自説「邪馬台国吉備・狗奴国大和説」の要旨        

 

自説の要旨

 本ホームページに掲載する「日本上古代史と補遺」、小説版「吉備と出雲の勃興」、「箸墓と日本国誕生物語」、「謎の四世紀解読」の四作品に共通する、弥生時代前期から第二王朝の応神朝初期までの歴史を手短かに紹介しますと、

『弥生時代中期に倭国(西日本)の中心地だった九州北部を吉備邪馬台国を中心とした勢力が傘下におさめて弥生後期が始まり、倭国大乱をきっかけに躍進を始めた大和狗奴(葛)国が一世紀を経て吉備邪馬台国を破った後、勢いに乗って、三世紀後半に一挙に東西倭国(大倭)の統一を成し遂げた』、

とする筋書きになります。

 

 私のモットーは「より高く、より広く」です。

 これを上古代史にあてまめると

より高く :弥生時代中期から古墳時代の始まりまでは、西は九州の有明海から、北は阿武隈川流域から阿賀野川流域までを俯瞰する高い視野

より広く :考古学、文献、氏族と神々の分布と動き、の三要素を広くつき合わせていく

ということになります。

 

 この視点から弥生時代から古墳時代が始まる「大倭国(日本国)」の創世期を掘り下げていくと、「邪馬台国は吉備、狗奴国は大和(母体は南葛城地方の葛国)、投馬国は安芸(中心部は太田川河口流域)」という、これまでの既成概念とは異なる図式にいたりました。

 現在でも「謎の三世紀」、「謎の四世紀」という行き過ぎた方向が幅を利かし、日本の歴史時代は「五世紀」から始まるとする見解が主流ですが、その理由は「狗奴国は大和だった」とする発想の欠如に由来しています。「邪馬台国は大和である」とする概念は、五世紀以降に渡って来た渡来系の御用学者が想定した誤りにすぎません。

 「大和狗奴国」で俯瞰していくと、大倭国(日本国)統一までの過程が、すらすらと解けていき、日本の歴史時代は「五世紀」からではなく、「奴国の金印」の西暦57年から始まることを確認できます。六世紀の飛鳥時代に創作された「架空話」と認識されている、「神武天皇から第十代崇神天皇」に至る古事記・日本書記の記述は、大倭国(日本)が統一されるまでの過程を、大和側の視点から見た「歴史文献」として十二分に耐えうることができ、 日本の歴史時代は「奴国の金印」の西暦57年から始まることを裏づける資料の一つとなります。

 

 

弥生前期 

――呉と越の滅亡に伴うボートピープルの漂着。ムスビの神々とイザナギ・イザナミ神話――

 本格的な弥生時代の始まりは中国の呉・越の滅亡に起因します。呉は473、越に敗れて滅亡しますが、沖合いに逃れた江蘇省沿岸部の住民は、対馬暖流に乗って、済州島、朝鮮半島南部と九州北部に漂着し、タカミムスビ、カムムスビ、コトミムスビ等のムスビ(産霊)の神々が定着します。

 334に滅亡した越が支配していた江蘇省沿岸部の住民も同じく、対馬暖流に乗りますが、すでに呉族が先住していた地域より先の日本海沿岸、瀬戸内海へと進みます。瀬戸内海の東端の淡路島周辺に定住した越族は銅鐸と共にイザナギ・イザナミ神話を伝えます。イザナギ・イザナミ神話は水稲耕作の広がりに付随して、西は津山盆地、東は近江にまで伝播します。中国山地に銅と錫(すず)が発見されたことから、津山盆地で青銅器製造が発展します。津山盆地でイザナミ黄泉路神話が誕生し、吉備北部、出雲東部へと伝播します。

  

弥生中期

――九州北部が中心部として栄えるが、人口過剰と食料不足により他地域への移住者が増大し、先進文化を伝播。米の生産高を増やした吉備・出雲勢力の伸張――

 紀元前206202の、秦の滅亡と前漢の成立までの動乱期に、中国東北部から朝鮮半島へ多数の亡命者が発生し、半島は黄河流域の漢文化の影響を直接受けるようになります。

 196に朝鮮半島北部で衛氏朝鮮が成立し、南部には辰国の母体が誕生します。いずれも中国からの亡命者が建国したもので、漢文化の影響は北部九州に及び始めて、伊都国、奴国を主体に九州北部が倭国(西日本)の中心になります。とりわけ、109108年前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして、半島を植民地化して四郡(楽浪・玄菟・真番・臨屯)を置いたことから、前漢の先進文化が次々と伝えられて九州北部は繁栄期を迎え、人口も増大の一途をとげます。

 

 ところが山岳・丘陵部が多い九州北部は、水田に適す平地部が少ないことから、人口過剰と食糧難におちいりました。これがため、新天地を求めて日本海、瀬戸内海、九州東南部へと九州北部から移住していく者が増えました。先進技術をたずさえた移住者は各地で歓迎され、ムスビの神々も伝えられます。

 豊前の英彦山(ひこさん)山麓に住む一族のアメノホヒの息子ホノニニギが仲間を引き連れて豊後へ向かい、伊予のオオヤマツミ族の支援を受けて日向に入り、王国を建国しました。

 移住者がもたらした鉄製農・土木機具や先進技術により、各地で農地化と産業化が進んでいきます。ことに吉備と出雲では大中河川周辺の沖積平野での大規模な水田化が進み、米の生産増による富の蓄積と人口増が進みます。とりわけ吉井川、旭川、高梁川と芦屋川が流れる吉備地方の躍進が著しく、大王国「邪馬台国」として成長を開始します。吉井川・旭川流域で九州北部から伝えられたムスビの神々とイザナギ・イザナミ神話が融合して、高天原・ オオヒルメ(太陽神)・スサノオの邪馬台国神話が成立し、祈り用の分銅型土製品が登場します。

 吉備邪馬台国の膨張が続き、備後北部勢力が西出雲に進出し、備後北部で発生した四隅突出墳丘墓が出雲に伝わります。

 

弥生後期 

――吉備邪馬台国の絶頂期――

 57年の奴国の金印の後、勢いを増した吉備邪馬台国王国は、倭国の覇権と朝鮮半島との直接交易を目指して、姉妹国の出雲王国等と共同して、西への拡大を進めます。

 吉備の勢力が豊前まで達した後、宗像族の仲介により、日向のヒコイツセ(彦五瀬)・イハレビコ(磐余彦)が率いる集団が吉備勢力の警護団として遠賀川に駐留します。吉備と出雲勢力が間近に迫って来た奴国は、「漢の倭の国王の印」を半島とを結ぶ外洋航海集団「安曇族」に預け、金印は安曇族の本拠地「志賀島」に隠匿されます。

 九州北部の攻略に成功した吉備(讃岐を含む)邪馬台国が倭国(西日本)の盟主となります。日向集団は引き続き、安芸(投馬国)、吉備(邪馬台国)に駐在した後、吉備王国と宗像族の要望もあって、宇陀野産水銀朱の交易路確立に向けて大和入りを試みます。水銀朱は金と同等の価値があったからです。艱難辛苦を乗り越えて80年頃、イハレビコ(神武天皇)が大和盆地西南部に葛国(狗奴国)を建国します。これにより宇陀野―葛国―吉野川・紀ノ川―吉備を結ぶ水銀朱交易ルートが成立します。

 107年に吉備邪馬台国の王、帥升等が魏に遣使を派遣します。

 

倭国大乱

――吉備国王の急死に伴う、後継者継承戦争――

 吉備国の栄華は数代続き、絶頂期にさしかかった国王(楯築王)は生前中に大型墳丘墓と墓を祀る特殊器台と特殊壺を作りますが、急死してしまいます。跡取りが不在だったことから、血縁関係にあった出雲国王が後継者に名乗りを挙げ、後継者問題をめぐって、出雲国を背にした北部勢力と阿波国を背にした南部勢力が対立し、180年前後倭国大乱が10年間続きます。出雲国王は倭国の盟主の象徴である特殊器台と特殊壺を出雲に運び込みます。

 その動乱の渦中で、出雲国、阿波国や丹波国などが覇権を競い、伊都国も独立性を回復していきます。大和盆地西南部の葛国(狗奴国)第五代ミマツヒコカエシネ(観松彦香殖稲)王(孝昭天皇)は、阿波の忌部氏の勧めに乗って水銀朱の産地である宇陀野に侵入した伊勢勢力(猿田彦族)を返り討ちにして、伊勢国に攻め入り、一挙に東海3国(伊勢、美濃、尾張)を支配下に置き、葛国の膨張が始まります。

 

弥生終末期

――吉備邪馬台国と大和狗奴国の拮抗――

 190年頃、吉備王国の卑弥呼即位で、倭国大乱はなんとか終焉しましたが、葛国の膨張は引き続き、次第に倭国東部を支配下に置き、吉備邪馬台国を脅かす勢力となっていきます。

 カエシネ王(孝昭天皇)を継いだ第六代クニオシビト(国押人)王(孝安天皇)は大和盆地全域を支配した後、山代、河内、淡路島に進出します。第七代フトニ(太瓊)王(孝霊天皇)は阿波王国を制覇した後、阿波の工人や東海三国から作業員を徴発して、唐子・鍵遺跡の機能を移転させる、商業・産業副都心を大和川本流に接する纏向(まきむく)に建設します。同時に、より大型の船舶の航行を可能にすべく、大和川の改修作業を実施します。これを通じて、阿波の石工技術が大和に入り、大和型前方後方墳も誕生します。

 大和葛国は、近江、越前、丹波、摂津を支配した後、東播磨を征服して吉備邪馬台国に迫りました。大和国の攻勢に危機感を抱いた吉備王国の卑弥呼は、239年、魏に遣使を送った後、246年には魏に援軍の派遣を要請します。それに答えた魏は、帯方郡から張政が率いる援軍を送り、大和軍の攻勢を防ぐことができました。

 一息ついたのも束の間、老いた卑弥呼が他界します。再び後継者をめぐる騒動が発生しましたが、13歳のトヨ(台与)の即位で騒動は終結しました。トヨの即位を見届けた張政は、ウラ(温羅)とオニ(王丹)兄弟等に後を託して、帯方郡に帰還しました。

 

 吉備邪馬台国と大和葛国のにらみ合いが続きましたが、第九代オオビビ(大日日)王(開化天皇)が均衡を破りました。吉備津彦兄弟が率いる大和軍は、陸軍は尾張氏、水(海)軍は河内湾の大和川河口地域を拠点とするアマツヒコネ(天津彦根)族が主力でした。慌てたトヨは266年、西晋に遣使を派遣しますが、とき既に遅く、ウラ達の奮闘も空しく、吉備邪馬台国の首都、吉備津は大和軍の手に落ちました。

 勢いに乗じた大和軍は、日本海側は伯耆・東出雲まで、瀬戸内海側はアマツヒコネ族と配下のアメノユツヒコ(天湯津彦)族が周防・長門・豊前を経て、筑紫まで一挙に攻め落としました。開化天皇はさらなる西方制覇に向け、意富(おう)氏が率いる第二陣を伊予経由で豊後に遣り、豊後から肥後・肥前へと支配領域を広げました。

 大和軍の監視下に入ったトヨは開化天皇の后候補兼人質として大和入りします。アマツヒコネ族は西征の戦利品を大和川河口に持ち込みますが、その中には吉備の特殊器台・特殊壺と陶工も含まれていました。

 

古墳時代前期

――大和が吉備邪馬台国を破った後、第十代崇神天皇が東西日本を統一、

   第十一代垂仁天皇が日本神話の原形を編纂――

 

 女王トヨを大和に迎え入れたオオビビ王(開化天皇)は得意満面でしたが、伝染病にかかり、急死します。開化天皇の王子ミマキイリヒコイニエ(御間城入彦五十瓊)王(崇神天皇)が20歳前後の若さで第十代王の座につきます。後継王を目論んでいた、母方が河内アマツヒコネ族の出自である、開化天皇の異腹の弟タケハニヤスビコ(武埴安彦)は面白くありません。ひそかに新王に対する嫌がらせを企むと同時に、アマツヒコネ族の強勢を背に、天下取りを虎視眈々と狙っていきます。

 ふとしたことから、トヨと知己を得たミマキ王は、大和と吉備邪馬台国文化圏の融合政策に切り替え、瀬戸内海の神さまであるオオモノヌシ(大物主)を大和の聖山である三輪山に勧請し、特殊台・特殊壺も含めた吉備文化も取り入れていきます。トヨはヤマトトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)として尊重されていきますが、ミマキ王の正后ミマキヒメ(御間城姫)と実父オオビコ(大彦)など外戚はトヨを警戒していきます。

 

 タケハニヤスビコは遂に反乱を起こしましたが、無事に反乱を鎮圧したミマキ王は、西国のさらなら支配、丹後王国への攻撃に加えて、東海地方以東への勢力伸張を目的に四道将軍を派遣し、大和の支配領域は西の有明海から、東北は越後の阿賀野川、陸奥の阿武隈川流域まで達しました。大和盆地には巨大な前方後円墳が築造されていきます。最後まで独立を守っていた出雲王国も恭順して、西暦290年代に東西日本の統一(大倭国)を達成します。

 

 290年代半ば頃、ミマキ王が崩御し、第十一代イクメイリビコイサチ(活目入彦五十狭)王(垂仁天皇)が誕生します。第一王朝は絶頂期に達し、320年代に、統一日本国誕生の象徴記念碑として、大和から海路での東国への玄関口に当たる五十鈴川に伊勢神宮が建立され、並行して大倭国神話(倭国神話+出雲の国譲り+大和神話)が編纂されました。

 

 

古墳時代中期初めと朝鮮半島への進出

――第二王朝の成立と朝鮮半島南部への進出――

 神武天皇が建国した第一王朝は、垂仁王朝で頂点に達しましたが、第十二代オシロワケ(大足彦忍代別)王(景行天皇)の時代に入って、王朝の腐敗化が進みます。これに対して、大和の名族である和邇氏を中心とした刷新派が景行天皇に退位を迫り、景行天皇は後継ぎのワカタラシヒコ(稚足彦)王子(成務天皇)と共に、近江への遷都を余儀なくされます。

 景行天皇親子の信任が厚かった武内宿禰は、刷新派に寝返り、タラシナカツヒコ(足仲彦)王子(仲哀天皇)を新王に担ぎ出す目的で、筑紫に向います。タラシナカツヒコ王子は、九州南部の熊襲と西部勢力の反乱を抑える名目で、筑紫に派遣されていました。

 その頃、朝鮮半島南東部の辰韓地方では、12か国の中から、斯羅(しら)国(後の新羅)が抜け出し、辰韓統一を進め、 斯羅国に敗れた王国の王族や氏族の一部は倭国に亡命し、次第に但馬国に集合し、祖国復興をめざします。

 勢力を伸ばす斯羅国は、鉄製武器などを欲しがる九州西部勢力と南部の熊襲勢力との結びつきを強化していきます。 タラシナカツヒコ王子に帯同していた后オキナガタラシヒメ(気長足姫。神功皇后)は、母方が但馬族の出身だったことから半島情勢に詳しく、西部勢力や熊襲の退治よりも前に、斯羅国との連携を潰すことが先決と、王子を説得しますが、忠言を聞き入れない王子は、西部勢力と熊襲退治に出陣して戦死してしまいます。

 

 オキナガタラシヒメの主張に賛同した武内宿禰は、斯羅国と九州西部を結ぶ洛東江河口を急襲し、倭軍の半島進出のきっかけを作ります。その間にオキナガタラシヒメはホムタ(誉田)王子(応神天皇)を出産します。

 畿内に戻るオキナガタラシヒメ親子と武内宿禰の大和入りを阻止しようと、近江王朝は摂津で待ち構えていましたが、敗退してしまいます。畿内の刷新派と合流した武内宿禰は、近江王朝を壊滅し、オキナガタラシヒメを摂政とする第二王朝が始まりました。

 第二王朝の半島政策は、神功皇后、武内宿禰、応神天皇と、主導者ごとに性格が異なる三段階で進んでいきます。

 

 

 

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