その46.椎(しい)が本      カオル ( 二十一齢~二十二歳 )

 

3.第八卿の他界後の女君達の悲嘆。カオルの慰問   (カオル 二十一歳)

 

 姉妹は夜も明けない闇の中にいる気持ちをしながら、十月になりました。野山の気配はまして涙の時雨が袖を湿らせがちで、ともすると先を争って落ちる木の葉の音も、水の響きも、二人の涙の瀧も一緒のようになって悲しみに暮れています。侍女たちも「こんなふうでは、限りある命も長くは保てないのではないだろうか」と心細く、あれこれ思いあぐねていました。

 山荘にも祈祷をする僧が詰めていて、卿が生活していた部屋に安置されたキリスト像を形見として拝んでいました。時々やって来る人々の中で忌みに籠っている者はひっそりと勤行をして過ごしていました。

 

 ニオイ兵部卿も度々忌問の手紙を送りました。しかし姉妹はこうした手紙への返信を書く気持ちはないようで、ほっておいているので、「カオル中納言にはこんな態度をとらないのだが、自分にはいまだによそよそしくしている」と恨めしく思っていました。「紅葉が盛りになる頃、詩会をコンフランで催そう」と計画していましたが、第八卿の他界もあって都合が悪くなり、断念したのも口惜しいことでした。

「そろそろ忌中も終わった頃だろう。物事には限りがあるのだから、涙が干上がることもあるだろう」と思いをはせて、ニオイ卿はコンフラン宛てに長々と書き綴りました。時雨がちの夕暮のことでした。

(歌)牡鹿が啼く秋の山里で 小萩に露がかかる夕暮れ時 いかがお暮しでしょうか

「しんみりした今の空の様子をご存じない顔をされるのは、あまりに冷淡なことです。(歌)鹿が住む 丘の萩の下葉から枯れていく野辺が 寂しく見える といった歌にとりわけ心が引かれる頃になりました」。

 

「本当のことを言うと、度々送ってくる手紙にそっけない態度をしてしまうのは、いかがなものでしょう。やはり返信を差し上げなさい」とジュヌヴィエーヴは例のようにマドレーヌに促して、返信を書かせました。

 しかしマドレーヌは「今日まで行き長らえて来たが、インク壺などを身近に引き寄せて返信を書く、といったことなど思ってもいなかった。時は情なく過ぎていくのだ」と思うと、またまた涙で掻き曇って何も見えない気持ちがしました。インク壺を押しやって、「どうしても書けません。何とかこうやって起きていられるようにはなりましたが、もうこれが限界だと思うと、疎ましくも悲しくも」といじらしく泣き崩れてしまうのも痛々しいことでした。

 ニオイ卿からの使いは夕暮れ時に来たのに、少しずつ夜が更けて行きます。

「これからどうしてパリに戻れましょう。今夜は泊まっていかれたら」と侍女に言わせますが、「返信をいただいてすぐにパリに戻らねば」と急いています。気の毒に感じた姉は冷静に落ち着いているわけではないものの、見かねて返歌を詠みました。

(返歌)涙ばかりの霧に塞がっている この山里では 鹿が垣根の近くにやって来て 私どもと声を合わせて啼いています

夜のことなので、鈍色の紙に黒インクで書くとはっきりとは見えないまま、ペンに任せて何の飾り気もなく書いた後、包んで使いに差し出しました。

 

 雨模様の中を夜半にエルブレイ(Herblay)の丘の林を抜けていくのは、随分恐いことですが、そういったことには物怖じしない者が使いの男として選り抜かれていたので、気味悪そうなシダの群落でも馬を引きと止めずに急がせて、わずかの時間でヴァンセンヌ城に着きました。ニオイ卿はずぶ濡れの男に褒美を授けました。

 返信はこれまで見て来た筆跡ではなく、もう少し大人びた奥床しさがある書き方なので、「姉か妹のどちらが書いたものだろうか」とじっと見入っていて、すぐには寝ようとはしないでいました。「使いの帰りを待つと言われて起きていて、今度は返信を見続けておられるとは、よほどのご執心なのでしょうね」とお側に仕える侍女たちがささやき合いながら、不平を垂れているのは、当人たちが眠たかったからでしょう。

 ニオイ卿はまだ朝霧が深い明け方に急いで起きて、コンフラン宛ての手紙を書きました。

(歌)朝霧の中で 友を見失って啼く鹿の声を ただ通り一遍に 可哀そうだと聞くだけでしょうか

こちらも鹿に劣らず、一緒になって泣いております」と書いてありました。

 

「あまり情愛に訴えてしまうのも、厄介なことになってしまう。これまでは父上の蔭に隠れているのを頼りとして、何事にも安心して過ごしてこられた。心ならずも生き長らえてはいるものの、ちょっとした間違いでも起きてしまうなら、私たちのことを気にかけながら亡くなった父上に傷をつけてしまうことになってしまう」と姉妹は何事にも引っ込み思案に恐れているので、返信を書かずにいました。

 とは言ってもニオイ卿のことを、普通の軽薄な男性のように考えているわけではありません。何気なく走り書きしたペン使いや言葉にも優雅な風情や優美さがこもっている気配などを、そう多くは見馴れているわけではないものの、ニオイ卿からの手紙を「これこそ結構なものだ」と感じながらも、そうした気品と風情がある人物に返事を書くには似合わしくない身の上であるから、「これからも、こうした山里の田舎者として過ごしていこう」とジュヌヴィエーヴは考えていました。ただカオル中納言への返信だけは、当人からも誠意がある手紙が来るので、こちらからもそれほどよそよそしくもない返信をしていました。

 

 忌中が過ぎたある日、カオル自らが訪ねて来ました。姉妹は忌中が過ぎても、忌中の慣例通り、東の縁先から一段下がった間でひっそりとしていました。カオルは近くに立ち寄って、ベネディクトを呼びました。闇の中に鎖されている気持ちでいる姉妹の面前に、眩しいほどの匂いに満ちたカオルが急に現れたので、二人はきまりが悪く、答えることも出来ずにいました。

「こんな風にぞんざいには扱わず、以前、父卿が示されたご意向にそって相手をしてくださるのなら、訪ねて来た甲斐があります。私は気取った好色めいた振る舞いはし慣れていない男ですから、侍女を介しての会話では言葉が続きません」とカオルが言い張るので、ジュヌヴィエーヴは「浅ましいことに、今日まで生き長らえておりますものの、まだまだ一人泣きの夢に惑わされております。空の光りを見るのは心外に感じて慎んでいますので、端近くに出ることも出来ません」と答えました。

「でもそれは父卿への愛着が限りなく深いからだ、ということでしょう。月や日の下で、心から晴れ晴れしく振舞うのは罪になると感じておられるのでしょうが、このままでは私はどうしたらよいのか分からず、気持ちが晴れません。ですから胸中にある悩みなどあれこれをさっくばらんに話してくだされば」とカオルが切望していると、侍女たちが「較べようもないほど嘆かれている様子を、本心から慰めようとされているお心映えは並一通りではないのですから」と教え諭しました。

 ジュヌヴィエーヴもそうは言っても、気持ちがようやく落ち着いてきて、カオルの親切心を理解するようになっていました。父卿の在世中から、こんなにまで遠い野原をかき入って訪ねて来た誠意も承知していたので、少しいざり寄って来ました。

 

 カオルは姉妹に対する思いや父卿と約束したことなどを、非常に細やかに親しげに語りました。不快で粗野な気配などは見せない人物でしたから、薄気味悪く居心地が悪い気はしないまでも、そう親密にもなっていない男性にこうやって自分の声を聞かせてしまったり、そうは言いながら何とはなしにカオルを頼りにしている最近のことを思い起こすと、さすがに辛くなって、気が引けてしまいます。ジュヌヴィエーヴがかすかに一言ぐらいを答える様子は、まだまだぼうっとしている状態にいる感じなので、「とても可哀そうに」とカオルは同情してしまいました。黒い内カーテンの隙間から見える、心苦しそうな姿から今の痛々しげな心情を察しながら、あのちらっと姿を見た夜明けをカオルは思い出しました。

(歌)枯れて色が変わった茅(かや)を見るにつけても 鈍色の喪服を着て身をやつしておられる姿を 察しています

と、独り言のように詠みました。 

(返歌)涙の露が 普段とは色が違う喪服の袖に 宿ってしまっているので 私には身の置き所がありません

(歌)喪服のほつれた糸は 貴方を恋する涙の糸に なりうるのでしょうか といった歌を思い起こして、口に出し始めたジュヌヴィエーヴは「ひょっとしたら、これが恋というものではないか」といった衝撃を覚えたので、最後の部分は口に飲み込んで、とても堪えがたい気配で奥に入りました。引き留めるわけにもいかないまま、カオルはたまらなく身に染みる思いがしました。

 

 すると老いたベネディクトがその場を補佐する代役のように出て来て、昔や今のことをひっくるめたせつない話をしました。有難いことに、自分の浅ましい出生のことどもを見聞した人物でしたから、「老いぼれた召使い」と遠ざけることもしないで、カオルは打ち解けた話をしました。

「幼い時に父ヒカルに先立たれて、世の中はとても悲しいものだと悟ってしまったのか、大人になって行くにつれ、官位とか世の中の栄華といったものには何の興味も感じないようになった。ただこのような閑静な住まいが自分の性格に合ったので、こちらに通うようになったが、あっけなく第八卿が物故されてしまい、ますます仮初のこの世の無常を思い知る気持ちが湧いて来ている。それにしても、気の毒な二人の女君の様子を見ると、それが足かせになってしまっている。と言うと、二人に気がある口実のようになるが、この世に留まっている限りは、亡き卿の遺言を違えずに二人の相談相手になって行こうと考えている。それにしても、思いがけない昔の話を聞いてからは、ますますこの世に足跡を残そうなどとは思わなくなっている」と涙を浮かべるので、ましてやベネディクトはそれ以上に激しく泣いて、言葉を出せずにいました。

 

 カオルの容姿や気配には「まるで柏木様の再来」と思わせるところがあるので、ベネディクトは久しく忘れていたあの頃を改めて思い出しますが、当時の模様を繰り返し話すわけにもいかず、涙にむせっているだけでした。ベネディクトは柏木大納言の乳母の娘で、父親は姉妹の母上の叔父で、官位五位の左中辨で亡くなった人物でした。長い間、遠地を廻り歩き、姉妹の母上も亡くなった後、パリに上がって来たものの、柏木の一家とは疎遠になっていたのを第八卿が引き取って使っていました。身分的には大したものでもなく、奉公ずれもしていましたが、卿は気が利かない者でもないと感じて、姉妹の世話役のようにしていました。

 柏木と山桜上についての昔のことは、長い年月の間、毎日召し使われて何のわだかまりもなくなっている姉妹にも、一言も漏らしたことはなく、ずっと心の中に秘めていました。それでもカオル中納言は「老人が問わず語りをしてしまうのはごく普通のことだ。ベネディクトが相手構わず、軽率に言いふらしたりすることはないだろうが、あの奥床しくしている二人の貴女には打ち明けているのではないか」と危んでしまっていて、二人に対してきまりが悪く、困ったことだと感じています。このことがまた、「姉妹を手元から離してはならない」といった思いにさせる一因にもなったりするのでしょう。

「ただ、今はここに泊まっていくのははしたない」との心地がして、帰り支度を始めました。「これが最後になるかもしれない」との第八卿の言葉に、「どうしてそんなことがあろうかと思い込んでしまって、会えずじまいになってしまった。今もあの時と同じ年の秋ではないか。さして日数も経っていないのに、どこの世界に行かれたかも分からない、というのはあっけないことだ」。

 

 別段、人並みな飾り付けもなく、とても簡素にしていたものの、いつも清らかに手入れが行き届き、趣があるようにしていた住まいですが、今は高徳の僧たちが出入りして、衝立で臨時の詰め所をあちこちに設けています。祈りの道具などはこれまでと変わらないようですが、「キリスト像などの類は残らず修道院に移しましょう」と話しているのを聞くにつけ、「こうした僧たちの人影すら絶えてしまったら、姉妹はどんな思いで暮らして行くのだろう」とカオルは胸を痛めながら考え続けました。

落葉上に思いを寄せた夕霧が、ル・リヴォ城にそのまま居座って落葉上を自分のものとしたのは、色好みで名を遺したヒカルの血が流れていたからでしょうか。ヒカルの孫で女性好きなニオイ卿とも違って、やはりカオルにはヒカルの血が流れてはいないせいだからでしょうか。あるいは「自分は罪の子である」という意識が強いせいなのか、衝動的な振る舞いを犯そうとする思いは湧いてきません。いずれにせよ、「優柔不断」が持って生まれたカオルの性格のようです。

「もうすっかり日が暮れてしまいました」とお供が言うので、空を眺めやりながらカオルが立ち上がると、雁が啼きながら渡って行きます。

(歌)秋の霧が晴れない雲空を 飛んで行く雁は この世は仮の世界だと いかにも啼いて知らせているのだろうか

 

 カオルがニオイ卿と対面する時は、真っ先に姉妹のことが話題になりました。

「ここまで来れば、何の気兼ねも入らない」とニオイ卿は考えて、熱心な手紙を送りますが、姉妹はちょっとした返信もしないで控え気味にいました。「いたく女好きな御方だという噂が世間に広がっているし、私どもを好ましい恋の相手として、あだっぽく思われているようだ。こんな片田舎の草むらに埋もれている自分たちが、いかにも古めかしい時代遅れの手つきで返信したところで」と卑下しています。

「月日というものは本当に浅ましいほど過ぎて行きますね。父上の死で誰にも頼り難くなってしまった宿命を昨日か今日のこととは思いも寄らずに、ただ定めがない無常なはかなさを、開けても暮れても世間話のように聞き流して来ました。私も父上も先立つか遅れるかの違いもなく、死んでいくものだとぼんやり考えていたのに」とジュヌヴィエーヴがこぼすと、「過去を思い出しても、楽しいことは何もなかったものの、ただ何となくのんびりと毎日を過ごしながら、何の恐ろしい目に遭うことも気兼ねすることもなかったのに」と続けました。

「風の音が荒々しく吹き付けたり、日頃見馴れない人がうち連れてやって来て改まった声を出したりすると、胸がどきりとして薄気味悪い思いをしてしまうようになってしまうのは、とても堪え難いことですね」と二人は語り合い、涙が乾くこと間もなく過ごしているうちに、年が暮れていきました。

 

 雪や霰が降りしきる頃は、どこにいても激しい風の音がしますが、今になって初めて山林の中に住んでいるような気持になります。侍女たちの中には「ようやく年が変わりますね。心細く悲しい日々を改めてくれる春が待ち遠しい」と気を滅入らすこともなく話している者もいますが、二人は「そんなことはありそうにもない」と聞いていました。

 亡くなった父卿が時々籠っていたモウブイソン修道院からは、たまにですが「いかがですか」と導師もごく普通に邸にやって来たのですが、今は何の用事で出向いて来るでしょうか。人目がひっそりと絶えて行くのは当然なことだと思いながらも、まことに悲しいことです。これまでは何とも気に留めなかった漁師や船乗りも亡くなった後は、たまに覗き込んで来ることすら珍しいことに感じます。

 寒い日々に入る頃なので、薪や栗・クルミの木の実を拾って来る山林に住む者もいました。導師の住む先からも炭などのようなものを贈って来て、「毎年、第八卿から用事を承わる習わしになっていましたが、今年から絶えてしまうのは寂しい限りです」と伝えました。姉妹は冬籠りをする僧たちに、防寒用の綿衣などを毎年贈っていたことを思い出して手配しました。炭などを運んで来た下位の僧や童子などが雪深い路に見え隠れするのを、二人は端近くに出て涙を浮かべながら見送りました。

「たとえ修道僧になられたとしても、父上が存命されていたなら、こうした具合に邸にやって来る人も自然と多かったことだったでしょうに」、「どんなに寂しく心細い思いをしても、父上にお目にかかることが絶えることはなかったでしょうに」と姉妹は語り合っていました。

(歌)父上が亡くなり 修道院に通う道も絶えてしまった今 あなたはあの松に積る雪を どのようにご覧になっていますか

とジュヌヴィエーヴが詠むと、マドレーヌが続けました。

(歌)険しい道の松の葉に積る雪を見て 亡き父を思い起こすことが出来たなら

消えてしまっても、また降り積もってくる雪が羨ましい。

 

 

4.カオル、ジュヌヴィエーヴを思慕。ニオイ卿、カオルを恨む (カオル 二十一歳)

 

「新年に入ると、ちょっとした訪問もし辛くなってしまうだろう」とカオルは思って、コンフランを訪れました。雪が深く積もっている日には、普通の人でも訪ねてこないのに、並々ではない身分でありながら、気軽に訪ねて来た気持ちは浅くはないと思い知ったジュヌヴィエーヴはいつもより心をこめて、座ってもらう席を用意させました。侍女たちも喪中用の黒塗りではない火桶を物置の奥から取り出して塵払いなどをしながら、第八卿がカオルの訪れを待ち喜んでいた様子などを話していました。

 姉妹はカオルとの対面を気恥ずかしく感じましたが、「思いやりがないと相手に思われてしまったら、どうしましょう」と、内カーテン越しに応対しました。気を許して話すというわけではありませんが、これまでよりは少し言葉数を多く話す様子には、大層感じが良い恥じらいがありました。

「こんな風にしているだけで済ますことは出来ないのだが」とカオルは心中では思いながらも、「あまりにぶしつけすぎやしないか。やはり恋心というものは変わりやすいものだから」と思い直していました。

 

「ニオイ卿が妙に私を恨んでいることがあります。お二人について第八卿がしみじみと言い残された様子を、何かのついでに漏らしてしまったことがあったからでしょうか。あるいは、ああいった抜け目のない性格ですから、想像をたくましくして、恋心を抱いたからでしょうか。ともかく、こちらのお二人との関係を私に頼んでいるのですが、そちらがつれない様子を見せておられるので、『うまく取り持ってくれないではないか』と度々私を恨んでおります。『そんなことは私がするべきではないことだ』と思いましたが、コンフランへの道案内役ははからずもこの私なのですから、きっぱりと断ることも出来ないでいます。

 それにしても、どうしてそこまでつれなくされるのですか。ニオイ卿は女好みの者のように世間では噂していますが、心の奥底は不思議と深いところがある卿です。ただちょっとしたいい加減な戯言を話してしまうことがあるので、『軽々しく靡きやすいところが安っぽい』と軽蔑されることもあると聞く場合もあります。

 何事においても、成り行きに任せて我を張ることもない穏やかな人が、ただ世の中の習わしに従って結婚をし、それが格別なことだと思い込んで、少し期待していたことと違うことがあったとしても、『仕方のないことだ。これもそうなる運命なのだ』と思い直してみると、案外、結婚生活は長続きする場合があります。しかし(歌)アリエル(Allier)川が濁ってしまうと 神聖なヴィシー(Vichy)の岸辺が崩れてしまう といったように恋心が崩れてしまうと、残念なことにそれまでの情愛も跡形もなくなってしまうこともありえます。

 愛着心が強いニオイ卿の希望に叶い、特に逆らうことも多くなかったなら、初めの態度を軽々しく変えてしまうようなことは見せない性格の人物です。ニオイ卿のことは人が知らないようなことまで良く知っております。もし似つかわしい縁のように思われるなら、できる限りの仲介役を務めます。ヴァンセンヌ城とこちらの往復を、足が痛くなるまで何回でもいたします」とカオルは真顔で言い続けました。

 

 ジュヌヴィエーヴは「カオル様は自分のことも含めて話しているのだ」とは思いも寄らず、「妹の親代わりになって返答するのだ」と思案しますが、答えるべき言葉も出ない気持ちがしました。

「そのように色恋い沙汰について話し続けられると、返答をするのも中々難しいものと感じます」とほほ笑むだけでしたが、おっとりとした中にカオルは可愛らしさを感じました。

「この話は貴女自身の問題として考えないでください。貴女はただ、こうやって雪をかき分けて訪ねて来た私の気持ちを理解していただければ良いのです。ニオイ卿については、単に姉の心持ちとして対応してください。ニオイ卿が思いを寄せているのは貴女ではなく、妹さんのようです。ところで、ニオイ卿がそれとなく手紙を送ったと聞きましたが、さてどちらの方に宛てて書いたのでしょうか。卿への返信はどちらが書かれたのでしょうか」とカオルが問いました。

ジュヌヴィエーヴは「戯れにしても、よくもまあ、私が返信を書かなくて良かった。どうと言うことでもないが、カオル様からそんなことを尋ねられるのはとても恥ずかしく、胸が痛んでしまう」と感じて、答えずにいました。

(歌)この深い山路の架け橋を 貴方以外に踏み分けて通って来る人は 誰もおりません

と、返答する代わりに歌を書いて差し出しましたが、カオルは「そんな回りくどい言い方をされるとは水臭いことです」と言って、返歌を詠みました。

(返歌)氷に閉ざされて 馬が踏み砕いて進む山川を ニオイ卿の案内をしながら まず私が渡ります

そうであるからこそ、(歌)ピレネー山脈の姿までも映す 清らかな泉のような 浅い気持ちで 貴女を慕っているわけではありません といったように、私の貴女への恋心は浅くはないのです」と言い切りました。

 しかし単刀直入なカオルの告白を、ジュヌヴィエーヴは意外に感じたのか、特に答えようともしないでいました。というのは「カオル様は際立ってよそよそしい引っ込み思案のようには見えないものの、今時の若い人たちのように思わせぶりに言い寄って来ることもなく、とても好ましいゆったりした心持ちの御方だ」と思わせる気配を見せて来たからです。

 一方のカオルは「女はこうあって欲しいものだ」との期待に違わない女性の印象を受けました。何かにつけて、胸中の恋心をほのめかしますが、ジュヌヴィエーヴは一向に気付かないようにあしらうので、間が持てなくなったカオルは第八卿が在世していた頃の話などを真面目くさってするしかありません。

 

「日が暮れてしまうと、この雪空に難儀してしまいます」とお供の人々が咳ばらいをするので、カオルは帰ることにしました。

「ここの住まいの様子は生活し辛いように見受けます。私の母が住むランブイエ城もこの山里のように非常に閑静な所で、人の出入りもあまりない所なので、そこに移ることを考えていただけると、誠に嬉しいのですが」と話すと、それを小耳にはさんで「とてもめでたいことだわ」と笑顔を見せる侍女もいましたが、マドレーヌは「どうしてそんな見苦しいことが出来ましょう」と聞いていました。

「腹ごしらえに」と菓子や果物が体裁よく差し出され、お供の人々にも恰好の肴やワインが出されました。カオルの移り香を騒がれた、いつぞやの当直人が、顎鬚を黒々と伸ばした不細工な顔つきでいるのを見つけて、「頼りない番人だな」と呼び出しました。

「どうしている。第八卿が亡くなった後はさぞかし心細い事だろう」と問いかけると、目立たないように悲しそうな涙をこぼしました。「この世に頼るべき所もない身で、ただ卿のお情けにすがって、三十年あまりを過ごして来ました。今はまして、(歌)侘しく暮らす人が とりわけ立ち寄る木の下は 頼みにする木陰もなくなり 紅葉も散ってしまった といったように、これからどなたを頼ったら良いのでしょう」と話して、不細工な顔をますます歪めました。

 

 第八卿が居間にしていた部屋を開けさせると、塵がひどく積もっていましたが、キリスト像の前に供える花飾りだけは絶やさないように配慮しているのが分かります。カーペットなどは取り払われていました。

「私も修道の道に入ったなら」と第八卿と約束したことを思い出しました。

(歌)自分が修道の道に入ったなら 師と仰ごうと頼みにしていた卿が住んでいた 椎の柱の居間は 座席すらない 

   空しい床になってしまった

と詠みながら、椎の柱に寄りかかっているカオルを若い侍女たちが覗き込んで、賞賛していました。

 日が暮れて来たので、カオルが所有している近くの荘園などを預かっている人々の所へ、馬用のまぐさを取りにやらせると、カオルも知らない田舎びた人々が騒ぎ立てながら連れ立ってやって来たので、「ぶしつけで体裁が悪いことをしてくれる」と思いながら見ていました。カオルは老いたベネディクトに用事で来た風にごまかしながら、荘園の人々にこれからも邸の用事を勤めるように指示して帰って行きました。

 

 

5.ロラン大将がスペイン連合軍の首都パリへの侵攻を食い止め、カレーを奪還

                               (カオル 二十二歳)

 スペイン王国にイングランド王国とサヴォワ公国も加わった連合軍がオランダ南部のフランドル地方からピカルディー地方に侵入したことを受けて出撃した、夕霧元帥が率いるフランス軍は八月上旬にサン・カンタンで大敗北を食らってしまった上に、夕霧が捕虜の身となってしまいました。

 イタリア遠征から急遽呼び戻されたロラン大将は、さすがに実戦経験を積んで来たこともあって、フランス軍を立て直して、十月に入って連合軍を食い止め、首都パリへの侵攻を回避することに成功しました。安梨王はスペイン国王フェリペ二世との休戦交渉を意外なことに捕虜中の夕霧に委ねました。やはり夕霧はサン・ブリュー王妃の腹違いの兄である配慮があったのでしょうか。夕霧は巧みな外交術で休戦交渉をまとめ、自分の身も解放されました。莫大な賠償金を背負わされてしまったとの批判も出たものの、軍事はロラン大将、外交は夕霧元帥、といった評価が世間に定着しました。

 

 十一月に入り、安梨王はロラン大将にスペイン軍とイングランド軍を分断する目的で、カレー奪還を命じました。スペイン領のフランドルとパリへの玄関口に当たるピカルディーに挟まれたアルトワ(Artois)地方の北西端に位置するカレーは、海峡を挟んでイングランドに最も接近した港町で、英仏百年戦争以来、イングランドのフランス進出の入り口として、二百十一年間に渡ってイングランド王国が死守していました。

ロラン軍は苦戦を重ねながらも、一歩ずつイギリス軍の砦を撃破し、新年に入った一月七日に遂にカレー市の制圧に成功し、同月二十日までにカレーの防衛線であるギネス(Guînes)とアム(ハメスHam en Artois)を攻略しました。ギネス近くにある「金布の野」は三十八年前にヒカルが冷泉王の後見役としてヘンリー八世と会見し、将来の王妃となる虹バラを託された地でした。

 

カレー喪失の報を受けたメアリー女王の動揺と失意ははかり知れません。「跡継ぎが出来た」と期待された妊娠もぬか喜びに過ぎなかったこと、必ずしも順風とは言えなかった十一歳年下のフェリペ二世との結婚生活と別居に加えて、カレーを失ったことにより、ことにプロテスタント側からの批判が高まって行くのは必然でした。四十二歳となったメアリー女王はこうした重圧もあって健康を害して行きました。

カレー奪還を実現してパリに凱旋したロラン大将兼右大臣をパリ市民は熱狂的に歓迎しました。もはやロランに対する評判は夕霧をはるかに上回っていました。その勢いもあったのか、スコットランド王国の継承権を持つ、ロランの姪メアリー・スチュアートとフィリップ王太子との結婚が公表されました。スコットランド王国の摂政を担っているロランの実妹である母シャルロットが五歳半でフランス王室に預けたメアリー・スチュアートは十六歳に成長していましたが、ヘンリー八世の実姉が祖母に当たることから。イングランド王国の王位継承者の一人でもありました。

 

 

6.ニオイ卿、夕霧の六女フローラとの婚姻話に困惑。カオルのコンフラン訪問。

                 (カオル 二十二歳)

二月の下旬に入ると空の様子もうららかになって。水際の氷も溶けて行くのを姉妹は「これまで生き長らえて来ましたね。有難いことに」と眺めていました。修道院の導師の所から「雪が消えたので摘んで来ました」と沢に生えるクレッソンなどを贈って来たので、祭壇の前の台に供えました。

「場所柄によってはこうした草木の変化に応じて、月日の移り変わりの節目と見ているのは興味深いですね」と侍女たちが話しているのを、「そんなことがどうして面白いのだろう」と姉妹は聞いていました。

(歌)父上が摘んでくれた 峰のクレッソンだったなら 春が来たしるしと喜んだことでしょうに

とジュヌヴィエーヴが読むと、マドレーヌが続けました。

(歌)まだ雪が深い水際に生えるマーシュ(のぢしゃ。Mâche)を 誰のために摘んで 楽しめましょう 

   私たちは親なしになってしまったのだから

などと詠みながら、姉妹は頼りなげに語り合いながら、毎日を送っていました、

 

 カオル中納言もニオイ卿も折々の機会を見て、手紙を寄越しますが煩わしい上に、何でもないことが多く書かれているようので、話を伝える人も例のように書き漏らしました。

 花が盛りになった頃、ニオイ卿は(歌)山桜が匂っている辺りを尋ねて来て と自身が詠んだ昨春を思い出していました。その折りにお供をしていた公達なども「とても風趣があった第八卿の住まいを再び見ることが出来なくなりましたね」などと残念がっている中で、姉妹のことをなつかしく思っていました。

(歌)昨春は参詣のついでに見た桜を 今春は霞を隔てずに 手折ってかざしたいものです

とニオイ卿は姉妹をもう自分のものにしたかのような歌を送りました。

「とんでもないことを書かれても」と二人は手紙を読みながら、時間をもてあましてもいたので、見甲斐のある手紙に対して上辺だけは好意を示しておこう」とマドレーヌが返信を書きました。

(歌)忌中の黒染めの衣に 霞が籠った宿の桜を どこだと尋ね来られて 手折るのでしょうか

 

 こうした具合に姉妹は相変わらず突き放して、そっけない様子を見せるだけなので、「何とも残念なことだ」とニオイ卿は思い続けていました。恋心があまりに積る時は、ただひたすらカオル中納言をあれこれ責めて恨みました。「よくもおかしなことを言うな」とカオルは苦笑しながら、姉妹のいっぱしの後見人らしい顔をして受け答えをしました。ニオイ卿が好色っぽいところを時々見せると、カオルは「そんな不真面目な気持ちでは」と咎めてみると、さすがにニオイ卿も気になるのでしょう、「それはまだ心に叶った相手が見つかっていないからだよ」と言い訳します。

 そんなニオイ卿を夕霧左大臣はエレーヌの娘で、落葉上の養女になった六女フローラと一緒にさせたいと目論んでいました。しかしサン・カンタンの戦いで大敗北をくらい、捕虜にまでなってしまった後は、何においても表立っての行動は出来ずにいました。ニオイ卿にとっても「フローラは母王妃と夕霧を通じていとこ同士の近い存在である上に、大臣があれこれと世話を焼くのが煩わしい。ちょっとした浮気ごとでも見咎められてしまいそうなのが窮屈だ」と内心では思っているので、ほっておいていました。

 その年、ランブイエ城が火事となってしまい、山桜上もヴィンランド城へ移りました。カオルも何やかやと物騒がしさに巻き込まれてしまい、コンフランを訪れる機会も久しくなってしまい、姉妹をランブイエ城に移す思惑も遠のいてしまいました。生真面目な人物の心中はやはり普通の男とは違っていて、「いずれは自分のものになるのだから」と気長に考えています。「ジュヌヴィエーヴの心が許さない限りは、戯れたりぶしつけな振る舞いはしないようにしよう」と考えながら、「第八卿が言い残された言葉を忘れないでいることを深く認知して欲しい」と願っていました。

 

 その年は例年よりも暑くて、人々は難渋していました。「川辺なら涼しいことだろう」とカオルはコンフランを思い出して、急に向かうことにしました。朝がまだ涼しい時分に出掛けたのですが、コンフランに着いた時にはあいにくなことに差し出す日差しも眩いほどでした。

 カオルは第八卿が暮らしていた居間の西向きの縁先に入って、例の当直人を呼び出しました。姉妹はキリスト像がある隣の部屋にいましたが、「縁先に近すぎる」と自室に戻ろうとします。音を立てないように身じろいでいる気配が間近に聞えます。あろうことか隣室に通じるドアの端の掛け金をした所に、小さな穴が開いているのをカオルは知っていたので、ドアの前に立ててある衝立を引き寄せて覗き込みました。

 残念ながら穴の向こう側にも衝立が立て添えられていたので、「何とも惜しいことだ」と引き返そうとしたちょうどその時、風がカーテンをひどく吹き上げました。「中が丸見えになってしまいます。衝立をこちらにお出しなさい」と指示する侍女がいました。「面白いことになった」と嬉しくなって穴から覗いてみると、高いのも低い衝立もカーテンの方に寄せて、ちょうど二人が真向いの開いたドアから自室に戻ろうとしているところでした。

 

 まず姉妹の一人が出て来て、カーテンから覗き込むように、カオルのお供たちが庭を行ったり来たりしながら涼んでいるのを見ていました。妹のマドレーヌのようです。濃い鈍色のブラウスを橙色のスカートで引き立たせているのが、「中々趣が変わっていて花やかだ」と見えるのは、着こなしている人柄からなのでしょう。ベルトを形ばかり結んで、手に数珠を隠し持っていました。大層すらりとした体つきで、美しい人でした。髪は幅広のブラウスの裾よりも少し足りないくらいに見えますが、先の方まで乱れもなく、つややかでふさふさとして美しい。横顔なども何とも可愛らしく見えて、色つやが良く物柔らかで、おっとりした感じは、「第一王女ロゼリンもこういった風なのだろう」とちらっと拝見した姿と思い比べてため息を漏らしました。

 もう一人のジュヌヴィエーヴもそっと出て来て、「あそこのドアから見られているような気がします」とこちらに目をやって気を許していない様子は「嗜みがある」と感じました。頭の恰好や髪の具合は妹よりももう少し上品で、優美さでは勝っていました。「でもあそこのドアの前に衝立を立てておきました。そうすぐに覗き込むこともありません」と若い侍女が何気なく話しました。

「それでも見られていたら、大変なことになってしまう」と気がかりなように奥に入って行く様子は気高く、奥床しい気配が添っているように見えました。妹と同じような色合いの裏地がついた黒い夏服を着ていましたが、人を引き付けるような優美さの中に弱々しく痛々しい感じがありました。髪はそう多くはなく、抜け落ちてしまったのか末の方が少し細くなって、麗しいと言われるヒスイのような、大層きれいで絹糸を撚ったように見えます。紫の紙に書いた祈り文を片手に持っている手つきは、妹よりも細く瘦せ過ぎているように見えます。

 去りかけていた妹もまだドア口にいて、どういうわけか、こちらを見やって笑っているのがとても愛敬づいていました。

 

 

 

        著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata