邪馬台国吉備・狗奴国大和外史

 

はじめに                     

 私が古事記の天皇記の神武天皇から第10代崇神(すじん)天皇を読み返して、「邪馬台国は吉備、敵国の狗奴国は大和」ではなかろうか、と気づいたのは1999年の師走でしたから、ちょうど10年前になります。

 

 以来、パリ在住の身でありながら、「吉備邪馬台国・大和狗奴国説」の研究にのめり込み、

20024月に「邪馬台国 岡山・吉備説から見る古代日本の成立」

               (制作・コエランス酉福ギャラリー、発行・神無書房)

今年(2009年)1月に続編として「邪馬台国吉備説 神話編」

              (制作・酉福ギャラリー、発行・神無書房)を出版しました。

 

 残念ながら考古学会とマスコミは誤説である「邪馬台国大和説」に傾いてしまっており、自説に注目してくれる方々はまだ数少ない状況ですが、「吉備邪馬台国・大和狗奴国」の視点から弥生後期・終末期と古墳時代初期をより深く掘り下げていくと、手にとるように具体的な画像が浮かび上がってきました。

 

 この11月(2009年)に奈良県桜井市の纒向(まきむく)で「ヒミコの宮殿らしき大型建物が発見された」という記事が新聞をにぎわせました。あたかも邪馬台国の首都は纒向で決定したかの印象を読者に与え,纒向にある巨大な前方後円墳の先駆けである箸墓はやはりヒミコの墓だった……メデタシ、メデタシと言った論調です。

 ところがこれは大間違いです。纒向は狗奴国第7代王の孝霊天皇が建設した商業副都心(大市)、今流に表現しますと、新宿副都心かパリのデファンスです。

 

 日本の考古学の第一線をリードする先生方の誤りは「第10代崇神天皇以前の第9代までの天皇は7世紀の飛鳥時代の御用学者の創作で、実在しなかった」とする「欠史八代説」を正論として推論を進めていることにあります。

 それをやみくもに追従して、浅薄な提灯記事を書く大手新聞の担当記者の態度にもあきれ返ります。冠(社名)をはずしたら素人に毛が生えたレベルにすぎない人が書いているにすぎない記事が多すぎます。藤村事件で旧石器時代の考古学者の誤りを証拠づけたのは、お名前は存じませんが、毎日新聞の記者の方でした。弥生・古墳時代に関しても英知と正義心を持たれる記者が出現して欲しいものです。

「あなたね、有名大学や一流の研究所・博物館の先生方がそうおっしゃるのだから、間違いはありませんよ。あなたも素直に従っておいた方が得策ですよ」とご丁寧に忠告をされる方もおられると思いますが、私は権威にひれふす人、あるいはひれふすふりをして権威を利用する人、取り巻き、ごますり、風見鶏は大嫌いです。権威ある先生方が間違っていることもありうる、ということを頭の片隅に入れておいてください。何年、何10年先になるかは分かりませんが、「ふん、吉備説なんて」とせせら笑っている方々がせせら笑われる日が必ず到来します。

 

 新井白石・本居宣長以来、約300年間、邪馬台国の所在地論争がなぜ、いまだに決着がつかないのか。その理由は「大和は邪馬台国の敵国の狗奴国だったのではないか」という視点、切り口が存在しなかったからです。これがために、大和説と九州説を中心に邪馬台国論争は薮(やぶ)の中に入ってしまい、糸がこんがらがってしまった状況が続いています。大和説も九州説も密林の中で迷子になりながら、誤った推測や妄想を絶叫しているにすぎない印象をもちます。

            参照自説の要旨 ⇒邪馬台国大和説は渡来系漢籍学者の想定にすぎなかった

 

 「天皇家の祖先が狗奴国だった、とは失礼だ」とおっしゃる方もおられるでしょうが、欠史八代説で存在を抹殺してしまう方がよほど失礼です。騎馬民族説にそって、天皇家の祖先は朝鮮半島から渡来してきたと思い込んでられる方も多いようですが、これも大間違いです。

 

 「狗奴」は「くな」、「くぬ」と読めますが、私は「葛(くず)」が本来の名だったのではないか、と考えています。御所市がある南葛城地方は古代から現在に至るまで葛の名産地です。そこに葛王国が1世紀後半に誕生し、次第に大和盆地、伊勢・美濃・尾張、淡路島・阿波へと勢力を拡げ、ついに260年代に吉備邪馬台国を打ち破って西日本の覇者となり、その勢いに乗って東国も支配下に治めて200年代末に東西日本の統一を達成した……と見る筋書きです。近々、御所市の孝昭天皇陵、孝安天皇陵、宮山古墳を結ぶ円内にある室(むろ)、池ノ内から第5代葛国王の孝昭天皇、第6代孝安天皇の王宮跡が発見されるに違いないと予測しています。

 

 邪馬台国吉備説」は、大和説、九州説に較べてまだまだ少数意見で、地元の岡山県の学会や知識人も「吉備勢力の大和東遷説」が主流で、最近になってようやく吉備説支持者がポツポツと出てきたようです。

 今のところ、出版物を通じて吉備説を唱えているのは、私と静岡県掛川市在住の医学博士でおられる若井正一氏の二人だけのようですが、念のため、「吉備邪馬台国・大和狗奴国説」、「ヒミコの墓は足守川河畔の鯉喰神社弥生墳丘墓説」の提唱は私の方が時期的に早いことだけは明記しておきます。

注: 若井正一氏の出版物

 「ヤマトの誕生 第1巻」 文芸社。20043月発行。

 「吉備の邪馬台国と大和の狗奴国」 歴研選書。20097月発行)

 

 私の「邪馬台国吉備説・狗奴国大和説」はインターネット・メディアでは、2005年から岡山市の久保幸三氏が運営されておられたホームページ「ウエブテレビ」のページをお借りして発表してきました。現在でも「邪馬台国吉備説」で検索されますとウエブテレビの「広畠輝治の吉備説」が出てきますが、まことに悲しいことに久保氏は20088月末に心不全で急逝されました。改めてお悔やみを申し上げます。このため、ウエブテレビは20089月以降は休止の状態です。

 

 私は儒教の封建主義は大嫌いですが、論語の「藍は青より出でて、青よりも青し」は大好きな言葉です。文化は先達から学び、先達を乗り越えて成長していきます。ところが昨今の日本は「藍は青より出でて、青よりも薄し」に近い状況に落ち込んでいるようです。欠史八代説を例にとると、第2次世界大戦後に活躍した先生方のお弟子さんや孫弟子さんたちは、初代の先生の提唱を鵜呑みに追従するだけで、異説や新しい息吹が出てくるとそれを押さえ込もうとしています。追従しておかないと出世コースに乗れないのかもしれません。これでは文化は成長しません。

 

 現在の文献学と考古学会、大手メディアのあまりのいい加減さに怒りを感じ、満を持して自前のブログを始めることにしました。この著は200912月から201012月までブログで連載したものですが、「邪馬台国大和説」、「欠史八代説」に対して逆転の発想をされる学徒が増えて欲しいものです。

 

 

1章 大和の纒向(まきむく)と箸墓

1.纒向のヒミコ宮殿説は本当でしょうか

                (参照自説の要旨纏向遺跡は孝霊天皇が唐古・鍵遺跡を移転した太市

卑弥呼の居館か、奈良・纒向遺跡から3世紀前半の建物跡が出土

   20091110日、産経新聞ネット版)

「九州説は無理・・・」新井白石以来の邪馬台国ゴール近し 纒向遺跡

  20091111日、産経新聞ネット版)

纒向遺跡中枢部は”水の宮殿” 3方に河川と人工水路

  20091116日、産経新聞ネット版)

纒向遺跡、邪馬台国なら→奈良観光147億円効果

  20091120日、読売新聞ネット版)

 

 以上の見出しは200911月にインターネット・サイトで検出した記事の代表例です。ことに産経新聞が「これで邪馬台国は大和で決まり!!」というニュアンスを読者に与える張り切りぶりです。

 

 今回までに確認された纒向の大型建築物群(4棟)を整理してみます。

敷地は東西150メートル、南北100メートルで、約1メートルほど盛り上がった微高地。

西は大和川(初瀬川)に対面し、東は桜井市から奈良市、京都方面に向かう古代古道「上つ道」に接している。北端と南 

端に大和川に注ぐ支流が流れ、西端に南北の2つの川を結ぶ運河(幅8メートル以上、深さ1.4メートル以上)が人工的に掘られている。

敷地内に4つの建物がある。4棟とも東西一直線にきれいに揃って建てられていることから、明確な都市設計にそって造成されたことが明らかである。

最も東側にある建物が最大で、東西12.4メートル、南北19.2メートル、床面積238平方メートル(約72坪)で、佐賀県の吉野ヶ里遺跡の大型建築物156平方メートルを上回る。高床式の入り母屋造りで、高さ約10メートルと推定され、ヒミコの宮殿に模されている。

その西側に東西5.3メートル、南北8メートルの建物があり、さらに西側にある建物を含めた3つの建物が柵(さく)で囲まれていて、内郭と推定されている。外郭に位置する西端の4つ目の建物の周辺は祭祀的な広場と考えられる。

建設された年代は3世紀前半(200年~250年)で、女王ヒミコが君臨した時期と一致する。さらに魏志倭人伝の「宮室は高殿と城柵を厳重に設け、常に武器を持った兵士が警護している」(魏の描写に合致する。

 以上の状況から、大型建築物群は邪馬台国の女王ヒミコの宮殿と初期大和政権の関連性や継続性を示す構造として注目できそうだ。247年頃に他界したヒミコと後を継いだトヨ、3世紀後半に実在した初期大和政権の最初の大王である崇神天皇を結ぶ糸がつながっていく。

 

 この説を補足する形で、寺沢薫氏は「 纒向遺跡の中枢域は清らかな水が流れる神聖な空間だったと想像でき、崇神天皇の水垣宮の言葉の意味とも重なる」と語られている(産経新聞ネット版、20091116日)

 (注:崇拝天皇の王宮、水垣宮は纒向から約3キロメートル南の金屋に位置する)

 

 これに加えて、楼観の跡が出土し、さらに魏の皇帝からの贈り物に印を押した封泥(ふうでい)が見つかれば、纒向は邪馬台国の首都として決定し、邪馬台国大和説の勝利です。 

 しかし常識的に考えると柵の周辺にあるはずの「楼観」の跡は発見されていません。王宮としては召使や家来が住む間取りが欠けている気もします。

 

 出土した土器は、関東から九州で作られた外来系の土器の比率が15%30%ですが、纒向だけでなく、大和盆地ではまだ朝鮮半島の帯方郡や三韓系の土器は出土していません。魏志倭人伝を読むと、張政を筆頭にする帯方郡の人間集団が邪馬台国の王宮の周辺に滞在したことは明らかですが、大和盆地からはそれを証拠づける発掘物や遺跡は見つかっていません。となると、大和説は磐石とは言えません。

 大型建築物群は同じ高殿でも、「租賦(そふ)を収める邸閣」(魏志倭人伝)だと私は考えています。大和葛(狗奴)国が支配地から租税や戦利品として送られてくる物品を保管する倉庫(大蔵)です。大和川から見ると税関、番人小屋、管理室、高殿(大型倉庫)と続きます。

 物品は大和川を通じて河内、大和北部、南部から舟で運ばれ、支流から運河に入り、税関の前で荷を下ろし、大和川に戻っていく……という図式です。柵で囲まれた高殿の周辺では市場が発展し、「大市」と呼ばれていました。大市には北から山城と日本海、東から伊勢と東海、南から紀伊と太平洋、西と大和川から河内、和泉や瀬戸内海の産物が集まっていました。

              

 

1章 大和の纒向(まきむく)と箸墓

2.纒向は狗奴国の第7代孝霊天皇が建設した商業副都心「大市」

 

 それでは「大市」として栄えた商業都市「纒向」を都市開発した王さまは誰でしょう。私は狗奴国の第7代孝霊天皇(在位推定215239年)と考えています。

 これについては「邪馬台国吉備説 神話編」で以下のように紹介しました。

王宮をそれまでの南葛城地方から、唐古・鍵地区に近い黒田に構えた第7代孝霊天皇は、阿波の工人を徴発して大和川の水運路を整備し、河内湾から巻向(纒向)まで商船が上れるようにした。

巻向が瀬戸内海と東海地方、山城・近江を結ぶ大規模市場に拡大し、唐古・鍵地区の工人や商人も巻向に移動する。この頃から巻向地区に阿波の影響を受けた前方後円墳が始まる。

          (「邪馬台国吉備説 神話編P.496

 

 欠史八代説ですと、孝霊天皇も実在しなかった架空の人物となるため、あまり注目はされていないようですが、吉備を征服した吉備津彦兄弟、ヒミコかトヨに擬されるヤマト-トトヒ-モモソヒメの父であり、大和狗奴国が日本を統一する土台を築き上げた人物です。

 

 重要な点は、孝霊天皇の王宮と陵墓の場所にあります。孝霊天皇は十市(田原本町周辺)県主オオメの娘クハシヒメを正后として、王宮も第5代孝昭天皇と第6代孝安天皇が王宮を構えた御所市から、田原本町の黒田に遷しました(法楽寺が王宮伝承地)。東約2キロメートルに唐古・鍵遺跡があります。陵墓はかなり離れた王子の片岡馬坂にありますが、大和川を見下ろす丘陵にあります。

 

 黒田と王子をキーワードとして私が思い描いたストーリーは以下のようになります。

          (「邪馬台国吉備説 神話編」P.491~P.502参照)

 祖父の第5代孝昭天皇(在位推定170年代~190年代)の時代に、狗奴国は伊勢の猿田彦・猿女王国を破った後、尾張族を主体に尾張と美濃も征服して、東海地方に進出しました。

 父の第6代孝安天皇(在位推定195215年)の時代に、狗奴国は大和盆地全体を初めて統一し、兄のアメノオシタラシヒコは大和盆地東北部に拠点を置き、和珥(わに)氏の祖となります。 南北、東西の交通路が交差する纒向が市場として自然発生し、庄内式土器(200270年)が誕生します。孝安天皇は勢力を河内、淡路島、阿波へと拡大していきます。

 

 後を継いだ孝霊天皇は阿波征服に成功した後、近畿地方の諸国を次々と支配下に置き、ついに吉備邪馬台国に隣接する東播磨まで制圧します。

 南葛城地方に誕生した葛(狗奴)国は吉備邪馬台国と肩を並べる大国となり、傘下に置く諸国からの貢献品や戦利品も増大し、産業商業地区の唐古・鍵遺跡は手狭になっていきました。近くを流れる大和川の支流、寺川は川幅が狭く、水深が低いことが難点となりました。

 そこで孝霊天皇は唐古・鍵遺跡から東南約6キロメートルの纒向に新しい商業産業都市の建設を命じました。纒向は川幅が広い大和川の本流に接し、山城側から下ってくると、大和川を渡る必要がありません。問題は大和川の治水工事でした。JR関西本線に乗って王子から河内の柏原まで車窓から眺めると、ものすごい峡谷と急流が続きます。古代ではかなりの難所だったことが想像できます。

 

 孝霊天皇は阿波から工人を徴発しました。阿波の工人は吉野川と支流の鮎喰川の治水工事の技術にたけ、石工としても優秀でした。この頃から、阿波から赤石、青石が舟で河内湾に運ばれるようになります。

 大和川を改良する難工事はなんとか終了し、以前よりも大型の舟が河内湾から 纒向まで上ってこれるようになりました。新都心「纒向」に唐古・鍵遺跡の商工人も移動していき、唐古・鍵遺跡は衰退していきます。大事業を成し遂げた孝霊天皇は大和川をのぞむ王子の片岡の丘に自分の陵墓を築くことを決めました。

 

 

1章 大和の纒向(まきむく)と箸墓

3.欠史八代説の歴史

 

  「孝霊天皇・ 纒向建設説」に対して、「ははは、おとぎ話としては面白い」と笑われる方も多いことと想像しますが、「纒向・ヒミコ王宮説」も欠史八代説を前提としたおとぎ話にすぎません。孝霊天皇の片岡馬坂陵の科学的な調査が実施されるなら、謎解きは前進するのですが、宮内庁は立ち入りを拒んでいますので、残念ながら水掛け論はしばらく続くでしょう。

 現在の考古学者の多くの方の誤りは、何の疑問もはざまずに、欠史八代説を正論として研究を進められていることにあります。貴重な発見があったとしても、間違った推測で進めていくと、誤った結論に行きつくのは当然です。

 

(欠史八代説の歴史)

 欠史八代説が学会の正論になっていった過程を整理してみます。

 

 王政復古の掛け声と共に徳川時代が終焉し、明治時代が始まり欧米流の近代教育が始まります。古代史の教育は古事記と日本書紀の記述にそって、イザナギ・イザナミの国生み、アマテラスとスサノオの対立、アマテラスの孫神ホノニニギの日向降臨と神代編が続き、2600年前頃、ホノニニギのひ孫にあたる神武天皇が日向から東征して大和国を建国した……という神話が日清戦争(1894年、明治27年)頃から絶対視されていきます。

 そうした中で合理的な文献批判でメスを入れたのが津田左右吉(18731961年)氏でした。1913年(大正2年)に「神代史の新しい研究」、1924年(大正13年)に「神代史の研究」を出版し、6世紀初めの第26代継体天皇以前の天皇は7世紀の飛鳥時代の宮廷学者が草案した架空の人物と主張しました。津田説に類似した説はすでに江戸時代の学者が提唱していた、という話もあります。

 

 ところが昭和の大恐慌の後、帝国軍国主義が高まっていく1939(昭和14)年に、右翼思想家の蓑田胸吉氏と三井甲之氏等が「津田説はけしからん」と言い出し、政府は津田氏の著作4冊を発売禁止とし、早稲田大学教授の座を辞職させました。1942(昭和17)年に津田氏は禁錮3か月、出版元の岩波茂雄氏は同2か月、共に執行猶予2年の判決を受けました。

 3年後、日本が敗戦して価値観がひっくり返ると、津田氏は当時の自称進歩知識人から英雄として持ち上げられます。その頃、津田氏は「邪馬台国吉備説」を提唱されていた、という話を聞きますが、これはまだ未確認です。

 

 敗戦の動揺がまだ落ち着かない1948(昭和23)年に古代オリエント遊牧民史の研究者、江川波夫(19062002年)氏が「騎馬民族説」を発表されて、古代史界は騒然となりました。

 騎馬民族説は津田説にそった新しい九州説といえます。中国の東北地区にいた扶余(ふよ)系の騎馬民族が南下して、一部が高句麗を建国、一部はさらに南下して朝鮮半島南部に「辰国(三韓)」を打ち立て、さらに他の一部が任那を支配した(崇神天皇)後、対馬、壱岐、筑紫に入り、5世紀初め頃、畿内の河内平野に東征した後、現地勢力と合流して大和朝廷(応神朝)を作った……というスケールが大きいロマンです。

 

 江川波夫氏の騎馬民族説は、韓国では「崇神天皇は倭人ではなく、れっきとした朝鮮人であり、古代日本を建国したのは我々、朝鮮人である」とする朝鮮人建国説が流布し、韓国ナショナリズムの鼓舞にも活用されました。

 その後、考古学的な発見が進むにつれ、崇神天皇時代に北九州に騎馬民族が在住した痕跡がないことが明確となりました。朝鮮の古代文献と照らしあわせても、4世紀後半に大和政権が朝鮮半島南部に進出して支配したことが明らかになり、江上説は崩れていきますが、いまだに江上説が史実と思い込んでいる方もおられるようです。

 

 騎馬民族説が一世を風靡した後、東京学派の坂本太郎(19011987年)氏や井上光貞(19171983年)氏が津田説を批判しながらも基本的な構図を継承していき、欠史八代説が定着しました。その根拠は①人間が100年以上も生きるはずがない、②第2代から第9代までの八代は、天皇系図にあたる帝記のみで、実際のできごとを記述する旧事が抜けている、の2点ですが、京都学派も同調していきます。

 

 現在の文献学会のリーダーのほとんどは欠史八代説主張者のお弟子さんや孫弟子さんにあたります。第2代から第9代の天皇の系図や登場する氏族の神々を祀る古社の歴史を丁寧に分析していけば、実在していたことは明白なのですが、欠史八代説が足かせとなって前進ができない状況、私から見ると「論語読みの論語知らず」ならぬ「記紀読みの記紀知らず」の状況におちいっています。

            

 

1章 大和の纒向(まきむく)と箸墓

4.欠史八代説という誤りに沿った現在の大和説と九州説

 

 古代史ファンから歴史学者まで含めて、邪馬台国所在地論争は国民的な課題の1つですが、学会やマスコミはなぜ、欠史八代説が誤りであることにいまだに気がつかないのか、私は不思議でなりません。日本の空気は澱んでいて渦中にいると視界が悪く、かえって外側から見た方が鮮明に見えるのかもしれません。

 私の人生経験では、日本人はひのき舞台に上がると口数が少なくなり、外人にとっては真意が理解しづらいのですが、野次馬に回ると非常に個性的に多弁になる国民性のようです。邪馬台国所在地論争も十人十色が飛び交う野次馬論争にはまりこんでいる感がありますが、大和説も九州説、他の説もほとんどが欠史八代説にもとずいた推測ですので、糸玉はますますこんがらがっていきます。

 

(邪馬台国大和説)

 大和説は、主に2つの見解に分かれます。

 1つは、邪馬台国は大和盆地で自然発生的に誕生したとする見解で、200年代はヒミコ(200年頃~247年頃まで)―トヨ(248年頃から)―崇神天皇(270年頃から)の3代となる図式です。

 新しい説は、大和の埴輪の起源は吉備で誕生した特殊壷・特殊器台にあることが1980年代に考古学的に実証されてから登場したものです。「180年代頃の倭国大乱の後、筑紫、吉備、播磨、讃岐などの西日本の勢力が大和盆地に入り、連合新政府として邪馬台国(大和)を建設し、ヒミコを共立して纒向が王都になった」とする考え方で、現在の大和説の主流になりつつあります。

 

 するとヒミコとトヨの両親や兄弟も大和に実在していたことになります。ヒミコないしトヨは孝霊天皇の王女ヤマト‐トトヒ-モモソヒメである、とする説も古くからありますが、それを史実とするなら、欠史八代に含まれる孝霊天皇は実在したことになります。また女王が2代続いた後、なぜ男王の崇神天皇が後を継いだのか、の理由を説明する必要があります。

 同様に崇神天皇が実在したとするなら、父も祖父も実在したはずです。崇神朝時代に反乱を起こした叔父のタケハニヤスビコ、東国征服の将軍といなった叔父のオオビコ親子(阿部氏の祖先)も実在したはずです。

 ヒミコ―トヨがどのように崇神天皇につながっていくか、が大和説の課題と言えます。

 

(邪馬台国九州説)

 現在の九州説の大きな特徴は、大和で誕生した布留(ふる)式土器の発生年代を、大和説では3世紀(200年代)後半としているのに対し、4世紀(300年代)半ば頃としていることです。両説には50100年の開きがあり、同じ基盤、同じ認識に立って論争していないことになります。さらに200年代に大和に入った吉備の特殊壷・特殊器台の重要性を考慮に入れていません。

 九州説は、応神天皇が5世紀初め頃に北九州から河内に入った、とする江上波夫・騎馬民族説の延長線上にあるようです。布留式土器は、箸墓などの定型巨大前方後円墳、特殊壷・特殊器台第3期の宮山形、都月形埴輪、円筒埴輪とほぼ同時期の発生と見られていますから、九州説では箸墓の建造は3世紀後半ではなく、4世紀の350年頃になります。

 

 また神武天皇東征伝説にそって、ヒミコ―トヨの九州邪馬台国が崇神天皇の時代に大和に東遷した、あるいは、トヨの時代に東遷した、という説もあります。この場合、神武天皇(初代)=崇神天皇(10代)となります。

 

 状況的に九州説はますます不利になっています。

庄内式など大和の土器が3世紀後半から九州東部や北部に出現しますが、同じ頃、九州の土器が大和盆地に大量に流入した痕跡はありません。

宮崎県の西都原(さいとばる)古墳群の初期前方後円墳も300年以前と、かなり早い時期に大和から伝来しています。東遷により西都原の前方後円墳が大和に伝わったと主張される方もおりますが、すでに3世紀前半に大和で前方後円墳の祖形が登場していますので根源地は大和で誤りはありません。

日本書紀、豊後国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記の記述を追っていくと、崇神天皇時代の280年代には九州南部をのぞく東部、北部、西部はすでに大和政権の支配下に入っているようです。

 

 今や九州説はやけっぱちになっているようにも感じます。やけっぱちの代表格は安本美典氏です。安本氏の伝家の宝刀はコンピュータを駆使した数理歴史学にあるようですが、数値で人を煙に巻いておられるだけで、1970年代までは通用したであろう説を録音テープでがなりたてているにすぎません。良心的な研究者でおられるなら、たとえば鳥取県の青谷上寺地遺跡など、全国の鉄器の新しい発見や出土に応じて、定期的に綿密にデータを更新していかれるはずです。

 

 それでも邪馬台国は九州と主張されるなら、九州島内の問題で、日本古代史全体の動向には大きな影響を与えない地方史の話となります。

                

 

1章 大和の纒向(まきむく)と箸墓

5.3世紀初め頃の吉備勢力の大和入り説は誤り

 

 邪馬台国大和説は180年代前後の倭国大乱の後、吉備勢力に筑紫、讃岐、播磨勢力等も加わって大和に入り、纒向を首都とする邪馬台国を建国し、ヒミコを女王に共立した……とする説が有力になっています。

 

 この説の筆頭格である 寺沢薫説の一部を引用させていただきます。

     (日本の歴史02 「王権誕生」 寺沢薫。200012月初版。講談社)

「倭国乱」の実態とは、それまでのイト(伊都)国の一極的な均衡が崩れ、イト国を盟主とすることに同調しないクニ・国がイト倭国内にも出始め、さらにイト倭国に替わって新しい倭国の枠組みを作り出そう、という瀬戸内海以東の国々が牽制しあっている状況を示しているのだと思う。(P,235

時まさに三世紀初め、イト倭国の権威が失速するなか、列島諸国はイト国にかわる新たな外的国家=倭国の枠組みと盟主を模索していた。(P,248

もはや、一部族的国家が権威と力で他を圧し、倭国を新生させることはできない情況にあった。「倭国乱」と書かれたこの八方塞がりの情況を打破すべく、「筑、備、播、讃」や出雲、近畿地方のどこか一つの勢力ではない、これらの合意のもとに、まったく新しい倭国として、その権力中枢が「ヤマト」に建設された。(P.249

 

 寺沢説への疑問は2点あります。

 1つは、連合政権はなぜ首都として大和盆地の纒向を選んだのか。日本海にもにらみが利く淀川水系の山城(京都盆地)の方が首都としてより適しているのではないか。

 2点目は、吉備主導の連合政権「邪馬台国」が3世紀初めに成立したとするなら、吉備の特殊壷・特殊器台文化も第1期の立坂形から大和に流入しているはずです。しかし大和の巨大前方後円墳から出土した特殊器台は第3期の宮山形からです。宮山形も立坂形と同様に3世紀初めに登場したのでしょうか。

 

(特殊壷・特殊器台の3区分と製作地)

 弥生時代後期後半に吉備で誕生した特殊壷・特殊器台の文化が大和に入り、埴輪の源になった、という発見は、日本古代史を塗り替えた画期的な大発見です

 その功績者は近藤義郎氏です。1970年、岡山大学の教授だった近藤氏は古代吉備の歴史を丹念に掘り下げておられた黒住秀雄氏の案内で足守川に近い片岡山にある楯築遺跡を訪れました。楯築遺跡には大正時代まで楯築神社があり、ご本尊の亀石(弧帯紋石)は高さ約5メートルの巨石を彫りくぼめて造られた祠(ほこら)の中に窮屈そうに鎮座していました。その亀石を見て近藤教授はうめきました。亀石には、大和の初期の埴輪に見られる弧帯紋が謎の人物を封じ込むように彫られていました。周囲を見回すと、どうやら弥生時代の墳丘墓のようでした。

 

 楯築遺跡の発掘調査は1976年から1989年の第7次まで実施され、大和の埴輪の起源は吉備で誕生した特殊壷・特殊器台にあることが実証されていきます。

     注:詳細は「吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓」 (福本明。20072月。新泉社)等をご参照ください。

 

 近藤氏を始めとする研究者の熱意により、特殊器台は立坂形、向木見(むこうぎみ)形、宮山形の3期に分類されていきます。楯築遺跡から出土した特殊器台は第1段階の立坂形の中でも初期に造られたものでした。

 楯築弥生墳丘墓は何年頃に築かれたのでしょうか。この点について、近藤氏は非常に慎重で、弥生後期後半、強いて年代をあげるなら、200年~250年頃としました。この説にそって、薬師寺慎一氏は楯築弥生墳丘墓は「ヒミコの墓」と暗示させるような説を提示されました。(「楯築遺跡と卑弥呼の鬼道」 薬師寺慎一。1995年。吉備人出版)

 しかし楯築遺跡とほぼ同じ頃に作られ、吉備から出雲に運ばれたと見られる特殊壷・特殊器台が出雲市の西谷墳丘墓二号と三号の弥生墳丘墓から出土しました。両墓は出土した他の土器等の分析から200年頃に築かれたことがほぼ間違いありませんから、楯築弥生墳丘墓も200年前後に築かれたと考えるのが妥当のようです。

 

 楯築遺跡から北西に約700メートル離れた鯉喰神社弥生墳丘墓から発見された特殊器台は第2期の向木見形で、さらに弧帯紋石の破片も発見されていることから、楯築遺跡に埋葬された王さまを継いだ後継者の墓と推察されており、私の「ヒミコの墓説」の根拠の1つとなっています。

 

 問題は第3期の宮山形です。総社市の宮山古墳群から棺として使用された状態で発見されましたが、宮山形の発見は吉備では宮山古墳群の1件のみです。ところが驚くことに宮山形は遠く離れた大和盆地では、箸墓、中山大塚古墳、西殿塚古墳、東殿塚古墳、葛本弁天塚古墳などから続々と発見されていきます。当初は宮山形も吉備で製作されたものと考えられていましたが、どうやら大和で製作されたようです。それが3世紀の何年頃なのかを追っていくと、3世紀初め頃の吉備勢力の大和入り説」は誤りであることが明らかになっていきます。

   :注目すべき点は、大和の水軍を率いたアマツヒコネ(天津彦根族)と崇神天皇初期に反乱を起こしたタケハニヤスビコ(武埴

       彦。崇神天皇の腹違いの叔父)の拠点であった、古代の大和川河口に近い八尾市でも特殊器台が発見されていることです。)

             

 

1章 大和の纒向(まきむく)と箸墓

6.纒向の東海、阿波、吉備文化

 

 200年初めに吉備を主体とした西日本勢力が大和に入り、邪馬台国を建国し、ヒミコを擁立した」説の根拠は、吉備で生まれた特殊壷・特殊器台が大和に流入したことに加えて、纒向や周辺から出土する3世紀中頃かそれ以前の土器のうち、畿内以外の地方(南関東から南九州)からの土器類が全体の1530%を占めるようになることです。量的に多いのは、瀬戸内海中・東部地域、山陰・北陸、伊勢湾地域となっています。

 

 巻向は葛(狗奴)国第7代孝霊天皇(在位推定215年~239年)が開発した商業副都心と推定する私から見ると、畿内以外の地方の土器類が1530%を占めることは、交易都市ですからごく当たり前のことです(第12.参照)。 200年初めに吉備を主体とした西日本勢力が大和に入ったことが史実とするなら、吉備、讃岐、播磨、筑紫など西日本の土器類は50%以上を占めるのが普通ではないでしょうか。

 

(3世紀前半は東海と阿波の文化が流入)

 吉備を主体とした西日本勢力の大和入り説にそって、纒向のホケノ山古墳など早期の前方後円墳は、吉備の楯築弥生墳丘墓→兵庫県御津町の綾部山39号墳→ホケノ山古墳と、吉備→西播磨→纒向の流れで誕生した……とする説があります。

 第12.で触れましたように、私の葛(狗奴)国説では

5代孝昭天皇(在位推定170年代~190年代)に伊勢、美濃、尾張の東海地方を支配下に治めた、

6代孝安天皇(在位推定195215年)に纒向が市場として自然発生し、庄内式土器が誕生する、

7代孝霊天皇(在位推定215239年)の時代に阿波から工人が徴発され、大和川の治水工事と同時に纒向が商業副都心として開発された、

と考えています。

 

 纒向が発展した時期に、ホケノ山古墳が登場します。ホケノ山古墳の特色は、阿讃(阿波と讃岐)地方の弥生墳丘墓が源(みなもと)と実証されている積石木槨技法(墓壙の側面に石を積んで石囲いした後、内部に木槨を組み立てる)を採用していることにあります。同古墳では、積石の中から伊勢の中部地域で作られた二重口縁壷も見つかっています。 

 徳島県鳴門市の大麻山東麓にある萩原1号墳(3世紀前半)は円丘の前部に帯状の突出部があり、ホケノ山古墳との類似性が指摘されてきましたが、2007年春、近くにある萩原2号墳の発掘結果が発表され、成立年代は2世紀末から3世紀初めであることが明らかになりました。これにより、大和の前方後円墳は「阿波起源説」が有力となりました。

萩原2号墳:成立は200年前後。円丘の径は20メートル、突出部は5.2メートル

萩原1号墳:成立は3世紀前半。 円丘の径は18メートルで突出部も伴う

ホケノ山古墳:成立は226250年頃。全長約80メートルの前方後円墳

 

 「庄内式(3世紀中ごろ)になると、伊勢湾沿岸以東の土器が大量に持ち運ばれ、纒向周辺でも作られるようになる」(寺沢薫 「王権の誕生」P.284)など、数多くの東海地方の人たちが纒向周辺に居住していたようです。

 以上のことから、阿波の工人が石積み等の技術を指導し、伊勢や東海地方から徴発された下級労働者や農民が作業を行いながら、ホケノ山古墳などの早期前方後円墳が造られていく情景を私は思い描いています。

 

3世紀後半は吉備の影響)

 吉備文化の大和への流入は東海地方、阿波よりも遅く、3世紀後半になるようです。具体的にはいつ頃からどのような状況で流入したのでしょうか。 

        

 

1章 大和の纒向(まきむく)と箸墓

7.大和のビッグバン(大爆発)は吉備を征服した266年以降

 

 纒向周辺での明らかな吉備の影響は特殊壷・特殊器台第3段階にあたる宮山形の出現にあります。それ以前の大きな影響は見当たりません。

 宮山形の特殊器台は、規格化された巨大前方後円墳、都月形土器、円筒埴輪、布留式土器の登場と同時期に出現しています。吉備と出雲の影響を受けている布留式土器の誕生は270年頃とされています。中国の銅鏡をコピーする和製の倣製鏡もこの頃から大量に作られだしたのではないか、と推量します。

 

 纒向周辺の前方後円墳は、ホケノ山古墳(全長約80メートル)、石塚古墳(同約96メートル)、矢塚古墳(同96メートル)から、中山大塚古墳(全長132メートル、後円部73メートル、高さ10メートル)、箸墓古墳(全長278メートル、高さ30メートル)へと巨大化していき、宮山形が出土するのは中山大塚古墳からです。

(但し石塚古墳の環濠から弧帯紋の円盤板が出土しています) 

 

 大和が強大な力を獲得し、前方後円墳の築造に何千人、延べ何万人の農民等を畿内等から徴発できるようになった、画期的な大変貌です。まさに大和のビッグバン(大爆発)と言えます。宮山形特殊壷・特殊器台、都月形埴輪、円筒埴輪は大規模な工房で一緒に造られたのでしょう。斉一(せいいつ)性と規格性が強い布留式土器も、統一された指揮の下に作られたものでしょう。

 

(大和のビッグバンは何年頃か)

 それでは大和のビッグバンは3世紀後半の何年ごろに発生したのでしょうか。布留式土器の誕生は270年頃とされていますから、270年代がビッグバンの始まりと考えるのが妥当でしょう。

 ところが近年、巨大前方後円墳や布留式土器の発生を20年ほど早めて、250年から260年頃と推定する傾向が強まっています。これなら、ヒミコが他界した247年か248年に接近し、箸墓の主はヒミコだった、とする説が有力になっていきます。

 

 そこで、もう一度、魏志倭人伝をお読みください。

―245年(正始6年)、魏の第3代皇帝の少帝は詔書を発して、倭の難升米(なしめ)に黄色の軍旗を賜る。

―247年(正始8年)、ヒミコは倭の載斯烏越(さいしうえつ)等を帯方郡に派遣して、狗奴国との戦闘状況を説明した。帯方郡の太守は張政らを倭国に派遣して、245年に少帝が賜った詔書と軍旗を難升米に与え、檄文を作って邪馬台国と狗奴国を停戦させた。

 ヒミコが他界し、大きな塚(長さ約144メートル)が築造され、葬儀で奴婢100人あまりが殉死した。男王が即位したが、国内はまとまらず争乱となって1000人あまりが死亡した。そこでヒミコの一族のトヨ(壱与。イヨとも読む)という13歳の女子を女王に即位させると、国中が安定した。張政は檄文でトヨを励ました。トヨは倭の大夫ら20人をつけて、張政らを帯方郡に見送った。

 

 魏志倭人伝を読みますと、ヒミコの晩年の邪馬台国はゆっくりと下降線をたどっており、とてもビッグバンを興す状況ではなかったことが分かります。狗奴国との抗争は帯方郡に支援の派遣を要請するほど切迫していました、国家予算は狗奴国からの攻撃を防御するため、軍事費に大半をつぎ込む必要がありました。こうした状況下で、巨大な前方後円墳を造営する財政的な余裕があったでしょうか。戦争が逼迫している最中に延べ何万人もの農民を徴発することができたでしょうか。これは歴史学や考古学の問題というより、一般常識の問題です。

 トヨが女王に就任した248年以降も、狗奴国との抗争はくすぶり続けていますから、とてもビッグバンを興す余裕はなかったはずです。

 

(ビッグバンは大和が吉備を征服した266年以降)

 266年にトヨとおぼしき倭の女王が魏に代わって新しく興った晋に朝貢します。

(注:日本書紀 神功皇后66年 「晋の起居の注によると、(晋の)武帝の泰初2年(266年)10月に倭の女王が貢献した) 

 

 私は266年かその数年内に、大和狗奴国はついに吉備邪馬台国の中枢部を征服し、吉備邪馬台国は滅亡した、と考えています。帯方郡から派遣された温羅(うら)や残党はゲリラとなって抵抗しますが、次第に大和軍におさえこまれていきます。

 大和は吉備邪馬台国圏や出雲圏から工人を大和に徴発するなど、征服した地方の文化を取り入れていきながら、270年代にビッグバンが始まります。

 

(大和のビッグバンは16世紀のフランス・ルネッサンスの始まりに似ている)

 英仏100年戦争(13381453年)が終わり、ようやく国内が平穏となった後、フランスのシャルル8世(治世14831498年)は1494年にアルプスを越えてイタリアに入り、一挙にナポリまで南下してイタリア戦争(14941544年)が始まります。

 

 シャルル8世がフィレンツェなどイタリアの都市国家で目撃したものは、イタリア・ルネッサンスの栄華でした。シャルル8世はイタリアの調度品、絵画などと一緒に画家や家具職人、石工などをフランスに連れて帰りました。

 ルイ12世(14981515年)、フランソワ1世(15151547年)もイタリアに遠征し、フランソワ1世が1516年に晩年のレオナルド・ダヴィンチをロワール地方のアンボワーズに招くなど、積極的にイタリア・ルネッサンスを取り入れてフランス・ルネッサンスが始まり、ヨーロッパの大国としてのフランスの歴史が始まります。

 

 大和は第9代開化天皇の急死により、若き崇神天皇が王位を継ぎます。最初の数年は天災や疾病に苦しみますが、三輪山にオオモノヌシを勧請した後、上昇機運に乗り、日本史上初めて東西日本の統一を成し遂げます。この時期こそ、ビッグバンにふさわしい状況です。それは270年代から300年頃まで、と私は推定しています。

 

 

1章 大和の纒向(まきむく)と箸墓

8.箸墓は吉備邪馬台国の最後の女王トヨの墓

 

 昨年(2009年)5月、国立歴史民族博物館が、放射性炭素年代測定法により、箸墓古墳の築造年代を240260年頃とする研究成果を発表されました。これで箸墓はヒミコの墓の蓋然性が強まり、同年11月の纒向・ヒミコ王宮説へと続きます。

 

(炭素年代測定法と放射性炭素年代測定法) 

 年輪年代法は気候の変化で成長が異なる年輪から年代を測定する技術で、世界基準が確立しています。しかし伐採した木はまだ湿っていますから、歪み等をなくすため、数年間、寝かせておく必要があります。このため、伐採された年と、実際に使用された年とでは、少なくとも数年前後の開きを考慮する必要がありますし、再利用された場合もあります。

 炭素年代測定法はAMS(加速機質量分析計)を使って炭素14を測定するものですが、問題はまだ世界基準が確立しておらず、また公害など後代の自然環境の変化に影響を受けている場合もありえます。したがって測定器で「240260年の結果が出た」から科学的に実証された、と錦の旗を振りかざすのは時期尚早です。前稿(第1章7.)で触れたように、専門特化も重要ですが、同時に古代日本だけでなく、人間社会に対する広角的な常識の確認も必要です。

 

(トヨとヤマト‐トトヒ-モモソヒメ)

 明治時代からヤマト‐トトヒモモソヒメはヒミコである、あるいはトヨであると指摘する声があります。箸墓は247年頃に亡くなったヒミコの墓ではないとすると、次はヒミコを継いだトヨも候補に上がります。トトヒ-モモソヒメは第7代孝霊天皇の后ハエイロネの長女で、大吉備津彦(イサセリビコ)の同腹の姉にあたります。

 

 不思議なことにヤマト‐トトヒ-モモソヒメに関する伝説は讃岐(香川県)に根強く残っています。

 一説は、弟の吉備津彦兄弟の吉備征服を鼓舞するために讃岐に乗り込んだ、という巴御前を彷彿させる武勇伝です。

 

 つ目の説は、孝霊天皇が王宮を構えた黒田に生まれたモモソヒメは幼い頃から聡明で、わずか7歳で大和盆地を出発して香川県東部の東かがわ市引田の安堵の浦に到着、水主(みずし)の里に定住して水路を開き、里人に米作りを教えた。成人した後、西に向かって高松市の奥の船岡山に鎮座された、とする伝承です。

  (注:「邪馬台国吉備説 神話編」P.409~P.412参照)

 いずれにせよ、トトヒ-モモソヒメは讃岐の人々から非常に慕われた人物のようで、東かがわ市の水主神社、高松市の田村神社(讃岐一の宮)と船山神社などで祀られており、船山神社の近くに百相(ももそ)の地名もあります。

 

 まだ確証はつかんでおりませんので、ここからは私のおとぎ話と思われても構いませんが、箸墓の被葬者は吉備邪馬台国の滅亡後、人質として大和入りした邪馬台国最後の女王トヨではないか、築造年は281年頃ではないかと考えています。

 

(小説版「箸墓物語」  注:「箸墓と日本国誕生物語――女王トヨと崇神天皇」に改題

 2009年、「邪馬台国吉備説 神話編」を執筆しながら湧き上がってきたイマジネーションをまとめて、邪馬台国吉備説の第3弾として小説「箸墓物語」を書き上げました。

 

 あらすじの一部を紹介します。

 

 大和の首都攻撃で、吉備津から生まれ故郷の讃岐の百相に避難したトヨは、讃岐も大和軍に占拠された後、人質として大和入りすることに同意します。大和では讃岐の百相から来たトトヒ-モモソヒメと呼ばれ、大吉備津彦の姉として遇されました。

 第9代開化天皇はトヨを后にするつもりでしたが、伝染病にかかって急死します。20歳前後の若さで王位を継いだ崇神天皇は当初はトヨを無視していましたが、次第に共に王者としての資質を認め合うようになります。年上のトヨとプラトニックラブの関係となりながら、トヨの助言を支えに、崇神天皇は東西日本の統一という偉業をなしとげます。

 しかし次第に、崇神天皇の正后や外戚であるオオビコや尾張氏がトヨに対する警戒心を強め、数々の嫌がらせ、いじめをしていきます。トヨは女王としての威信から自害の道を選び、花を散らせました。その死をいたんだ崇神天皇はトヨが好んだ纒向の大市に壮大な墓の造営を命じました。

 

 

2章 吉備邪馬台国神話と大和建国神話

1.神社史も加えると謎の3世紀が立体的に見えてきた

 

 専門家や一般人を問わず、大半の方々があいもかわらず「欠史八代説」の密林にはまりこんで右往左往されている間に、私は「邪馬台国吉備、狗奴国大和」説で、ずんずん先に進んでいきました。

 文献、考古学的な発見に加えて、第3の要素として古代から存在するであろう神社(平安時代に編纂された延喜式に記載されている古社)の歴史と祀られている神々を丁寧に追っていきました。すると大和が吉備邪馬台国を制圧した後に東西日本を統一していく過程、複雑な日本神話のからくみが成立していく過程を解読することができました。それが、なぜ私が自信をもって「欠史八代説は誤り」、「邪馬台国大和説と九州説も誤り」と言い切っているのか、の理由です。

 

 日本神話は記紀の記述にもとずいて、大和の「天つ神」対出雲の「国つ神」の対立で理解されてきましたが、この構図は4世紀前半の第11代垂仁天皇の頃に創作されたもので、実態は吉備邪馬台国神話圏(筑紫、出雲、吉備、讃岐、阿波を含む広域圏)を土台に、その上に大和建国神話がかぶさって成立したことが分かってきました。

 

(三輪山をめぐる神)

 きっかけは、纒向を見下ろす聖山、三輪山をめぐるアマテラス、ヤマト‐オオクニタマ、オオモノヌシの神でした。

 

 父の開化天皇の後を継いだ第10代崇神天皇は、王宮を春日(奈良市)から三輪山東麓の金屋に遷し、宮中にアマテラスとヤマト‐オオクニタマの神を祀りました。ところが2神の折り合いが悪く、騒動が続きます。たまりかねた崇神天皇は、2神を宮中から離すことを決め、アマテラスは三輪山北麓の笠縫邑(檜原神社周辺)、オオクニタマを大和(おおやまと)神社周辺に祀ります。しかし天災、疾病はいっこうに止みません。

 この時、崇神天皇の大叔母(祖父孝安天皇の腹違いの姉妹)ヤマト‐トトヒ-モモソヒメに神がかりがあり、三輪山にオオモノヌシを招請する託宣が下りました。すると次第に大和は上昇気流に乗っていきます。

              ( 「箸墓と日本国誕生物語――女王トヨと崇神天皇」 【その五】三. 参照)

 

(オオモノヌシの系図をたどっていくと)

 邪馬台国吉備説第1部「邪馬台国 岡山・吉備説から見る 古代日本の成立」を書き上げる頃から、ヤマト‐トトヒ-モモソヒメが吉備邪馬台国の最後の女王トヨとするなら、オオモノヌシは吉備の神さまではないだろうか、と想定するようになりました。

 そこでオオモノヌシから日本国土の生みの親であるイザナギ・イザナミまで系譜を追い、また系譜に含まれない他の神々も追っていきました。

 

 神話の世界は、往々にして摩訶不思議な空想の世界に入り込んでしまう危険性があります。この点を注意しながら、神々の根源地と古社の分布を追っていきました。すると驚くことに、縄文時代からとは言い切れませんが、古代からの日本の歴史、氏族の歴史が古社に残っていました。古代遺跡と古社は連動しており、古代日本の世界がより鮮明に具体的に立体的に見えてきました。日本の神話と神社史がこれほど面白く、楽しいものとは予想もしませんでした。

 幸運なことは、東西日本を統一した大和政権は敵対した神や土着神を抹殺せずに残しておいてくれたことです。大和系の氏族や神々だけでなく、大和系ではない氏族である中臣氏、忌部氏。出雲族、宗像族や土着の氏族の歴史と足跡が古社に残っていました。

 

21世紀は多神教、多文化の見直しの世紀)

 1492年にコロンブスがアメリカ大陸を発見した15世紀末頃から、イギリス、フランス、ドイツなどの西ヨーロッパ文化は曙を迎え、イスラム圏に代わって世界の覇者になっていき、一神教であるキリスト教を前提とした理念が世界文化の主導権を握りました。鎖国から目をさました日本の知識人界は、欧米に反発をしながらも、根底では欧米コンプレックスを持ち続けています。

 ところがその西ヨーロッパは変貌しつつあります。代表例は2006年にオープンしたパリのケイ・ブランレイ美術館です。この美術館は西欧社会が「野蛮」として踏み潰してきた原始美術をテーマにしていますが、オープンしてから予想をはるかに上回る入場者を記録しています。行きづまった現代社会を打ち破って、次の時代の文化を創造していく上で、これまで軽視されてきた原始美術から何かのヒントが得られることに西洋人もようやく気がついてきました。この視点から見ると、私たちの先祖は貴重な宝物を残してきてくれました。

 

 どういう形になるかは分かりませんが、日本神話、ギリシャ神話、ケルト神話、ゲルマン神話、インカ神話だけでなくキリスト教やイスラム教の下に隠されてきた神々や聖人など、世界の神々・聖人との交流が今後の私の仕事の1つになっていく気持がします。

 

 

2章 吉備邪馬台国神話と大和建国神話

2.弥生時代から古墳時代の始まりまでの自説

 

 日本の神話の構成分析を紹介する前に、読者の皆さまの頭の整理をしていただくために、まず弥生時代から古墳時代の始まりまでの「4段階」に対しての自説を紹介します。邪馬台国大和説や九州説にこだわっておられる方々は、頭の中をリセットされ初期化してください。

 日本神話は一見、非常に複雑な構成で、迷路や神秘の世界にはまり込みやすくなっていますが、

自説の4段階説、呉越族→倭族(九州北部)→中国・四国地方→大和狗奴(葛)国の流れを理解していくと、意外にすんなりと解き明かすことができます。

 

(弥生時代の始まりから古墳時代前期までの4段階)

 自説では弥生時代の本格的な始まりは中国の戦国時代、前473年に滅亡した呉と前333年に滅亡した越の難民が水稲文化をたずさえて西日本に漂着したことにあります。日本列島の中心部は九州北部から中国・四国地方、西日本の東端の大和へと東に向かって移行し、3世紀末に大和が史上初めて東西日本統一を成し遂げた……という筋書きです。

(1)弥生前期 :中国の揚子江周辺の呉越ボートピープルの渡来と水稲文化

(2)弥生中期 :朝鮮半島南部から九州北部で倭族が隆盛

(3)弥生後期 :吉備讃岐を中心とした中国・四国地方が隆盛

(4)弥生終末期・古墳前期 :西日本の東端の大和の勃興と東西日本の統一

 

 従来の説と自説が根本的に異なっている点は (3) の弥生後期に対する見解です。通説では神武天皇の九州から大和への東遷伝説の影響もあり、弥生後期の中心も九州北部だった、という固定観念に縛られています。九州と大和の間にある中国・四国地方は無視されるか、大和説ではせいぜい邪馬台国への中継地である投馬国が存在した地域としてしか、評価されてきませんでした。しかし1980年代以降の中国・四国地方での考古学的な発見はこの固定概念をくつがえしつつあり、日本の神話の流れもこの4段階の流れに沿っています。

 

(1)弥生前期 :中国の揚子江周辺の呉越ボートピープルの渡来と水稲文化

 1万年続いた縄文時代の後、弥生時代がいつ頃から始まったかは、まだ確定していません。1980年代頃までは前300年頃からと想定されていましたが、2003年に国立歴史民俗博物館は約500年早い前800年頃からと発表しました。

 私は縄文時代から弥生社会への移行を決定づけたのは前5世紀から前4世紀の呉と越のボートピープルだったと考えています。彼らは一挙に西日本に押し寄せたのではなく、村落単位で船に乗り、東に向けて沖合に出て対馬暖流に乗って、朝鮮半島南部や西日本に逃亡してきました。水稲文化、青銅と鉄の金属、鶏と豚の家畜を伝えましたが、神話的には呉族が九州北部にムスビの神々、越族が瀬戸内海東端の淡路島にイザナギ・イザナミ神話をもたらしたたようです。

 

(2)弥生中期 :朝鮮半島南部から九州北部で倭族が隆盛

 呉のボートピープルは次第に弁韓の伽邪(かや)地方、対馬、壱岐、九州北部を結ぶ地域で「倭族」へ成長していきます。

紀元前108年に前漢の武帝が朝鮮半島を植民地したことから、漢文化の中心部と九州北部が線でつながり、前漢の先端文化が流入して、九州北部は隆盛期を迎えました。

 古代朝鮮史で忘れてはならないことは、辰韓地方から勃興した新羅が統一王国を達成したのは飛鳥時代の676年と日本よりも約400年遅いこと、独自の文字であるハングル文字が作られたのも1443年と遅いことで、古代では北部は高句麗、西部は馬韓、南部は弁韓、東部は辰韓の4つの地域に分かれており、それぞれ微妙に文化が異なっていたことです。

 倭族は伽邪地方と九州北部を行き来して、日本列島に中国や朝鮮半島の物産と文化をもたらし、九州北部の伊都国と奴国が日本列島の中心地となります。タカミムスビ、カミムスビ、コトムスビ(コゴトムスヒ)などの「ムスビ」の神々の起源は倭族にあるようです。

 

(3)弥生後期 :吉備讃岐を中心とした中国・四国地方が隆盛

 弥生中期後半から、日本列島の重心は九州北部から吉備、讃岐、出雲、阿波を中心とした中国・四国地方に移行していきます。理由は水田と畑作の拡大です。九州北部は山地が多く、水田に適した平地が少なく、人口過剰になったことにより、倭族の商人や工人の一部が先進の鉄製の農機具や土木機材を携えて、中国・四国地方に移住していきます。この結果、水稲や麻などの畑作に適した中国・四国地方の生産力と経済力が凌駕していきました。

 

 中国・四国地方に勃興した諸国の中で、吉備讃岐を地盤とした邪馬台国が勢力を強めて瀬戸内海の覇者となっていきます。奴国ないし伊都国が後漢の光武帝から金印を授与された57年の後、吉備邪馬台国は九州東部と北部を傘下におさめ、奴国は衰退、伊都国は交易国家として存続します。日本海側は出雲王国、太平洋側は阿波王国が勢力を伸ばしていきます。

 吉備邪馬台国は2世紀後半の楯築王の時代に絶頂期を迎えますが、楯築王の死後、出雲王国と阿波王国も巻き込んだ王位継承問題が発生し、倭国大乱となりますが、女王ヒミコの共立で騒動はおさまります。神話的には太陽神オオヒルメ、嵐神スサノオを核とした吉備神話が確立します。

 

(4)弥生終末期・古墳前期 :西日本の東端の大和の勃興と東西日本の統一

 吉備邪馬台国圏が後継者問題がこじれた倭国の大乱で混乱する中で、西日本の東端の山国にある狗奴(葛)国は伊勢、美濃、尾張の東海地方を手中にしたことをきっかけとして、次第に近畿、西日本、北陸、東国、最後に出雲を傘下におさめ、 3世紀末には、西は九州の熊本県、東は福島県南部までを統一しました。

 

 第10代崇神天皇を継いだ第11代垂仁天皇の時代、4世紀前半に吉備邪馬台国神話と大和建国神話を融合させた日本神話の原形が成立します。

 

 

2章 吉備邪馬台国神話と大和建国神話

3.日本神話の構成図

      ……日本神話は吉備邪馬台国神話と大和建国神話が融合されて成立した

 

 大和の三輪山に関わる3神、アマテラス、ヤマト‐オオクニタマ、オオモノヌシの系図を整理していくうちに、イザナギ・イザナミの系譜とアマテラスの系譜は系統が異なることに気がつきました。

 

 これまでの定説では、 古事記や日本書紀の記述に沿って「大和の天つ神」対「出雲の国つ神」の図式で考えられてきました。その先入観を持たずに、まず神々の系譜を把握し、登場する神々の根源地を探し、根源地からの拡がりや分布を分析した後、実際に現地を訪問して、周辺の地勢状況や古代遺跡と出土物との関わりを考察していくと、「大和の天つ神」対「出雲の国つ神」の構図は誤り、あるいはある時代の大和朝廷が創作した構図であるようです。

 

(イザナギ・イザナミの系譜)

 イザナギ・イザナミ神話の根源地は、古事記では筑紫(九州)であるかのような印象を与えますが、実際は瀬戸内海の東端の淡路島であるようです。カオス(混沌)の中からクニノトコタチなど神々が誕生し、最後に夫婦神イザナギ・イザナミが登場しますが、越族のボートピープルが海岸線の湿地帯にたどりついて、住居を建て村を築いていく情景が思い浮かびます。揚子江地域から漢族に追われて中国南部(百越)やインドシナに定着した越族にも類似した神話が言い伝えられているようです。

 

 次第に土着の縄文時代以来の神々も加えられていきながらイザナギ・イザナミは日本列島と貴神3神(太陽神オオヒルメ、月神ツキヨミ、嵐神スサノオ)など、自然の神々を生んでいきます。

 母イザナミの死を嘆いて泣いてばかりいたスサノオは「根の国」に行くことになり、いとまごいをしに姉オオヒルメが治める高天原に上ります。姉は弟が高天原を乗っ取りに来たと誤解し、オオヒルメとスサノオがウケイ(誓い)の対決をします。オオヒルメの首飾りから5男神、スサノオの剣から宗像女神が誕生します。

 

 増長したスサノオは高天原で狼藉をおかし、悲しんだオオヒルメは天の岩戸に閉じこもり、世界は真っ暗闇になります。オオヒルメを天の岩戸から引き戻す役割を果たした神々はアメノコヤネ、アメノフトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマオヤですが、根源地を探していくと吉備と讃岐を中心とした瀬戸内海中央部に位置しています。

 

 地上に降り立ったスサノオは、宗像3女神、イソタケル、ヤシマジヌミ―オオナムチ(后はイナダヒメ)、オオトシ(后はカミオオイチヒメ)、スセリヒメの5系統の子神をもうけますが、地理的な分布と根源地を追っていくと、イソタケルは朝鮮半島南部の伽邪地方、宗像3神は九州北部、 ヤシマジヌミ―オオナムチは吉備、出雲とその周辺、オオトシは播磨から東の近畿地方に流れており、三輪山3神の ヤマト‐オオクニタマはオオトシ系に属します。

 

 俯瞰すると、イザナギからスサノオ系譜の流れは、

呉越族(弥生前期)―倭族(弥生中期)―中国・四国地方(弥生後期) の流れと重なっています。

 

(アマテラスの系譜)

 アマテラス系譜は、アマテラスの孫ホノニニギの天下りから神武天皇までの系譜(日向神話)に、脇役として伊勢国のサルタヒコ、尾張国のアメノホアカリが登場します。主要舞台は九州の日向と伊勢、尾張の東海地方で、中国・四国地方は登場せず、イザナギ・イザナミ―オオヒルメ・スサノオ神話よりも単純な構成となっています。

 

 サルタヒコは縄文時代から鈴鹿山脈から伊勢湾で信仰された土着の神のようです。アメノホアカリを祀る尾張族は大和の南葛城地方の御所市の葛城山麓の森脇から笛吹付近が根源地とされていますが、神武天皇が狗奴(葛)国を建国した地域に当たります。第7章で触れるように、尾張族は垂仁天皇時代にアマテラスを伊勢に祀る際の鍵を握っています。

 

(イザナギ・イザナミ系譜とアマテラスの系譜の接合)

 これまでの定説をくつがえしますが、吉備・出雲系神話の太陽神オオヒルメと大和の祖神アマテラスは、大和の日本統一後に接合された、と考えています。古事記は「アマテラス」だけで「オオヒルメ」の言及がないため、伊勢で信奉されていた太陽信仰が大和の祖神にくっついたと解釈する説もありますが、日本書紀では本文で「オオヒルメ」あるいは「アマテラス」あるいは「アマテラス‐オオヒルメ」と記載しており、「オオヒルメ」と「アマテラス」は別々の神であったことを暗示しています。

 

 吉備出雲系神話の天の石戸で重要な役割を果たす5神が、ホノニニギが地上に降臨する際のお守り役として同道(五伴緒)しますが、大和に征服された吉備、讃岐、出雲の神々が大和に恭順して、大和政権のお守り役となったことを示しています。

 

               

(図表)吉備邪馬台国神話と大和建国神話の相関図

         (:「邪馬台国吉備説 神話編」P.174 参照

 

 

2章 吉備邪馬台国神話と大和建国神話

4.吉備邪馬台国神話

 

 吉備邪馬台国神話は本当に史実として存在したのか、と大半の方が半信半疑だろうと想像します。調べていくと、キーポイントは津山盆地にありました。標高約100mの津山盆地は近畿地方の播磨から伯耆(ほうき)、出雲に通じる中継地で、吉井川を通じて瀬戸内海と通じる水路も古代から発展していました。陸路と水路で瀬戸内海と日本海を結ぶ接点にあたります。縄文時代以来の土着の神話、弥生前期の越族がもたらした神話、弥生中期に倭族がもたらした神話の3つの要素が自家発酵する地理的な条件を備えています。

 

(イザナギ・イザナミ神話)

 淡路島周辺で弥生前期後半に成立したイザナギ・イザナミ神話は、 紀伊と阿波の吉野川流域にも伝わっているようです。イザナミの「根の国」の入り口は紀伊半島の熊野市の花の窟(いわや)、イザナギの「幽(かくり)の宮」は淡路島の伊弉諾神社です。

 

 イザナギ・イザナミ神話は水稲文化をたずさえて拡散していきます。東は近江(多賀大社)まで伝わりますが、イザナギ・イザナミ系譜はあまり発展していません。

 逆に西側では播磨を通じて津山盆地に入って発展しました。中国山地に銅が発見されたことから、津山盆地は銅剣や銅鐸製造で栄えていきます。そうした中で、イザナミの「根の国」は中国山地に多い、薄暗い鍾乳洞を連想させる「黄泉の国」に変わります。イザナミの死の原因となった火神ホノカグツチの首をイザナギが斬ると、中臣系の軍神タケミカヅチ(常陸の鹿島神宮)と剣神フツヌシ(下総の香取神宮)が加わりますが、銅を熱して銅剣を鋳造していく光景を連想させます。

 黄泉路の国のヨモツヒコメとイザナミから追われたイザナギはブドウ(えびかづら)の実を魔よけとします。イザナミ神話は東出雲と備後北部(比婆山)に伝わっていきます。

 

(天の岩戸神話)

 太陽神が住む高天原は縄文時代から中国山地のどこかに、あるいは複数の場所に存在していた可能性があります。候補地は美作の蒜山高原、美作と備前の境にある神ノ峰(こうのみね)、備後の帝釈峡周辺や大土山、安芸北部の大朝町(北広島町)などです。今後の課題の1つですが、太陽神が弱る冬至に太陽復活を祈る冬至祭が縄文時代から存在し、天の岩戸神話へと進化していった可能性もあります。

 これに瀬戸内海から入ってきた嵐神スサノオとの対立が生じます。ウケイ(誓約)によりアマテラスの玉飾りから5男神、スサノオの剣から宗形3女神が生まれます。5男神は大和系の神々ですが、後世にすりかえられた可能性があります。宗形3女神の根源地は九州北部の宗像大社と見なして問題はないでしょう。

 

 高天原は中国山地以外でも日本全国に候補地がありますが、天の石戸神話に登場する神々を分析していくと、吉備の中臣族と讃岐の忌部族を主体としてできあがった神話であることが歴然とします。

   (詳細は「邪馬台国吉備説 神話編」P.154~P.162を参照)

 

オモイカネ:ヤマト系だが、後世に添加された可能性が高い。

アメノコヤネ:中臣系。河内の枚岡神社

アメノフトダマ:忌部系。讃岐の大麻神社

イシコリドメ:美作の中山神社

タマオヤ:忌部系。防府の玉祖(たまおや)神社

アメノウズメ:伊勢の椿大神社別宮

 

 アメノコヤネとアメノウズメの根源地は吉備・讃岐ではありませんが、このにも大和の吉備征服、東西日本統一の過程が隠されています。 

 

(スサノオの子神たち)

 高天原を追われたスサノオが地上に下り立った場所は固定概念では出雲ですが、根源地は津山盆地から南に下った赤磐市で、出雲へはイザナミ神話と同様に伯耆と備後北部の2方向を経由して入ったようです。スサノオがヤマタノオロチを退治した剣を洗った「血洗いの滝」、スサノオの剣から生まれた女神を祀る「是里の宗形神社」、スサノオの剣を祀ったと日本書紀が伝える「石上布都魂神社」の赤磐市の3か所を是非とも訪れてみてください。古事記と日本書紀が編纂された奈良時代よりはるかな昔から存在していたことを実感できます。

 

 スサノオは5系統の子神を持ちますが、イナダヒメ系譜とカミオオイチヒメ系譜が発展します。 

宗像女神:九州北部を本拠地とする海人。 

オオナムチ系(后はイナダヒメ):吉備讃岐はオオモノヌシ、出雲はオオクニヌシ、伯耆・因幡と越はヤチホコ、西播磨はアシハラシコヲ。

オオトシ系(后はカミオオイチヒメ):近畿地方で系譜が拡がる。

イソタケル:朝鮮半島の伽邪地方の海人で、紀伊と出雲にも拡がる。

スセリヒメ:母神は不詳だが、出雲のオオクニヌシの正后。

 5系統を地理的に見ますと、伽邪地方―九州北部―瀬戸内海(安芸、吉備、伊予、近畿地方)の海上交易ルートに沿っていることが判然となります。日本海側もイソタケル、オオナムチ系とスセリヒメでつながっています。

 

 イザナギ・イザナミ、高天原、スサノオの3つの神話の根源地はいくらでも候補地がありますが、3つの神話を結ぶ糸と史跡がつながって所見できる地域は、日本の中で津山盆地(美作)から赤磐市(備前)にかけての地域のみです。吉備邪馬台国神話は実在したと私が確信している根拠の1つです。

 

                

2章 吉備邪馬台国神話と大和建国神話

5.分銅形土製品と吉備邪馬台国神話圏

 

 スサノオと子神たちの流れを神社の分布から追っていくうちに、弥生中期後半に吉備で発生し、後期前半まで続く分銅形土製品(ぶんどうがたどせいひん)の分布と重なっていることに気づきました。

 邪馬台国論争では、特殊壷・特殊器台に較べると分銅形土製品は、大和説と九州説では「見事」と言えるほど無視されてきましたが、邪馬台国吉備説では重要な要素となります。逆に大和説と九州説では分銅形土製品の重要性に気がつかなかったために、切り口を誤った論争が続いているということになります。分銅形土製品、弧帯紋、特殊壷・特殊器台の研究は、今後の古代史研究、邪馬台国論争の課題の1つになっていくでしょう。

 

 分銅型土製品は、2枚の銀杏(いちょう)の葉が上下対称にくっついたような形をしており、江戸時代に使われた分銅に似ていることから命名されました。しかし弥生時代にも分銅が存在したと勘違いしやすく、私も初めてこの言葉を耳にした時、勘違いしてしまいました。私は「銀杏形祈り土製品」と名づけたほうが適していると考えています。

 サイズは小型(5センチメートル前後)と大型(10センチメートル前後)の2つに大別できます。模様も人物の顔か紋様だけ、の2種理に分類されます。人物の顔はにっこり微笑んでいたり、眉を強調したものもあります。紋様はノコギリの歯状、刺突、渦巻き、線状、櫛目などがあります。岡山県の人々は眉の形や半円の文様をよく使い、鳥取県・兵庫県の人々は縁取りを好み、愛媛県・山口県の人々は文様よりも顔を表わすことが重要だったようで上下の形も四角形になっています。

 

 用途は祈りや祭祀用に使用されたことは確実ですが、住居跡から出土することが多いことから、先祖の悪霊を鎮めるか追い払うために使われた説、縄文時代の土偶や土版(どばん)と同じようなモノとする説、守り札説、仮面説などがあり、詳細は不明です。左右に穴がついていることが多いため、小型はペンダント風に首から吊るされ、大型は仮面として使用された、と推定されています。 

 

 分布の中心は岡山県南部ですが、これまでの総出土数は720点あまり、分布範囲は西は九州の奴国、東は大和の唐古・鍵遺跡と、九州北部から近畿地方の東端まで達しています。720点の割合は、岡山県が約43%、鳥取県が約16%(このうち青谷上寺地遺跡で全国最多の56点が出土)、兵庫県と広島県が各910%、島根県と愛媛県が各5%を占めています。この後に山口県、石川県、香川県、大阪府、京都府、徳島県、福岡県、奈良県と続きます。

 お互いの仲間意識や共通した宗教観があったことは間違いないようですが、私はもっと踏み込んでいきました。理由は、第24.で触れたスサノオと子神のオオナムチ系、オオトシ系、宗像系の3系の神々の拡がりと分銅形土製品の分布がほぼ一致していることに気づいたからです。神社史と考古学との流れが合致する好例です。忌部系が濃厚な香川県と徳島県の分布は意外に少ないため、忌部系は分銅形土製品の信仰とは縁が薄いようです。

 

 分銅形土製品は弥生後期前半を過ぎると消えていきますが、同じ頃、青銅製の銅鐸も吉備地方から消滅します。それに代わるように、弥生後期後半から吉備に弧帯紋、特殊壷・特殊器台が登場します。弧帯紋は出雲と阿波でも出土しており、特殊壷・特殊器台は出雲でも出土しています。

 中臣系と忌部系の神々が登場する高天原神話、瀬戸内海と日本海を結ぶスサノオ神話、分銅形土製品はほぼ西日本を覆っており、この共通文化圏を「吉備邪馬台国神話圏」と私は名づけています。その中心は吉備邪馬台国にありました

 

:分銅形土製品についての詳細は岡山県古代吉備文化財センターのホームページの「古代吉備を探る 2.」等をご参照ください)

 

 

2章 吉備邪馬台国神話と大和建国神話

6.弥生後期の中心軸は「出雲―吉備讃岐―阿波」

 

 弥生後期(1世紀後半から2世紀後半)に吉備邪馬台国を盟主とし、北九州から近畿地方まで共通した宗教観と神話を持つ大連邦「倭国」が存在し、弥生終末期(3世紀初め頃から270年頃まで)に西日本の東端で勃興した大和狗奴(葛)国が大連邦を打ち砕いていった、とするのが私の「邪馬台国吉備・狗奴国大和説」です。

 

 大連邦「倭国」をもう少しズームアップしていきますと、吉備讃岐を中心として、日本海の出雲、太平洋に面する阿波を結ぶ線が倭国の中心軸であったことが理解できます。吉備と同様に、出雲や阿波でも邪馬台国説が提唱されているのは、弥生後期の倭国の残影が残っているからでしょう。

 

(西日本中心軸の3王国)

 180年頃の倭国大乱の後、200年前後に吉備、出雲、阿波の3地域で大型弥生墳丘墓が登場します。同じ頃、九州北部や大和では大型の弥生墳丘墓は出現していません。3地区での出現が何を意味しているか、どのように読みこんでいくかが倭国と邪馬台国解読の分かれ道になります。

吉備―楯築弥生墳丘墓(倉敷市)

    :双方中円墳(全長約80メートル、円丘部径40メートル、突出部は各20メートル前後)。特殊壷・特殊器台が10個体出

     土。

出雲西谷号墳と西谷号墳(出雲市

    :四隅突出型墳丘墓。二号墳は墳丘主部が35メートル×24メートル。三号墳は同40メートル×30メートルで、吉備で製

     作された特殊壷・特殊器台10個体以上が出土。

阿波―萩原二号墳(鳴門市)

    :前方後円墓(円丘部径20メートル、突出部は5.2メートル)。大和の前方後円墳の祖形の可能性がある。 

 

 王家の象徴と考えられる弧帯紋は吉備だけでなく、出雲と阿波でも発見されており、日本海は出雲王国、瀬戸内海は吉備讃岐王国(邪馬台国)、太平洋は阿波王国と3つの海を3王国が住み分けしていた印象を与えます。神話の流れを見ますと、オオモノヌシの吉備・讃岐、オオクニヌシの出雲、忌部系アメノヒワシの阿波となりますが、オオクニヌシは国譲り、オオモノヌシは三輪山、阿波忌部は大和政権の初期の頃から祭祀を担っており、それぞれ何らかの形で大和との関わりがあります。

 

(出雲王国)

 出雲はスサノオ、大和に抵抗した国つ神の総本山という観念が固定していますが、出雲国風土記で、神々の流れを追っていきますと、島根半島国生みの神ヤツカミズオミズノと九州北部の倭族の神カミムスビの2神がスサノオより先に出雲の神として存在し(弥生中期前半)、そこに吉備から来た神スサノオがかぶさった(弥生中期後半)ようです。

 

 出雲国風土記に登場するスサノオの描写を拾っていくと東出雲では平和的なスサノオ、西出雲では戦闘的なスサノオと性格が異なり、スサノオ信仰が出雲に入ったルートは美作から東出雲ヘ、備後の三次盆地から西出雲へ、の2ルートを考えています。美作から東出雲のルートはイザナミ黄泉路神話と同じルートで平穏に入ったようです。これに対し、三次盆地ルートは軍事的、征服的な色彩が濃いようです。三次盆地で弥生中期後半に発祥した四隅突出型弥生墳丘墓が出雲と日本海地域で発展していくこともこれを裏づけます。

 東ルートと西ルートの吉備勢が、弥生中期後半に斐伊川下流で終結して西出雲国を征服した。荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡はその戦勝記念のような遺跡ではないか、と私は想定しています。

 オオクニヌシと四隅突出型弥生墳丘墓の分布の流れから見ますと、吉備勢が統合した出雲国は強力となり、出雲連邦は日本海のほぼ全域を支配し、影響力は内陸部の信濃と会津にまで及びます。

 

(忌部族の阿波王国)

 阿波は忌部族が支配していたことは誤りはありませんが、忌部系譜は明確ではありません。基本資料は平安時代初期の807年に斎部広成(いんべのひろなり)が編纂した「古語拾遺」ですが、中臣氏に対抗する意識が強く、かなりゆがめられ信憑性に欠ける点が短所です。

 

 アメノフトダマはタカミムスビの子神ですが、従者の5神が阿波(アメノヒワシ)、讃岐(タオキホオイ)、紀伊(ヒコサチ)、出雲玉造(クシアカルタマ)、筑紫・伊勢(アメノマヒトツ)の各忌部氏の祖となり、アメノフトダマの孫神アメノトミが阿波忌部を引き連れて房総半島の安房国を開拓します。 

 アメノフトダマの根源地は不明ですが、奴国とその周辺を根拠地とした倭族の工人系職業集団が信奉していた神と推定しています。忌部族は弥生中期に軍人ではなく、技術者として瀬戸内海と日本海に流れていった、と考えると辻褄が合います。阿波忌部の本拠地を流れる吉野川と同名の吉野川が吉備の吉井川の支流、紀伊の紀ノ川の上流にも存在していることが気になっています。

 阿波忌部は日本でも有数といえる吉野川の扇状地を中心に、水田に加えて、麻と楮(こうぞ。木綿ゆう)などの畑作が発展します。おまけに阿南市の若杉山などから水銀朱が産出し、強国となっていきます。 

 

(倭国大乱と弥生終末期)

 180年頃の倭国大乱には諸説がありますが、倭国の盟主である吉備邪馬台国の楯築王の死後の王位継承をめぐる内乱だと私は考えています。以下は私の推定です。

 

 楯築王には息子がおらず、あるいは後継者を固める前に急死したため、楯築王の姉か妹を母に持つ出雲の王が王位継承を主張し、これに吉備南部や讃岐、阿波勢が反発して内乱となります。

 約10年続いた倭国大乱は、王族のヒミコの女王即位で終結し、当時としては日本列島最大規模の楯築墳丘墓が築かれ、葬儀には各国の首領が集まり、ヒミコの就任式が厳かに催されました。ヒミコの時代から倭国(吉備邪馬台国連邦)にひび割れが生じた弥生終末期に入ります。独立性を強めた出雲と阿波で競うように大型墳丘墓が造られます。ことに出雲は自らが倭国の盟主であることを誇示するために、吉備から特殊壷・特殊器台を取り寄せます(西谷二号墳と西谷三号墳)。

 

 こうした中で伊勢、美濃、尾張の東海地方を征服して、力を蓄えた大和の狗奴国が西に向けて勢力を伸ばしていきます。まず阿波が大和の支配下に入り、阿波の前方後円の弥生墳丘墓が石の技術と共に大和に伝わります(220年~230年頃)。阿波の一部の住民は黒潮に乗って房総半島に逃亡します。

 次に吉備が敗れ(268年~270年頃)、最後に出雲が敗れ(290年頃)、大和が大連邦「倭国」の新しい盟主となります。

 

 

2章 吉備邪馬台国神話と大和建国神話

7.大和葛国建国神話

 

 初代天皇である神武天皇は実在したのか、飛鳥時代の御用学者が創作した人物なのか、いまだに詳細は不明です、大別すると以下の3説があります。

2600年前に実在した

 :日本書紀の暦年を鵜呑みにした説で、明治維新以後、1945年の第2次世界大戦まで正論とされ、現在でも祝日「建国記

  念の日」の根拠となっています。

神武天皇は実在しなかった

 :7世紀の飛鳥時代の御用学者が創作した人物。ことに第2次世界大戦後に一般化しています。

神武天皇は3世紀末の第10代崇神天皇と同一人物。

 

 これらつの説に対して私の説は、

神武天皇は1世紀後半に、大和の南葛城地方に葛(狗奴)国を建国した実在した実在の人物、というものです。

 神武天皇(イハレビコ)と兄のヒコイツセ一行は、弥生中期の九州北部の倭族が南下して日向(宮崎県)に定着した部族の子孫で、1世紀後半に、宗像族の仲介で奴国を攻撃中の吉備邪馬台国の傭兵(警護役)として雇われた後、大和の山中(宇陀野)に産出する水銀朱(金と同じ価値があった)の交易ルートの確保が目的で、大和入りをして、80年頃、葛国を建国した。葛国は2世紀後半の第5代孝昭天皇の時代に伊勢を含む東海地方を征服したことが日本統一への足がかりとなった……とするシナリオです。

 

 神武兄弟の「警護役説」は私が「邪馬台国 岡山・吉備説から見る 古代日本の成立」で初めて提唱した説ですが、滞在地伝承がある場所を訪れてみますと、筑紫の岡の湊は遠賀川河口、安芸の埃宮(えのみや。多家神社)は大田川河口、吉備の高島は吉井川河口と穴海の入り口に位置しており、港を往来する船舶の監視役であったことを確認できます。邪馬台国吉備説から見ると、古代の太田川河口に位置する祇園町・古市・安川周辺は「伴(とも)」という地名もあり、投馬国だった可能性があります。また大和と伊勢の境にある山岳地帯は古代からつい最近まで水銀朱の産地でした。

 

 自説に沿って大和建国神話を見ていきます(第2章 3.の系譜を参照)。

1.ホノニニギの降臨神話

 アマテラスは長男オシホミミに日本列島を治めさせようと思いますが、オシホミミが雲の上から水穂の国を見ると「騒々しい」と高天原に戻ってきます。そこで次男のアメノホヒ、次いでアメノワカヒコが出雲の国(注:水穂の国が出雲に特定されています)に送られますが、出雲に懐柔されます。切り札として中臣系のタケミカヅチとアメノトリフネ(フツヌシ)が出雲に乗り込み、コトシロヌシとタケミカヅチが服従し、オオクニヌシは大和に国譲りをします。

 そこで、生まれたばかりの赤子である孫神ホノニニギが5伴緒(アメノコヤネ、アメノフトダマ、アメノウズメ、イシコリドメ、タマオヤ)等を伴って下界に降り、天と地上の境でサルタヒコが出迎えます。

 

2.日向神話

 日向に降臨したホノニニギからホオリ(ヒコホホデミ)、ウガヤフキアエズと続き、4代目がヒコイツイツセ・イハレビコ兄弟となります。海彦・山彦、竜宮訪問などの逸話は吉備邪馬台国系神話と明らかに系統が異なり、倭族のホノニニギ一族が九州南東部を支配していた曾(。曽於そお)族と融合して曾族の伝承を取り入れた有り様が類推できます。

 

3.大和建国神話

 神武兄弟の旅立ち →吉備邪馬台国連邦の警護役として筑紫の芦屋川、安芸の大田川、吉備の吉井川の河口に駐在 →大和入り →葛国建国、の筋書きです・

 

 このうち2.と3.は構成がシンプルですが、1.の「ホノニニギの降臨神話」はかなり込み入っており、様々な解釈が可能です。多くの方がこの部分で迷路にはまり込んでいきます。詳細は第7章で触れますが、大和が日本列島統一を達成した後の4世紀前半の政治情勢に沿って、1.の「ホノニニギの降臨神話」が創作された、と私は考えています:「邪馬台国吉備説 神話編」 P.169~P.172、P.510~P.511参照)。大和系に加えて、大和が征服した伊勢、瀬戸内海の中臣と忌部、出雲の神々が巧妙に融合されていることが重要です。

 

(大和政権の遺産)

 後世の私たちにとって有難いことは、大和政権は征服した人民をうまく取り込んでいき、地域の神と文化も残してくれたことです。大和政権は、西日本よりも100年から200年遅れていた関東地方と東北地方南部(北限は水稲耕作が可能な地域)を征服していきますが、開拓民として阿波、吉備、讃岐、伊予、出雲の住民を活用していきます。

 

 これが天皇家が世界最古の王室として息長く根づいている秘訣でしょう。時代の政治的な風潮や流行に踊らされずに、史実を正確に把握していくことが、現在の日本人の仕事であると私は信じます。

          

 

2章 吉備邪馬台国神話と大和建国神話

8.日本古代史文献学会の行き詰まり

 

 私の邪馬台国吉備・狗奴国大和説は、古事記の「第7代孝霊天皇の2皇子である吉備津日子兄弟が播磨の氷川(現在の加古川)を拠点に吉備を征服した」の一節から始まりました。この一節をどのように解釈し、さばいていくかで、結論が大きく違っていきます。

 この一節は以下の四通りに解釈することができます。

欠史八代に属する孝霊天皇は実在しなかったから、2皇子の吉備征服説は飛鳥時代の創作。

大和が西日本を統一していく過程で1国を破ったにすぎない。

大和邪馬台国が吉備狗奴国を征服した。

大和狗奴国が吉備邪馬台国を征服した。

 

 すでにお分かりのように私は「大和は狗奴国で、邪馬台国は吉備だった」のではないかと解釈したわけですが、振り返って見ると、江戸時代から現在まで「大和は狗奴国」という発想がほとんどなかったようです。私が気がついたのは、日本列島の外にいて列島内のしがらみや空気に影響されずに、素直に古代の世界を見ることができるせいかもしれません。

 洋の東西を問わず 、固定観念をくつがえしていくことは大変な労力を必要とします。天動説を否定し、地動説を唱えたガリレオをローマ法王庁が正式に認めたのは400年後のつい最近のことです。第2次世界大戦以前の「神武天皇2600年説」、戦後の「欠史八代説」という誤った固定観念を打ち破っていくには相当の時間がかかるでしょう。

 

1970年代で行きづまった古代史文献学会)

 1章 3.「欠史八代説」で触れましたように、戦後の古代文献学会は津田左右吉氏の「継体天皇以前の天皇は飛鳥時代に創作され、実在しなかった」が出発点となり、「欠史八代説」は先進的な説として脚光を集め、今では正論と見なされています。

 ところが何もかもが飛鳥時代の創作と見なす傾向が強まり、弥生時代終末期から古墳時代に移行する3世紀、倭国が朝鮮半島に進出する4世紀に関する古事記と日本書紀の記述のほとんどが飛鳥時代の創作であると見なす考え方が1970年代で定着してしまいました。それ以来、古代史文献学会は行きづまってしまい、逆に1970年代後半から列島各地で考古学的な発見が相次いでいることから、考古学者が主導権を担うようになります。ところが問題は、欠史八代説という固定観念に疑念を抱かずに、これに沿って考古学的な発見を解釈しようとされておられることです。

 

 あえて代表例を挙げますと、文献学では上田正、考古学では白石太一郎氏です。上田正昭氏は欠史八代説と共に歩まれてこられ、その頂点におられますが、そろそろ欠史八代説は誤りだったことに気づく学徒が増えて欲しいものです。上田氏は忌部氏に関しても、根源地は大和であるとする初歩的な誤り、思い込み違いをされています。白石太一郎氏も欠史八代説に沿って強引に邪馬台国大和説、箸墓ヒミコ説の結論にもっていこうとされています。

 お二人は古代日本史学会の重鎮でおられることは十二分に承知していますが、現在の課題は欠史八代説を突き破って、どの点が飛鳥時代の創作で、どの点が歴史的な事実であるかをより精密に分析していくことです。そのためには、文献学と考古学の垣根を取り払い、さらに神社古代史を加えた3点セットで臨む必要があります。

 

(マスメディアの護送船団方式の終了)

 私はこの30年間、日経新聞グループと電通を主体に、日本のメディアと広告業界のパリでの下請けをしてきましたので舞台裏を熟知していますが、日本のコミュニケーション業界は、大手新聞社がテレビ・ラジオを系列化し、それを民族系広告会社が援護する、という世界でも珍しい護送船団方式の構造となっています。これは第2次世界大戦後、アメリカのメディア資本の進出を阻む目的で築かれ、それなりの存在意義はありました。

 

 この護送船団方式に沿って、新聞の朝刊の早版をもとに下請けのプロダクションがテレビのモーニングショー向けのシナリオを作り、朝、皆さんが起きるとシナリオを司会者が演じて、世間の常識、空気になり、多くの方が風の流れになびきながら1億総風見鶏化していきます。この図式は邪馬台国所在地問題にもあてはまっています。

 しかしインターネットの登場で、護送船団方式に風穴が開きつつあります。インターネットの発展は時代の流れですが、反面、短文のコメントを発するツィッターの登場は、陶片投票で衆愚政治化していった古代ギリシャをほうふつさせます。

 

 風見鶏にならずに日本の土台をしっかり把握していくことは、情報過度の時代では難しいことですが、日本が世界の先進国のリーダー役の一翼を担っていくための通過点でもあります。

 

 

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