6.浮舟のカオル卿とカオルへの懊悩、文使いの遭遇
雨が降りやまない日が多くなった頃、コンフランへの坂道を踏み分けて行くのが難しく、ニオイ卿はどうしようもない思いがします。「親が育てているミツバチのマユのように窮屈なことだ」とやるせない思いがします。言い尽くせないことどもを書きながら、
(歌)あなた恋しさに そちらの方角の雲を眺めていると 心ばかりか空ですら暗く掻き曇る 今日この頃の侘しさよ
と筆にまかせて書き散らしましたが、見所があって趣もありました。
格別にしっかりした考えなどない若い身の気持ちとしては、ニオイ卿のこうした心情に思いが募ってしまいますが、そうは言っても最初に契ったカオル様もやはりとても奥深く、人柄も立派なお方だと思い直してしまうのは、カオルは浮舟が世間を初めて知った男からでしょうか。
「カオル様がこうした悩みごとを聞きつけて、私を疎ましく思うようになったなら、どうしたら良いのだろう。『そのうちカオル様がパリに迎え入れてくれるだろう』と待ち侘びている母君も『意外にも情けないことを』と思って、当惑してしまうことだろう。こうやって熱中されているもう一人の人は、『その上、浮気っぽい本性だ』とだけ聞くので、今のうちだけのことではないだろうか。また、このままニオイ卿が私をパリに隠し置いて、末長く愛人の一人に数え入れてくれたとしても、マドレーヌ様はどう思われることだろう。何事によらず、隠しきれない世の中だから、ヴァンセンヌ邸でのけしからぬ振舞いをされた夕暮れを道しるべとして、私を尋ねて来るようになっただけの話だ。まして、私がどういう風になったとしても、ニオイ卿の耳に入らないこともあるだろうし」と、浮舟は思い迷っていました。
「自分の方に落ち度があって、カオル様に嫌われてしまうのは、やはりたまらなく辛いことだが」と思い乱れている折に、カオルの手紙を持った使いが来ました。
カオルとニオイ卿の双方の手紙を並べて読むのは不快なので、やはり事細かに書き連ねているニオイ卿の手紙を読みながら横になっているのを、侍従とジゼルは顔を見合わせて、「やはり気持ちはニオイ卿に移ったのですねと。言うともなしに目配せをしていました。
「それも道理なことです。カオル様のお姿を『類ない』と見ていましたが、ニオイ卿の有り様は格別です。冗談を言われる時の愛敬の良さといったら。私だったら、これほどの思いやりぶりを見ていると、サン・ブリュー大后に仕えさせていただいて、ニオイ卿をいつもお見立てしたいものです」と侍従が話します。
ジゼルが「あなたはこれから先が気がかりな心持ちをしていますね。カオル様の人柄に勝っている人は誰がいるでしょうか。容貌などはともかく、カオル様の心映えや気配などは、やはり姫君とニオイ卿のことは見るに忍びないことです。姫君はどうなさるのでしょう」と反論しながら、二人で話しています。ジゼルは自分一人で気を揉んでいましたが、嘘をつくのにも相棒が出来たわけです。
カオルからの手紙には、「気にはなりながら、ご無沙汰しています。時々は私に注意を促すようなことも考えて下さい。おろそかに思ってはいないのだから」と書いて、端に歌を書いていました。
(歌)長雨に閉じ込められながら あの山里の人はどう過ごしているだろうかと 晴れぬ物思いに沈みながら暮らしている 今日この頃
「いつもよりも、あなたへの思いが募ったので」と、白い色紙に形式ぶった書状でした。筆跡は細やかで、美文ではないものの、奥床しい気品があるように見えます。
ニオイ卿の手紙は、言葉数が多いものを小さく結んでいましたが、それぞれ興味深いものでした。
「まずはニオイ卿への返信を誰も見ていないうちに」とジゼルが促します。「今日はうまく書けないのに」と恥じらいながら、浮舟は思いのままを書き流しました。
(歌)今の我が身を知ると このコンフランの山里に 住み辛くなってしまう
ニオイ卿が描いた、愛らしい男女が一緒に寄り添っている絵を時々見ては涙を流します。「どうせ長くは続けられないことなのだ」とあれこれ思い悩みますが、ニオイ卿に逢えなくなってしまうのも、とても悲しいことだと思ってもいます。
(歌)どちらとも定まらない気持ちを抱いて過ごしている身を いっそ空を覆っている山稜の雨雲にでもしてみたい
「白雲が晴れない その雲に紛れ込んでしまったなら どうしてあなたを尋ねることが出来ましょう」といった歌のように、と書かれた返信を読んで、ニオイ卿はおいおいと泣いてしまいました。「さぞかし、私を恋しいと感じているのだろうと」と思いやると、物思いに沈んでいる浮舟の面影が浮かんで来ます。
一方の真面目人のカオルは、浮舟からの返信をゆったりと読みながら、「可哀想にどんなに寂しがっているのだろう」と思いやって、とても恋しくなりました。
(歌)ぼんやりと暮らす我が身の侘しさを知る雨が降りやまず 袖までがひどく濡れてしまっています と浮舟が詠んだ手紙をじっと見やっていました。
カオルはジョセフィンに話をするついでに、「『失礼な話を』と思うだろう」と気が引けながら、年月を重ねた人を見馴れない所に捨て置いて、ひどく物思いをさせているのがさすがに心苦しいので、「その女性をここの近くに呼びよせようと考えている。私は昔から風変わりな心持ちがあって、『この世の中を普通の人ではないように過ごすことになるだろう』と思っていた。しかしあなたを迎えてからは、この世をすっかり捨て難くなってしまった。その上、その存在を人にも知られないようにしていた、その女性の身の上にすら、心苦しい罪を与えてしまう心地になっている』と話すと、ジョセフィンは「そんなことに気をかけるべきかどうかは分かりかねます」と答えました。
「しかしあなたは安梨王の第二王女であるから、王宮などに私を悪しざまに批判する人もいるだろう。世間の人の風評はとかく味気なく、不都合なことだ。と言っても、その女性はさほど数にすら入らない人だから」と告げました。
「パリの近くに造らせている所に浮舟を移そう」とカオルは思い立っていますが、「『そんな料簡を持った普請だったのか』とはしゃぎ立てる人もいるだろう」と心苦しいのですが、ごく内々に壁紙貼りのことなど、人もあろうに、あのアルノーの義父で、大蔵省の次官でもあるカオルの事務長に打ち解けて気軽に話してしまうので、義父から伝え聞くアルノーを通じて、ニオイ卿の耳に筒抜けに入ってしまいます。
「絵や飾りを描ける者も、お付きの中にいる気心の知れた官人から選んで、やはり特別にさせています」とアルノーが話すので、ニオイ卿は落ち着きがなくなってしまいました。自分の乳母が遠国の知事となって下って行く男の妻になっているが、その男の家がパリの下方にある。「そこにとても内緒にしている、ある人をしばらくの間、隠したいのだが」とその男に話すと、「どういった人なのだろう」と男は気になりながら、ニオイ卿が「大事なことだ」と思っているので、断ることが恐れ多く、「そういうことなら」と承諾しました。
隠れ家の用意が出来たので、ニオイ卿は少しほっとしました。その男は二月の末頃に任地に下って行くと言うので、「それなら、その日のうちにパリに連れて来よう」ともくろみました。コンフランへ「このように考えている。夢にも人に気取られないように」と伝えます。コンフランに行くことが出来ないのは仕方がないことですし、コンフランからも「乳母がとても口うるさいので、出逢うのは難しい」との知らせがありました。
カオル大将は四月十日に浮舟を新居に迎え入れることを決めました。浮舟は「わび住まいの憂き身なので 浮草のように値を断ち切って 誘ってくれる水でもあれば そのまま流れて行ってしまおうと思う」といった歌のようには考えられず、「とても都合が悪いことになってしまった。どうしたら良い我が身だろうかとおちつきません。
「母君の許にしばらく滞在して、思いを巡らせたら」と思うものの、「少将の妻の出産が間近になった」とのことで、祈祷や聖書読みなどで絶えず騒いでいるので、母君は浮舟とシャルトル詣でも出来ません。
そこで母君はコンフランの邸を訪れました。乳母が出て来て、「パリ移りに向けて、カオル様は侍女たちの衣装なども細々と思いやってくれています。どうにかして何事もきちんとやらねばと思うものの、私の一料簡だけでは、おかしなことをしでかしてしまうでしょう」などと言い騒ぎながら、嬉しそうにしています。
そんな様子を見ながら、浮舟は「都合が悪いことが出て来てしまい、人に笑われてしまうことになったら、誰もかれもが私のことをどう思うだろうか。折悪く言って来るニオイ卿はその上、『八雲立つ山奥に籠ったとしても、必ず尋ねあてますよ。そうなると、私もあなたも空しいことになってしまう。やはり気分よく隠れ住むことを思っていて欲しい』と今日も手紙で言われているが、どうしたら良いのだろう。」と気分が悪くなって、横に臥していました。
「いつになく、どうしてひどく青白く痩せてしまったのですか」と母君は驚きました。「ここ数日、何かおかしいのです。ちょっとしたものも召し上がらず、悩ましげにされております」と乳母が言うと、母君は「不思議なことですね。妊娠をして悪霊が憑いてしまったのでしょうか。どんな気持ちでいるのでしょう」と心配しますが、「それとしてもシャルトル詣でを止めたのは、月の障りだったからでは」とも話すので、浮舟は恥ずかしくて、伏し目がちにしていました。
日が暮れて月が明るく照ります。浮舟はニオイ卿と乗った小舟から見た有明の空を思い出して、ニオイ卿が恋しくなって涙を止め難くなって、「我ながら、何とけしからぬ心情をしてしまうのだろう」と思っていました。
母君は昔話をした後、別の場所にいる老いたベネディクトを呼び出すと、ベネディクトは「亡きジュヌヴィエーヴ様の有り様は思慮深く、妹のことやしかるべきことも思いやっていたのが、目の前に見ているうちに消え行ってしまった」ことなどを話しました。
「ジュヌヴィエーヴ様が存命されていたら、妹のマドレーヌ様と同じように、姫君に接しられて、心細い様子をしている姫君もどんなにか幸せだったことでしょう」と続けました。
「私の娘は姉妹ではなく、別ものだと言うことか。カオル様の寵愛が願うように続くならば、マドレーヌ様に劣ることもないのに」と母君は思い続けて、「姫君については長い間、随分と心配して来ましたが、少しは気が楽になりました。カオル様がこうやってパリに引き取って下さったら、私がわざわざこちらに伺うことを思い立つこともなくなります。こうやって対面する折々には、第八卿やジュヌヴィエーヴ様といった昔の話をゆっくりと話したり、承ったりもするでしょうが」と皮肉交じりに話しました。
「私は縁起でもない修道女の身だと思い沁みているので、姫君に細やかに逢ったり話したりするのはどうであろうかと思って、遠慮しておりました。姫君が私をここに残して、パリに移られると、とても心細くなりますが、こうした山里の住まいにいるのはじれったいことだろうとも見ていましたので、嬉しいことです。『カオル様は世にも珍しい、重々しいところがある様子をされておりますから、こうやって尋ねて来られることは格別なことです』と、以前話しましたが、実際にそうなりましたね」などとベネディクトが続けました。
「これから先、どうなるかは分かりませんが、目下のところカオル様はこうしたように姫君への思いから離れないように話されているにつけ、あなた様が上手く取り持ってくれたことを思い出します。あの時はマドレーヌ様がもったいなくも姫君を引き受けて下さったのに、ニオイ卿が気恥ずかしい行為をされたことから、『姫君は気詰まりな身になってしまった』と私は嘆いておりました」と母君が言うと、ベネディクトは一笑して、「あのニオイ卿は色事にはとても落ち着きがないお方なので、気の利いた若い侍女は仕えるのを嫌がっています。副侍女長の娘さんが『ニオイ卿は普通のことでは、ご立派な様子をされているが、その筋の事になると、非常識なことを、とマドレーヌ様を悩ませてしまうので、どうしようもありません』と言っていました」と話すので、浮舟は横に臥しながら「その通りだ。まして私は」と聞いていました。
「まあ、何て浅ましい話でしょう。それに比べて、カオル様は安梨王の第二王女ジョセフィン様を正妻に迎えていますが、良きにせよ悪しきにせよ、別の女性がいても致し方がない」と恐れ多くも、私はそう思っています。万が一、姫君がニオイ卿と間違いを引き起こしてしまったら、私の身にとってはとんでもないことだと思いますし、姫君と二度と逢うことはなくなりましょう」などと話すので、浮舟は肝をつぶしてしまいました。
「こうなってしまったら、自分の身を消してしまうしかない。最後には外聞が悪いことが出て来てしまうのだから」と浮舟は思い続けます。
セーヌ川の水の音が恐ろしげに響いていくので、「こんなに手に負えない流れもあるのですね。類がない荒々しい場所で姫君が歳月を過ごすのは可哀そうだ、とカオル様も思ったに違いないですね」などと、母君はパリへの移動を得意げに話します。
「昔から、この辺りのセーヌ川の流れは速く恐いものです」とベネディクトが言うと、侍女たちも「先頃、船頭の孫の童子が棹を取り損なって落ちてしまいました」、「総じて、この川で命を無駄にする人が多いそうです」と言い合います。
「このまま我が身が行方知らずになってしまったなら、誰も誰もが『どうしようもない、大変なことだ』としばらくの間は私のことを思いやってくれるだろう。生き永らえたとしても、物笑いになって、辛く悲しいことがいつか絶えることはないのだ」と心中で思いをはせているものの、「確かに入水は誰にも迷惑をかけないし、何もかもすっきりする」と思うと、逆にたまらなく悲しくなってしまいます。母君があれこれ心配して話している様子を、寝たふりをして聞きながら、しんみりと思い乱れています。
母君は浮舟が気分が悪く苦しそうにして、痩せてしまっているのを乳母にも話して、「しかるべき祈りなどをさせて下さい。祓魔式もすべきでしょう」などと告げます。浮舟が「もう恋をしないと決心して 礼拝堂近くの川で清めを行ったが 神は私の願いを受け入れてくれなかった」といった歌のような心境ですが、母君はそんなことを知らずに、あれこれ言い騒ぎました。
「パリへ移って行くのに人手が少ないようですね。しかるべき筋の通った所から探したら良いでしょうが、新参の者は連れて行くことはしないように。正妻のジョセフィン様との仲は本人同士は穏便に済ませるでしょうが、お互いの侍女たちが競争するようになったなら、煩わしいことも出て来るでしょう。そういったことは隠し通して、気配りをして下さい」などと、母君は思い至らないこともなく言い残して、「あちらにもお産をする人がいて気にかかっているので」と帰って行きます。
浮舟は心配事が絶えず、何かと心細くなっているので、再び母君に逢えるかどうかも分からないとも思って、「気分がすぐれないのに去って行かれると、とても頼りない思いがしてしまいます。ちょっとの間でもお越しになって下さい」と母君を慕いました。
「私もそう思いますが、あちらも何かとごたついていて、侍女たちもちょっとした作業も出来ないほど手狭になっています。あなたがピカルディ(Picardie)地方のアミアン(Amiens)へ移られたとしても、こっそり逢いに行きますよ。私のような身分の低い身では、高貴なお方と一緒になるあなたを愛おしく思っていますよ」と泣きながら伝えました。
今日もカオルから手紙がありました。浮舟が「病で気分が悪い」と知らせたので、「いかがですか」と見舞う手紙でした。「自分自身で訪問したいのですが、どうしようもなく雑用が多くて。このところの暮らし難さはひどくやるせない」などと書かれていました。
ニオイ卿は昨日の返事がないので、「今さら、何を思い悩んでいるのですか。『ノルマンディーの海辺の漁師が塩を焼く煙は 風がひどく吹くので 思いもしない方角へたなびいてしまう』といった歌のように、カオル大将のことで油断ならない。心配のあまり、ぼんやり考え込んでいる」など、長々と書き連ねた手紙を寄越しました。
先日の雨が降った日に来合わせていたカオルとニオイ卿の双方の使いが今日もコンフランにやって来ました。カオルの使いは、来合わせた男が事務方ジェラルドとの家で時々見掛ける男だったので、「貴殿は何をしに度々ここに来ているのだ」と問うと、「私用で訪ねる人がいるので来ている」と答えました。
「私用で逢うような人に、どうして恋文を持参するのだろう。何か仔細がありそうだ。なぜ隠し立てをするのだ」と問うと、「実はジェラルド様からの手紙をここの侍女に渡すので」と答えました。「何だか辻褄が合わず、腑に落ちない」と思うものの、ここで言い合っても場違いとなるので、各々帰って行きました。
カオルの使いは敏感な者だったので、お供に連れて来た童子に「あの男をさりげなくつけて行ってくれ。官位五位のジェラルドの家に入るかどうかを見届けてくれ」と言いつけると、童子は「あの人はニオイ卿の邸に行って、アルノー殿に返信を渡しました」と報告しました。ニオイ卿の使いは思慮が足りない下人なので、そこまで探られてしまうとは思いも寄らず、事の仔細も深くは知らないので、カオルの使いに見破られてしまったのは残念なことでした。
カオルの使いはカオルの許に行きました。ちょうどカオルが邸を出ようとしていたので、浮舟の返信を取次ぎに渡しました。サン・ブリュー大后が別荘としているパリ東部のモンソウ・レ・モウ(Montceaux les Meaux)のモンソー城に向かうということなので、カオルはきちんとした上着を着ているものの、お付きは多くはしないでいます。使いは取次ぎに「不審なことがあったので、それを見届けようと、今までかかってしまった」と言っているのをちらっと耳にしたカオルは、歩み行くままに「どうしたことか」と問いました。
使いは「取次ぎに聞かれるのは気が引ける」と思って、黙ってかしこまっていましたが、カオルは何かを感じ取って邸を出ました。
7.ニオイ卿の暗躍とカオルの非難、ジゼルと侍従の浮舟への忠告
モンソー城には「いつになくお加減が悪いようだ」と王族たちも皆、集まりました。上官なども多く集まって騒がしくなりましたが、大后はさほどの容態ではありませんでした。
文官として雑務が多いアルノーは遅れてやって来ました。料理場にいたニオイ卿はアルノーを戸口に呼び寄せて、浮舟の返事を受け取りましたが、退出しようと通りかかったカオル大将が横目で見てしまい、「抜け目なく思いをよせている女性からの恋文の気配がする」と興味がわいて立ち止まりました。
ニオイ卿はその手紙を開けて読み始めました。「紅の薄い紙に細やかに書いてあるようだ」とカオルには見えます。ニオイ卿が見向きもせずに見入っていると、退出する夕霧左大臣が料理場の前を通りかかるので、カオルは戸口の蔭から顔を出して、「大臣が通りますよ」と咳払いをしてニオイ卿を驚かせました。慌てたニオイ卿が手紙を引き隠すと、その物音に気付いた大臣が料理場を覗き込んだので、ニオイ卿は身なりを整えました。
カオルも腰を低くして、「私も退出します。大后の悪い病は久しく起きなかったのですが、恐ろしいことです。ただ今、修道院の首席を招こうと使いを遣わすところです」と言いながら、忙しそうにその場を立ちました。
夜が更けてから、皆、モンソー城から去って行きました。夕霧大臣は娘婿のニオイ卿を先頭に立てて、多くの息子を引き連れて、自邸に戻りました。カオルも遅れてモンソー城を出ましたが、道中で「邸を出る際に、使いの者が意味ありげにしていたのが奇妙だ」と思い起こして、前駆の者などを止め火を灯させて、その使いを呼んで「先ほど申したことはどういうことなのだ」と問いました。
「今朝、手紙を届けにコンフランに行ったところ、知事の代理補佐もしている事務方ジェラルドに仕える男が、紫の薄い紙に桜の枝をつけた封書を西側の両開きの扉から侍女に渡すのを見ました。あれこれ問い詰めると、言葉を濁しつつ、嘘をついているように思えたので、「何を言っているのだろうか」と連れていた童子に後をつけさせたところ、ニオイ卿の邸に行って、文官省次官アルノー殿に返信を渡したということです」と答えました。
「おかしなことだ」と感じたカオルは、「その返信はどういった風にその男に手渡されたのだ」と問うと、「私は直接には見ませんでした。別の戸口から渡したようです。下人は『赤い色紙の大層きれいなものだった』と話していました」と答えました。
「料理場で見た『紅の薄い紙』と思い合わせると間違いはない。童子に後をつけさせたとは、機転が利く使いだ」と感心しますが、お供の者どもが近くにいるので、詳しいことは話さないでいました。
カオルは道すがら、「やはりニオイ卿は非常に恐ろしく、抜け目がない人物だ。どうした機会に『浮舟がコンフランにいる』と聞きつけたのだろうか。『ああした田舎びた辺りに住まわせていたら、まさかこうした間違いはありえないだろう』と思い込んでいた自分は稚拙だった。それにしても、私が知らない女性であるなら、そうした好色ごとをするのは構わない。昔から隔てなく、おかしなほど親しくして、マドレーヌを求めた道案内までして上げた身なのに、油断ならないことを思いつくとは」と思うと面白くありません。
「自分などはマドレーヌのことをとても恋しく思いながら、この歳月を何事もなく過ごして来た思慮深さとはこの上もない隔たりがある。しかもマドレーヌへの思慕は今に始まった見苦しいものではなく、以前から心を寄せて来たものだ。それをただ心の片隅に置いていたのは、自分にとって苦しいことだった。マドレーヌを思い憚って差し控えて来たのは愚かなことだった。このところ大后がああやって悩ましくされて、いつもより見舞客などの出入りが多いことに紛れて、どうやってあんなに遠い山里に手紙を送る余裕があったのだろうか。もう通い詰めているのだろうか。コンフランははるかに遠い恋い慕う道なのだ。『ニオイ卿の行方が分からず、居場所を捜す日もあった』と聞いている。そうしたことに思い乱れて、ニオイ卿は何となく気分を悪くしているのだろう。コンフランに案内した頃を思い出してみると、マドレーヌに逢いに行けない嘆きぶりは、とてもいたわしいほどだった」としんみりとしてしまいました。「浮舟がひどく物思いに沈んでいた様子も、その一端はそういうことだったのだ」とあれこれ思い当たるので、ひどく憂鬱になりました。
「ありそうにもないのは人の心なのだ。浮舟は可愛らしくおっとりとしているように見えながら、色めいた方はニオイ卿に寄り添っているのだ。ニオイ卿に連れ添う相手として、ひどく相性が良いのだろう」と思って、「ニオイ卿に譲って、自分は退くのだ」との気持ちにもなりますが、「制裁として思い染めて付き合いを始めた女性ではない。やはり隠れた愛人として今のままにしておこう。『もうこれ限り』としてしまったなら、やはり恋しさが増してしまうだろうか」とみっともないほど色々と心の中で迷いました。
「自分が興醒めして、浮舟を捨ててしまったなら、必ずニオイ卿は浮舟を引き取るだろうが、どうせ浮舟が後に気の毒なことになってしまうという判断に迷いはない。実際にそうして愛した女性に飽きてしまって、第一王女エリザベトの奉公人に差し向けられた女性が二三人いる。浮舟がそんな風になって行くのを見聞きするのは気の毒なことだ」などと、やはりカオルは浮舟を捨て難いので、浮舟の様子を知りたくなって手紙を書きました。
人目がない時に例の使いを呼び出しました。「文官のアルノーは、やはり義父の事務長の家に通っているのか」と問うと、「さようでございます」と答えました。「アルノーはコンフランにいつもその男を使いに遣っているのか。浮舟はひっそりと暮らしている人だから、アルノーも思いを寄せているのだろう」と溜息をついて、「誰にも見つからないようにコンフランへ行ってくれ。間が抜けてはならない」と告げました。使いはかしこまって聞きながら、「そう言えば、アルノーは常にカオル様の動向を尋ねたり、コンフランのことを聞いたりする」のを思い合わせると合点がいきますが、その点はわきまえて、カオルには何も申し入れません。カオルも「下人には詳しい事情は知らせたくない」と思うので、それ以上の問いかけはしませんでした。
コンフランではカオルの使いが頻繫になったので、浮舟の様々な物思いが増して行きます。手紙にはこう書いてありました。
(歌)あなたが婀娜っぽい心を持つようになったとは知らずに 私をひたすら待っていてくれると思っていたのだが
「私を笑い者にはさせないように」とあったので、「とても妙なことを言われる」と思いながら、不安で胸が塞がってしまいました。カオルの手紙を理解したように返信するのは気が引けます。何かの間違いではないのかも知れないと怪しいので、カオルからの手紙を元のようにして、「受取人が間違っているように見えます。気分がおかしく悩ましいので、何に置けましても」と書き添えて、使いに渡しました。
その返信を見て、「さすがにうまい言い逃れをしたものだ。こんな考えもつかなかった機転を利かすとは」とカオルは微笑んで、「浮舟が憎い」とまでは思い至らずにいました。
浮舟の方は。そうはっきりとではないものの、ニオイ卿とのことをほのめかしている気配を知って、深く思い沈んでいます。「とうとう、我が身は不都合で好ましくないことになってしまった」とひどく考え込んでいるところに、ジゼルがやって来ました。
「カオル様の手紙をどうして返してしまったのです。そういうことは不吉で慎むべきことなのに」とジゼルが責めるので、「誤りがあるように見えたので、行き先の間違いかと感じて」と浮舟が答えます。ところが「おかしなことだ」とジゼルは感じて、使いに返す前に、開けて見てしまっていました。好ましくないジゼルの行為でした。
ジゼルは「手紙を見た」とは言わずに、「困ったことになりましたね。カオル様はニオイ卿との秘密を察知されたのでしょう」というので、浮舟は顔を赤くして何も言わないでいます。「ジゼルが手紙を盗み見た」とは思いも寄らず、普通と違うカオル様の様子に気付いた者が、ジゼルに話したに違いないと思ったものの、「誰がそんなことを話したのですか」などと問わずに、「侍女たちが私をどんな眼で見て思っているのだろう。言いようもなく恥ずかしい。自分から好んでしたことではないものの、情けない運命になってしまった」と考え込みながら寝に着きました。
ジゼルは侍女と二人して浮舟に話しかけました。
「アンドル(Indre)県にいた私の姉が二人の男と関係を結んでいました。そういうことは身分の上下にかかわらず、よくあることです。二人の男は負けず劣らず姉に心を尽くすので、姉はどうしたら良いか迷っていたものの、結局、後からの男に心が傾いてしまいました。それを妬んで前の男はとうとう後の男を殺してしまいました。このため殺した男は姉と一緒に住めなくなってしまいました。県にとっては立派で惜しい武人を一人失ったことになり、また殺した男も役に立つ家来でしたが、「こういった過ちを犯した者を県として使うわけにはいかない」と県内から追い払われてしまいました。私の姉も『すべては女があってはならないことをしでかしたからだ』となって、県知事の邸から追い出されて、東国に流れて行ったので、私の母も今でも姉を恋い泣いているのは罪深いことです。
不吉なことを言うようですが、身分の高い人も低い人も、こうしたことになると思い乱れてしまうのはとても悪いことです。命に関わるまではないとしても、身分に応じてまずいことが起きてしまいます。身分や育ちが良い人には、死に勝る恥ずかしいことがかえって起きてしまいます。姫君はカオル様かニオイ卿のどちらかを選ばれてみられたら。ニオイ卿のお気持ちがカオル様より勝っていて、そういったように話されているのでしたら、ニオイ卿に靡かれて、あまり余計に嘆くことはありません。悩んで瘦せ衰えてしまうのはつまらないことです。母君があれほどまでに姫君のことを案じておられますし、乳母もカオル様との縁組の支度に心を入れて気遣っていますから、ニオイ卿が『それよりも私の方へ』と話されておられるのが、ひどく苦しく気の毒に思われます」と言います。
もう一人の侍従は「まあ、嫌になりますね。そこまで突き詰めて話さなくても。何事も宿命によるものですから。ただご自分の心の内で少しでも靡いている人の方を、そうなるべきだと決められたら。そうは言っても、ニオイ卿はとてももったいないほど熱心になっておられる様子ですから、パリへの引っ越しを思い急がれているカオル様は思い寄りません。しばらくどこかに隠れたとしても、姫君の思いが勝っている人の所に行かれたら、と思います」と、ニオイ卿をひどく褒め上げているせいか、熱心に話します。
「そうですねえ。お二人のどちらとしても、姫君が何事もなく落ち着かれるように、私はルーアンやシャルトルに願いを立てています。カオル大将の荘園の人々というのは、並々ではない勇猛な人たちで、その一団がこの山里にあふれています。大方の人はこのパリ地方(イールド・フランス)でカオル様が所有されている所々の番人ですが、王宮の警護役と関りがある人たちです。その警護役の娘婿である官位五位の者が、一団の頭として、カオル様の所有地の管理を任されています。
カオル様とニオイ卿の仲の良い二人が『薄情なことをしでかそう』と思っていなくとも、物事を理解していない田舎者たちが宿直人として警備をしていますから、『自分の当番の際にちょっとした過失などがあってはならない』などと思って、ニオイ卿に過ちを犯してしまうこともありましょう。小舟に乗られたあの夜の外歩きはとても危ないことだと思っていました。ニオイ卿は仕方なく人目を包み隠そうとされて、お供も連れずにやつれた姿でおられました。そんなところをそういった者に見つけられてしまったなら、とても大変なことになります」とジゼルは言い続けました。
寝入りながら二人の話を聞いていた浮舟は「やはり私はニオイ卿に心を寄せているのだ」と悟って、この二人の話は非常に恥ずかしく、自分の内心では「ニオイ卿かカオル様のどちらかと思っているわけではない。ただ夢のようなニオイ卿の行動に途方に暮れ。ひどくひきつけられてしまったが、『どうしてここまで思って下さるのか』と驚いている。
といって、お世話になって長くなっているカオル様に、『今はもう』と離れていってしまう気にもなれないからこそ、こうやって『大変なことだ』と思い乱れているわけだ。二人の間に良くないことが出て来た時はどうしたらよいのか」と浮舟はしんみり考え込んでいました。
「どうかして自分が死んでしまったなら。私は男女の情愛を理解していない情けない身なのだ。このような辛さがある例は、下級の人たちの中には多くあるのだろうか」とうつ伏し臥しています。
「『そんな風に思いなさらずに、穏やかにされていたら』と申し上げたでしょうに。心配事があってもさりげない顔をされて、何でもないように落ち着いていれば良いのです。ニオイ卿とのことがあった後、ひどくいらついておられるので、私もおかしなことだと見守っています」と話すように、事情を知っている者だけは皆、胸を痛めていますが、乳母は嬉しそうに染め物をしたり、見た目の感じが良い新参の女童を呼び出して、「この児を見てご覧なさい。元気なく臥していると、魔物などがパリへの引っ越しの邪魔をしてしまいますよ」と浮舟に言い嘆いていました。