常識化・固定観念化してしまった誤説の検証

 

 「邪馬台国吉備・狗奴国大和説」を追っていくと、「日本の歴史時代」は「西暦57年の奴国の金印から始まる」という結論に至りましたが、現時点では「そんな馬鹿な」と一笑にふされる方々が、ほとんどだろうと推測します。 残念ながら、いまだに「謎の三世紀」、「謎の四世紀」とする風潮が根強く、日本の歴史時代は「五世紀から始まる」と、かたくなに信じこまれておられる方々が多い状況です。

 私の「邪馬台国吉備・大和狗奴国説」は、21世紀初頭から始まりましたから、ほぼ丸16年が経過したことになりますが、その渦中で痛切に実感していることは、

奈良時代以前の上古代史は、明治、大正、昭和など、その時代ごとの政治・社会情勢とそこから発生する風に大きく影響される、

誤った説でも「一度、常識化・固定観念化してしまう」と是正していくことは至難の技に近い、の2点です。

 

 幕末・明治時代から第二次世界大戦以前は欧米諸国の帝国植民地化への対抗と富国強兵という、当時の政治・社会情勢に沿って、「神武天皇2600年前説」と歴代天皇の神格化が強制されました。第二次世界大戦後は、右に行き過ぎた戦前の振り子が左の方向へ逆進して、「欠史八代説」、「騎馬民族説」と「神功皇后・武内宿禰の抹殺」が時代の風に乗りました。

 双方とも誤りなのですが、お互いが平行線をたどったまま、現在も既成概念として続いているのは、時代の風に流された「催眠状態」から覚醒されないままの方々が多いことを物語っています。結論が出ない「曖昧模糊」とした状態の方が「日本らしい」、と肯定する立場もあるでしょう。

 

 神武天皇は「一世紀後半に実在した」とする説は明治時代から、「欠史八代説は誤り」という指摘も当初から存在しますが、いずれも、時代の政治・社会的な風潮の中で、かき消されてしまっています。「邪馬台国の首都は大和の纏向(まきむく)で決定済み」と言い切られる方もおられるでしょうが、「纏向首都説」は、誤説である『欠史八代説』を土台にした、希望的な仮説に過ぎません。「狗奴国は大和だったのではないか」と気付くか、少なくとも「欠史八代説」の誤りを指摘する報道が大手メディア(新聞・テレビ・出版)から、一例でも出現してくれることを期待していたのですが、その兆しも一向にありません。

 このままで進むと、一世紀後の二十二世紀になっても、あいもかわらず、「邪馬台国は大和か九州か」、「謎の三世紀、謎の四世紀」、「四世紀後半の『倭軍の半島進出は史実』対『いや、せいぜい、筑紫勢力の進出で、倭軍の進出はなかった』」などの水掛け論が続いていく気配です。吉備と大和などから、新たな大発見がされない限り、戦前までと戦後に創りだされた誤った固定観念や常識をくつがえしていくことは、ほぼ不可能に近い、と諦観せざるをえません。

 

 ちなみに、大発見に関しての私の予測は、

-「魏の封泥は吉備中山の西麓の東山・宮山地区に存在」、

-「第六代孝安天皇の王宮跡は、御所市の秋津小学校、宮山古墳、鴨都波神社を結ぶ三角形の中」

となっています。

 私は、いずれの組織や団体に所属せず、何らかのしがらみにも縛られない自由な立場にありますので、ご批判、反論を覚悟しつつ、前に進んで行くの精神で 「時流の風に乗った固定概念」の催眠から覚醒され、日本の上古代、日本国誕生の過程の史実を「より高く、より広い」視点から、冷静に把握される方々が一人でも増えることを願いつつ、これまでの諸説の誤りを検証してみます。

 

1.新井白石・本居宣長以来の誤った先入観念

(1)大和国は発端から大和盆地全域を支配していたわけではない

 

 新井白石・本居宣長の時代から、「大和国」は発祥の当初から、大和盆地全域を占拠していた、と思い込んでいる方が多いようです。また纏向(まきむく)を首都とする大和邪馬台国は、御所市を中心とした葛城王朝と拮抗していた、とする意見もあります。「初国知らしめし王」は神武天皇と崇神天皇の二人が存在するが、二者は同一人物で、神武天皇は崇神天皇をモデル化した神話上の人物、とする意見もあります。

 自説では、吉備から上ってきたイハレビコ(神武天皇)が建国した国は、御所市、橿原市と大和高田市を中心とした南葛城地方のみの中小国「葛(狗奴)国」に過ぎず、大和盆地は物部氏の「登美(とみ)国などを含めた中小国が共存する状態でした。

 

 葛国は第五代孝昭天皇の時代から膨張を開始し、大和盆地全域を飲み込んだ後、第十代崇神天皇の時代になって、東西倭国の統一を成し遂げ、現在の「日本」の原形を築きました。ですから神武天皇は葛国を建国した「初国知らしめし王」、崇神天皇は「日本の原形を作った初国知らしめし王」となり、二人の「初国知らしめし王」が存在して矛盾はありません。

 

(2)九州南部の熊襲地方を支配する単一王国は存在しなかった

 

 ことに邪馬台国九州説では、狗奴国は熊襲としていますが、この説は南部九州に北部九州の邪馬台国に匹敵する強大な王国ないし勢力が存在していたことが前提となっています。

 ところが熊襲地方(西の球磨と東の襲)には、弥生時代から古墳時代前期まで、統一された王国や勢力は存在していませんでした。陸奥地方(北の蝦夷)では寒冷により水稲耕作が不適でしたが、熊襲地方も、21世紀の現在も同様ですが、火山性土壌(シラス台地)により水田耕作は不適でした。このため、両地方とも統一王国を築けるほどの富(米)の蓄積ができず、諸部族が分立する続縄文文化の状態が続きます。熊襲地方全域が大和朝廷の支配下に入るのは、第二王朝の応神朝に入ってからです。

 

(3)弥生時代中期と後期の米の生産高比較が欠落していた

 

 邪馬台国九州説を説かれる方々に欠落してきた点は、弥生時代中期から後期にかけての、各地方の米の生産高の比較です。九州説では、鉄製品の普及度が圧倒的に九州北部が高いことが強調されていますが、鉄製品が多くても、それだけでは腹のたしにはなりません。忘れてならないことは、水田が多く、米の生産高も多いことは戦争時には兵士となる農民の数が多いことにつながります。この点が、江戸時代からの論争に欠けていました。鉄鏃(やじり)は、銅鏃より殺傷性が高いことは確かですが、讃岐に産出するサヌカイト石は戦時において、鉄鏃に匹敵する威力を発揮します。

 西日本の中で、水田が可能な地域、ことに大規模水田が可能な沖積平野を眺めていくと、吉井川、旭川、高梁川と芦屋川の四大河川を持つ吉備、東に意宇川、西に斐伊川が流れる出雲が浮上します。これに対して、奴国と伊都国を主体とする九州北部は丘陵が多く、水田耕作が可能な面積は限られています。九州北部の繁栄が絶頂期にさしかかった弥生中期半ば、人口過剰と米不足が大きな問題となりました。一部の住民は、鉄製農・土木機具を含めた、先端文化を携えて、東の日本海や瀬戸内海地域に移住していきます。これにより吉備と出雲を中心に大型水田が増大していき、弥生時代中期末には、九州北部を凌ぐ国力と農民を兵力を保有するようになります。

 

(4)大和こそ「狗奴国」だった、とする発想が出現しなかった

 

 新井白石・本居宣長以来、「大和は邪馬台国の敵国である狗奴国だったのではないか」とする視点がどういうわけか、ほとんど登場してきませんでした。

 戦前から、神武天皇は一世紀後半の人物、戦後も「欠史八代説」は誤り、とする指摘は挙がっていましたが、ごく少数派の意見として、隅っこに追いやられているのは、「狗奴国は大和」と見る発想がなかったため、具体的に掘り下げていくことができなかったことが要因かも知れません。

 「神武天皇と欠史八代の抹殺」は理解できるが、「大和が狗奴国で、神武天皇と次の八代は狗奴国王として実在した」は納得できかねる、と現在にまでつながる天皇家の母体が狗奴国であったはずがない、とする固定概念が染み付いてしまっているせいなのか、「大和が狗奴国」とする発想は、社会的にタブー視されているかのようにも見えます。

 

 

2.明治維新から第二次世界大戦終了までの固定観念

 

 第二次世界大戦以前は、「歴代天皇は実在の人間でおられるが、同時に神さまでもある」と、神武天皇2600年前説(2016年は即位紀元2676年)、崇神天皇2000年前説が、上から強制され、絶対視されていました。

  (注)那珂通説:推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から1260年さかのぼった紀元前660年を神武天皇の即位年とした。

 

 現在でも、「神武天皇2600年前説」を掲示する神社さんをしばしば見かけます。宗教的な信条にもとずく主張としては理解できますが、「神武元年は紀元前660年説」は、古事記が編纂された712年(和銅五年)から日本書記が公開された720年(養老四年)の間に、漢籍に詳しい東漢(ひがしあや)氏等を中心に設定された、という歴史的事実は、常に念頭に置いていただきたいものです。

(注)那珂通説:推古天皇が斑鳩に都を置いた西暦601年(辛酉年)から1260年さかのぼった紀元前660年を神武天皇の即位年とした。

 同様に、伊勢神宮が建立され、現在に残る日本神話の原形が成立したのは、第十一代垂仁天皇治世の西暦320年代、と私は推定しています。320年代を日本の神道の出発点とするか、それ以前の状況にわけいっていくかが、分かれ道になりますが、太陽神信仰や磐座(いわくら)等を含めて、縄文時代までさかのぼって考察する必要がある、とするのが私の立場です。

 

 

3.第二次世界大戦後の風の流れ

 

 第二次世界大戦後は、戦前への反動と朝鮮半島に対する贖罪(しょくざい)意識も加味されて、「欠史八代説」、「騎馬民族説」、「神功皇后・武内宿禰架空説」が、矢継ぎ早に発表されて、戦後の上古代史研究の方向を決定づけました。その方向は、「半島や、中国(黄河、揚子江)からの影響はより古く、日本の人物や事象は時代がより新しく」と見るもので、先進的・革新的なものとして時流に乗りました。

 これにより、野蛮人同然の状態だった日本人が、飛鳥時代に入って中国文化を摂取することにより、わずか数十年で賢明となり、政治的な目的・意図から、王系譜だけでなく、氏族の系譜、さらに日本神話も編み出された、とする方向に行き過ぎてしまいました。飛鳥時代まで、暗誦で伝えられてきた伝承や神話は無視されてしまい、その結果、古代史解明は先に進めなくなり、「三世紀も謎」、「四世紀も謎」とする、袋小路にはまり込んでしまいました。

 

 「欠史八代説」、「神功皇后・武内宿禰架空説」をある程度検証していくと、120パーセント誤りであることは確実です。「欠史八代」と「神功皇后・武内宿禰」は、飛鳥時代の政治的事情により創作されたものではなく、第二次世界大戦後(昭和後半)の政治・社会的な状況下で、創作されたものと見るのが妥当です。

 

(1)欠史八代説

 欠史(闕史)八代説の源流は大正年間に津田左右吉博士が提唱したものですが、第二次世界大戦後に一躍、脚光を浴びました。

 津田説は「六世紀初頭の継体天皇より以前の天皇は、政治的な理由から創造された、架空の人物」とするものです。大正時代の右に偏りすぎた権威筋に対して、リベラリズム(自由主義)の観点から一石を投じた価値は評価できますが、「狗奴国は大和」と見る視点に欠けている点に加え、科学的・合理的な批判主義と評価はされてきたものの、実際は直感的な判断に依存しすぎています。

 

 欠史八代説は、「初代の神武天皇は神話上の人物、第二代から第九代天皇は飛鳥時代の政治的理由により創作された、実在しなかった人物」と見なすものですが、その根拠は

欠史八代は、「帝紀(王名表と言える王室の系譜)」のみで、治世中の出来事を伝える「旧辞」が欠如している、

漢名と和名で構成される天皇名のうち、漢名(大倭日子、帯日日子、根子日子、若倭)は、古事記・日本書記が成立する以前の七世紀末から八世紀初頭にかけて作られた美称である。和名も実名ではなく、一種の「称号名」にすぎない、

八代とも父子の関係で、兄弟継承や嫡(ちゃく)長子(有力氏族出自の后の子)が存在しないのは不自然、

などが挙げられています。

 

 残念ながら、上記の指摘は詰めが甘い表面的な分析に過ぎません。例えば、初代の建国と二代目の王位継承に関する「物語(旧辞)」も、飛鳥時代の創作なのか、の考察に欠けています。

 欠史八代の系譜をじっくり見ていくと、有力外戚は磯城族から尾張氏を経て、王家出自の皇別氏族、大和盆地の有力氏族へと移行しており、さらに皇別氏族の大和盆地域外への拡がりなどを通じて、治世中の出来事や物語が浮上してきます。とりわけ欠史八代の最後の王である開化天皇の異腹の弟であるタケハニヤスビコ(建埴安彦)とその一族(母系は天津彦根族)への着目がありません。

 王(天皇)系譜だけでなく、王族から派生した皇別氏族や主要氏族の系譜も、王系譜と時を合わせて、飛鳥時代の一世紀弱で、すべて合成されたとするのは、一般常識として考えられません。もちろん、天武天皇が嘆いたように、新興氏族が名族の系譜に紛れ込ませたことを配慮する必要はあるものの、すべてが飛鳥時代の、政治的・社会的な情勢から想定された、とした場合、明らかに創作された乱れがどこかに生じるものですが、総合的に整合性があります。

       (参照)「日本上古代史 概要と目次」 

             ⇒ 補遺2. No.3大和の日本統一に関わった氏族皇別氏族」  

                補遺3. No.4「欠史八代説を皇別氏族から検証すると」

 

(2)騎馬民族説に代表される半島起源説

 騎馬民族説は、欠史八代説と連動する形で登場し、1960年代から70年代にかけてもてはやされました。提唱された江上波雄氏は、満州から下ってきた騎馬民族の流れを受けながら、半島南部の伽邪地方に在住していた崇神天皇が、四世紀半ば頃に筑紫に上陸し、その子孫の応神天皇が四世紀末か五世紀始めに東上して河内王朝を打ちたてた、とする筋書きです。

 この説は、四世紀半ばに騎馬民族が筑紫に上陸した痕跡が影も形も見出されないこともあって、今日では否定されています。江上説の根本的な誤りは、欠史八代説にのっとって崇神天皇以前の天皇の存在を無視したことと、崇神天皇の在世時期を三世紀後半ではなく、半世紀遅い四世紀前半としたことにあります。

 しかし、騎馬民族説に触発された形で、天皇家の祖先ないし、有力氏族の起源は朝鮮半島にある、と想定することが先進的・革新的と思い込む風潮が勢いをつけ、いまだに尾を引きずっています。欠史八代が狗奴国王として実在していたことが立証されていけば、こうした仮説は、あっけなく吹き飛んでしまします。

 

(3)神功皇后と武内宿禰の抹殺により、謎となってしまった四世紀

              (参照)「謎の四世紀解読」 

 神功皇后と武内宿禰は、古代史が、その時代の政治・社会情勢に振り回されてしまう、典型的な例となっています。

 第二次世界大戦以前は、両人は日本軍の大陸進攻の象徴的な存在として英雄視されていました。戦後は、 戦前の反動から両人の存在が抹殺され、飛鳥時代後半の新羅・唐連合に対する政治的な状況から両人が創作された、と結論づけられています。

 四世紀後半から五世紀初頭にかけての日本軍の半島進出に対して、一世紀後の半島の歴史学者ですら、「百年前は、こうした稚拙、初歩段階の水掛け論で時間を潰していたのか」と驚くほど、日・韓の低次元での論争が継続しています。日本側は「誰の主導かは特定できないが、倭軍の進攻は歴史的事実」と主張するのに対し、韓国側は「任那の日本代表部跡は考古学的に発見されていないし、仮に倭国勢力の進出はあったにせよ、せいぜい筑紫勢力のレベル」との反論が平行線をたどったままです。

 

 新羅や百済の文献でも、四世紀末から五世紀初めにかけて、新羅の美海王子と百済の直支(とき)王子が人質として日本に送られていたこと、日本軍が百済の王位継承に口出しをしていたことが明記されており、日本軍の半島進出は明白な史実です。

 日本側に欠けている考察は、

①神功皇后(息長帯姫)の母方はアメノヒホコを祖とする但馬氏の出自で、新羅の情勢に詳しく敏感だった、

②勢力を伸張させている新羅と、大和朝廷に対抗して鉄製武具などを渇望していた九州西部の豪族と南部の熊襲との関係を分断する必要があった、

などの点です。韓国側に対して留意しなければならない点は、朝鮮半島の文化は、古代から「いじけ・ひがみ文化」であることを差し引いて考慮すべきことです。ことに現状では、政治・社会の風潮に乗った御用学者にならなければ、あるいは、ふりをしなければ、生活できない環境下にあります。

 

 

4.古代吉備を見る、地元の三つの視点

 私は岡山県とは地縁も血縁もありませんが、「邪馬台国吉備説」で岡山と関わりだしてから、岡山は大和盆地以上に、外部の人間からは窺い知ることができない、古代から現代に至るしがらみが、複雑に絡み合っている印象を強く抱いています。

 以下の私の見解に対して「そんなことはない」、「岡山に対する嫌み」と顔をしかめる方々もおられると思いますが、「邪馬台国吉備・狗奴国大和説」、「高天原・ヤマタノオロチ神話の発祥地は備前・美作説」を前進させていくために、それを承知の上で、あくまで私の個人的な辛口の意見であると、ご理解された上でお読みください。

 

(1)中央側の意向に沿う視点

岡山の学会の潮流

 岡山の学会(文献学と考古学を含めて)は基本的に関西学会、ことに京都大学学派の影響が濃厚な印象を持ちます。このため、必然的に「邪馬台国大和説」に立脚せざるをえない状況にあります。西暦2000年代に入ってから、吉備勢力が「特殊壺と特殊器台をひっさげて大和盆地に入り、他勢力と共立して邪馬台国を建国した」、あるいは「吉備の邪馬台国を大和に東遷させた」とする説が強く打ち出されていますが、関西学派の「邪馬台国大和説」の立場に立ちはするものの、吉備勢力が大和邪馬台国の重要な鍵を担った、と岡山の存在価値を訴求したい意識を感じます。

 

 「吉備勢力の東遷説」の弱点はあくまで、「欠史八代説」という誤説に立脚していることにあります。欠史八代説に沿って、「吉備津彦兄弟は実在しない人物だから、兄弟が吉備を征服した話も後代の創作」、伝承でも「ウラ(温羅)は垂仁天皇の時代に半島からやって来た盗賊集団となっている」

と、あっさり片付けてしまっています。

 吉備勢力が大和に進出したとしても、卑弥呼ないし台与(トヨ)を支えた氏族は何者だったのか、という考察も欠けています。吉備から大和に入ったルートは海路で河内湾の大和川河口地域で特定できそうですが、それでは誰が、どの勢力が特殊壺と特殊器台を河内湾に持ち込んだのでしょうか。吉備勢力でしょうか、大和勢力でしょうか。

 

 考古学から見ると、吉備側か大和側のどの氏族が河内湾に持ち運んだかは、不明瞭です。しかし、複数の文献で氏族の動きを追っていくと、運搬の担い手は吉備勢力ではなく、大和側のアマツヒコネ(天津彦根)族であることは、歴然とします。

 この地域は弥生終末期から古墳時代前期まで、水軍に秀でた河内アマツヒコネ族の地域です。この地域は元来は物部氏の領域でしたが、第六代孝安天皇の大和膨張の過程で、アマツヒコネ族がとって替わり、物部氏の主力は尾張・三河・遠江地方に移動しています。崇神天皇治世の初期に反乱を起こしたタケハニヤスビコは母方の出自は河内アマツヒコネ族で、本人の拠点も大和川河口地域でした。タケハニヤスビコはアマツヒコネ族の強勢を背景に、崇神天皇治世の初期に天下取りを企てましたが、敗退します。以後、アマツヒコネ族も歴史から埋没していきますが、河内、山城、近江など近畿地方、周防など中国地方、関東地方と東北地方の三地域に点在するアマツヒコネ族を掘り下げていくと、大和王朝による日本統一の経過の一端を具体化させていくことができます。

 日本では「勝った国が負けた国の文化や技術を導入することはありえない」との声も耳にしますが、狭隘な発想です。古代ではありませんが、有田焼に代表される陶磁器は豊臣秀吉軍の捕虜として半島から連れてこられた李参平を代表とする陶工たちにより、1610年代に伝わったものです。

 

高天原蒜山説と伊勢信仰の黒住教

 「邪馬台国吉備説」を追っていく過程で、吉備と出雲の高天原は蒜山高原、太陽神オオヒルメとスサノオ、ヤマタノオロチ神話の誕生地は出雲西部の「斐伊川」流域ではなく、「旭川と吉井川流域」との結論に至りました。

 旭川の水源地である蒜山高天原を放逐されたスサノオが降り立った場所は美作と備前の境にそびえる高ノ峰(神ノ峰)と推定します。赤磐市には「血洗いの滝」、「宗形神社」、「周匝(すさい)」、「室御所」、「竜天山」、「竜王山」、「石上布都魂神社」、周辺に「周佐(すさ)」など、スサノオとヤマタノオロチ神話に関連づけられる地が点在しています。

 

 日本の太陽神信仰は、縄文時代から列島の各地で存在していたのではないか、と「太陽信仰の縄文起源説」も追跡テーマにしています。ですから太陽神の棲む場所が日向であり、吉備と出雲の境の蒜山高原や四国の阿波、東国の各地にあったとしても、違和感がありません。

 弥生時代中期後半に、西から入った九州北部の「ムスビの神々」(源流は中国の戦国時代の呉)、東から入った「イザナギ・イザナミ神話」(源流は戦国時代の越)に、縄文時代以来の「吉備の太陽信仰」の三者が混ざり合って、「高天原・ヤマタノオロチ神話」が誕生した、とするのが自説です。

 吉備邪馬台国は、イザナギ・イザナミの国産みから始まり、高天原騒動、ヤマタノオロチ退治、スサノオの子孫(クシナダヒメ系とカムオオイチヒメ系)に至るまでの神話を確立させており、その神話圏は出雲国を含め、中国・近畿地方に広がっていました。3世紀末に崇神天皇が大倭国統一を達成した後、次の垂仁天皇時代の西暦320年代に、アマテラスを祖神とする「大和建国神話」と「吉備邪馬台国神話」が、出雲の「オオクニヌシの国譲り」を接着剤として融合され、日本神話の原形が成立した、同時期にアマテラスオオヒルメを祀る伊勢神宮が創立されました。

 

 通称は「アマテラス」と呼ばれるアマテラスの正式名は「アマテラス-オオヒルメ」ですが、大和国の祖神アマテラスと吉備邪馬台国の太陽神オオヒルメが合体されたもの、ととらえることができ、大和建国神話と吉備邪馬台国神話が融合された例証の一つに挙げられます。

 この観点から吉備、岡山県を見てみると、明らかに太陽信仰と関連性が深いと見られる宗派として、黒住教と金光教の二つが挙げられます。黒住教は1814年(文化11年)、金光教は1859年(安政6年)の創立で、奈良県の天理教と並んで、幕末三大新宗教とも呼ばれています。

 黒住教と金光教がわりに短い期間で、吉備地方で信者を獲得したのは、元々、古代から太陽信仰が根強く浸透していた素地が存在していたからではないかと、私は推測しています。ところが「蒜山高天原説」は出雲・伯耆地方では支持者が多いのですが、岡山市を中心とした地域では、賛同する声がほとんど耳に入ってこないことが、長い間の疑問でした。

 次第に、その理由は、伊勢信仰を基調とする黒住教の存在によるものと、気付いていきました。黒住教は幕末・明治維新の際に尊王派に組みし、明治維新後、神道の宗派の一つに認定され、一貫して伊勢神宮と密な関係を維持しています。これがために「高天原蒜山説」は「都合が悪い、迷惑な話」となっているのではなかろうか、と感じます。

 1929(昭和4)年に「神代遺蹟考」を刊行して「高天原蒜山説」に先鞭をつけた、勝山町の教頭先生だった佐竹淳如が不敬罪に問われて、朝鮮に左遷されたことが、いまだに尾を引いており、「吉備の太陽信仰、高天原・スサノオ伝承」に蓋(ふた)をしてしまっている印象をぬぐい去ることができません。

 「そこまで考えるのはうがち過ぎ」という声も挙がるでしょうが、320年代に成立した日本神話と伊勢神宮以前に吉備地方に存在した「太陽神信仰の痕跡」を追い求めていきます。

 

(2)渡来系の子孫

 朝鮮半島から吉備への渡来者を連想させる地名として、高梁川下流地域に「賀陽郡」と「秦」の二つの地名があります。

 

 渡来者として「弓月氏―秦氏」の一面しか気付いていない人が多いようですが、半島から吉備津周辺に渡来、定住した人々は二波が存在します。

 一つは魏と吉備邪馬台国との交流があった3世紀に「賀陽郡」に定着した、帯方郡の軍人と伽邪地方の交易者です。その頃は、JR総社駅の少し上流で、高梁川の支流が枝分かれして、服部、溝手を流れ、高塚で足守川本流と合流し、吉備津を抜けて、川入で瀬戸内海の穴海に注いでいたようです。鬼城山の山頂からこの地域を見渡すと、いかに肥沃な「吉備津の三日月地帯だった」かが実感できます。弥生終末期に吉備邪馬台国と半島の帯方郡との交流により、帯方郡の役人や軍人、伽邪諸国の交易者が吉備津地域、ことに鬼住山山麓地域に定住しており、その子孫が賀陽郡の名を残しました。

 二波目の渡来は応神朝の弓月氏で、高梁川の対岸に「秦」の地名を残しています。弓月氏は新羅が倭国への亡命を阻止しようとした、滅亡した辰国の技術集団と私は見なしています。同時期の渡来者は、雄略天皇の時代に「秦氏」に集約されますが、隋書「倭国伝」で紹介されている、斐清(はいせい。斐世清)が目撃した「秦王国」は高梁川下流の秦氏集団が自称した国ではないか、とするのが私の推定です。

 

(3)土着のウラ(温羅)信仰

 (1)や(2)よりも、少数派の印象を持ちますが、鬼城山の山麓地帯を主体にウラ(温羅)信仰を根強く守り抜いてこられた人々で、帯方郡の役人や軍人、伽邪諸国の交易者も含めた、吉備邪馬台国時代の生き残りの末裔と見なすことができます。

 

 私が卑弥呼の墓と推定している、鯉喰神社下の弥生墳丘墓や楯築墳丘墓(遺跡)、ウラ伝承を含めて、各時代ごとの風説に流されずに、吉備邪馬台国時代の残影を約1750年間、守り続けてこられたことに、本物の歴史、史実を感じ、感謝の念にたえません。

 

 

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