その50巻 東屋 (カオル 二十五歳)
3.少将の変心に、母と乳母は憂憤して、姫君をマドレーヌに託す
そうとは知らない母君の方は、ひそかに婚姻の準備を急いで、侍女たちの衣装を整え、室内の飾りなどを由緒ありげにしていました。姫君の髪を洗わせて、身じまいをさせると、少将などといった類の人に見せるのが惜しい、穢れのない様子でした。
「可哀想なことだ。実の父親に認知されて育っていれば、父親が亡くなったとしても、カオル大将の言われたことにも、どうして身分不相応だと思い立つことはなかっただろうに。けれど、自分だけがそう思ったとしても、世間での外聞では知事の実の子と区別はしないだろうし、また真実を知っている人でも、かえって父親がいないと見下してしまうのが悲しいことだ」などと思い続けていました。
「それでも、今さら、そう言っても何になるものか。姫君が盛りを過ぎてしまうのも不快なことだ。身分が低くはなく、感じが良い人がこうやって熱心に言い寄って来たのだから」などと、自分の一存で婚姻を決めてしまいましたが、仲介人がとんでもなく口先が巧みで、まして女の身なので騙されてしまったのでしょう。「婚姻の日が明日・明後日に迫った」と思うと、姫君の部屋にじっとしていられず、忙しそうにうろうろしていました。
すると知事が室外から入ってき来て、淀みなく長々と言い続けました。
「私を疎んじて、私の娘の恋人を横取りしようとしたが、身の程をわきまえない、思慮が浅いことだ。父親から認知されてもいない女性を必要とする貴公子はいない。身分が低く、風変わりな私どもの娘を、たとえ身分不相応でも望んで来たのだ。姫君との婚姻をずる賢く企てたのだろうが、少将は『全く本意ではない』と言って、別の方に乗り換えそうにしていたので、『同じことなら私の娘を』と考えて、『そういうことなら、ご希望されるままに』と婚姻を許したのだ」などと、変に深い考えもなく、人の気持ちを考えしもしない人なので、母君に言い散らしました。
母君は呆れて、物も言えずにしばらく考えていると、世の中の心憂いことが次から次へと浮かんできて、涙が落ちそうになって来たので、その場を立って行きました。姫君の部屋に入ってみると、とても可愛らしく愛らしい感じなので、「そうと言っても、姫君は他の娘に劣ってはいない」と安心しました。
母君は乳母と二人になって、「辛いことは人の心ですね。自分ではどの娘の婿でも同じように思い扱うつもりですけど、『この姫君と縁があると思ってくれる人のためには、命を譲っても』と思っています。父親がいないと侮って、姫君を出し抜いて、まだ成人もしていない娘にこうやって言い寄るとは。こんな心苦しい少将を間近で見たり聞いたりしたくはないと思うものの、知事が光栄なことだと思って、要望を承諾して騒いでいるのは浅ましいことです。こんな似た者同士の狂騒には、一切口を挟むことはないと考えます。何とかして、ここではない場所に、しばらくの間でも滞在出来ないものでしょうか」と涙を流しました。
乳母もひどく腹を立てていて、「よくも私の姫君を見下したものだ」と思いながら、「何だか、これに代わって、幸せな違ったことが起きるかも知れません。少将はあのように悔しいほど見下げた男ですから、姫君の折角の様子も理解できないでしょう。心遣いがあり、物事を弁えている人にこそ、私たちの姫君を見せたいものです。カオル大将の姿・形をちらと拝見しましたが、本当に寿命が延びる印象を持ちました。その上、素晴らしいことにカオル様からのお話もあったではありませんか。運命に任せて、本当に思い決められたらいかがでしょうか」とまで言います。
「そんな滅相もないことを。世間の噂では、カオル様はかねがね、『ありきたりの女性など興味がない』と話されて、夕霧左大臣やロラン大納言、式部卿などが随分熱心に婿になることをほのめかされましたが、すべて聞き流して、安梨王が可愛がっていた第二王女ジョセフィン様を賜ったお方です。そんなお方がどれほどでもない者を誠実に思って下さるでしょうか。
『あの母上のランブイエ城に仕えさせておいて、時々は逢ってみよう』といったくらいなら考えてもみましょう。確かにそれも有り難い奉公となりますが、中々気が揉めてしまうことになります。マドレーヌ様を世間の人は『ああした幸せな人』と話していますが、心配事が絶えない様子を見ると、何と言っても浮気性がない人だけが体裁も良く、頼みになるものです。それは私自身が承知しています。亡くなった第八卿のご様子は思いやりが深く、ご立派で情愛がありましたが、私のことは人の数にも思って下さらなかったので、どんなにか情けなく、辛い思いをしたことか。
それに比べると、知事は言う甲斐もないほど風流さがない、みっともない人ですが、全く浮気心がない取り柄があるので、私はこの年月を過ごして来れました。まあ、折々には今回のように愛敬も気配りがなくて、憎らしいこともありますが、嘆いたり恨めしく思ったこともなく、お互いに口喧嘩をすることがあっても、気が合わないことは仕方ないと諦めています。
官位三位以上の高官や王族の人で、優雅で気恥ずかしい人に置いてもらったとしても、私のように人の数に入らなかったら、何の甲斐もありません。何事も自分の身分柄ということを思うと、何かにつけて姫君が不憫でなりません。どうにかして、人から笑われないようにして上げることが出来るでしょうか」と母君は乳母に話しました。
知事は実の娘の婚姻準備を急いで、「姫君の所には感じが良い侍女が大勢いるのだから、しばらくは実の娘にあてがってくれ。そのうち、仕切りなどを新しく仕立てた部屋が出来るそうだが、とにかく急なことなので、とりあえず仕切りなどを姫君の部屋に運んで、実の娘の婚儀に借用する」と言って、邸の西側にある姫君の部屋に来て、立ったり座ったりしながら、あれやこれやと飾り立てます。母君が見苦しくなく、隅々まで清らかにしていた部屋に、余計なことに屏風などを運び込んで、うっとうしいほど立て連ね、収納箱や二層棚を奇妙なほど付け加えて、得意がりながら急ぎます。母君は見るに忍びない思いでしたが、『口出しはしない』と言った手前、何も言わずに見やっていました。姫君は邸の北側に移りました。
知事は「あなたの本心を見知ってしまった。それはそれとして、どちらも同じ子なのだから、そこまでそっけなくすることはないと思っていた。それはそれで構わないが、世の中には母親のいない子もいるのだから」と、実の娘を昼間から乳母と二人で身なりをきちんと整えますので、見た目は感じ悪くはありません。年齢は十五か十六歳くらいで、とても小柄でふっくらとしていて、美しい髪の裾が小ぶりの上着にふさふさとかかっています。知事は「とても素晴らしい」と感じながら、身なりを整えさせます。
「どういうわけか、母君が特別扱いしている姫君に思いをかけていた男を実の婿に迎えるのはどうかな.とは思うものの、人柄が清新で際立って立派な人だから、我も我もと婿に欲しがっている人が多く、みすみす取られてしまうのは口惜しいことだから」と、仲介人にうまく乗せられて話すのも間が抜けています。
少将も「これほどの威厳のある扱われぶりは期待した通りだ」とあれこれ非難されることはないだろうと思って、約束した日の夕暮れから通い出した次第です。
母君と乳母はひどく情けない思いでした。非常識な扱いを受けている姫君を、何やかやと面倒を見ているものの、面白くはないので、母君はマドレーヌに手紙を送りました。
「これといった用事もないのに、馴れ馴れしくするのは、と恐縮して、思うように手紙を書くことはありませんでしたが、姫君に方角替えをしなければならない事態が生じまして、しばらく居場所を変えさせようと考えます。あまり人目につかずに生活できる隠れ部屋が貴邸にありましたら、とても嬉しいのですが。数にも入らない私一人ではかばうことが出来ず、哀しいことばかりが姫君に降りかかっていますので、何はさておき、お力になっていただけますなら」と涙を流しながら書いた文面でした。
マドレーヌは「可哀想に」との思いはしたものの、「亡き父卿が実の子と認知しなかった人を、一人残された自分が新たに付き合うのは、父卿に対してとても気が引ける。でもそうかと言って、その人が惨めな様子で世に散り落ちて行くのを、知らぬ顔でいるのも心苦しいことだ。お互いに格別なこともなく、散り散りになってしまうのは、父卿にとっても見苦しいことだろう」と思い悩みました。
母君はマドレーヌの副侍女長にも痛々しい手紙を送りました。
「何かそうなる事情があるのでしょう。そっけなく不愛想にはなさいますな。こうした劣り腹の姉妹と交じり合うのは世間にはよくあることです。あまり不人情なことはお話にならない方が良いのでは」などと副侍女長が言うので、マドレーヌは「それなら、あの西側に隠れ部屋をしつらえることにしましょう。むさくるしいでしょうが、しばらくの間、辛抱してもらって」と母君に伝えました。
母君は「とても嬉しい」と思って、内密に姫君を連れて邸を出ることにしました。姫君もあのマドレーヌ様と親密になりたいという気持ちを抱いていたので、破談の後にかえってこういうことになったのが嬉しいと感じていました。
知事は少将の扱い方について、「どれだけ立派なもてなしをしようか」と考えながらも、華麗さを目立たせることは知らないので、ただ南仏産の荒っぽい絹布などを押し丸めさせて放り出しました。食物もその場にぎっしりと運び込んで、声高に喚きます。それを下人たちはとても有難い頂戴物だと思うので、少将も希望通りに「賢明にこの家に取り入ることが出来た」と満足していました。
母君は「こうした騒ぎの最中に邸を出て行くのは偏屈なことだろう」と我慢して、ただ知事のやりたいままに任せて、見ているだけでした。
「客間やお供の控え所」と大騒ぎしながら用意しますが、邸は広いものの東側には娘婿の某少納言が住んでいて、男の子供も大勢いるので、どこにも場所がありません。そこで本来の姫君の部屋に新しい婿の少将が入り込んで住みついてしまったので、母君は姫君を回廊の端近くに住まわせるのはたまらなく気の毒に思って、あれこれ思いめぐらせているうちに、「ニオイ卿とマドレーヌ様の邸に」と思いついた次第です。
「知事は、人並みに扱ってくれる人がいない姫君を軽んじている」と母君は思うので、強いて許すようにもしていないマドレーヌの邸に、無理を承知で行かせました。乳母と若い侍女二人が付き添って、ヴァンセンヌ邸の母屋の西側の北、人気が遠い部屋に落ち着きました。一緒に付いて来た母君は、マドレーヌとは長い間離れ離れになっていましたが、マドレーヌにとっては実の母の姪であり、疎遠とは思われない人なので、マドレーヌに出逢っても恥ずかしさはありませんでした。マドレーヌが望ましい身の上になって、物腰も特別に若君をあやしている様子を羨ましく思うのもせつないことでした。
「自分も第八卿の夫人とは切っても切れない縁続きの者なのに、『奉公人』と言われたばかりに愛妾の一人に数えられなかったのが口惜しく、こうまで人から侮られるようになってしまったのだ」と思うと、こうやってマドレーヌ様と強いて親しくしようとするのは、味気ないことでした。
この邸は「悪い方角の間の籠り」と言っているので、尋ねて来る者は誰もいないため、母君も二三日ばかり滞在しましたが、今回はゆっくりとヴァンセンヌ邸の様子を観察しました。
4.姫君の母、ヴァンセンヌ邸に滞在中の見聞と感想
するとニオイ卿が邸に戻って来ました。気になった母君はものの隙間から覗いて見ると、とても美麗で、桜の枝を折ったような優雅さでした。
自分が頼もしい人だと思って、恨めしいこともあるものの、内心では「逆らってはいけない」と思っている知事よりも、容貌も品格もはるかに秀でて見える官位四位・五位の人たちが皆、かしこまって控えていて、「ああだ、こうだ」と自分の担当している事などを邸の職員に伝えています。加えて、顔も見知らない若やいだ五位の者たちが大勢いました。
知事の娘婿で、王さまの側仕えと内務省の役人を兼任している者が王宮からの使いとしてやって来ましたが、ニオイ卿の所まで近寄ることが出来ません。ニオイ卿ははるかに隔たった気配です。
「ああ、何というお偉い方だ。マドレーヌ様がこうしたお方に連れ添っておられるのはめでたいことだ。遠くから想像していた時は、『いくら立派な人たちと聞えたとしても、マドレーヌ様を辛い目にあわせているのでは』と、何となく気が晴れない推察をしていたが、浅はかなことだった。ニオイ卿の様子や容貌を見ると、一年に一度の出逢いであっても、とても幸せなことではないか」と母君は感じていますが、ニオイ卿は若君を抱いて可愛がっています。
マドレーヌは低い衝立を間に立てていましたが、ニオイ卿は衝立を押しやって、マドレーヌと何かの話をしています。マドレーヌの顔立ちは非常に美しいものでした。第八卿が侘しく暮らしていた有様と思い比べてみると、「同じ卿といっても、すごい隔たりがあるものだ」と母君は思いました。
ニオイ卿がカーテンの内側に入って行くと、若い侍女や乳母などが若君の相手をしています。人々が挨拶にやって来ますが、「気分がすぐれない」と言って、終日、マドレーヌの部屋で休んでいました。食事もこの部屋で取りました。
ニオイ卿がどんなことでも気高く格別な人に見えるので、「自分はのっぴきならない栄華を尽くすと気負ったとしても、並みの人間ならたかが知れている」と母君は思います。「私の姫君もこうしたお方と隣り合って並んだとしても、欠点があることはない。仰々しい勢いを頼りにして、父親の知事が『王族の后にもさせよう』と考えている娘たちと言っても、同じ我が子でありながら、姫君の気配とは比べものにならないことを思うと、やはりこれから後も心ざしは高く持つべきなのだ」と一晩中、これから先の夢を描き続けました。
翌日、日が高く上がってからニオイ卿は起床しましたが、「サン・ブリュー大后が例の病で苦しそうにしているから、見舞いに行かねば」と言って、衣装を着替えて出掛けました。その様子を見たくなって母君が覗いてみると、端正に身なりを整えた姿はやはり似た者はなく、気高く愛敬があって美しく、若君を中々手放すことが出来ずにあやしていますが、ポリッジや硬パンを食してからマドレーヌの部屋を出ました。
今朝から参上して、控え所で休んでいた人々がニオイ卿に近付いて何かを話している中に、すっきりとはしているものの、とるにたらない愛想もない顔をして、平服を着て剣を佩いている者がいました。ニオイ卿の前では物の数にも見えませんが、「あの人ですよ。知事の婿になった少将は。当初はここの姫君を、と決めていたのに、『知事の実の娘を娶ってこそ、大事にしてもらえる』などと言って、みすぼらしい童女と縁組をしてしまって」、「そうですね。このヴァンセンヌ邸の人たちは彼については少しも話しませんね」、「あの知事の方からは少将の噂をちょくちょく聞いてはいますが」などと、姫君の乳母や侍女が口々に言っています。
自分が聞いているとも知らずに、姫君の乳母や侍女がそんなことを言うにつけても、母君は胸が潰れて、少将を感じが良いと思った気持ちも口惜しく、「なるほど、特別でもない男だったのだ」と思うと、ますます少将を侮ってしまいました。
若君が内から這い出て来て、カーテンの端から覗いているのに目を留めて、ニオイ卿は引き返して若君に寄って行きました。「大后のお加減が良いように見えたら、すぐに退出して来る。なおも苦しそうにしているなら、今夜は王宮に宿直することになる。もうこの頃は、若君と一夜でも会わずにいると、気が揉めてしまうのが辛い」と言って、しばらく若君とじゃれ合ってから出て行きました。
その様子を返す返す見ていても見飽きるはずもなく、華やかで美しいので、母君は退出していった名残を物足りなく眺めていました。母君はマドレーヌの部屋に行って、ニオイ卿のことをひどく褒めると、「田舎臭いこと」とマドレーヌは感じて笑いました。
「母上が亡くなられた時は、マドレーヌ様は言いようもなく幼かったので、『どうなってしまうのだろうか』とお側の人たちも第八卿も思い嘆いておりました。それでもこの上もない運勢をお持ちだったので、あのコンフランの山里で育ちながら、大人になられました。ただ悔しいのは姉君のジュヌヴィエーヴ様がおられないことで、残念でなりません」と涙を流しながら話しました。
マドレーヌも涙を浮かべて、「この世で恨めしく心細い折々もありましたが、こうやって生き永らえていると、少しは気が慰められる折りもあります。その昔、頼みにする親たちとお別れしましたが、母上の時は何も覚えていないので、なまじっか『世の中に常にあることだ』と思い込むことにしています。それでもやはり、姉の死は悲しみが尽きません。カオル大将はあれこれと気を紛らわそうとされながらも、姉への思いが消えないことを憂えています。そうしたカオル様の浅くはない様子を見るにつけても、姉の死は本当に口惜しいことです」と続けました。
すると母君は「カオル大将殿は世に例がない程、安梨王が眼をかけておられたので、思い上がっているのでは。姉君がご在世だったとしても、第二王女ジョセフィン様との婚姻を堰き止めることは出来なかったのでは」と問いました。
「さあ、どうでしょう。私もフローラ様とのことがありますから、『同じようなことだ』と人に笑われている気がします。むしろ姉は亡くなった方が良かったのかも知れません。最後まで見届けることが出来ない方が奥ゆかしい、というのが人情である、と思うようにしています。ところが、あのカオル様はどういうわけでしょうか、不思議なくらい姉を忘れることが出来ず、亡き父卿の追善のことすら、思いやり深くお世話をしてくれました」などとマドレーヌは話しました。
「実を申しますと、そのお亡くなりになったジュヌヴィエーヴ様の代りに逢ってみたい、と取るに足らない私の姫君のことを、カオル様はあのベネディクト様に話されています。そうしてみようと思い寄っているわけではありませんが、『私の娘がジュヌヴィエーヴ様の妹にあたるからこそ』と恐れ多くもしみじみと思って下さるお志の深さを感じております」などと言ったついでに、この姫君の処置に困っていることを泣きながら話しました。母君は「「そう細かにではないものの、破談の件は世間にも知られたことだし」と少将が姫君を軽んじた様子などをほのめかしました。
「私が生きている限りは、何とか朝夕の話し相手になって過ごしてもらいますが、私が死んでしまった後は、思わぬように落ちぶれてさすらってしまうのが悲しいことです。ですから修道女にして深山に住まわせ、それ相応に世の中を思い諦めさせたなら、などと悲観しながら思い寄っている次第です」と話しました。
「本当に心苦しい有様のようですが、何にしても人に侮られてしまうようになってしまうのは、私たちのように父親がいない宿命です。そうかと言って、深山に籠ってしまうことなどありえません。ひどいことに父卿は私にもそうさせる積りだったようですが、私ですらはからずも、こうやって永らえているのですから、なおさらあってはならないことです。修道女に姿を変えるのはもったいない容姿をしていますから」と大人びた返答をしたので、母君は「とても嬉しいことを」と喜びました。
母君はもう老け始めてはいるようですが、由緒ありげな様子でこざっぱりとしています。ただひどく太り過ぎていて、中央山塊の人のように見えます。
「亡き第八卿が無情にも私と姫君を突き放してしまったので、姫君はとても人並みには扱われず、世間からも侮られていると見ていましたが、こうやってお世話をして下さるにつけて、第八卿とのかっての悲しみを慰めてくれます」などと、長年の話や浮いた島の辛さを話しました。「私一人の悲しみ」を語り合う人もいない、中央山塊での生活も、躊躇せずに話しました。
「いつまでもお側に侍らせていただきたいと思ってはいるものの、知事の邸では厄介で足手まといの者たちがどんなに立ち騒いで私を捜していることか。さすがに落ち着かない気がします。そうした状態の中に身を任せているのは口惜しいことだ、とつくづく思い知りましたが、ただこの姫君はこちらにお任せして、私は関わり合わないことにします」などと、マドレーヌを頼りにしますので、マドレーヌは「姫君をみっともないようにしなくては」と判断しました。
姫君には容姿も気立ても憎めない愛らしさがありました。大袈裟にはにかむこともせず、無邪気におっとりとはしているものの、才覚がないこともなく、マドレーヌの近くに仕える侍女達にはうまく姿を隠していました。
「何かを話す声も、不思議なほど亡き姉君を思い起こしてくれる。姉の身代わりの人像を求めている人に見せたいものだ」とマドレーヌが姉君を思い出しているその時、「カオル大将がお越しです」との声が聞こえたので、侍女たちは例の衝立を立てたりして、心配りをしました。
「それでは私もカオル様を拝見させてもらいます。ちらっとお見掛けした人は、並々ではないお方のように話していましたが、ニオイ卿のご様子と並ぶことはないでしょう」と母君が言うと、マドレーヌに仕える侍女達は「そうですねえ」、「優劣は決めかねませんね」と言い合っていました。
「二人が並んでいる様子を見ると、ニオイ卿は情がないように見苦しく見えますね。でも別々に見てみると、どちらもともかく優劣をつけることは出来ません。容貌の良い人は横にいる人を消してしまうのが憎いですね」とマドレーヌが言うと、侍女たちが笑って、「それでもニオイ卿がカオル大将に負けることはありせん」、「どれほどの人がニオイ卿を消してしまうでしょうか」と言っているうちに、「ただ今、馬車から降りられました」との声がしましたが、やかましい程のお供達が声高にわめいていて、カオルの姿はすぐには見えません。
カオルはマドレーヌ達を待たせるようにした後、邸に入って行く様子は「ああご立派で愛らしい」とは見えないものの、柔和で気品があって小奇麗でした。見ているこちらの方が気恥ずかしくなるようで、額髪などにも気を配っていて、きまり悪そうに心遣いをする、この上もない様子をしていました。王宮からの退出なのでしょうか、多くのお供達の気配がします。
「昨夜、サン・ブリュー大后が病んでおられる旨を聞いて、王宮に出掛けましたが、大后のお子様たちがおられなかったので、気の毒になってニオイ卿の代理として今まで付き添っていました。ニオイ卿はひどく遅く王宮に参りましたので、貴女のお加減が悪いのだと察しまして」とカオルが話しましたが、マドレーヌは「まあ何て一通りではない思いやり深い心遣いをいただいて」とだけ答えました。
カオルはニオイ卿が王宮に宿直するのを見定めて、何かしらの意図があってやって来たのでしょう。いつものように昔の話をとてもなつかしそうに話します。ただ何かにつけて、ジュヌヴィエーヴが忘れ難く、世の中が億劫になっている話をはっきりとは言わずに、それとなく触れて嘆いています。
「そうと言っても、どうしていつまでも心から離れないのだろう。やはり姉君に熱心に言い寄った経緯があるので、あっさりとは忘れられないのだろう」などとマドレーヌは見なすものの、カオルの素振りは隠しきれるものではなく、マドレーヌも岩や木のように心情を持っていないわけでもないので、会っているうちに次第にカオルの悲しい気持ちを理解して行きました。
色々と恨みの話が多いので、たまらなくなったマドレーヌは、そうした傷心を止める「清め」をさせたいものだと思ったのでしょうか、あの姉の人像のことを言い出して、「内密でこの邸におりますよ」とほのめかしました。カオルは冷静にはいられず、出逢ってみたくなりましたが、いきなりさっとその人像のもとに移ろうという気持ちには、やはりなれないでいます。
「さて、どうだろう。そのご本尊が私の願いを叶えてくれるなら尊いことだが。出逢った時、満足出来なかったら、むしろ山の水も濁ってしまう」とカオルが言うと、「とどのつまりは、嫌らしく悟った聖(ひじり)心ですね」とマドレーヌがふっと笑ってしまうのを、母君は物陰からおかしく聞いていました。
「いや、そうしたらその人像の母君に私の気持ちを伝えて欲しい。こうした『嫌らしい聖心』といった言い逃れの言葉を聞くと、ジュヌヴィエーヴのことを思い出して容易ならない」と言いながら、また涙ぐんでしまいました。
(歌)ジュヌヴィエーヴの人像であるなら その女性を側において 亡き人を恋しくなる折々に撫でてあげることにしよう
とカオルは冗談にしてごまかしました
(返歌)その人を身代わりの人像にしようと言われますが 誰が連れ添って行きたいと お頼みしましょうか
「引く手あまたの貴方ですから、その人が可哀そうです」とマドレーヌが返しました。
「最後に落ち着く先は言うまでもなく貴女です。貴女ははかなく消えて行く水の泡と競い合う身なのですか。川に流されて行く人像というのは、いやはや本当のことですね。どうして人像で慰めることが出来ましょう」などと、カオルが話しているうちに暗くなって来たので、マドレーヌは面倒になってしまいました。
「しばらくの間、この邸に泊まっている人も妙だと思ってしまうのも気が引けます。やはり今夜は早く帰って下さい」と追い立てるように話しました。
「それなら、その客人に、こうした人像の願いは長年抱いて来たもので、突然の思い付きではないことを話して、私が中途半端ではないことを伝えて下さい。こういったことは不馴れなので、何かにつけてみっともない程気後れをしてしまう」と告げて邸を出ました。
「本当にご立派で、思っていた通りのような様子をされていた」と母君はカオルに感心して、「乳母がふっと思いついて、『カオル様を婿にされたら』と度々言っていたのを、『ありえないこと』と私は否定したが、こうしたカオル様の様子を拝見すると、年に一度、天の川を渡って来る婿として相応しい方なので、待ち受けをさせることにしよう。私の姫君は並み一通りではない男に見せても惜しくはない容貌をしているのに、中央山塊の無骨な男達ばかりを見馴れていたので、あの少将を賢明な男と思ってしまったのだ」と考えると口惜しくなりました。
カオルが寄り添っていた真木柱や敷物にも、名残のように匂っている移り香ですら、言うのがわざとらしいほど、母君にとっては有難いものでした。時々カオルを見る侍女達も、その度ごとにカオルを褒めています。
「聖書などを読むと、功徳が際立っていることが書かれていますが、キリスト様が香ばしい匂いを尊いものとおっしゃっているのは、カオル様を見ると納得します」、「旧約聖書などにも取り分け書かれている、何とかと言うシナイ山の香木なども、ものすごい物に思えますが、真っ先に大将殿の振舞いを近くで見ると、キリスト様は本当のことをおっしゃったのだと思われます」、「幼い頃から修行もしっかりされていました」などと言う者もいました。また、「前々から、心が引かれるご様子でしたし」などと、口々に讃えているのを、母君は予期もしない微笑みを浮かべて聞いていました。
マドレーヌは内緒でカオルが話したことを母君にそれとなくほのめかしました。
「カオル様は一旦思い染めると、執念深いほど浮ついたこともなく、こだわってしまいます。確かに近頃、ジョセフィン様と結婚された様子などを考えると、煩わしい思いはしますが、『世に背いて深山に住まわせても』と考えているなら、同じことだと思って試みたら」と話しました。
「姫君には辛い目を見せず、人にも侮られないようにと感じたからこそ、鳥の音も聞こえない深山の住まいまで思いついたのです。実際にカオル様の様子や気配を見させていただいて思ったことは、たとえ下仕えの身分でも、あのようなお方の側近くに置いていただくのは、私にとっても生き甲斐があります。まして若い人ならカオル様に心が引かれることでしょうが、数にも入らない身にさせて、物思いの種を蒔いてしまうのもどうかとも。『身分の高いも低いも、女という者は男女関係が原因になって、この世だけでなく後の世にまで苦しい身になるのだ』と思うと、姫君が不憫にも思われてしまいます。でもまあ、マドレーヌ様のご意向にお任せします。ともかく、姫君を思い捨てずに、お世話をしていただけますなら」と母君が話すので、マドレーヌはひどく煩わしくなって、「そうですねえ。カオル様の心深さに安心して身を任せたとしても、その先がどうなるかは、分かり難いですからねえ」と溜息をついて、それっきり黙ってしまいました。
夜が明けると、知事が母君を迎える馬車を寄越して、手紙で大層腹立たしそうに脅し文句を書いていたので、母君は「あれこれお頼みいたします。やはり今しばらくは匿っていただいて、山奥の住まいに移させるとか何とかを思案しますので、数にも入らない者ではありますが、思い捨てにならずに色々と教えて下さい」などと泣きながら、邸を去って行きました。姫君はいつも一緒にいた母君と離れてしまうのをとても心細く感じながらも、『当世風で興味深く見える辺りに、今しばらくでも住まわせてもらえば』と思うので、さすがに嬉しくなりました。
母君を乗せた馬車を引き出している時分に少し明るくなって来た時、ニオイ卿が王宮から退出して来ました。若君に早く会いたいので、忍び歩きの風にして、馬車などもいつもとは違った劣ったものにしていましたが、すれ違った母君の馬車が立ち止まっていると、ニオイ卿の馬車は回廊に寄せて、ニオイ卿が下りて来ました。
「何の馬車なのだろう。まだ暗いうちに急いで出ようとしているのは」とニオイ卿は目を留めました。「忍んで通っている者はこうやって帰って行くものだ」と、これまでの経緯からカオル大将ではないのか、と思い寄るのは不安からでしょうか。
「ピュイ・ドゥ・ドーム殿のご退出です」と母君の馬車の者が言うと、ニオイ卿の若い供人たちが「『殿』とは大袈裟な」と笑い合うので、母君は「確かにニオイ卿とは身分が劣っているのだから」と悲しくなりました。ただ媛君のことを思えばこそ、自分も人並みらしい者になりたいと願っていました。まして媛君をつまらない男に嫁がせて、みすぼらしくしてしまうのは情けないことだと、改めて思いました。
ニオイ卿はマドレーヌの部屋に入って、「ピュイ・ドゥ・ドーム知事殿という人物はこちらに通っているのですか。情緒ある朝ぼらけに急いで帰っていったが、馬車のお供などは人目を避けているように見えた」と、やはりカオル大将ではないかと疑っているように話すので、「聞き辛く、見苦しいことを」とマドレーヌは思って、「副侍女長などが若かった頃の男友達なのでしょうが、特に目新しくにも見えませんが、何か仔細ありげに話されますね。人が聞き咎めてしまう風なことばかり、いつも解釈されますね。濡れ衣は立てないで下さい」と横を向いてしまうのが、あどけなく可愛いのです。
翌朝、夜が明けたのも知らずにニオイ卿が寝ていると、多くの人々がやって来たので、ニオイ卿は本殿に行きました。サン・ブリュー大后の病は大したこともなく、快方に向かっているということなので、皆、気分が良く、夕霧左大臣の息子達などはチェスや詩句の末尾当てなどで遊びました。
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