景行朝の爛熟  「謎の四世紀解読」 第二篇)

      

〔1〕播磨への旅   ―― ヲウス(小碓)とオオウス(大碓)の誕生 ――

 

1.早熟の少年時代

 

 オシロワケ王子(大帯日子淤剘呂和氣。景行天皇)は、人見知りが強く無愛想な兄イニシキノイリヒコ(印色入日子)に較べて人懐こかったことから、幼い頃から侍女たちにちやほやされて育ち、世の中は自分の思い通りに動いていくと思い込むようになっていました。性の目覚めも早熟で、十歳をすぎてしばらくした頃、いたずら心の年増の侍女に誘われて女性の味を覚えてからは、隙を見つけると宮中に侍る侍女の部屋に忍び込んでいました。母后ヒバスヒメ(氷羽州比売)はそれに気付いていましたが、大事な跡取りであるからとかばって、父のイクメ王の耳には入らないように努めました。

 

 成人と見なされる満14歳が近づいた頃、なじみになった侍女の部屋に忍びこもうと、使用人の館をうろうろしていると、侍女や家臣たちが集う食事処から談笑が漏れてきました。そっと近付いて耳を傾けていますと、諸国の女性比較で盛り上がっていました。

「尾張の女性はああだ、こうだ」。「出雲の女性はああだ、こうだ」と果てしない水掛け談義が続くうちに、播磨出身とおぼしき男が真打は私だ、と言わんばかりに一段高い声で「皆さんの話を聞いていると、播磨の美女をご存じないようですな」と切り込みました。「播磨に住む印南の別嬢(ワキイラツメ。播磨稲日大郎姫オナビノオオイラツメ)こそ、きわめつきの絶世の美女です。皆さんも出会ってみたら、間違いなく卒倒してしまいますよ。この女性の端正(きらきら)しさは群を抜いて秀でています」。

「その美人の素性を教えろ」。

「吉備と播磨を治める若建吉備津日子を祖とする吉備氏一族に属します。前王の治世末期に丸部(ワニベ)臣等の始祖である比古汝茅(ヒコナムチ)が国の境を定めに播磨に派遣されました。その時、吉備比古と娘の吉備比売の二人が出迎えました。比古汝茅が吉備比売を娶って、誕生した娘です」。

 

 

2.播磨への旅立ち

 

「その印南のワキイラツメを是非とも自分のものにしてみたい」。

 オシロワケ王子の思いは日に日に募っています。

「思い切って自ら播磨へ出掛けていこう」。

 

 すでに皇太子候補の筆頭として大事に育てられていた王子は大和盆地の外へ出たことはありませんでした。冒険心も加わって、母后たちには内密に、はやる心を押さえながらこっそり旅支度を始めました。仲介役に選んだのは賀毛郡の山直等の始祖である息長伊志治でした。それにお伴を三人加えた五人のこじんまりしたものでした。王家の者とばれないように、身をやつして旅商人の一団を装い、まだ暗い時分に纆向の大市場を後にします。

 摂津国の淀川の高瀬の渡りに到着して、淀川を渡ろうとします。客待ちをしている船頭に声をかけました。船頭である度子(わたりもり)は紀伊国出身の船乗り小玉でした。

 

「舟に客が埋まるまで、待っていな」と小玉はぶっきらぼうに答えます。

「すると船出はいつになる」。

「客の集まり次第でさ。今日は通行人が少ないようだから、夕暮れ時になるか、ひょっとすると明朝になるかも知れない」。

「そんなことを言わずに、すぐに舟を出してくれ」。

「あなた方が王さまの贄人(にえびと。使臣)なら、すぐに舟を出しもするが、あなた方は贄人ではあるまいし」と小商人の一行を見下した小玉はそっけなく答えます。

 そこでオシロワケ王子は若造の商人口調で「君(朕公。あぎ)ね、とにかく川を渡しておくれ」と詰め寄りますと、「本心で渡りたいと欲しているのなら、渡りの賃をはずんでおくれ」と応酬します。

 王子は旅装用として頭につけていた、赤、青と緑の鮮やかな彩りをした絹製の弟縵(おとかづら)をはずして舟の中に投げ入れますと、絹の縵の光明が輝いて舟に満ちあふれました。一目で高価な代物と気付いた小玉はころっと態度を変え、すぐに舟の梶を取って一行を対岸に渡しました。それに因んで、着いた場所は「朕君(あぎ)の渡」と呼ばれるようになりました。

 

 無事に淀川を渡った一行は左手に淡路島を臨みながら摂津を海沿いに進んで播磨に入り、明石郡の宿場町(駅)に到着しました。ここで御食(みあへ)を供されましたので「廝(かしはで)の御井(みい)」と呼ばれるようになりました。

 あいにくなことに宿場は人の出入りが多く、宿という宿は満杯でした。焦った息長伊志治はようやく宿を確保しましたが、あてがわれた部屋は商人宿でも低い身分の者が泊る薄汚れた部屋で、部屋に入るとすぐにノミの集団が襲ってきました。

 こんな粗末な場所に王子を泊らせることができようか。ノミに食われた腕をさすりながら、伊志治は「もっと良い部屋をあてがってくれ」と宿の主人に交渉しますが、らちがありません。

 

 すると「息長様ではありませんか。どうしてこのような木賃宿におられるのですか」と話しかけてきた者がおりました。運が良いことに王宮の盤所に出入りしている播磨の商人でした。息長伊志治の横に立っている少年はちらっと見かけたことのあるオシロワケ王子にそっくりでしたので、さらに驚きました。観念した伊志治は、商人を片隅に引き寄せて、かくかくと播磨に妻問いに来た事情を話します。 事情を飲み込んだ商人は縣主の許へ駆け込み、縣主の番頭にかけ合って別棟に部屋を確保しました。その後、商人は吉備比古に急使を送ってオシロワケ王子の妻問いを知らせます。

「王宮でも王子が行方不明になって、大騒ぎとなっていることだろう」と王宮に仕える知り合いにも使者を送りました。

 

 

3.妻問い

 

 急使の報告を両親から聞いたワキイラツメは畏れ多いことと驚いて、賀古の郡と印南の郡の境を流れる印南川(加古川)河口の南の海中に浮ぶ小島に逃げ渡り、隠(なび)れてしまいます。

 

 オシロワケ王子一行は明石郡から賀古の郡に入り、鴨波里から田が細長く続く里に着きました。土壌は中の中でした。王子が「長い田が続くな」とのたまったので、長田の里と呼ばれます。

 そこから加古川中流に上って行くと、印南川が大きく左折している地点にぶつかりました。土壌は中の上です。王子はこの村の川が曲がっているのを見て、「この川の曲がりはいと麗しい」と感嘆しました。そこで「望理(まがり)の里」と呼ばれるようになりました。

「あそこの鹿(か)の児の姿によく似た丘に登ってみよう。

 その丘にはオオミツハ(大御津歯)と御子イハツヒコ(伊波都比古)の親子神が祀られていましたが、ある者が狩りをした時、一匹の鹿がこの丘に走り登って「比々」と鳴きました。それに因んで「日岡」と呼ばれていました。眼下に印南川が流れる日岡に登ったオシロワケ王子は四方を望み覧て、「この地は丘と原野が続いてとても広大だ」と喚声しました。そこで王子が見下ろした地域は「鹿児(かこ)」にちなんで「賀古の郡」と名づけられました。

 

 印南のワキイラツメの居所を捜しつつ、海辺にある賀古の松原に下って行きますと、白い犬が海に浮ぶ小島に向ってしきりに吠え続けています。「この犬の持主は誰なのか」とオシロワケ王子が尋ねますと、須受武良首(すずむらのおびと)が答えて「飼い主は印南の別嬢でございます」と答えます。「よく告げてくれた」と喜んだオシロワケ王子は「告首(つげのおびと)」の名を与えました。

 ワキイラツメが小島に忍んでいることを知った王子は自分も川を渡ろうと欲しました。 海辺の船着場がある鴨波里の阿閇津(あへつ)に着いて御食を供されます。それに因んで「阿閇の村」と呼ばれます。江に泳ぐ魚を捕獲して御坏物(みつきもの)としましたので「御坏江」と呼ばれます。舟に乗り込んだ所に楉(しもと。細枝)で棚(榭)を作りましたので「榭津(たなつ)と呼ばれます。

 

 王子は正装に着替えをして、上結に八咫の勾玉をつけ、腰に御佩刀(みはかし)の八咫(やた)の剣を佩き、下結に麻布都の鏡を掛けました。

 ようやく川を渡って、ワキイラツメと相見合います。「この嶋に隠(なび)れ逃げた愛しの妻よ」と愛の言葉をのたまわります。それに因んで小島は「なびつま(南び疅)都麻(つま)嶋」と呼ばれます。

 もはやワキイラツメは逃げおおすことができません。逃亡でやつれたせいか、触れば折れてしまいそうなはかなさが、男を引き付けます。宮中の年増の、擦れきった女性しか知らなかった王子にとっては新鮮でした。身なりをきちんと整えた姿を想像すると、なるほど、話に聞いた通りの美女でした。

「私の后になってください」。

「私は田舎者。身分も王家の后になるほどでもありませんし、あなたよりも年上です」。

 

 王子は躊躇するワキイラツメを必死に口説き落とします。しばしの間、歌垣のやり取りが続いた後、ワキイラツメ(播磨稲日大郎姫イナビノオオイラツメ)は首を縦に振って承諾します。

 オオイラツメを手を取って島岸に下りた王子は、二人の舟を編合いして陸に戻ります。船頭を務めた梜杪(かぢとり)伊志治(いしぢ)に「大中の伊志治」の名を与えました。

 陸に上った二人は印南の六継(むつぎ)村に至って、初めて密事(むつびごと)を成しました。それに因んで「六継(むつぎ)の村」と呼ばれます。

「ここは波の響(音)と鳥の声がうるさすぎる」とのたまって、高台にある高宮に遷りました。それに因んで「高宮の村」と呼ばれます。この時、酒殿を造った処を「酒屋の村」、贄殿(にへどの)を造った処を「贄田(にへた)の村」、室(むろ)を造った処を「館(むろつみ)の村」と名付けました。

 

 その後、城宮に遷って、結婚の祭典を挙げました。お供の息長伊志治にはワキイラツメの侍女、出雲臣比須良比売(ひすらひめ)があてがわれました。

 

 

4.双子のオオウス(大碓)とヲウス(小碓)の誕生

 

 城宮で新婚の蜜月生活が始まりました。同じ新婚の息長と比須良比売が城宮の管理人となって、かいがいしく新婚夫婦の世話をします。

 オシロワケ王子は旅の楽しさを覚えました。アナゴとタコを筆頭に海辺の新鮮な魚に舌鼓をうちつつ、播磨の生活を堪能します。都の父王から帰還の命令が来ても、知らん顔でした。賀古の郡にこのまま居ついてしまおうとも思います。印南川をはさんで日岡の対岸にある、土壌が中の上の益気(やけ)の里に御宅(みやけ。三宅)を造りました。それに因んで「宅(やけ)の村」と呼ばれます。

 

 イナビノオオイラツメ (ワキイラツメ)にとっては最も幸せな、思い出深い地となりました。すでに皇太子の座が内定していることを知った祖父の吉備比古はオオイラツメの父であるヒコナムチの身分が后の父としてはさほどの高い地位でもないことから、オオイラツメを自分の養女として遇することにしました。

 直にオオイラツメは懐妊し、双子オホウス(大碓)とヲウス(小碓)が誕生しました。ところがいつもの浮気虫がもたげてきた王子は、妊娠中の姉の手伝いにやって来た妹イナビノワカイラツメ(稲日稚郎姫)にも手をつけてしまいました。

 

 

〔2〕美濃とヤサカイリヒメ(八坂入媛)

 

1.オシロワケ王子の即位

 

 しびれをきらしたイクメ王(イクメイリヒコイサチ、伊久米伊理毘古伊佐知。垂仁天皇)はオシロワケ王子(大帯日子淤剘呂和氣。景行天皇)を都に連れ戻そうと、50人に及ぶ兵士を播磨に送り込みましたので、王子はしぶしぶイナビノオオイラツメ(播磨稲日大郎姫 )と双子の赤子を伴って、都に戻りました。祖父の吉備比古はオオイラツメの後見役として兄ミスキトモミミタケヒコ(御鉏友耳建彦)の息子、キビタケヒコ(吉備建彦)をつけました。

 都に戻った王子はすぐに父王に呼び出され、諌められます。

「お前は皇太子の筆頭候補なのだから、ふらふらと外歩きをする身分ではないことを自覚して、身を慎まねばならない。女癖が悪いこともしばしば耳にするが、それも自重するように」。

 

 イクメ王はイナビノオオイラツメと初孫となる双子とも接見しました。きらびやかに正装したオオイラツメは想像していた以上の美しさでした。「自分の后にしたいほどだ」との思いがイクメ王の頭をかすめました。色恋の虫は歳老いても騒ぎだすことに驚いて背筋がぞくっとしました。その動揺を悟られないように、視線を脇に座る双子に移しますと、ヲウス(小碓)の鋭い眼光に気付きました。この子は大人物となる可能性を秘めている。無事に育っていくなら、自分の后オトカニハタトベ(弟綺戸辺)が産んでまもないフタヂノイリビメ(布多遅能伊理毘賣、両道入姫)と一緒にさせてみたら、との思いがふと頭に浮びました。

 

 大和の王宮に移り住んだオオイラツメの不慣れな王宮生活にあれこれ世話を焼いたのがヤマトヒメ(倭姫)でした。ヤマトヒメは三男二女をもうけた正后ヒバスヒメ(日葉酢媛)の次女で、オシロワケ王子の同腹の妹にあたります。オオイラツメは年下のヤマトヒメを頼りにして、しばしば相談に乗ってもらいました。ヤマトヒメは双子の王子、とりわけ父のイクメ王と同じようにヲウスに王者の資質を感じ取り、ヲウスを実子のように可愛がりましたので、ヲウスもヤマトヒメになつきます。

 残念なことにヤマトヒメは王家の祖神であるアマテラス大神を祀る場所特定の旅に出ました。祀る場所を伊勢に定めて伊勢での生活を始めたことから王宮から離れてしまいました。せめての救いは妹も後宮入りして王宮に暮すことになったことですが、その妹も都と王宮の水に合わず、二人は肩を寄せ合いながら、ひっそりと王宮生活を続けます。

 

 イクメ王が崩御してオシロワケ王子が即位しました。イナビノオオイラツメは正后となり、形式的には外戚の座は吉備氏となり、オオイラツメの後見役として大和に在住するキビタケヒコの立場が重くなりました。ところがアマテラスを祀る社の場所探しで連携を組んだ阿倍氏と尾張氏が新王の左右の肩を支える筆頭氏族の地位を固めたことから、キビタケヒコは脇に追いやられてしまいます。

 

 父親の顔色をうかがって、おとなしくしていた新王の浮気癖が再燃します。しばらく抑えていた反動でか、手当たり次第に女漁りをします。オオイラツメは夫の浮気を見て見ぬふりをしながら、夫の浮気まで干渉する余裕はありませんでした。すでに十歳を越えた双子兄弟、ことにヲウスの成長が唯一の慰みでした。

 オシロワケ王はヲウスの顔を見る度に父王が語った「王者の眼」という言葉が頭をよぎります。

「父王は私には『王者となる眼をしている』とは一度だに口にしたことがなかった」と無意識のうちにヲウスに嫉妬心を抱いていました。その反動もあってか「オオウスの方が自分の要領の良さを受け継いでいて、馬が合う」ともっぱら兄のオオウスを可愛がります。世間でもオオウスは父親似、ヲウスは母親似という評判でした。 

 

 

2.八坂入媛と尾張氏

 

 即位して数年が過ぎ、阿倍氏と尾張氏が主導する治世は順調に推移し軌道に乗った感を与えます。

 

 オシロワケ王は尾張氏の家臣から美濃に住む八坂入彦の娘姉妹、姉ヤサカイリヒメ(八坂入媛)、妹オトヒメ(弟媛)、ことにオトヒメはまれにない佳人と聞きました。八坂入彦は祖父のミマキ王と尾張の健宇那比の娘、オオアマヒメ(大海姫)との間に産まれた王子で、オシロワケ王の腹違いの叔父にあたります。

 美濃国に着いたオシロワケ王はまず妹のオトヒメを捜します。王の来訪を知ったオトヒメは竹林に隠れてしまいます。王は正后オオイラツメが加古川河口の「なびつま嶋」に逃げ隠れたことを思い出しました。あの時はオオイラツメが飼っていた犬が隠れ場所を教えてくれた。今回はどうやったらオトヒメの居所を見つけ出せるだろうか、と思案します。

 

 泳宮(くくりのみや)に落ち着いた王は、何気なく、地元育ちの泳宮の使用人に、弟媛が愛玩する動物を聞いてみました。

「聞く所によれば、オトヒメは鯉の鑑賞がお好きのようでございます。ご自分のお屋敷の池でも鯉を飼われておられるとのことです」。

 都合がよいことに泳宮には山に湧き出る泉を引いた大きな池がありました。目の前の大池を見ているうちに「そうだ。この池に沢山の鯉を放してみることにしよう」と思いつきました。

 泳宮の大池にこれまで見たこともないような珍しい鯉が大量に放たれました。その噂は竹林の小館にひそんでいる弟媛の耳にも入りました。どうしても一目見たい衝動に駆られたオトヒメはある早朝、泳宮に忍び込みましたが、運悪く待ち構えていた王の側近につかまってしまいました。

 

 弟媛は成人と見なされる14歳を過ぎたばかりで、まだ幼さが残っていました。朝露に濡れたツボミから花が開きそうな可憐さに、王は新鮮な魅力を感じました。まだ大人になったばかりだが、成長するにつれ、美麗な大輪になっていくことは間違いはありません。

 反対にオトヒメは今も昔も変わりはないように見える夫婦の道は、自分には適していないと自覚していました。加えてオシロワケ王の后になると女漁りで苦労させられると直感で悟ったことから、うまく逃げ切る覚悟を固めました。

「私は色恋沙汰の道には不向きな者のようです。たとえ王さまの厳命で王宮入りしたとしても、本心から歓びがわいてくるわけでもありません。それにそれほどの美形でもありません。宮仕えを始めても堪えていくことはできず、長くは続くことはありません。代りにと言うわけではありませんが、私の姉、八坂入媛は容姿端麗の上、志もまた貞潔です。是非とも王宮に招き入れてください」と大人びた口調できっぱりと申し上げます。

 

 理路整然と自分の意見を述べる弟媛の態度に出鼻をくじかれてしまったのか、「弟媛にはまだ青臭さが残っている。もう少し成長してから、折りを見て王宮に召すことにしよう」と珍しいことに王はそれ以上の深追いを止めてしまいました。

 妹が推した姉の八坂入媛は適齢期の18歳でした。王の申し入れにすんなりと頷きます。尾張氏の総領で、大海姫の甥、八坂入彦の従兄弟にあたる倭得玉彦も一族の王宮入りにご満悦で、はなむけにそれ相応の祝宴、儀式を催して都に送り出しました。

 

 

3.オオウスと美濃

 

 オシロワケ王は同じ頃、同じ美濃に秀でた美女姉妹がいることを耳にしましたが、二股はやめて、王子のオオウスを自分の名代として送ることにしました。

 父王の名代として美濃に出掛けたオオウスは国造の神骨(かむぼね。大根王)の屋敷を訪れます。オオウスはおずおずと訪問の理由を打ち明けます。

「娘二人をオシロワケ王に献上するということか」。

 神骨は王に献上しても構わないとしても、身分が劣るからと王宮で苦労を重ねることだろうとあれこれ自問自答を重ねますが、娘の王宮入りから獲得できる利得を計算すると「素直に申し入れを受けた方が得策だ」という結論に達しました。神骨は姉の兄遠子(えとほこ。兄比賣)、妹の弟遠子(おととほこ。弟比賣)を宮廷に献上する支度を始めました。

 

 「オオウス王子はまだ子供だから、娘たちと引き合わせても間違いが起ることはないだろう」と娘二人を王子に紹介します。エトホコは16歳、オトトホコは王子より2歳ほど年上の14歳でした。姉妹は都の様子、王宮の様子をオオウスにせがみます。姉妹とオオウスは気があったのか、オオウスは弟のような存在となって仲睦まじくなります。オオウスが姉妹と同室の部屋で寝泊りする夜もありました。

 次第にオオウスの性が目覚めていきます。夢を見ながら射精をしてしまうことも度重なりました。

「大人になるということはこういうことなのだ」。

 

 姉妹を女性として見るように変っていったオオウスは「父王には手渡さず、自分のものにしよう」と意を決し、姉妹とひそかに密通してしまいます。

 さほど広いものでもない屋敷でしたから神骨もオオウスと娘二人がただならぬ関係に陥ってしまったことに勘付きました。オオウスを呼びつけて怒りをぶちまけますが、「ご心配は無用です。姉妹は私の妻として大事に守っていきます」とあっさりと答えますので、開いた口がふさがりません。

 「傷物になってしまった娘を今さら、王に献上はできない。どうしたものだろう」と頭を抱えていると、早くも入り婿然とするオオウスが「話は簡単です。姉妹の代りを見つけて都に送ればよいだけです」と入れ知恵します。

 

 神骨は遠縁の縁者の中から、娘二人と同年輩の姉妹を探し出して、都に送ります。それまでの経緯を知らない二人は後宮入りに有頂天となって都に向います。

 ところがオシロワケ王は距離を置いて二人を眺めるだけで、寝屋に招き入れることもありませんので、姉妹は戸惑い苦しみます。

「話に聞いたほどの美人でもないし、国造の娘としては素養に欠けている感もある。加えてオオウスは美濃にいついてしまって、都に戻って来ない、ということはどういうことなのだろうか」。

 

 オシロワケ王は様子がおかしいことから、事情を知るために、美濃に使者を送って調べさせますと、都に送られた二人は別人で、オオウスは神骨の入り婿となって姉妹を妻としてのうのうと暮していることが判明しました。

 可愛がっていた息子に出し抜かれて、怒り心頭となりましたが、後の祭りです。 「自分に似て、要領が良い奴よ」と苦笑しながら、オオウスを許すことにしました。オシロワケ王はお下がり品として、都に上った二人を家臣に分け与えました。

 

 

4.高田媛と阿倍氏

 

 尾張氏と並んでオシロワケ王の治世を牛耳る阿倍氏の総領はタケヌナカハワケ(建沼河別)の息子、豊韓別でした。豊韓別の弟に意布比、木事(コゴト)と大屋田子の三人がおりました。 意布比の息子、大臣(オオオミ)は那須国造として送られ、大屋田子の息子、田道はタケヌナカハワケから続く筑紫国造の地盤を引き継いでいました。

 

 西の筑紫、東の那須を固めた後は、一族の娘を入内させようと、ずっと以前から機会をうかがっているうちに、あまりに早くオシロワケ王が播磨の姉妹と契り、さらに尾張氏の娘も入内したことから、豊韓別は焦りました。尾張氏に先を越されて、面白くないはずはありません。

 豊韓別は恐る恐る、王に「私の弟、木事に高田媛と申す、王の后としてぴったり適った娘がおります。王宮に迎え入れられたら、いかがでしょうか」と切り出してみますと、まだ見たことも話したこともない女性なのに「ああ、そうしよう。明日にでも王宮に連れて来なさい」といともあっさりと承諾しましたので、豊韓別の肩から力が抜けてしまうほどでした。王さまにとっては、心待ちにしていた美濃国造の姉妹を息子のオオウスに奪われてしまったので、その埋め合わせということなのでしょう。

 

 

〔3〕日向と熊襲

 

1.王朝のほころびは九州から   

 

 ミマキ王(ミマキイリヒコイニエ、御真木入日子印惠。崇神天皇)からイクメ王(イクメイリヒコイサチ、伊久米伊理毘古伊佐知。垂仁天皇)の時代に絶頂期に達した第一王朝は、じわりじわりと綻びが出てくるようになりました。そのほころびは西の九州から表面化していきます。

 その一因には朝鮮半島の激変の影響がありました。大和国が吉備邪馬台国を滅亡させた後、楽浪郡―帯方郡―伽邪諸国―対馬―壱岐―筑紫―安芸投馬国―吉備邪馬台国を結ぶ公的な交易ルートは消滅しましたが、その穴を埋めるように伽邪地方や筑紫地方、ことに有明海沿岸の船乗りや交易集団が独自に行う民間交易や密貿易が栄えるようになりました。大和朝廷はミマキ王からイクメ王の治世に入っていましたが、九州中部から東北地方南部に至るまでの国内統一の完遂に力が注がれたことから、筑紫地方と半島との交易は大和朝廷の手が届かない、野放しの状態が続いていました。

 

 ところが313年に高句麗が楽浪郡を破り、続いて帯方郡が滅亡して中国王朝による柵封体制が崩壊した後、高句麗の拡大、扶余族などモンゴル系遊牧騎馬族の南下、辰韓地方でのシラ(シロ、斯蘆)の勃興など、朝鮮半島は激動の時代に入ってしまいました。半島の大変化は半島と筑紫地方を結ぶ交易にも大きな影響を与え、交易の窓口である半島南部の治安悪化により、ことに最も需要度が高い鉄器や鉄素材の供給が不安定となって、半島と筑紫地方を結ぶ交易は低迷していきます。食い扶持を失った船乗りや郷士の中には海賊や山賊に身をやつして、人里を荒らしまわる者が目立つようになりました。

 筑紫を統括する氏族は阿倍氏でしたが、国造として送られた阿倍氏田道は神出鬼没の海賊や山賊の後手にまわるだけで、なす術がありません。筑紫と接する豊前国でも山賊が跋扈するようになります。阿倍氏を統括する豊韓別は田道に山賊退治を依頼しますが、田道からの返事は隣国までとても手が回らない、という期待はずれのものでした。九州南部の熊襲(熊地方と襲地方)との国境線でもごたごたの諍いが頻発しているようです。

 

 オシロワケ王は一族が豊後、阿蘇、肥後を治める意富(多、おお)氏の武諸木(たけもろき)を征討軍として送ることを決めました。

「私の名代となって九州を一巡し、区切りごとに状況をまとめて報告しなさい。治安が良いようなら、私も一度は九州の地に足を踏み入れてみよう。日向は王家の発祥地でもあるし、聞く所によると日向の女性は色黒だが、情は深い、という話だからな」。

「そうか、身の安全が確かなら、王家の発祥地を口実に日向へ夜這いに出掛けてみたい、ということだな」とピンときた武諸木は苦笑いをしました。

 

 

2.名代となった意富氏武諸木(たけもろき)

 

 武諸木は周防国の佐婆(娑麼)の港で国前臣の莬名手(ウナデ)と物部君の夏花(ナツハナ)と落ち合います。吉備氏の莬名手は国東(くにさき)半島を治め、物部君の夏花は筑紫から肥前北部にかけての警備役を務めていました、軍勢は武諸木が50人、莬名手と夏花はそれぞれ100人、合わせて250人の兵団となりました。

 オシロワケ王の旗を掲げて佐婆の対岸に向いますと神夏磯媛が出迎えました。貴人を迎える証しとして、聖山の磯津山(貫山)から斬り出した榊(賢木)の上枝に剣、中枝に鏡、下枝に玉をかざしていました。豊前に巣くっている土グモは宇佐の川上の鼻が大きく垂れた鼻垂、御木(みけ)川(山国川)の上流の耳垂、高羽の川上の麻剥(あさばき)、緑野の柴川(蒲生川)の土折猪折(つちおりいおり)の四賊ということです。

 

 豊前国の長狭縣(行橋市)に仮宮を建て拠点にした武諸木はまず麻剥の徒を仮宮に誘い込んで、赤い衣や褌(ふんどし)など種々の珍しい品々を授けた後、他の三賊を召しました。都の贈り物に引き付けられて、鼻垂、耳垂と土折猪折も部下を引き連れて参来しました。どんな贈り物をもらえるかとわくわくしながら仮宮の中庭に集った土グモたちは一網打尽に抹殺されてしまいました。

 騙まし討ちで土賊を退治した一団は豊後に入ります。豊後は多氏の統治で治安がよく平穏でした。拍子抜けした武諸木は「オシロワケ王に報告をする手前、豊後でも少しは土賊を蹴散らした手柄話を作らねばならない」。

「それならタケオクミ(建緒組)さまの豊後、阿蘇と肥(火)国の征服談をぱくってしまえば良いでしょう。もう50年ほど前の話になり、地元では伝説化しておりますが、大和の朝廷では知る者はおらないでしょうから」と同族のよしみで忠言しました。

 タケオクミの豊後、阿蘇と肥(火)国征伐伝説は伊予から豊後の碩田(おほきた)に入った軍団が速津媛の依頼を受けて、鼠の石窟に巣くった土グモ青と白を退治した後、直入(なほり)縣の禰疑野(ねぎの。竹田市)の土グモ、ウチサル(打猨)・ヤタ(八田)・クニマロ(国摩侶)を撃破した後、阿蘇越えした武勇伝でした。

 

 無事に日向国入りした一行は日向灘を見下ろす丘に高屋宮を造りました。武諸木と同族にあたる肥(火)国の国造、建忍毘古の使者も到着しました。武諸木は豊前の土賊退治に次いで、豊後のタケオクミ伝説を脚色し、おまけに熊襲平定話もでっち上げて、伝令者を大和に送りました。

 

 

3.オシロワケ王の日向行き

 

 武諸木が都に送った伝令者から口頭で報告を受けたオシロワケ王は即座に日向行きを決めました。播磨と美濃への夜這いをなつかしく思い出しながら、久しぶりの遠出に胸が躍ります。

「王が長期間、都を離れた前例はありません。畿内を離れた前例もありません」と取り巻きは大反対しますが、「私は前例のない冒険王として後世に名を残すのだ」と取り合いません。一度言い出したら言うことを聞かない王の性格を知っている侍従や家臣は最後は匙を投げてしまいました。

 

 オシロワケ王が秘かに乗り込んだ船は紀の川河口から船出しました。最低限の防御策として王の船の前後に護衛の船をつけました。

 侍従たちは「オシロワケ王は悪性の腫れ物ができてしまわれた。長期の湯治が必要となって、摂津の有馬温泉に行幸された。長期のご滞在となりましょう」という虚偽の告知をしました。

 三艘の船は寄港地をなるべく少なくして瀬戸内海を進み、周防の佐婆の港に着いた後、対岸の九州を海沿いに南に下って行きます。

 

 国東半島にさしかかると「その見ゆるは国の埼ならん」とオシロワケ王がつぶやいたので、「国埼の郡」と呼ばれるようになりました。津久見湾を臨む穂門の郷に船が停泊した時、海の底に繁る海藻が長く美しかったので、「この最勝海藻を採取しなさい」と命じて賞味されたので、この海藻は「はつめ(最勝海藻)」と呼ばれるようになりました。

 オシロワケ王は穂門の郷から密使を高屋宮に向けて陸路で送り出しました。 

「まさかオシロワケ王が日向までお越しになることはあるまい」とタカを食っていた武諸木は密使の通知で腰を抜かしました。大急ぎで出迎えの準備を始めた頃には、すでに王を乗せた船が沖合いに姿を見せていました。

 

 高屋宮に居を構えたオシロワケ王は開口一番、「熊襲を退治したということだが、熊襲の美女を見てみたい」と早々に駄々を捏ねましたので、家臣たちはおろおろします。

 九州の南西部に位置する熊(球磨)地方と南東部に位置する襲地方は、熊襲のヤソタケル(八十猛)と呼ばれる勇猛な兵士集団「隼人(はやと)」が棲む地域として恐れられていました。両地方とも一つに統合された王国は達成されておらず、四ないし五の部族集団に分れていました。活火山地域にある熊襲地方の問題点は火山の噴火によりシラス台地が広がっていることでした。ガラス質の成分を含むシラス地は水はけがよいことから、水を貯めてもすぐにはけてしまいます。これがため、泥田に水を貯める水田耕作は不適でした。弥生時代の象徴とも言える水田に蒔かれる米粒は一粒から数百倍の実を結ぶ、生産効率が非常に高い穀物でしたから、水田が多い国ほど、非常時には兵士となる農民の数が多く、余剰米で産業人や商人を養うことが出来、国王は領土を広げて強力な統一王国を実現させていくことが可能でした。弥生時代中期末に吉備邪馬台国と出雲王国同盟が伊都国と奴国を主体とする筑紫諸国を破った要因も、丘陵が海に迫っている筑紫諸国では水田耕作の可能な場所が少ないがため農民の数が少なく、筑紫全体を統一する王国が誕生していなかったことにありました。

 熊襲地方にも弥生文化は東の日向、西の肥後から入ってはいましたが、食生活は縄文時代からの延長で、各部族とも海の幸と山の幸に雑穀が主体で、米は高価な穀物でした。火山の噴火亜や天候不順などで飢饉に襲われると、隼人集団は国境を越えて日向や肥後の村々を襲いました。日向側は大和王家の祖であるヒコイツセ(彦五瀬)・イワレビコ(伊波禮毘古)兄弟の縁者にあたる氏族が代々、王国を引き継いでいましたが、伝統的に熊襲諸部族のヤソタケルとの正面衝突を回避して、贈賄で熊襲族を手名付け、宥めていく戦略をとっていました。

 

 家臣たちは当座しのぎに一計を案じました。日向と国境を接する襲国の部族「カヤ(鹿文)族」はアツカヤ(厚鹿文)・サカヤ(迮鹿文)の兄弟が治めていました。アツカヤには二人の娘、姉イチフカヤ(市乾鹿文)と妹イチカヤ(市鹿文)がおりました。そこでいつもより数倍の贈り物をして大和から来た貴人の接待役として姉妹を高屋宮に呼び入れ、襲国至宝の美女姉妹と称してオシロワケ王の日向滞在中の慰め役にあてがいました。

 

 オシロワケ王は姉妹の中でも姉を気に入り、可愛がります。姉妹は大和の高貴な御方は王さま自身であることを知って愕然としました。姉妹と話をするうちに、オシロワケ王は鎮圧したと報告を受けていた熊襲の集団は健在であることに気付きました。

「お前たちの報告は作り話にすぎなかったではないか」と武諸木や家臣を集めて叱責します。それを聞いて「武諸木さまの名誉を守るためには、熊襲を徹底的に退治をしなければなるまい。少なくとも首領の首を討ち取ってオシロワケ王に差し出せねばなるまい」と腹をくくった部下もおりました。

「私が父を説き伏せて、王さまに恭順するように説得してみましょう」。

 

 イチフカヤは妹イチカヤとお供についた兵卒二人を伴って実家に戻りました。イチフカヤが土産として持ち込んだ米で醸造した酒を囲んで酒宴が開かれます。

「わしの娘を大和の大王の后にすえる代わりに大和に恭順しろ、という話だが、どうしたらよかろう」と上機嫌のアツカヤは杯を重ねながら弟や部下たちの意向を確かめます。その隙を見計らって兵卒はアツカヤやサカヤの弦(ゆづる)を断ってしましました。

 したたかに酔ったアツカヤが酔いつぶれた頃合いを見て、兵卒の一人が飛び出してアツカヤを刺し殺し、あっけにとられる衆目を尻目に一目散に国境を越えました。高屋宮に駆け込んだ兵士は、鮮血がしたたるアツカヤの頭をかざしながら、イチフカヤの援けで熊襲の首領を討ち取った旨を報告しました。

 

 予期しなかった事態にオシロワケ王は驚き、その上に「娘が父親を騙し、殺戮の手助けをするとは何事だ。后にすると自分も同じ目にあってしまう」と激高して、兵士百人をアツカヤの館に送り、ことの成り行きを理解できずに悄然としているイチフカヤを刺し殺し、館を焼き払ってしまいました。高屋宮に駆け込んだ妹イチカヤは姉は従者二人にはめられてしまった経緯を王に直訴しました。真相を知ったオシロワケ王は自分がはやまってしまったことを悔みました。褒美をどっさりともらえるだろうとほくそ笑んでいた兵士二人は即刻、刑死となりました。オシロワケ王は妹イチカヤをお下がりとして肥国造に賜わりました。運よく逃げおおせた弟サカヤは大和への復讐を誓いました。

 

 

4.南海航路

 

 日向の人たちは、日向のとっておきの名家の娘ミハカシヒメ(御刀媛)をオシロワケ王に差し出すことを決めました。但し条件として、王子が誕生したら、日向の国造の座を与えるという約束を求めました。「この女こそ、私が思い描いていた日向の女性だ」と一目で気に入った王はミハカシヒメを伴って子湯県丹裳小野(西都原)に新婚旅行に出掛けました。

 西都原の丘陵から海の方向を眺望しながら、「この国はまっすぐ日の出づる方向に向いている」とのたまい、国名を「日向」と名付けました。「都はいったい、どんな所でしょうか」というミハカシヒメの問いに答えるように、野中の大石に座ったオシロワケ王は海の彼方にある、青垣に囲まれた大和を偲んで思邦歌(くにしのびうた)を詠みました。

 

 オシロワケ王は臣下たちの推薦で、日向の髪長大田根と襲の武媛の二人も后として都に連れて行くことを決めました。二人ともさほどの佳人ではありませんでしたが、それなりに愛嬌がありましたので、ミハカシヒメの話し相手としてうってつけでした。ことに襲の武媛は襲地方の女性を王宮に招きいれることは初めてのことでもあり、都に戻ってから熊襲地方の状況をあれこれ探ろうと楽しみにしていました。

 その都では、「どうも、王さまは有馬には滞在されておられないようだ」という風聞が巷に広がっていました。行宮(かりみや)に出入りする召使や下人から漏れたのでしょう。慌てた侍従は「王さまは有馬から紀伊の白浜に遷られた」というでまかせの噂を流し、白浜の離宮にオシロワケ王と容姿がよく似た男を常駐させました。

 

「復路は日向から土佐の海岸線に沿って進んで紀伊に至る南海道をとることにする」。

「それはなりません。暴風に遭遇してしまいます」と周りはハラハラして引き止めますが「私は生まれついての冒険王だと宣言したことを忘れたのか。この際だから、土佐の女性も見ておきたい」と意に介しません。

 船は黒潮に乗って順調に南海航路を進みましたが、ある港に着いて一時間もたたないうちに大暴風雨となり、海は大しけとなりました。船が遅れていたら遭難の危険にさらされていました。

「やはり私には幸運の女神がついている」と自信を深めます。

 次の嵐が接近してきたため、土佐の女性を吟味する余裕もなく、一行を乗せた船は紀伊へと急ぎます。無事に到着した後、紀ノ川を上って都に入りましたが、有馬温泉から紀伊の白浜に移動していた、という作り話と辻褄があったことから、侍従たちは胸をなでおろしました。

 

 

5.意富氏武諸木の西部九州巡行

 

 武諸木は肥国から来た使者の案内でオシロワケ王の名代として西部九州の巡行を開始しました。襲地方との国境に位置する、霧島山の北東麓のヒナモリ(夷守。小林市)ではエヒナモリ(兄夷守 )とオトヒナモリ(弟夷守)が警備していました。遠方を見やると人の群れが見えます。「すわ、ヤソタケルの襲撃か」と身構えましたが、緒県君の泉媛が一族を招いての饗宴と知り、ことなきをえました。

 さらに西に下って熊地方との国境に位置する熊県(人吉市)に着き、熊津彦兄弟の兄エクマ(兄熊)を召しました。続いて弟オトクマを召しましたが詣でてこないため、兵に国境を越えさせて誅殺してしまいました。これが引き金の一つになって、熊地方と襲地方で部族統一の動きが高まり、九州西北部の船乗りや土賊が嶋伝いに持ち運んで来る鉄製武器の需要が増していきます。

 

 球磨川を下って河口の葦北の小嶋(水俣市)に着きました。肥国を海路で進んで矢代県豊村に入ります。日没となって真っ暗になるとはるか遠方に火の光りが浮びます。話に聞いていた不知火(しらぬい)でした。

 懇願されて対岸の島原半島の高来県に巣くう土グモのツツラ(津頬)を退治した後、阿蘇国に入りますと、アソツヒコとアソツヒメが丁重に出迎えました。筑後国に進み、大牟田の御木(みけ)に高田行宮を立てました。御木には朝日に当たると杵嶋山を隠し、夕日に当たると阿蘇山を隠してしまう巨木のクヌギが聳え立っておりました。八女津媛が山中に棲むという八女県を過ぎて久留米の高良の行宮に落ち着きました。

 今度は物部君の夏花が案内役を務めます。まず鳥栖に進み、肥前、筑後と筑前の三国が国境を接する基山の山麓まで上った後、阿倍氏が治める筑前には進まず、西に転じて千代田、佐賀へと西に向かい、平戸・五島列島まで達しました。次に大村湾を下って大村、諫早に出た後、有明海を上って高来、鹿島、武雄を巡遊して、高良の行宮に戻りました。

 

 王の名代として王旗を掲げての物見遊山の旅となりましたが、名代といえども王さまの隊列が通過するのはめったにないことなので、立ち寄る先々で歓待されました。「隊列の中にオシロワケ王が紛れ込んでおられた」、「そう、私もオシロワケ王を目撃しました。間違いありません」とオシロワケ王を見たこともない野次馬たちがほらをふいたこともあって、沿道は人垣であふれ、各地にオシロワケ王に因んだ地名由来伝説や逸話が誕生します。後に勘違いして、オシロワケ王がヲウス(ヤマトタケル)と入れ替わることもありました。

 武諸木は高良の行宮に戻った後、筑後川沿いに的邑(いくはむら。浮羽郡)、日田郡へと上り、英彦山(ひこやま)の西麓の峠を越えて、長狭縣の行宮に到着し、しばしの休息をした後、都へと帰途につきました。

 

 

〔4〕朝廷の爛熟と辺境地の反乱

 

1.妹ヤマトヒメ(倭姫)の叱責

 

「媛、お待ちくだされ」と慌てふためく侍従の甲高い声でオシロワケ王は目を覚ましました。

 侍従たちの制止を振り切って、ずかずかとオシロワケ王の寝間に飛び込んできたのは同腹の妹ヤマトヒメでした。添い寝をしていた女性が慌てて顔を隠します。

「遠い日向から三人もの后を迎えられたと耳にしましたが、兄王といえども、あなた様の女狂いには愛想がつきます。このまま女たらしのていたらくを続けていくと、国は滅びますよ」とずばり核心をつきました。

「何をこの。妹の分際で兄に説教をたれるのか」とむっとするオシロワケ王に、「あなたが本当に私の同腹の兄であるなら、兄らしくしなさい」と歯にきせぬ厳しい口調で畳み掛けます。

 

「減らず口を叩くな」と叱りますが、それでもヤマトヒメはひるみません。

「少しは身を慎んで、自重されることを約束してください」としつこく迫りますので、困り果てた王は「小用をたしてくる」と寝間から逃げ出してしまいました。

「兄のイニシキイニエ(印色入日子)を始め同腹の兄弟は皆、おとなしく黙っているのに、ヤマトヒメは妹の分際なのに、なぜこうまで口やまかしいのだろう」と閉口します。

「妹のくせに生意気すぎる。この際、口封じをしてしまおう」。

 

 オシロワケ王は高齢化を理由にしてヤマトヒメを伊勢の社の斎宮(祭女)の座からはずし、王女イホノヒメミコ(五百野皇女)を新しい斎宮に据えました。

「高齢化と王はおっしゃるが、王さまより若いのになぜ高齢なのか」と周りの者はいぶかりますが、王命ですから命令に従わざるをえません。ヤマトヒメは伊勢の社を立派に立ち上げ、軌道に乗せた人物として阿倍氏や尾張氏も一目を置かざるをえないほど評価が高く、慕われていましたので、周囲の者はヤマトヒメを伊勢に引き止めました。

 

 

2.后たちと子女

 

 ヤマトヒメが憤慨するのも道理と言えるほど、オシロワケ王の女漁りは歴代王の中でも飛び抜けていました。正式に后にした女性は10人ほどでしたが、手をつけたその他の女性を含めると側近の者でも数え切れないほどでした。正規の后たちからおよそ八十人の王子・王女が誕生していましたが、公けに認知されない子女も含めると百人を越え、「冒険王」としてよりも「漁色王」として後世に名を留めていきます。

 

 正后のイナビノオオイラツメ(播磨稲日大郎姫 )は双子のオオウス(大碓)とヲウス(小碓)に次いでワカヤマトネコ(稚倭根子)を、妹のイナビノワカイラツメ(稲日稚郎姫)はマワカ(真若)王、ヒコヒトノオオエ(彦人大兄)の王子二人をもうけていました。

 ヤサカノイリヒメ(八坂入媛)は次々と王子王女を生み、ワカタラシヒコ(稚足彦。成務天皇)、イホキイリヒコ(五百城入彦)、オシノワケ(忍之別)、オオスワケ(大酢別)、ヌナシノヒメミコ(渟熨斗皇女)、コゴト7イホキイリヒメ(五百城入姫)、イサキイリビコ(五十狭城入彦)が誕生していました。

 美人というほどではありませんが、おとなしく親に従順な阿倍氏木事(コゴト)の娘、高田媛は武国凝別(たけくにこりわけ)を、三尾氏磐城別の妹、水歯郎女(みずはのいらつめ)は新たに伊勢の社の斎宮となったイホノヒメミコを、五十河姫(いかわひめ)は神櫛(かみくし)と稲背入彦(いなせのいりびこ)の二王子をそれぞれ産んでいました。

 日向から都に上った三后のうち、御刀媛(みはかしひめ)は豊国別(とよくにわけ)を、日向髪長大田根は日向襲津彦(そつびこ)を、襲武媛(そのたけひめ)は国乳別(くにちちわけ)、国背別(くにそわけ)、豊戸別(とよとわけ)の三王子をもうけていました。他の庶后たちから沼名木朗女(ぬなきのいらつめ)、香余理比賣(かごよりひめ)、若木入日子(わかきいりひこ)、吉備兄日子(きびえひこ)、高木比賣(たかぎひめ)、弟比賣(おとひめ)などが誕生していました。

 

 まだ文字がない時代で王さまの系譜は暗誦、口承で伝えられていましたから、王子・王女の数があまりに多いため、口承されていくうちに混乱が生じ、庶后たちの子女もヤサカノイリヒメの系譜に組み込んで、ヤサカノイリヒメがもうけた子女は七男六女と伝える口承も出現するなど、正確な系譜は後世には伝えられておりません。

 

「王子・王女は合計八十人、公けに認知されない子女も含めると百人を越える。我ながら、すごいことだ」とオシロワケ王は他人事のように自画自賛します。

「そろそろ、後継者候補も含めて子供たちの将来を決めておく必要がある」。

「後継者はイナビノオオイラツメがもうけたオオウスかヲウス、ヤサカノイリヒメがもうけたワカタラシヒコとイホキイリヒコの四人としておこう。御刀媛がもうけた豊国別は約束どおり、日向の国造としよう。五十河姫は神櫛を讃岐の国造にと切望している」と、目立った王子や王女の行く末を思い描いているうちに、「そうか、数多くの王子・王女を『別(わけ)』として朝廷の直轄地に送り込んで日本全体に散らばめていけばよい。日本中の国々がわしの子供たちで埋められていく」と思い至りました。

 

 朝の参議を終えて王宮を出た下級役人の二人連れが雑談しながら家路に向います。

「オシロワケ王は子供を百人も作ったことを偉大なことと豪語されておられるようだが、本当に誇れることだろうか。要するに王は色情狂ということだよな」。

「おいおい、そんなことを言っていると人に知れたら、即刻、首をはねられるぞ。くれぐれも公言するではない」と連れの男が慌てて制します。

 二人は親友同士でしたが、出世争いではライバルでした。友情よりも自分の出世の方が大事なことはいつの時代でも同じことですから、連れの男は上司に密告してしまいます。密告された男は打ち首は免れましたが、山深い丹波との国境に近い摂津の僻地の縣に左遷となってしまいました。「どうして飛ばされてしまったのだろう」と男は首をかしげながら、摂津に下っていきました。

 

 

3.良心派の反発

 

 天下は一見すると、繁栄しているように見えました。父イクメ王(イクメイリヒコイサチ、伊久米伊理毘古伊佐知。垂仁天皇)の時代にオシロワケ王の兄イニシキノイリヒコ(印色入日子)が鉄製農機具の製造と貯水池や灌漑施設の土木工事を発展させ、朝廷が諸国に土木・農地用に鉄製器具とノウハウを提供したことから、諸国での開墾事業が盛んとなり、その成果は諸国での米の増産となって具現化します。諸国の米や農産物の収穫が増えて財政が豊かになり、地方の豪族が体力、財力をつけました。しかし裏側では開墾した農地は朝廷のものか、管轄する豪族のものか、開墾した当事者のものか、でいざこざが発生していきます。土地の所有権や利権を得ようと、賄賂がはびこっていきます。

 水面下で新たな問題が発生していることに気付かないオシロワケ王は、諸国の繁栄ぶりに満足して、祖父王や父王の陵墓を凌ぐ大陵墓を建造することを決めました。納税の代りに農閑期に畿内の農民を動員して、祖父王の陵墓に近い丘陵に築造を開始しました。

 

 政権は依然として阿倍氏の建豊韓別と尾張氏の倭得玉彦が中枢を担い、正后イナビノオオイラツメの外戚にあたる吉備氏のキビタケヒコ(吉備建彦)はつんぼさじきにされていました。

 孝元天皇の王子オオビコ(大毘古)から始まる阿倍氏はオオビコの息子タケヌナカハワケ(武渟川別)の長男、建豊韓別が総領となっていました。オオビコの四男一女のうち、ミマキヒメ(御間城姫)はイクメ王の王母となり、タケヌナカハワケの弟、大稲興は膳(かしはで)氏の祖、波多武彦は軍人系の難波氏の祖となっています。タケヌナカハワケの四男のうち建豊韓別は伊賀に本拠を構える本家を継ぎ、意布比は東国の那須国、木事は娘の高田姫がオシロワケ王の后として王宮入りし、大屋田子は筑紫国を治めています。大和に接する伊賀に本拠を置き、西の筑紫と東の那須を布石に東西日本に睨みをきかせる体制造りをめざしていました。

 阿倍氏よりも由緒が古い尾張氏は大和に加えて尾張国と丹波国に重きをなしていました。尾張氏の繁栄は建斗米の時代から始まりました。建斗米の七男のうち、健宇那比は大和の本家を継ぎ、健田背は丹波国造の祖、健多乎利は尾張国造の祖となりました。健宇那比の娘オオアマヒメ(大海姫)は崇神天皇の后となって八坂入彦を産み、八坂入彦の娘ヤサカイリヒメ(八坂入姫)がオシロワケ王の后となっています。大和の本家の座を継いだ健宇那比の孫で、建緒隅の息子、倭得玉彦には弟彦、玉勝山代根古、若都保、置部与曽、彦与曽の五男がありました。

 

 オシロワケ王は妹ヤマトヒメの忠告にも意を介さず、宮中に侍る女性達を漁るのも相変わらずでしたから、良識派のひんしゅくをかいます。これに対して「英雄は色を好むもの」と王を擁護する取り巻きも多く、阿倍氏の倭得玉彦を父とする五兄弟も擁護派に加わっていました。女狂いの王の下で「王さまが王さまなら、私も」と家臣たちも公然と女漁りをするようになり、王宮の風紀は乱れていきます。

 毎晩のように宴会が続き、朝の参議では二日酔いで居眠りをする者が続出します。派手好みの貴族は自分や后、娘たちの豪奢な着物を競い合います。形だけの朝の参議をすませると、サイコロ賭博に熱狂します。猟官運動をする下役人達から公然と賄賂を受け取る家臣も多くありました。 

 

 尾張氏の倭得玉彦は外戚の座を狙って、従兄弟のヤアサカノイリヒコ(八坂入彦根)の娘ヤサカノイリヒメがもうけたワカタラシヒコかイホキイリヒコを世継ぎの皇太子としたい願望を強めていきます。父の意向を知った息子五人はワカタラシヒコを皇太子に担ぎ上げようと、出世を目論む役人たちを味方に巻き込んでいきます。

 

 王宮の乱れに苦虫を嚙み潰していたのは王家のご意見番と自他共に許す皇別氏族の和邇氏の大口振でした。もう一つの皇別氏族の名家である多(意富)氏の総帥はオシロワケ王の名代として九州を巡遊した武緒木でした。武緒木も尾張氏五兄弟の増長ぶりに心を痛めていましたが、オシロワケ王からの信任が強いこともあり、王の耳が痛くなるような苦言はあえて避け、沈黙を保ちながら様子を見守るだけでした。

 大口振は「数多くの王子・王女を朝廷の直轄地に送り込む。日本全体に散らばめていく」というオシロワケ王のつぶやきを、あえて巷に流します。その噂はあっと言う間に、増幅されながら日本列島に広がっていき、地方豪族はオシロワケ王への警戒心を高めていきました。阿倍氏・尾張氏に対する和邇氏を筆頭にする大和の良心派・地方豪族の確執が水面下で激しくなっていきます。

 

 そんな最中に東国北部と北陸北部で蝦夷の反乱騒動が頻発していき、オシロワケ王の耳にも入りました。原因は阿倍氏一族の失策にありました。北陸の越後北部から東国北部と国境を接する陸奥地方は、九州南部の熊襲地方と同様に水稲耕作が不可能でした。熊襲地方は火山の噴火によるシラス台地、陸奥地方は気候が寒冷すぎることが要因でしたが、熊襲地方と同様に縄文文化の延長が続き、諸部族が並立する住民は蝦夷と呼ばれていました。

 

 ミマキ王の治世半ば頃に四道将軍として北陸道を進んだオオビコが越後から会津地方へ入り、東山道を進んだオオビコの息子タケヌナカハワケと会津で出会って以来、北陸、東国と陸奥地方は阿倍氏の祖であるオオビコ親子の領域となりました。ところが外戚にあたるオオビコ親子の勢力拡大を警戒したミマキ王(ミマキイリヒコイニエ、御真木入日子印惠。崇神天皇)は王子トヨキイリヒコ(豊城入彦)を毛野地方(上野国と下野国)に送った後、タケヌナカハワケを筑紫に配置転換して、安芸国から筑紫国にかけて地盤を固めていたアマツヒコネ(天津日子根)族と配下のアメノユツヒコ(天湯津彦)族を東国北部と陸奥地方の開拓者として送り込みました。イクメ王の時代に入ってからもアマツヒコネ族とアメノユツヒコ族の北進と開拓が進み、先住民の蝦夷は山岳部に逃げ込みました。

 オシロワケ王の時代になって尾張氏と共に政権を担うようになった阿倍氏は越後(高志深江国)と那須国を拠点にして陸奥地方の利権拡大を図りましたが、すでに阿尺国、石背国や白河国などで地盤を築いていたアマツヒコネ族とアメノユツヒコ族の取り込みに失敗し、逆に反目しあうようになりました。東国に定着していたトヨキイリヒコ一族、意富氏、出雲氏もそっぽを向いてしまい、阿倍氏は孤立無援の状態に陥ってしまい、その間隙をついて、山岳部の蝦夷が里に下りて荒らしまわったため、北陸・東国と陸奥地方の国境地帯は収拾がつかない事態に陥ってしまいました。

 

 オシロワケ王は東国と北陸の辺境地帯の状況視察に屋主忍男武雄心(やぬしおしをたけをごころ)を派遣することを決めました。彦太忍信はオシロワケ王の祖父ミマキ王の同腹異父の兄、彦太忍信(比古布都押之信。ひこふつおしのまこと)を父に持ちます。オシロワケ王が即位してまもない頃、王に代って紀伊の神祇を担当した経緯がありました。屋主忍男武雄心はそのまま紀伊にいついて紀伊国造である宇豆比古(うずひこ)の娘、山下影日賣をめとり、武内(たけうち)が生まれました。屋主忍男武雄心は8歳となった息子を伴って東国と北陸視察の旅に出ました。

 

 

4.ヲウスが兄オオウスをとっちめる

 

 いつの頃からか、オオウスは宮中の朝夕の会食である大御食(おおみけ)に出席しないようになりました。気になったオシロワケ王はヲウスを呼んで、大御食に出てくるように兄に諭すことを命じました。ところが数日が過ぎてもオオウスの姿はありません。

「本当に兄に諭したのか」とヲウスに問い詰めますと「とっくに諭しました」と返答します。

「しかし大御食には出席してこないではないか」。

「兄はぐずぐず屁理屈を並べ立てるだけなので、業を煮やしました。明け方、オオウスが厠に入るのを待ち構えて、こらしめに手足をへし折り、コモ(薦)に包んで投げ捨てました」。

「ヲウスは普段はおとなしく温厚だが激情してしまうと手に負えなくなる恐ろしい息子だ」とオシロワケ王は震え上がってしまいました。

 

 

〔5〕ヲウス(小碓)の熊襲退治

 

1.武内親子

 

 東国と北陸の辺境視察から戻ってきた屋主忍男武雄心(やぬしおしをたけをごころ)は息子の武内を連れて、オシロワケ王への報告で王宮に参上しました。若い頃からの知友でしたので、オシロワケ王は打ち解けた口調で屋主忍男に問いかけます。

「どうだ、東の辺境の様子は」。

「話に聞いていた蝦夷(えみし)の姿を初めて目撃して、つぶさに観察してきました。男も女も長髪を椎(しい)の木のように高く盛り上げて結い、身体には入れ墨をしております。剣や刀は石製のものをいまだに使っている者もおりますが、長弓に長じており勇猛です。主に太平洋側は阿武隈山地、日本海側は飯高山地を根城にしております。頻繁に山地を下って阿武隈川や阿賀野川流域を襲撃しますが、米を目当てにしているのか、鉄製の武器や農機具を奪うより先に、米蔵を襲います。飯高山地は険峻な山々が続いておりますが、阿武隈山地は比較的緩やかな丘陵が拡がり、土地も肥沃なようです。まずは阿武隈山地の蝦夷を撃つべきでしょう」。

「それにしても、越後の高志深江国と下野北部の那須国を治める阿倍氏と他の氏族との仲がぎくしゃくしているようです。その間隙を蝦夷につかれている印象も受けました」とも屋主忍男は付け加えました。

 

 オシロワケ王は父親の脇でかしこまっている、利発そうな武内少年に注目しました。

「お前は何歳になる」。「9歳になりました」。「わしの王子ワカタラシヒコ(稚足彦)と同じ歳だな」。

 月日を尋ねると月日まで同じでした。これは縁があるに違いない。武内をワカタラシヒコの学友にしてみたらどうだろうか、と早速、武内少年をワカタラシヒコに引き合わせました。

 

 同じ頃、九州西部の肥(火)国の国造、意富氏の建忍毘古から、熊襲が球磨川流域まで下ってきて、襲撃を重ねている報告がありました。

 まだ公けにはしていませんでしたが、かねてから後継者はワカタラシヒコにしようとの意向を強めていたオシロワケ王は、ワカタラシヒコの腹違いの兄であるオオウス(大碓)とヲウス(小碓)をどのように処遇するか、が悩みの種になっていました。

「そうか、兄オオウスを東国と北陸に、弟ヲウスを九州に送り込むことにすれば良い」と、ヲウスを西の、オオウスを東の辺境を守護する将軍にして、中央にワカタラシヒコを据える構成にすれば悩みは解決できることに気付きました。

「祖父のミマキ王は腹違いの兄、トヨキリヒコ(豊城入彦)を東国の毛野国に送って父を後継ぎとしたし、父王も長子のイニシキイリヒコ(印色入日子)ではなく次男の私を後継ぎとしたのだから、辻褄があう」。

 

 オオウスとヲウスの双子兄弟はすでに成人して、一家を構えていました。

 

 ヲウスの身の丈は常人より一回り大きく、人前に出すと押しが利きます。学問では秀才とは言えませんが、武力に長け、人柄が良好で善悪の見定めもきくと評判でした。オシロワケ王の下で朝廷の腐敗化が進んだことを憂慮する良心派はヲウスを次代の王にと期待をかけていました。后二人を娶り、子供たちも誕生していました。正后はイクメ王の遺言どおり、イクメ王とオトカニハタトベ(弟綺戸辺)との間に産まれた両道入姫(ふたぢのいりひめ)で、稲依別(いなよりわけ)と足仲彦(たらしなかひこ)が誕生していました。第二の后は吉備武彦の娘、吉備穴戸武媛で武卵(たけかひご)と十城別(とをきわけ)が誕生していました。

 オオウスは身体つきはヲウスと瓜二つで立派でしたが、武力では弟に敵いません。性格は生一本のヲウスとは正反対で、父王に似て要領が良いというか、ずる賢い側面がありました。父王と違って女癖はそれほどひどくはありませんでした。父王から横取りした美濃国造・大根王(神骨)の娘二人、兄比賣(えひめ)が押黒の兄日子、弟比賣が押黒の弟日子を生んでいました。悪癖は気が向くままにどこかに放浪してしまうことで、王宮にあまり寄り付きません。

 

 オシロワケ王はヲウスを呼び出して「東北の蝦夷退治はオオウスに、南の熊襲退治はお前に任せることにした。ところがオオウスの居所が分らない。とりあえず、先に熊襲退治に出掛けなさい」と命じます。

 

 

2.ヲウスの日向行き

 

 自ら日向に出向き、日向から連れて来た三人の后から熊襲の様子を聞きかじって、熊襲地方は諸部族が並立して統一王国は存在せず、奥が深いことは知っていましたが、それ以上の詳細は不明でした。

「まず日向に落ちついて、じっくりと時間をかけて熊襲を制圧してきなさい。熊襲地方は奥が深いようだ」とヲウスに訓示します。

 自分が豊前、豊後を経て日向を訪れたことは極秘としているためか、意富氏の武諸木、物部君の夏花(なつはな)、吉備氏の莬名手、豊後と肥後の意富氏の名は口に出しませんでした。ワカタラシヒコを皇太子に担ぎ上げる魂胆を持つ尾張氏の声に押されたのか、九州遠征の従者の人選を尾張氏に任せました。まず葛城に住む宮戸彦の仲介で、弓矢の達人である美濃の弟彦公が選ばれましたが、尾張の田子稲置(たごのいなき)と乳近稲置(ちぢかのいなき)、伊勢の石占横立(いっしうらのよこたち)が加わり、美濃、尾張と伊勢の兵士の構成となりました。

 

 出発前にヲウスを実の子のように可愛がっている叔母ヤマトヒメが伊勢から上ってきました。

「あなたは父王と違って女狂いではありませんが、日向へ行ってもきっともてることでしょう。あなたの意中に適った女性が見つかったら、これを差し上げなさい」と笑みをたたえながら、餞別として女物の御衣(みそ)と御裳(みも)を差し出しました。

 

 ヲウスに都から従う兵勢はわずか二百人ほどでした。

「足りない分は日向に着いてから都合をつけなさい。日向の国造に急使を送って、熊襲退治の準備を整えておくように命じておく」と確約するオシロワケ王に送られて紀伊に下ります。

 十艘を連ねた船団は紀の川河口を出発し、鳴門海峡を越え讃岐、伊予と四国の沿海沿いに順調に進んで行きました。船乗りの中にはオシロワケ王の日向行きに従った者も混じっていました。「オシロワケ王の時は往きは快調だったが、復路は南海航路を選ばれたので往生した。暴風であやうく命を落とすところだった」と初老の船乗りの会話を耳にして、ヲウスは父王が日向まで出向いたことを初めて知りました。

 

 

3.仕組まれた熊襲退治

 

 ヲウスが率いる熊襲遠征隊を日向に派遣した、との伝達を受けた日向側は戸惑いを隠すことができませんでした。

「こちらから熊襲の襲撃で困惑している、などと都に報告した覚えがない。恐らく肥(火)国の意富氏あたりが熊(球磨)地方の熊族の襲撃を報告したのだろうが、襲地方の襲族と対峙している日向は襲族をうまく懐柔している。朝廷は熊襲と一くくりにしてしまっているが、熊族にしても襲族にしても、そんなにたやすく退治などはできやしない」。

 日向側と襲側の武器はほぼ同じで、武力によほどの開きがないと、襲諸部族の制圧はそれほど容易なことではないことを長い間の経験を通じて、知り尽くしていました。退治しようと追っていっても、密林の中に逃げ込んでしまい、深入りすると返り討ちにあってしまいます。伝統的に熊襲諸部族の隼人との正面衝突を回避して、贈賄で熊襲族を手名付け、宥めていく戦略をとっていました。

 

「王さまはミハカシヒメ(御刀媛)との間に生まれる王子を日向の国造にする、と約束された。そして豊国別が誕生されたのだから、豊国別が日向に送られて来るべきだ。ヲウスに手柄をたてさせてしまうと、ヲウスの息子が日向国の国造となってしまう恐れがある」と、ヲウス一行を迎え入れた日向側は熊襲退治に乗り気ではありませんでした。

 到着早々、「たかだか二百人の軍勢で熊襲地方全体を制圧されるなど、夢物語にすぎませんよ」と冷やかな挨拶を浴びたヲウスは「話が違うではないか」と戸惑います。

 

 日向と国境を挟んでにらみ合う襲地方の部族「カヤ(鹿文)族」はアツカヤ(厚鹿文)・サカヤ(迮鹿文)の兄弟が治めていましたが、オシロワケ王が日向入りした際に意富氏の兵士がアツカヤを殺戮した後、大和への復讐を誓ったサカヤはカヤ族の運営を従兄弟の取石(とろし) 鹿文(川上梟師。かはかみのたける)と弟建(おとたける)兄弟に託し、襲地方と熊地方の諸部族を訪ねて、対大和で協力関係、同盟を結ぶ交渉に奔走していました。

 日向側にとって好都合だったことは、カヤ族の運営を任された取石(とろし)鹿文と弟建(おとたける)兄弟の仲は険悪で、弟建(おとたける)は兄を外して、自分が部族の首領になる機会をうかがっていたことでした。

「敵方と組んで兄を追い出す手もあるな」と、弟建はひそかに手下を使って日向国造の役人と密談を重ねていました。

 

 弟が日向側と秘密の交渉を続けていることに気づかない取石鹿文はオシロワケ王の兵士に焼き払われた首長邸跡に工事を進めていた堅固な豪邸の完成が間近となったので、部族の主だった者を集めた大祝賀会を催す準備を進めていました。

「まもなく、首長邸の祝賀会が催される。宴席に日向の兵卒を忍び込ませて、兄を暗殺して、私が首領の座を継ぐ、という案はいかがなものか」と密使が弟建の伝言を日向側に伝えます。

 ヲウスの処遇に頭を悩ませていた日向側は渡りに船とばかりに、弟建の発案に飛びつきました。「ヲウスを宴会に忍びこませて兄を殺させ、熊襲の首領を討ち取ったことにして、都に凱旋していただこう」と日向から早々に引き上げてもらう作戦を練り上げていきました。

 

 さて、どうやってヲウスさまを宴席に忍び込ませるか。練られた案は「日向側が大和から招き入れた美女を落成祝いとして取石鹿文に献上することにして、女装したヲウスを宴席に入れ、頃合いを見てヲウスが取石鹿文を討ち取る。弟建がヲウスにひれ伏して『大倭一の豪傑』と称えた後、ヲウスを安全な場所に誘導する」というものでした。 

 大筋を聞いたヲウスは、叔母から餞別にもらった御衣(みそ)と御裳(みも)を思い出し、即座に承諾します。

 当日、ヲウスはみづら(美豆良)をほどいて長髪にして、ヲウスに付き添う三人の従卒と国境に向います。国境の手前で叔母から贈られた御衣(みそ)と御裳(みも)を着込んで剣を裀(みそ)の裏に隠しました。付き添う三人も正装に着替えました。

 国境で待ち構えていた弟建の手下と合流した後、ヲウスと従者三人が屋敷に向います。警備は厳重で、新築の豪邸を兵士が三重に取り囲んでいました。

 ヲウスは衣(きぬ)を頭から被って顔を隠しますが、女人であることを示すために黒長の髪をわざと衣の外にはみ出させます。弟建はヲウスを女人席に誘導した後、会場の出入り口を閉め切り、外部との接触を断って密室状態にしました。

 

 ヲウスに付き添ってきた日向の従者が取石鹿文に祝いの口上を述べます。

「女人席に控える乙女は大倭の王さま直々の贈り物でございます」。

「大和の乙女は熊襲の乙女よりやけに大柄だ。なぜ顔を隠しているのか」。

「大倭の貴人の乙女は初夜の寝床までは顔を隠すことを礼節としております」と従者が機転を利かします。

「祝宴のお神酒を献じよう。ここに寄りなさい」。

 取石鹿文に近寄ったヲウスは衣を脱ぎ捨てるや否や、あっという間に剣で胸を突き刺してしまいます。場内は静まりかえります。あまりのあっけなさに動転してしまった弟建の胸に素早い動作で、鮮血に染まった剣を突き刺します。

 

 気を持ち直した弟建は「あなたはいったい、何者でしょうか」と打ち合わせ通りに問いますと、「吾は大和の纒向の日代宮に坐すオシロワケ王の王子ヲウスなり」と大音声を発します。

「西の熊襲には我ら兄弟二人を除いて英傑はいないと豪語しておりました。しかし東の大倭国に我ら二人に勝る建き英傑がおられました。これからは貴殿を『ヤマトタケル(倭建)の御子』とお呼びいたしましょう」と続けますが、「つべこぜ、能書きをたれることはない」とヲウスは弟建の襟をつかんで、熟れた瓜を切り裂くように打ち殺してしましました。

「これは大変な事態になってしまった。弟建は味方であることを誰も通知していなかったのか」。

 

 想定外の成り行きに従者三人は慌てふためきながら、逃げ惑う女人の衣を奪って頭からかぶり、ヲウスを擁護しながら女人の群れに紛れ込んで屋敷を脱出した後、一目散に国境に向いました。

 

 

4.腑に落ちないまま帰還

 

 翌朝、日向側の制止を払いのけて、ヲウスは都から同道した兵士を引き連れて取石鹿文の屋敷を襲います。弓矢の達人である美濃の弟彦公が真価を発揮してカヤ族の兵士を次々と射殺し、他の兵士の奮闘もあって豪邸を護る兵士は全滅します。

「さあ、熊襲退治の始まりだ。さらに奥地に進軍していこう」とヲウスは兵士たちを奮い立たせます。

 

 サカヤを筆頭にカヤ族が復讐戦を挑んでくるのは火を見るより明らかでした。これ以上、ヲウス一行に長居をされたら、熊襲との軋轢が増すばかりです。他部族も結束して日向に攻め込んでくると、日向本体が危なくなります。お引取りを願うしかありません。

「いやはや、さすがは次代を担う王子でいらっしゃる。恐るべき熊襲の首領兄弟を一刀の元に討ちのめされました。これで熊襲は大和の手に落ちました」と暗に帰還を促します。 

「いや、もっと奥地に進軍して、他部族も打ち倒していかねばならない」。

「いえいえ、他部族は取石鹿文・弟建兄弟の支配下にありましたから、直に大和に恭順してまいります。後は我々にお任せください」。

「しかし……」とヲウスは幾度となく、進軍を主張しますが、業を煮やした日向側は「我々は案内役も支援兵もお世話をいたしません。勝手にお進みください」と突き放してしまいました。

 

 さすがのヲウスも案内人なしにわずか二百人の軍勢で密林を進むことは危険この上ないことを認めざるをえません。獰猛な隼人で知られる熊襲退治はこんなものだったのかと、半信半疑のまま、日向を後にしました。

 帰りは瀬戸内海沿いにしました。備後の芦田川の穴済(あなわたり)で海賊に襲撃され、難波の柏済(かしはわたり)では暴風で海が荒れて転覆の危険にさらされましたが、何とか難を逃れて無事に都に戻りました。

 

 予想していたよりも早く、ヲウス一行が戻って来たのでオシロワケ王は驚きました。王の許には肥国から熊地方からの侵入が引き続いているとの報告が入ってもいました。

「本当に熊襲を殲滅してきたのか。 聖山の霧島山や火を吐く櫻島を見なかったか。熊襲の捕虜をなぜ、連れて来なかったのか」と詰問しますが、答えようがなく、ヲウスにとっては後味が悪い、煮え切らない遠征となってしまいました。

 

 

〔6〕ヲウスの東国遠征   (伊勢・尾張と駿河)

 

1.オオウス(大碓)の肩代わり

 

 蝦夷(えみし)退治で東国の辺境に派遣されることを聞き知ったオオウス(大碓)はおじけづいて、草陰に隠れてしまいました。オシロワケ王(大帯日子淤剘呂和氣。景行天皇)の指示で家臣たちが手をつくして探しますが、ようとして居所がわかりません。

 皆が諦めかけた頃、ようやくオオウスが王宮に出廷してきました。

 

 オオウスには甘いオシロワケ王もさすがにむっとしながら、「どこに消え失せていた」と問いただしますと、「ヲウス(小碓)に痛めつけられた手足の治療で、山奥の温泉に引っ込んでおりました」と言い逃れします。

「ところで、東北の蝦夷退治の大将を務めて欲しいのだが」。

「私を大将に抜擢して下さったお気持ちを有り難く存じますが、ヲウシに手足をへし折られて以来、剣をまともに握ることも、弓矢をまともに射ることもできなくなってしまいました。この身体で遠征軍の重責を担うことはとても無理です」とオオウスは手足をしきりにさすりながら、逃げ口上を繰り返します。

「私に代って、ヲウスに蝦夷退治を委ねてください。ヲウシなら立派に使命を果します。私は美濃を治めさせていただくだけで充分です」。

 

 しばらく熟考した上で、オシロワケ王はオオウスは武芸に長けておらず、やる気もなさそうなので、望みどおりにさせることに同意しました。オオウスは都を後にして美濃へと下っていきました。美濃に腰を落ち着けたオオウスは身毛津(むげつ)君と守(もり)君の祖となりました。

 仕方なくオシロワケ王はヲウスを東国に派遣することを決めました。ヲウスを遠ざけてしまいたい気持ちもあったのでしょう。

 珍しいことにヲウスは父王に反抗します。

「私が熊襲退治、オオウスが蝦夷退治とおっしゃったではないですか」。

 

 両道入姫(ふたぢのいりひめ)と吉備穴戸武媛に次いで、 穂積氏の忍山宿禰の娘オトタチバナヒメ(弟橘姫)を后に迎え、稚武彦(わかたけひこ。若建)が誕生したばかりでした。正后の両道入姫も稲依別(いなよりわけ)と足仲彦(たらしなかひこ)に次いで布忍入姫(ぬのしいりひめ)と稚武(わかたけ)王を生んでいました。しばらくは子供たちに囲まれて、平穏な日々を過したい気持ちが強かったこともあります。

 ヲウスは東国行きを拒んだまま王宮を去りました。

 

 

2.東国行きの承諾

 

 数日が経過した頃、和邇氏の大口納と意富氏の武諸木が秘かにヲウスを訪ねてきました。

「ヲウスさま、是非とも蝦夷退治に東国に赴かれてください。東国でのご滞在中は私どもが極力お手伝いをいたします」。

 

 阿倍氏と尾張氏の跋扈に腹を据えかねていた和邇氏大口納は東国勢である毛野国(上野と下野)のトヨキイリヒコ(豊城入彦)一族、武蔵国の出雲氏、東国北部から陸奥地方にかけてと房総半島や相模国にも勢力を拡げるアマツヒコネ(天津彦根)族と傘下のアメノユツヒコ(天湯津彦)族をヲウスの下で束ねたい宿望がありました。大口納の弟、彦忍人は上総地方の武社国を治めています。これに西の吉備氏が加われば、反オシロワケ王側にとっては強力な布陣となります。

 意富氏武諸木はオシロワケ王の日向行きの際にお守り役を務めたこともあり、阿倍氏と尾張氏ほどのべったりさではありませんでしたが、オシロワケ王寄りの立場をとっていました。しかし次第に宮廷の腐敗ぶりに嫌気がさし、和邇氏側になびきつつありました。意富(多)氏一族は西の伊予、豊後や肥国に加えて、東でも下総の印波国、常陸の仲国と信濃国を治めています。

 

 当初は和邇氏と意富氏に御輿を担がれているだけと聞き流していたヲウスも連日のように押しかけてくる二人の熱意に押されていきました。「私どもはオシロワケ王を廃して、ヲウスさまを新王になっていただこう、と望んでおります」とさえ申します。ヲウスは次代の王たることを初めて自覚するようになりました。

 王宮からも、幾度となく出廷の要請がありました。

「東国行きと蝦夷退治は承諾いたしましょう。しかしお伴の武将に義父の吉備建彦をつけていただくことが条件です」とオシロワケ王に切り出しました。

 吉備建彦の名が出て、熊襲退治と同様にお伴は尾張系からと思い描いていたオシロワケ王は戸惑いの表情を浮かべましたが、しばらくして「同伴者は吉備建彦で了解した。それに大伴の武日(たけひ)も加わってもらおう」と返答します。

「えっ、あのお年寄りを加えるのですか。体力的に東国行きは無理でしょう」。

「いやいや、武日は老いてはきたが、まだまだ元気旺盛だ。息子も帯同させよう」。

 大伴武日はイクメ前王(伊久米伊理毘古伊佐知。垂仁天皇)の御世から五大夫の一人として重鎮役を担ってきた長老でした。オシロワケ王の腹積もりは東国での阿倍氏と他氏族との係わり合いを武日に見定めてもらうことでした。

 

 自邸に戻ったヲウスは后三人に東国行きを知らせました。するとオトタチバナヒメが「私もお供をして東国に参ります」と言い出しました。

「しかし誕生したばかりの息子、稚武彦(若建)をどうするか」とヲウシが問いますと「夫を亡くした姉オオタチバナヒメ(大橘姫)が実家に戻ってきましたので、姉に息子の世話を任せます。ご心配は無用です」とさっさと旅支度を始めてしまいました。

 

 オシロワケ王はヲウスに矛(ほこ)を賜わりましたが、与えた兵卒は熊襲退治よりも少ない百人ほどでした。しかし吉備建彦が二百人、大伴の武日が百人の兵士を用意しましたので、総勢400人の軍勢となりました。膳夫(かしわで)には久米直の七掬脛(ななつかはぎ。料理人)がつきました。武器は弓矢、刀剣に加えて斧(おの)と鉞(まさかり)も加わりました。

「今度は間違いなく生け捕った蝦夷を連れて戻ってくるのだぞ」とオシロワケ王が念を押しましたが、「東国でのご滞在中は上総の武社国造をしております弟の彦忍人がお世話をいたしますので、ご安心ください」と和邇氏大口納の心強い言葉を背にヲウシは都を発ちました。

 

 

3.伊勢の叔母ヤマトヒメ

 

 軍団が伊勢国の亀山に到着した後、尾張に向う部隊から離れて、ヲウスは叔母ヤマトヒメに別れの挨拶をするために伊勢の社に向いました。

「東国行きは海路ですか、陸路ですか」。

「総勢400人となりましたので、陸路にしました」。

「尾張国を通過されるなら、国造の乎止与(おとよ)を訪ねてみなさい。何かのお役に立つでしょう」。

「でも、叔母は尾張氏を嫌っておられるはずですが」。

「それは大和の尾張氏のことです。ことに倭得玉彦のドラ息子5人には腹がたちます。乎止与は同じ尾張氏ですが、大和尾張氏とは距離を置いているようです」。

 

  ヤマトヒメは伊勢の社をめぐるやり取りで、斎宮時代から阿倍氏と尾張氏との両氏の内情を熟知していました。伊勢の社の斎宮(祭女)の座を離れてからは、自由度が増したので、都に上ってヲウスの母、播磨稲日大郎姫(おおいらつめ)と旧交を暖めて、母の実妹の稲日稚郎姫(わかいらつめ)以上に昵懇の間柄になっていました。二人の共通した願いはヲウスが次の王となることでした。

「父王は兄オオウスを甘やかしておりますが、どうも私を毛嫌いしているようです。西に続いて今度は東に島流しです。流れ矢に当たって死んでしまったら良いとでも思っておられるのでしょう」。

「それはあなたに嫉妬しているからですよ」。

「嫉妬ですか?」。

「あなたが母上と播磨から都に上ってイクメ王にお目通りした折り、幼いあなたを見て『王者となる眼をしている』と感嘆されました。以来、兄は『父王は私には王者となる眼をしている、とは一度だに口にしたことがなかった』とあなたに焼餅を焼くようになったのですよ」と一笑に付しました。

 

「東国行きにはこれを佩いてお出掛けなさい」と古びてはいますが、一目で名剣を分る一物を差し出しました。

「この剣は、私の叔母で前任者のトヨスキリヒメ(豊鋤入姫)さまから譲り受けた代物です。姫が吉備の名方浜宮を訪れた際に入手された、と聞いております」。

「それにこれもお持ち下さい。緊急事態が生じた時に開けてみなさい」と御袋(みふくろ)を差し出しました。

 

 

4.尾張の宮簀媛(美夜受比賣)

 

 尾張国に入ったヲウスは叔母の言葉に従って、国造の乎止与の屋敷を訪れました。乎止与は年老いて隠居の身となり、息子の建稲種に代替わりしていました。乎止与と建稲種は大歓迎で、ヲウスはしばしの間、オトタチバナヒメと乎止与邸の離れで世話になることにしました。

 

 尾張氏は大和王国の母体である大和葛(くず)国(狗奴国)を北葛城地方に建国したイワレビコ王(伊波禮毘古。神武天皇)に日向から同行した従卒者を祖としています。葛国の建国後、鴨氏が紀伊との出入り口に当たる風の森峠の警護役を務めたのに対し、尾張氏は河内との出入り口にあたる竹内峠の警護役として葛城山の東麓にある笛吹を拠点にしていました。

 倭国大乱の渦中にあった第五代カエシネ王(訶恵志泥。孝昭天皇)の御世に、阿波忌部氏の野望を背にした伊勢サルタヒコ(猿田彦)族が水銀朱の産地である宇陀野に攻め込んだ際に、大和葛国はサルタヒコ族を返り討ちにして、逆にサルタヒコ族の地盤である鈴鹿山麓を攻略し、その勢いに乗じて美濃と尾張へも進攻しました。その戦闘の一翼を担ったのが尾張氏でした。尾張氏の一部は尾張の木曽川沿いに移住して、川沿いを開墾していきながら、尾張国を建国していきます。第七代フトニ王(賦斗邇。孝霊天皇)による近江攻略では、西の山城側から侵入したアマツヒコネ(天津彦根)族と呼応して、東の美濃側から近江に攻め込み、その後、北上して日本海側の越前、若狭を征して丹波地方に攻め入りました。第八代クニクル王(国玖琉。孝元天皇)から第九代オオビビ王(大毘毘。開化天皇)にかけての吉備邪馬台国攻略ではアマツツコネ族が率いる水軍と並んで陸軍の主力として活躍しました。

 

 こうした歴史を背景に、尾張氏は本家の大和尾張氏と尾張国造家、丹波国造家の三家が主要氏族となっていました。筆頭格は大和尾張氏でしたが、兵力と財政力では尾張国造が勝っていたこともあり、両者の間柄は一枚岩とは言えず、微妙な冷風が流れていました。大和尾張氏側は第十代ミマキ王(御真木入日子印恵。崇神天皇)の后となったオオアマヒメ(大海媛)が八坂入彦を生み、八坂入彦の娘、ヤサカノイリヒメ(八坂入媛)が第十二代オシロワケ王の后となったことから、八坂入媛が生んだ王子を皇太子に担ぎ上げて、外戚の座を確保しようと躍起になっていました。大和尾張氏の総領である倭得玉彦は尾張国造家の乎止与と建稲種にしきりに協力を求めますが、二人は慎重に対応しながら距離を置いています。

 

 乎止与が歓迎の宴を饗しました。乎止与の娘、ミヤズヒメ(宮簀媛。美夜受比賣)が接待役を務めました。運命のいたずらなのか、ヲウスと一目、眼をかわしただけで、お互いに何かを感じ合ったのでしょうか、相思相愛の仲になってしまいました。ヲウスの杯に酒を注ぐ度にミヤズヒメの手が小刻みに震え、ヲウスの指とかすかにふれ合います。その感触を通じてお互いの熱波が相手に伝わります。その様子をめざとく察知して、鋭い視線で注視しているのがオトタチバナヒメでした。女特有の勘で、二人が恋仲になっていることに感づきました。

「明日にでも尾張を発って、三河に向いましょう」とオトタチバナヒメはしきりにヲウスに迫ります。

 それが重なるうちに、ヲウスははたと合点がいきました。

「お前はミヤズヒメに焼餅を焼いているのだろう」。

「正直に申し上げますと、確かに嫉妬しております」。

 あまりに素直な返答で、ヲウスは二の句をつげません。この剣幕では、隠れてミヤズヒメと結ぶのは至難の技だ。ヲウスは「初夜は東国から戻ってから」と伝言を残して、尾張を発ちました。

 

 

5.焼津の野火

 

 一行は尾張国造の建稲種の配下の案内で三河国に入りました。三河国とそれとつながる遠江国と駿河国は物部氏が治めておりました。

 物部氏の母体はイワレビコ王に恭順した登美(とみ)国です。イワレビコ王が大和葛国を建国した後も登美国は生駒山をはさんだ大和西北部と河内を地盤に存続していましたが、東海三国の制覇を通じて兵力と富で抜け出した大和葛国が第六代クニオシビト王(国押人。孝安天皇)の御世に大和盆地全域を飲み込んだことから登美国は消滅し、河内地方では物部氏に代ってアマツヒコネ族が支配するようになりました。物部氏の一部は尾張国に徴発され、三河地方攻略の尖兵役となり、尾張氏の丹波攻略に際しても尾張軍の下で活躍しました。婚姻関係などで尾張氏との交雑が進んだこと、登美国の祖であるニギハヤヒ王(邇芸速日)の王女、穂屋姫が尾張氏の天香語山の后となった伝承もあることから、時の経過と共に物部氏と尾張氏の出自は同じ系統だと信じ込む者もおりました。

 第十代ミマキ王の時代に入ってタケハニヤスビコ(武埴安彦)の反乱に連座してアマツヒコネ族が中央勢力の座を失ったことから、大和盆地西北部の地盤を取り戻した物部氏は急速に中央での権限を高め、第十一代イクメ王の時代には五大夫の一角を担うほどになりました。イクメ王が推進した駿河と相模を結ぶ東海道の開通に向けた富士山東麓の開墾でも伊予の大三島諸島などから徴発した人民を操って成功に導いたことから、遠江と駿河も物部氏が治める地域になりました。

 

 ヲウスや吉備建彦などが気付かなかったことは、三河国の物部氏は尾張国造の影響下にありましたが、遠江と駿河の国造は八坂入媛の王子ワカタラシヒコを時代王へ担ぎ上げたい大和尾張氏に組みする大和物部氏と直結していたことでした。

 遠江と駿河の国造の許には、ワカタラシヒコの対抗馬であるヲウスに何らかの危害を与えろ、という内密の指示が大和物部氏から届いていました。一行は何の支障もなく遠江国を無事に通過しましたが、駿河国では国造のたくらみが待ち構えていました。

 

 駿河の真ん中までたどり着いた一行は数日の休息をとることにしました。すると愛想笑いを浮かべながら国造がやって来て、ヲウスに「近くの野原に大鹿が出没します。気晴らしに狩りをされましたら」としきりに誘います。傍らで聞いていたオトタチバナヒメは男装してでも自分も鹿狩りに同伴すると言い張ります。ヲウスは姫のご機嫌直しになるだろう、と鹿狩りに出掛けることにしました。

 蘆(葦)原をかきわけて大鹿の出現を待ち構えていると、国造が手配した案内役はいつの間にか消え失せていました。気がつくと風下から風にあおられて火勢を上げる火がヲウスたちに迫ってきます。気丈なオトタチバナヒメも悲鳴をあげます。

「大丈夫か。私の背の後にまわって、衣を頭から被っていなさい」。

 ヲウスはとっさにヤマトヒメが授けた御袋を思い出しました。開けてみると火打石と火打金(ひうちかね)が入っていました。

「伊勢の神さまの援けだ」。

 ヲウスは剣を抜いて草を刈り払い、向い火をおこして火の勢いを避けることができました。

 

 野営地に戻ったヲウスが吉備建彦と大伴武日に事の次第を話しますと、遠方から一部始終を目撃していた士卒の証言から、火を放ったのは国造の手下であったことが判明しました。当の国造の行方は不明となっていました。ヲウス達は国造退治に吉備建彦と大伴武日の兵卒の一部を残して、早々に野営地を引き払い、相模に向かいました。

 火が放たれた地は「焼津(焼遣)」、草を刈り払った剣は「草薙の剣」と呼ばれるようになりました。後年になって、駿河国は東西に分割され、西側は「盧原国」として吉備建彦一族が治めるようになりました。

 

 

〔7〕ヲウス(小碓)の東国遠征  (相模、常陸、陸奥、甲斐、上毛野と信濃)

 

1.東国のアマツヒコネ(天津彦根族)

 

 左手にそびえる富士の山に見惚れながら沼津に進んだ一団は、三島から足柄に向けて富士山東麓を登っていきます。足柄に着くと相模の師長国を治めるアマツヒコネ(天津彦根)族の近習と上総の武社国造の使い役が待機していました。和邇氏大口納が約束したように、上総の武社国造である大口納の弟、彦忍人がアマツヒコネ族に全面的な協力を頼みこんだようです。

 老いた大伴武日はさすがに疲労困憊して、誰が見ても憔悴ぶりが分ります。「老骨の身ではこれ以上の同行は無理でございます」と本人も申し立てますので、アマツヒコネ族が治める甲斐国に先に行かせて、一行が蝦夷を退治した後の帰還まで静養させることにしました。武日の息子が介護役となり、配下の兵士半分に当る50人をつけて甲斐国に送りました。

 

 アマツヒコネ族はミマキ王(御真木入日子印恵。崇神天皇)の治世が始まって間もない頃、ミマキ王の腹違いの叔父で、母がアマツヒコネ族出自であるタケハニヤスビコ(武埴安彦)が起こした反乱の前までは、氏族の筆頭とも言えるほど、最大最強の勢いを誇っていました。

 畿内では河内、山城と近江の三国を治め、吉備邪馬台国攻略では水軍の主力となりました。吉備の特殊壺・器台と陶工を河内に運びこんで来たのもアマツヒコネ族の船乗りたちでした。吉備邪馬台国の首都吉備津が陥落した後、アマツヒコネ族は配下のアメノユツヒコ(天湯津彦)族と共に備後、安芸投馬国へと軍船で西進します。投馬国が落ちると投馬国はアメノユツヒコ族に任せて周防、長門へと進み、一挙に筑紫までを占領しました。タケハニヤスビコの反乱に連座して、命運が狂ってしまいましたが、それでも周防、長門と筑紫の国造の座は保持していました。

 

 ミマキ王の治世が上昇軌道に乗り、四道将軍として阿倍氏のオオビコ(大毘古)と息子タケヌナカハワケ(武渟河別)が北陸と東山道の利権を取得しましたが、義父一族の増長を懸念したミマキ王はタケヌナカハワケを東国担当からはずして、西の筑紫に配置換えをしました。筑紫の国造の座を解かれたアマツヒコネ族はアメノユツヒコ族と共に東国開拓を命じられ、塩見宿禰は甲斐地方に、忍凝見とタケコロ(多祁許呂)親子は常陸の茨城地方へ移動していきました。阿倍氏とは違って、アマツヒコネ族は軍人としての豊富な経験と底力を蓄積していました。タケコロは茨城国を固めた後、息子八人を駆使して常陸の筑波国と道奥峠閇国、陸奥の道奥菊多国、石城国と石背国、上総の須恵国と馬来田国、相模の師長国へと勢力を伸張していきました。

 

 

2.走水とオトタチバナヒメ(弟橘姫)

 

 大伴武日たちと分かれた本隊は三浦半島の走水へ向います。軍勢は250人に減っていました。駿河の焼津で火に包まれた自分をかばい、救ってくれたヲウスへの愛が一層深まったのでしょう。オトタチバナヒメは休息になると、うるんだ眼差しでヲウスを見つめながら、ヲウスの脚をていねいに揉みほぐします。

 走水に着いたヲウスは対岸の上総の山々を臨みます。「浦賀水道は危険だと脅されもしたが、上総はほんの目の先ではないか。一跨ぎで渡ることができる」となめきってしまい、海峡をしきる神の矜持を傷つけてしまいました。

 

 あいにくなことに、水道を渡る船は大小の二艘しか確保できませんでした。

「私が小舟に乗って先陣をきろう」と小舟の接近を待ち構えていると、オトタチバナヒメが突然、「何か、胸騒ぎがします。私が小舟に乗ります。ヲウスさまは大船にお乗りください」と口走りながらヲウスを突き飛ばし、海水につかりながら小舟に乗り込みます。思わず地べたに尻餅をついたヲウスが起き上がると、オトタチバナヒメを乗せた小舟は沖に向けて漕ぎ出していました。仕方なくヲウシは兵士がぎっしりつまった大船に飛び乗り、小舟の後を追います。

 ところが海は凪(なぎ)状態となりました。小舟も大船も必死に櫂をこいでも、先に進めません。生暖かな微風が急に突風に変わり、海は大荒れとなりました。ヲウシに嘲笑されことを立腹した海神の仕打ちでした。ヲウスが乗った船は大揺れに揺れ、転覆しそうになります。小舟を見やると、渦に巻き込まれて海中に呑み込まれようとしています。「駿河の原野の猛火の中で私をかばってくれたヲウスさま」と謡いながら、オトタチバナヒメは海中に消えていきました。

 

 一瞬の出来事でした。海は何事もなかったように静まりかえっています。ぼう然と海を見つめながら「私が小舟に乗っていたら、私が遭難していた。私の身代わりになってくれたのだ」を涙を流しました。大船は何とか富津の岬に到着しました。

「オトタチバナヒメはどこかに漂着して無事かもしれない」。

 ヲウスはその日から浜辺を歩き回ります。家来達に遠方まで捜索させます。七日が経って、オトタチバナヒメの櫛が浜辺に流れ着きました。もう諦めるしかありません。ヲウスは御陵の塚を築いて櫛を収めました。

 

 

3.作戦会議

 

 外房総の武社国造(千葉県山武市)、和邇氏彦忍人の許に身を寄せて、傷心を癒しました。

「さあ、そろそろ常陸に向いましょう。私も同行いたします」。

 船に乗ったヲウスと彦忍人は銚子から長い水道に入り広大な内海を臨みました。「右手に見える半島が中臣タケマシマ(建鹿島)が国栖(くず)の夜尺斯(やさかし)と夜筑斯(やつくし)を制圧して常陸制覇の端緒を作られた故地でございます」などと彦忍人の案内を聞きながら、茨城国(石岡市)に着きました。

 

 茨城国はタケコロの息子、筑波使主(つくはのおみ)が国造をしておりました。

「遠い道のりをわざわざ常陸までお越しくだされまして」と平身低頭でヲウスを出迎えました。熊襲退治で立ち寄った日向でのそっけなさとは違い、心底からの畏敬の念であることが伝わります。それだけアマツヒコネ族とアメノユツヒコ族にとってエミシ退治は差し迫った問題でした。

「まずはエミシの状況を教えて欲しい」とヲウスが切り出しますと、「周辺諸国の国造たちも駆けつけてまいりますから、もうしばらくお待ちください」と彦忍人がはやるヲウスを鎮めます。

 数日後、各国の代表が勢揃いしました。常陸の最北部の道奥岐閇国(日立市)、陸奥の道奥菊多国(福島県いわき市)と石城国(いわき市)の国造である筑波使主の兄弟たち、梁羽国(双葉町)のアメノユツヒコ族の国造に加えて、意富(多)氏の仲国造(ひたちなか市)と印波国造(千葉県佐倉市)も駆け参じました。東国の和邇氏、意富氏、アマツヒコネ族とアメノユツヒコ族が一堂に会するのは初めてのことでした。

 

 ミマキ王の治世下で茨城国入りをしたアマツヒコネ族は配下のアメノユツヒコ族と共に北上をしながら道奥岐閇国、道奥菊多国、石城国、梁羽国を建国していきましたが、阿武隈山地に逃げ込んだエミシが巻き返して各国を襲撃するようになり、各国とも存亡の危機に直面していました。ヲウスの遠征はアマツヒコネ族とアメノユツヒコ族にとっては願ってもない好機でした。

 筑波使主たちは北に向けて大倭国の勢力を伸ばしていく必要性を説明していきます。父タケコロの遺言に従って、アマツヒコネ族は中央での勢力拡大の野望は捨て、王族を祖とする皇別氏族である意富氏、和邇氏と豊城入彦一族をもりたてていくことも力説します。それを確認して意富氏と和邇氏も安心したのでしょう、「エミシは手強い相手だ。ヲウスさまの軍団だけでは不十分なことは明らかだ。各国が百人ほどの兵士を供出して、大軍団で攻め込んではどうだろうか」と仲国造が提案しますと、一堂が賛同しました。

 

 

4.行方(なめかた)半島巡遊

 

 筑波使主が「軍団の準備が整うまで、国内を巡遊されてみられたら」と申しますので、ヲウスは半島のタケカシマの故地めぐり、吉備建彦は吉備と縁が深い武神タケミカヅチを祀る鹿島の宮と剣神フツヌシを祀る香取の宮を舟で巡ることにしました。ヲウスはお伴10人ほどを引き連れて、半島を下っていきます。

 桑原岳(おか)に湧く泉は香気があふれ、飲んでみると大層美味しい鉱水でした。現原(あらはら)の丘から半島を眺望して「行細(なめくはし)の地である」とのたまったので「行方(なめかた)」の半島と呼ばれるようになりました。大益(おおや)河で小舟に乗って上流へ上ろうとすると、棹梶が折れてしまいましたので、無柅(かじなし)川と名付けました。

 

 屋形野の帳(とばり)宮に向うとでこぼこの悪路となりましたので、当麻(たぎま)郷と名付けました。悪路を越えきらないうちに、土俗(佐伯)の鳥日子が襲い掛かってきましたが、お伴が退治しました。芸都(きつ)里には国栖(くず)の寸津(きつ)毘古・寸津毘売夫婦が住んでいました。寸津毘古が一行をさげすんだので一刀の元に切り捨てました。寸津毘売は都の貴い御方と知って態度を改め、小抜野(おぬきの)の仮宮に宿ったヲウスに誠心誠意つくしました。その真心をうるわしく思ったので、宇流波斯(うるはし)の小野と呼びました。ヲウスが弓弭(はず)を調えた野原は波須武(はずむ)の野と呼ばれようになりました。

 

 半島の先端の丘前(おかざき)の宮に滞在しました。行き交う舟を眺めていますと、沖の船から手を振る女性がおりました。舟が接岸すると、女主人に男のお付き二人と侍女二人の五人連れでした。衣の文様や色合いから都の女性であることが分り、ヲウスは面会を許します。二人が出会った場所は相鹿(あいか)の里と呼ばれます。

「私はオトタチバナの姉オオタチバナと申します。夢に妹が現れて、私に代ってヲウスさまのお世話を、と託しましたので、急ぎ東国に参りました」と口上します。海路で房総に入り、武社国造の屋敷を訪れて居所を知った、とのことです。妹より大柄でしたが、顔立ちはそっくりでした。ヲウスがオトタチバナヒメの遭難の模様を語りますと、「やはり正夢でしたね」と涙を流します。

 オオタチバナを伴ってタケカシマの故地、伊達久(いたく)、布都奈(ふつな)、安伐(やすきり)、吉前(えさき)をめぐり、槻野(つきの)の清水を賞味して、鴨野で鴨狩りを楽しんだ後、国造の屋敷に戻ります。「軍団は多珂の道奥岐閇国で落ち合う手はずとなりました」と聞いて多珂に向けて出立しました。

 

 久慈(久自)国に入ると「常陸には陸にもクジラが棲んでいるのですね」とオオタチバナヒメが驚きました。近付くとクジラの形をした丘でしたので、皆で大笑いします。多珂に入り、一休みをすることにしました。土地の者が「この地は野には鹿が群れ、海にはアワビがあふれる豊潤な里でございます」と自慢しますので、ヲウス組は野で、オオタチバナ組は浜で狩り較べをすることにしました。ヲウスが野に出ますと確かに鹿や野うさぎ、野鳥がいました。獲物を狙って一日中駆け回り弓を射ますが、全くの不漁となってしまいました。浜に出たオオタチバナヒメはアワビに加えてはまぐり、ほっき貝、大アサリ、サザエ、伊勢えび、鯛、スズキと大漁でした。久米直の七掬脛(ななつかはぎ)が「ほっき貝は西には生息しておりません。初めて見ましたが中々の味でございます」とここぞとばかりに腕をふるいました。ヲウスが海の幸をたらふく平らげて「海の食べ物はすべて飽きるほどに食べつくした」と語りましたので、飽田(あきた)の邑と呼ばれます。

 

 

5.エミシ(蝦夷)退治

 

 道奥岐閇国に入ると、百艘を越える大船団が沖合いに浮んでいました。千人を越える軍団でした。ヲウスは道奥岐閇国の首府にオオタチバナを残して船立ちしました。オオタチバナはお守り代わりに漆塗りの真紅の櫛を手渡しました。見るとオトタチバナとお揃いの櫛でした。

 まず石城国に向います。蝦夷の首領シマツカミ(嶋津神)とクニツカミ(国津神)は沖の大船団を眺望して、これでは勝てる訳がない、と戦闘意欲を喪失してしまい、船団が上陸して来る前に弓矢を捨ててしまいました。

 

 都に連れて戻る捕虜を確保した後、阿武隈山地の奥地へと進軍していきます。海側と山側の二手に分かれ、海側はヲウス、山側は吉備建彦が陣頭指揮を担いました。軍兵の多さに蝦夷たちはちりぢりに逃亡したため本格的な衝突は少なく、海側では逃げ去った蝦夷が築いた砦を斧で叩き割り、山側では密林をマサカリで切り開き、街道として広げていく作業が主体となりました。海側は浪江町まで進んだ後、富岡街道で津島へと山中を上り、山側から川内村を経て来た部隊と合流した後、阿武隈山地の西側、田村市、小野町を経て石城国に戻りました。遠征により、道奥菊多国、石城国、梁羽国の三国の土台が固まり、アマツヒコネ族はさらなる北進に取り組んでいきました。

 

 総勢300人に達する捕虜を引き連れて、意気揚々と多珂に凱旋してきました。オオタチバナヒメが待つ仮宮に着くと、何となく様子がおかしく重苦しい空気が漂っています。都から付き添って来た付き人や侍女がしょんぼりしています。

「どうしたんだ。オオタチバナヒメの姿が見えないが」。

「深夜、女人室に忍び込み、衣服を漁っていた盗人を姫君が見つけましたが、返り討ちで刺し殺されてしまわれました」と一人が沈痛な面持ちで伝えました。

 オトタチバナに次いで、オオタチバナまで不慮の死をとげるとは。人生ははかないものよ。ヲウスは御陵の塚を築いて遺骸の傍らに形見の櫛を収めました。

 

 

6.甲斐の酒折宮

 

 オトタチバナヒメについでオオタチバナヒメまで失ったヲウスは哀しみに打ちひしがれながら、久慈、仲(那賀)、新治、筑波、武蔵と進み、甲斐国へと進みます。

 甲斐の酒折宮では大伴武日が待ち焦がれていました。

「蝦夷退治はご成功だったようですね」と満面の笑顔で迎えられましたが、心の中はずっと湿りがちでした、その夜、篝火を盛んにたいて、野外での祝宴が行われました。

 

 タチバナ姉妹を思い出しながら「新治、筑波を過ぎて 幾夜か寝る」と口ずさみます。周りの侍者たちはうまく引き継ぐことができません。すると篝火(かがりび)役を務めている御火焼(みひたき)の古老が「かが(日日)並べて 夜には九夜 日には十日を」と続けました。

「見事だ。こちらに来なさい」と古老を呼び寄せます。

「今は武日さまの使い走りをしておりますが、私は若い頃、王宮でイクメ王の付き人をしておりました。まだ幼かったあなた様を見られて『この子は大人物となる可能性を秘めている』と愛しがられた光景をよく憶えております。立派にご成人なされて、うれしく存じ上げております。謡われた歌は地名こそ違いますが、その頃の流行歌ですので、なつかしさで思わず返歌をいたしました」。

 そういえば、幼い頃、ヤマトヒメが子守唄代わりに口すさんでいたことをうっすらと思い出しました。

ヲウスはその忠義を慈しんで、東国名誉国造の称号を授けました。

 

 

7.碓井峠越え

 

 毛野国を治める豊城一族の彦狭島から「是非とも毛野国にもお立ち寄りください」と使いを寄越します。大伴武日や甲斐の国造の速彦宿禰も「「お誘いに乗られたら」と勧めます。ヲウスと吉備建彦は捕虜の蝦夷を大伴武日に託して、武蔵経由で上毛野に向いました。

 上毛野で国造の彦狭島と会見します。豊城入彦の孫にあたります。父の八綱田は沙本毘古(さほびこ)の乱を鎮圧してイクメ王の覚えがめでたかった人物です。彦狭島はヲウスを次代の王として守り立てていく誓いをします。彦狭島はヲウスが佩く草薙の剣に気付きました。

「これはまさしく名剣でございます。ひょっとしたら、スサノオの神がヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治された時、尾から出現した一物かもしれません。大切に御扱いください」。

 

 彦狭島の豪壮な屋敷を出て、下毛野から信濃に到る険峻な碓井峠にさしかかりました。タチバナ姉妹をいとおしんで、振り返って東国の平野を展望しながら「吾妻はや(吾が妻たちよ)」と三度嘆きました。以来、東国は「あづま(東)」と呼ばれるようになりました。

 

 

8.信濃坂(御坂峠)の神

 

 上田に着いて意富氏の国造と懇談します。「折角ですから越後の状勢も視察しておかれたらよろしいのでは」との言葉に従って、吉備建彦を越に派遣することにしました。美濃での再会を約束して、吉備建彦の一団は千曲川を下っていきます。

 ヲウスの一団は上田から諏訪湖に出て、天竜川沿いに伊那谷を下っていきます。信濃の国は山が高く、谷が深く、青き嶺が万と重なっています。美濃国に入る信濃坂(御坂峠、神坂峠)へと進みました。杖を使わねばならないほど厳険さです。信濃坂を越える者はひんぱんに神の毒気に当って病となり、痩せ臥せます。ヲウスは霧を凌ぎ、モヤをかきわけながら険しい峠を登っていきます。峯に着いて疲れ果てました。

 山中で食事をしていると、ヲウスを苦しめようとして山の神が白い鹿に化けて、ヲウスの前に立ちはだかりました。ヲウシは怪しんで、食べ残しの蒜(ひる)をつかんで、白い鹿に弾きかけました。蒜は鹿の目に当たり、鹿は死んでしまいました。これ以降、御坂峠を越える者は、蒜を嚙んで人や荷に塗って、神の毒気に当たらないようにするのが習わしとなりました。

 

 その後、ヲウスは道に迷って、出口へ進む方向が分らなくなってしまいました。幸運にも白い犬がどこからか登場して、ヲウスを導いていき、美濃に到る路に出ることができました。

 

 

〔8〕ヲウス(小碓)の死

 

1.宮簀媛との再会

 

 美濃で越中から上ってきた吉備建彦と合流した後、ヲウスは尾張に入りました。甲斐から先に尾張に戻った大伴武日一行は捕虜の蝦夷を連れて伊勢国に入り、鈴鹿でヲウスたちの戻りを待つ、ということでした。吉備建彦はヲウスの同意を得て、都から息子の思加部彦を尾張に呼んで、駿河国に残してきた兵卒の統括をさせるために駿河に送ることにしました。

 

 ヲウスは契りをかわしたミヤズヒメ(宮簀媛)の許に急ぎました。尾張を出立してから、1年余りが経過していました。ヲウスと再会したミヤズヒメは逞しくなったヲウスを見て改めて惚れ直しました。一回り大きくなって精悍さを増し、王者の風格をたたえるようになっていました。ヲウスも乙女らしさから脱皮して、ふくよかに成熟度を増したミヤズヒメに見惚れました。

 乎止与が帰還を祝って大御食を献じました。ミヤズヒメが大きな盃を捧げてたてまつります。生憎なことに、ミヤズヒメは月の障りを迎えていました。重ね着をした衣の裾が赤くにじんでいます。それに気付いたヲウスが歌を詠みました。

 

天の香具山の上空を 甲高く鳴きながら白鳥が渡っていく

その白鳥の細長い頸(首)のように かよわく細くたおやかな そなたの腕を枕にして 今宵こそは

と私は期待していたが、あいにくなことにそなたの襲(おすい)の裾に月が出てしまったね

 ミヤズヒメは恥かしげに顔を赤らめながら、返歌をしました。

日の神の御子でおられるヲウスさま、私の大君よ

貴方のお帰りを待ちながら 年が過ぎ 月が重なっていくうちに

月が積もり積もって 襲(おすい)の裾にまで にじみ出てしまいました

 

 互いに顔を見合って大笑いとなりました。数日して、二人は晴れて初の夜を過しました。寝物語をするうちに「私に焼餅を焼かれたオトタチバナヒメはどうなされましたか」とミヤズヒメが尋ねました。ヲウスがタチナバナ姉妹の顛末を語りますと、「可哀想なことに」と涙を浮かべ、姉妹を思い出したヲウスも涙を落としました。

 ヲウスはしばしの間、ミヤズヒメの許に滞在して、長旅の疲れを癒します。二人にかいがいしく仕えたのは、乎止与の息子で、ミヤズヒメの兄である建稲種の娘、志理都紀斗賣(しりつきとめ)でした。まだ10歳にも満たない少女でしたが、叔母を慕い、ヲウスにも可愛がられます。後年になって志理都紀斗賣はヲウスの腹違いの弟、五百木入彦(いほきいりひこ)の后となります。

 

 

2.美濃と息吹山

 

 美濃に居ついたヲウスの兄オオウス(大碓)は「ヲウスのせいで手足が不自由になってしまった」と吹聴しながらも、耳は達者で早耳でした。ヲウスが無事に東国から帰還し、その上、旅人を苦しめる御坂峠の悪神を退治したことをすぐに聞きつけたようです。

 オオウスは、ヲウスが滞在している宮簀媛の許にしつこいほど、使いをよこします。用件は、信濃と美濃の堺にある御坂峠の神に次いで、美濃と近江の境にある伊吹山の悪神も退治して欲しい、という要請でした。「御坂峠の神を退治したお前なら、伊吹山の神退治もたやすいことだろう」とおだて上げながら、殺し文句は「お前の御蔭で手足が不自由な身になってしまったので、自分自身では退治に出向くことができない」でした。兄に不信感を抱くヲウスは無言を決め込んでいましたが、あまりのしつこさにとうとう根負けして伊吹山の神退治におもむくことにしました。

 

 御坂峠の経験から、悪神退治はたやすいことだ、とたかをくってもいました。「この剣は貴重な一物だから」と草薙の剣はミヤズヒメに預けて、お伴の10 人を連れて、軽装で美濃に出掛けました。当然なことにオオウスの屋敷は素通りして、一直線に伊吹山に向います。伊吹山は日本海側の若狭湾から太平洋側の伊勢湾に向けて吹き抜ける強風の通り路で、冬になると大雪を降らせる難所でした。惜しまれることは気候変動がそこまで激しい地帯である認識をヲウスが持ち合わせていなかったことでした。

 びっしょりと汗をかきながら伊吹山を登っていくと、山の辺に白い猪(別伝承では大蛇)が道をふさいでいました。その大きさは大熊のようでした。伊吹山の主神が化けたものでした。ヲウスは一瞬たじろぎましたが、後ずさりはせずに腰の剣に手をさしかけながら、大猪を睨みつけ互いに火花を散らしあいます。

「確かに大物の猪ではあるが、神らしい神々しさに欠けている。きっとこの猪は伊吹山の神の使いに違いない。まず主神を退治してから、帰り道で殺すことにしよう」と猪をやり過して上り続けます。

 

 伊吹山の神は「俺には神々しさがないと云うのか。ヲウスに見くびられてしまった」と腹をたてました。「こらしめてやろう」と山の神は暗雲をおこして氷雨を降らしました。峯は霧に包まれ、谷は暗く、進むべき道が分らなくなりました。いつの間にか、お伴ともはぐれてしまっていました。道に迷い、さまよい続けるうちに、衣服はびしょ濡れとなり、汗でまみれた身体を急激に冷やしていきます。霧を凌いで無理を押して前進していくうちに、激しい悪寒に襲われました。

 何とか山の麓にたどり着き、泉のほとりで休みを取り正気に戻りました。この泉は「居寝(いさね)の清泉」と呼ばれます。悪寒はまだ続きます。風邪を引いたか、肺炎にかかってしまったことを自覚しました。しかし介抱してくれるお伴もいませんし、薬もありません。

 ようやく立ち上がったヲウスは「尾張に戻る前に、鈴鹿で待機する蝦夷の捕虜たちの後始末をすることが優先事項だ」と、ミヤズヒメが待つ尾張ではなく、伊勢国に向けて養老郡を目指します。

 

 

3.他界

 

 養老郡の當芸野(たぎの)に到った時、「私の心は常に飛翔しようと念じている。しかし私の足の歩はたぎたぎしくなってしまった」と呻吟しました。そこでその地を「當芸」と云います。

 そこから少し進んで疲れたので、杖をついて坂をそろそろと上っていきました。そこで杖衝坂(つえつきさか)と云います。

「俺は王になるはずだったのに、このまま朽ち果ててしまうのか」と初めて死が頭をよぎりました。

 

 桑名郡の尾津の浜にたどり着きました。ヲウスが東国に向った年に、この地で剣を解いて松の下に置きましたが、置いたことを忘れて発ってしまいました。今そこに戻ってみますと、土地の人々がヲウスを尊んで、祠を建てて剣を祀っていました。側にたたずむ一本松は祠のお守り役のように感じました。そこで歌を詠みました。

 

尾張の国と真正面に向かい合っている 尾津の岬に立つ一本松よ ああ 一本松よ

お主が人間であったなら 太刀を佩かせるものを 着物を着せてやろうものを

 

 そこから進んで、三重村に着いた時、「吾が足は三重の勾(まがり)のようになってしまい、大層疲れたり」と言いました。そこで「三重」と云います。ようやくお伴たちがヲウシを捜し当て、合流しましたが、もはや手遅れでした。

「大伴武日さまと蝦夷たちが待つ鈴鹿はあと一息ですよ」。

 お伴に介抱されながら、能煩野(のぼの)に到って痛みがひどくなりました。死を悟ったヲウスは、俘虜にした蝦夷を伊勢の社に献じるようにお伴に言い残した後、大和の国を偲ぶ歌を詠みました。

 

数ある国の中でも 大和の国は最も麗しい国だ 青垣を張り巡らしたように 

     幾重にも山々が重なり合って囲んだ 美しい国だ

元気旺盛な者たちよ 皆の者 平群の山のクマ樫の葉を髪に挿して 生命を謳歌していけ

ああ なつかしい我が家の方から 雲がわき起こって来た

尾張の乙女の床の側に 私が置いてきた太刀が気にかかる あの草薙の太刀が

 

 詠い終わると、崩(かむあがり)りました。

 

 

4.白鳥陵

 

 すぐに都へ駅使(はゆまづかひ)が送られました。急を聞いて尾張から駆けさんじた吉備建彦はその足で都に上り、オシロワケ王に面会します。

 「残念なことにヲウスさまは崩御されましたが、約束されたように蝦夷を連れて戻ってまいりました」と吉備建彦が報告しますと、ヲウスの死を知って悲嘆の毎日を送っていると伝え聞いていたオシロワケ王はヲウスの死には触れずに、あっさりした口調で切り出しました。

「ヲウスは那須国造の阿倍氏大臣(おおおみ)と出会ったのか」。

「いえ、今回は和邇氏、意富氏、アマツヒコネ(天津彦根)族とアメノユツヒコ(天湯津彦)族の国造が一同に会しましたが、阿倍氏大臣は出席されませんでした」と戸惑いながら返答します。

「毛野国の豊城一族とは出会ったのか」。

「はい、東国を発つ前に彦狭島とは面会をサレました」。

 面会後、吉備建彦は「オシロワケ王はヲウスさまの死を聞いて、号泣されたと伝え聞いていたが、どうやら嘘泣きだった気がする。ヲウスさまの死よりも、東国の氏族の動向を気にかかっているようだ」とオシロワケ王への不信感を募らせました。一方のオシロワケ王は「やはり、東国での阿倍氏は浮き上がってしまっているようだ」と阿倍氏への疑念を強めました。

 

 都にいた后たちや御子たちは、各人、能煩野(のぼの)に下ってきて、御陵の築造を見守りました。真っ先に駆けつけたヤマトヒメとヲウスの母、稲日大郎姫(いなびおおいらつめ)はお互いを慰めあいます。正后の両道入姫(ふたぢのいりひめ)はさすがに先代王の王女らしく、涙を目で湿らしながらも葬儀の主の座を立派に果しました。吉備穴戸武媛が息子の武卵(たけかひご)と十城別(とをきわけ)を使って両道入姫の手伝いをします。尾張のミヤズヒメは葬儀の間、ずっと号泣をしたままでした。

 両道入姫の御子たち、稲依別(いなよりわけ)、足仲彦(たらしなかつひこ)と布忍入媛(ぬのしいりびめの三人のうち、一番上の稲依別は葬儀が始まっても姿を現わしませんでしたので、次男の足仲彦が母の補助をしました。オトタチバナヒメが残した一人息子の稚武王は三歳を越えたばかりでしたが、ミヤズヒメは引き取って育てたいと願い出ました。庶后の山代の玖玖麻毛理比売(くくまもりひめ)の息子、蘆髪蒲見別(あしかみのかまみわけ。足鏡別)も参列しましたが、庶后の息子であるためか、あまり相手にされず、浮かぬ顔でした。葬儀が終る頃、稲依別が顔を出しましたが、二日酔いなのか、酒臭い息をしていました。

 

 人々は「ヲウスさまはヤマトヒメに愛された。熊襲のカヤ(鹿文)族の弟建(おとたける)が『これからは貴殿をヤマトタケル(倭建)の御子とお呼びいたしましょう』と称えたことでもあるから、これからはヲウスさまを『ヤマトタケル』とお呼びすることにしよう」と申し合わせました。

 参列者たちは、御陵の周りのなづき田に匍ひ廻って哭きながら、詠いました。

 

御陵の周りに生える 稲の茎にからみついている 野老(ところ)の蔓(つる)のような 私たちよ

 

 すると御陵から一羽の白鳥が姿を現わしました。一堂に一礼をするかのように頭を垂れた後、陵から出て大和を指して飛んで行きました。不思議に思った群臣等が御陵の柩を開いてみると、明衣(みそ)だけが空しく留っていて、屍骨(みかばね)はありません。

 そこで使者を遣わして白鳥を追って行きます。后や御子等も小竹(しの)の切り株に足が緋(き)り破れながらも、その痛みを忘れて、哭きながら追っていきます。

 

背丈が低い小竹(しの)原を 進もうとすると 腰に小竹がまとわりついて歩きづらい

     鳥のように 空を飛ぶこともできず 足で歩いて行かざるをえないもどかしさ

 海中に入って、難行しながら追っていった時に詠います。

海を行こうとすれば 水が腰にまといついて 歩きづらい

   大河の水中に生えた水草が揺れるように 海の中では水にはばまれて 進むことができない

 飛んで、白鳥が磯に降り立った時に詠った歌

浜の千鳥は 歩きやすい浜伝いには飛ばないで 岩の多い磯伝いに 飛んで行くことだ

 

 以上の4歌は今に至るまで、天皇の大御葬に詠われます。

 

 白鳥は、倭(大和)の琴弾原に留まりました。そこでその処に陵を造りました。

 

 白鳥はまた飛び立って、河内に至って旧市(古市。志幾)に留まりました。そこでそこにも陵を造り、衣冠を葬めました。時の人は、この三つの陵を号して、「白鳥陵」と云いました。

 白鳥はさらに高く翔んで天に上りました。

 

 

〔9〕刷新派による退位強請

 

1.朝廷の腐敗を憂うワカタラシヒコ(稚足彦)と武内

 

 ヲウス(小碓)が他界した翌年の正月、群卿を召して新年を祝う豪華な宴会が開かれました。阿倍氏豊韓別、尾張氏倭得玉彦を筆頭に主要家臣が一族郎党を引き連れて颯爽と参内します。皆、きらびやかな錦や綾を着込んで豪奢さを競い合い、「皇太子候補の筆頭だったヲウスさまが亡くなられたばかりなのに」という陰口もかき消されてしまいます。倭得玉彦の息子たち、尾張五兄弟を中心に若い世代もはしゃぎぶりも生半可なものではなく、ヲウスの長子である稲依別もおだてられて仲間に加わっていました。

 

 厳粛な新年の公儀が終り宴に入り、美女たちが御神酒を家臣たちにお酌をし始めると、たちまち宴は乱れていきます。芸人にみだりな歌、舞、奏楽を無理強いします。真昼間から女たちの尻を追いかけまわす不埒な者も多くありました。

 昼となく夜となく、猥雑な宴が続いて五日目に入りました。初老に入ったオシロワケ王(大帯日子淤剘呂和氣。景行天皇)は宴の有様を見て、さすがに「今の若い者たちは」とあきれますが、元はといえば本人の色狂いと慢心が部下たちに伝染してしまっただけの話であることを自覚することはありません。

 ふと、「王子ワカタラシヒコ(稚足彦。成務天皇)と武内の姿が見当たらない。二人はどこに消え失せたのか」と不審に思います。側近に捜させますと、二人は王宮の正門で警備役を務めていました。二人を呼び出して、「どうして宴に参赴しないのか」と問いただしますと、「ふしだらな宴楽が続き、 群卿百寮は戯遊にふけっております。その隙をついて妬む者や不満分子が襲撃してくる恐れがあります。これは国の存亡に関わります。最悪の事態に備えて、門前で警戒を続けている所存です」と答えます。「いやはや、あっぱれなことだ。お前達は若い者の手本だ」と天皇は手放しで賞賛しました。

 

 8月に入って、オシロワケ王はワカタラシヒコを立てて皇太子とすることを正式に公表しました。合わせて武内を棟梁之臣(むねはりのまへつきみ)に抜擢し、宿禰の称号を授与しました。ワカタラシヒコの治世の屋台骨を棟木と梁のように支えて行って欲しい期待をこめての命名でした。武内の抜擢に我が世の春を謳歌している尾張氏と阿倍氏が率いる派閥は色めきたちました。

 現行の国造・縣主の整理編纂事業を成務と武内に命じました。合わせて五十河媛の王子である神櫛を讃岐の国造、御刀媛(みはかしひめ)の王子である豊国を日向の国造に任命しました。さらにオシロワケ王は八十人を超える王子王女を諸国に封じる構想を練り始めました。これを見て、地方の国造・縣主や豪族は「いよいよ、恐れていた事態に進んだ」と動揺が広がり、対抗策に乗り出したり、和邇氏など中央の刷新派と手を組んで行きました。

 

 

2.ヤマトヒメ(倭姫)と草薙剣と蝦夷

 

 次代の王にと期待をかけていたヲウスの急死で傷心が続くヤマトヒメは、ヲウスの最後の様子を聞こうと尾張の国造の屋敷を訪れました。応対したミヤズヒメ(宮簀媛)の脇で養子にしたオトタチバナヒメの遺児ワカタケ(稚武王)が甘え、ヤマトヒメにもじゃれてきます。

「この剣をお返しいたします。駿河でこの剣の御蔭で命を救われた、とヲウスさまが申しておりました」と草薙の剣を差し出します。

「この剣はヲウスさまの形見としてお持ちになって下さい。由緒が深い一物と聞いておりますので、大切に祀ってください」。

 

 ヤマトヒメは中庭を挟んだ屋敷に見覚えのある若者が出入りしているのに気付きました。

「あの若者はもしかしたら、五百木入彦(いほきいりひこ)ではないでしょうか」。

 五百木入彦(いほきいりひこ)はオシロワケ王と八坂入媛の間に生まれた第二子でしたから、ヲウスと同じくヤマトヒメの甥にあたります。

「おっしゃる通りでございます」。

「でもなぜ、このお屋敷に」。

「兄、建稲種の娘、志理都紀斗賣(しりつきとめ)を見初めたようです。姫はまだ結婚適齢の歳ではないのに通い詰めているのです」と苦笑いします。

「大和の尾張本家筋とこちらの国造家とは隙間風が吹いているはずでしょうに」。

「家同士のしがらみなど、恋の道には障害とならないようです」とミヤズヒメが返答しますと、「それもそうですね」とヤマトヒメも微笑しながら相槌を打ちました。

 

 ヤマトヒメが伊勢に戻るとヲウスが神の社に献じた蝦夷たちが騒動を惹き起こしていました。総勢300人の蝦夷たちは神宮の警備役として、交代で昼夜の勤務を務めていましたが、昼夜となく火を焚き、火を囲んで騒ぎ踊りまわり、「このままだと、いつか山火事が起きてしまう」と衆人のひんしゅくを浴びています。

「この調子では伊勢の社の警備を任せるのは無理ですね」とヤマトヒメは匙を投げ、蝦夷を朝廷に献じて、都に送ります。都に上げられた蝦夷たちは、都の神体山である三輪山の警護役をあてがわれました。しかしここでも神山の木々を無闇に伐りとり、隣里の村人に罵声を浴びせて脅かします。

 その喧騒は纒向の王宮にも響き渡ってきます。オシロワケ王は群卿に詔して、「神山の警備役となった蝦夷たちはまだ野蛮な本性のままのようだ。とても畿内に住ますわけにはいかない。分割して畿外の諸国に送ってしまいなさい」と命じました。そこで、60人づつに分けて、播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波に流され、五国の佐伯部の祖となりました。

 

 

3.ヲウスの母の死

 

 ヲウスの東国遠征に従い、義父でもある吉備建彦は本家を継ぐために吉備に戻りました。ヲウスの母、播磨稲日大郎姫(いなびのいらつめ)の妹、稲日稚郎姫(わかいらつめ)がオシロワケ王との間にもうけた彦人大兄(ひこひとのおおえ)は母の実家がある播磨の加古川に移り住みました。

 愛息の死をはかなんだ稲日大郎姫は病気がちの日々となり、望郷の念がつのって故郷に戻ることにしました。オシロワケ王はあえて引き留めようともしませんでした。孫のタラシナカツヒコ(足仲彦。仲哀天皇)が付き添って故郷の播磨に帰ります。稲日大郎姫がオシロワケ王と新婚生活を送った加古川河畔の城宮は、オシロワケ王のお供だった息長伊志治が稲日大郎姫の侍女をしていた比須良比売(ひすらひめ)と結ばれ、夫妻が管理を続けていました。すでに息長は物故して賀古の駅の西に埋葬されていましたが、比須良比売は稲日大郎姫との再会に涙を流しました。

 

 タラシナカツヒコは祖母の面倒をみるためにそのまま播磨に留まりましたが、そのうちにまたいとこにあたる彦人大兄の娘、大中姫と恋仲となりました。数か月が経ち、稲日大郎姫は城宮で薨れました。遺骸は加古川を見下ろす日岡に葬られることになりました。その屍(遺骸)を担いで加古川を渡る時、大きな旋風(つむじ)が川下から襲来して、屍を川中に巻き入れてしまいました。懸命に捜索しても見つかりません。わずかに櫛笥(匣。くしげ)とヒレ(布巾、褶)だけが見つかりました。仕方なくこの二つの物を以って墓に葬りました。そこで褶(ひれ)墓と名付けられました。

 

 すると、それを見届けたかのように、加古川から一匹の白鳥が飛び立ちました。その様子を目撃した衆目は「愛息ヤマトタケルを追って空に飛んで行かれたに違いない」と合掌しました。

 葬礼が済み、後始末を片付けたタラシナカツヒコは大中姫を連れて都に戻った後、ヤマトヒメへの報告に大中姫を伴って伊勢に向いました。

「そうですか、稲日大郎姫も白鳥に化して天に飛んでいかれたのですか。お二人は天からあなたの行く末を見守っていくことでしょう。お二人の意思をあなたが継いで下されば」とヤマトヒメの言葉に「せめて二人を弔うために、父の御陵を囲む濠に白鳥を放ってみる積りです」とタラシナカツヒコが答えました。

 

 都に戻ったタラシナカツヒコは、早速、諸国に白鳥の献上を命じました。すると越の国が白鳥四匹の献上を申し入れました。白鳥を運ぶ越の使人が宇治川の辺に宿った時、タラシナカツヒコの腹違いの弟、庶后の山代の玖玖麻毛理比売の息子、蘆髪蒲見別(あしかみのかまみわけ。足鏡別)がその白鳥を見て「どこに持っていく白鳥なのか」と使人に尋ねました。

「タラシナカツヒコさまが父を思慕され、白鳥を養いたい、とのことで白鳥を献じる次第です」と使人が答えると、ヲウスの葬儀で皆から無視され、相手にされなかった腹いせに報復したい気持ちもあったのでしょうか、蒲見別は「白鳥と云っても、焼けば黒鳥になるだろうが」と言い放ちながら、強引に白鳥を奪って持ち去りました。

 泡を食った越人はタラシナカツヒコの許に駆け込んで一部始終を報告します。「父に対して何と非礼なことを」と腹を立てたタラシナカツヒコは兵卒を遣わして蒲見別を誅しました。時の人は「父は天、兄は君である。天を慢り、君にたてつくなら、誅を免れることはできはしない」と褒め称えます。刷新派の面々も「さすがにヲウスさまの王子だけのことがある」と感激して、次の王に立てるべく行動を開始しました。

 

 タラシナカツヒコは容姿は端正、身長は十尺と父のヲウスに似て大柄でした。しかし外見と違って臆病で、剣術と弓矢も不器用で武勇に長けていたわけではなく、戦ごとも嫌いでした。容姿が父に似ていることから、ヤマトタケルさまの再来と周囲から嘱望され、いつも父と比較されるのが重荷でした。王となる野望も持ち合わせず、温泉につかりながらのんびりと人生を楽しみたいと念じていましたので、「次代の王」との掛け声を聞くと「有難迷惑な話だ」と嫌気がさします。

 

 

4.退位強請

 

 オシロワケ王は稲日大郎の死後、すぐにヤサカイリヒメ(八坂入媛)を正后の座に据えました。外戚の位置を固めた尾張氏親子は大満足です。それを横目でみながら刷新派は内密にオシロワケ王を退位に追い込む計画を進行させます。

 和邇氏の大口納は王宮に仕える近習を味方に引き込んで、オシロワケ王の動向を監視していました。その近習からオシロワケ王が保養を兼ねて近々、北葛城の山荘を訪れることを知らされました。時機到来です。山荘の近くに偵察を忍び込ませ、オシロワケ王が従卒10数名だけを従えてお忍びで山荘に入り込んだことを確認するや、素早く千人ほどの兵士で山荘を取り囲みました。

 

 外のざわめきにオシロワケ王が気付いた頃、大口納が意富氏武緒木、中臣氏巨狭山を伴って山荘に入り、王と向かい合います。

「朝廷の腐敗ぶりに皆が閉口しております。賄賂が横行し、その被害が民に及んでおります。その上、あまたの子女を各国の長に振り向かれるご意向に各国の豪族は警戒心を深めております。この状態が続けば、地方の豪族が反乱を起こし、大倭国は乱れ、収拾がつかなくなってしまうことは杞憂ではありません。朝廷は刷新が必要です」とオシロワケ王に退位を勧告します。

 オシロワケ王は阿倍氏、尾張氏と共に手の内にいる、腹心の家臣と信用していた意富氏武緒木も同席したことに驚きました。

「武緒木よ、お前も私の退位を迫るのか?」

「私は王に引き立てていただきましたが、阿倍氏と尾張氏が先導する朝廷の乱れに愛想がつきました。朝廷の爛熟と腐敗は王にも責任がございます」とひるむこともなく言い放ちました。

 

 皇別氏族である和邇氏と意富氏は伝統的に王家のご意見番を務め、一目置かれる名家です。意富氏の始祖は初代イワレビコ王(伊波禮彦。神武天皇)の王子カムヤイミミ(神八井耳、和邇氏の始祖は大和葛国発展の道を築いた第五代カエシネ王(訶恵志泥。孝昭天皇)の王子アメオシタラシヒコ(天押帯日子)でした。この二氏が結束すると、王さまといえども傾聴せざるをえません。

「吾(朕)が退位をするとなると、誰が代って王になる?」。

「私どもはヤマトタケルさまの王子タラシナカツヒコを推します」。

「タラシナカツヒコはまだ若すぎる。新王は公表したようにワカタラシヒコにして、足仲彦を皇太子としてはどうだろう。いずれにしても、少し時間をくれ」と粘ります。

 

 

5.東国行き

 

 オシロワケ王が退位に同意した、と見なした大口納、意富氏武緒木と中臣巨狭山が山荘を離れ、山荘を取り囲んでいた兵士も姿を消した後、まだ退位をする積もりは微塵もないオシロワケ王は思案を続けます。まず大口納たちを不敬罪で処罰することを検討しました。しかし和邇氏と意富氏に地方の豪族が加担するとなれば、阿倍氏と尾張氏の軍勢で押さえ込むことは難しいことを悟ります。

「どうしたら、よいものか」。

 熟考を重ねるうちに「そうだ、難局を乗り切るには、アマツヒコネ(天津彦根)族の力を活用する手がある。阿倍氏と尾張氏にアマツヒコネ族が加われば、刷新派も沈黙せざるを得ないだろう。これを機に中央に復活させることをアマツヒコネ族に約束すれば、誘いに乗って来るに違いない」。

 

「事は急を要する」とオシロワケ王は東のアマツヒコネ族を統括する茨城国造の許を尋ねることを決めました。数日後、お供は人程におさえて伊勢に出向き、そのまま船で房総半島に向いました。「都の群臣たちには、ヲウスの功績を偲んで、ヲウスが征した諸国の巡狩に向った、と伝えておけ」と留守を預かる家臣に言い残しました。

 8月のことでした。日向への船旅をしたのは、もう20年ほど前のことになるだろうか。あの時は幸福の女神が後押しをしてくれたが、いつの頃からそっぽを向かれてしまうようになったのか。同船する従者たちは、瀬戸内海では観察できないイルカや鯨の群れに興じていますが、オシロワケ王は溜息をつくだけでした。

 

 左手に富士山と伊豆半島、右手に伊豆大島を臨みながら房総半島の付け根の館山に無事に到着しました。仮宿で一晩を明かし、翌朝、心地よいミサゴ(覚賀鳥)の鳴き声で目を覚ましました。その鳥の姿を見届けようと追っていくと、浜辺に出ました。浜辺では海女たちが海中で獲った白蛤を水揚げしていました。料理人として随行してきた膳(かしはで)臣の遠祖、磐鹿六雁(いはかむつかり)が手鏹(たすき)掛けで蒲を手に、白蛤を膾(なます)に調理して王に奉りました。

「これほど美味い白蛤の膾は食べたことがない。阿倍氏の中で、そなたが最も秀でている」と褒め称え、膳大伴部の称号を賜わりました。

 

 上総国に入り、アマツヒコネ族が国造を務める須恵国を訪れましたが、国造はそっけない応対でした。さらに舟を進め江戸湾(東京湾)の付け根の船橋で陸に上り、印旛国に進みました。印旛国の国造は意富氏でしたが、すでに都の武緒木から伝令が届いていたのでしょう、オシロワケ王を避ける素振りを見せますので、常陸の茨城国に直行することにしました。

 下総と常陸の堺に面する印旛の鳥見の丘に登り、しばらくここに立ちどまりました。はるかに遠くを眺めやり、東の方を振り向いて香澄(かすみ)の里がある行方の半島を指して、「海には青波がゆったりと漂い、陸には丹霞(かすみ)がもうろうとたなびいている。あの半島は、まるで波と霞の中にあるように我が目には見える」とのたまいました。そこでこの地を「霞の郷」と云います。

 鳥見の丘を下って舟に乗り、毛野川(鬼怒川)を下り榎浦海流を進んで浮島に上陸しました。浮島から茨城国造の筑波使主(つくはのおみ)に会見の申し入れをしました。浮島の水は海水が混じり塩っぽく、飲むことができません。そこで占い(卜)をする者に水の出る所を占わせて、あちこち井戸を掘らせました。その井戸は今でも雄栗(おくり)の村に残っていますが、オシロワケ王の東国訪問の唯一の置き土産となりました。

 

 筑波使主が送ってきた使いの返事は「病に臥せているのでお会いできません」でした。二度目の返事も同じでした。三度目は「長期療養で山奥の温泉に出向かれた」という内容でした。

「これは見込みがない。諦めるしかない」とオシロワケ王はアマツヒコネ族の説得を断念して、都に戻ることを決めました。

 12月に、東国より伊勢に還って綺(かにはた)宮に滞在します。すぐには都に戻ることができない事態を知ったオシロワケ王は都に戻る機会を待つことにしました。

 

 

〔10〕近江遷都

 

1.タラシナカツヒコ(足仲彦)の筑紫行き

 

 オシロワケ王(大帯日子淤剘呂和氣。景行天皇)がすぐに都に戻れなかった理由は、和邇氏大口納を代表とする刷新派が、オシロワケ王が都に戻って、即座に王位の座をワカタラシヒコ(稚足彦。成務天皇)に譲り、ヤマトタケル(小碓)の王子タラシナカツヒコ(足仲彦)を皇太子に任じることを要求したことからでした。オシロワケ王は王位の座にまだ未練がありましたし、そのうち王位をワカタラシヒコに譲るにせよ、皇太子の座は吉備氏の色合いが強く、大和尾張氏や阿倍氏が難色を示すことが明らかなタラシナカツヒコではなく、ワカタラシヒコの同腹の弟、五百木入彦(いほきいりひこ)に託す意向でしたので、刷新派の要求を素直に飲むことを渋ります。伊勢の綺(かにはた)宮と都の間で、両者の使者のやり取りが繰り返されます。

 

 両者の押し問答が続くうちに年が変わり、月日が重なっていきましたが、9月になって、突如、刷新派が譲位問答を棚上げにして、オシロワケ王に都への復帰を求めてきました。

 怪訝な面持ちでオシロワケ王が都に戻ると、「筑紫の騒動が深刻化してきた」と宮廷内が慌てふためいていました。

「また熊襲が暴れだしたのか」とオシロワケ王が問いますと、「熊襲どころの騒ぎではありません。九州北部の筑紫国と西部の肥国ものっぴきならない状況に陥っているようです」との答えでした。刷新派はまだ朝廷の軍事権を把握してはいませんでしたから、騒動を鎮圧する軍団を派遣するには王令が必要でした。

「すぐにタラシナカツヒ を筑紫に派遣することにしよう。ワカタラシヒコへの譲位とタラシナカツヒコの皇太子就任は、タラシナカツヒコが九州を平定して凱旋してきてからとするということでどうだろう」との王の申し入れを刷新派もしぶしぶ承諾します。オシロワケ王にとっては敬遠するタラシナカツヒコを都から遠ざけておくことができ、時間稼ぎもできる渡りの舟の話でした。

 

 タラシナカツヒコを呼び出すと、都の自邸を留守にして、第二の后に迎えたオキナガタラシヒメ(息長帯比売)を連れて、越前の敦賀に出向いているということでした。自邸は香坂(かごさか)に次いで忍熊(おしくま)を生んで間もない、第一后の大中津姫が預かっていました。

 敦賀に使者を送ると敦賀にオキナガタラシヒメを置いて、淡路島に設置された直属の屯倉(みくら)の検証に兵士百人を率いて出かけている、ということでした。早速、使者を淡路島に派遣すると、淡路島の所用を済ませて紀伊に向い、伊勢経由で敦賀に戻る、とのことでした。

「帯同している兵卒を連れてすぐに筑紫へ出立せよ。本格的な本隊は後で送り込むこむから」と筑紫行きを命じました。

 

 

2.東国の豊城入彦一族

 

 幸いにも都に戻ることができたオシロワケ王は10数年の歳月を費やして完成した、自分の御陵をゆっくり検分する余裕がようやくできました。

 纒向の日代宮から坂道を上って渋谷向山に入ると、全長310メートル、前方部は幅170メートル、高さ23メートル、後円部は径168メートル、高さ23メートル、周濠が楯形の山辺道上陵が姿を現わします。御陵は間近にある祖父ミマキ王(御真木入日子印恵。崇神天皇)の陵墓を凌ぐ、倭国最大の大きさを誇っています。オシロワケ王は壮大な陵墓の出来栄えに満足しましたが、御陵の造営に畿内の農民が農閑期に納税代わりに徴発され、長期間に渡る労役が畿内の農民を疲弊させ、王室の財政悪化にもつながった自覚はありませんでした。

 

 御陵をめぐりながら、自分の王位を護るためにはどんな手を打つかを思案します。

「最後の一手としてアマツヒコネ(天津彦根)族に替わって、豊城入彦一族に賭けてみることにしよう」。

 東山道諸国の統括はそれまでは那須国造を務める阿倍氏が担っていましたが、毛野国(上野国と下野国)の国造である第十代ミマキ王の長男、豊城入彦の孫にあたる彦狭嶋(ひこさしま)を東山道15国の都督(総帥)に任命して、都での謁見を命じました。阿倍氏一族は当然なことに憤慨しますが、那須国造の阿倍氏大臣(おおおみ)の失政で、北の蝦夷が勢いを取り戻し盛り返してきたことから、阿倍氏を擁護する者は少なく、大方は当然の処置と見なします。

 

 彦狭嶋はすでに年老いて隠居が間近になっていましたが、一族の行く末を考えて都督の座を受諾することを決め、都への召還に応じました。信濃経由で都に向いましたが、まだ残雪が残る山間の厳しい寒さで体力を消耗したのでしょうか、大和盆地に入り王宮はもう眼の先、という春日の穴咋邑に到って病に臥し、薨じてしまいました。亡骸は穴咋邑に葬られましたが、その死を悼んだ毛野国の農民は秘かに亡骸を盗んで上野国に葬りまつりました。

 しばらくして、オシロワケ王は彦狭嶋を継いだ息子の御緒別(みもろわけ)に東山道15国の都督の座を与えました。満を持していた御緒別は兵を挙げて毛野国の北境で騒ぎ動む蝦夷を撃ちました。蝦夷の首帥である足振辺と大羽振辺等は白旗をあげて降参し、占拠していた領地を差し出しました。降伏する者は赦し、歯向かう者は退治して、アマツヒコネ族やアメノユツヒコ(天湯津彦)族も手をこまねいていた会津地方を沈静化させました。

 

 刷新派とは、タラシナカツヒコが筑紫から都に戻ってくるまで、小康状態となり、オシロワケ王は遅まきながら、磯城郡田原本に坂手池を造り、その堤の上に土壌固めの竹を蒔えたりなど、農民の歓心を買う政策も実施しました。

 ところが調子に乗ってしまい、諸国に朝廷直轄領の屯倉を設置して、その屯倉を耕作する田部部民として地方豪族支配下の農民を割り当てるお触れを出したことが致命的な過ちとなりました。

「自分の王子や王女たちを諸国に散らばせていく前触れに間違いない」と諸国の豪族たちから不満の火が瞬く間に噴出しました。都の刷新派も猛反発をして、王に速やかな退位を迫りました。

 

 

3.近江遷都

 

「これ以上、都に居座るのは危険だ」。

 追い込まれたオシロワケ王は、王宮を急遽、近江に遷すことを決めました。行幸と称したものの、夜逃げに近い状態で近江国へ逃れ、琵琶湖を見下ろす比叡山の東麓、穴太の高穴穂宮に落ち着きます。予想外の行動に刷新派だけでなく、オシロワケ王を支える阿倍氏と大和尾張氏も大慌てとなりました。

 近江は日本列島の東と西、南と北の分岐点に当る要地です。第七代フトニ王(大倭根子日子賦斗邇。孝霊天皇)の御世に西からアマツヒコネ族、東から尾張氏が攻め入って強靭な野洲(安)王国を制覇した後、アマツヒコネ族が近江国を治めていました。しかしミマキ王の治世が始まって間もない頃、母方がアマツヒコネ族の出身であった、ミマキ王の腹違いの叔父タケハニヤスビコ(建埴安彦)の反乱により、アマツヒコネ族も連座して国造の座を失い、国造はミマキ王の腹違いの弟ヒコイマス(日子坐)一族が担うようになっていました。

 

 オシロワケ王に近い家臣や后たちも後を追って近江に遷っていきます。

 真っ先に尾張氏の大和の本家の総領である倭得玉彦の息子たち、弟彦、玉勝山代根古、若都保、置部与曽、彦与曽の五兄弟が意気込んで近江へ入り、ヲウス(小碓)の長子でタラシナカツヒコの兄、稲依別も五兄弟に誘われて近江入りしました。しかし尾張国造系と丹波尾張系は近江朝廷に無関心で、といって刷新派に組みするわけでもなく、静観の立場を取りました。

 阿倍氏は総領である建豊韓別の後継ぎ、雷別が近江入りします。オオビコ(大毘古)の末子、波多武彦を祖とする武人系の難波氏が近江の王宮の警護役となりました。

 正后である尾張氏の八坂入媛も息子の皇太子ワカタラシヒコに付き添って、内心ははらはらしながらも満面の笑顔をよそおいつつ、近江入りしました。阿倍氏の高田媛も八坂入媛と共に近江に入りましたが、五十河媛の王子の神櫛が讃岐国造、御刀媛(みはかしひめ)の王子の豊国別が日向国造となりましたので、それに張り合う形で、しきりに自分の王子を伊予の国造とするように王にせがみます。

 他の后はそれぞれ違った反応をしました。水歯郎媛は伊勢の社の祭女(斎宮)となった五百野皇女の面倒を見る名目で伊勢に下向します。日向の三后のうち、御刀媛は豊国と一緒に日向に帰還していましたが、髪長大田根と襲武媛は大和に留まり、庶后たちは自分の子供たちの栄達を望みつつ、動向を注視していました。

 

 オシロワケ王は武内宿禰たちに国造・縣主の整理編纂事業を急ぐようにせつきます。まだ文字がない時代ですから、大きな板に各国の位置を描きながら、各国の境界線を引き、後は口承で国造、縣主の名を記憶していきますから、手間隙がかかります。

 

 オシロワケ王はワカタラシヒコに王たる教育を試みますが、心配はワカタラシヒコが生まれつき脆弱な体質だったことです。生まれついてから、ずっと喘息の持病を患っているため、思考力が弱く優柔不断で自分では判断できませんから、常に誰かが支える必要があります。父王と正反対で、色事には興味が薄く淡白でした。穂積臣の祖、建忍山垂根(たけおしやまたるね)の娘、弟財郎女(おとたからのいらつめ)を唯一の后としていましたが、後継ぎが中々、生まれません。しっかりした氏族から二番目の后を迎える必要がありましたが、尾張氏と阿倍氏ではなく、いっそのこと、刷新派を丸め込む意図で、和邇氏か富意氏から后を迎えて刷新派と和合する思いもありました。

 

 ワカタラシヒコの補佐役に置いた武内宿禰に加えて、ワカタラシヒコの同腹の弟で兄よりしっかりしている五百木入彦を皇太子に据えて、いざという時にそなえる体制固めを急ぎます。兄弟の母である八坂入媛も後押しをします。

 

 

4.五百木入彦の皇太子就任拒否

 

 その五百木入彦はオシロワケ王がお忍びで東国に出向いた頃から都から姿を消していました。朝廷の近江遷座後も音沙汰がありません。

 ようやく探り当てた落ち着き先は尾張国造の屋敷でした。乎止与を継いで国造となった、宮簀媛の兄、建稲種の娘である志理都紀斗賣の入り婿となって、すでに息子のホンダマワカ(品田真若)が誕生して、平穏無事な毎日を満喫していました。

 オシロワケ王は何度も尾張国造の屋敷に使者を送って五百木入彦に近江入りを要請します。建稲種と宮簀媛は、ヲウスは美濃の伊吹山行きを執拗に要請したオオウスに殺されたも同然ととらえ、オオウスを偏愛した王を警戒し、何か事が生じた場合は、まず伊勢のヤマトヒメ(倭媛)に相談することにしていました。ヤマトヒメは兄オシロワケ王には批判的でした。自然と五百木入彦も反近江派、親ヤマトヒメ派になっていましたので、近江朝廷からの皇太子の座の申し入れをあっさりと断わってしまいました。

 

 一方、都の刷新派は、タラシナカツヒコを呼び戻して、タラシナカツヒコを王に担ぎ上げることを画策しますが、タラシナカツヒコと中々、連絡がつきません。次第に武力蜂起も辞さない武力強硬派と、筑紫からタラシナカツヒコが戻って来るまで、もう少し様子をうかがった方が良いとする慎重穏健派に分裂して、まとまりがつかない状況となりました。

 

 

5.失意のうちの崩御

 

 タラシナカツヒコに随行させた使いからの定期的な報告で、一行は筑紫にまだ入れず、長門国で足止めをくっていることを把握しているオシロワケ王は、タラシナカツヒコの都への凱旋はまだだいぶ先になることを承知していましたので、時間的な余裕がありました。

 ところが肝心の近江の朝廷は各人の思惑が絡み合って一枚岩とはならず、不安定な状況に陥っていました。

 

 一つは阿倍氏・尾張氏対武内宿禰が率いる若手派の対立でした。もう一つは、国造と縣主の座をめぐっての争いでした。后たちは自分の王子や王女にあわよくば国造、少なくとも縣主の座を求め、后達の片棒をかついで出世の糸口をつかもうとする中小氏族の暗闘でした。近江王朝のごたごたに見切りをつけて、地元に帰郷する者も増えていきました。

「どこで歯車が狂ってしまったのだろう。いつから幸運の女神が私の許から離れていってしまったのだろう」と首をかしげながら、女性達に囲まれた華やかな人生の終幕は寂しい日々となってしまいました。

 唯一の仕事、楽しみは、国造・縣主の整理編纂に合わせて、自分の子女たちを国造・縣主に割り振っていく作業でした。割り振った国から、随時、新しい国造・縣主を公表する気持ちがはやりましたが、武内宿禰と武内の意のままに動くようになっているワカタラシヒコが「状勢的に時期尚早」と必死に押し留めます。

 食欲が減退し、身体が次第に衰弱していきました。「永年の女狂いのたたりが出た」、「持病の性病が悪化した」などの噂話が飛び交ううちに、近江国に遷座して3年目の冬、高穴穂宮で崩りました。自分が造った大和の大古墳での盛大な葬礼はできず、近江でのもがりと寂しい葬礼の後、仮の陵墓に埋葬されました。

 

 オシロワケ王が崩御した頃、朝鮮半島東南部の辰韓地方では奈勿(なこつ)王が率いる斯盧(シラ、シロ)が統一を成就し、西隣の弁韓地方への侵攻を進め出していました。

 

 

                                                                               ―― 景行朝の爛熟   了 ――

 

                               

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