その41.幻           ヒカル 満51

 

4.カール五世の裏切りと面目を失った夕霧元帥

 

 安梨王と夕霧元帥に見送られてパリを発ったカール五世は、冷泉院に付き添われてオランダとの国境に近いサン・カンタン(Saint Quentin)へと進み、冷泉院と別れて、オランダ領に入りました。ヴァランシアンヌ(Valencienne)で妹のオランダ総督マリー・ドゥ・ハンガリーと再会して、ヘント市の大反乱の状況説明を受けました。

その後、カール五世はフランドル・ブルゴーニュ公国の発祥地であるブルゴーニュ地方の帝国領に滞在して、スペイン、ドイツ、オランダからの兵士と合流し、二月十四日に五千人の兵士を引き連れてヘント市に進み包囲をすると、反乱軍は大した抵抗もせずに市内を明け渡しました。

 カール五世とマリー総督による処罰は、市民たちの予想を上回る厳しいものとなりました。反乱の首謀者二十五人が処刑された上に、貴族・役人たちやギルド(職業別組合)の構成員三百十八人が白衣を、勤労者五十人が黒衣を着せられ、首に絞首台の紐輪をつけられた上に、市庁舎からカール五世宮殿まで裸脚で行列を強いられ、カール五世とマリー総督に哀れみを懇願する、という屈辱を受けました。

 ヘント市の自治特権と独自の軍隊組織は剥奪され、ギルドの数も縮小されました。新しい憲章が交付され、スペイン王国による直接支配の色彩がさらに強まっていき、フランドル・ブルゴーニュ公国時代の記録や遺物が払拭されて行きました。以来、ヘント市民はせめてもの抵抗を示す象徴として、夏祭りの催しで、首に紐輪を巻き、白衣を着て市内を練り歩くことが慣例となりました。

 

 四月に入ってから、カール五世は自分の皇女と安梨王の第二王子との婚姻をフランスに申し入れました。結婚の条件は、皇女はフランドル・ブルゴーニュ公国の遺産とブルゴーニュの帝国領を持参するが、フランス王国はミラノ公国だけでなくイタリア半島での領有を断念する、というフランス側にとってはとんでもない話でした。さすがに夕霧元帥も「それはないだろう」と口をあんぐりするしかありません。

 すぐさま安梨王は申し入れを拒否しましたが、「ものの見事に裏切られてしまったではないか。フランス国内の横断を許可した恩を仇で打ち返して来た」、「カール五世の甘い飴に飛びついてしまうと痛い目にあってしまうと警告したではないか。まんまとはめられてしまった」、「やはり文官あがりの夕霧元帥は人が良すぎるだけで、軍事には不向きである」と日増しに夕霧に対する非難が高まっていきました。しばらくして、「どうやらカール五世は息子にミラノ公国を授封するようだ」との情報が王宮に入り、ミラノ再討伐の声が強まっていきました。

 

 

5.紫上の一周忌のタピストリー供養と、ヒカル遁世の心境

 

八月の聖母被昇天祭(Assomption)も例年とは変わったことが多く、管絃の遊びなどはせずに、所在なく暮らして、聖母マリアが昇って行く空を見ようとする侍女もいませんでした。ヒカルはまだ夜が深い時分に起き出して、両開きのドアを開けてみると前庭の草木に露がひどく下りているのが見えたので、外に出てみました。

(歌)聖母の昇天は 雲の上の別世界のことで 恋しい人と別れた涙の露が 庭に下りている

 風の音までが、たまらないもののように吹くようになった頃、祭事の仕度で九月上旬は少しは気が紛れました。「紫上の死からもう一年も経過したのか」と思うと、時が立っていく速さに呆れながら、明かし暮らしました。

 一周忌の命日には、上下の身分の人々が皆、身を清めている中、「今日こそは」とあの「天国を描いたタピストリー」が供養されました。いつもの夕刻の勤行に向けて、手洗いの水などを運んで来た侍女の中将の君の扇に

(歌)亡き人を慕う涙は 際限もないのに 何で一周忌の今日が 最後と言うのでしょうか

と書きつけてあるのを手に取って読んでみて、ヒカルは扇に書き加えました。

(歌)亡き人を恋い慕う我が身も 余命が少なくなっているが まだまだ涙は残り多いことだ

 

 十月に入り、花の露を移して身体に拭いて老化を予防する綿布で覆われた菊の花を眺めながら、ヒカルが詠みました。

(歌)亡き人と一緒に起きて 綿布をかぶせた菊の朝露も 今年の秋は私一人の袂にかかるだけだ

 

 普通に時雨がちな十一月は、一塩憂いに沈みながら、夕暮の空の気配も言いようもなく心細いので、(歌)十一月に入ると いつも時雨が降ったけれども これほど袖が濡れる折りはなかった と口ずさんでいました。翼を並べて雲の中を飛んでいく雁を羨ましそうに見守っていました。

(歌)あの雁が飛ぶように 大空を飛行する魔術師よ 夢の中にすら現れてくれない 

   亡き人の行方を探してくれ

と、何事につけても気が紛れることはなく、月日が経って行くほどヒカルは紫上を思い起こしていました。

 

 諸聖人を祝う「万聖節(Toussaint)の舞姫たち」などと言って、世の中が何と言うこともなく浮足立っている頃、王宮での童殿上を始めた夕霧の息子たちがヴィランドリー城にやって来ました。二人とも同じくらいの年恰好で美男子でした。母方の叔父にあたる頭の中将ロランや蔵人少将フェリックスなどが万聖節の役職で着る青模様の衣装を着た姿は清らかですがすがしく、皆が二人に付き添うように世話をしながら、打ち連れて一緒にやって来ました。何の屈託もなさそうな人たちの様子を見るにつけ、昔の舞姫たちの日におかしな出来事があったボルドーの舞姫モニクのことをヒカルは思い出しました。

(歌)王宮の人たちは 万聖節の宴に召されて いそいそと急いでいる今日なのに 

   私は日の光りも知らずに暮らしている

 

 今年一年をこうやってひっそりと暮らして来たから、来年はいよいよ世俗を去って、修道の世界に入ろうと思いをはせていると、しみじみした悲しみが尽きないでいます。段々とそれに向けた心積もりで準備を進めながら、仕えている人たちにそれぞれの身分に応じて形見分けを授けるようになりました。

「これが最後のことになる」と大袈裟にはしないでいましたが、間近で仕える人々は「修道者となる本願を遂げられる気配がする」と察するので、年が暮れて行くのが心細く、悲しい気持ちには限りがありません。

 恋文などで後に残っては見苦しいといったものでも、破ってしまうのは惜しいと思われるものは少しづつ残していましたが、何かのついでに見つけると破らせていました。あのサン・マロでの侘び住いで、あちこちから届いた手紙類もありましたが、紫夫人自筆の手紙は特別にひとまとめにして結んでいました。自分自身でしたことですが、「随分と遠い昔のことになった」と感じるものの、インクの跡がたった今書いたかのように生き生きとしていて、「千年間の形見」にしておきたいと思います。それでも「修道者となったら、見るわけにはいかない」と考えるので、気心の知れた侍女二、三人を呼んで、「もう何にもならなくなったものだから」と言って、眼前で破らせてしまうことにしました。

 

 それほど懐かしい手紙でなくても、亡くなった人の筆跡を見るのは胸が痛くなるものですが、まして、紫夫人の手紙となると、ひどく眼が眩んでしまい、文字を見定めることも出来ないほど降り落ちて来る涙が、水茎に沿うように流れてしまうので、侍女も「気が弱すぎると見てしまうのではないか」と気恥ずかしく体裁が悪くなり、紫上の手紙を押しやりながら詠みました。

(歌)死出の山を越えて行った人を 恋い慕って行こうとしながら その足跡を見ていると 

   やはり悲しみにくれ惑ってしまう

 

 伺候している侍女たちも、紫夫人の手紙をまともに広げて読むことは出来ないものの、それとなくぼんやりと見ながら、心を動かされることは並々ではありません。同じ世界にいながら、さして遠くもないサン・マロという土地に別れ住んでいた時、ひどく悲しく感じるままにヒカル宛てに書いた言葉に、その時よりも堪え難い涙がせき上がって来て、悲しくやるせないことです。それでもこれ以上、取り乱してしまうのは女々しくもあり、不体裁でもあるので、よく見ないまま、心をこめて書かれている夫人の手紙の横に歌を詠みました。

(歌)かき集めてみるのも甲斐がなくなった この手紙たちよ 煙となって 

   亡き人と同じ天上に上ってくれ

と書きつけた後、紫上の手紙をすべて焼かせてしまいました。

 

 十二月の三日間の「罪障を懺悔する祭事」も今年限りになると考えるので、例年よりも格別に司教杖の音などを身に染みて聞いていました。ヒカルの行く末が長いことを祈り唱えているのを聞きながら、キリスト様がどのように聞かれていることだろうか、と歯がゆくなりました。

 雪がひどく降って来て、本格的に積もって行きました。導師が退出しようとするのを呼び止めて、いつもの作法よりも酒杯などを格別に振る舞って、ことに俸禄などを賜りました。この導師は長い間王宮にも仕え、冷泉院にも馴染みが深い人物で、頭の色が段々と白髪に変わって来ているのを、ヒカルはしみじみと感じていました。

祭事にはいつものように王族や高官なども多く参列しました。早咲きの梅の花がわずかばかり蕾を持ち上げ始め、雪に映えて美しいので音楽の遊びなどがあっても良いのですが、やはり本年中は管絃の音にもむせび泣きしてしまいそうな気がするので、折りに適った朗誦だけをさせました。

 

そう言えば、導師に酒杯を振る舞った際にヒカルが詠みました。

(歌)私は春までの命があるかどうかも分からないから 雪が降るうちに色づいて来た紅梅を 

   今日は髪飾りにしてみよう

(返歌)永遠に続く春の花が見えるように 貴方様の長寿を祈った私の身も 

   降っている雪と一緒に古びてしまいました

と導師が返歌を詠みました。居合わせた人々も多く詠みましたが、聞き洩らしました。

 ヒカルはその日、久しぶりに人前に出ました。容貌は以前の光りの上に、さらに光彩が添って類なく美しく見えるのを、「古びた身」と詠んだ導師はとめどない涙を流しました。

「もう今年が暮れていくのだ」と心細く思っていると、五歳の第三王子が「晦日の鬼やらいだ。何をしたら大きい音が出るのだろう」と走り回っているのを見ながら、「こんな可愛らしい有様を見ることが出来なくなるのだ」と何につけても忍び難い思いをしました。

(歌)物思いをしながら 過ぎていった月日も分からないうちに 今年も私の寿命も 

   今日で尽きていくのだろう

 新年の挨拶に訪れる人々のために「例年よりも特別にするように」と命じました。王族たちや大臣への引き出物やそれ以下の身分の人々への俸禄などは二つとない立派なものを用意させました。

 

 

6.ヒカルの隠棲と神聖ローマ帝国との第四次戦役

 

ヒカルは中央山塊(Massif Central)の西南端に当たるロカマドゥール(Rocamadour)で修道者としての隠棲生活を始めました。ドルドーニュ(Dordogne)川支流のアルズー(Alzou)川を臨むロカマドゥールはサン・ジャック巡礼街道の主要聖地の一つで、川を見下ろす断崖の上に、聖堂や地名のいわれにもなっている聖アマドゥール(Amadour)の墓、奇跡をもたらすと信仰を集める黒聖母マリアが鎮座するノートルダム礼拝堂などがありました。度重なる疾病の流行、飢饉や戦争で町は寂びれていましたが、ヒカルは町はずれの森の中にこじんまりとした礼拝堂を建てて、隠棲生活を始めました。

ヒカルが目をかけていた中将の君は修道女となって、ヒカルを追うようにロカマドゥールの修道院に入り、巡礼者向けの避難所で奉仕活動をしながら、目立たないようそれとなくヒカルの世話をしていました。

 

(夕霧元帥の失脚と帝国との第四次戦役の開始)

 ロワールとは距離が離れているロカマドゥールには王宮の動向も数日遅れで断片的に伝わって来るにすぎません。世俗を離れたヒカルにとってはロワールでの政治情勢など無縁なものとなっていましたが、カール五世の裏切りで窮地に追い込まれてしまった息子の夕霧元帥の動向には無関心ではいられません。

 その理由は噂通りにカール五世が息子のフェリペ皇子にミラノ公国を授封したことにありましたが、案の定、ヒカルがロカマドゥールに隠棲を始めてまもない六月に夕霧は失脚して、元帥の座を追われてしまいました。ミラノ奪還を主張するグループはオスマン・トルコとの連携を深めようと七月にスレイマン一世へ使者二人を派遣しましたが、ミラノで暗殺されてしまったことから、ますます反カール五世の空気がアンボワーズ王宮を支配していきます。十月になってカール五世は北アフリカのアルジェ攻略に失敗し、スペインに退却せざるをえなくなった、との報が入ったことから、「機は熟した」と色めき立ちました。

 

 フランス側の動きを察知したカール五世は翌年六月、叔母キャサリン・オブ・アラゴンとの離婚騒動以来、敵対関係にあったイングランドのヘンリー八世に接近して、反フランスに向けた秘密条約を結びました。翌月、安梨王がカール五世に宣戦布告をして帝国との第四次戦役が開始となりました。先手をうったフランス王国は北西のアルトワ(Artois)、北はルクセンブルグとオランダ東部のヘルダーラント(GelderlandGueldre)、南東はイタリアとの国境地帯ピエモン(Piémont)、南西はルシヨン(Rousillon)と帝国領とスペイン領に一挙に攻め入りました。

夏場に入ってフランス軍はルクセンブルグ攻略に失敗し、南西でもペルピニャン(Perpignan)でスペイン軍に敗退するなど、帝国領とスペイン領への侵攻に失敗して、戦局は膠着状態に落ちいりました。

 

(イングランドの領土拡大と第四次戦役への参入)

 ヘンリー八世はカール五世とフランスの攻防を横目に見ながら、国内でのプロテスタント国教化の推進と、アイルランドに次いでウエールズとスコットランドの併合に邁進していました。第四次戦役が始まった年の十一月、イングランド軍はソルウエイ・モス(Solway Moss)の戦いでジャック五世王が率いるスコットランド軍に勝利をおさめました。重傷を負ったジャック五世は十二月十六日に崩御してしまい、わずか八日前の十二月八日に誕生したばかりの王女メアリー・スチュアート(Marie Stuart)が王位継承者となり、アンジュ―家アントワンの末娘で、四年前にスコットランドに嫁入りしたジャック五世王妃のシャルロットが摂政となって、ヘンリー八世との戦いを続行することになりました。

 翌年五月、ウエールズとの間で第二次統合令(Second Acte d’Union)が結ばれた後、ヘンリー八世は第四次戦役への参入を公表し、フランスとの百年戦争以来、死守していきているカレー(Calais)を拠点にブーローニュ(Boulogne sur Mer)に攻め入りました。

 イングランド軍の介入に対して、フランス側はオスマン・トルコ帝国のスレイマン一世に支援を要請したことから、カール五世下の神聖ローマ帝国・スペイン王国対フランス王国の戦役は、カール五世・ヘンリー八世対安梨王・スレイマン一世の四英傑の戦いへと高まりました。

 

 後継者のエドワード王子を産んでヘンリー八世を狂喜させたジェーン・シーモアが産褥死で急逝した三年後、ヘンリー八世は肖像画を見ただけで惚れ込んだドイツのアン・オブ・クレーヴスと四度目の結婚をしましたが、実物に逢って失望して即刻離婚をしてしまい、仲介役を務めたトーマス・クロムウエムまで国王が推進する教会改革の立役者であったにも関わらず、逮捕されて死刑となってしまいました。五番目に迎えたキャサリン・ハワードは結婚二年後に不義の嫌疑で斬首と、王さまの気紛れ婚が続いた後、カトリーヌ・パールが六番目の王妃となりました。

 

(プロテスタント側の攻勢とカトリック側の巻き返し)

 フランスでも改革派プロテスタントの勢いが増して来たことから、安梨王は改革派を弾圧するフォンテーヌブロー王令(勅令)を出し、パリ大学神学部も改革派と見なされる書籍を禁書にするカタログを公表しました。

 カール五世はドイツでのプロテスタント派とカトリック派を両立させる試みも何度か試みましたが、両立は難しい上に、プロテスタント側は各派の見解が乱れて統一見解をだせずにいる状態となって、混乱度がますます増大していきます。

 改革急進派の先鋒となったスイスのジュネーブでは、定住したジャン・カルヴァンがフランス内の改革派への助言と支援を始めながら、改革派の聖職者規定を発行しました。

 プロテスタントの台頭に対して、ローマ教皇も対抗策を打ち出して行きます。ロヨラ(Ignace de Loyora)が創立したイエズス会を正式に承認し、新大陸や東アジアへのカトリックの布教を奨励しました。これに呼応してフランソワ・ザビエルがリスボンからインドのゴアに向けて旅立って行きました。さらにプロテスタントと対決する教会改革を決めるトリエント(TrentoTrient)公会議開催の準備を始めました。

 

(クレピーの和平で第四次戦役が終結)

 イングランドとオスマン・トルコの参入により、四英傑の戦いに拡大した第四次戦役は一進一退の攻防が続いていきました。

フランス軍が北部から帝国領への攻撃を強めたことから、カール五世は二月に息子のフェリペ―二世にスペイン王国の摂政を一任した後、生まれ故郷のオランダに戻って陣頭指揮を執るようになりました。イングランド軍もブーローニュへの攻撃を継続しています。

 フランス南部の地中海沿岸ではオスマン・トルコ艦隊の攻撃が激しさを増しました。ニースに続きトゥーロンを攻め、スペイン沿岸も攻撃しました。フランス軍はピエモン地方に攻め込んでミラノへの侵攻をめざしました。

 戦局はルクセンブルグとオランダ・ドイツの国境地帯で帝国軍が巻き返してフランスとの国境を越えて、パリが間近のシャンパーニュ地方に進み、スペイン海軍がパルマ・デ・マヨルカのムロ(Muro)でフランス軍に勝利をあげたことから、フランス側が折れる形で、パリ南部のクレピィ(Crépy)で和平が締結されました。

 和平条約により、神聖ローマ帝国はブルゴーニュ地方の帝国領を手放すものの。フランスは北西部のフランドル地方とアルトワ地方を断念、南東部ではピエモン地方の占有は容認されるものの、ミラノ公国とナポリ王国への野望は断念することが決まりました。

 

クレピーの和平を見届けながら、ヒカルはつくづく世の中の無常を思い知りました、自分があの世に旅立った後、フランス王国はどうなっていくのだろうか。夕霧、サンブリュー王妃と冷泉院の行く末を懸念しつつ、勤行に励むしかありません。

 

 

 

    著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata