「謎の四世紀解読」

 

第四編 応神朝初期の三者三様  (「謎の四世紀解読」 第四篇)

 

その1.息長帯比賣の摂政

 

〔1〕第二王朝の始まり

 

1.オキナガタラシヒメとヤマトヒメの出会い 

 

 オキナガタラシヒメ(息長帯日売。神功皇后)は紀伊から赤子を抱いて大和に入りました。タラシナカツヒコ(足仲彦。仲哀天皇)と敦賀へ出発して以来、8年ぶりの都への帰還でした。盆地の周囲を囲む青垣の連山を見てなつかしさが込み上げました。タラシナカツヒコの屋敷にはまだ第一后の大中津比売が住んでいましたので、とりあえず母、葛城高額比売が出自した但馬氏の屋敷に仮住まいをしました。

 

 数日後、武内宿禰の案内で、三輪山の麓、笠縫邑にあるヤマトヒメ(倭比売)の住居を訪れました。笠縫邑は王宮を離れたアマテラスが最初に祀られた場所でした。

「ご報告が遅れましたが、タラシナカツヒコさまが亡くなる前にヤマトヒメさまと再会できなかったことを悔んでおりました。何かがあったら、ヤマトヒメに相談するようにと言い残しましたので、紀伊に向った武内宿禰に取り急ぎの報告をするように指示をした次第でございます」。

 武内からの報告はオキナガタラシヒメの頼みからだったことを知ったヤマトヒメはヲウス(小碓。ヤマトタケル)とタラシナカツヒコ親子を思い浮かべると、自然と涙がにじじんできました。王の座について欲しいと願っていた二人とも不慮の死を遂げてしまった、と目を閉じて回顧にひたりました。沈黙が続く中、オキナガタラシヒメは緊張したまま、じっとヤマトヒメの言葉を待ちました。

 

「まず、赤子を見せてください」と口を開いたヤマトヒメはオキナガタラシヒメの後ろ脇で赤子を抱くサクラを見やって、「オヤッ」とした表情を浮かべました。

「もしや貴方の母はタラシナカツヒコの乳母だったウメではありませんか。顔立ちがそっくりです」。

「その通りでございます」とサクラの答えで、緊張の空気がなごみ会話が弾んでいきます。

「なぜ王子にホムタ(誉田、品陀和気)という珍しい名前をつけたのですか」との問いに、サクラがホムタ王子の腕をたくし上げて、ヤマトヒメに披露しました。

「このように上腕の宍(しし。贅肉)は鞆(ほむた。弓を射る際に肘にはめる皮具)によく似ております。タラシナカツヒコさまもご誕生された際に『上腕に鞆に似た贅肉があった』と母が申しておりました」と説明すると「そうでしたね、私も憶えております。やはり親子は似るものですね」とヤマトヒメは嬉しそうに微笑みました。

 

「ここからは女同士の話となりますから、あなたは席をはずしてくださいね」と口調はにこやかですが、厳とした態度で武内宿禰に退席を促しました。女同士の話とは一体、どんな話なのだろうといぶかりつつも、武内は素直に退席します。

 

「どうして新羅討ちに思い至ったのですか。半島に対して、これからどう対処されるお積りですか」。

「私の母、葛城高額比売は田道守の姪で、田道守が半島から帰還して病いに臥した際、ずっと看護をいたしました。田道守はイクメ王(活目入彦五十狭茅。垂仁天皇)の死を痛んで墓前で自害いたしましたが、母は病床の田道守から半島の様子を詳しく伝聞しました。辰韓地方には12か国があり、三韓の盟主である辰国の下で平穏に共生しておりました。しかし12か国の中から新羅が拡大したことから、他国の王族・貴人が倭国への亡命を余儀なくされました。但馬の人たちはその末裔にあたり、いつかは12か国の復活を願っております。私は幼い頃から、そうした伝聞を母から聞いて育ちました。それに加えて、筑紫入りしてから、新羅と西部九州勢力とを結ぶ糸を断ち切る必要を実感しましたし、幸いなことにアマテラス大神の荒魂と住吉三神からも新羅討ちの神託を受けました」。

「武内宿禰とは相性が合っておりますか」。

「武内とは筑紫で初めて出会いましたが、タラシナカツヒコさまもほぼ同年代の武内を評価しておりました。都に戻って皇太子の座に就く事に同意したのも、片腕となる武内の行政手腕を見込んでのものでした。武内とは新羅討ちでも意見が合いましたので、私も信頼を置いております」。

 

 ヤマトヒメは急に真顔になりました。

「ホムタ王子を皇太子、あなたを皇太后として摂政をお任せしようかと考えております。ただしお願いがあります。父王がまとめあげた大倭国神話をきちんと継承し、後世に伝えてくれますでしょうか」。

 父王の時代に編纂された過程と事情をよく知っていたヤマトヒメは大倭国神話の成立を説明していきました。

「大倭国神話の中には大倭国誕生までの歴史がこめられているだけでなく、祖父王と父王の思いがこめられています。 大和国を盟主として各国が協和、融合していく一つのドラマとなっています。代表的な例は、吉備邪馬台国神話の太陽神オオヒルメと大和王朝の祖神アマテラスとを合体させてアマテラスオオヒルメとしたことにありますし、吉備邪馬台国神話と大和神話のつなぎとして、出雲のオオクニヌシの国譲り物語が脚色されました。天つ神に加えて各国の国つ神も存続させていますし、丹後王国の系譜も残されています。太陽神信仰は、志摩国のワカヒルメもその一例ですが、吉備だけでなく、遠い古い時代から倭国の各地に存在していたようです。

 大倭国神話に登場する神々の頂点に立つアマテラスオオヒルメを祀る場所を求めて、前任者の私の叔母トヨスキイリヒメ(豊鋤入姫)は紀伊、吉備と丹波と倭国(西日本)の中を尋ねましたが、私は東西倭国の融合を念頭において、東を訪ねてみました。伊勢に決めた理由は伊勢が東国への船出の場所であり、東西倭国の接点の場所だからです」。

 

 オキナガタラシヒメはヤマトヒメの東西倭国融合の話を、辰国を盟主とした三韓時代と重ね合わせながら、じっと聞き入りました。

 

 

2.新王朝の基礎固め

 

 畿外で新王朝の出立に最も抵抗を示したのは、オシロワケ王と五十河媛(いかわひめ)との間に生まれた王子で、讃岐国造となった神櫛と播磨国造となった稲背入彦(いなせのいりびこ)の二人でした。近江軍が宇治決戦で敗北した報を受けた二人は援軍を近江へ派遣しましたが、摂津に駐留する海人たちの手で近江入りを阻止されてしまいました。派遣軍は播磨と讃岐に引き返した後もあくまで抵抗していく姿勢を継続していきます。

 

 播磨の稲背入彦軍の鎮圧には吉備建彦の後継ぎである御友別(みともわけ)が送られ、抵抗を終息させました。オキナガタラシヒメと武内宿禰の上洛を察知し、明石海峡を封鎖した大中津比売の父で香坂と忍熊の祖父である彦人大兄は抵抗を断念して白旗をあげました。

 讃岐での抵抗は伊予東部へも飛び火していましたが、ヲウスと吉備建彦の娘、穴戸武媛との間に生まれた王子でタラシナカツヒコの異母兄弟にあたる武卵(たけかひご)と十城別(とをきわけ)が派遣されました。播磨よりも抵抗が激しく二人は苦戦しましたが、播磨を鎮静した御友別が支援に駆けつけて優勢に転じ、武卵は讃岐の綾君の祖、十城別は伊予別の祖となりました。

 畿内にも不満分子が残存していましたが、ヤマトヒメが新王朝誕生の後ろ盾として、主要な中小豪族の許をじかに訪れて説得していきましたので、抵抗の火種は消えていきました。

 

 361年の夏が過ぎ、秋に入った102日にタラシナカツヒコを初代王に位置づけ、赤子のホムタを皇太子、オキナガタラシヒメを摂政として第二王朝が始まりました。未亡人が摂政の形式をとることは第一王朝では前例がなかったこともあり、なおも八百木入彦と品田真若親子のいずれかを推する声もありましたが、ヤマトヒメが武内宿禰や四大夫の面前で「私が責任をもってまとめあげます」と発した鶴の一声で雑音は遠のいていきました。

 王宮の場所は東の伊勢と西の河内、摂津を結ぶ街道沿いに位置する磐余(いはれ)に決まり、若桜宮の建設が急ピッチで始まりました。

 伊勢の社はオシロワケ王(大足彦忍代別。景行天皇)が妹のヤマトヒメと不仲であったこともあり、オシロワケ王時代はあまり尊重されませんでしたが、ヤマトヒメの功績に報いる意図もあって、新しい王朝の象徴として筆頭神宮に位置づけられました。合わせて新羅討ちで功をあげた住吉三神、志摩のワカヒルメ、出雲のコトシロヌシ、筑紫の安曇三神も盛大に祀られました。

 

 筆頭大臣となった武内宿禰は真っ先に、国造と郡長は変更せずに、従来のままとする勅令を発しましたので、畿内外の豪族たちは胸をなでおろしました。オシロワケ王と御刀(みはかし)姫の王子で日向国造となった豊国別は讃岐国造の神櫛に呼応して抵抗する姿勢を示していましたが、新王朝が軌道に乗ったことを見きわめたのか、おとなしくなりました。東国では新王朝が豊城一族優遇の姿勢を見せたことから、那須の阿倍氏の一部は陸奥の奥地へ逃げ込んで行きました。近江朝で重きをなした阿倍氏、大和尾張氏、播磨吉備氏は中央勢力からはずれ、衰微していきます。オキナガタラシヒメは同腹の弟、息長日子を播磨へ送り、父の息長宿禰と河俣稲依毘売の息子で異腹の兄弟となる大多牟坂を但馬国造に据えました。

 翌年362118日、タラシナカツヒコの陵墓が河内の旧市(古市)にある父ヲウスの白鳥陵の近くに築造されました。河内に造営された理由は、大和盆地南部には大型古墳を造成する適地が限界に達したことに加えて、 大和と河内、摂津を結ぶ街道の中間に位置していたからです。河内と摂津は朝鮮半島への入り口と位置づけられ、半島に向けて第二王朝の力を誇示する場所となりました。

 

 武内宿禰は、自ら王となる野心は持ち合わせてはいませんでしたが、内心ではホムタ王子を自分の息子と見なしていましたし、半島経営の利権を握りながら新王朝の外戚として重要氏族の位置を固めていく方向を目指していきます。

 和邇氏大口納は息子の建振熊に家督を譲る準備を始めましたが、王族出自の皇別氏族の名族として、ミマキ王(御真木入日子印恵。崇神天皇)とイクメ王(垂仁天皇)時代に隆盛を誇った意富氏を凌ぐようになったことに満足していました。四大夫のうち、物部氏の胆咋(いくひ)は老骨に鞭を打って筑紫入りした結果が実り、念願だった大和尾張氏の束縛からの離脱を果たすことができたことを契機として五十琴に家督を譲りました。大伴氏も筑紫入りした武持(武似)から佐彦へと代替わりしました。中臣氏は烏賊津連は雷大臣となり、大小橋が後継ぎとなりました。大三輪君は美保海人と融合していき、イクメ王時代に大和盆地入りしていた出雲人が祀るアジスキタカヒコネ(味鉏高彦根)に加えてコトシロヌシも祀られるようになっていきます。

 

 

3.ホムツワケの敦賀詣で

 

 ホムタ王子は大病もせずにすくすくと成長し、満三歳を過ぎました。オキナガタラシヒメは武内の后である葛比売が異腹の従姉妹で、幼い頃からの旧知の仲だったこともあり、武内と葛比売の息子である葛城襲津彦を可愛がりました。襲津彦はホムタ王子より二歳年長でしたが、王子の兄のような遊び友達として、王宮内で育ちました。

 満四歳を過ぎてホムタ王子の物心が付き始めた頃、武内宿禰はホムタ王子を伴って禊のために敦賀へ出かけました。敦賀はオキナガタラシヒメにとっては、ホムタ王子の父との思い出の地でありましたし、但馬の人々にとっては但馬の出石に次いで大事な聖地でした。

 

 敦賀はアメノヒホコ(天日矛)が近江から但馬に向う途中で滞在した地で、「イササ(胆狭浅)の太刀」を献上した経緯から伊奢沙和気(いざさわけ)大神が祀られていました。また貴人がつける角をかぶった都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が亡命してたどり着いた地でもありました。

 敦賀では毎年、冬の終わりから春の初めになると、魚群を追いかけて大量のイルカが敦賀湾に入ってきます。その群れを漁師が囲んでイルカと魚群を一網打尽にします。破れたイルカの鼻から流れた血で敦賀湾が真っ赤に染まり「血浦」となることから「つぬが」と呼ばれるようになった、との俗説もありました。

 

 武内一行が敦賀に到着して、しばらく経過したある夜、イザサワケ大神が武内宿禰の夢に現れて、「吾の名を御子に差し上げて、御子の名を変えようと思う」と告げました。武内が夢の中で「恐れ入りました。仰せの通りに名をいただいて御子の名を変えることにいたしましょう」と答えますと、「明朝、浜に行きなさい。名を変えた印しとして贈り物を差し上げよう」と告げました。そこで翌朝、武内はホムタ王子を連れて浜辺へ行きますと、鼻が傷ついた大量のイルカが寄り集まっていました。その光景を見た王子は「神さまが私に食料として魚類をお与えくださった」と歓声をあげました。それ以来、イザサワケは御食津(みけつ)大神あるいは気比(けひ)大神と称えられるようになり、敦賀で捕れた魚介類や塩は朝廷に献上されるようになりました。

 

 ホムタ王子が都に戻った後、363年正月3日、真新しい杉の香りが満ちる新王宮で皇太子就任の儀式が厳かに行われました。皇太后が大殿で祝宴を催し、よく醸された酒を供して歌いました。

この酒は 私一人の酒ではありません 常世の国へ向われた神司でおられる 

穀物の神スクナヒコナ(少彦名)が歌い舞いながら 醸されて献上された神酒でございます

さあ、一滴も残さずに 飲みほしなさい

 ホムタ王子に成り代って武内宿禰が答歌をします。

この酒を醸した者は 鼓を臼のように立て 歌い舞いながら 醸したのであろう

何とも言えないほどの 美味でございます

 

 満足感にあふれた二人のやり取りを聞きながら、「何故、武内は事あるごとにしゃしゃり出てくるのだろう」とホムタ王子は幼心なりに不快でした。自分に対して父親のようにふるまうことも気に食わないことから、武内との出会いを煙たがるようになりました。皇太后も表面的にはお互いを立て、尊重しあうように振る舞いましたが、私的には武内を避けるように努めました。

 

 

4.ホムタ王子の后候補

 

 武内宿禰と五大夫に加えて、新王朝で躍進した氏族は吉備建彦一族と尾張国造家でした。いずれもホムタ王子の祖父にあたるヲウスと関わりが深い氏族です。

 吉備建彦はヲウスの東国遠征に帯同して以来、ヲウス、タラシナカツヒコ、ホムタの三代にわたって緊密な関係を持ちました。長女の穴戸武媛はヲウスの后となり、息子二人は讃岐勢力を退治した武卵と十城別です。長男で跡取りの御友別は播磨の抵抗勢力を退治しただけでなく、讃岐で苦戦していた武卵と十城別も助けました。三男の思加部彦はヲウスの東国遠征につながる駿河国造となり、四男の鴨別はタラシナカツヒコに帯同して筑紫入りした後、肥後南部の葦分国で熊襲退治で活躍しました。加えて吉備建彦の末娘、兄媛(えひめ)はホムタ王子より10歳ほど年上でしたが、王子の世話役として王宮住まいを始めました。

 吉備建彦の子供たちが隆盛していくことに比例して、267年頃、大和に敗北して以来、首都機能を失って人口が半減していた吉備津平野は眠りから覚めたかのように、再び上昇気運に乗りました。

 

 元気に成長していくホムタ王子をヤマトヒメが見ながら、「そろそろ正后を決めておいた方がよいでしょう」と切り出し、「品陀真若の娘を后に迎えてみたら良いのでは」と提案しました。 第一王朝本流の系統も組み入れることで、王朝批判派の雑音を打ち消し、より一層、新王朝を固める配慮でした。

 五百木入彦と尾張国造の建稲種の娘である志理都紀斗賣との間に産まれた品陀真若は、幼児の頃から面倒を見ていた叔母の金田屋姫を后にして高城入姫が誕生していました。金田屋姫は第二子を宿していました。尾張国造一族から后を迎える準備として、志理都紀斗賣と金田屋姫の兄、尾張尾綱根が大臣の一人に抜擢されました。

 

 

5.ヤマトヒメの崩御

 

 新王朝が軌道に乗ったことを見届けたヤマトヒメは伊勢に戻って隠棲生活に入り、しばらくして安らかな眠りにつきました。もがりの後、倉田山に隣接する「間の山(あいのやま)」に埋葬され、尾上御陵が築かれました。ヤマトヒメは第一王朝から第二王朝へとつなげた隠れた立役者でした。ヤマトヒメなしでは第二王朝への移行は円滑には進まなかったことでしょう。

 

 

〔2〕半島政策

 

1.新羅への単独進攻に失敗

 

 新王朝が軌道に乗り出したことを見定めた武内宿禰は、皇太后オキナガタラシヒメ(息長帯日売。神功皇后)から催促もありましたので、新羅討ち計画を再開しました。

 正式に半島対策の総責任者に任命された武内は筑紫に設置された半島対策本部に子飼いの人物を責任者として送り、金官国に駐在する志摩(斯摩)宿禰と武内とを結ぶ連絡網を迅速、円滑な体制にします。対策本部は新羅への再遠征に向けて従卒する兵士集めを急ぎました。4年ほど前に武内宿禰が率いた倭軍が奪った洛東江の河口右岸の蹈鞴津(たたらのつ。多大浦)や梁山の草羅城(さわらのさし)のうち、草羅城は反攻した新羅軍に奪還されていましたが、蹈鞴津だけは志摩宿禰軍が死守していました。金官国駐在の兵士たちは騎馬戦法を修得しつつ、新羅討ちに備えた訓練を重ねます。

 

 3644月、遠征軍は兵士三千人の船団を連ねて筑紫を出発し、壱岐と対馬を経て金官国駐在軍と合流しました。金官国駐在軍の兵士一千人、これに金官国の兵士や有志一千人を合わせて五千人の大部隊となりました。駐在軍の騎馬隊の先導で洛東江を渡り、草羅城を奪還した後、首都の金城(慶州)に向けて進軍していきます。倭軍の襲来を聞いた新羅の第17代奈勿王(治世352402年)と参謀たちは一計を案じました。数千の人形を草で作り、服を着せ、武器を持たせて、首都南東の吐含山(とはむさん)の麓に並べて立てた上で、斧峴の東の窪地に精兵一千人を潜伏させました。

 草羅城から金城から進む街道には新羅兵の姿が見えず、静まり返っていました。筑紫の遠征軍は敵が倭軍の雄姿を見て恐れおののいて逃げていった、と見くびってしまいます。韓人の狡猾さの一面を周知している志摩宿禰軍は慎重に駒を進めましたが、血気にはやる遠征軍は歩みの遅さにじりじりします。吐含山の麓に待ち構える草人形の軍団を遠望した遠征軍の兵士たちは前進を躊躇している志摩宿禰軍を差し置いて、軍功を狙ってがむしゃらに突進していきました。そこを伏兵が襲いかかり、筑紫軍の大半が死傷するか生け捕られて壊滅してしまい、援護に出た志摩宿禰軍も大敗して退却せざるをえなくなりました。

 

 

2.卓淳国、百済との接触

 

 金官国に戻った志摩宿禰はしばらく悄然としていましたが、気を取り直して次の攻撃の準備を始めました。すると金官国王たちから「新羅に抵抗している卓淳国(とくじゅん。大邱)と手を組んでみたら」との声が上がってきました。卓淳国は洛東江の上流の右岸、辰韓地方の北西部に位置しており、隣接する弁韓地方と見なされる場合もありましたが、新羅の辰韓地方統一に抵抗をして新羅と一進一退の攻防を繰り返していました。

 

 3663月、志摩宿禰は傔人(通訳)の爾波移(にはや)を連れて、自ら卓淳国に向いました。首尾よく、志摩宿禰と爾波移は卓淳国王の城内に招き入られました。国王の末錦旱岐は親しげに語りかけてきました。

「一昨年(364年)の7月、百済人の久氐(くてい)、弥州流と莫古と名乗る三人が我が国に参りました。恐らく貴軍が新羅討ちを試みられたことを聞きつけたのでしょうか、『我が国の近肖古王(治世346375年)が東方に倭国が存在することを知って、是非とも倭国と友好を結びたい、使者を倭国に送りたいと切望しております。倭国に至る道筋を教えていただけますなら、我が王はそれ相応のお礼をいたします』と願い出ました。そこで私は『東方に倭国が存在することは存じておりますが、自国の者が訪ねたことはなく、倭国に至る道筋は承知しておりません。倭国は海を越えた、はるか遠くにあります。出立する港があったとしても、小舟では無理で大船でないと海を渡りきることができません』と答えました。すると久氐たちは『今すぐに訪問することは無理なことが分かりました。自国に戻って、大船を準備して訪れることにいたします。但し、万が一、倭国の使い人が貴国を訪れてくることがあったら、必ず我が国に知らせて欲しい』と要望して、自国に戻っていきました」。

 

 扶余族を祖とする百済国は第十三代の近肖古王(治世346375年)が馬韓地方の北部を統合していましたが、北方に位置する故国原王(治世331371年)が率いる高句麗からの侵略に悩まされていました。後方を固めるために連携国を確保する必要性に迫られており、新羅に遣使を送りながら、倭国と親交を結ぶ願望を抱いていました。宿敵の高句麗は故国原王の即位以来、五胡十六国の一国である前燕の跋扈、蹂躙に悩まされていましたが、前燕の冊封体制下に入ることにより平静を取り戻した後、百済への勢力拡大の野心を実行していました。

 

 卓淳国王の話を聞いた斯摩宿禰は早速、卓淳人の過古(わこ)を案内役として爾波移(にはや)を百済に派遣しました。近肖古王は二人の訪問を喜んで厚く遇し、爾波移に五色の綵と絹各一匹、角弓箭、鉄鋌四十枚を弊いました。便に宝物殿を開けて、諸の珍異な品々を見せました。「我が国にはこのように多くの珍宝があります。倭国に貢ぐ気持ちがあるものの、行く道が分からないため、その志を実現できないでいた。都合よく使者が訪れてきたので、ほんの一部を貢献したわけだ」と語りました。卓淳国に還った爾波移は、仔細を志摩宿禰に報告しました。百済からの贈り物を手に金官国に戻った志摩宿禰は武内宿禰に急使を送りました。

 

 

3.百済・倭国連合の勝利

 

 これをきっかけに卓淳国を仲介にした倭国と百済の交流が始まり、3674月に百済の近肖古王の使者として久氐(くてい)、弥州流と莫古が筑紫に到着しました。ところが奇妙なことに倭国が敵対する新羅の使者も同伴していました。新羅の使者は「倭国との国交復活を協議に来た」と言い張ります。

 都に上った両国の使者は武内宿禰の出迎えを受けた後、皇太后と満七歳になったホムタ(誉田、品陀和気)王子と面会します。ホムタ王子は初めて見る異国人の容姿や衣裳に興味津々浦々の様子でした。皇太后は百済と合わせて新羅の使者も来訪してきたことにご満悦でした。「新羅も改心したのであろう。私が思い描いている三韓の共存共栄が実現しそうになった。この光景に亡きタラシナカツヒコさまが同席されていたなら」と感慨深げでした。皇太后と王子の喜ぶ様子を見て、群臣も嬉し涙を浮かべました。

 

 二国の使者が献上した貢物を検校してみますと、新羅の貢物は珍奇な品々であふれていました。これとは対照的に百済の貢物は貧相な品がわずかにあるだけでした。

「百済の貢物は新羅の貢物に較べると格段に劣っているのは何故か」と久氐たちに問い詰めますが、新羅の使者の顔を窺いながら口を閉ざしたままでした。「これは何か事情があるに違いない」と勘づいた家臣は、宴席場に先に新羅の使者を送り出し、久氐に再度、問いただしますとようやく重い口を開きました。「実を申しますと、貴国に向っている途中に道に迷ってしまい、新羅領内の沙比(梁山)に迷い込んでしまいました。新羅の兵士に捕らえられ、牢獄にぶちこまれました。三か月が経過し、殺されることを覚悟した頃、首都の奈勿王から伝令があり、『お前たちも使者のふりをして倭国に出向き、捕虜を取り戻して来い』との命令を受けたようです。沙比の領主は私どもから取り上げた貢物を新羅の貢物として、『倭国にこのことを告げたら、帰国後に殺すぞ』と脅しながら、私どもに粗末な品を貢物として与えました」と告白しました。

 

 新羅の使者を問い詰めますが、のらりくらりと話をはずらかすばかりです。そこで占いをして天神に「事の虚実を検証すべく、新羅に使いを送ろうと思うが、誰を遣わしたらよいでしょう」と問いますと「議論は武内宿禰に任せなさい。使者として千熊長彦を送れば、所願どおりに進むであろう」との神託が下りました。千熊長彦は東国の武蔵国の人で、額田部槻本首等の始祖となります。

 半島に渡った千熊長彦はまず金官国の志摩宿禰を訪れますと、志摩宿禰は「 ずっと百済の使者の到着を待ちわびておりましたが、それで合点がいきました」と斥候を使って真相を嗅ぎ出していきます。捕らえた久氐一行の目的を知った新羅は、百済の貢物をまきあげた後、捕虜となっていた倭人を案内役として、筑紫に渡ったことが判明しました。国交復活は名目にすぎず、狙いは自国の捕虜の奪還にあることも分かりました。

 

 千熊長彦の帰還を待つ間、皇太后は久氐たちとの会話を数度、持ちました。

「かって三韓の盟主は辰国であった、と伝え聞いておりますが、その辰国はまだ存続しておりますか」。「辰国は百済国の中に存続し、弓月(ゆつき)君を代表として一国を継続しております。始皇帝で著名な秦の末裔を自称しておりますが、中国伝来の技巧と知識を代々伝えておりますので、百済の特別な国としての尊重されております」と誇張を混じえて答えましたが、皇太后は辰国が百済の中に存続していることから、百済を辰国の後裔と見なすようになりました。

 千熊長彦が戻って久氐たちの言い分が証明され、筑紫に留まった新羅人が捕虜を脱走させる未遂事件もありましたので、倭国と百済の同盟が結ばれ、連合軍による新羅征伐が合意されました。新羅の使者は捕囚の身となりました。

 

 遠征軍の兵士集めが始まりましたが、前回の単独侵攻で筑紫勢がほぼ全滅したこともあって、今回は主力の兵士を東国から集めることを決め、毛野国の御緒別(みもろわけ)に一任しました。御緒別は豊城入彦の曾孫にあたりますが、息子の荒田別に加えて鹿我別を二将軍とする征伐軍を整えました。都に上った征伐軍は、皇太后直々の大使となった千熊長彦と百済の久氐たちと合流し、3693月、筑紫に下っていきました。

 

 

4.倭軍・百済連合が半島南西部を支配

 

 金官国に到着後、久氐は母国の近肖古王に使いを送り、新羅討ちに向けて兵士の派遣を求めました。一行は金官国の沙沙奴脆(ささなこ)軍を含めて卓淳国に入りますと、百済の将である木羅斤資(もくらこんし)が待機していました。ところが新羅との攻防で半生を費やしてきた卓淳国の老将が「この兵数の規模ではとても新羅軍を打ち破ることはできません。話に聞く百済の猛将、沙白と蓋蘆を招く必要があります」と忠言します。そこで沙白と蓋蘆が率いる精兵も一団に加わりました。

 倭軍・百済連合軍は卓淳国の兵士の案内で、まず喙国(とくのくに。慶山)に入りました。そこから新羅首都へと進もうとしましたが、敵軍に阻まれてしまいました。洛東江を下り、 比自ほ国(ひしほ、非火、昌寧)に進みましたが、ここでも新羅の守備は頑強で金城(慶州)への進軍を果すことができません。そこで戦略を見直し、とりあえずは弁韓地方の把握に絞り込むことに切り替えました。洛東江を渡って大加羅国(高霊)に入り、慶尚北道の4か国をまとめました。続いて慶尚南道に入り多羅国(峽川)から安羅国(咸安)を経て海側に下り西方面に進んで、蟾津江の河口に位置する多沙国(滞沙)を固めて弁韓地方全域を手中にしました。

 

 百済軍の要請で連合軍はさらに西に向かって全羅南道に入り、半島西端の古けい津(康津)に入り、海を渡って忱弥多礼国(たむたれ。済州島)を征しました。

 同じ頃、高句麗が歩騎2万人で百済の北境に侵攻してきました。百済にとっては正念場の年となりましたが、首尾よく高句麗軍の迎撃に成功しました。意気があがる近肖古王と貴須(くいす。近仇首)王子は軍を領いて忠清南道へ下っていきました。北を肖古王軍、南を連合軍に挟まれた比利(全州の完山)、全羅北道の辟中(金堤)、忠清南道の布弥支(新豊)、全羅南道の半古(噃南)の四か国は自ら服従の意を表明しました。

 

 百済の王父子と荒田別・木羅斤資が率いる連合軍は意流村(おるすき)で出会いを果たしました。倭国大使である千熊長彦が百済国王と会談し、馬韓に属する全羅南道は百済軍が、弁韓に属する慶尚南道と慶尚北道諸国は倭軍が占有する分割案が合意されました。

 百済王は千熊長彦を都の漢城へ招待しました。途上しながら全羅北道の辟支山(金堤)に登って連盟を誓い、さらに古沙山(古阜)に登って共に磐石の上に座りました。

「敷いた草の上に座ると火に焼かれてしまう。木の上に座ると水に流されてしまう。磐石に座って誓い合うならば、長遠にして朽ちることはない。今後は千秋万歳に絶ゆることなく貴国の西の友好国となって、春秋に朝貢しよう」と誓いをしました。 漢城で千熊長彦を厚く礼遇した後、久氐等を副へて金官国に送りました。

 

 こうして当初の辰韓地方の解放は達成できなかったものの、倭国による弁韓諸国の統括が始まりました。弁韓地方はミマキ王(御真木入日子印恵。崇神天皇)と蘇那曷叱智(そなかしち)の故事にちなんで「任那(みまな)」と呼ぶことが決まり、倭軍の本部は金官国に置かれました。百済の将軍、木羅斤資は百済と任那代表部との橋渡し役となりましたが、戦役を通じて目星をつけた新羅の女性をめとって、木満到が誕生しました。

 

 任那統治は皇太后がめざす「弁韓12か国、辰韓12か国の並存時代の復活」にそって進められました。倭国は任那(弁韓)地域の進駐軍として警護役を務め、各国の内政、自治は地元勢力とする役割分担が公認されました。永年、東方から新羅の侵攻に悩まされ、西方の百済とは同盟関係が結ばれたことで、平和が保証された地元勢力は諸手をあげて倭軍を歓迎しました。荒田別軍と金官国駐在をしてきた志摩宿禰軍の兵士の一部が任那諸国の要所に送られらた後、約1年間の滞在を経て、3702月、荒田別一行は凱旋帰国しました。

 

 

5.半島政策をめぐるオキナガタラシヒメと武内宿禰の対立

 

 荒田別等の帰還から3か月が経過した3705月、千熊長彦が久氐等を伴って百済から戻りました。皇太后は百済の一行を厚くもてなしましたが、久氐は「 蟾津江の河口にある多沙城を譲渡して欲しい」と近肖古王の要請を伝えました。皇太后は「海の西の馬韓をすでに貴国に譲ったのに」と合点がいきませんでしたが、久氐は「百済と貴国との交流をより迅速にするためです」と執拗に粘りましたので、遂に根負けしてしまい、気前良く譲渡してしまいました。

 さすがに武内宿禰は呆れかえりました。「これでは、任那の人たちから倭軍はお人よし過ぎると侮られてしまいます。皇太后は三韓地方の現状も地勢も悪賢さもご存じなく、あまりに浮世離れしたお考えです」と苦言を呈しましたが、意に介さない皇太后は「それよりも早く新羅制覇を実現しなさい」と斬り返しましたので、武内は黙り込むしかありませんでした。

 

 3713月、一年もたたぬうちに再び久氐が貢物をどっさり携えて朝貢してきました。皇太后は得意げに「ほら見たことですか。私が親交する百済国は天が賜った国で辰国の威厳を継承しています。人がどうのこうのと言う国ではありません。貴重で、珍奇な品々がないことはない国です。私の治世が過ぎても、厚く恩恵を施しなさい」とすっかり百済を信頼してしまいます。

 久氐が倭国に滞在している間に、百済は精兵3万を率いて高句麗の都、平壌に攻め入りました。百済が新たに領土に組み入れた全羅北道と南道から徴発した兵士たちの活躍もあって大勝利となり、高句麗の故国原王は戦死してしまい、百済は絶頂期を迎えました。

 

 久氐等の帰国に合わせて千熊長彦を倭国大使として百済に派遣しますと、高句麗制覇に酔いしれる近肖古王と貴須王子は上機嫌で千熊長彦を迎え入れました。

「私は神託の教示に従って半島への道を開き、半島の西を貴国に賜わりました。貴国と改めて友好を結び、永久に敬愛しあいましょう」と皇太后の伝言を伝えますと、「貴国の鴻恩(みうつくしび)は天地よりも重いものです。何時になっても忘れることはありません。聖王は上にあって日月のように明るく、下に仕える臣は山岳のように堅固です。我が国は貴国の西の友好国として忠信を守ります」と愛想よく応答しました。

 

 翌年372910日、千熊長彦に同伴して久氐等が四度目の訪問をしました。恭しく七枝刀(ななつさやのたち)を一口、七子鏡を一面、さらに種々の重宝を献りました。

「この七枝刀は我が国の西にある川の水源地の谷那(こくな)の鉄山から産出した鉄で作ったものです。谷那は都から七日をかけても到着しないほど遠くにあります。この川の水を汲み、山の鉄を鋳った逸品を貴朝に献じます。近肖古王は孫の枕流王(治世384385年)に『我が国と交友を契った海東の国は天が啓いた国である。天恩を垂れて、海の西を我が国に譲ってくれ、我が国の基が固まった。お前の御世となっても和好を続け、珍奇な品々を奉貢するのは死んでも恨まれることはない』と訓じました」。

 

 半島運営に対する認識は皇太后と武内宿禰との間のすれ違いが顕著になっていきます。皇太后は「辰韓12か国、弁韓12か国の復活」という但馬地方の長年の夢にかたくなにこだわりました。

「大倭国が大和国を盟主として各国が協和していくことで平穏になったように、三韓諸国も諸国が協和していく。倭国はその守護役として報酬、貢物を取得すれば良い」という融和統治政策の構図でした。これに対し武内宿禰は「皇太后の思い込みはあまりに現実離れした幻想にすぎない。なぜ、半島諸国を朝廷の直轄領として植民地化していかないのか」とじくじくたる思いでした。

「これ以上、皇太后に説得を試みても仕方がない」と諦めの境地に至った武内は自分の地盤である大和の葛城地方で秘かに子飼いの兵士育成を始めました。

 

 

〔3〕第二王朝の権威付けと神話化

 

1.ホムタ王子の后たち

 

 ホムタ(誉田、品陀和気)王子は14歳の成人式を終えてから、ヤマトヒメの提唱した案にそって、品陀真若の長女、高城入姫を后に迎えました。品陀真若は五百木入彦と尾張国造の建稲種の娘である志理都紀斗賣との間に産まれ、幼児の頃から面倒を見ていた叔母の金田屋姫を后にしました。尾張国造一族から后を迎える準備として、志理都紀斗賣と金田屋姫の兄、尾張尾綱根が大臣の一人に抜擢されていました。品田真若と金田屋姫の間には、高城入姫に次いで仲姫(なかつひめ)と弟姫も誕生しており、二人の姉妹も成長したら后として王宮入りすることが決まりました。

 

 王子の世話役として王宮住まいを始めた吉備建彦の末娘、兄媛(えひめ)はホムタ王子より10歳ほど年上でした。吉備建彦は老い先に生まれた末っ子の兄媛を秘蔵っ子として可愛がり、いつも側に置いて、王子の祖父ヲウス(小碓。倭建)との東国遠征や吉備に立ち寄った父タラシナカツヒコ(足仲彦。仲哀天皇)の思い出話を聞かせていました。兄媛とホムタ王子とは気性が合って、王子は姉のように慕いましたが、兄媛は幼い頃から聞いてきたホムタ王子の祖父や父の話を語り、王子は目に見ぬ父や祖父の雄姿を思い描いていきました。ホムタ王子が初めて抱いた女性でもありましたので、高城入姫が后になった後、ごく自然な形で后の扱いを受けるようになりました。

 

 品陀真若の三后との間には次々と王子・王女が誕生して行きます。

―高城入媛は額田大中彦(ぬかたのおおなかつひこ)、大山守(おおやまもり)、去来真稚(いざのまわか)、大原郎女(おおはらのいらつめ)、高目郎女(こむくのいらつめ)の三男二女を、

―仲姫は荒田郎女(あらたのいらつめ)、大雀(おおさざき。仁徳天皇)、根鳥皇子(ねとりみこ)の二男一女を、

―弟姫は阿倍皇女(あへのひめみこ)、淡路御原皇女(あはぢのみはらのひめえみこ)、紀之菟野皇女(きのうののひめみこ)の三女を生み、王宮は幼い王子や王女たちの笑い声や泣き声が絶えません。

 

 尾張から宮中に入った三人姉妹の仲は良好でしたが、ホムタ王子は三后の叔父の尾張尾綱根大臣や尾張国造家からいつも監視されているようで居心地が悪く、母の皇太后オキナガタラシヒメ(息長帯比売。神功皇后)も吉備氏の兄媛を信頼していたこともあり、気心を知り合っている年上の兄媛の許へよく通いました。兄媛との間には子供は誕生しませんでしたので、三姉妹も叔父も大目に見て、とやかくは言いませんでした。

 

 

2.第二王朝始祖の神話化

 

 新王朝は内政は皇太后、外政は武内宿禰が管轄する、という役割分担で順調に推移します。

 

 国内は朝廷の軍事力が強化され、半島から輸入される鉄材や豪奢な嗜好品の独占、専売で豪族をはるかに凌ぐ富を蓄積していきます。半島の舶来品を授けていく手法で各地の豪族に手なずけていきます。

 各地で牧場が作られ、馬の飼育が盛んとなり、馬具と騎馬戦術が普及していきます。半島の戦役で活躍して凱旋帰国した毛野国の荒田別(あらたわけ)を筆頭とする東国の武将たちは半島から持ち帰った産物や知識を東国にもたらし、畿内より文化的に劣っていた東国の自力が高まっていきます。

 

 騎馬兵の登場で南西の熊襲と北東の蝦夷との力の差が広がったことから、熊襲と蝦夷退治が進み、熊襲も蝦夷も奥地へ追い込まれて行きました。しかし熊襲地方は火山灰が積もったシラス台地のため、蝦夷地方は寒冷のため、両地方とも稲の水田耕作が不適応なこともあって、大規模農業は発展しないままでした。

 大型古墳の築造も各地で始まりました。皇太后オキナガタラシヒメも自らの墳墓を盆地西北部の佐紀の丘陵に定め、築造開始を指示しました。さらに王子の墳墓として、祖父と父と同じ河内の古市に場所を確保しました。

 

 皇太后はホムタ王子が16歳を過ぎた頃から徐々に内政を託していくようになりました。ホムタ王子に期待をかける皇太后は甘やかしはしませんでしたので、ホムタ王子はもっぱら兄媛に甘えます。幼い頃から兄のように親しんで来た葛城襲津彦も心を許す知友でした。何かにつけ父親のように振舞う武内宿禰をホムタ王子は嫌い、出会いを避けていましたが、性格が温厚で人が良い襲津彦とは馬が合い、武内宿禰と襲津彦が親子でありながら、「こうまで性格が違うとは」と不思議でした。

 

 ホムタ王子に内政の見習いをさせながら、皇太后は第二王朝の権威付けと神格化を進めました。ヤマトヒメ(倭姫)との約束を守って、第一王朝の第十一代イクメ王(活目入彦五十狭茅。垂仁天皇)時代にまとめ上げられた大倭国神話と王家の系譜はそのまま継承しましたが、第二王朝の成立に関わった神々を大倭神話に補完していきます。

 アマテラスオオヒルメを神々の最上神に位置づけ、ヤマトヒメとゆかりが深い伊勢神宮を筆頭神社として威厳を高めました。摂津の住吉三神である底筒之男、中筒之男、上筒之男を祀る大社を上町台地に造り、安曇三神である底津綿津見、中津綿津見、上津綿津見を筑紫に祀りました。さらに住吉三神と安曇三神をイザナギ神話の中に加えました。

 ヲウスとタラシナカツヒコ親子を第二王朝の祖として美化し、父方の祖である日子坐(ひこいます)と母方の祖である但馬のアメノヒホコ(天日矛)の系図を補充しました。さらにオキナガタラシヒメは「私も新羅退治に遠征したことにしておいて下さい」と編纂担当者に指示を出したこともあり、最大限に皇太后の功績を称える旧事(逸話)が膨らみました。

 

 皇太后は祭祀を担う氏族の代表を王宮に招聘し、補完された大倭国神話と王家の系譜を披露しました。意富氏は政治力は弱まりましたが、大和系祭祀の本家筋としての立場は維持しました。これに伊勢系の猿女君、吉備系の中臣氏と大三輪君、阿波系の忌部氏、大和土着系の物部氏が参列し、暗誦していきます。主要氏族はこれに沿って自分たちの祖神や系譜を付加しながら、それぞれ口承で後世に伝えていきました。

 

 

3.任那(弁韓)諸国の繁栄と増長

  

 375年に百済の近肖古王が薨して、王子の貴須(近仇首。治世376384年)が即位しましたが、倭国と百済の蜜月関係は継続していきます。

 倭国の任那諸国統治政策は皇太后の意向に相応して、守護はするが各国の内政は統治しない原則で進行します。倭国は守備役の見返りとして諸国から貢物を供出させ、半島との交易を独占することで財政を潤していきます。百済を旧辰国を含む馬韓地域の盟主と見なしながら、弁韓12か国に次いで、辰韓12か国の復活と守護を次の課題に掲げていました。

 倭国の庇護下で、外からの侵略がとだえた任那(弁韓)諸国は平和を享受して、繁栄していきます。海側は倭国との交易拡大で、山側は慶尚南道の陜川郡の鉄鉱山開発が奨励され、ことに大伽羅国が大成長を遂げていきます。弁韓地方の国々ではおべっかい者も含めて倭国に感謝する者もおりましたが、その一方で「俺たちのお蔭で倭軍が食べている」と陰口を叩く者もありました。

 

 次第に半島政策をめぐって皇太后と武内宿禰の思惑の違いが表面化し、亀裂は決定的となっていきました。皇太后は「任那地方と同じように辰韓地方の軍事権を確保して辰韓諸国共存時代を復活させる」との信念を抱き続けますが、「皇太后は実際の現場を知らずに夢想されているにすぎない。辰韓地方の軍事権の把握は難しい。都合よく収得に成功したとしても百済が警戒の念を強めて新羅側につくか、支援する恐れもある。軍事権を握るなら、内政権も取得して植民地化した方が得策」と武内は現実を冷静に判断していました。

 金官国の任那代表部でも皇太后に対する不満が鬱積していきます。代表部の軍人は志摩宿禰―武内宿禰派と千熊長彦―皇太后派で対立が深まります。369年から381年の12年間で、金官国等に定住して土着化した倭人が増え、現地妻との間に生まれた混血児の数も増えていきました。現地妻の親族たちも含めて、「なぜ、本国から王族を送り込んで任那地方各国の首(国造)に担ぎ上げ、任那地方を統治しないか、植民地化しないか」という声が高まっていきました。さらには辰韓に加えて百済も征服して、三韓を植民地化して倭国の領土にするという極論を言い出す者も出てきました。

 

 

4.葛城襲津彦を新羅に派遣

 

 382年、新羅が朝貢を怠りました。武内との議論に見切りをつけた皇太后は朝貢をしてこない新羅の奈勿王(治世356402年)を脅迫すべく、新羅征伐を名目にして葛城襲津彦を半島に派遣しました。オキナガタラシヒメが幼い頃から可愛がってきた襲津彦は、王宮でホムタ王子の兄のような存在で成長したせいもあるのか、父である武内のずる賢さを引き継がず、いたって温厚でお人よしでした。いつも皇太后と武内の対立の板ばさみとなっていましたが、兄媛と並んでホムタ王子が気を許す親近者であったこともあり、皇太后と王子寄りの見解を抱いていました。

 

 襲津彦は金官加羅国の任那代表部に立ち寄った後、新羅征伐を説く強硬派の声を無視して、わずか50人の従者を連れて、皇太后の名代として新羅の首都、金城に向いました。

 新羅は奈勿王の治世が26年続き、疲弊化の兆候が目立ちだしていましたが、「蔑視する東海の倭国なぞに朝貢する必然はない」とする主張が支配的でした。

 襲津彦は倭国による任那(弁韓)諸国の統治が成功したことを上げながら、「辰韓12か国に自治権を与えること、さもないと倭国が新羅に攻め入る」と奈勿王に強硬に迫りますが、奈勿王は襲津彦よりも一枚も二枚も上手で老獪でした。一瞬、表情をこばらせましたが、気持ちを入れ換えたのか、にこやかな表情に転じた奈勿王は「長旅でお疲れでしょうから、今夜はじっくりお休みなさい。協議はお疲れがとれてから、ゆっくりといたしましょう」と席を立ちました。

 その晩から、襲津彦は美女たちの熱い接遇を受け、夢のような甘美にひたっていきます。はべる美女達の口車に乗せられ、夜伽の中で倭国の意図と状況、金官加羅国の様子、任那諸国に駐留する倭軍の状況などを探られ、正直に喋ってしまいます。色仕掛けにはまって、時の経過を忘れるうちに、新羅の首都に長期滞在するはめになってしまいました。

 

 その間に、襲津彦から得た情報に加えて、密偵が集めた情報をすり合わせた新羅軍は倭軍の駐在地をうまくすり抜けて金官加羅国を急襲し、一挙に王城に押し入りました。ふいを襲われた金官加羅国王の乙本旱岐と児の百久至、阿首至、国沙利、伊羅麻酒、爾汶至やお付きたちは、百済に逃げ落ちました。貴須王は逃亡者一行を手厚く遇しました。

 加羅国王の妹、既殿至(けでんち)は倭国に渡り、「倭国王は襲津彦(沙至比跪)を遣わして新羅を討とうとされましたが、新羅の美女たちにかどわかされて戦意を失い、新羅側に寝返ってしまいました。我が国は新羅に攻められ、王や王子たちは流浪の身となってしまいました。私は運よく逃げおうすことができ、貴国に報告に上りました」と窮状を訴えました。

 

 皇太后は「まさか」と二の句が告げず、武内宿禰は我が子の失態に激怒して、直ちに木羅斤資(もくらこんし)将軍の派遣を百済王に要請しました。南下した木羅斤資軍は任那代表部の兵士と合流して、金官国から新羅軍を退散させました。

 急使から事の顛末を知らされた襲津彦は自分が罠にはめられたことにようやく気付きましたが、もはや後の祭りです。このまま帰還すると、重刑を課されるか死刑となることは明白でした。従者に加わっていた、皇太后の息がかかった但馬人の計らいで海人(船乗り)に扮装して倭国に戻り、但馬に隠れ住みました。

 

 

5.半島の潮流変化と皇太后の崩御

    

 百済の貴須王は376年に王位を継いだ後も高句麗と交戦を続け、近肖古王が372年と373年に朝貢して以来の東晋との冊封関係を維持しました。384年に貴須王の死後、跡を継いだ息子の枕流王も東晋との関係を継続し、東晋は同年9月に胡僧の摩羅難陀を百済に送り、百済に仏経が伝えられました。ところがわずか在位2年目の385年に死去してしまいました。王子の阿花がまだ幼かったことを理由にして枕流王の弟、辰斯(在位385392年)が王位を継ぎました。 辰斯は兄を毒殺して、王位を簒奪したとの噂も飛び交いましたが、近肖古王以来、三代続いた倭国と百済の蜜月時代は幕を閉じていきます。

 

 辰斯王は386年春に、防衛用の長城(関防)を築かせ、北辺の高句麗に備えました。386年春に東晋から百済王に封じられ、百済の伝統である「東晋―百済の連携」で高句麗に対抗する態勢が整い、高句麗との攻防も3909月までは有利な展開を続けました。

 百済との攻防相手である高句麗では、故国原王が百済戦で戦死した後、息子の小獣林王(治世371384年)はひたすら国力の回復に努め、文教政策に注力しました。370年に前燕を滅ぼした前秦の符堅が372年に派遣した仏僧・順道を受け入れて、百済より12年早く西域仏経が伝わりました。372年に太学を建てて儒教による教育を推し進め、373年に律令を頒布します。376年に華北を統一した前秦に377年に朝貢して前秦の冊封体制に入りました。百済とは攻めたり攻められたりで目覚しい戦果はなく、378年には北方の契丹の侵略を受け、8部落を奪われました。38411月に嗣子のないままに小獣林王が死に、弟の故国壌王(治世384391年)が即位しました。故国壌王は後燕の支配下の遼東に攻め入り、一度は遼東郡・玄莬郡を奪いましたが、わずか半年内に奪い返されてしまいました。390年には百済に攻め入られ、都坤城(平壌市中和郡)を破られてしまうなど苦境が続きました。

 新羅では辰韓地方の統一を達成した第17代奈勿王は、高句麗と同様に377年に前秦に朝貢して、前秦の冊封体制に入りました。奈勿王が老境の域に入るにつれて、宮廷が疲弊化して、主要な家臣の間で利権争いが激しくなり、国防力が弱体化していきます。

 

 華北の前秦―高句麗―新羅、華南の東晋―百済―倭国という対立図式が鮮明となりながら、百済、高句麗、新羅三国の潮の流れが変化していく渦中、3894月、皇太后が稚桜宮に崩御し、1015日、すでに完成していた狭城盾列(さきのたたなみ)陵に葬り祀られました。

 

 

その2.武内宿禰の野望

 

〔4〕三韓の植民地化 

  

1.新羅への侵攻

 

 皇太后オキナガタラシヒメ(息長帯日売。神功皇后)が崩御した翌年の西暦390年元旦、ホムタ(誉田、品陀和気)王子が王の座につきました。 ホムタ王はすでに三十歳台に入っており、高城入媛との間に額田大中彦(ぬかたのおおなかつひこ)、大山守(おおやまもり)、去来真稚(いざのまわか)の三王子、仲姫との間に大雀(おおさざき。仁徳天皇)、根鳥皇子(ねとりみこ)の二王子が誕生していて、後継ぎの心配はありませんが、皇太后の摂政時代に引き続き、国内はホムツ王子、半島は武内宿禰が分担管轄となりました。

 

 平穏な国内に対し、半島では高句麗、まつかつ(靺かつ。勿吉もつきつ)、新羅、百済、倭軍の五勢力が激突して、波乱が増幅されていきます。

 西を後燕、西北を契丹、北を扶余、東を靺かつ、南を百済に囲まれる高句麗は兄の小獣林王を継いだ故国壌王(治世384391年)の悪戦苦闘が続きます。390年には百済に攻め入られ、第二の首都である南西部の都坤城(平壌市中和郡)を破られてしまい、弱体ぶりを印象づけました。高句麗の凋落を見定めたのか、高句麗の東方、沿海地方を拠点とする靺かつは新羅北方に侵入しました。

 任那(弁韓)諸国では、駐屯する倭軍の兵士たちの不満が募っていました。倭国の半島進出から約30年が経過し、任那諸国に駐在する兵士の中には現地の女性と結婚し、子供も生まれ、このまま永住を決めた者もおりました。混血の子供たちも成人し、世帯を構えて子供を持つ者が増えていきます。彼らは諸国の文官職につくことができず、出世の道は軍人しかありません。賄賂で私腹を肥やす者も混じる文官たちを横目で見ながら、「倭国が何で直接支配、植民地化をしないのか」と不思議でなりませんでした。百済に全羅道南部と済州島を譲渡したことも惜しがっていました。奈勿王(治世356402年)の治世が35年目に入った新羅は、支配体制の老朽化と膠着化が進み、軍部が弱体化していました。それを感じ取っている武闘派は手柄をたてれば報酬にありつけますから、新羅侵攻の声を強めていきます。

 

 任那代表部から新羅侵攻の声が高まっている報告を受けた武内宿禰は、任那駐在の兵士たちを宥める意味もあって、任那代表部に対し、百済が高句麗への侵攻に成功したなら、という条件付きで新羅に攻め入ることを承諾しました。新羅側に組する高句麗が百済対策に追われるならば、新羅を援ける余裕がないと読んだからでした。

 行商人に扮した密偵から、靺かつが新羅北方に侵入した情報を得た任那代表部は、即座に駐留軍に新羅侵攻を許可しました。新羅側にとって不運なことは、靺かつの南下を食い止めるべく、軍隊を北方に集中させていましたから、新羅南部の防衛は手薄になっていたことでした。洛東江を越えた倭軍は安々と新羅南部を攻略して、首都の金城(慶州)に迫りました。新羅の守備隊は何とか首都を死守して、睨み合いとなりました。

 

 睨みあいが続く中、翌年391年、武内宿禰が派遣した倭国の代表者が金城に入り、奈勿王と相対しました。

 北から靺かつ、南から倭軍に攻撃にさらされて窮地に陥っていた奈勿王は倭国の使者に停戦を申し入れました。使者は見返りとして、すでに占拠した新羅(辰韓)南部の割譲に加えて、王子を人質として倭国に差し出すことを要求しました。奈勿王は国の存亡を救うために、涙を飲んで三男の美海(未叱喜、未斯欣)を倭国に人質として送ることに同意して、停戦条約が成立しました。美海はまだ十歳と年少でした。言辞や作法がまだなお備わっていないこともあり、内臣の朴娑覧を副使として同伴させました。美海と朴娑覧はその後、27年間もの長きにわたり、倭国に留め置かれることになることも分からぬまま、金城を後にして倭国に向いました。

 

 倭国との停戦交渉をまとめた奈勿王は靺かつの南下の防戦に全力を傾け、靺かつの南下を食い止めました。そこで靺かつは、方向を百済へと転じて、百済の北鄙に侵入しました。

 倭国領となった新羅南部へは任那諸国の倭系の兵士や成人した子供たちの多くが喜び勇んで移住していきました。辰韓地方南部の解放を知った但馬人も、永年の辰韓諸国復興の願いが叶った、と憧れの古里へ移住していく者が多くありました。

 

 武内は美海をホムタ王に引き合わせました。まだ10歳の暗い顔をした少年をホムタ王は慰めますが、打ち解けることはなく、望郷の念にかられて泣くばかりでした。

「これを契機に王族を任那諸国や新羅南部に遣して、我が国の支配を固めてみてはいかがでしょうか」と武内宿禰は婉曲に倭国による直接支配を説きますが、幼い頃から武内を嫌って距離を置いてきたホムタ王は、亡き母が弁韓と辰韓諸国の復興と共存共栄を目指して、任那諸国の内政には不干渉の意思を貫いたことを思い起こして、首を縦には振りませんでした。

 

 

2.高句麗の好太王の登場と百済王の交替

 

 同じ頃、高句麗では故国壌王(384391年)が薨去して、息子の好太王(広開土王。391412年)が18歳の若さで即位しました。即位当座は百済も新羅も倭軍も好太王が不世出の名武将として衰弱した高句麗を再興し、歴史に名を残すことになるとは想像だにしませんでした。

 幼い頃から、後燕、契丹、扶余、靺かつ、百済との攻防に憔悴する父王の姿を見ながら、好太王は独自の戦法を編み出しました。 後燕、契丹や扶余など北方諸国の捕虜や逃亡者を死への淵へ追い込んだ後に南方の百済との戦役の先鋒役、逆に百済の捕虜を北方の防備の先鋒役に使うことです。死の恐怖を間近に感じた捕虜や逃亡者は手柄を立てれば束縛の身から解放されることを約束されることから、期待を超える働きをしていきます。

 

 好太王はまず3921月、新羅に使者を派遣して、友好関係の維持を確約します。高句麗の勢力を恐れながらも、対靺かつ、対倭軍で高句麗の力を必要とする新羅の奈勿王は甥の金實聖(實聖尼師今)を人質として高句麗に差し出しました。

 続いて好太王は百済侵入を謀る靺かつを北東に追いやった後、3927月、4万の兵を率いて百済領に入り、石硯城を含めた10城を奪取し、関彌城を陥落させ、首都を流れる漢水(漢江)以北の諸城のほとんどを奪いました。

 

 靺かつに次いで高句麗の大軍に襲われ、国土の半分を奪われた百済の辰斯王は、前王までと異なり、元々から倭国への関心が薄く、倭国に援けを求める意思もありませんでしたから、倭国への貢献をすっかり怠っていました。

 これを近肖古王以来、継続されてきた倭国と百済の信頼関係を踏みにじった行為と判断した武内宿禰はその非礼を嘖譲せしめようと、紀角(きのつの)宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、平群木莬(つく)宿禰の四人を百済に遣わしました。いずれも武内がひそかに葛城地方で育成してきた子飼いの武将で、木莬宿禰は葛城襲津彦と同様に武内の息子で、他の三人は愛人との間にできた庶子ないし養子にした若者でした。

 四武将が率いる倭軍が百済に到着した知らせを聞いた百済の家臣や重鎮は、すでに辰斯王に見切りをつけてもいましたので、39211月、辰斯王を狗原まで田猟に誘い出して討ち、辰斯王は狗原の行宮で薨去しました。倭国の四将軍の立会いの下、親倭路線を貫いた近肖古王の曾孫である第17代阿花(阿莘。392405年)が即位しました。

 

 紀角宿禰は報告に母国へ戻りましたが、羽田矢代宿禰、石川宿禰、平群木莬宿禰は任那代表部に戻り、三韓の動静の監視役を務めます。

 高句麗の好太王は新羅南部を占領し、百済の阿花を傀儡王とした倭軍に脅威を感じ始め、「早く叩いてしまわねば」と倭軍の動向に留意するようになりました。

 

 

3.和邇氏矢河枝比売

 

 激動する半島に較べ、国内は平静でした。東北の蝦夷攻略が進み、39210月には蝦夷が朝貢して、人質として土民を送ってきました。ホムタ王は蝦夷人を使役に使って、厩坂道を造らせました。

 同年11月には皇太后派対武内派の対立の余波もあって、住吉摂津海人など半島と倭国を行き来する処々の海人が騒動(さばめき)を起こして、命令に従わなくなりました。そこで安曇連の祖、大浜宿禰を遣わして騒動を鎮静させ、大浜宿禰を海人の宰相に任命しました。俗人の諺で「佐麼阿摩(さばあま)」と呼ぶのはこのためです。

 第一王朝末期から第二王朝の発端期にかけて、近江朝寄りの筑紫阿倍氏側についたことから、第二王朝下では安曇族の陰に隠れてしまった筑紫の宗像族は、伊都、松羅、壱岐島を経由せずに、対馬と半島に直行で至る沖ノ島ルートを開発して失地回復のきっかけを作りました。

 394813日、諸国に令して山部、山守部、海部、伊勢部を定めて、王権を強化していきます。同年10月、伊豆国に課して船を造らせます。造られた船は長さ十丈(約30メートル)にも及び、海に浮かべると飛ぶように軽やかに疾走します。これがため、「軽野」と名付けられましたが、それが訛って「枯野」と呼ばれるようになりました。

 

 3952月、近江国に御幸に出たホムタ王は、宇治の北西にある葛野を見晴らしながら歌を詠みました。

葉が多く繁る葛野を見渡すと 豊かな家処も見える 国の優れた処も見える

 木幡(こはた)村に到着した際、村の辻で端麗な乙女と出会い、一目惚れしてしまいました。正后を含めた尾張三后は周りが決めた政略的な結婚で恋愛感情は湧かず、吉備の兄媛(えひめ)は恋人というよりも姉のような存在でしたから、胸がはりさけるような激しい恋心は初めての経験でした。

「お前は誰の娘なのか」とホムタ王が尋ねますと、「私は和邇(丸邇)氏の日触使主(比布禮能意富美ひふれのおほみ)の娘、名は宮主矢河枝(みやぬしやかはえ)比売でございます」と答えました。すると王は「明日にでも、都に戻る際に、お前の家に立ち寄ることにする」と再会を告げました。

 

 宮主矢河枝比売の祖父はオキナガタラシヒメと武内宿禰による第二王朝成立で貢献した和邇氏難波根子建振熊でした。建振熊は米餅搗大臣、日触使主(比布禮能意富美)、大矢田宿禰と石持宿禰の4人の息子を持ちましたが、長男の米餅搗は王朝の大臣となって本家を継ぎ、次男の日触使主は宇治に邸宅を構えていました。

 屋敷に戻った矢河枝比売は詳細を父に報告しますと、日触使主は血相を変えて「そのお方はホムタ王に違いない。畏れ多いことだが、お前はホムタ王に奉公をしなさい」と語りながら、大急ぎで室内を飾り立てました。

 

 約束したように、翌々日、ホムタ王が訪れました。きらびやかに磨きかけられた宴席に招き入れた日触使主は食事を供しましたが、娘の矢河枝比売に盃を持たせ、お神酒を献じさせました。するとホムタ王は盃を矢河枝比売に持たせたまま、歌を詠みました。

この蟹はどこの蟹なのだろう。私が少年の頃、敦賀で手にした蟹なのだろうか

横這いをしながらさまよっているのは 愛しい乙女を捜し求めてのことだろう

伊知遅(いちじ)島や美島にたどり着き 

かいつぶり(鳰鳥)が水に潜ったり浮かび上がって長い息をするように息づきながら

さざなみの中をどんどん進んでいくと 木幡(こはた)の道で愛らしい乙女に出会った

後姿は楯のようにすらっとして 歯並びは椎(しい)や菱の実のように白く美しく

眉は 櫟井の和邇坂の土の 赤すぎる上辺の土を避け 赤黒い底辺の土を避け 

ほどよい赤色の中ほどの土を採って 頭をつんざくような強火ではなく

ほどよい弱火で焼いた土で 可愛いく描かれている

偶然 路上で出会った乙女よ こうなって欲しいと私が恋焦がれていた乙女と

私の願い通りに 今 向かい合っている 寄り添っている』 

 

 こうして二人は結ばれ、愛児の宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)が生まれ、後には八田若郎女と女鳥王(雌鳥皇女)の王女二人も誕生しました。

 

 

4.半島四か国人の来朝

 

 半島では新羅対倭軍と靺かつ、百済対高句麗の攻防が続きます。

 

 倭軍は3935月、停戦条約を破って海側から上陸して、首都の金城を来襲し、五日間、金城を包囲しました。 将兵らは皆、出撃して倭軍と戦うことを願いましたが、奈勿王は「賊軍とまともに戦うと死地に至ってしまう。 先鋒と当るたるべきではない」と城門を固く閉じさせましたが、同時に秘密の地下道を通じて勇猛な騎兵二百を城外の隠れ場所へ送り出しました。城内への侵入を諦めた倭軍が一旦、息をつけようと帰路につくと、そこを待ち構えていた騎兵が襲撃し、さらに城内から出撃した歩兵一千が獨山に倭軍を追い詰め、挟撃して大敗させ、おびただしい数の兵士を殺し、捕獲しました。3958月には、靺かつが再度、新羅の北辺に侵入しましたが大敗させ、新羅北部と首都を守り抜きました。

 

 百済の阿花王は3938月、兵1万を率いて北方領土を奪還した後、高句麗内に侵入しましたが、高句麗軍に行く手を阻まれ引き上げました。3947月に水谷城を築いた高句麗は395年、礼成江まで反撃してきた百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備を強化した後、同年8月、兵7千人で百済とばい水で戦い、勝利をおさめました。勢いを増した高句麗は好太王が契丹(きったん)の稗麗に親征するなど、北部でも実力を発揮していきます。

 

 激動する半島の現状を母国の人たちにも関心を高め、理解してもらおう、とする意図なのか、3968月、任那代表部が高句麗人、百済人、任那人、新羅人の捕虜や奴婢を本国に送ってきました。ホムタ王は武内宿禰に命して、四国人を使役して堤池を造らせました。その池は「韓人池」とも「百済池」とも号されましたが、厩坂道を造った蝦夷と較べると、使用する鉄製器具が優秀なことに加えて、土木技能もはるかに優れていることに、誰もが驚嘆しました。ことに携帯してきた須恵器に注目が集まりました。土師器(はじき)よりも薄いものの、強固で頑丈でした。「どうやってこの器を作るのか」と製造法を問いますが、四国人の誰もが「さあ、分かりません」と答えるだけでした。半島から精通した工人を積極的に招くことの必要性が宮廷内で話題となりました。

 

 

〔5〕武内宿禰の絶頂から失脚

    

1.辰韓地方南部の統治

 

 391年に新羅の奈勿王との停戦条約が成立した後、倭国の統括地となった首都の金城(慶州)から南の地域は洛東江右岸の慶尚南道の東部に位置する旧巳柢国にあたり、東莱、梁山と蔚山が主要地でした。ことに梁山周辺は鉄鉱山が存在することから、新羅にとっても倭国にとっても垂涎の地でした。

 管轄は任那代表部が担いましたが、392年末に百済の阿花(阿莘。392405年)が第17代王に即位するのを見届けた羽田矢代宿禰、石川宿禰、平群木莬(つく)宿禰の三武将が三韓(任那、新羅と百済)の動静の監視役として常駐するようになってから、武内宿禰の覇権主義の傾向を強めいきます。三武将とも武内がひそかに葛城地方で育成してきた子飼いの武将でした。

 

 平群木莬宿禰はまだ成人してから間もない15歳にすぎませんでしたが、実父である武内宿禰の期待を担っていました。木莬宿禰の出生日はホムタ(誉田、品陀和気)王と仲姫の間に誕生した王子、大雀(おおさざき。鷦鷯。仁徳天皇)と同日でした。大雀王子が誕生する日、木莬(つく。みみづく)が産殿(うぶどの)に飛びこんで来ました。翌朝、ホムタ王(王子)は大臣の武内宿禰を召還して「これは何の瑞(みつ。兆候)だろう」と問いますと、大臣は即座に「吉祥でございます。私の妻も昨日、分娩いたしましたが、奇妙なことに産屋に鷦鷯(さざき)が入り込んできました」と答えました。

「そうか、吾が息子と汝の子は同じ日に誕生したのか。共に瑞を有しているのだろう。これは天が下した表(しるし)であろう。吉兆の鳥から名を取り、それぞれの産屋に飛び込んできた鳥を交換して、後葉の契としたはどうだろう」と提案しました。そこで王子には鷦鷯の名を取って大鷦鷯、大臣の子は木莬の名を取って木莬と名付けられました。

 

 木莬宿禰は性格が父に似ていたこともあり、異腹の兄、葛城襲津彦と違って、武内宿禰のお気に入りでした。襲津彦は武内が20歳代半ばに、木莬宿禰は武内が40歳半ばの頃に誕生したため、約20歳の差がありましたが、葛城襲津彦が女色に惑わされて新羅王の説得に失敗して以来、武内は襲津彦を見限り、木莬宿禰に期待を託すようになりました。木莬宿禰が大和を出立する際にも、武内は直々に面会し、「兄の襲津彦は意気地なしで、おまけに新羅の王にうまく懐柔されてしまって、恥をかかされた。襲津彦と違って、木莬は武術の腕も優れ覇気もあるから、三韓征服の私の夢を実現してくいれると期待している」と激励していました。

 

 倭国領となった新羅南部へは真っ先に任那諸国の倭系の兵士や成人した子供たちが移住しました。少し遅れて辰韓地方南部の解放を知った但馬人等が、永年の辰韓諸国復興の願いが叶った、と憧れの古里へ移住してきましたが、早くも両者は統治の仕方をめぐって対立していきます。任那諸国からの移住者は、皇太后の摂政時代から約20年間続いてきた、「外敵は倭軍が守り、各国の内政は現地側に任せる」融和統治政策に代って、内政にも口を出し、現地の土地所有も進めていくという、直接支配の方向を強め、任那代表部も容認します。これに対し、但馬人は辰韓諸国の復活を旗印に、融和統治政策を主張します。

 両者の対立を横目で見ながら、現地住民の胸中は複雑でした。自分より格下だと見下していた倭国の軍隊に支配される屈辱感もあって、内政干渉を強める倭軍に反発していきます。祖国復興を掲げて乗り込んできた但馬人も同郷同胞人と見なすのではなく、余所者扱いします。新羅(しら)国が勃興して辰韓地方の近隣諸国を飲み込み始め、敗者側の王族、貴族や住民が倭国へ亡命していったのは、およそ1世紀、百年以上も前の話で、45世代を経て、すでに風化が始まっていました。 新羅に征服された後、新羅王に順化していた者も多くありました。但馬人も亡命者の雑多な寄せ集めなので、出自した正確な国名や地名などの伝承は不明瞭でしたし、一族の祖と仰ぐアメノヒホコ(天日矛)を知る者はほとんどおらず、わずかに古老がそれらしき人物をうっすらと憶えているのみでした。

 

 任那代表部の後押しを受けた覇権主義派は3935月、停戦条約を破って、海側から上陸して首都の金城を襲撃しましたが、失敗してしまいました。以後、新羅南部、旧巳柢国の統治は倭軍の武力の優越さで治安は保たれていくものの、三者三様の失望と不満が渦巻き、一触触発の状態が続いていきます。

 

 

2.倭軍が馬韓南部を占有

 

 3927月に高句麗の好太王は4万の兵を率いて百済領に入り、石硯城を含めた10城を奪取し、関彌城を陥落させ、首都を流れる漢水(漢江)以北の諸城のほとんどを奪いました。国土の半分を奪われた辰斯王に見切りをつけた百済の家臣や重鎮は39211月に辰斯王を死に追いやり、紀角(きのつの)宿禰、羽田矢代宿禰、石川宿禰、平群木莬宿禰の四武将の立会いの下に、親倭路線を貫いた近肖古王の曾孫である第17代阿花(阿莘。392405年)が即位しました。

 高句麗への報復を期した百済の阿花王は3938月、兵1万を率いて北方領土を奪還した後、高句麗内に侵入しましたが、高句麗軍に行く手を阻まれ引き上げました。高句麗は3947月に水谷城を築いて国境を固めた後、395年、礼成江まで反撃してきた百済軍を撃破して、百済との接境に7城を築いて防備をさらに強化して同年8月、兵7千人で百済とばい水で戦い、勝利をおさめました。 

 上げ潮に乗った高句麗は、翌396年、虚を突いて海路から漢江に入り、百済の首都、漢山城をついた後、 百済の58700村を陥落させました。親征した好太王は治世最大の戦果をあげ、百済王に多数の生口や織物を献上させ、長く隷属することを誓わせ、王弟や重臣を高句麗に連行しました。四年間に渡った百済と高句麗の戦いは高句麗の圧勝で幕を閉じました。

 

 百済の大敗北を受けた翌年3973月、百済人一行が来朝してきました。全羅南道と北道に属する諸国の代表者たちでした。一行は高句麗との戦争の間、阿花王が軍事費の捻出で全羅南道と北道の諸国へ圧政、搾取を行い、農民の徴兵も過剰となって田畑は荒廃してしまったことを嘆きました。「いっそのこと、任那諸国同様に倭軍に守って欲しい」と直訴しました。

 応対した武内宿禰はホムタ王には詳細を報告しないまま、任那代表部に駐在する羽田矢代宿禰、石川宿禰と平群木莬に阿花王への詰問を命じました。20歳を越えた平群木莬も羽田矢代宿禰、石川宿禰と共に勇んで百済に出向きました。

 三武将に詰め寄られた阿花王は大敗北で弱気になっていたことから、要求されるままに倭軍が峴南、支侵(支侵国。忠清南道洪城付近)、谷那(全羅南道谷城、東韓(甘羅城、高難城、爾林城)と枕弥多礼(済州島)を支配することを認めました。369年に荒田別・木羅斤資が率いる連合軍は制覇した全羅南道と枕弥多礼(済州島)を近肖古王に譲りましたが、今回は全羅南道・北道から忠清南道の南部まで達する広範囲な地域となりました。百済は北部を高句麗、南部は倭軍に占領され、領地はわずかに京畿道南部、忠清南道北部、忠清北道に縮小してしまいました。

 百済国の独立は最低限、維持することはできましたが、倭軍がさらに北上して百済国が消滅してしまうことを恐れた阿花王は、王子の直支(とき。腆支)を人質として倭軍に差し出しました。

 

 

3.武内宿禰の弟の密告

 

 南方を倭軍に譲って南方の安全を固めた翌年398年、高句麗が軍隊を遣わして東の粛慎(しゅくしん。靺かつと同族)族を討った間隙をついて、百済の阿花王は高句麗征伐を試みましたが、果すことはできませんでした。

 3984月、三韓直接支配の好機到来と判断した武内宿禰は、陣頭指揮を半島に近い筑紫から下そうと筑紫に向かいました。

 武内が側近を引き連れて難波から船出したことを確認した武内の異腹の弟、甘美内宿禰は都に戻って王宮に駆け込み、ホムタ王(誉田、品陀和気。応神天皇)に武内の野望を訴えました。

「兄はかってから、虎視眈々と天下取りを狙っております。筑紫へ下って行きましたが、筑紫を拠点にして三韓を支配した後、三韓に駐留する兵士を束ねて筑紫から都に上り、天下を取る算段です。自ら育てた子飼いの武将たちを半島に送り込んでいるのもその理由からです」。

 

 甘美内宿禰は近江朝の崩壊後、腹違いの兄をずっと恨んでいました。ワカタラシヒコ(稚足彦。成務天皇)の学友としてオシロワケ王(大帯日子淤剘呂和氣。景行天皇)から厚遇され、近江朝では若くして筆頭大臣に抜擢された武内のお蔭で甘美内宿禰も近江朝廷でそれなりの好位置を獲得していました。甘美内宿禰の母は尾張連の祖である意富那毘(おほなび)の妹、葛城の高千那毘賣で、大和尾張氏の出自でしたから、自然と近江側に忠実でしたし、いずれ自分も大臣に昇格するものと待望していました。しかし兄は近江朝を見限って刷新派に寝返り、第二王朝成立の原動力となってしまったことから、近江朝が崩壊した後は自らの前途は閉ざされてしまいました。近江朝を裏切り、自分の出世の道を狂わせた裏切り者の兄をいつかは報復してやろうと、好機到来を狙っていました。

 

 ホムタ王は何かにつけ、父親ぶる武内を幼い頃から嫌っていましたから、武内をかばう気持ちはありません。早速、武内の周辺を内偵させると、倭国に非礼を重ねた阿花王に罰を課した、との報告を武内からは受けていたものの、 百済の南半分を奪い取るまでに到る過程をはしょるなど、王への報告をおろそかにしていたことが明白となりました。さらに任那代表部の軍部は葛城地方で養成した子飼いの武将たちが牛耳りだしていることも分かりました。やはり甘美内宿禰の直訴は間違いなかった、との確信に至りました。激高したホムタ王は使を遣わして武内宿禰の殺戮を命じました。

 

 

4. 武内宿禰の身代わり

 

 王宮に紛れ込ませている内通者から急使を受けた武内は、すんでのところで筑紫の半島代表部の屋敷から抜け出して、壱岐島へ逃亡しました。

「弟の野郎。三韓を植民地化する意図は確かだが、それもあくまで自分の子同然のホムタ王を思いやってのこと、第二王朝をさらに発展させたいがための足固めのためだ。勿論、自分の身内や子飼いの武将の利益や出世も考慮に入れてはいるが、自分が天下を取ろうとは一度たりとも考えたことはない」と武内はあくまでホムタ王を自分の息子であると見なしての行動であることを自負していました。

 

 壱岐島には壱岐(伎)直の祖・真根子という者がおりました。「顔形が武内とそっくりで、実の弟のようだ」と周りから言われていたこともあり、「筑紫と半島を行き交う兵士や交易者の増大がもたらした壱岐国の活況は武内さまのお蔭だ」と常日頃、武内宿禰を畏敬していました。

「武内さまは無実の罪をきせられた。死なすわけには到底いけない」と思い詰めた真根子は「今こそ、大臣に忠義を尽くす時だ。すでに武内さまに黒心が無いことは天下共に知れわたっている。最後は死が訪れるとしても、願わくは、ひそかに島を抜け出し朝廷に参赴されて、自ら無実を実証されてから、としていただこう。私は顔形は大臣にそっくりであるから、大臣に替わって私が死に、大臣の清い心を明らかになりますように」と剣を取って自決をしてしまいました。直ちに「武内が壱岐島で自決した」との報が都に送られました。

 

 武内は真根子の忠臣ぶりに感謝の涙を落としながら、玄界灘、響灘のはるか沖合いを経由して関門海峡を抜け、瀬戸内海には入らずに土佐まで下り、南海道から自分の地元である紀伊の湊(水門)に入りました。

 紀伊で身を潜めながら、時機到来を探っていましたが、都でも「武内は自害せず、存命している」という噂が流れ出した頃を見計らって、腹心の部下を王宮に使いとして送り、弟の虚偽を証明する機会をいただきたい、と願い出ました。一時の怒りから冷めていたホムタ王は、武内が生きながらえていたことに驚きつつも、最後の機会を与えることに同意しました。

 王の面前で武内と甘美内が向かい合い激論となりますが、お互いを中傷するだけの水掛け論の繰り返しとなります。業を煮やしたホムタ王は上古からの伝習である深湯(くがたち)をして裁くことを決めました。

 

 

5.深湯(くがたち)

 

 ホムタ王の列席のもと、磯城川(大和川)の河畔で深湯が執行されました。大釜の下の薪に火が点されましたが、武内の部下は釜焚きの人夫を事前に手懐けていました。まず武内が深湯をすることになりましたが、人夫は湯の加減を覗き込みながら、武内の部下が手渡していた、沸点が低下する粉を気付かれないように釜の落とし入れました。粉は半島で入手したものでした。武内は右腕を釜の湯に差し入れましたが、手と腕に防熱剤をたっぷりと練りこんでいましたので、腕は赤みを帯びたものの、見事に深湯に成功しました。

 続いて甘美内宿禰が釜に向いましたが、人夫は湯加減を見るふりをしながら、沸点が高まる粉を落とした後、薪を新たにくべ、火が燃え盛りました。甘美内も手と腕に防熱剤をたっぷりと練りこんでいましたが、沸騰する湯に右腕を入れた後、あまりの熱さに悲鳴をあげて右腕を引き出しました。すでに赤くただれ、深い火傷をおっていました。

 

 深湯の裁きは武内の勝ちとなりました。武内は横刀を執って甘美内宿禰を撃ち倒そうとしましたが、ホムタ王が差し止め、美内宿禰を許して紀直の隷民としました。喧嘩両成敗の意味合いなのか、今後の半島政策は武内に替わって王自ら担うことを宣言しました。

 潔白だったことは証明されたものの、ホムタ王から暗に引退を迫られ、復権の道は閉ざされてしまったことを悟った武内は、すでに還暦を過ぎて60歳代半ばになっていたこともあり、身を引くことを決意して、因幡に下り隠棲生活を始めました。

 

 

その3.ホムタ(誉田、品田和気)王の戸惑い

 

〔6〕高句麗の南下 

 

1.ホムタ(誉田、品田和気)王の半島政策

 

 武内宿禰の失脚騒動の後、ホムタ王(誉田、品陀和気。応神天皇)が直々に外政と半島対策も統括するようになりました。ホムタ王 は半島の任那代表部には内密にして、交易者や旅行者に偽装させた腹心の部下たちを調査団として半島に送り、倭国が統治する任那(弁韓)諸国、辰韓(新羅)南部、馬韓南部(全羅南道)の状況を把握させました。

 

 任那諸国は防備は倭軍が、内政は現地の王族か有力豪族が担う、という40年程前の任那成立時の体制がそのまま継続されていました。倭軍の警護により百済や新羅、末かつなどの外敵が侵入してくる不安もなく、各国の産業や商業もそれなりに繁栄していることから現地側も満足していました。政情が安泰となっていることから倭国の半島統治の支柱となっていました。とりわけ新羅、百済に挟まれた内陸部の大加羅国は鉄の生産と加工業で未曾有の発展を遂げ、富が蓄積されていきます。

 辰韓南部(慶尚南道東部)は391年に倭国の統治下に入ってから8年ほどが経過していましたが、任那諸国の倭系兵士と一族の移住、祖国復活を夢見て里帰りしてきた但馬系の移住者、現地側の三者の思惑と目指す方向が異なることから、三者が入り乱れる不安定な様相を呈していました。

 倭国の統治下に入って間もない馬韓南部(全羅南道、全羅北道、忠清南道南部)には任那諸国の倭系兵士と一族が移住し、少し遅れて筑紫地方などから商人や食い詰め者等が新天地を求めて移住し始めていました。倭系兵士とその一族は各国の内政にも口を出していきますが、南部諸国は自分たちから防衛を倭軍に託した事情もあるため、ある程度は倭系の兵士や移住者の土地所有や内政への干渉を容認せざるをえません。筑紫など本土からの移住者も倭系兵士に一目を置かざるをえませんから、辰韓南部とは違って、三者の間の反目は薄く、融合化と混血化が進んでいきます。

 

 調査団からの報告で、三地域の状況を把握したホムタ王は最終的には三韓の全地域を倭国の勢力内に収めていくものの、辰韓(新羅)、弁韓(任那)、馬韓の三韓のそれぞれの状況に合わせて、統治していく方針を決めました。要約すると内政不干渉を貫いた母、皇太后オキナガタラシヒメ(息長帯日賣。神功皇后)と三韓の植民地化を目指した武内宿禰の折衷型と言えます。

 

 とりあえずは最も不安定な辰韓地方対策が急務と判断しました。子供の頃から半島政策に対する母と武内宿禰のやり取りを傍らで聞いて育ったホムタ王は、亡き母の志を実現させることが最大の親孝行となる、という気持が強かったこともあり、一挙に新羅全域を支配して、母の皇太后が望んでいた辰韓12か国の復活を実現させ、任那(弁韓)諸国と同様に防衛は倭軍、内政は現地側に任せる方向を選びました。

 ホムタ王は但馬に蟄居していた葛城襲津彦を都に呼び出し、新羅制圧の元帥を命じました。幼い頃から兄弟のように育ってお互いを知り尽くしており、信用が置けますし、一度失態を犯したとは言え、新羅の首都に長期滞在していたことから、土地勘を持っていることを期待したからです。

 

 

2.葛城襲津彦と平群木莬(つく)宿禰兄弟の反目

 

 都に呼び戻された葛城襲津彦は名誉挽回の好機が到来したと、気持を高揚させながら都に上ってきました。ホムタ王から訓令を受けた後、磐之媛、玉田宿禰、葦田宿禰などの子供たちに再会しました。 磐之媛は祖父の武内宿禰の後押しもあって、大雀(大鷦鷯、おおさざき。仁徳天皇)王子の后となっていました。

 約五千人の兵士を連ねて筑紫から半島に向った襲津彦元帥はまず金官国の倭国代表部を訪れました。任那代表部の重鎮たちはホムタ王直々の任命であることから柔順な態度で襲津彦元帥を迎えましたが、唯一、異腹の弟である平群木莬(つく)宿禰は冷たい視線を兄に注いでいました。木莬宿禰は父・武内が異腹の弟、甘美内(うましうち)宿禰の讒言で失脚してしまったことを悔しんでいました。「口には出さなかったが、一族の繁栄を願う父は、いつかは一族が天下を取る願望があったことは間違いない」と確信していました。

 

 新羅征伐の協議を重ねていくうちに、戦略をめぐって襲津彦と木莬宿禰は事あるごとに衝突していきます。新羅の地勢に詳しいことを自負する襲津彦は正攻法で首都の金城(慶州)を落とす戦略を立てました。木莬宿禰は襲津彦より20歳ほど年下の20歳代半ばでしたが、生意気盛りの年頃でもあってか、物怖じもせずに、兄の戦略は手ぬるいと批判します。

「そんな生ぬるい戦法ではずる賢い新羅兵に作戦を見透かされてしまい、打ち破ることはできません。葛城地方での武者修行の間に、敵に勝つ極意は敵を騙すことにある、と父から学びました。もっとずる賢く奇襲攻撃や騙まし討ちを多用すべきです」。

 むっとした兄は「いや、俺は新羅には数年滞在していたから、内情を把握している。今の新羅は弱体化している。正攻法で勝負をかけて勝算がある」と譲りません。

 結局、襲津彦は筑紫から帯同してきた倭軍の兵士に金官国の倭系兵士を加えて本隊を作り、木莬宿禰は直属の兵士に安羅国で徴発する兵卒を加えて別働隊を組むことになりました。本隊は金官国から新羅の首都に至る主要街道を、別働隊は洛東江の中流から梁山北方の山岳地帯を抜ける裏街道を進み、お互いに連絡を取り合いながら、首都の手前で合流することになりました。

 

 襲津彦は本土から遠征してきた兵士5000人と金官国で集めた兵士5000人、総勢兵卒一万人、騎馬兵も一千騎の大部隊を率いて金官国から洛東江を渡り、意気揚々と金城に向けて進軍していきました。

 襲津彦軍にとって好都合なことに、新羅の王宮は倭国が新羅攻撃に向けて大部隊を本国から送り込んだこと気付いておらず、「倭軍は海から攻撃して来る」と専ら海からの攻撃を想定した兵士の配置をしていたことです。本隊は抵抗が少ないまま、ほぼ無傷で金城に接近しました。

 意表をつかれた奈勿王(尼師今)と家臣たちは襲津彦軍の群雄を見て、「真正面から立ち向かったら敗北は必至だ」と悟って倭軍と持久戦に持ち込む作戦をたて、奈勿王と王族は奥地に避難しました。同時に高句麗の好太王に救援を要請する急使を送り、海側に散らばせた兵士を都に呼び寄せる指示を出しました。

 

 

3.高句麗の新羅救援

 

 高句麗の好太王は百済の壊滅を謀って、五万の大軍を率いて第二の首都、平壌まで駒を進めていました。大軍の襲来を嗅ぎつけた百済の住民が新羅へ逃亡する者も多くありました。新羅の奈勿王は百済の避難民を丁重に扱い、百済を援けるべく同盟を結ぶことも検討していました。ところが襲津彦軍が首都に迫ってきたことから、窮地に追い込まれた奈勿王は百済の宿敵である高句麗に援けを求めざるをえない羽目になりました。

 救援の急報を受けた好太王は新羅と百済の同盟化の糸を断ち切るだけでなく、弁韓(任那)に加えて馬韓(百済)と辰韓(新羅)に勢力を伸ばす倭軍を叩く機会が到来した、百済攻撃より先に、新羅に侵入した倭軍を叩きのめすことを優先しようと判断し、作戦を練っていきました。

 

 襲津彦軍は山岳地帯を進む別働隊の到着を待たずに、金城に攻め込んでみたところ、いともたやすく首都を制圧できてしまいました。約束したように別働隊へ連絡を送ることを忘れてしまうほどのあっけなさでした。市街に入ると、住民の大半がすでに避難したのか、人影はまばらで、静まり返っていました。城内に入ってももぬけの殻で、奈勿王は見当たりません。

「そら見たことか。私の戦法は誤りでなかった、弟の奴を見返してやった。このままなら、北進して新羅全土を制圧するのもたやすい、時間の問題だ」と得意満面の襲津彦は兵士たちに暫しの休息を与えました。

「敵は我らに恐れをなして逃げ出してしまった」と喚声をあげる兵士たちは、空になった商屋や家々から酒甕を見つけ出し、酒宴を繰り広げます。

 しかし金城でのどんちゃん騒ぎは長くは続きませんでした。前線を見張っている斥候から、高句麗の大軍が金城に迫っている、という急報が届きました。

「そんな馬鹿な」と襲津彦は耳を疑いましたが、高句麗の軍勢は襲津彦軍の五倍の歩騎5万人と知って愕然としました。

 対抗策を立てる間もなく、高句麗の大軍が金城を襲ってきました。数の多さと騎馬の機動力に圧倒された襲津彦軍はひとたまりもなく、首都を追われてしまいました。高句麗軍は容赦なく倭軍を追っていきます。遂には洛東江を越え、左岸の金官国にまで追い詰められました。このままでは高句麗軍は任那諸国を蹂躙してしまう勢いでした。

 

 

4.平群木莬・安羅軍の金城陥落

 

 高句麗軍が倭軍を追いやってくれたお蔭で奈勿王たちは王宮に戻ることができました。海側に散らばせていた兵士が都に戻って王宮を警護を始め、住民も帰還してきました。

 しかし、ほっとしたのも束の間でした。遅れて金城に到着した木莬宿禰が率いる別働隊の安羅軍が夜襲をかけ、あっという間に城内は占拠され、奈勿王は王宮に監禁となってしまいました。すぐに木莬宿禰は、高句麗軍の大軍が襲津彦軍を金城から追い出し、襲津彦軍を追って金官国まで迫っていることを知りました。高句麗とまともに戦うことは不可能で、首都を守り抜くことも無理なことを悟りました。そこで監禁した奈勿王を高句麗軍との駆け引きに利用することを思いつきました。

 

 木莬宿禰と奈勿王と好太王の三者間の話し合いが始まります。高句麗軍は任那諸国への深追いを断念して、引き返して金城に近づいてきました。好太王の懸念は、奈勿王を無視して新羅全域を支配することは可能なものの、そうなると新羅での駐在が長くなり、そこをついて高句麗北部や首都の集安に東の末かつ、北の扶余や契丹が侵入してくる恐れがあることでした。好太王は人質となっている奈勿王の甥、實聖を奈勿王の監視役として新羅に戻すことを決めました。實聖は人質に差し出されたことで奈勿王を恨んでおり、高句麗に滞在する間に好太王に心酔し、忠実な部下になることを誓っていました。

 奈勿王は好太王の申し入れを受諾しましたが、今度は木莬宿禰が奈勿王の首をはねる、と脅しつつ、金城から退去するものの、これまで通り、新羅南部は倭軍の占有地とすることを主張しました。三者間の交渉は長引きましたが、奈勿王を軟禁している倭軍が有利となっていきます。4017月、好太王は實聖を金城に戻した後、新羅から引き上げていきました。結果的に辰韓の地は倭軍が首都征服を実行した以前と同様に、首都から南部は倭軍が支配する状態に戻りました。

 

 襲津彦は本国に引き上げましたが、ホムタ王は叱責も懲罰もしませんでした。しかし世間は二度目の失敗をした襲津彦を「無能元帥」と嘲笑するようになりました。倭軍の窮地を救った木莬宿禰は任那代表部に戻りましたが、代表部の軍部は武内宿禰が葛城地方で育成した武将たちが主導権を握っていきました。

 倭軍が高句麗に敗北した知らせを隠棲地の因幡で聞いた武内宿禰は「わしが元帥であったなら、高句麗なんぞに負けはしなかった。襲津彦のどじが」と嘆きつつ、「自分の意思は木莬宿禰や自分が育てた子飼いが果たしてくれるだろう」と任那駐在の武将たちに夢を託すようになりました。

 

 

5.日向の髪長媛と大雀王子

 

 半島での新羅をめぐる高句麗との戦いは、国内には影響を与えず平穏でした。高句麗軍の強さ、ことに騎馬兵の強さを知ったホムタ王は、国内でも騎馬戦用の馬の飼育を奨励していきます。併せて都に剣池、軽池、鹿垣池、厩坂池の4池を造営し、全国に貯水池の築造を奨励していきます。

 

 妻子を日向に置いたまま、永らく王宮に仕えていた諸縣(もろがた)君の牛諸井は老いが近づいたことから、故郷に身をひくことにしました。代って自慢の娘の髪長媛をホムタ王に差し出すことにしました。それを聞いたホムタ王は日向に詳しい配下に尋ねると、確かに絶世の美女ということで心が動き、4023月、日向から都に呼び寄せることにしました。9月に入り、髪長媛を乗せた船が難波の湊に近付いた、との知らせを受けて、出迎えに大雀王子を遣りました。

 難波の湊で出迎えた大雀王子は船から下りてきた髪長媛を一目見て、その顔容の麗美さに魅了され、胸のときめきを感じました。そんなときめきは人生で初の経験でした。

 そわそわしながら、住吉の桑津邑の山荘に髪長媛を送り届けました。それからというもの、大雀王子はしばしば桑津邑に通いました。父の側室となる女性に手をつけるのはご法度であることを承知しながら、何とかして髪長媛を我が物にして抱きしめたい、と思い詰めめながら、山荘の周りを行き来しました。

 

 大雀にはすでに葛城襲津彦の娘、磐之姫を后としており、長男の大兄去来穂別(おほえいざほわけ。大江の伊邪本和氣。履中天皇)が誕生し、磐之姫は住吉仲(すみのえのなかつ)を宿していました。とは言うものの大雀と磐之姫の仲は夫唱婦随とはほど遠い状態でした。磐之姫は気が強く、口やかましく、早くも大雀を尻の下に敷いていました。お付きや家来たちは「磐之姫は人は良いが優柔不断な父親ではなく、隔世遺伝でずる賢い祖父の武内宿禰から気性を受け継いだ」と陰で笑いながら、「父に似たら良かったのか、祖父に似たら良かったのか」が夜の当直時の雑談の種となっていました。

 ある日、「近頃、大雀は悩み事があるのか、病にかかったのか分からないが、随分と痩せたようだ」とホムタ王は大雀の近習を呼んで問いますと、「難波へ行って以来、どうも恋という病にかかったようでございます」と苦笑いをしながら返答しました。「難波?」と聞いて、ホムタ王ははたと気付きました。「そうか、大雀は髪長媛に惚れてしまったのだ」。

 

 ホムタ王にも身の覚えがありました。自分も自分の意思とは関係なく、政略結婚で尾張氏の三姉妹を后にしたが、惚れてはいなかった。和邇氏の宮主矢河枝(みやぬしやかはえ)比売と出会って初めて恋とはどういうものかを知った。「大雀も自分と同じ思いなのだろう。憎めない奴だ」と、大雀に同情して髪長媛を大雀に譲ることを決めました。

 ホムタ王は髪長媛を桑津邑から王宮に呼び出し、その夜、宴を催して大雀王子も宴席に招きました。王子は「宴の後、父王は髪長媛と同じ床に寝るのだろう」と父王も髪長媛を正視することができず、耐え難さにすぐにでも席を立ち去りたいほどでした。

 するとホムタ王は髪長媛に大雀王子にお酌をすることを命じ、それに合わせて歌いました。

さてさて 私の王子よ 一緒に野の蒜摘みに行こうではないか

蒜摘みに向う道中に よい香を放つ花橘が咲いている

下枝に咲いた花は 人が皆取り千切ってしまった 上枝は鳥が来て散らしてしまった

でも 中の枝には これから開く 美しい赤みを含んだ蕾(つぼみ)が残っている

その蕾は美しい乙女のようだ 蕾を摘んで花を咲かせてごらん

 

 その歌を聞いて、大鷦鷯王子は父王が髪長媛を賜われることを悟り、飛び上がりたい悦びにひたりながら、返歌をしました。

依網(よさみ)池で 堰の杭を打つ人が すでに杭を打っていたことに 気付かず

水草のジュンサイ(蒪菜)を採る人が 手を差し伸べてくれていたことに 気付かなかったとは

私は何と愚か者だったことよ 今頃気付くとは悔しいことだ

 

 その晩、大鷦鷯は髪長媛と床を同じにして、思いを遂げることができました。

遠い国の古波陀(こはだ)に住む 絶世の美女と天下に響き渡っている乙女が 

今は 私と枕をかわす仲になった

古波陀の乙女が さからいもせずに 一緒に寝てくれたことを素晴らしいと思う

 独り言のようでもあり、髪長媛に聞かせるようでもありましたが、王と王子が交わした歌謡も含めて、知らぬ間に美談となって、全国に広がっていきました。大雀が髪長媛を手中にしたことを知った磐之姫は癇癪を起こしましたが、ホムタ王が直々に息子に譲ったことですから、表立っては文句を言えません。この一件に恩を感じた大雀は、常に父王に忠誠を続けることを誓いました。

 

 初恋の思い出深い地となった難波は恐妻の磐之姫の眼が届きにくい地でもありますので、磐之姫を難波に住まわせ、足繁く通うようになりました。二人の間には、大草香(おおくさか。波多毘能大郎子はたびのいらつこ)と幡梭姫(はたびひめ。波多毘能若郎女)の一男一女が誕生します。

 

 

〔7〕亡命者の受け入れ

  

1.新羅の高句麗傀儡王誕生

 

 402年、新羅の奈勿王が薨りました。西暦356年から46年間に及ぶ長い治世でした。辰韓地方を初めて統一させたものの、王朝は次第に膠着化、家臣間の勢力争いや賄賂などで疲弊化していき、南部は倭軍に奪われて高句麗に援けを乞わざるをえなくなるほど、寂しい晩年となってしまいました。三男の美海は391年に人質として倭国に渡っていましたが、長男の訥祇(とつぎ)と次男の宝海は健在でした。本来ならすでに成人していた訥祇が王位を継ぐのが自然な流れでしたが、高句麗の好太王の意向を受けて、前年に高句麗での人質生活から母国に帰還した訥祇兄弟の叔父、實聖が第18代王(麻立干。 治世402417年 )に立ちました。実質的に高句麗の傀儡政権の誕生で、訥祇と宝海は窓際に追いやられてしまいました。

 

 半島は三韓を挟んで、北の高句麗と南の倭軍が牽制しあう構図となりましたが、新羅の親高句麗王朝の成立により、高句麗の脅威が増幅したことを恐れた百済の阿花王は倭国との関係のさらなる緊密化を進めます。4025月、対高句麗での勝利の縁かつぎの趣旨もあったのか、百済の阿花王は使者を倭国に遣り、大きな珠を求めました。翌年4032月に阿花王は縫衣工女(きぬぬひをみな)の真毛津(まけつ)を進上しました。真毛津は来目衣縫(くめのきぬぬひ)の始祖となりました。

 かねてから自国の工芸技術、産業技術を発展させていくことに意欲的になっているホムタ王(誉田、品陀和気。応神天皇)が真毛津の来朝に大満足したことを伝え聞いた阿花王は、続いて手人韓鍛(てひとからかぬち。鍛冶師)の卓素(たくそ)と呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上して、鍛冶と機織り技術の発達のきっかけとなりました。

 

 さらに酒の醸造に秀でた仁番(別名は須須許理)を献じました。須須許理は秦造の祖となります。ホムタ王は須須許理が醸造して献じた大御酒を飲み干して、歌いました。

須須許理が醸造した酒で 吾は酔いしれた 

災いをはらう酒 楽しく笑いたくなる酒に 吾は酔いしれた

 こう歌いながら王宮を出て、大坂の道中に居座る大石を杖で叩くと、大石は走り去ってしまいました。そこで時の人は「堅い石すら、酔人を嫌って逃げていってしまう」と頷き合いました。

 

 

2.辰国の弓月君

 

 時期を同じくして、弓月君の代表者と名乗る人物が403年に百済から訪れて来ました。

「弓月君は今は百済国の一員となっておりますが、かって半島南部の三韓の盟主の座にいた辰国の技能集団で、秦の始皇帝で名高い秦帝国の末裔でございます」。

 辰国の支配層は、実際には秦末期から前漢成立の混乱時に中国東北部から流れてきた雑多な人々の集団でしたが、自分たちは中国を初めて統一した秦帝国の末裔であると自称し誇りとしていました。弓月氏は前漢以来の伝統技術を継承しながら、大田を中心に忠清南道東南部から忠清北道西南部に在住していました。

 

 ホムタ王は半島の西に巨大な国が存在することは知っておりましたが、秦から前漢、後漢、魏、西晋、東晋に至る歴史には無知でした。しかし「辰国」の名は母が生存中にしばしば口にしていましたので聞き覚えがあり、「辰国に由来する」と名乗る弓月君に興味がひかれ、さらに巨大な国から様々な技術を受け継いできている話に着目しました。

「ご承知のように、高句麗が南下して新羅は高句麗の傀儡国となり、百済は弱体化して領土も半分となってしまいました。このままでは百済は高句麗に呑み込まれてしまう危惧があります。中国文化の半島での拠点だった楽浪郡を滅ぼしたのは高句麗です。私どもは夷狄(いてき)の高句麗や北の蛮族である満州系騎馬民族などに隷属したくはありません。百済に見切りをつけ、いっそのこと貴国に移住して、辰国伝来の文化を保り続ける決意をいたしました」。

 

「そこで己が国百二十県の人夫を領いて渡来しようと、大加羅国(高麗)に入り金官国へ南下しようとしました。しかしながら生憎なことに、高句麗の力を背景に勢いを復活させた新羅は、百済攻めに向けて卓淳国(大邱)と比自ほ国(ひしほ、非火。昌寧)の間の国境地帯を押さえた後、さらに西に進んで大加羅国と多羅国(陜川)の間の国境地帯を占拠して塞いでおりました。高句麗と新羅は、後漢以来、私どもが蓄積してきた技術や秘伝が倭国に移管することを危惧していることもあります。集団は大加羅国で足止めとなって、身動きができなくなっています。貴国のお力で何とか弓月集団の来朝を援けていただきたい」。

 

 ホムタ王は半島の先進技術を取り入れる絶好の機会であることを悟り、弓月君集団の招聘に大乗り気となりました。「この程度の任務なら、さしもの葛城襲津彦でもたやすいことだろう」と性懲りも無く襲津彦を重用して、弓月集団を召してくることを命じました。

 襲津彦は熟考もせずに安請け合いをして、わずか200人の兵卒を連れて、海を渡りました。腹違いの弟、平群木莬(つく)宿禰たちが牛耳る任那代表部には連絡もせずに、金官国を素通りして、一路、大加羅国に向いました。多羅国の陜川までは順調に進みましたが、大加羅国の国境に近付くと新羅兵に阻まれてしまい、立ち往生する羽目になってしまいました。

 

 

3.帯方郡の故地での倭軍の敗北

 

 金官国の任那代表部には百済と倭国を結ぶ仲介者として、木満到が常駐していました。30年ほど前の、369年の倭軍・百済連合の際に、百済側の将軍として活躍した木羅斤資が、 戦役中に目星をつけた新羅の女性を娶って誕生した息子でした。木満到は20歳代半ばの好青年でしたが、歳が近いこともあって、代表部の平群木莬宿禰と親しい友人となりました。

 木満到の野心は、母は新羅人であるものの、功を立てて百済王朝で立身出世を遂げることでした。百済国を存続させるために、少なくとも高句麗の南下を防ぐために倭軍に高句麗勢力を叩いてもらうことを画策しました。昵懇の仲となった木莬宿禰に高句麗征伐をけしかけていきます。木莬はどじな兄、襲津彦よりも有能な武将と自負していました。失脚した父の野望を実現させることが目標でした。高句麗を叩けば三韓は倭国のものとなり、父の宿願を成就できる、そのためにはどうすれば良いかを常日頃、考えていました。木満到のおだてに悪い気もしませんので、高句麗討伐の企てに乗り気になっていきました。

 

 木莬宿禰と木満到は高句麗討ちの戦略を練っていきます。「高句麗は騎馬を駆使した陸上戦は強いが、水軍は手薄だ。海から攻めたらどうだろう」との木満到の提案に従って、ホムタ王には詳細を報告せずに、全羅南道と任那南部の海人を徴用して、海から高句麗を急襲する作戦を準備していきました。

 二人の誤算は、高句麗は水軍にも長けていたことでした。396年に高句麗は虚を突いて海路から漢江に入り、百済の首都、漢山城をついた後、 百済の58700村を陥落させた実績もありました。倭軍の船団は404年、高句麗の領海に入り、 帯方郡の故地で高句麗の水軍と激突しましたが、地勢を熟知する高句麗の水軍に大敗を屈してしまいました。

 

 任那代表部で敗戦の報を受けた木莬宿禰は、敗戦の責任を取るためと、ホムタ王への言い訳をするため、と称して本国に戻りました。

 

 

4.阿直伎(あちき)と王仁(わに)の来朝

 

 百済の阿花王は、あわよくば倭軍が高句麗を打ち砕いてくれたら、とほのかな期待を寄せていましたが、高句麗と海戦での倭軍の敗退を受けて、高句麗の恐さを再確認しました。倭国との関係をより緊密させることを意図して、40486日、阿直伎(あちき)を遣わして良馬二匹を貢りました。阿直伎は立派な横刀と大鏡も合わせて携えてきました。

 ホムタ王は軽の坂上に厩を建て、阿直伎の指導で二匹の馬を飼育しました。そこで軽の坂は「厩坂」と呼ばれるようになりました。阿直伎は学芸にも造詣が深く、儒教などの経典を能く読むことができることを知って、愛息の宇道稚郎子王子の教育係としました。宇道稚郎子は愛后、矢河枝比売との間に誕生して、8歳を越えていましたが、ますます利発さを発揮するようになり、性格も温厚なことから、ホムタ王はゆくゆくは後継王にしてみたいと願っていました。阿直伎は阿直岐史(あちきのふびと)の始祖となります。

 

 ホムタ王は阿直伎に「宇道稚郎子に本格的な王道学を学ばせたい。貴国に汝に勝る博士がいないものか」と尋ねました。「王仁(和邇吉師)という者が適任者でございましょう。栄山江の下流、全羅南道霊山郡に住んでおります」と阿直伎が提言しました。

 そこでホムタ王は身勝手な行動を犯した任那代表部を避け、369年の倭軍・百済連合の戦役で活躍した東国の上毛野君の荒田別と巫別(かむなきわけ)を全羅南道に遣わして、王仁を招聘することにしました。荒田別は還暦に近い年齢になっていましたが、任那諸国と全羅南道は青春時代の思い出深い場所でした。半島から東国に持ち帰った馬の放牧と飼育に成功して、上毛野国繁栄の源泉に繋がりました。「また良馬を持ち帰ってこよう」と喜々として全羅南道に向いました。

 

 4052月に王仁が「論語」など数々の典籍を携えて、都に到着しました。王仁の先祖は代々、楽浪郡の官僚の家柄で、313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼした際に百済南部に逃れてきた一族に属していました。宇道稚郎子王子と学友の少年たちは漢文や論語など諸の典籍を王仁に習ひ始めました。倭国の王族や貴族の子弟が文字と漢文化を学ぶことは初めての出来事でした。王仁は書首(ふみのおびと)等の祖となります。

 

 

5.人質の百済の直支王子の帰国

 

 405年、百済の阿花が薨りました。 家臣たちは397年から人質になっている直支(とき)王子の帰還を倭国に求めました。ホムタ王は兵士100人をつけて帰国させましたが、帰国にあたって忠清南道南部の東韓の地を直支に賜いました。直支の帰りを待つ間、阿花王の次弟の訓解が摂政を務めましたが、末弟の碟禮が訓解を暗殺して王位を収奪してしまう波乱が起りました。しかし国人が碟禮を殺したことから、帰還した直支は第18代百済王(治世 405420年)となりました。

 

 その間も倭軍と新羅、百済と高句麗の抗争は続きます。高句麗撃ちに失敗した任那代表部は新羅の首都奪還をみ、4054月、倭兵が侵入して新羅の明活城を攻めましたが、新羅の騎兵が獨山の南で倭兵を撃破しました。

 高句麗は400年以降、西北の後燕と攻防を繰り返していましたが、404年に海から攻めてきた倭軍を一蹴した後、407年に後燕に侵攻して6城を討ち、鎧一万領を得ました。

 

 

6.弓月君集団の来朝 

 

 襲津彦は多羅国の陜川で、大加羅国で足止めをくっている弓月君集団を引き連れようと 新羅兵の隙を窺っていましたが、中々新羅軍の壁を打ち破ることができません。新羅側も弓月君集団を新羅に招き入れようと粘り強く交渉をしています。任那代表部に援軍の派遣を要請する手段もありましたが、代表部に頭を下げてまで援軍を願い出ることは襲津彦の自尊心が許しません。そうこうしているうちに、いつしか3年の歳月が過ぎていました。

 いつまで待っても帰還しない襲津彦に、ホムタ王もさすがに痺れを切らしてしまいました。4058月、「襲津彦はいつまでたっても戻ってこない。例のごとく、新羅の色仕掛けに篭絡されているかも知れない。お前たちが新羅を撃って、弓月君集団を引き連れてきなさい」と平群木莵宿禰と襲津彦の息子である的戸田(いくはのとだ)宿禰を遣りました。

 任那代表部に戻った木莵宿禰はすぐに兵士3000人を掻き集め、大加羅国に進軍しました。国境を塞ぐ新羅の警備兵たちは大軍の襲来に愕ぢて道を開けましたので、木莵宿禰な難なく弓月君集団を引き取ることができました。

 

 来朝した弓月君は120県からの2000人を越える大集団で、機織りに長けた女性も含まれていました。一緒に戻った襲津彦は自らの不祥事を恥じて公職を息子の葦田と玉田に譲り、本宅がある南葛城地方に引っ込んでしまいました。

 弓月君集団はホムタ王の期待をはるかに越えた、優秀な技能集団で、外部には漏らさない数々の秘伝の技法を携えていました。高句麗と新羅が倭国への移住を阻止しようとしたのも「なる程」と頷けるほどでした。宗像海人による沖ノ島ルートが本格化して、半島と倭国を行き交う輸送能力が増したことから、任那(加羅)南部諸国の工人の移住も盛んとなり、倭国は一挙に技術革新の時代に入り、食住生活だけでなく、農業も産業も大変貌を遂げていきます。

 

 窯業では陶質土器と軟質土器の二種類の韓式土器と性能が高いロクロが伝わりました。陶質土器はロクロを使って薄く成形した後、穴窯を使って高温の還元炎で焼成するもので、薄いが硬質な陶器で「須恵器」と呼ばれるようになりました。軟質土器は焼成は土師器と類似しており、赤みを帯びていましたが、それまでにはない器形や器種で人気を集めました。住居では中央にしつらえて煮炊きをする炉に代って、壁面に設置する竈(かまど)が紹介され、鍋や甑(こしき)を使った調理法が一般化していきます。

 先進の鍛冶技術により、鍬(くわ)、鋤(すき)、稲刈りガマなどで新型の鉄製農機具が普及していき、農作業の効率化が進みます。土木・灌漑技術も飛躍的に発展し、大規模な堰や河川の護岸施設が築造されていき、耕作不能であった土地も開拓されていきます。耳飾りや帯金具などの金属製品に金メッキを施す金工技術が紹介され、薄い鉄板をつなぎ、鋲(びょう)留めをする甲冑(かっちゅう)や、射る時間が短く連射ができる満州系騎馬民族の短弓も製造されていきます。さらに弓月君は砂鉄から鉄を生産する秘法も持っていました。

 

 ホムタ王は都がある大和盆地に加えて、新移住者を河内湾周辺に定住させ、低湿地帯の大規模な開拓を命じました。各国の国造や豪族は弓月集団と加羅地方南部からの渡来者の引き取りを熱心に要望しますが、とりわけホムタ王の后、兄媛(えひめ)の実兄で吉備下道(しもつみち)国の国造を務める御友別(みともわけ)は、ウラ(温羅)集団の後押しもあって、熱心に勧誘しました。ウラ集団は邪馬台国時代に帯方郡や加羅地方から渡って来た移住者の子孫でしたが、備中の高梁川右岸地域や鬼城山の山麓周辺にウラ信仰を守りながら根を張っていました。木莵宿禰の船団が難波に向う途中で、酒津や原津の湊に寄港した際に、乗船者は辰国の伝統を引き継ぐ弓月君集団であることに気付き、同胞でもある弓月集団を吉備に招き入れるように、御友別を口説きました。

 

 

7.阿知使主(あちのおみ)一族の来朝

 

 倭軍は新羅制圧を諦めず、4073月に新羅の東辺に侵入し、6月には南辺を侵略して百人を掠奪したものの、宿願の首都制覇には至りません。4082月、倭軍が対馬に軍営を設置し、新羅襲撃を企てている、との報を受けた實聖王は高句麗との関係をより緊密にしました。

 

 407年に百済の直支王は高句麗に挑みましたが、高句麗の防御は揺るぎません。好太王は410年に東扶余に親征して北方領土を拡大し、高句麗は全盛時代を迎えていきます。

 409倭国が百済に遣使して夜明珠を贈り、402年に大きな珠を倭国に求めた直支王の父、阿花王の願いを遅ればせながら叶えました。

 4099月、百済の阿知使主(あちのおみ)が、まだ少年だった息子の都加使主(掬、つかのおみ)と 己が党類(ともがら)17300人ほどを率いて来帰してきました。 阿知使主一族は帯方郡の官僚たちの生き残りで、百済王朝では主に文書行政役を務めていました。4048月の阿直伎、4052月の王仁、406年の弓月君の来朝を倭国王が快く迎え入れ、相応の待遇を受けた来朝者も満足していることを噂に聞きつけて、百済の行く末に見切りをつけたからです。弓月君集団が秦王国の末裔を自称しているのに対し、前漢から後漢に到る漢王室の末裔と称する者もおりました。都に落ち着いた阿知使主一族は倭漢直(やまとあやのあたい)の祖となります。倭漢直は、阿直伎と王仁を祖とする西文(かふちのふみ)に対して東文(やまとのふみ)と呼ばれてライバル関係となります。

 結果として、弓月君を通じて辰国、 王仁 を通じて楽浪郡、 阿知使主親子を通じて帯方郡にそれぞれ伝わってきた後漢、魏、西晋の中国文化が倭国に移植され、倭国で命脈を保っていくことになりました。

 

 

 

〔8〕ホムタ王(応神天皇)の晩年  

 

1.兄媛の吉備帰郷

 

 41035日、ホムタ王(誉田、品陀和気。応神天皇)は后の兄媛(えひめ)を伴って難波に行幸して、大隅宮に滞在しました。10日ほどが経ち、高台に登って二人で遠方の景色を眺望していると、兄媛が西方を見やりがら歎息をついています。吉備臣の祖、御友別(みともわけ)の妹である兄媛はホムタ王より10歳ほど年上でしたが、幼い頃から侍女として姉役を務めていたことから、お互いを知り尽くしている間柄でした。ホムタ王はすぐに兄媛の様子に気付きました。

「何で歎いているのか。どこか加減が悪いのか」と問いますと、「最近、亡き父母への思慕が募っております。西方を見ると、溜息が出てしまうのはそのせいです。できますなら、吉備に戻って両親の墓参りをすることをお許しください」と里帰りを願い出ました。

 

 兄媛がホムタ王の世話役として都に上ってきてから、すでに40年以上が経過していました。白髪や小じわが増え、孫がいてもおかしくない年齢となっていました。里心が募ったことを理解したホムタ王は帰郷を認めました。高速船「枯野」を特別にあてがい、淡路の御原(三原郡)の海人80人を水手(かこ)として、4104月に難波の大津から吉備に戻しました。枯野船は394年に伊豆国が造船して献じた官船でした。

 枯野船が遠のいていく風景を高台からじっと見つめながら、歌を口ずさみました。

淡路島は小豆島と二つ並びとなっている 私が立ち寄りたい島々も 皆二つ並んでいる

永年、吉備の兄媛と二つ並びとなっていたのに 

私は独りにされてしまった 誰が遠くへ行き去らせてしまったのだ

 

 五か月後の41096日、ホムタ王は淡路島に狩猟に出掛けました。峻険な峯に谷川が入れ込み、芳香を放つ草木が鬱蒼と繁り、大鹿、鴨、雁の姿が多い淡路島はお好みの狩場でした。西海岸に出て小豆島を眺めていると、ふいに吉備に戻った兄媛が恋しくなりました。すぐに再会したい衝動にかられるまま、小豆島経由で吉備の穴海に向いました。

 兄媛はホムタ王の突然の来訪に驚きの声をあげましたが、そこまで王が気にかけてくれたことに感激しました。その晩、二人は睦まじい夜を過しましたが、兄媛は苦笑交じりに「枯野はもうぼろ船になって水漏れがひどく、裳が濡れて往生しました」と愚痴をこぼしました。

 

 しばらく吉備津に滞在することに決めたホムタ王は、数日後、葉田(服部郷)の葦守宮に移りました。すると兄媛の兄の御友別が参赴し、一族総出で大饗宴を催しました。

 御友別は上道(かみつみち)国を治めていた大吉備津彦系の系譜が衰微してしまったことから、備前と備中の双方を治めていましたが、還暦をとうに過ぎていたことから、隠居をする意向をホムタ王に伝えました。そこでホムタ王は川嶋県(玉島市)を御友別の長子、稲速別に封じました。稲速別は下道臣の始祖となります。上道県を中子の仲彦に封じました。仲彦は上道臣・香屋(賀夜、加邪)臣の始祖となります。三野(御野)県(岡山市西部)を三男の弟彦に封じました。弟彦は三野臣の始祖となります。波区芸(はくぎ)県を御友別の弟、鴨別に封じました。鴨別は笠臣の始祖となります。苑(その)県を御友別の兄、浦凝別に封じました。浦凝別は苑臣の始祖となります。兄媛は晩年は故郷で過すことを願いましたので、機織りを統轄する織部(はとりぶ)を賜いました。

 

 

2.吉備邪馬台国と帯方郡の子孫

 

  阿知使主(あちのおみ)に従って来朝した一族の中に、歴史好きの者がありました。自分の先祖が帯方郡の官僚であったことを誇りにしていました。倭国に来る前から「三国志」(297年までに成立)の「魏書」烏丸鮮卑東夷伝を写本版で読み、「倭人条」に紹介されている、魏の帯方郡と交渉があった邪馬台国に興味を抱いていました。いつか倭国へ行ってみたいと夢想していましたから、阿知使主が倭国移住を決めた後、倭国行きに真っ先に応じた者の一人となりました。

 

 三国志で紹介されている邪馬台国は当然、首都がある大和国と思い込んでいました。ところが都に入ってみると、それらしき確証が見つかりません。都の人に帯方郡、楽浪郡、魏や晋の名をあげても、「どこの国のことだろう」ときょとんとして、理解する人がいませんでした。初めの頃は倭国では別の名称で呼ばれているのだろう、と解釈していましたが、半島の北西に超大国が存在していることは何となく承知してはいても、秦、漢、魏、晋などの名前を知っている人は皆無であることに気付きました。魏の帯方郡が狗奴国との争いで邪馬台国に派遣した「張政」の名を挙げても、魏が邪馬台国に贈った「金印」の話をしても、皆、首をかしげるばかりで、ピンと来て反応を示す人もありません。1世紀半以上も前の出来事で、人物も五代から七代前となりますので、すでに忘れ去られていても不思議ではありません。それにしても何らかの言い伝えは残っているはずだが、と一年が経つうちに、どうやら大和国は帯方郡、魏や晋と直接の接触はなかったようだ、との思いを強めました。

 そのうち、吉備の賀陽(賀夜、加邪)郡という地に半島の伽邪(加羅)地方や帯方郡出身者の子孫と名乗る人たちが住んでいるらしい、という話を聞き込みました。たまたま漢字や漢籍を学びだしていた役人が吉備国に下ることになり、役人のお供として吉備に検証に行くことにしました。

 

 吉備津に入ってみると、すでに吉備の里人との同化が進んでいたものの、鬼城山の山麓地帯や高梁川右岸の地域に半島の伽邪地方や帯方郡出身の子孫を名乗る人たちが居住していました。帯方郡や周辺の地名の読み方が原音と似ており、帯方郡の末裔であることを示す証拠の品も見せました。

 ウラ(温羅)と弟のオニ(王丹)が率いる軍勢が吉備津彦兄弟と戦い、ウラ軍団を破った吉備津彦兄弟が吉備国の支配者となった伝承も聞きました。ウラは張政が邪馬台国を去るに当って、後を託した帯方郡出身の武将だった、と信じきっています。ウラの首は刎ねられた後、さらしものにされましたが、何年たっても大声を発して唸り響き続けました。そこで吉備津彦兄弟はウラ集団を弾圧せずに、融和政策に切り替えてウラ兄弟を祀ることを認めるとウラの唸り声が消えた、という伝承や、御友別が若建吉備津彦の五代目の子孫であることを知り、大和に敗れた吉備が三国志に紹介されている邪馬台国、吉備を破った大和が狗奴国だった、との確信に至りました。

 

 ウラの首塚は首部(こうべ)で祀られていましたが、足守川左岸の丘上にある鯉喰墳丘墓と楯築墳丘墓に祠を建て、大事に守っていました。鯉喰墳丘墓は「ヒメミコ(姫巫女)」の墓、楯築墳丘墓はヒメミコの先代王の墓ということです。

 「ヒメミコ」を「卑弥呼」と解釈すると、ヒミコを継いだトヨ(台与)の墳丘墓も残っているはずです。

「トヨさまは、オオビビ(大毘毘)王(開化天皇)の后、人質として大和に招かれましたが、オオビビ王が急死されて宙に浮いてしまいました。幸運にも王位を継いだミマキ(御真木入日子印恵)王(崇神天皇)の知遇を受け、厚遇を受けたようです。お墓は大和の纏向にある箸墓と聞いております」。

 

 その話は役人の上司を通してホムタ王の耳にも入りました。大和が破った吉備王国は「魏」という中国の大国と交流があったことを初めて知ったホムタ王は「宇道稚郎子(うぢのわきいらつこ)を連れて来るべきだった」と、王仁を通じて中国に関心を持ち出している王子を帯同させなかったことを悔みました。

「その邪馬台国の王宮はどこにあったのか」。

「吉備中山の中腹に見えます吉備津宮でございます。先代まで私どもが住んでおりましたが、ぼろぼろになって、とても住める状態ではなくなったため、足守の屋敷に引越して参りました」。

 ホムタ王は邪馬台国時代の王宮である吉備宮を見学しました。二つの豪壮な建物を合体させた、大和や畿内では見たことがない壮大な造りに感銘を受けたホムタ王は修復を命じました。

 

 

3.吉備の弓月君

 

 数日後、ホムタ王は高梁川左岸の正木山の右麓地域に定住した弓月君の邑を訪問してみました。吉備に落ち着いて丸4年が経ち、邑人たちは吉備は「約束された地」であった、と吉備の大地に満足していました。晴天が多い吉備は温暖で暮らしやすく、雨量は少ないものの、吉井川、旭川と高梁川の三大河川が豊富な灌漑用水を供給して、河川沿いに水田耕作が可能な地が残っていました。高原地帯は養蚕向けの桑の栽培に適していました。土器の製造に向く粘土も豊富にありますし、山中には銅が産出します。

 それに加えて、自分たちを熱心に誘致してくれた賀陽郡の人たちから、播磨西部から吉備、出雲に至る中国山地では花崗岩が風化してできた、良質の鉄分を含む砂鉄帯が存在することを聞きました。山中を案内してもらい検分したところ、蹈鞴(たたら)製法で鉄生産が可能であることを確かめました。それをホムタ王に報告したところ、「自国で鉄を産出できるとは」と大満悦でした。

「私どもは秦王朝の末裔でございます。ここを『秦』の地名とするお許しを賜れますなら」と懇願すると、機嫌がよかったホムタ王は願いを聞き入れました。

 

 弓月集団がもたらした新しい技術の導入が刺激となって、吉備は大発展時代に入りました。鉄製農機具の普及で米作・畑作の耕作地が増大します。養蚕と絹織物産業、穴窯を使った須恵器の製造も興隆していきます。さらに砂鉄から生産される鉄を使った刀剣作りも注目を集めていきます。吉備は大和盆地だけでなく、畿内全体を越える富と財力を蓄積していきます。

 高梁川から右岸に分かれる支流が足守川と合流し、足守川河口の川入へと注ぐ吉備津平野の肥沃な三日月地帯は、吉備邪馬台国の滅亡後、人口が半減していましたが、次第に往時に匹敵する人口へと増加していきました。

 

 

4.高句麗の好太王からの非礼な文(ふみ)と枯野船騒動

 

 都に戻ったホムタ王は宇道稚郎子王子と王仁を呼び、大和が征服した吉備王国は「魏」という中国の大国と交流があったことを話しました。王仁は三国志で紹介されている邪馬台国の名を周知していましたが、「邪馬台国はてっきり大和国と思い込んでおりましたが、吉備国でしたか」と驚いた様子でした。「中国の王朝に遣使を送って庇護を受けることを冊封制度と申します。百済も近肖古王以来、呉地方(華南)にある東晋に遣使を遣っております」との王仁の言葉からホムタ王は冊封制度の存在を知りました。

 4119月、高句麗の好太王が使者を遣ってきました。使者が差し出した好太王からの親書をホムタ王は漢字を読めるようになっている宇道稚郎子に渡しました。「高句麗王が倭国に教えを授けよう」という書き出しから始まる書面を読むうち、王子は怒りで震えだし、読み終えた後、使者を責め、親書を破ってしまいました。王子は激昂が覚めないまま、「東晋に遣使を遣り冊封体制に入って、高句麗に圧力をかけてみたらどうでしょうか」と提案しました。

 

 その翌年412年になって好太王が薨り、王子の長寿王(治世413491年)が新王を即位しました。新羅の實聖王は、 本来の王であるべき甥の訥祇(とつぎ)に手を出すことはさすがにはばかれましたので、高句麗の新しい王への忠誠を誓う証として訥祇の弟、宝海を人質として高句麗に差し出しました。實聖王は391年以来、倭国に人質となっている訥祇の二番目の弟、美海のことも頭に浮びました。高句麗の人質となって監禁されているうちに、高句麗に忠誠を誓うように心変わりした自身の体験を踏まえ、美海が倭国側に寝返って新羅討ちに加担したとしたら、と不安にかられました。そこで實聖王は倭国に遣る使節団に美海の暗殺を命じました。

 

 同じ4128月、ホムタ王は吉備で兄媛が老朽ぶりをこぼしていた「枯野船」の廃船が決まりました。「枯野は18年もの長い間、官船として活躍してくれた。野ざらしにして朽ちらすのでなく、その功績を後世に伝えるために、何か妙案はないだろうか」と群卿に問いました。そこで群卿は枯野を解体して薪にして、その薪で海水を焼いて五百籠もの塩を仕上げ、諸国に「王の塩」として配布しました。感激した諸国はその礼として、一籠につき一艘の割合で五百艘を貢上しました。

 献上された五百艘が集結した武庫水門には、たまたま新羅の使節団の船が停泊していました。続々と集まる船を眺めていた水兵の一人が「人質の美海を乗せた護送船が混ざっている」と言い出しました。他の者も「新羅風の衣服を着た、美海そっくりの人物を見かけた」とも告げましたので、使節団は「美海暗殺の好機到来」と色めきたちました。その夜、新羅船から放たれた火は強風にあおられて次々と献上船に燃え広がり、五百艘の大半が焼けてしまいました。五百艘の中に美海はいなかったことを知った使節団は失態に頭を抱えましたが、あくまで失火であったと言い張ります。急報を受けた實聖王は慌てました。美海暗殺の密令がばれてしまうと、倭軍が報復で新羅に攻め込んでくる恐れがあります。實聖王は失火の詫びの印しとして、直ちに木工に秀でた匠者(たくみ)集団を倭国に献じました。匠者集団は猪名部等の始祖となります。

 

 焼け残った枯野を使って琴が作られました。枯野琴は音がさわやかで、遠くまで響き渡ります。その音色に魅せられたホムタ王が歌を詠みました。

枯野を塩焼きの材として焼き 焼け残った余りで 琴を作って掻き鳴らすと

紀淡海峡の由良の瀬戸の海石に生えているナヅノキが 潮にうたれて鳴るように

大きな音で鳴ることだ」 

 

 

5.呉(華南)の東晋への遣使

 

 武庫での失火騒動が落ち着いた4132月、王仁の奏上と宇道稚郎子王子たちの進言に応じて、ホムタ王は阿知使主(あちのおみ)と都加使主(つかのおみ)親子を東晋に派遣しました。

 倭国王の使者として百済の首都、漢城に戻った親子は、直支王に面会を求め、用件を伝えましたが、直支王は百済を捨てた二人を冷たくあしらいます。直支王は即位した翌年406年に、380年の第14代近仇首王から26年ぶりに東晋に遣使をしたものの、期待したほどの成果を得られなかったことから、「東晋に朝貢したところで、何の役にも立たない」と二人を突き放してしまいました。

 途方にくれた親子は、中国に渡る船を確保しようと黄海の海岸線をさ迷ううちに、高句麗の占領地に紛れ込み、国境を警備する兵士に捕まってしまいました。二人は都に連行され、しばらく監禁されてしまいます。

 

 その頃、華北では376年に前秦が滅亡した後、西秦、後秦、後燕、北魏等が乱立し、不安定な状態が続いていました。いずれかの国が即位したばかりの長寿王に襲い掛かってくる不安がありました。「監禁している倭国の捕虜を活用して、安全策として華南の東晋に朝貢してみられたら」と家臣たちが長寿王を促しました。

 牢獄から出された阿知使主と都加使主親子は、うって変わって丁重になった扱いに戸惑いながら、高句麗王の策略には気付かず、久礼波と久礼志の二人を東晋まで導者として同伴させる、との申し渡しに疑念も抱かず、素直に喜びました。

 永らく百済と同盟していた倭国が高句麗側についたことも報告した高句麗の遣使の後、阿知使主と都加使主を謁見した東晋の安帝は、機織りの工女として兄媛と弟媛、呉織、穴織の四人を与えました。

 

 高句麗が倭国の使者を伴って東晋に朝貢したことを知った百済の直支王は動揺を隠すことができません。倭国との同盟を再確認する証しとして、4152月、婦女七人をつけて、実妹の新斉都媛を倭国に差し出し、翌年には倭国に白綿十反を献じ、東晋へも遣使を遣りました。

 ホムタ王と宇道稚郎子王子は阿知使主と都加使主親子の帰還が遅いことを心配していましたが、百済の使者から、阿知使主等が高句麗側に寝返ったことを知り、激怒しました。

 

 

6.後継者選択とホムタ王の死

 

「そろそろ、宇道稚郎子を後継王に決めたことを公けにしておかないと」と判断したホムタ王は、416年正月8日、世間が後継者の候補憶測している、高城入姫の次男、大山守(おおやまもり)と仲姫の長男、大雀(大鷦鷯、おおさざき。仁徳天皇)の二王子を召還しました。

「お前たちは年上の子と年下の子のどちらがいじらしいと思うか」と問いますと、大山守は「もちろん、年上の子です」と即答しました。その答えにホムタ王が顔を曇らせたのを見た大雀は、父王から髪長媛を譲ってもらって以来、常に父王に忠実であることを心掛けていたこともありましたので、「年上の子はすでに成人しておりますので何の懸念もありませんが、年下の子はまだ未熟ですので不憫に存じます」と答えました。

 

 我が意を得たホムタ王は「大雀は私の思いを答えてくれた」と満足げに微笑みながら、「後継王は宇道稚郎子とする。大山守は山部(林業)と海部(漁業)を統括しなさい。大雀は国事を統括して宇道稚郎子を補佐しなさい」と宣告しました。

 家臣たちは宇道稚郎子を後継者として認知しましたが、最も慌てたのは大雀の正后、磐之姫でした。

「皇后の座は私のものになるはずなのに」。

 父の葛城襲津彦は頼りにならないことを熟知している磐之姫は、すぐに兄弟の葦田宿禰と玉田宿禰に相談を持ちかけました。

 

 4172月、ホムタ王は畝傍山の麓、明宮(あきらのみや。軽島豊明宮)で崩御しました。

 

 

〔9〕ホムタ(誉田)王(応神天皇)の後継者

 

1.阿知使主の帰国

 

 華南の東晋から戻った阿知使主(あちのおみ)一行は高句麗を経由して、使命を達成した充足感で意気揚々と任那(加羅)地方に入りました。しかし一行を迎えた各国駐在の倭国の役人や軍人たちの目は冷やかでした。金官国の任那代表部に入ると、さらにいっそうの突き刺さるような視線を浴びました。

「ホムタ(誉田、品田和気)王の命令を果したのに、どうしてこんな応対を受けるのだろうか」と不審がる阿知使主親子に対して、「よりによって高句麗の手先となって東晋の安帝に挨拶したとはどういう料簡なのか。ホムタ王はひどくお怒りだ」と上役の役人がどやしつけました。

 

 高句麗の長寿王の手玉にとられてしまったことを初めて悟った阿知使主は「長寿王に利用されてしまったことは不覚の至りです。汚名を晴らすために一刻でも早く都に戻り、ホムタ王に釈明しなければ」と大慌てで筑紫行きの船を捜しました。

 しかしどの船もホムタ王の怒りを受けている厄介者の乗船を拒みました。唯一、乗船を承諾したのは宗像族の海人でした。「私どもの守護神であります胸形(宗像)三女神が機織りの工女を手許に置きたいと切に願っております。ご一行の四人の工女のうち、お一人を胸形大神に献じていただけるなら、筑紫までは申すまでもなく、摂津の湊にまでご案内いたしましょう」と申し出ました。仕方なく兄媛を献じることを約束して、一行は倭国行きの船に乗船することができました。兄媛は筑紫国に在る御使君の祖となりました。

 

「まだか、まだか」と焦る気持ちをおさえるうちに、ようやく4172月、摂津の武庫の湊に到着しました。しかし翌朝、ホムタ王崩御の急報を知り、「しまった、遅すぎた」と不運を嘆きました。

 途方にくれた阿知使主は、父王の密葬(もがり)の儀を終えて難波の高津宮に戻った大雀王子(大鷦鷯おおさざき。仁徳天皇)の許をつてを頼って訪れました。じっくりと釈明を聞いて理解を示した大雀は阿知使主と都加使主(つかのおみ)親子を咎めませんでした。命が救われた思いの二人は恩人として忠誠を誓い、連れ帰った弟媛、呉織、穴織の三人を大雀に献じました。この女人たちは、呉衣縫・蚊屋衣縫の祖となりました。

 

 

2.王位の譲り合い

 

 大雀王子が気掛かりなことは、ホムタ王の密葬が済んだ後も、父王が後継王に指名した宇道稚郎子が一向に即位の意向を示さず、即位儀式の準備も進めていないことでした。

 気になる大雀は難波から宇治の宇道稚郎子の宮に出かけてみました。大雀と宇道稚郎子は腹違いの兄弟でしたが、父王の在世中から仲がよく、信頼しあっていました。病気がちで身体が弱い弟は兄に頼り、兄は学識が高い弟から君子の道を教えてもらっていました。宇道稚郎子の実妹、八田王女が可愛く、気になっていることも、大雀がしばしば宇治を訪れる理由でしたが、時には二人を高津宮に招くこともありました。

 

 王となる弟を補佐するという、父王との約束を忠実に果そうとする大雀は「どうしてすぐに王位につこうとしないのか」と毎回、詰問しますが、宇道稚郎子は王仁から学んだ君子道を盾に、あくまで王位を兄に譲ります。

「弟の身で、まだ学識が足りない私が王位を継いで天業に登れましょうか。大王たる者は風姿がすこやかで、仁孝も遠くまで響き渡り、歳も長じていてからこそ、天下の君たる資格があります。先王が私を皇太子に任じられたのは、能力ではなく、末っ子の私を可愛がってくれたからにすぎません。宗廟・社稷に奉仕することは大事な事柄ですが、私はまだ不束者で王として不十分です。昆(兄)が上で季(弟)は下に、聖人は君となり愚人が臣下となるのは古今の常識です。疑うことはせずに、すぐに王位を継いでください。私は家臣として補佐をいたします」。

 

 大雀は「先王は『一日たりとも王位を空白にしては為らない』とおっしゃったではないか。父王は明徳な者を選んで王位継承者とされたのだ。賢いとはいえない私が、先王の遺訓を破ってまで弟の願いに従うことはできない」と答えますが、お互いを尊重しあう二人は譲り合いを続けます。

 両人とも王位への執着は希薄でした。宇道稚郎子は元々、病弱な小柄で偉丈夫ではありませんでしたし、中国の典籍を極めたいと学問の道を志向していました。一方の大雀王子も王位への野望は薄く、皇后の座をせつく正后の磐之媛や磐之媛一族から距離を置いていたい気持ちもあって、都から離れた難波でのんびりと過したい願いが勝っていました。

 

 そんな二人の背後では、王位継承をめぐって宇道稚郎子を担ぐ勢力と大雀を担ぐ勢力が睨みあっていました。宇道稚郎子を担ぐ勢力は母の宮主矢河比売が出自した和邇氏が中心でした。ホムタ王が寵愛した宮主矢河比売は他界していましたが、兄弟の口子と建津は本家の米餅搗大臣からの強い後押しを受けて、早く即位するように宇道稚郎子をしきりにつつきます。和邇氏と肩を並べる大和生粋の名家である意富(おほ)氏を筆頭に、畿内の名族や中小氏族も宇道稚郎子派でまとまりましたが、弱みは軍事力に劣っていることでした。

 大雀を推する勢力の中心は葛城襲津彦の子供たちでした。大雀の正后として皇后の座を手中にしたい磐之媛は玉田宿禰、葦田宿禰、的戸田(いくはのとだ)宿禰の三兄弟を煽ります。これに生まれた日が同じなことから、大雀に親しみを感じている平群木莬宿禰を筆頭に任那代表部の軍部の実権を握っている武内宿禰に発する新興勢力が組みしました。強みは半島での実戦でつちかった軍事力でした。

 

 尾張国造系に属す品陀真若の三姉妹がホムタ王の后となって、大雀や大山守など五王子を産んでいたことから、尾張氏も王位継承に口出しができる立場にありましたが、尾張国造系と大和尾張系との折り合いが悪いこともあって、蚊帳の外の存在となっていました。

 

 

3.人質、新羅の美海王子奪還

 

 王位の空白が続く中、新羅では王の交代劇が進行していました。本来の王であるべき甥の訥祇(とつぎ)の存在が煙たい實聖王は、ホムタ王が崩御した翌年418年、高句麗での人質時代の知人を招き、訥祇暗殺を依頼しました。知人は外出した訥祇を追って襲おうとしましたが、訥祇の容姿や気概が爽やかで優雅であり、君子の風格を備えているのを見て感心し、心変わりをしました。

「貴公の国王は私に貴公を殺させようとした。今、貴公を見るにつけ、暗殺することは忍び難い」と告げて高句麗に戻って行きました。これを聞いた訥祇は意を決して王城を攻撃し、實聖王の排斥に成功して第19代王につきました。

 

 訥祇王は即位後、直ちに宝海と美海の奪回策に取り組みました。高句麗に人質となっていた宝海は訥祇を王としての風格を認知した高句麗人を通じて、うまく釈放に成功しました。次は391年以来、倭国に人質となっている美海(微叱許智伐旱みしこちほつかん)の奪還でした。訥祇王は汙礼斯伐(うれしほつ)、毛麻利叱智(もまりしち)、富羅母智等(ほらもちら)の三人を使節として倭国に派遣しました。

 三人は応対した高官に訥祇王の伝言を伝えました。

「美海さまは人質となってからすでに27年が経過しております。兄の訥祇王は帰国させて、せめて父母の墓参りをさせたいとせつに願っております。そこで自分の王子と美海の交換を要望しております。交換は新羅南部の倭国領で行いたいという意向です」。

 

 高官から訥祇王の願いを聞いた宇道稚郎子と大雀は「君子の仁」について論議をしていたたこともあり、君子の憐憫の情にそって美海の帰国に同意しました。その付添いを葛城襲津彦の息子である的戸田宿禰に命じました。

 対馬に到着した一行は鉏海(さひのうみ)の湊に宿りました。その夜、 毛麻利叱智たちはひそかに地元の漁師を金銀で篭絡して船と水手(かこ)を手配して、美海(微叱旱岐)を新羅に逃がしました。蒭霊(くさひとかた)を造って美海の代りに床に置いた後、憔悴しきったふりをして的戸田宿禰の許に駆けこみ、「美海さまが急死されてしまいました」と涙を流しました。的戸田宿禰は念のため、部下を寝室に遣わして確認させたことから、毛麻利叱智たちの猿芝居が明らかになりました。激昂した的戸田宿禰は新羅の使者三人を捉えて檻中(うなや)に納め、火をつけて焚き殺してしまいました。

 

 慶州の王宮では27年ぶりに三兄弟が揃い、祝宴が催されましたが、臣下たちの面前で失地回復に向けて協力し合うことを誓いました。訥祇王は富国強兵策を進めながら、徐々に高句麗からの従属的体制からの脱却を謀りました。百済に接近して両国が同盟して高句麗に対抗していく姿勢を強めると同時に、倭国軍の管理下にある新羅南部の奪還に動き出しました。

 

 

4.大山守の乱

 

 宇道稚郎子と大雀による王位の譲り合いが続く中、ホムタ王の正后、高城入姫の長男である額田大中彦と次男の大山守は正后の王子で年長でもある自分たちが本来なら王位を継ぐはずであると、父王が皇太子に立てなかったことを怨んでいました。とりわけその恨みが強い大山守は「自分が天下を取ったら、屯田だけでなく、山守部の統括も任せよう」と兄に耳打ちしました。

  弟のそそのかしに乗った額田大中彦は倭国内にある屯田と屯倉(みやけ)を手中にしようと、屯田司である出雲臣の祖、淤宇(意宇。おう)宿禰を訪れました。

「山林を管轄する山守部はホムタ王の遺言により、大山守の所有物となった。倭国の屯田は元々、山守部が管轄する土地であるから、と弟は私に管轄を依頼してきた。今後は汝に代って私が司となる」と言い渡しました。

 

 不審に思った淤宇宿禰が宇道稚郎子に直訴しますと、「私ではなく、大雀に問いなさい」との返答でしたので、「私が管轄している屯田を大中彦さまが奪い取ってしまいました」と大雀に泣きつきました。そこで大雀は倭直の祖麻呂(おやまろ)に「国内の屯田は山守部が管轄することになっている、という声が上がってきたが、実際はどうなのか」と問いますと、「それは私が関知する領域ではありません。事情に通じているのは弟の吾子籠だけですが、あいにく弟は 韓国に遣されて不在でございます」との返答でした。

「それなら急いでお前が韓国に行って、吾子籠を連れ戻してきなさい」と大雀が命じました。

 

 祖麻呂は淡路島の海人80人を漕ぎ手にして、昼夜ぶっ通しで半島まで往復して吾子籠を連れ帰ってきました。

 吾子籠は大雀の面前で証言しました。「屯田制度はイクメ王(垂仁天皇)の治世下で皇太子の大足彦(景行天皇)に科して定められました。その際の勅旨では『倭国の屯田は天下を治める大王の直轄地である。大王の王子と言えども、世継ぎの太子でなければ、管轄できない』と伝えております。ですから屯倉は山守部の管轄と申すのは誤りです」と、大中彦の主張を否定しました。

 そこで大雀は吾子籠を額田大中彦王子の許に遣って、その旨を通知しました。大中彦王子は不満気ではありましたが、しつこく食い下がることもせずに引き下がりましたので、大雀と宇道稚郎子はあえて罰することはしませんでした。用心した大雀は念のため、額田大中彦と大山守の動静を監視するように命じました。

 

「こうなれば、実力を行使するしかない。皇太子を殺して、王位に登るしかない」と大山守は挙兵を決意し、ひそかに兵卒の手配を始めました。

 大山守の動向を監視していた諜報者から謀反の報告を受けた大雀はすぐに宇道稚郎子に知らせました。急報に驚いた宇道稚郎子は、宇治川を見下ろす山上に絹の幕を張り巡らして仮屋を立て、配下の舎人を影武者として呉床(あぐら)に坐らせ、家臣や下人を行き来させて、あたかも自分が陣取っているように偽装させました。その後、兵卒を率いて川辺に下り、兵卒を草むらに潜めさせました。船と梶を整え、さね葛(かづら)の根をついて作った滑(なめ)し汁を船中の簀椅(すのこ)に塗り、踏むと滑り倒れるように仕掛けました。宇道稚郎子は布の上衣と褌に着替えて賎し人の恰好となり、梶を取って船に乗り込みました。

 

 夜半に数百の兵士を率いて宇治に向った大山守は、宇治川の手前で兵士を隠し伏せた後、鎧の上に衣をまとい、偵察を兼ねて河の辺に行くと、都合がよいことに客待ちをしている船頭を見かけました。船頭が漕ぎ出すと、山上に飾り立て、人が出入りする一画が望めました。宇道稚郎子の策略には気付きません。梶を執っているのが弟自身であることも知らず、「弟はあそこにいる。攻め易そうだ」と作戦を練ります。

 大山守は船頭に「あそこの山上に大暴れをする大猪がいると聞いて、退治にやってきた」と話しかけますと、「それは無理でございましょう」と船頭が答えます。「どうしてか」と怪訝な顔で問いますと、「これまでも退治をしようとする輩が幾度もありましたが、誰も退治ができませんでした。ですから、そう申すのです」とぶっきらぼうに答えました。

 

 川中にさしかかると、船頭が突如、船を傾けました。簀椅に坐していた大山守は水中に滑り落ちてしまいました。浮び上った大山守は、水のまにまに流れ下りながら、歌を叫びました。

宇治川の渡し場にいる 棹を操るのが敏捷な人よ 私の味方に来てくれよ

 すると草むらに潜んでいた宇道稚郎子の兵士たちが、大山守に向けて無数の矢を放ち、訶和羅(河原村)の前に到って沈んでしまいました。沈んだ場所を鉤で探りますと、大山守の衣の中の甲(よろひ)に引っ掛って、「かわら」と鳴りました。そのため、その地は「訶和羅の前」と呼ばれるようになりました。

 

 川中から大山守の遺骸を掛き出して、宇道稚郎子が歌いました。

宇治川の渡り場に生い立つ 梓弓(あづさゆみ)や檀弓(まゆみ)の木よ 

その木を伐ってやろうと心では思うけれども 討ち取ってやろうと思うけれども

本辺(もとべ)を見ては 君を思い出し 末方(すえべ)を見ては 妹を思い出し

心の痛むほどに それにつけて思い出し 悲しいほどに これにつけて思い出し

だから伐り倒さないままとなった 梓弓や檀弓の木よ

 

 大山守の遺骸は、那良山に葬られました。この大山守は土形君、幣岐君、榛原君等の祖です。

 

 

5.大雀の即位

 

 宇道稚郎子と大雀の王位の譲り合いが続き、王位が空位のまま、いつしか三年目に入りました。

 

 困り果てていたのは鮮魚を王に献じる海人でした。鮮魚の苞苴(おおにえ)を莬道宮に届けますと「私は王ではない。難波の高津宮に届けなさい」とつき返します。高津宮に献じますと、大雀は「莬道に献じなさい」とにべもありません。往還する間に、苞苴の魚は腐ってしまいます。

 その繰り返しに苦しんだ海人は、泣きながら魚を捨てます。「海人が自分の持ち物で泣いてしまうとは」という諺はこれに発します。

 

 次第に宇道稚郎子は痩せ細り、衰弱していきました。元々、病弱ではありましたが、ひそかに毒をもられたせいだ、との噂も飛び交いました。

 宇道稚郎子が危篤、との急報を受けた大雀は難波から馳せて莬道宮に到着しました。太子の意識が不明になってから三日が経過していました。慟哭する大雀は髪を解いて宇道稚郎子に跨り、「我が弟、太子よ」と三度、叫んで揺り動かしますと、宇道稚郎子が目を開きました。

「別れは悲しいですが、死が迫ってきました。これも天命です。誰も止めることができません。遠路を駆けつけてくださり、感謝にたえません。あの世で父王に出会うことがあれば、兄が聖王の座を継いでくれたことを奏します。唯一、気になるのは妹、八田王女の行く末です。兄の后にと願うわけではありませんが、せめて宮女の一人として見守っていただけたら」と語りつつ、息を引き取りました。

 

 皆がむせび泣く中、宇道稚郎子は莬道の丸山に葬られました。

 

 王位を継いだ大雀は首都の大和ではなく、住み慣れた難波の高津宮に王宮を構え、周囲を驚かせました。皇后の座を射止めて得意満面の磐之媛は不平たらたらでしたが、大雀は意に介しません。都には二派の暗闘の余波が残り、その渦中に巻き込まれたくなかったことも理由の一つでしたが、最愛の日向髪長媛が近くに住んでいることが難波に執着した最大の理由でした。

 

 同じ年の420年、百済の直支王(治世405420年)が薨りました。嫡子の久爾辛(久介辛くにしん)が王に立ちましたが、まだ年少だったことから、久爾辛の母が摂政をとりました。倭国代表部がある金官国に常住して、百済と倭国を結ぶ仲介者となっていた木満到は摂政に取り入り、相婬けて国政を執り仕切るようになりました。しかし木満到は暴政を重ね、困りきった家臣たちは大雀王に直訴をしましたので、大雀王は直ちに木満到の排斥を命じました。

 同じ420年、華南では宋の劉裕(武帝)が東晋を滅ぼし、南朝の宋(420479年)の時代が始まりました。百済に派遣していた使者から報告を受けた大雀王(倭王・賛)は、弟と王仁や阿知使主親子からこれまでの経緯を聞いていたこともあり、新王朝への朝貢を決めました。

 

 この二つが大雀王の対外政策の初仕事となりました。

 

 

 

応神朝初期の三者三様  ―― 完 ――      謎の四世紀解読 全四編  ―― 完 ――