その39.夕霧              50

 

2.夕霧、落葉に消息律師の忠告にル・リヴォ夫人煩悶

 

夕霧はオービュッソンに手紙を送りましたが、落葉上は届いた手紙を見ようともしません。

「唐突に情けない態度を示したことが心外で、恥ずかしい思いをしたのが不愉快な上に、母上が漏れ聞いてしまったら恥ずかしい。あるいは、ああした出来事を夢にも知らないのに、私の普段とは変わった素振りから気付いたり、侍女たちが漏らす噂は世間にぱっと広がってしまうものだから自然と母の耳にも入ってしまい、「私に隠していた」と思われることはとても苦々しいことである。侍女たちがありのままを母に話してしまい、『嘆かわしいことだ』と母上に思われてしまっても仕方がない」と思いをめぐらせました。

二人は母子の関係である中でも、互いに分け隔てなく心を通い合っていました。他人は漏れ聞いているのに親には隠している、といった類の話は昔の物語にも出て来ますが、落葉上はそのようには考えてもいません。

 

侍女たちは「どうかして、すこしばかりでもそんな噂が夫人の耳に入ったなら、仔細がありそうな顔をされて、何やかやと思い嘆かれてしまいましょう。今から取り越し苦労をすることもないですが」と言い合いながら、手紙の中味を知りたがっていました。落葉上が手紙を開けようともしないのがじれったく、「あまり不愛想に全く返信をされないのは相手を不安にさせ、子供じみていらっしゃいますよ」と進言しました。

そこで落葉上は手紙を開けて一読しましたが、「呆然としていたまま、あれだけのことをさせてしまった至らなさは私自身の落ち度に違いない」と思うものの、あまりに思いやりのない仕打ちは納得できないでいます。「読まずにおりました、と突き返しなさい」と返信などもってのほかといった不機嫌さのまま、ベッドに横になりました。

 実のところ夕霧の手紙は憎い様子もなく、大層情が深く書かれていました。

(歌)つれない人の袖に 私の魂を残して来て 我ながら どうしたらよいか 分からないでいます

(歌)私の心は 身体から勝手に離れてしまったようだ 思うにまかせられないのが 心なのだ といった歌のように、私と同じような人が昔にもいたのだと感じながらも、自分の心の行方がとんと分かりませんなどと長々と書かれていましたが、じかにはっきり読んだ侍女はおりません。一夜をベッドで共に過ごした後の、通常の手紙でもないようなので、侍女たちはすっきりしないでいました。

 

「落葉上の気分がすぐれないのはお気の毒なこと」と嘆きながら、「一体、どういったことが起きたのでしょう。有難いことにどんなことにでも親切心を見せていただく様子が久しくなっています。もしも夫婦の関係になってお頼りするようになったとしても、落葉上が見劣りして夕霧様の情愛が冷めてしまったら、と考えると不安になります」などと、落葉上に親しく仕えている侍女たちは、仲間同士で気を揉んでいましたが、ル・リヴォ夫人はそういったことを少しも知らずにいました。

 

 物の怪に悩まされている夫人は重病に見えながらも、爽やかな気分になって意識がはっきりする時もありました。

 その日の昼頃、日中の祈祷が済んでから、律師が一人残って、引き続きヘブライ語の聖書を読んでいました。律師は夫人の容態がよくなったことを喜んで、「慈母マリア様が嘘をつかない限り、愚僧がこうして真心を込めて行う修法に効果が見えないことはありません。悪霊は執念深いように見えますが、悪い業の障害にまとわれた亡者でしかありませんから」としわがれた荒々しい声で話しました。そしていかにも世俗を離れた、一本気で生真面目な律師は不意に「そうでした。あの元帥殿はいつ頃から落葉上の許に通うようになったのです」と問いました。

「そのようなことはございません。夕霧様は亡くなった柏木大納言と大の仲良しでしたから、『大納言が言い残された言葉を裏切るまい』と思われて、ここ数年来、何かの折には訪ねて来られて、奇特なほどお世話をしてくれています。今回もわざわざ病気の私を見舞いに来てくださり、恐縮しております」と夫人が返答しました。

 

「いや、とんでもない。拙僧に隠し立てをされることもありません。今朝がた、後夜の勤めに参った時に、あの西のドアから大層立派な男性が出て来ました。霧が深くて、何者か見分けがつきませんでしたが、弟子の僧どもが『夕霧元帥が出て行かれる』、『昨夜、馬車を帰してこちらにお泊りになられた』と口々に申しておりました。なるほど非常に香ばしい薫りが辺りに満ちて、頭が痛くなるほどでしたから、『確かにそのようだ』と私も合点が行きました。

 しかしながら、この関係は望ましいものではありません。夕霧殿はとても学識に秀でたお方です。愚僧も亡くなった大宮様の依頼で、幼少の頃から夕霧様向けの修法を行い、今もなお、しかるべき祈祷を受け給っておりますが、夕霧様と娘さんとの縁組は感心できません。なぜなら本妻の勢いが強すぎるからですし、実家が今を時めく一族であることもうち捨ててはおけません。愛人でいらっしゃるエレーヌ副女官長の子も含めて、子供たちは七、八人もおりますから、第二王女といっても負けてしまいます。加えて女性は罪深い身であり、長い夜の闇に迷ってしまうと、全くこのような罪によって、のっぴきならない報いを受けてしまうものです。本妻から嫉妬や怒りをかってしまうと、長い間の足かせとなってしまいます。ですから、お二人の関係は全く賛成できかねます」と律師は興奮気味に言い放ちました。

 

「そんなこと、私には腑に堕ちません。夕霧様は決してそうした素振りを見せないお方です。何分、私の加減が悪かったので、ここにいる侍女たちも『一休みしてから対面をしよう、としばらくの間、待たれていらっしゃいました』と申しておりました。そうしたわけで、ここでお泊りになられたのでしょう。大概において、とても誠実で実直なお方でいらっしゃいますから」といぶかしげに答えたものの、心中では「そういったことがあったのだろうか。ただならぬ気配は時々見えてはいたが、いかにも学才がありそうな人柄であるし、人から非難を受けるようなことは努めて避けるようにされて、真面目くさった態度をされているので、まさか許されもしない軽率な行為はなさらないだろうと、油断をしていた。仕える侍女たちが少なかった気配を見て、娘の部屋に忍び込んでしまったのだろうか」と不安になりました。

 

 律師が立っていった後、ル・リヴォ夫人は少将の君を呼びました。

「こういったことを律師から聞きましたが、何があったのでしょうか。どうして私にそんなことを話してくれなかったのです。そうしたことはなかったものとの思いはしますが」と尋ねました。

 少将の君は嫌々ながらも、昨日からのことを最初から一部始終を話しました。今朝届いた手紙の模様や、落葉上がかすかに漏らした言葉なども伝えました。「夕霧様は長年、ずっと秘めておられた胸中を落葉上に伝えたいと思われただけのことです。有難いご配慮をされて、夜が明けきらないうちに、お帰りになりましたが、侍女の誰がどんなふうにお耳にいれたのでしょう」と答えましたが、律師であるとは思いもよらず、何者かが告げ口をしたのだと思っていました。

 

 夫人は何も言わずに、「何て情けなく、残念な」と嘆いて、ぽろぽろと涙をこぼしました。それを見ている少将の君はひどく気の毒になって、「どうしてありのままに話してしまったのだろう。病で苦しんでおられるのに、ますます心痛をさせてしまった」と後悔しました。

「ドアは掛け金をかけてありました」と、あれこれ適当に言い繕いますが、「ともかく、軽々しく人に会うというのはとんでもないことです。内心の気持ちが潔白であっても、ああまで言う弟子僧たちや口さがない童子などが言い触らさずにはおきません。世間の人にどうやって言い訳をして、『そうではなかった』と否定できるでしょうか。何にしても思慮が足りない者ばかりがお側に侍っているのですから」と夫人は最後まで口に出さずにいました。

 病で苦しんでいる気分の上に物思いと驚きが重なって、本当に気の毒でした。気品高い未亡人として身を処して欲しいと思っていたのに、「色恋沙汰の軽々しい評判が立ってしまうことは並大抵なことではない」と夫人は嘆いていました。

「こうやって少しは意識がはっきりしている間に、逢いに来るように、と伝えて下さい。こちらから逢いに行きたいのですが、とても動けそうにありません。随分長い間、逢わなかった気がします」と涙を浮かべながら話しました。

 

 少将の君は落葉上の部屋へ行って、「しかじかこうこうとおっしゃっております」とだけ伝えました。落葉上は夫人の病室へ行こうとして、額の髪が涙で濡れて固まっているのを繕ったり、ほころんでいた衣服を着替えたりしたものの、すぐには動かずにいました。

「ここにいる侍女たちも、どう思っていることだろう。母上はまだ知らずにいるだろうが、後になって少しでも耳に入ってしまったら、『何で素知らぬ顔をしていたのですか』と不審に思ってしまう」とひどく恥ずかしくなってしまい、またベッドに臥してしまいました。

「気分がたまらなく悩ましい。このまま治らないようになってしまう方が楽かもしれない。脚の気が上ってきた気がする」と脚を揉ませました。いつも物事をあれこれ気にしてしまうと、上気する癖がありました。

 

 少将の君が「上様に昨夜のことをそれとなく告げ口した者がいたようです。『どのような事があったのですか』と尋ねられたので、ありのままを話しましたが、ドアだけはしっかり閉まっていたことは、少し言葉を添えて申しておきました。もしそのようなことをちらっとでも尋ねられたら、私と同じように答えてください」と言ったものの、夫人が嘆いている様子は話さずにいました。

「さては母上はもうご存じなのだ。だから私を呼んだのだ」と一層悲しくなって、落葉上はものも言わずに枕もとから涙の雫を落としました。

「このことだけではない。柏木を婿に迎えて以来、どれだけ母上に苦労をかけたことか」と生きている甲斐もなく考え続けました。「今回の夕霧元帥がこのまま引き下がることがなく、なおもあれこれまとわりついて来ると、厄介で聞き苦しいことが生じて来るに違いない」と様々に煩悶しました。「まして心弱くも、あの人の口車に乗せられて身をまかせていたら、どんなに汚名を流されてしまうことになったことだろう」と身の潔白を守り通したことが少しは慰みになりました。「とは言っても、自分ほどの高貴な身分の者が、ああわけもなく長時間、うかうかと夜を過ごしてしまったことは、あってはならないことだった」と我が身の不運を悲しんでいました。

 

 夕方になって「やはり、こちらにお出でください」と再度、呼び出しがあったので、自室と病室を塞いでいる物置の両側の戸を開けさせて夫人の病室に行きました。

ル・リヴォ夫人は病で苦しい気分ながら、慎んだ態度で落葉上を迎えました。いつもの作法どおりに起き上がり、「ひどく取り乱しているので、来ていただくのも心苦しいことです。この二、三日ほどお目にかかりませんでしたが、長い年月のような心地がするのもさすがに空しいことです。必ずしも後の世でお会いできるとは限りません。まためぐり逢うことができたとしても、何の甲斐がありましょう。考えてみると、ただあっという間に別れ別れになってしまう世の中で、むやみと馴れ親しんでしまったことが、逆に悔しく思われます」などと泣きました。

 落葉上も悲しい思いばかりが一挙に込み上がって来たので、話す言葉も浮かばずに、ただ夫人を見守っていました。とても内気で控え目な性格なので、はきはきと弁明してすっきりすることも出来ず、ただ「きまりが悪い」とだけ思っているように見えるのが、あまりにも愛おしいので、夫人は「昨夜は一体、どのようなことが」などと尋ねることも出来ません。急いで灯りをつけさせ、夕食を取らせました。「今朝から何も食べていない」と聞いて、自分の手であれやこれやと料理の品々を整え直しましたが、落葉上は手をつけようともしません。ただ母の加減が良さそうに見えるので、少しはほっとしていました。

 

 すると夕霧から、また手紙がありました。事情を知らない侍女が受け取って、「元帥殿から少将の君にと言って使いがありました」と伝えた時の間の悪さ。少将の君はすぐに手紙を受け取りましたが、夫人が「どういうお手紙ですか」と尋ねました。

 先夜の夕霧の行動を苦々しく感じていた夫人も、人知れず弱気な考えも起こってきていて、内心では夕霧の来訪を期待していたのに、「そうではないようだ」と思って胸騒ぎがしました。

「やはり、その手紙への返信をなさい。仕方がありません。一度立った噂を良いように解釈し直してくれる人はめったにいません。本人の心が潔白だと思っていても、そのように解釈する人は少ないものです。如才がないように手紙のやり取りをして、これまで通りにしておくのが良いでしょう。ほっておくと我がままなように見えてしまいます」と夫人は言いながら、少将の君が持っている夕霧の手紙を持って来させました。少将の君はしぶしぶ夫人に手紙を渡しました。

 

「呆れるほど冷淡なお心を知らされて、かえって一途な思いになってしまいました」

(歌)拒むが故に 貴女の浅はかな心が見えてしまいます 浮名は山川の流れのように 包みきれないものです

と多くの言葉が連ねてありましたが、夫人は最後まで読み切れません。手紙の内容は二人の関係をはっきり説明する様子でもなく、初夜を過ごしたはずなのに、「小憎らしいほど取り澄ました顔で平然として、今夜も訪ねて来ないとはあまりにひどい」と夫人は感じました。

「亡き柏木が落葉上に心外な仕打ちをした時は、とても情けないことだと憂いはしたものの、表向きは肩を並べる女性などいない本妻として扱ってくれたので、それだけでも力強いことだと慰められた。それに対して、男女間の情愛を解していそうにもない文面なんて、とんでもないことだ。夕霧と娘の関係を知ったなら、柏木の父大臣は何と思われることだろう」と夫人はしみじみと考え込んでしまいました。「それでも、どんな反応をして来るか、様子だけでもせめて探ってみたい」と心が混乱して、かきくらんでしまいそうな目を押し拭って、鳥の足跡のような、かぼそい筆跡で返信を書きました。

 

「もう覚束ない容態になっております。娘が見舞いに来ている時に、貴殿の手紙を受け取り、返信を勧めましたが、とても難儀そうにしていて見てもいられませんので、私が代筆します。

(歌)第二王女が 女郎花のように萎れてしまっているこの山荘に どういうおつもりで 一夜だけの宿を借りたのでしょうか

と、ここまで書いた途中で書くのを止めて、書いた手紙を巻いて内カーテンの外に出した後、ベッドに横になった、と思った途端に急に苦しみ出しました。

「物の怪が油断をさせようと、一時しのぎで元気にさせただけだったのでしょうか」と侍女たちはうろたえ騒ぎました。例の効験を引き出す僧たちを皆集めて、ざわめきながら祈祷を始めさせました。「やはり自室にお戻りください」と侍女たちは落葉上に話しますが、悲しく辛い思いをしながらも、落葉上は「私も母上に遅れはとりません」と感じながら、ぴったりと夫人に寄り添っていました。

 

 

3.雲井雁がル・リヴォ夫人の文を隠し、夕霧狼狽。ル・リヴォ夫人の苦悩と死

 

夕霧はその日の昼頃からアゼイ・ル・リドーの自宅にいました。今夜、再びオービュッソンを訪ねて行くのは「いかにも先夜、何かが起きた顔に見られてしまい、すぐに聞き苦しい噂が立ってしまうであろう」と気持ちを抑えて、三年もの長い間に及んだ待ち遠しさ以上に、幾重もの恋想いが重なって嘆息していました。

「雲井雁はそういった忍び歩きの様子をうすうす聞いて、面白くなく感じていましたが、素知らぬふりをしながら、子供たちと遊んで気を紛らわしつつ、自分用の日中のソファに横になっていました。宵が過ぎた時分に、ル・リヴォ夫人の返信が届きました。いつもと違った鳥の跡のようなか細い筆跡なので、夕霧はすぐには判読ができず、灯火を近くに寄せて読んでいました。雲井雁は少し離れていましたが、めざとく見て取り、そっと近寄って背後から手紙を取り上げてしまいました。

 

「呆れたことを。何ということをするのだ。けしからぬことを。それはヴィランドリー城の花散里からの手紙だよ。風邪をひかれて、今朝ほど苦しそうにしていたが、父上に挨拶に伺った後、すぐに城を出て別れの挨拶をしなかったのが気になって、『風邪の加減はいかがですか』と手紙を書いた返信だよ。奪った手紙を見てみなさい。恋文めいた手紙に見えますか。それにしてもはしたないことをする。年月が経っていくにつれ、私を見くびるようになったことは嫌ですね。私に何と思われても、全く恥ずかしくはないのだね」と嘆息しながら、名残惜しそうに取り戻そうともしないので、雲井雁はすぐに手紙を読もうともせずに、持ったままでいました。

「年月が経つにつれて見くびるようになるというのは、貴方の方でしょうに」とばかり、雲井雁は真面目くさって、遠慮がちにですが若々しく可愛げな顔つきで言い返しました。夕霧は薄笑いを浮かべて、「そんなことはどうでもよい。世間でもよくあることだ。そういうことではなく、元帥という相当な地位に昇った男が、こうやって脇目もふらずに一人の女性だけを守り続けているというのは、おどおどしながらメス鷹についていくオス鷹のようだ、と世間の人から笑われてしまっている。そんなかたくなな男に守られているというのは、貴女にとっても名誉にはならない。大勢の婦人たちがいる中で、それでも一段と立ち勝って、格別に重んじられてこそ、世間からの尊敬も心憎いほどになり、私としてもいつまでも新鮮な感じがして、興をそそることも哀れ深さも絶えないものなのです。昔の物語に登場する老人が一人の女性だけを愛して守り切ったといったように、これまでの私が愚かだったのが口惜しい。貴女にとっても、どの婦人よりも勝っているといった光栄を味わえないのだから」と何とか手紙をだまし取ろうと言いくるめます。

 

 すると雲井雁は高らかに笑って、「晴れがましい私を演出しようとしても、古臭くなってしまった私には辛いことです。貴方がすっかり色男に変ってしまった様子も興覚めで、見馴れないことなのでたまりません。

(歌)以前から私に辛さを教えずにいて 急に物思いをさせるとは といった歌もありますよ」と愚痴る妻も憎くはありません。

「私が貴女に『急に』と思わせるような仕打ちをしたでしょうか。何て情けない心の持ちようだろう。よくない告げ口をする者がいるのだろう。確かに以前から妙に私に敵意を見せる人もいるからね。その昔、『あの官位六位が着る緑の袖』と私を見くびった名残で、私を侮っても構いはしないといまだに思っていて、あれこれ聞き辛い噂をほのめかしている人もいるのだろうし。貴女が不快に思っている女性にとっても迷惑なことだ」と話しますが、「つまるところ、落葉上との仲は成就できる」と信じているので、ことを荒立てずにいました。側に控えていた雲井雁の乳母ポーリンは、かって『緑の袖』と皮肉ったことを思い出して、いたたまれない気分になって、何も口に出さずにいました。

 

 二人が言い合っている間に、雲井雁が隠してしまった手紙を、無理に捜し出そうとはしないまま、夕霧は何事もなかったように就寝しましたが、内心ではいらいらしながら「どうやって取り戻そうか。ル・リヴォ夫人からの手紙に違いはないが、どんなことが書かれているのだろう」とまんじりともせずに臥していました。

 雲井雁が眠っている間に、先刻のソファの下などを何気ないふりをして捜してみるものの、見つかりません。「隠すほどの時間はなかったのに」と、とてもいまいましい気分のまま、夜が明けてしまいましたが、すぐには起きようとしないでいました。雲井雁は子供たちに起こされていましたが、夕霧も今、目が覚めた風をして、あちこち物色してみますが、見つけ出すことは出来ません。

 雲井雁は夫がさして捜してもいない様子を見て、「なるほど恋文ではなかったのだ」と気にもかけなくなりました。子供たちが騒がしく遊んだり、作った人形を置き並べていたり、読書や習字など、色々なことの世話で慌ただしくしています。その上、幼い児が這いまつわりついたりするので、奪い取った手紙など思い出さずにいました。夕霧は手紙以外のことは頭になく、「早く返信を送らなければ」と焦るものの、手紙をじっくりと読めずにいたので、「手紙をしっかり読まずに、返信を書き散らしただけだ、と思われてしまったら」などと気を揉んでいました。

 

 誰も誰もが食事を済ませて物静かになった昼頃、夕霧は困り切って、「昨夜の手紙にはどういったことが書かれていたのだろう。私に見せないのはけしからぬことだ。今日にも花散里の見舞いをしなければならないのだが、気分がすぐれず、ヴィランドリー城に出向くことができそうもない。だから手紙くらいは差し上げようと思うが、実際にどんなことが書かれていたのだろう」と夕霧が尋ねましたが、きわめてさりげない口調だったこともあって、雲井雁は「手紙を奪い取ったのは出過ぎた行いだった」ときまりが悪くなってしまいました。あえて手紙の内容には触れずに、「先夜の山風に吹かれて、加減を悪くしてしまいました、と風流気取りで言い訳を書いたらよいのでは」と答えました。

「おやまあ、いつものようにいい加減なことを言いますね。何の面白みもない。私を世間並みの男のように扱ってしまうのは恥ずかしいことだ。ここにいる侍女たちも『不思議なほど真面目な人にそんなことをおっしゃっても』と薄笑いしているだろうよ」と冗談めいて言い放って、「その手紙はどこにあるのかね」と問うたものの、雲井雁はすぐには取り出そうとしないでいました。

 

 夕霧は雑談をしながら、しばらくの間、ソファに横になっているうちに、日暮れになりました。夕暮のカササギの声に驚いて目を覚ました夕霧は、「今頃、あの山蔭の山荘では、どんなに霧が立ち込めていることだろう。情けないことだ。今夜中に返信だけでもしておかないと」とせつなくなりながら、何でもない顔つきでインク壺を手に取って、「どうやって取り繕って書こうか」と考え込んでいました。ふいにソファの少し盛り上がった箇所を試しに持ち上げてみると、手紙が差し込まれていました。嬉しくも馬鹿々々しくも感じて、笑みを浮かべながら読んでいくと、何とも心苦しい内容でした。

 胸が潰れる思いになって、「あの晩、泊めてもらったことを、落葉上とわけありのことをした、と聞かれてしまったのだろう」と考えると、気の毒にも心苦しくにもなりました。

「さぞかし昨夜は私を待ち明かしておられたのだろう。今日も今まで便りを出せずにいてしまった」と言いようもなく申し訳ない思いがしました。

「とても苦しげにしどろもどろに書かれている様子から察すると、よほど思いあまって書かれたの。だろう。今夜も先夜のように待ちくたびれておられることだろう」と、何とも言い難く、ただ妻の雲井雁が恨めしく憎くなりました。

「ふざけて何とはなしに手紙を隠したのだろうが、それもこれも私の躾が悪かったからだ」とあれこれ自分自身が情けなくなって、泣き崩れてしまいたい心地になりました。すぐに出掛けたい気がするものの、「落葉上が快く対面してくれそうにもないし、ル・リヴォ夫人もあのように書かれていることだし、どうしたものか。今日は厄日でもある。万が一、偶然だとしても落葉上が私を許して、望みが叶ったとしても、厄日であるのがまずい。後々、悪いことが起きてしまうかも知れないし」と生真面目な性格から判断して、とりあえず夫人宛の返信を書きました。

 

「とても珍しくも貴重なお手紙をいただき、何かと嬉しく拝読しましたが、私へのお咎めは心外です。どういった風にお聞きになったのでしょうか。

(歌)秋の野の茂みを踏み分けて 訪問はしましたが かりそめの夜の枕に 契りを結んだことがありましょうか

言い訳をするのも無意味なことですが、すぐに再訪ができなかった罪について、このまま引き下がってはいられません」と書かれていました。

 落葉上宛の手紙を細々と書き綴った後、厩の駿馬に鞍を置かせて、あの晩の右近将監を使いとして遣りました。「『私は昨夜からずっとヴィランドリー城に滞在していて、たった今、自邸に帰って来たところなので、返信が遅れてしまいました』と伝えてくれ」とひそひそと指示しました。

 

 オービュッソンでは、昨夜も薄情なことに夕霧が訪ねて来ない様子に我慢できず、後々の評判になってしまうことを包み隠さず、ル・リヴォ夫人が恨み言の手紙を送ったのに、その返信すら届かないまま、今日も暮れていくので、「どれほどのお気持ちでおられるのか」と落胆して、心を痛めたせいか、夫人は持ち直していた容態が悪化して、ひどく苦しみ出しました。

 落葉上当人は、心中では母上の誤解は「特に憂うべきこと」と思っているわけではなく、「思いも寄らなかった人にしどけない姿を見られてしまったことだけは悔しいことだ」と感じているだけで、大して気にはしていませんでした。誤解した母が一大事かのように嘆いているのが、言いようもなく恥ずかしいのですが、我が身の潔白さを弁明するすべもなく、ただいつもより恥ずかしげな様子を見せていました。

 

 それを察した夫人は一段と心苦しくなって、「これからも男のことで様々な苦労をしていくのだろう」とさらに胸が締め付けられて悲しくなりました。

「今さら、面倒なことは言わないと思うものの、宿命と申しても貴女は思いのほか男性に対して思慮が浅いので、人から非難されるようなことをしでかしてしまうのです。それを元に戻すことはできませんが、これからは一層注意してください。物の数にも入らない我が身ですが、何かにつけて貴女のお世話をして来ました。今はもう、何事も理解されて、世の中のあれこれとした有様を判断できるようになったのだ、とこの点では安心しておりました。

 それなのに、まだまだ子供っぽく、しっかりした心構えがないことが分かり、心配になってしまったので、もうしばらくは命を留めておきたいと思います。普通の人でさえ、多少とも人並みの身分に育った女性が二人目の夫を持ってしまう例は、感心できない軽薄な行為です。まして貴女は王女の身ですから、そんなにいい加減に男を近づかせてはならないものです。

 柏木様との縁組も、考えている以上に納得できないことだ、と長年来心を痛めていたのですが、そうした運命があったのでしょう。まず始めに貴女の父の朱雀院が乗り気になって、縁組を許す意向を柏木様の父大臣に漏らされたので、私一人が反対の意地を張るのもどんなものか、と気弱になってしまいました。柏木様に先立たれてしまって、末の世にまで不安な有様になってしまわれたのは、私の過ちでもないのですが、ただ

(歌)わが身の憂いは 世間並みの憂いにすぎないと達観して 天命を恨みながら お世話をして来た といった歌のように過ごして来ました。

 その上に今度の件ですから、相手にとっても貴女にとっても、色々聞き憎い噂が出て来ることでしょう。そうした噂を知らぬ顔でやり過ごすとしても、せめて夕霧様に世間並みの情愛がおありなら、自然と慰められていくことだろう、との思いもしました。それなのに、これほどひどい薄情な心を持っておられたとは」とこぼしながら、ぽろぽろと涙を流しました。

 

 分別もなく夫人が一人決めをして話すことに反論する言葉も思いつかずに、ただ泣いている落葉上の様子には、おっとりしたいじらしさがありました。夫人は落葉上をじっと見つめながら、「それにしても貴女にはどんな点でも人に劣ったところがないのに、どういった運命で容易ならぬ深い苦労をしてしまう因果をお持ちなのでしょう」と話しているうちに、さらに苦しみ出しました。物の怪などは、こうした弱り目につけこんで勢いづくものですから、夫人は急に息が途絶えて、冷え冷えとして行きました。

 律師も騒ぎ立てて祈願などを大声で立てました。「深い誓いを立てて、命果てるまでと決心して、山に籠っていたのだが、今回は特別に山を下りて来た。それなのに祈祷檀を取り壊して、山に帰っていくのは面目ないし、キリスト様も辛い思いをされてしまう」といった趣旨を律師は一心に祈り続けました。落葉上が泣き乱しているのは、無理もないことでした。

 そんな騒ぎの中、夕霧からの手紙が届いたことを夫人はぼんやりと聞いて、「今夜もお越しにならないのだ」と理解しました。「情ないことだ。こんなことも世間の語り草になってしまうだろう。どうして自分までが婿として認めるような歌を送ってしまったのだろう」と様々なことを思い出しているうちに、そのまま息をひきとってしまいました。

 

「あっけなく、悲しいことだ」と言っても言い足りません。夫人は昔から時々、物の怪に悩まされて、もうこれ限りと見えた折々もありました。「いつものように物の怪に取り込まれてしまったのであろう」と加持祈祷をして騒ぎ立てますが、これが最期であることは明らかでした。落葉上は「私も遅れてはならない」と思い詰めて、じっと夫人の遺骸に添い臥していました。

 侍女たちが落葉上に近寄って、「もう仕方がありません。どのように悲しまれても、定められた運命には限りがあるので、この世に引き返して来ることはありません」、「亡き人をお慕いしたところで、どうして思い通りに行くものでしょう」と、今さら分かり切った文句を話します。「後を追うことは大層忌まわしいことで、亡くなられた夫人にとっても罪深い行いになります。もうお離れください」と落葉上を引き離そうとしましたが、身体がこわばっていて、自分自身が何も分からないままでいました。

 

 律師の弟子僧たちが祈祷用の檀を壊した後、ぱらぱらと帰って行き、通夜の勤めをする者だけが残っていましたが、夫人の最後の様子はまことに悲しく心細いものでした。

 

 

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