ神を引き渡せと求めた時、木の股をくぐってオオナムチ神を逃して、オホヤビコ(大屋毘古。書紀にスサノオの子と伝える五十猛と同神であろうと言う)神は、「スサノオのおられる根の堅州(かたす)国に向かっていらっしゃい。きっとその大神が良いように考えて下さるでしょう」と仰せられた。

(母は宗主に預ければ、八十神が弟を襲うことを躊躇すると判断した)。

 

 

2 吉備とスセリヒメ 

 

その1.スセリヒメ(須勢理毘賣)との出会い

 

1.宗主とスセリヒメ

 小雲と従者を乗せた小舟は吉井川を上り、支流の吉野川が合流する中流の周匝(すさい)の湊に到着しました。

「あそこの茶臼山の中腹に見える御殿が宗主の館です」と指差して小雲を下船させると、従者は下船せずに船頭と一緒に下流に戻っていきます。

「スサノオ族の宗主がお住まいになる町としては意外に小ぶりだ。上流にある津山の町の半分にも満たない。だが何となく聖域であるたたずまいは感じる」と初めて訪れた街の様子を物珍しげに見やりながら、小雲は茶臼山に向かっていきます。

 

 周匝の町はスサノオ族の発祥の地でした。町の背後に広がる小規模の平野は、150年ほど前に、筑紫から流れてきた荒くれ者たちが開墾して大水田に変貌させ、大土地王オオナムチが誕生していくきっかけを作った場所でした。

 坂道をゆっくりと登り、御殿の門を叩きます。すると、大柄な乙女が門を開け、小雲と目が合って、お互いを見交わしながら、二人は同時に「アッ!」、「アッ!」と息を呑みました。

 小雲の「アッ」は門を開けるのは男の番人と予想していたのが、意外にも自分とほぼ同い年の乙女だったからです。スセリヒメの「アッ」は精悍な若者になった小雲の姿にうっとりしてしまったからです。スセリヒメは16歳、小雲は15歳でした。

 

 御殿に引き返したスセリヒメは父の宗主に「たいそう立派な神のようなお方がおいでになりました」と取り次ぎます。

 宗主は先祖は巨人神に違いない、と巷間で噂されているほど、身の丈2メートルにも及びそうな偉丈夫でした。宗主というより、大国の王者か高天原の守護神という印象を与えます。外に出た宗主は小雲の貫頭衣の紋柄を見て、 一目で出雲の神門王国の者であることに気付きます。

「こやつはいずれはアシハラシコヲ(葦原色許男)と呼ばれるようになる人相をしている。神門王国の人間だとすると、スサノオ族の首領の集まりで父王がいつも自慢げに吹聴している末の息子に違いない。吉備のオオモノヌシを見出し、後押しをしたのは私の祖父だ。私はこやつを一人前の男となるように鍛え、日本海のオオクニヌに育てることにしよう」。

 娘がすでに小雲に一目ぼれをしていたことに気づいてはいませんでしたが、日本海の覇者にふさわしい人物にすべき試練をくわえていくことにしました。

 

 

2.蛇の部屋とムカデと蜂の室

 小部屋に案内された小雲がこれから先はどうなるのか、と期待と不安を入り混ぜていると、高坏(たかつき)に水菓子の桃を乗せてスセリビメが入ってきました。スセリビメは小雲とほぼ同じ背丈でしたが、白い肌が絹のような光沢を放っていました。

「吉備の名産の桃をどうぞお食べください」。

 腹をすかしていた小雲は冷水で冷やした桃をたちまち数個もたいらげてしまいます。その様子を惚れ惚れとスセリヒメが見やります。

「私はまだ出雲へ行ったことはありませんが、どんな所でしょう」。

「沖合いに出ると、瀬戸内海にはいないサメ、イルカ、マグロの大魚が群れをなしております」。

「恐ろしい場所ですね」。

「いやいや、住めば都です」。

 ぎこちなく、他愛ない会話でしたが、お互いに好意を抱き合っていることに気づきます。

 

 スセリビメは何気ないふりをしながら小雲に領巾(ひれ)を手渡します。戸惑う小雲を見て、「これは蛇の害を祓う領巾(ひれ)です。蛇が食いつこうとしたら、この領巾を三度振って打ち払いなさいませ」と小声で告げました。スセリビメは訪れてくる若者に父親が課す試練を熟知していました。

 夜になって灯火を消し、床につくと、暗闇からごそごそと動く気配がしてきます。小雲が灯火をともすと蛇の群れが右往左往這い回り、今にも小雲に噛みつこうとしています。

「スセリビメの話しはこういうことだったのか」と合点がいきました。

 教えられた通りに領巾を三度打ち払うと、蛇の群れは退散し、あたりが鎮まりました。旅の疲れもあって、小雲は安らかに寝て、翌朝、何事もなかったようにその室を出ました。

 翌日はムカデ(蜈蚣)と蜂のいる室に案内されましたが、今度もスセリビメがムカデと蜂を祓う領巾を授けていたので、難なく一晩を過ごすことができました。

 

 

3.火原のネズミ

 最初の試練を通過した小雲はしばらく御殿に留まり、スセリビメとの仲が深まっていきます。御殿の使用人の数は少なく、年に一度、各地のスサノオ族の首長が集まる時だけ賑わう、ということですが、普段はひっそりしています。上流の津山と瀬戸内海を中継する湊の周辺だけが賑わっていて、その喧騒だけが御殿に響いてきます。

 

 二人は宗主の目を盗んで密会を重ねます。小雲にとっては、女性と意識する二人目の女性でした。最初の女性のヤガミヒメは細身で華奢でしたが、スセリヒメは父に似てがっしりした体格をしていて、どんな辛苦にも耐え抜いていける芯の強さを醸し出しています。

「あなたはきっと大王になられます」。

「その私を背後から見守ってくれるのは、きっとあなたでしょう」。

 小雲は懐から越産の青緑に光るヒスイの勾玉を取り出して、スセリヒメの首にかけました。それが二人の未来の約束と知ったスセリヒメは頬を紅潮させながら小雲に抱きかかります。

 

 ところが二人の密会を宗主に見つかってしまいます。

「お前はまだ若造だ。わしの娘をお前なんぞに渡しはしない」。

 翌日、宗主は小雲を野原が広がる高原に連れ出し、新しい試練を小雲に課しました。

「この高原の先にある、こんもりした森こそ、高天原から降られたスサノオの神が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治された場所だ。あそこの神ノ峰(こうのみね)の山麓にはスサノオの神が大蛇を斬って血がついた剣を洗った血洗いの滝がある」。

 

 おもむろに宗主は鐘矢(かぶらや)を広い野原の中に射込んで、「今、放った矢を拾ってこい」と小雲に命じます。

 小雲が直ちに野原に入ると、宗主は火を放って、その野を周囲から焼いてしまい、野焼きの煙がたちこめます。

 火と煙に囲まれてしまった小雲が逃げ出す所がわからず困っていると、鼠が現れて「あそこの岩陰は外はすぼんでいますが、内はうつろで広くなっています」と教えます。

 鼠の言葉に従ってそこを踏んだところ、ズボリを穴の中に落ち込んでしまいます。穴の中は身を隠せる広さと深さがありました。穴に隠れひそんでいる間に、火は上を焼いて過ぎました。

 

 火が鎮まった穴から這い出ると、先ほどの鼠が、宗主が放った鏑矢をくわえて出て来て、小雲に渡します。矢の羽はなくなっていました。

「鏑矢を見つけたのは子どもたちで、じゃれ合いながら羽を食いちぎってしまいました」との弁解に思わず苦笑いをするだけ、小雲は落ち着きを取り戻していました。

 

 

4.父王の死

「父上、いくら武者修行をさせる、と意気込まれたとしても、あまりにも度が過ぎました」と、スセリヒメが父を責めたてます。てっきり小雲は焼け死んだと、葬式の道具を持って泣きながら野原に向う娘の後を追って宗主もその野に向かいます。

 ところがまだ煙がたなびく黒こげの草原に小雲がすくっと立ち、鏑矢を差し出したので、宗主は驚嘆の声をあげ、娘は感涙します。

 

 そこで宗主は二人を御殿の中に連れ帰り、スセリヒメも交えて、人で夕食をとります。娘も食事に加えたのは、小雲との仲を認めたからなのでしょうか。

 宗主は何も話さぬまま、席をたつと、広い大室屋に小雲を呼び入れて、自分は横臥してつ目の試練を課しました。

「わしの頭にたかっている虱(しらみ)を取ってくれ」。

「虱取りか。試練にしてはたやすいことだ」と小雲は拍子抜けします。ところがその頭を見ると、 虱ではなく、ムカデがいっぱいたかっていました。

 

 この時、スセリヒメが水差しとお椀を載せた盆を持って部屋に入ってきました。横臥した父の目を盗んで、そっと袋を恋人に与えます。

「ところで、お前の父王は不慮の死を遂げた、ということだ」。

「まさか!」

 不意打ちをくらって、小雲の頭の中は真っ黒になりました。

「八十神に毒殺された噂も耳に入ってきた」と、宗主が続けます。

 兄たちは、そこまで性根が腐った奴らだったのか。すぐにでも出雲に戻って、復讐を遂げなければならない。

 

「こうした場合、お前なら、どう対応する。兄達に頭を下げてしまうか、兄達に復讐を果たすか。どちらを選ぶ?」

 「もちろん、復讐です」と答えようとしながら、スセリヒメが手渡した袋の中を見ると椋(むく)の実と赤土が入っていました。そこでその椋の実を噛み砕き、赤土を口に含んで唾を吐き出すと、宗主は、 ムカデを噛み砕いて、唾を吐き出しているのだと勘違いします。この若者は可愛いやつだ、と心の中で安心してしまったようです。

「お前ならどうする。お前ならどうする」と反復しながら、気持ちよさそうに寝入ってしまいました。

 

 

(現代語訳)

そこで仰せに従って、スサノオの居られる所にやって来ると、その娘スセリビメが出て、オオナムチ神の姿を見て、互いに目を見交わし結婚なさって、御殿に引き返してその父親に、「大層立派な神がおいでになりました」と申し上げました。

(周匝の宗主がオオクニヌシの力量を検査する)

そこでスサノオが出て一目見て、「これはアシハラシコヲ(播磨から来たので、播磨の神と勘違いした)という神だ」と仰せられて、ただちに呼び入れて、のいる室に寝させられた。その時、その妻のスセリビメは、蛇の害を祓う領巾(ひれ)をその夫に授けて、「その蛇が食いつこうとしたら、この領巾を三度振ってうちはらいなさいませ」と言った。こうして教えられた通りにしたところ、蛇は自然に鎮まったので、安らかに寝て、その室を出られた。

また翌日の夜は、ムカデ(蜈蚣)とのいる室にお入れになった。今度もムカデ(蜈蚣)と蜂を祓う領巾を授けて、前のように教えた。それで無事にそこからお出になった。

またスサノオは、鐘矢(かぶらや)を広い野原の中に射込んで、その矢を拾わさせなさった。そこでその野原に入った時、ただちに火を放ってその野を周囲から焼いた。その時、出る所がわからず困っていると、が現れて、「内はうつろで広い、外はすぼまっている」と教えた。そう鼠が言うのでそこを踏んだところ、下に落ち込んで、穴に隠れひそんでおられた間に、火は上を焼けて過ぎた。そしてその鼠が、先の鏑矢をくわえて出て来て、オオナムチ神に奉った。その矢の羽は、その鼠の子どもがみな食いちぎっていた。

そこでその妻のスセリビメは、葬式の道具を持って泣きながら現れ、その父の大神は、オオナムチ神はとっくに死んだとお思いになって、その野に出で立たれた。ところがオオナムチ神が、その矢を持って差し出したので、

 悲しいことに、小雲は父の死を知らされます。八十神に毒殺された、という噂もありました。

 

 

その2.スセリヒメと出雲へ 

  

1.夜逃げ

「逃げるなら今だ」。

 八十神への復讐を果たすために、すぐにでも西出雲に戻りたいと思いつめていた小雲は、宗主が眠り込んだ今がそのチャンスだととっさに判断しましました。

 ムカデをつまみとる振りを装いながら、小雲は頭髪を左右に分けて細長い輪状に束ねた宗主の角髪(みずら)をほどいていきます。左右とも2メートルほどにも達する長さでした。その髪をつかんで、大室の左右の柱に、すぐにはほどけないように固く結びつけます。うまい具合にぐっすり眠り込んだ宗主が目を覚ます気配はありません。

 

 小雲は忍び足で大室を出ると、物音がたたないように細心の注意をはらいながら、庭先の大岩を戸口に引きすえて、戸口を塞ぎます。

 御殿の番人はまだ物音に気づいていないようです。小雲はスセリヒメが眠る小室を探し当て、ゆすり起こして、「私と一緒に出雲へまいりましょう」と耳元にささやきます。

 目を覚ましたスセリヒメは一瞬ぎょっとしますが、手の暖かさから小雲と分かり、すぐに小雲との逃避行に合意します。夜着を着替える間も惜しんで、上衣を片手にしながら「スサノオ族の宝物を携えて出雲にまいりましょう」と小雲を宝殿に案内します。

 

 スセリヒメは宝殿の清掃を日課としていましたから、薄闇の中でも宝物の配置を熟知していました。小雲はスセリヒメが差し出す生太刀(いくたち)を腰に佩き、生弓矢(いくゆみや)を左手に握り、天の詔(のりごと)を背負って、右手でスセリヒメの手をとって御殿から逃げ出します。

 しかし運悪く、背負った天の詔琴が門前の樹にふれて、大地が鳴動するような大音響を発してしまいました。眠り込んでいた宗主もこの音を聞いてはっと目を覚まし、立ち上がろうとしますが、髪が左右の柱に固く結びつけてお」あるため、立ち上がることができません。それでも無理に起き上がろうと力をふりしぼると、柱が折れて室屋が引き倒れてしまいました。大音響で番人や使用人も目を覚まし、慌てふためいて大室に駆けつけますが、倒壊した大室にすぐには入れません。宗主たちが柱に結びつけられた髪を解きほどくのにもたついている間に、小雲はスセリヒメを伴って、遠くへ逃げ延びることができました。

 

 

2.宗主の別れの言葉

 二人は暗闇の中、夢中で菊ヶ峠を越え、陽が上り始めた頃、旭川に出ました。残念ながら、スセリヒメはそこから先の出雲に至る道を知りませんでした。

 

 機転をきかしたスセリヒメは朝開けの漁に出てきた漁師に声をかけます。

「出雲から来られた宗主の客人の親が急病となって、出雲にすぐに戻らねばならなくなりました。ついては出雲の国境まで案内をしてくれる者を探しております」。

 その仕草や言葉付きから貴賓の女性と感じた漁師は頭(かしら)の許へ案内すると、すぐに宗主の令嬢と見定めた頭は丁重にもてなします。頭は、夜着の上に上衣を着込み、疲れた様子のスセリヒメにいぶかしさも感じましたが、二人の必死な形相を見て、案内役の手配を承諾しました。頭はスセリヒメのために平民の女性が着る普段着まで工面しました。

 案内役に導かれて、福渡で旭川を渡り、田地子、加茂、神原を過ぎて高梁川に着きました。

「とにかく高梁川に沿って上っていけば、新見(にいみ)に至ります」と告げて、道案内は旭川に引き返していきます。

 

 二人はなるたけ近道をしながら、出雲に向けて逃避行を続けます。時に道に迷うこともありましたが、気丈なスセリヒメは弱音をはきません。時には小雲の背の琴を自分の背に背負うこともしました。明るいうちは歩きに歩き、暗くなると農家の納屋のワラの上で、あるいは軒先で夜露に濡れながら束の間の眠りをとりながら、何とか新見にたどりつくことができました。まだ追っ手が迫ってくる気配はなく、ようやく二人は一息をつくことができました。

「ここから比婆山をめざし、黄泉比良坂(よもつひらさか)を越えれば、出雲に入ることができる」。

 

 黄泉比良坂の曲がりくねった坂を中腹まで上った頃、坂下に宗主と追っ手の一団が見えました。

 宗主ははるか遠くに小雲の姿を望み見て、大声で呼びかけます。

「お前が宝殿から持ち逃げした生太刀と生弓矢で、お前の腹違いの兄弟を坂のすそに追い伏せ、また川の瀬に追い払って、貴様がオオクニヌシとなり、また現(うつ)し国魂(くにたま)の神となって、吾が娘を正后として、宇伽の山のふもとに太い宮柱を深く掘り立て、空高く千木(ちぎ)をそびやかした宮殿に住め。こやつよ」と仰せになりました。

 

 

3.初夜

 無事に西出雲に入ったコグモは、仁多郡の斐伊川沿いに下っていき、横田に入ります。確か、横田には父王に仕え、小雲の幼い頃から世話役の一人を務め、今は横田に戻って郷主となっている者がいたはずだ。郷主の屋敷を捜し当てると、郷主がなつかしそうに駆け寄ってきました。

「小雲は森の中で狼に襲われ、食い殺されてしまった、と八十神が言いふらしておりましたが、ご無事で何よりです。すっかりたくましくなられまして」。

 小雲が携えている生太刀、生弓矢と天の詔琴の見て、「これさえあれば、八十神を間違いなく退治できましょう」と安堵の声をあげました。同伴するスセリヒメが吉備の宗主の娘と知り、「小雲さまはオオクニヌシとしてふさわしい伴侶を得られました」と歓待します。乞われて、スセリヒメが天の詔を弾くと、郷主一家や召し使いはうっとりと聞き惚れました。

 

 郷主は川魚と山菜の食事を饗した後、離れに案内します。田舎のことですから、お世辞でも豪華とは言えない造りでしたが、貴人をもてなす、それなりの気配りがされていました。

 ふわふわと垂れている絹の綾織の帳(とばり)の中に入ると、真新しい香りを放つ苧(からむし)と栲(たく)の夜具が用意されていました。

 すぐにスセリヒメを抱きしめて、初めての同衾へと心がはやりますが、宗主が手塩に育てた令嬢との初夜を粗末な田舎屋で迎えるのは非礼にあたる、とじっと欲望を抑えます。スセリヒメも緊張のせいか身を硬くしています。二人の手が触れ合うと、二人とも身体が熱くほてっているのが分かりました。握り合っていた手を絡み合わせながら、二人は夜具の中に倒れこみます。

 苧(からむし)の夜具のやわらかな下で、栲(たく)の夜具がざわざわと鳴る中で、二人は無我夢中で、沫雪(あわゆき)のように白い若やかな胸を、 栲の綱のように白い腕を愛撫し、からませ合います。

 

 しばらくして起き上がった二人は、坏に御酒を注ぎ、交互に飲み合って、行く末を誓います。

「さあ、私の美しい手を手枕にして、脚を長々と伸ばしてお休みなさいませ」とスセリヒメが謡いました。すでに夜が白け始めていて、スセリヒメの歌に合わせるように小鳥のさえずりが響いてきます。

 

 

4.八十神退治

 翌日、郷主は小雲の母と父王の死の顛末を小雲に詳しく報告します。

 小雲の死を嘆く父王は小雲の母の「紀伊に逃避させました」との言葉を半信半疑で聞いていました。ところが、「小雲が紀伊から伯耆に戻ってきた」と八十神が故意に流した嘘をまともに信じて、すぐに伯耆に向かった母は、斐伊川を渡ろうとして乗った渡し舟に穴が開けられていたため、舟が沈没してまだ冷たい川水で溺死してしまいました。それからしばらくして、父王も謎の急死をとげてしまいました。

 父王の喪がまだ開けないうちに、八十神は神門王国を八分割して、それぞれが統治者となりましたが、直に長兄と次兄の仲たがいから内紛が始まります。長兄側は神門郡と飯石郡北部、次兄側は出雲郡と楯縫郡を拠点として、いがみ合いを繰り返します。

 

 郷主が住む仁多郡にはまだ八十神の勢力は及んでいませんでしたが、いずれ騒動が波及してくる恐れもあります。

「前王の家臣や民は八十神に失望して、離反を始めています。この混乱を鎮めるのは小雲さましか、おられません」。

 父と母の仇を返す、と復讐に燃える小雲に異論はありません。小雲は郷主の家来を伝令にして、因幡の白兎に連絡をとると、白兎は飛ぶがごとくに駆けつけました。再会を喜びながら、白兎は小雲の成長に目を見張りました。

「きっと、きっと、八十神を退治されてください。八十神どもはヤガミヒメをも殺害してしまうおうと企てましたが、それを察知した私がヤガミヒメを安全な場所にお隠ししました」。

 

 小雲と白兎は郷主の許ににスセリヒメを預けて、鬼の舌震(したぶるい)の伝説がある仁多の三成(みなり)に下ります。そのまま下っていけば神門王国の中心部に入りますが、二人は右折して山越えで、スサノオの子神の子孫たちが分割統治する東出雲の意宇郡に入ります。

 足が速い白兎が伝令役を務めながら、西出雲の各地から不満分子が小雲の許に集まり、軍勢が整っていきます。東出雲の勢力も加勢を公言します。

 最初の戦闘は東出雲との境の健部郷から始まります。小雲が宗主の生太刀・生弓矢をかかげると、軍勢の意気が最高潮に高まります。出雲郷の中心部を押さえた後、河口をめざして斐伊川(出雲大川)沿いに軍を進め、腹違いの兄弟を坂のすそに追い伏せ、また川の瀬に追い払っていきます。

 とうとう、大原郡の木次郷まで追い詰めた小雲は「八十神は青垣山の裏(うち)には置かず」と勝ち鬨の声を叫びます。

 兄達は飯石郡を抜けて、神門王国の故地である三次盆地に逃げ込みました。

 

(現代語訳)

この時、オオナムチ神は、スサノオの髪をつかんで、室屋の垂木ごとに結び付けて、大きな岩をその室屋の戸口に引きすえ、その妻のスセリビメを背負い、ただちに大神の宝物である生太刀(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)、また天の詔(のりごと)をたずさえて逃げ出される時、その天の詔琴が樹にふれて、大地が鳴動するような音がした。

(三種の神器 大和が剣・鏡・玉 VS 出雲が刀・弓・琴  )

それで眠っておられる大神が、この音を聞いてはっと目を覚まし、その室屋を引き倒してしまわれた。けれども、垂木に結びつけた髪を解いておらえる間に、オオナムチ神は遠くへ逃げ延びて行かれた。

そこでスサノオは、黄泉比良坂(よもつひらさか。地上と黄泉国の境。黄泉国根国が同意義になっている)まで追いかけて来て(比婆山連峰)、はるかに遠くにオオナムチ神の姿を望み見て、大声で呼びかけて仰せられるには、「お前が持っているその生太刀・生弓矢で、お前の腹違いの兄弟を坂のすそに追い伏せ、また川の瀬に追い払って、貴様がオオクニヌシとなり、また現(うつ)し国魂(くにたま)の神となって、その私の娘のスセリビメを正妻として、宇伽の山のふもとに、太い宮柱を深く掘り立て、空高く千木(ちぎ)をそびやかした宮殿に住め。こやつよ」と仰せになった。

(吉備の宗主から、出雲と日本海の盟主の座のお墨付きと励ましを受ける)

そこでその太刀でもって、兄弟の八十神を追い退ける時、坂のすそごとに追い伏せ、川の瀬ごとに追い払って、国作りを始められた。(吉備の後押し)

(八十神の兄たちは、神門王国の故地である三次盆地に逃げ、反抗を準備したが、吉備王国に攻撃されて、これ以後、三次盆地は吉備邪馬台国に組み込まれる。オオクニヌシはそれを容認し、目標を日本海に向ける。吉備の楯築王の死後、出雲王は三次盆地を王国の故地として領有を主張したことから、倭国大乱が始まる)

 

 

 

3章 オオクニヌシの后たちと日本海の国々

 

その1.スセリヒメとヤガミヒメ

 

1.神門王国の首都    

 八十神を追い出した小雲は斐伊川を上って横田に入り、待ちこがれていたスセリヒメと再会します。小雲の命運を案じた気疲れのせいでしょうか、心なしスセリヒメの頬がこけていました。スセリヒメの面倒を見ていた郷主には、小雲と一緒に王国の首都へ戻って、小雲の新体制を支える家臣の一人になることを要請しましたので、郷主は意気に感じます。

 郷主を先頭に一行は斐伊川を下り、神門王国の首都に入りました。王宮に至る街道は小雲の姿を一目見ようとする人垣で埋まっていました。小雲の一行が通りかかると、自然に歓声の輪が沸き起こっていきます。

 

 王国の首都は斐伊川と神門川に挟まれ、神門水海に面した高岸郷にありました。高岸郷と塩冶(やむや)郷、八野郷に王都の街並みが広がっています。

「話しに伺った日本海のサメ、イルカとマグロの大群を見てみたい」と好奇心が旺盛なスセリヒメが小雲にねだります。荒波の日本海に出るには大型船が必要となりますので、とりあえず神門水海の湾内を小舟で周遊しますと、水海の南西部の滑狭(なめさ)郷の風景が気に入ったようで、「いつかはあそこに山荘を持ってみたい」と何気なく呟きます。

 

 大きな荷物を丸棒に吊るし、丸棒の前後を担いだ人足五組の一団が吉備王国からやって来ました。周匝の宗主からの結婚祝いでした。あの鬼のような形相をした偉丈夫にも娘を思いやる優しさがありました。きっとスセリヒメの実母が準備したのでしょう、衣服や飾り物に加えて織物用のかせや梭(ひ)、木工のさじ、赤漆塗りの小箱など日用品まできめ細かに用意されていました。

 王宮の神前でのおごそかな結婚儀礼の後、正装した二人が内揃って勾欄に姿を現すと、どよめきが上がりました。スセリヒメはすでに大国の正后としての貫禄をかもし出しています。

 小雲は、角髪(みづら)に結った頭髪の上に桂の冠をかぶり、筒袖の上衣を倭文布(しづり)の帯で締め、その下に褌(はかま)と皮履、首に出雲特産の碧玉(青メノウ)の管玉を連ねた頸珠(くびたま)をかけ、左右の手首に金色に輝く銅製の手玉をつけていました。スセリヒメは縫い上げた頭髪の上に丹色の天冠をかぶり、小袖の上に大袖を重ねて倭文布(しづり)の帯で締め、その上に袖なしの貫頭衣をかぶせて肩から襷(たすき)を掛けています。その下は裳と皮沓で、ガラス玉の耳環と貝の白珠の首玉が純白の輝きを放っています。

 

 王宮での新生活が始まりましたが、スサノオ族の宗家の出でもあったことから、すぐにスセリヒメの出雲の老若男女に受け入れられました。スセリヒメは天の詔琴を弾きながら、スサノオ族本家直伝の琴の調べを王宮にはべる女官たちに伝授していきます。

 

 

2.ヤガミヒメ

 小雲は初めての女性となったヤガミヒメをほっておきにはしませんでした。白兎をお伴にしてヤガミヒメを因幡から西出雲に呼び寄せます。

 ヤガミヒメは隠れ家生活が続いたせいか、旅疲れなのか、幾分やつれた様子でしたが、王宮の侍女たちすら、うっとりみとれてしまうほどのしとやかな美人になっていました。色白ではありませんが、頬の赤みが色っぽさを引き出しています。身なりは裳の上に着た貫頭衣を帯で締め、肩から両側に領巾(ひれ)を下ろす、女性の普段着でしたが、絹を混じえた上質の布を使っている衣服がスラリとした容姿と溶け合って、さりげない気品を発しています。

 

「小雲さまが紀伊に旅立たれた後も、いつ八十神に襲われはしないかと、毎日、心配しておりました。よくぞ、ご無事で。その上、私のようなものを忘れずにいて下さって」と感謝の念を伝えます。

 小雲はヤガミヒメを王宮の離れに住ませることにしました。ヤガミヒメが抜けた後の因幡の国政が懸念になりましたが、ヤガミヒメの父王が亡くなった後に番頭役を果たしていた家臣をヤガミヒメと白兎も信用していましたから、引き続き政務を任せることで落着しました。大事が発生した場合は、白兎が仲介役となって、神門王国が兵士を派遣することにも合意されました。

 

 まもなくヤガミヒメはオオクニヌシの最初の子をみごもりますが、先をこされてしまった正后は面白くありません。

 

3.懸念の三次盆地

 吉備王国はオオモノヌシの跡を継いだ代目王が健在でした。小雲の父王が実の息子たちの手で殺されたことを哀れみ、三次に逃げ込んだ八十神が今度は密使を送り込んで小雲を暗殺してしまうのではないか、と小雲の先行きを危惧していました。小雲も八十神の残党の逆襲が気になってはいましたが、王国を継いだばかりの小雲には、単独で三次に攻め込み、逃げ込んだ八十神一味を退治する力はまだありませんでした。

 

 吉備王の使いとして、小雲より年長ですが、まだ王子だった帥升(すいしょう)が神門王国にやって来ました。王子を使いとして西出雲に送った理由は、三次盆地に逃げ込んだ八十神への対応策でした。八十神が瀬戸内海と日本海を結ぶ江の川交易の要に位置する三次の湊を封鎖してしまったことから、安芸の投馬国は打撃を受けていました。交易立国である投馬国は兵力が脆弱で、単独で三次盆地に攻め込むのは不可能です。神門王国とのやりとりが円滑に進めることができない投馬国は、吉備王国に泣きつき、八十神退治を懇願しました。

 帥升が小雲に提案した対応策は、西出雲の神門王国と吉備勢力で三次盆地を挟み撃ちにする、というものです。八十神勢が逃げのびることができないように、江の川上流の安芸側と下流の石見側に築く砦の交渉と段取りは安芸へは吉備が、石見へは神門王国が担当する、という内容でした。

 

 帥升は小雲より年上ですが、一国の国王となった小雲を自分より格上の人物であるかのように丁重な態度で接します。小雲より長身で、剣が達者で長い腕で剣先を相手につきつける戦法を得意にしていました。小雲も紀伊滞在中に剣術の腕を上げていましたので、幾度が試合をしましたが、勝ったり負けたりの互角の勝負でした。宗主の娘であるスセリヒメが二人の仲をうまく取り合ったこともあってか、二人は馬が合って短い間に親しくなりました。

「八十神を退治した後の処理ですが」と帥升はいよいよ本題に入ります。父王の意向を受けた帥升の提案は、三次盆地は吉備王国が併合し、東出雲は神門王国が併合する。伯耆は地元勢力と吉備、出雲が共同統治する、というものでした。

 

 三次盆地を捨てて、東出雲を取得するという、想定外の提案に小雲は面食らい、考え込みました。神門王国の故地である三次盆地を捨てるのは、一見、神門王国側に不利な条件に思えます。スサノオの子神の子孫たちが分割統治している東出雲の勢力が、そうたやすく神門王国との併合に同意するだろうか。賛同者も出るだろうが、絶対に反対する、という声も上がってくるだろう。

 小雲の懸念を承知しているかのように「東出雲勢へは父王と私が説得します」と帥升は自信ありげに畳み掛けます。「瀬戸内海は吉備王国、日本海は出雲王国と棲み分ける、ということです。吉備は日本海へは勢力を伸張しないことも確約いたします」と帥升は言い切ります。

 数日の間、あれこれ呻吟し、スセリヒメの意見も聞いた後、小雲は帥升に同意を伝えました。

 

 それからしばらくして、すでに着々と準備を進めていた吉備王国は一気に三次盆地に攻め入り、八十神の勢力を一網打尽に壊滅しました。吉備王国は同時並行の形で東出雲の部族長たちへ下工作をしていたことから、部族長たちは、意外にすんなり、自分達が郷主の座を保証されることを条件に西出雲との併合に合意しました。吉備王国と神門王国の2強にたてつきながら独立を保つよりも、併合した方が安全、得策と判断したのでしょう。神門王国の国王となった小雲がスサノオ族の宗家から正后を迎えていたことも、東出雲併合の後押しになりました。

 これにより、神門王国は出雲王国へと国名を改めます。ヤガミヒメを后に迎え入れたことで、因幡も神門王国の勢力下に組み入れていましたから、日本海の北への進出がしやすくなり、小雲は日本海のオオクニヌシへの道を歩み始めます。家臣や民衆もいつの間にか、小雲をオオクニヌシと呼ぶようになります。

 

 

4.ヤガミヒメの里帰り

 ヤガミヒメが生んだオオクニヌシの最初の子は男の子でした。

 ヤガミヒメは華奢な容姿でしたが、夜の床では情熱的なふるまいをします。寝床で抱かれている時の表情が豊かで、声には出しませんが、触れて欲しい場所を恥らいそうにしながらも、それとなく示します。そこを愛撫すると、かすかに歓喜の震えをします。相手を征服し、満足させたという歓びを男に与えますから、男は病み付きになってしまいます。小雲は息子に会いに行くのを口実に頻繁にヤガミヒメが住む離れに通います。

 

 それを見る正后は不愉快です。おまけにヤガミヒメは自分より美人だとひがんでもいましたから、饗宴で同席した時などで、白々しい目つきでヤガミヒメを睨みます。次第に侍女たちも正后に見習うように、突き刺すような冷たい視線をヤガミヒメに示すようになります。

 ヤガミヒメはスセリヒメよりも歳年上で、因幡の王女としての自負もありました。しかし身分や格付けを較べると、スサノオ族の宗家出自のスセリヒメより劣り、父王も他界していましたから、張り合ったところで負けてしまうのは明らかでした。

 

 小雲には漏らしはしませんが、日を追うごとに、ヤガミヒメは孤独感を深めていきます。

「やはり、故郷の因幡へ戻ることにしよう」。

 ある晩、ヤガミヒメは小雲には内緒のまま、息子を木の股にさし挟んで因幡へ帰ってしまいました。「やはりヤガミヒメはスセリヒメを恐れてしまったのだ」と街の人々は噂しますが、ヤガミヒメが残していった息子はキマタ(木股)と呼ばれるようになりました。

 オオクニヌシがヤガミヒメの里帰りを嘆いたことは申すまでもありません。スセリヒメの目を盗みながら、白兎を仲介してヤガミヒメとのやりとりを続け、時折、因幡のヤガミヒメの許にひそかに通います。

 

(現代語訳)

さてかのヤガミヒメは、先の約束どおり、オオクニヌシと結婚された。

そしてヤガミヒメは出雲へ連れて来られたけれども、その本妻のスセリビメを恐れて、その生んだ子は木の股にさし挟んで因幡へ帰った。それでその子を名づけてキマタ神と言い、またの名をミイ(御井)神と言う。

(ヤガミヒメは出雲で息子を産んだが、スセリビメの嫉妬を恐れて、息子を隠して因幡の実家へ戻っていった)

 

 

その2. タギリヒメとカミヤタテヒメ  

 

 祖父が建国した神門王国を東出雲を併合して出雲王国へと飛躍させたオオクニヌシは、政治的な意味合いも含めて、吉備に次いで、筑紫の宗像族と地元の島根半島の名家から后を娶りました。

 

1.タギリヒメ(多紀理毘賣) 

 筑紫の宗像族はスサノオ族の骨格となった荒ぶ者を筑紫から船で吉備に運んできた海人族でしたから、スサノオ族とは当初から結びつきが深く、宗像族が信奉する女神タギリヒメ、イチキシマヒメ(市寸島比賣)、タキツヒメ(多岐都比賣)はスサノオの娘神として尊重されていました。

 筑紫の志賀島に拠点を置く安曇族が筑紫と朝鮮半島を結ぶ交易など遠洋航海に長けているのに対し、宗像族は九州東部、瀬戸内海、日本海の沿岸沿いの航海を主としていました。吉備王国の拡大とも密接に関わっていましたし、水銀主の交易路開拓で日向から投馬国、吉備を経て大和の宇陀野に入り、南葛城地方に葛国を建国したイハレビコ(神武天皇)を吉備王国と結びつけたのも宗像族でした。吉備王国の筑紫(奴国、伊都国)制覇でも宗像族は吉備側について、筑紫側に関する情報を正確に伝える役割を果たしていました。

 

 宗像族は日本海交易の拡充をめざしていましたので、一族の子女が出雲王国に嫁入りすることは願ってもないことでしたし、出雲王国にとっても宗像族を介した交易を一層発展させることが期待できます。両者の実益が一致することから、阿吽の呼吸で宗像族からの輿入れが決まりました。

 宗像族が選んだ后タギリヒメは筑紫の宗像族宗家の長女で、宗像3女神の長女と同じ名前でした。宗像族の船団に守られて出雲入りしたタギリヒメを、オオクニヌシ自らが出迎えます。 舶来の錦の着物を着込んだタギリヒメは南方産のゴホウラ貝の腕輪を自慢げにはめていました。スセリヒメより2歳年下で、背丈はわずかに低めでしたが、スセリヒメと同じようながっしりした体格で、妹のようにも見えます。

 スセリヒメについての知識を宗像族の海人からすでに仕入れていたのでしょう、手抜かりなく南方産巻貝の腕輪をスセリヒメに土産として贈って喜ばせます。住まいは王宮内にあてがわれましたが、スセリヒメの嫉妬深さを承知していたため、いつも正后をたてるように気を使い、妹のように如才なく振舞いましたので、二人の中は表面上はうまくいっていました。

 

 それでも端から見ると、正后のご機嫌をそこねないように無理をしている様子が分かります。ある夜、「正后だからと無理をしてまでスセリヒメをたてる必要はありませんよ。筑紫にいた頃と同じように自然にふるまいなさい。二人の間がこじれたなら、何でも私に相談しなさい」とオオクニヌシから優しい言葉をかけられて、嬉し涙をこぼしました。それからは二人きりの時は自然体になって、オオクニヌシとふざけあったり、甘えたりして、オオクニヌシの良き話し相手になっていきました。

 タギリヒメは直に懐妊して、アヂシキタカヒコネ(阿遲鉏高日子根)が誕生しました。

 

 

2.カムヤタテヒメ(神屋楯比賣)

 タギリヒメの輿入れほど派手さはありませんでしたが、オオクニヌシは島根半島の先端に位置する美保郷に住むカムヤタテヒメも后に迎えました。

 カムヤタテヒメの一族は島根郡生え抜きの名家でした。筑紫から島根半島にやってきたカミムスビ族と佐太大神の血筋に加えて、方結(かたえ)郷を治めたスサノオの子神クニオシワケ(国忍別)の血筋も伝えていました。おまけに朝鮮半島の南東端や隠岐島、能登半島から大地を引き寄せ縫い付けて島根半島を造られたヤツカミヅオミヅノの血筋も引いておられる、と胸を張る付き人までおります。

 オオクニヌシは八十神の謀略で真っ赤に焼けた大石を抱きかかえてしまって、大火傷で死んでしまいましたが、カムムスビのお蔭で蘇生できましたので、カムムスビには恩を感じていました。東出雲の名家から后を迎えることは東出雲併合に不満を抱く人を懐柔する狙いもありました。

 

 ヤガミヒメは地味で穏やかな性格で、絹の錦には縁が薄いのか、いつも麻か木綿(ゆう)の衣服を着込み、サメの大歯の勾玉を連ねた頸環をつけていました。オオクニヌシはカムヤタテヒメを王宮がある神門郡に招こうとしましたが、ヤガミヒメがスセリヒメの嫉妬に耐え切れずに因幡へ里帰りしたことを聞いていましたから、スセリヒメの嫉妬深さを恐れて、オオクニヌシの誘いに乗らずに首都入りを拒みました。しぶしぶオオクニヌシは通い婚を承諾しましたが、カムヤタテヒメはスセリヒメとの衝突を回避することができました。

 実直な性格を反映してか、 子女は感情を表に出さないという躾で育ったのでしょうか、ヤガミヒメは夜の床でも平凡で、あっさりしていました。抱擁に満足しているのか、歓びを感じているのか、はっきり分からないため、オオクニヌシはいつも物足りなさを感じます。

 タギリヒメより少し遅れてカムヤタテヒメも懐妊し、コトシロヌシ(事代主)が誕生しました。同じムスビ系のよしみもあって、乳母にタカミムスビの子孫にあたるミホツヒメ(美穂津姫)を丹波から呼び寄せました。

 

 

3.帥升の遣使団

   (参照:「吉備邪馬台国の奴国・伊都国制覇  第6章 帥升の後漢への遣使)

 オオクニヌシが20歳代半ばを過ぎて、治世にも磨きがかかってきた頃、父王の死後、吉備邪馬台国の代目王を即位した知己の帥升から使いが来ました。

 使いの趣旨は、吉備王国が倭国の盟主の座を固めたことを後漢の王さまにも知らしめるために、後漢の首都に遣使を送ることにしたが、出雲王国も後漢に献じる生口を一郡に一人の割合で手配して欲しい、というものでした。

 

 帥升の狙いは後漢の王さまから、交易品の荷を封じる粘土に押す金印を授与されることにありました。奴国が半世紀ほど前に後漢の初代王である光武帝に遣使を送って金印を授与されていましたが、その金印の所在は奴国崩壊の後も行方知らずのままでした。吉備王は金印が意味することを深くは理解していませんでしたが、半島と後漢との交易の窓口である傀儡王国の伊都国の王がしきりに遣使を送るべき、と伊都に常駐する吉備の役人に呼びかけ、帥升にも使者を送って説得します。

 

 その頃、後漢は代目の和帝(治世88105年)が没し、鄧(とう)大后がわずか生後100日にすぎない殤(しょう)帝(治世105106年)を代目に立てて臨朝を始めた頃でした。

 和帝は西域の建て直しを推進し、91年には班超を西域都護として西域50余国を服属させ、97年には甘英をローマ領のペルシャ湾岸まで派遣するなど、初代の光武帝からの上昇気運が続いていました。

 西域が一段落ついたことから、次は東に目を向け、朝鮮半島も視野に入れてくるに違いない。先手を打って、倭国も後漢に朝貢して、冊封体制に加わっておいた方が無難だ、と壱岐国、対馬国、金官伽邪国などから、伊都国王へ遣使派遣の忠告が繰り返しありました。

 殤帝時代は殤帝の死で1年しか続かず、安帝(治世106125年)が五代目を継ぎましたが、引き続き鄧大后が臨朝を続け、高句麗対策もあってか、半島北部の玄莬郡と楽浪郡に多数の兵士を送り込みました。金官伽邪国などからも、倭国も即座に冊封体制に加わるべき、との声が高まっていきます。

 

「派遣団の目的は、第1に倭国の盟主の座と中心は奴国・伊都国の筑紫から吉備へ移行したことを認知させること、第2に上り坂の後漢との交易を拡大することにあります」などと、帥升の使者が意気揚々とまくし立てる話しを耳にしているうちに、オオクニヌシも気が大きくなったのでしょうか、「我が国からも随員として代表を送りましょう」と帥升に事前の相談もせずに、出雲国からも遣使を派遣することを勝手に決めてしまいました。

 

 

4.スセリヒメの焦燥

 タギリヒメがアヂスキタカヒコネを、カムヤタテヒメはコトシロヌシを生んで、ヤガミヒメが生んだキマタも含めて、オオクニヌシは人の王子に恵まれました。ところが正后にはいつになっても妊娠の兆候が現れません。子どもが授かるように神に祈り、生薬もためしましたが、一向に効果がありません。

 アヂスキタカヒコネはどうしたことか、昼となく夜となく泣き続けています。タギリヒメも乳母ももてあまし、乳母たちは「弱虫っ子」を陰口をたたいていました。タギリヒメが第2子を身ごもった頃から、見かねたようにスセリヒメはアヂシキタカヒコネの面倒を見るようになります。自分の子ができない寂しさをまぎらわす気持ちもあったのでしょう。

「スサノオの神も子どもの頃は泣いてばかりいました。それとと同じですね」とアヂスキタカヒコネをかばいます。「慰めるために高楼を作らせよう」と、王宮の側に神門水海と岬の先にある日本海まで見張らせことができる高楼の建造を命じます。

 

 キマタはスセリヒメからは疎んじられていましたが、母が住んでいた王宮の離れで乳母に育てられていました。どうやら土木・建築に興味を持っているようで、高楼が建てられていく光景や井戸が築造される行程を飽かずに眺め続けています。

 カムヤタテヒメとの王子コトシロヌシは母と共に美保に住んでいましたが、幼い頃から釣りが好きで、毎日、美保の岬に出かけて魚釣りをしています。

 

 オオクニヌシは王宮に住むスセリヒメとタギリヒメには「今後の日本海北上の準備で中海で船団造りを始めたから、その視察に行かねば」などと口実を作っては、舟で美保に通いますが、美保に行くふりをよそおって因幡のヤガミヒメの許を訪ねることもしばしばでした。

 ところがオオクニヌシはコトシロヌシの乳母ミホツヒメに手をつけてしまったため、騒動が持ち上がってしまいます。

 

 

その3. 丹波のミホツヒメ、但馬のアワガヒメ と丹後のトリミミ

 

1.丹波のミホツヒメ

 ミホツヒメはムスビ系の神タカムスビの子孫と伝わる、丹波の旧家の出自でした。同じ丹波の旧家に嫁入りしましたが、夫に先立たれ、娘も夭逝してしまいました。行く末を案じていた頃、誰が伝えたかは分かりませんが、美保のカムヤタテヒメの耳に入り、コトシロヌシの乳母として招かれました。

 中肉中背のミホツヒメはとりたてて美人でもなく、男を振り向かせるような魅力もありませんでした。カムヤタテヒメの御殿では、いつも控えめで下女たちの中に混じっても地味で目立たない存在でしたが、コトシロヌシをあやす姿をオオクニヌシが見ているうちに、助けてやらねば、という気持ちをなぜか抱かせます。不幸な身からにじみ出る陰の部分にオオクニヌシが引かれてしまったのでしょう。

 

 スセリヒメやタギリヒメの目を盗んで無理を押して美保までやって来るのに、いつもカムヤタテヒメに物足りなさを感じていたオオクニヌシはある晩、コトシロヌシの部屋を覗いてみると、ミホツヒメが添い寝をしていました。そっと近寄って抱き寄せますと、ミホツヒメは目を覚まし、アッと驚きと恐怖の声をあげましたが、相手が主人のオオクニヌシであることが分かると、なすがままに身をまかせ、次第に身体全体が熱くほてっていくのが自分でも分かりました。

 しばらくして、カムヤタテヒメはオオクニヌシの不祥事に気づきましたが、事を荒立てるのも大人気ないと、見て見ぬふりをしていました。それでも内心は我慢がならなかったのでしょう、コトシロヌシが一人歩きをするようになると、ミホツヒメを丹波へ里帰りさせてしまいました。

 

 カムヤタテヒメや侍女は「ミホツヒメは自発的に丹波に戻ってしまわれた」とオオクニヌシに伝えますが、オオクニヌシは肌にねばりつくような、ふっくらした餅肌の味が忘れられず、日に日に恋心が増していきます。とうとう、意を決して因幡のヤガミヒメの許へ通うついでに、足を延ばして丹波の亀岡まで通うようになりました。

 それを知ったカムヤタテヒメは口をあんぐりさせたまま、二の句をつくこともできませんでしたが、いつしか噂は首都に住むスセリヒメの耳にまで入ってしまいました。

 

 鼻歌交じりで旅立ちの用意をしているオオクニヌシに「中海での船団造りの視察をされるのに、そんなに日数がかかるのですか」と嫌みを言います。オオクニヌシは「もう、スセリヒメの耳にまで入ってしまったか」と 風聞の速さに驚きましたが、言い訳しても仕方がないと居直ります。

「中海からもっと遠くへ行くのは確かです。前々から申しているように、戦争をせずに勢力を広げていくのが私の戦略なのです。長い目で見られて、その点をご理解いただければ」と言い残して、そそくさと丹波に向かいます。

 丹波に着いたオオクニヌシは、もう公けになってもかまいはしない、と腹を据えて特別に立派な御殿の建造を命じました(亀岡市出雲大神宮)。

 

2.帥升の遣使団の帰国

 帥升による後漢への遣使団は無事に戻ってきました。遣使団の一員として魏の首都、洛陽を見てきた家臣から、朝鮮半島の伽邪国と帯方郡、魏の首都の有様を詳しく聞きます。家臣は出発前よりもたくましさと自信を増した印象を与えます。

 

 遣使団には出雲王国からは代表者と付き添い、生口人が加わりましたが、全体では生口が160人にも達し、大掛かりな一団となりました

 壱岐国、対馬国から海峡を渡って金官伽邪国に入り、半島沿いに帯方郡へと進み、楽浪郡から陸路で首都の洛陽へと向かっていった道中を優れた記憶力でオオクニヌシに報告します。

 一行が驚いたのは、牛、馬、ロバ、ラクダが交通輸送の役割を果たしていることでした。倭国では豚肉や鶏肉を食べる者がおりましたが、牛や馬の肉を初めて食します。行く先々で「倭国には牛、馬、ロバ、ラクダはいない」と言うと不思議がられました。幼い殤(しょう)帝は治世1年にも満たずに他界し、安帝(治世106125年)が5代目を継いだ頃でしたが、鄧(とう)大后が引き続き臨朝したことから、国内は安定し、洛陽の都も繁栄していました。

 

 オオクニヌシは家臣の話しを月の世界のように、お伽話の世界のように聞き入ります。倭国にはない文字の存在にも着目します。家臣は、蔡倫という人物が竹冊や板冊に代って発明したばりで、洛陽で評判となっている紙をオオクニヌシにみやげとして差出しました。

 

3.但馬のアワガヒメ  

 オオクニヌシはスセリヒメに気兼ねしながらも、因幡のヤガミヒメと丹波のミホツヒメの許に通います。

 

 ヤガミヒメが住む因幡からミホツヒメが住む丹波の亀岡に行くには但馬の国を通過しますが、いつも街道沿いにある梁瀬(あやせ)の宿場町で一夜を過ごします。梁瀬では地元の首長が自宅の離れを提供しますが、オオクニヌシへの接待と給仕は首長の娘アワガヒメ(粟鹿姫)が担当しました。毎回供される山菜料理がオオクニヌシの楽しみになります。

 アワガヒメは少女から乙女に成長した頃でしたが、山国らしく、猪の牙や鹿の角の勾玉で飾っていました。オオクニヌシは貴人の女性とは違った味があるかも知れないと、前々から、身分が低い女性に興味を持っていました。夕食の後、アワガヒメに声をかけると、アワガヒメもオオクニヌシに好意を抱いていたのでしょうか、拒みもせずにオオクニヌシの誘いに応じます。

 

 因幡から丹波へはいつも、白兎がお供をしますが、「本当に小雲さまは女好きでおられる」とため息をつきます。その白兎もちゃっかり者ですから、立ち寄る先々で馴染みの女性を作っていました。

 やがてアメノミサリ(天美佐利)が誕生しました。アワガヒメも父の首長も身分の違いを承知していましたから、オオクニヌシの后となる望みは初めから持たず、生まれた子は庶子の扱いでも不平をもらさずに自分達の手で育てます(兵庫県朝来郡山東町の粟鹿(あわが)神社)。

 

4.丹後のトリミミ(鳥耳)

 ある日、丹波の先端にある丹後半島を地盤とする丹後王国のヤシマムヂ(八島牟遲)王の使者がオオクニヌシの王宮にやってきました。

 自慢の愛娘をオオクニヌシに献上したい、という申し入れでした。オオクニヌシは丹後王国にトリミミ(鳥耳)という美貌の王女がいることは風の便りで耳にしていましたが、相手からの申し入れに驚き、何か落とし穴があるのではないか、と不審に感じます。

 

 丹後王国は沖合いを流れる対馬暖流と対流の影響なのか、半島東南部に位置する辰韓諸国の漁民や船乗りがしばしば漂着し、逆に丹後の漁民が辰韓諸国に流れ着くこともありました。辰韓の国である斯羅(しら。後の新羅)国に漂着して脱解尼師今(だっかいにしきん)と呼ばれるようになった倭人も、丹後出身の船乗りでした。脱解尼師今は斯羅国の第代王である南解次次雄(治世424年)に気に入られ、王女アヒョ(阿孝)の婿となります。第代王は南解次次雄の長男、儒理尼師今(同2457年)が継ぎましたが、脱解尼師今は請われて第代王に就任します(同5787年)。脱解尼師今を継いで南解次次雄の次男、娑娑尼師今が第5代王(同80112年)となっていましたが、丹後国との交易は依然として盛んでした。

 

 丹後国のヤシマムヂ王が自慢の愛娘をオオクニヌシに差し上げることに至った思惑は、因幡についで但馬、丹波と影響力を強めてきた出雲王国との友好関係を深めること、娘を后に嫁がせて生まれる王子がひょっとしたら出雲王国の後継ぎになるかもしれない、という期待があったからです。一方、オオクニヌシは丹後半島を陣営に加えるなら、越への北上の足がかりとなることに魅力を感じました。もちろん、丹後国は辰韓諸国と独自の交易を進めていますので、障害となる危険性もはらんでいましたが、噂の美人を后に迎え入れる嬉しさもあって、丹後王の申し入れを受けることを決め、トリミミを出雲に向かあ営りました。

 

 トリミミが杵築の港に到着しました。オオクニヌシより一世代以上も若い、20歳手前の細身の女性でした。真紅の漆の櫛を挿し、小粒のガラス製のイアリング(耳璫)、首飾りもガラス製の菅玉(くがたま)を連ねていて、きらきらと輝きを放っています。着込んだ大袖は見慣れない色彩と模様の錦でしたが、サテン織りのせいでしょう、滑らかな光沢を発して溌剌とした若さを引き立てています。すべて斯羅から輸入した舶来品でした。

 なるほど、父王が自慢するだけあって、評判どおりの美人だ。これで自分も若返るとオオクニヌシはニンマリします。

 

 トリミミは王宮に住む人目の后となりましたが、オオクニヌシが日頃からスセリヒメ達に宣言しているように、地元の王女を后に迎えることで、戦いをせずに因幡から但馬、丹波、丹後へと着々と勢力を広げていきますので、后達も文句は言えず、女好きを黙認せざるをえません。いつも忍び歩きの際にオオクニヌシのお伴をする白兎は出世して、勢力下の諸国の情勢を集める監督者として重責を担うようになりました。

 物怖じしないトリミミは、スセリヒメとタギリヒメが住む王宮に新風を巻き起こし、二人の后はかき乱されます。正后スセリヒメには一目を置いているのか、神妙に振る舞いますが、スサノオ族との縁が深く、由緒もある宗像族についての知識があまりないようで、宗像族出身のタギリヒメに対しては、安曇族と同じ交易海人の出にすぎず、自分のような王家の出身ではないと、みくびった態度で接します。それがタギリヒメの癇に触れてしまいます。二人の肌も合わないようです。早々にタギリヒメと火花を散らします。トリミミは体格はタギリヒメに劣りますが、負けん気が強く、何さ先輩面をして、と挑発します。

 

 タギリヒメとトリミミの確執はトリミミが王子トリナルミ(鳥鳴海)を出産したことから、ますます激しくなっていきます。後継ぎの筆頭候補はコトシロヌシを押さえてタギリヒメの王子アヂシキタカヒコネが既定路線になっていましたが、あいも変わらずすぐに泣き出してしまうのが弱点でした。トリナルミは生まれた時から元気な泣き声で、立派な武人、大王に成長する予感を与えますので、スセリヒメに仕える侍女たちも、タギリヒメ派とトリミミ派に分裂してしまう始末です。

 しばらくの間、オオクニヌシとスセリヒメの会話はタギリヒメとトリミミの不和をどうやって調停するか、で持ちきりとなります。スセリヒメはやんちゃ娘だが、愛敬があるトリミミをかばう余裕がありましたが、オオクニヌシはそこまで面倒みきれないと匙を投げてしまいます。

 

(現代語訳)

このヤチホコ(八千矛神)は、越国のヌナカハヒメに求婚しようとして、お出かけになった時、そのヌナカハヒメの家に着いて歌われた歌は、

ヤチホコ神は、日本国中で思わしい妻を娶ることができなくて、遠い遠い越国に賢明な女性がいるとお聞きになって、美しい女性がいるとお聞きになって、求婚にしきりにお出かけになり、求婚に通い続けられ、太刀の緒もまだ解かずに、襲(おそい)をもまだ脱がないうちに、少女(おとめ)の寝ている家の板戸を、押しゆさぶってえ立っておられると、しきりに引きゆさぶって立っておられると、青山ではもう鵺(ぬえ。とらつぐみ)が鳴いた。野の雉はけたたましく鳴いている。庭の鶏は鳴いて夜明けを告げている。いまいましくも鳴く鳥どもだ。あの鳥どもを打ちたたいて鳴くのをやめさせてくれ、空を飛ぶ使いの鳥よ。  ――これを語り言としてお伝えします。

とお歌いになった。

 

その時、ヌナカハ姫は、まだ戸を開けないで、中から歌って、

八千矛神よ、私はなよやかな女のことですから、私の心は、浦洲にいる水鳥のように、いつも夫を慕い求めています。

ただ今は自分の意のままにふるまっていますが、やがてはあなたのお心のままになるでしょうから、鳥どもの命を殺さないで下さい。空を飛びかける使いの鳥よ。  ――これを語り言としてお伝えします。(国内の反対派を殺さないでください)

青山の向うに日が沈んだら、夜にはきっと出て、あなたをお迎えしましょう。その時、朝日が輝くように、明るい笑みを浮かべてあなたがおいでになり、

白い私の腕や、雪のように白くて柔らかな若々しい胸を、愛撫したりからみ合ったりして、

玉のように美しい私の手を手枕として、脚を長々と伸ばしておやすみになることでしょうから、

あまりひどく恋いこがれなさいますな、八千矛神よ。 ――これを語り言としてお伝えします。

と歌った。そしてその夜は会わないで、翌日の夜お会いになった。

 

この後、ヌナカハヒメは出雲に上がってきたが、トリミミは嫉妬。息子を連れて丹後に行く。

 

スセリヒメも嫉妬。

 

 

その4.越のヌナカワヒとスセリヒメの嫉妬

 

1.越のヌナカワヒメ(奴奈川姫)

 越地方への進出を念頭に船団の建造を進めていたオオクニヌシの目論みは、越の越中と越後の盟主であるオキツクシイ(意支都久辰為)王がオオクニヌシの下へ救援軍派遣の要請の使者を送ったことで、一挙に具体化していきました。

 越地方は越前、越中、越後の3地域に分かれ中小国が分立していましたが、越前と越中を挟む能登半島の東側の付け根にあたる高岡から北東はオキツクシを王とする越王国が盟主として君臨していました。越王国の強みは、越中と越後の境にある山中から朝鮮半島や中国本土では産出されない高質の緑青色の硬玉ヒスイが産出されることでした。王都は直江津にありましたが、ヒスイの交易を強みとして能登半島周辺や越前の港に拠点を持っていました。

 

 越後までは水田耕作が可能で、弥生文化圏に入っていましたが、その北と内陸部の山地が続く東北部は寒冷すぎて水田耕作が不可能なことから、縄文文化の延長線上にある諸部族が並立し、蝦夷(えみし)と呼ばれていました。ところが蝦夷が住む地域では数年間、冷害が続いたことから飢饉が発生し、越後の米を標的に南下せざるをえない状況におちいっていました。部族間の抗争を控えて結束した蝦夷は阿賀野川と信濃川流域を襲い、 直江津に迫ってきました。また高岡の奥の山中も豪雪地帯でしたから、蝦夷同様に飢饉にあえぎ、その住民も日本海側に下って来ました。

 

 窮地に立たされた越王は出雲王国の傘下に入った方が得策と判断しました。援けてもらう見返りに王女のヌナカワヒメ(奴奈川姫)をオオクニヌシに差し出しても構わない、ということです。

 越王国の使者と面会し、救援の要請を受けたオオクニヌシは「蝦夷退治には、わしが直々に乗り出そう」と言いだして、家臣たちを慌てさせます。

「オオクニヌシさま。今や、大国を率いられる大王ですから、自ら出陣なさることはありません」と止めようとしますが、次第にオオクニヌシの本当の狙いはヌナカワヒメにあることに気づきました。家臣たちはニヤニヤ耳打ちをしながら、おなごが好きなオオクニヌシさまだからと黙認してしまいます。

 

  

2.越への遠征

 意宇郡の拝志(はやし)郷から船に乗りオオクニヌシは越後へ進軍します。オオクニヌシにとって、本格的な出陣は八十神を神門王国から追い出して以来のことでした。船団は150艘を連ね、兵士3000人が乗り込んでいました。丹後半島と若狭を過ぎて越前に入り、能登半島の西の付け根の羽咋(はくい)の港に到着します。

 羽咋の港で待ちかねていた越王国の使いの案内で、船団が能登半島を迂回する間に陸路、高岡に入り、オキツクシイ王と面会します。王から一通り状況説明を受けた後、「ところで貴殿の愛娘はどこにおられる。一目でもよいから会わせてくれ」と切り出しました。噂どおりの女好きでおられるとオキツクシイ王は苦笑しながら、「それは蝦夷を退治なされてからのことにいたしましょう」とその場を濁します。

 出雲軍は直江津に基地を置いて北進し、信濃川と阿賀野川が日本海に注ぐ河口地帯に入りました、信濃川を上っていけば信濃地方に入り、阿賀野川を上っていけば猪苗代湖がある岩代の会津盆地に至ることを知りました。吉備王国の勢力がまだ入り込んでいない地域でした。「越後の後の目標は信濃と岩代だ」とオオクニヌシは悟ります。鉄鏃と鉄剣を武器にオオクニヌシ軍はさらに北進を続け、越後北部の八口(やつぐち。新潟県岩船郡関川村)まで蝦夷を追い払いました。

 

 蝦夷退治を終えたオオクニヌシは、ウキウキしながら糸魚川に避難していたヌナカワヒメの御殿を訪れます。しかし御殿の扉を幾度叩いても、閉ざされたままでした。ヌナカハヒメはオオクニヌシの后になることを承知していましたが、突然のオオクニヌシの妻問に驚き、慌てふためきました。御殿の内は散らかっていましたし、まだまだ自由な身を楽しんでいたい気持ちもありました。

 オオクニヌシはそうした事情を知らずに、しきりに門を引き揺さぶります。夜が深まっていき、青山から鵺(ぬえ。とらつぐみ)のだみ声が響きます。雉がけたたましく鳴き、空が白けてくると庭の鶏が夜明けを告げます。いまいましくも鳴く鳥どもだ。空を飛ぶ使いの鳥よ、あの鳥どもを打ちたたいて鳴くのをやめさせてくれ、とオオクニヌシは空を睨みつけます。

  

 すると、見かねたようにヌナカハヒメは、戸を開けぬまま、御殿の中から歌いかけます。

八千もの矛を率いるヤチホコのオオクニヌシさま。私もなよやかな乙女ですから、私の心は、浦洲にいる水鳥のように、いつも夫を探し求めています。今は自分の意のままにふるまっておりますが、やがてはあなたのお心のままになるでしょう。ですから、空を飛びかける使いの鳥よ、鳥どもの命を殺さないで下さい。青山の向うに日が沈んだら、夜にはきっと出て、あなたをお迎えしましょう。 その時、朝日が輝くように、明るい笑みを浮かべてあなたがお入りになり、白い私の腕や、雪のように白くて柔らかな若々しい胸を、愛撫したりからみ合ったりして、玉のように美しい私の手を手枕として、脚を長々と伸ばしておやすみになることでしょう。ですから、あまりひどく恋いこがれなさいますな、八千矛のオオクニヌシさま」。

 

 オオクニヌシはその夜の出会いは諦めて、翌日の夜、ヌナカハヒメに会うことができました。

 ヌナカワヒメとの新婚生活を過ごした後、高岡に戻ったオオクニヌシは越統治の采配を仕切り、能登半島の西の付け根の羽咋(気多けた大社)、東の付け根の高岡( 気多神社)、高岡から山地側に入った井波(高瀬神社)、直江津(居多こた神社)に拠点を置きました。

 

  

3.トリミミとスセリヒメの嫉妬

 オオクニヌシは出雲に凱旋しましたが、笑顔で出迎えてくれると思っていた三人の后の態度がぎこちありません。そうか、后たちはすでにヌナカワヒメのことを耳に入れているに違いない、と気がつきます。とりわけトリミミはヌナカワヒメが同世代と知って、ライバル出現と敵対心をむき出しにしています。

 越のヌナカワヒメが懐妊した知らせがオオクニヌシの許に届きました。オオクニヌシは子どもが誕生した後に出雲に呼び寄せることを使いに伝えます。それをめざとく察知したトリミミは「越の女性が王宮に住むことになるようでしたら、私は里に帰りますからね」と堂々と宣告します。

 

 スセリヒメはトリミミの肩を持ちました。スセリヒメの実家である吉備の宗主の許にスサノオ族が集まる1年に一度の会合に出席しようと旅仕度をしていると、スセリヒメがお供の面前で愚痴りだしましたので、オオクニヌシも外聞も忘れてむきになってしまいました。

「貴方が黒い衣裳を丁寧に着こんで、沖の水鳥のように胸元を見て、鳥が羽ばたくように袖を上げ下げしてみても似合いません。岸に寄せる波が引くように後ろに脱ぎ棄てなさい。

今度はカワセミのような青い衣裳をていねいに着こんで、沖の水鳥のように胸元を見る時、鳥が羽ばたくように、袖を上げ下げして見ると、これも似合わいません。岸に寄せる波が引くように後ろに脱ぎ捨てなさい。

山畑に蒔いた蓼藍(たであい)を臼でつき、その染め草の汁で染めた藍色の衣をていねいに着こんで、沖の水鳥のように胸元を見ると、鳥が羽ばたくように、袖を上げ下げして見ると、これはよく似合う。なぜなら藍の色こそ、正后の貴方にふさわしい色だからです」。

 

「愛しい妻よ。群鳥が飛び立つように、私が大勢の供人をつれて貴方の許を去って行ったならば、

引かれてゆく鳥のように私が大勢の供人に引かれて行ったならば、泣くまいと強がっても、山の裾に立つ一本のススキのようにうなだれて、あなたは泣くことでしょう。そのあなたの嘆きは、朝の雨が霧となって立ち込めるように、嘆きの霧が立ち込めるでしょう」。

 

 そこで、正后は御杯(みさかずき)を取って、夫の神のそばに立ち寄り、杯を捧げて謡います。

「八千の矛を率いるわがオオクニヌシよ。あなたは男でおられるから、打ちめぐる島の崎々に、打ちめぐる礒の崎ごとに、どこにも妻をお持ちになっていることでしょう。それにひきかえ、私は女性の身ですから、あなた以外に男はありません、あなたの他に夫はないのです」。

「私はもう若い身ではありませんが、横田で貴方と過ごした初夜を思い出されて、せめて今夜は私と過ごしてください。綾織の帳(とばり)がふわふわと垂れている下で、苧(からむし)の夜具のやわらかな下で、栲(たく)の夜具のざわざわと鳴る中で、沫雪(あわゆき)のように白い若やかな胸を、 栲の綱のように白い腕を、愛撫しからませ合って、私の美しい手を手枕として、脚を長々と伸ばしてお休みなさいませ。さあ御酒を召し上がれ」。

 

 オオクニヌシはその日の旅立ちを中止して、スセリヒメと夜を過ごします。杯をかわして夫婦の契りを固め、互いに首に手をかけて、二人の睦まじい仲は今に至るまで続いています。

 

 

4.タケミナカタ(建御名方)とミホスス(御穂湏々美)

 ヌナカワヒメは王子タケミナカタを出産した後、出雲入りしましたが、王宮での騒動を懸念したオオクニヌシはカムヤタテヒメに面倒を見てもらうことにして、島根半島の美保にしばらく滞在させます。直にミホススミが誕生しましたが、それを聞き知ったトリミミはヌナカワヒメがいずれは王宮に入ってくることを容認することができず、公言どおりに息子トリナルミ(鳥鳴海)を連れて丹後に戻ってしまいました。トリミミは王宮の騒動の火の元になっていましたから、オオクニヌシはあえて連れ戻そうともしませんでした。

 トリミミ騒動がおさまった頃、オオクニヌシはヌナカワヒメ親子を王宮に呼び寄せます。ヌナカワヒメは小柄で、はかなそうな美人でしたが、ミホツヒメと同じもち肌が魅力でした。雪国育ちらしく、粘り強くじっと耐え抜いていく性格でした。タギリヒメはトリミミとは打って変わってヌナカワヒメに好意を寄せますが、トリミミをかばってきたスセリヒメは当初は冷ややかな目で応対します。

 

 王宮がある高岸に近い神門水海と神門川に挟まれた湿地帯を開拓する目的で、越から労働者が呼ばれ、定住するようになりました。熱心な作業ぶりを見て、王都の住民は越人に好意を抱くようになり、古志(こし)郷と呼ばれるようになりました。いつしかスセリヒメも自意識過剰で自尊心が強いトリミミよりも、人柄がおとなしいとヌナカワヒメの存在を認めるようになりました。

 王子タケミナカタは幼い頃から武術に秀でていました。「アヂシキタカヒコネと違って、この子は剣術の素養がある」とオオクニヌシもそれを見込んで、自ら剣術を指導することもありました。この王子に信濃攻略をさせてみたら、と思いをはせます。

 跡取り王子のアヂシキタカヒコネは幼い頃から泣いてばかりいて周りを心配させていましたが、どういうわけかタケミナカタと気が合うようで、タケミナカタを実の弟のように、シタテルヒメはミホススミを実の妹のように可愛がります。

 トリミミがいた頃と違って、三人の后が仲良く、タギリヒメとヌナカワヒメのそれぞれの子どもたちを囲んで王宮は笑いに満ちた毎日となり、オオクニヌシもご満悦でした。タケミナカタは「成人となる14歳になったら、母の故郷の越後へ行き、信濃征服に乗り出します」と父王に宣言しました。

 

(現代語訳)

八千矛神の正妻スセリビメは、大層嫉妬深い神であった。そのために夫の神は当惑して、出雲国から大和国にお上りになろうとして、旅支度をして出発される時に、片方のお手をお馬の鞍にかけ、片方の足をその御鐙(あぶみ)に踏み入れてお歌いになった歌は、

(オオクニヌシは越地方の征服の報告を兼ねて、吉備の宗家の年次会に出席で吉備に旅たった)

黒い衣裳を丁寧に着こんで、沖の水鳥のように胸元を見ると、

鳥が羽ばたくように、袖を上げ下げして見ると、これは似合わない。

岸に寄せる波が引くように後ろに脱ぎ棄て、

今度はカワセミのような青い衣裳をていねいに着こんで、沖の水鳥のように胸元を見る時、

鳥が羽ばたくように、袖を上げ下げして見ると、これも似合わない。

岸に寄せる波が引くように後ろに脱ぎ捨て、山畑に蒔いた蓼藍(たであい)を臼でつき、

その染め草の汁で染めた藍色の衣をていねいに着こんで、沖の水鳥のように胸元を見ると、

鳥が羽ばたくように、袖を上げ下げして見ると、これはよく似合う。

愛しい妻の君よ、群鳥が飛び立つように、私が大勢の供人をつれて行ったならば、

引かれてゆく鳥のように、私が大勢の供人に引かれて行ったならば、

あなたは泣くまいと強がって言っても、山の裾に立つ一本のススキのようにうなだれて、あなたは泣くことだろう、

そのあなたの嘆きは、朝の雨が霧となって立ち込めるように、嘆きの霧が立ち込めるであろうよ。

愛しい妻の君よ。   ――これを語り言としてお伝えします。  とお歌いになった。

そこで、その后は大御杯(みさかずき)を取って、夫の神のそばに立ち寄り、杯を捧げて歌われた歌は、

八千矛神は、わがオオクニヌシよ、あなたは男性でいらっしゃるから、打ちめぐる島の崎々に、打ちめぐる礒の崎ごとに、どこにも妻をお持ちになっているでしょう。

それにひきかえ、私は女性の身ですから、あなた以外に男はありません、あなたの他に夫はないのです。

綾織の帳(とばり)のふわふわと垂れている下で、苧(からむし)の夜具のやわらかな下で、栲(たく)の夜具のざわざわと鳴る中で、

沫雪(あわゆき)のように白い若やかな胸を、 栲の綱のように白い腕を、愛撫しからませ合って、

私の美しい手を手枕として、脚を長々と伸ばしてお休みなさいませ。

さあ御酒を召し上がりませ。

とお歌いになった。

こう歌ってただちに杯をかわして夫婦の契りを固め、互いに首に手をかけて、現在に至るまで睦まじく鎮座しておられる。

 

以上の5首を神語(かむがたり)と言う。(天語歌もある)

 

 ヌナカハヒメはスセリヒメに遠慮しながら息子を出雲で育てる。

成人した息子タケミナカタは信濃に攻め込み、国王となり、諏訪湖に定住。

 

 

4章 オオクニヌシの子ども達と神有月

 

1.オオクニヌシの他界

 支配領域を広げ、出雲を日本海の盟主とする目標を達成したオオクニヌシは祖父の三次王が築いた杵築の宮殿をさらに壮大に、天にも届く高さを誇る大社へと改造する大工事を始めました。

 日本海を見下ろす杵築の地には、当初は島根半島を造られたヤツカミズオミヅノが祀られていましたが、三次王がカムムスビ族の西出雲王国を破って西出雲入りした後、 杵築の地はスサノオと子孫の大土地開墾神オオナムチを祀る場所と定められ、ヤツカミズオミヅノを祀る場所は神門水海の対岸に位置する薗の長浜に遷されました。

 

 弱虫だったアジシキタカヒコネはオオクニヌシだけでなく、家臣たちをもやきもきさせていましたが、20歳代に入ってから、頭脳のよさで頭角を現してきました。武術の才はありませんでしたが、父王が拡げた支配領域の国王や家臣との折衝が巧みで、政務能力に優れていることが分かってきました。オオクニヌシも一安心で、「あとはタケミナカタの信濃攻略だ」と愛息が約束した信濃攻略の行方を楽しみにしていました。

 オオクニヌシは惜しまれながら、50歳手前で亡くなり、出雲国王の座はアジシキタカヒコネが継ぎました。杵築に造成中の大社の工事は続行されますが、オオクニヌシの功績を称える祭殿を主体とする方向に変更されました。

 

 

2.タケミナカタ(建御名方)の信濃征服

 タケミナカタは越後の直江津に拠点を置いて信濃制覇に乗り出しました。信濃は蝦夷が住む東北(陸奥)地方と同様に水稲耕作には不適な寒冷地でしたから、弥生文化は発展せずに縄文文化の延長が続いていました。

 軍勢は、直江津から飯山経由で信濃入りし、千曲川沿いに上がり小布施(おぶせ)で最初の強敵に遭遇します。敵は鉄鏃も鉄剣も、青銅製の刀剣も持ちませんでしたが、弓矢にすぐれ、屈強で手ごわい相手でした。それでも粘り強く戦い続けて小布施を征することができました。

 

 次の強敵は千曲川の上流の上田で待ち構えていました。上田に拠点を置く縄文族は国土生成の神である生島(いくしま)神と国土を満ち足らしめる足島(たるしま)神の2神を国土の守護神として信奉していました(生島足島神社)。敵は攻めると山に逃げ、夜間にゲリラ戦で急所を攻めてくる巧妙さで、タケミナカタ軍を苦しめます。攻めあぐんだタケミナカタは危険をかえりみずに、鉄剣や鉄やじりなどの鉄製武器、絹製の錦、青銅鏡などを携えて、敵の本陣に乗り込み、首領と対面します。

「見てのとおり、出雲には貴殿たちが羨望する品々がどっさりある。出雲と手を組むとこうした品々を手にすることができ、貴国も繁栄する。我が軍と戦いを続けて消耗していくより得策ではないか。信濃を征服したあかつきには貴殿を上田の郡主としてとりたえよう」と直談判をしました。タケミナカタが持ち込んだ品々に首領たちの目がくらんだこともあったのでしょうか、出雲に恭順した方が得策と判断した首領はタケミナカタに下りました。

 

 上田の生島足島族の案内で和田峠を越えて諏訪湖に入ることができました。しばらくすると周辺の市場に入ってくる品々から、諏訪湖は日本海と太平洋、東本州と西本州の分岐点に位置していることが分かりました。東に進むと甲斐から武蔵へ、天竜川を下っていくと遠江へと太平洋側に出るようです。

「この地を出雲の最前線の地としよう」と兵士の一団を常駐させ、王宮造りを命じました。

 問題は、信濃は木材と獣皮の資源は豊富でしたが、越後と違って、寒冷すぎて水稲耕作ができないことでした。またヒスイ、銅や鉄など期待した鉱物の資源もあまりないことも期待はずれでした。

 

 

3.オオクニヌシの子ども達

 スセリヒメとタギリヒメは王宮内の離れに遷り住み、ヌナカハヒメは出雲と越を行ったり来たりするようになりました。杵築の大社にオオクニヌシが祀られることが決まったことから、スセリヒメは足繁く杵築に通います。

 オオクニヌシは人の王子と王女、六女をもうけました。もっとも、色好みの方ですから他にも隠し子がいた、という話もあります。

 

(1)アヂシキタカヒコネ(阿遲鉏高日子根)とシタテルヒメ(下光日賣)

 タギリヒメの息子アヂシキタカヒコネはスセリヒメからも可愛がられていましたので、オオクニヌシが他界した後、代目の出雲国王を次いだことに異論をはさむ者はいませんでした。無事に王がつとまるか懸念する家臣をしり目に、父王が拡げた文化圏をそつなくこなす政治能力を発揮していきましたので母のタギリヒメもほっと一息つきました。温和な性格でしたから、円満な国王として出雲の民の人気も高まり、慕われていきます。后に楯縫郡の神名備山(大船山)の麓に住む、カムムスビ族系の名家のアメノミカヂヒメ(天御梶日女)を迎えてタキツヒコ(多伎都比古)が生まれ、別の后からヤムヤヒコ(塩冶比古)が誕生しました。

 妹シタテルヒメは伯耆の豪族に嫁入りして、伯耆の子女に織物を教えていきます(東郷の倭文しとり神社)。

 

(2)コトシロヌシ(事代主)

 美保に住むコトシロヌシは母カミヤタテヒメと一緒の御殿に住み続けますが、毎日、美保の岬に出かけて釣り三昧と、悠々自適の生活を送り、王宮がある神門郡に出掛けてアヂシキタカヒコネと面会することはめったにありませんでした。后は地元の豪族からめとりましたが、子宝には恵まれませんでした。

 幼児の頃に乳母だった丹波のミホツヒメを忘れることができず、時折、亀岡まで通って面倒を見ました。

 

(3)キマタ(木股)

 キマタは母ヤガミヒメの手で因幡で育ちますが、幼い頃から建築・土木作業が好きだったことから、井戸造りの技術を修得します。母が亡くなった後、因幡の国王の座は縁者に譲り、井戸造りを教えに各地をめぐり、農民の守護神として、ミイ(御井)神と称えられていきます。

 

(4)タケミナカタとミホススミ(御穂湏々美)

 タケミナカタは信州を制した後、諏訪湖に王宮を構えますが、頻繁に出雲と越・信濃の間を行き来しながら、温和な兄を支える役割を果たしていきます。

 山国で寒冷地の信濃では水稲はあまり生産できず、他の穀物や木材も出雲まで送ることは手間がかかりましたので、信濃国は納付物の代りとして、出雲王国の王宮を守護する近衛兵を派遣することを兄と相談して取り決めました。

 

 越の農民は毎年、一定期間は出雲に赴き、湿地帯の開拓や河川の土手造りに従事することが慣例となっていました。信濃で選抜された兵士たちは越後に出た後、越の季節労働者と同じ舟に乗って出雲の王都に向かいましたが、次第に近衛兵として出雲に定住する者も増えていきます。

 タケミナカタの妹ミホススミは美保に常駐して、越からの季節労働者や信濃の兵士の送迎役を担っていきます。

 

(5)丹後のトリナルミ(鳥鳴海)と但馬のアメノミサリ(天美佐利)     

 トリミミが里帰りをした丹後王国は出雲王国とは一線を画して、四隅突出型墳丘墓など出雲文化を拒みながら、独自の路線を強めました。それでも出雲王国を本家として一目置くことは怠りませんでしたので、トリミミの性格を承知していたアヂシキタカヒコネ王もそれを黙認します。

 丹後半島は海流の関係で前々からあった半島の辰韓諸国との交易を発展させます。ことに丹波出身の脱解尼師今(だっかいにしきん)王がいた斯羅(しら)国との交易で富を蓄えます。トリミミとオオクニヌシの王子トリナルミが国王となり、子孫は繁栄して大和の四道将軍のヒコイマス(日子座)王に敗北するまで数代継続し、敗北後も地元の豪族の遠津(とほつ)氏として生き残ります。

 

 丹後の隣に位置する但馬では、オオクニヌシとアワガヒメ(粟鹿姫)の間に生まれたアメノミサリ(天美佐利)の子孫が国王の座を継いでいましたが、丹後とは違った方向に進みます。丹後と同様に辰韓諸国との交易が盛んでしたが、3世紀前半に入ると辰韓諸国の中から斯羅国が抜け出し、国名を新羅に改めて、辰韓地方の統一に邁進し、他国を侵略していきます。新羅に敗れた国から王族や貴族たちが日本海を越えて亡命してきますが、斯羅国との結びつきが強い丹後王国は受け入れを拒否します。反対に但馬国は敗れた王国の王族や貴族を快く迎え入れます。亡命者たちは「いつかは新羅に仕返して、祖国を復興する」ことを旗印として、一致団結して海沿いの湿地帯や荒地を開拓していきました。

 次第に海側の但馬と山側の但馬では性格が違っていきました。海側の但馬では辰韓諸国の有力な王族だったアメノヒホコ(天日槍)が亡命後、但馬に落ち着いて亡命者勢力をまとめ上げて大和勢力に接近していきます。山側の但馬王国はアメノミサリの子孫を王とする王国が続きましたが、丹後王国と同様に大和の四道将軍のヒコイマス(日子座)王に敗北します。

 

 

4.神有月

 アジシキタカヒコネは稲の収穫を終えた後、諸国の王が納付税として米や物資を上納する時期に合わせて、諸国の王さまたちが一堂が出雲に集まる制度をもうけました。

 

 毎年、米の収穫が終わり秋が深まると日本海の諸国、伯耆―但馬・丹波―丹後―越―信州・岩代に位置する国々の王さま達が出雲に集うようになりました。このため、諸国の王が集まる月は出雲では神有月、王さまが不在となる諸国では神無月と呼ばれるようになります。

 諸国の王を乗せた船団が宍道湖の島根半島側、楯縫郡の佐香(さか)郷の小境灘か薗灘の港に続々と到着すると、ツキノワグマの毛皮を羽織った信濃の近衛兵が一行を出迎えます。

 楯縫郡はカムムスビ族が筑紫から移住してきた遠い昔から、武器や楯など武具造りが盛んな場所でした。諸国の王や従者たちは佐香郷に設置された宿泊施設で寝泊りします。河原に設けられた炊事場では酒が醸造され、到着した晩から酒盛りの祝宴が続きます。

 

 諸国の王さまたちは内揃って神門郡の王宮に参内し、出雲の国王に挨拶をした後、杵築の大社へ参詣し、大社の土台を固める恒例の神事を行います。杵築の大宮殿での祭と饗宴が数日繰り広げられます。

 雪がちらつき出す頃、各国の王さまは出雲で造られた武具を下賜され、楯縫郡の港から自国へと戻っていきます。

 

 神有月の儀式は、出雲勢力が世紀後半に大和に征服されるまで、約世紀半の間、続けられていきました。

 

 

                第三編   オオクニヌシと日本海      完

 

                

             著作権© 広畠輝治 Teruji Hirohata