吟遊詩人がつづる「日本の神々」

 

[6]丹後の神々 前篇   (地方の神々篇)

             (参照 吉備と出雲の勃興3.「オオクニヌシと日本海」

 

1.ワクムスビと丹後

 紀元前194年の衛満による衛氏朝鮮の成立、前108年の前漢の武帝による植民地化などで、中国勢力の朝鮮半島への直接的な影響が深まっていきました。それに呼応して対馬と壱岐島を飛び石とした半島と北部九州の筑紫(筑前)地方の交易が飛躍的に伸張しました。交易に加えて鉄器、青銅器、ガラス玉や織物などの加工産業の興隆により、筑紫(筑前)地方は半島交易の窓口である伊都国と加工産業の奴国を主体に弥生中期の倭国(西日本)の中心地となり、人口も爆発的に増加していきました。

 北部九州の問題点は沿岸沿いに山が迫っていて、耕作が可能な土地に限りがあったことです。水田耕作に適した広大な沖積平野も存在しません。このため、商業や製造業は発展しましたが、急激な人口増を支える米や穀物が恒常的に不足する事態におちいりました。危急時には兵士として活用できる農民の数が少ないこともあって、近隣諸国を兵士の数で圧倒する大国や統一王国は出現せず、伊都国、奴国を柱に中小諸国が棲み分けをする状態で落ち着きます。

 

 弥生中期の半ばに入ると、繁栄は継続しているものの、食料不足に加えて、人口の飽和化により農地用だけではなく、居住用の土地すら不足するようになりました。そこで新天地を求めて日本海、瀬戸内海や九州東南部へと移住していく人々が増えました。筑紫の人々は先進の技術や工具、知識を持っていましたから、移住先も喜んで受け入れます。

 移住者が携えていった神々はタカミムスビ(高御産巣日)、カムムスビ(神産巣日)、コゴトムスビ(興台産霊)、ワクムスビ(稚産霊、和久産巣日)などムスビ(産霊、産巣日)の神々でした。日本海ではカムムスビを信奉するムスビ族が島根半島に定着しましたが、さらに東に進んだ丹後半島では ワクムスビを信奉するムスビ族が定住しました。ワクムスビのワクは「稚・若」、ムスビは「生成」という意味合いを持ちますから、穀物の生育を生き生きと司どる神と言えます。後世に編纂された日本神話では、ワクムスビはヒノカグツチ(火之迦具土)に陰部を焼かれて死に瀕したイザナミ(伊邪那美)の尿から、ミツハノメ(弥都波能賣)に次いで誕生しますが、これは後世に追記されたもので、元来はイザナギ・イザナミ神話とは別系統のムスビ系の神さまです。

 

 丹後半島に定着したワクムスビはそれまでの住民が農地化は不可能と見なしていた谷間の峡谷を棚田に変貌させたり、湿地帯を豊かな水田に変貌させるなど先進技術を駆使して農業を発展させた上に、織物や鉄・青銅器の加工など手工業も発展させ、天橋立が突き出す半島の南の付け根から大江へと丹波の内陸部に領域を広げて行き、新天地の神さまとしてワクムスビの子神トヨウケビメ(豊受媛)が誕生しました。

 

 

2.辰韓12か国との交易

 丹後半島が次第に丹後王国として隆盛していった理由は、日本海の対岸にあたる朝鮮半島南東部の辰韓12か国との交易が発展したことになります。きっかけは辰韓の1国である斯蘆(しら。後の新羅)国の国王である脱解尼師今(だっかいにしきん。治世5787年)の使者が丹後を訪れ、交易を促したことでした。以後、辰韓と丹後を結ぶルートは伽邪地方対馬壱岐島筑紫を結ぶルートとは異なる、第二の交易ルートとなりました。

 元々、丹後半島や但馬の海岸線には季節風や対馬暖流の対流の影響なのか、辰韓諸国の漁民や船乗りがしばしば漂着し、逆に丹後の漁民が辰韓諸国に流れ着くこともありました。脱解尼師今もその一人で、丹後出身の倭人の船乗りでした。運がよいことに脱解尼師今は斯蘆国の第二代王である南解次次雄(治世424年)に気に入られ、王女アヒョ(阿孝)の婿となります。第三代王は南解次次雄の長男、儒理尼師今(同2457年)が継ぎましたが、脱解尼師今は請われて第四代王に担ぎ出されていました。国王となった脱解尼師今は母国を忘れることができす、丹後との交易振興に力を注ぎます。

 

 辰韓諸国と丹後王国の交易に飛びついたのは近江国でした。近江は弥生前期末にイザナギ・イザナミと共に西の瀬戸内海地方から水稲文化や銅鐸文化が入り、近江富士の麓を流れる野洲川を中心に琵琶湖の湖畔沿いに発展した王国でしたが、悩みは瀬戸内海と日本海から離れた内陸部に位置していることでした。このため文化的には瀬戸内海地域や日本海の出雲よりも一足遅れ、常に後塵を拝していることが悩みでした。

 近江国からの積極的な働きかけで、若狭の小浜を中継した丹後と近江の交易が緊密となり、その波及効果として近江国は美濃・尾張以東の東国とを結ぶ中継交易国としても興隆していきます。

 

 

3.丹後のトリミミと出雲のオオクニヌシ

 

 斯蘆国は脱解尼師今の後に南解次次雄の次男、娑娑尼師今が第五代王(同80112年)を継ぎましたが、斯蘆国を筆頭とする辰韓諸国と丹後国との交易はますます盛んとなり、丹後王国は富を蓄積していきます。

 夢が膨らんだ国王ヤシマムヂ(八島牟遅)は自慢の愛娘トリミミ(鳥耳)と出雲のオオクニヌシとの縁組を思いつきました。王子に恵まれなかったヤシマムヂの思惑は、因幡についで但馬、丹波と影響力を強めてきた出雲王国との友好関係を深めること、娘を后に嫁がせて生まれる王子がひょっとしたら出雲王国の後継ぎになるかもしれない、すると丹後・出雲連合という大国が誕生する期待も持てたからです。

 

 一方、オオクニヌシは丹後王国にトリミミ(鳥耳)という美貌の王女がいることを風の便りで耳にしていました。丹後半島を陣営に加えるなら、越への北上の足がかりとなることに魅力を感じました。自分よりも一回り若い噂の美人を后に迎え入れる嬉しさもあって、丹後王の申し入れを快諾して、トリミミを出雲に迎え入れました。

 トリミミは王宮に住む人目の后となりましたが、物怖じしないトリミミは、スセリヒメ(須勢理毘売)とタギリヒメ(多紀理毘売)が住む王宮に新風を巻き起こします。正后スセリヒメには一目を置いているのか、神妙に振る舞いますが、スサノオ族との縁が深く、由緒もある宗像族についての知識があまりないようで、宗像族出身のタギリヒメに対しては、安曇族と同じ交易海人の出にすぎず、自分のような王家の出身ではないと、みくびった態度で接します。それがタギリヒメの癇に触れてしまいます。

 

 タギリヒメとトリミミの確執はトリミミが王子トリナルミ(鳥鳴海)を出産したことから、ますます激しくなっていきます。後継ぎの筆頭候補はコトシロヌシ(事代主)を押さえて、タギリヒメの王子アヂシキタカヒコネ(阿遲鉏高日子根)が既定路線になっていましたが、幼い頃から気が弱く、すぐに泣き出してしまうのが弱点でした。トリナルミは生まれた時から元気な泣き声で、立派な武人、大王に成長する予感を与えますので、スセリヒメに仕える下女たちも、タギリヒメ派とトリミミ派に分裂してしまう始末です。

 ところが丹後のヤシマムヂ王の思惑は幻となってしまいます。丹波、丹後に次いでさらに東の越地方への勢力拡大を目論んでいるオオクニヌシが丹後王に事前の断わりもせずに、越中・越後のオキツクシイ(意支都久辰為)王との間で王女ヌナカワヒメ(奴奈川姫)を后に迎える交渉をまとめたからです。ヌナカワヒメとの出会いに自ら越後に赴く熱の入りようです。おまけにヌナカワヒメにぞっこんになり、王子タケミナカタも誕生しました。トリミミにとっては同世代のライバル出現でした。トリミミはヌナカワヒメがいずれは王宮に入ってくることを容認することができず、公言どおりに息子トリナルミ(鳥鳴海)を連れて丹後に戻ってしまいました。

 

 丹後に戻ったトリミミは父王の死後、幼くして王を即位したトリナルミの摂政役として出雲王国とは一線を画しながら、丹後王国をさらに飛躍させていきます。王国はトリナルミの後も、クニオシトミ(國忍富)、ハヤミカ(速甕)のタケサハヤヂヌミ(多気佐波夜遅奴美)、ミカヌシヒコ(甕主日子)と男王が継承していきます。

 

 

4.羽衣伝説と浦島太郎伝説

 

 約百年以上にわたる辰韓12か国との交流が盛んになる中で、半島とを結ぶ幾つかの説話が誕生していきます。羽衣伝説と浦島太郎伝説はその代表例です。

 

(辰韓から丹後を訪れた八人の乙女伝説)

 丹後王国の招きで、機織りの指導をすべく辰韓から八人の乙女が丹後にやって来たことがありました。所定の任務を終えた乙女たちは帰国用の船に乗船する前に、泉で水浴びをしました。ところが一人の乙女の衣服が何者かに盗まれてしまいました。祖国への帰りを急ぐ他の人は「衣服を見つけて次の船に乗りなさい」と乙女に言い残して帰国の途につきましたが、乙女はいつの間にか行方知らずになってしまいました。

 この事件が天女の白鳥伝説と結びついて各地で羽衣伝説が誕生します。

 

機織りの天女(近江)

 近江では乙女の衣服を盗んだのは近江出身のイカトミ(伊香刀美)となります。イカトミは乙女を近江に連れて帰り、妻としました。二人から息子人と娘人が誕生しますが、ある日、夫が盗んだ羽衣を見つけ出した天女は白鳥に化身して空を飛んで恋しい祖国に戻っていきました。

酒の醸造の天女(丹後)

 丹後では強欲な老夫婦による悲話ととなります。衣服を盗んだ者はワナサ(和奈佐)と呼ばれるずる賢い初老の男でした。裸身を恥じらいながら衣服を捜す不憫な乙女に粗末な衣を差し出して助け出した、という美談に仕立て上げて乙女を自分の家に引き取りました。夫に負けず劣らずずる賢い妻は乙女を召使としてこき使います。乙女は機織りだけでなく、酒の醸造にも長けていました。乙女が造る芳醇な酒は次第に丹後中に知れ渡り、酒は高額でも飛ぶように売れました。十数年がたつと老夫婦は大金持ちとなりましたが、次第に乙女が邪魔くさくなって、自分たちの子供ではないからなどと屁理屈をたらたらと重ねて追い出してしまいました。追い出された乙女は村々を点々とします。次第に老夫婦の悪事が明らかになりました。見つけられた乙女は奈具(なぐ)の社でトヨウケビメとして祀られるようになりました。

 

(辰韓に流れついた漁師伝説)

 丹後の浜辺に住む少年漁師が沖合いで嵐に遭遇し、辰韓のとある浜辺に漂着しました。漂着した村の女性と結ばれ、幸せに暮していましたが、時が経過すると共に故郷の親兄弟がしきりに恋しくなり、丹後への帰郷を切望するようになりました。

 引き止める妻たちを吹き払って丹後に戻りましたが、故郷の景観は津波の襲来で一変していました。再会を楽しみにしていた親兄弟も津波に呑み込まれて他界していました。三年ばかりと思っていた期間は十数年も経過していたことも分りました。希望を失った男は急に老け込んでしまいましたが、毎日、浜辺にやって来て、海の向うの妻たちを偲ぶようになりました。

 これが日本海の西方の海底にあると伝わる神仙国と結びついて浦島太郎説話が各地に広がりました。

 

 

丹後の神々を祀る代表的な神社

ワクムスビを祀る神社

三柱(みはしら)神社 京都府京丹後市丹後町に11社など、丹後半島の各所に点在。ワクムスビに加えて二柱にウケモチかウカノミタマ、三柱にアメノコヤネ等を祀る。

トヨウケビメを祀る神社

元伊勢籠(こもり、この)神社 (京都府宮津市字大垣)  元々はトヨウケを祀っていたが、伊勢神宮への遷座以降は尾張氏系のアメノホアカリ(天火明)を祀る。     

豊受大神社 (京都府福知山市大江町天田内)

浦島太郎を祀る神社 

浦島神社 (京都府京丹後市伊根町)

島児神社 (京都府京丹後市網野町浅茂川明神山)

羽衣関連の神社  

乙女神社 (京都府京丹後市峰山町鱒留蛭子堂

 

 

 

[7]丹後の神々 後篇   (地方の神々篇)

           (参照 吉備と出雲の勃興3.「オオクニヌシと日本海」

 

5.丹後の巨大墳丘墓

 西暦180年前後に吉備邪馬台国の楯築王が後継ぎを特定せずに急死した後、母方の甥にあたる出雲の西谷王子が後継に名乗りを挙げたことをきっかけにして、出雲を筆頭にする北勢力と阿波を旗頭とする南勢力の対立による倭国大乱が十年あまり続きました。

 丹後王国は表面的には北の出雲側に立ちましたが、大乱の主戦場とは地理的に遠く、吉備邪馬台国とは直接的な利害関係もないことから、傍観する立場でした。出雲から援軍派遣の要請もありましたが、やんわりと断わり、むしろ近江王国を仲介にして、大乱の渦中で尾張、美濃と伊勢の東海三国を傘下におさめた新興勢力の大和との接近を目論むなど、伝え聞く動向を天秤にかけながら大乱の成り行きを見守りました。丹後と同じく大乱の影響をあまり受けない近江王国との関係は良好で辰韓諸国との交易も順調でした。

 

 倭国大乱は、ようやくスサノオ宗家のヒミコ(卑弥呼)の女王就任で吉備邪馬台国の後継騒動が収まり沈静化しましたが、倭国の盟主としての吉備王国にヒビが入り、統率力が弱まったことは否めません。自国が倭国の盟主であることを誇示すべく、出雲は西谷王親子が巨大な四隅突出墳丘墓を築造し、吉備から運び込んだ特殊壺と特殊器台を墳丘墓に飾り立てます(西谷二号墳と三号墳)。阿波王国も負けじとばかりに吉野川を見下ろす大麻山近くの丘陵に萩原墳丘墓(二号墳と一号墳)を築造します。

 その動きに呼応するかのように、丹後王国も巨大墳丘墓の築造の競り合いに加わり、首都の峰山近くに赤坂今井墳丘墓などを築造します。トリミミ(鳥耳)以来、出雲とは異なる独自路線を貫く本意があったことから、出雲特有の四隅突出墳丘墓は採用せず、伝統的な方形周溝墓を大型化させたものでした。  

 

 

6.大和尾張氏の丹波征服

 倭国大乱の混乱時に東海三国を呑み込んだ大和南葛城地方を本拠地とする葛国は三世紀に入ってから大膨張を始めました。東海三国から入る財力や兵力が加わって大和盆地の他の中小国をはるかに凌ぐ存在になったことから、大和盆地全体を飲みこんだ後、山城、河内、淡路島を傘下におさめます。水銀朱の資源をめぐって対立していた阿波王国との確執は淡路島の利権をめぐってさらに深まり、本格戦争となりましたが、大和葛国が兵力で圧倒して勝利をおさめ、倭国(西日本)の東端から新しい倭国の覇者が産声をあげていきます。

 

 覇者への道を突き進む第七代フトニ王(賦斗邇。孝霊天皇)は次の狙いを近江に定めました。大和軍は西の山城からアマツヒコネ(天津彦根)族、東の尾張・美濃から尾張氏が近江に攻め込みました。東西から攻め込まれ、すでに大和の支配下に入っている南の伊勢にも逃げ込むことができない近江王国はあえなく陥落します。尾張氏は近江の後事をアマツヒコネ族に任せて、日本海へと北上します。アマツヒコネ族は近江の首都部を見下ろす御上山(近江富士)にアマツヒコネの子神アメノミカゲ(天之御影)を祀りました(野洲市の御上神社)。

 難なく若狭を制覇した尾張軍は富がうなっている、と話に聞く丹後王国を目指します。丹波に入り海岸線沿いに栗田湾を制覇し、丹後半島の南の付け根、天の橋立が走る宮津を征して拠点を置きました。

 

 ところが尾張軍を迎え撃つ丹後軍は予期した以上に強固で丹後半島への侵入を阻まれてしまいます。近江攻略と異なり、左右から攻め入って挟み撃ちとすることができません。尾張軍は打開策として丹後と丹波の国境となっている大江山連峰の南麓の攻略に着手しました。大江山連峰には吉備など中国山地に続く形で縄文時代以来続く太陽信仰が色濃く残っており、丹後と丹波北部の人々にとっては太陽神や神々が棲む神聖な高天原でした。ムスビ系のワクムスビから生まれたトヨウケビメ信奉は丹後から丹波へと拡がっていましたが、高天原信仰と結びついて高天原の神々の食料を司る女神として崇められるようになってもいました。山麓に住む部族たちは神聖な地域を守ろうと必死に抵抗し、大江山連峰を越えて丹後の兵士も応援にはせ参じましたので、一進一退の攻防が続きます。

 消耗戦に見切りをつけた尾張軍は丹後侵入を断念して、方向を西の播磨へと転じました。栗田湾に注ぐ由良川から南部側の丹波を征しつつ、播磨に向けて進軍していきます。この地域は出雲のオオクニヌシ(大国主)が亀岡のミホツヒメ(三穂津姫)の元に通いだしてから出雲の文化が浸透していましたが、出雲からの支援もなかったことから、さほどの抵抗もなく尾張軍は綾部から氷上へと駒を進めることができました。尾張軍は吉備邪馬台国への突破口にあたる播磨に到達し、摂津から海岸沿いに進攻してきた大和軍と合流しました。

 

 大和軍の侵入を防ぐことには成功した丹後王国でしたが、予想もしなかった事態に直面していきます。辰韓12か国の中からシラ(新蘆)国が抜け出して勢力を広げて、次々と他国を呑み込む始め、交易相手である辰韓地方が動乱の時代に入ってしまいました。辰韓地方との交易が途絶えがちになってしまい、シラ国に敗れた国々からの亡命者が次々と丹後半島や但馬の海岸に漂着するようになります。亡命者たちは祖国復興を目標に置いて、但馬の海岸線沿いの湿地、泥地帯の開拓を始めました。

 

 

7.大和のヒコイマス(日子坐)と丹後の遠津臣

 尾張軍の丹後攻略の画策から約半世紀が経過しました。大和軍は東播磨の加古川を前進基地として吉備邪馬台国攻略に着手しますが、攻略は難渋します。ようやく二十数年後の266年頃に制覇を達成しましたが、その後は一挙加勢に東出雲、九州の有明海まで制覇して、倭国(西日本)の覇権を握りました。

 丹後王国はその間も持ちこたえ、王さまはタヒリキシマルミ(多比理岐志麻流美)、ミロナミ(美呂浪)、ヌノオシトミトリナルミ(布忍富島鳴海)、アメノヒバラオホシナドミ(天日腹大科度美)と続きます。

 

 大和の第十代ミマキイリヒコイニエ王(御間城入彦五十瓊殖。崇神天皇)は西日本に加えて東日本も制覇して日本列島統一を目論み、270年代後半に四道に将軍を派遣します。西道には吉備津彦、北陸道へはオオビコ(大彦)、東山道にはオオビコの息子タケヌナカハワケ(武渟川別)を将軍に任命しました。四道目は丹波北部と丹後でしたが、ミマキ王の腹違いの弟ヒコイマス(日子坐)が将軍に抜擢されました。

 丹波に進んだヒコイマスはまず丹波北部の攻略を試みます。迎え撃つクガミミノミカサ(陸耳御笠)軍は大江山連峰を根城にして、しぶとく抵抗を続けます。後世に鬼伝説として語り継がれるほどの壮絶な戦いでしたが、今回の大和軍は数倍の兵力を擁していましたから、最後は大和軍に押さえ込まれてしまいました。

 

 丹後の国王はトリミミから数えて十代目にあたるトホツヤマサキタラシ(遠津山岬多良斯。母はトホツマチネ遠津待根)でした。クガミミノミカサ軍の中から丹後に逃げ込んだ兵士もおりましたが、敵も味方も誰もが勇猛と認めるクガミミノミカサが敗退したことから、大和軍に歯向かっても血の海を広げるだけと悟り、恭順して地元の豪族として生き残る道を選びました。ヒコイマスの長男・丹波道主が丹後王国に無血入城した後、ヒコイマス軍は丹波の統治を尾張氏に任せて、まだ未征服の但馬南部の山岳部へ駒を進めていきました。丹波統治を担った尾張氏は天橋立の付け根に尾張氏の祖神アメノホアカリ(天火明)を祀りましたが、丹波北部の住民の懐柔策の意味合いもあって、地神のトヨウケビメも祀りました。

 大和軍はトホツヤマサキタラシとの約束を守り、丹後王国の子孫は地元豪族の遠津臣として生き残ります。ヒコイマスの孫カコメイカツチ(迦邇米雷)が丹波遠津臣の娘タカキヒメ(高材比売)と結んでオキナガスクネ(息長宿禰)が生まれ、オキナガスクネが但馬系の葛城タカヌキヒメ(高額比売)と結んで、第二王朝への幕をこじ開けたオキナガタラシヒメ(息長帯比売。神功皇后)が誕生します。

 

 

8.トヨウケビメと伊勢神宮外宮

 日本統一を達成した後、ミマキイリヒコイニエ王は大和王国の祖神アマテラス(天照)を祀る場所を特定することを王女トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫)に託します。トヨスキイリヒメは諸国を巡った後、紀伊の奈久佐宮、吉備の名方浜宮、丹波の与佐宮の三か所を候補地にしますが、決着することができないままミマキ王が崩御し、後継のイクメイリビコイサチ(活目入彦五十狭茅。垂仁天皇)に遺された課題となりました。

 

 イクメ王は政権が安定した後、アマテラスの祭祀担当を腹違いの妹トヨスキイリヒメから自分の王女であるヤマトヒメ(倭姫)に替えました。ヤマトヒメは伊賀、近江、美濃を巡った後、伊勢に入り、大和盆地から海路で東国に向かう五十鈴川河畔に、東西倭国統一の象徴として伊勢神宮の創建を決めましたが、その背後には阿倍氏と尾張氏の意向がありました。

 伊勢は第五代カエシネ王(訶惠志泥。孝昭天皇)時代に、尾張族を主体に東海三国を支配下に置いて以来、尾張氏の影響力が強い地域になっていました。オオビコとタケヌナカハワケ親子を祖とする阿倍氏は伊勢と大和の間に位置する伊賀国を地盤にするようになっていましたので、伊勢の五十鈴川は両氏にとって好都合でした。

 両者は東国の利権を守ることでも利害が一致していました。四道将軍として北陸道に送られたオオビコ、東山道に送られたタケヌナカハワケ以来、東国の利権は阿倍氏一族のものとみなされました。しかしミマキ王は正后ミマキヒメ(御間城姫)の父と弟であるオオビコ・タケヌナカハワケ親子の勢力が増長していくのを警戒して、タケヌナカハワケの担当を東国からはずして、西の筑紫へ移動させます。代って関東平野制覇に向けて腹心の意富氏一族の補完としてアマツヒコネ(天津彦根)族とアメノユツヒコ(天湯津彦)を送りました。関東平野制圧の目処がたった後、東国統治の統括者としてイクメ王の異腹の兄でトヨスキイリヒメの同腹の兄であるトヨキリヒコ(豊城入彦)を派遣しましたが、これが阿倍氏・尾張氏・物部氏対トヨキリヒコ一族・意富氏・中臣氏・吉備氏の二代派閥の対立としこりの発端となります。

 

 イクメ王の時代に入って故オオビコに替わって、タケヌナカハワケが阿倍一族の総帥となっていましたが、トヨキイリヒコの息子ヤツナダ(八綱田)はサホビコ(狭穂彦)の反乱を鎮圧した将軍として、東国のトヨキイリヒコ一族の名を高めており、イクメ王の外戚であるタケヌナカハワケは焦ります。尾張氏と組んで東国支配の海路の玄関口を抑えることができれば、トヨキイリヒコ一族への巻き返しにつながります。尾張氏はすでに陸路の東国への出入り口である美濃と尾張・三河をおさえていましたから、これに加えて海路での東国への玄関口を抑えることは尾張氏と阿倍氏に有利となります。 

 尾張氏は伊勢南部の豪族である渡会(わたらい)氏を活用します。渡会氏はアメノヒワシ(天日鷲。またはアメノヒワケ天日分)を祖神とする伊勢忌部系の氏族でしたが、伊勢忌部系はすでに尾張系に組み込まれていました。越国の賊を討伐して大幡主の名を授けられていた、渡会氏のオオワクゴ(大若子)は討伐した封地を伊勢神宮に寄進し、その見返りとして伊勢国造に任じられ、弟オトワクゴ(乙若子)が伊勢神宮の大神主となりますが、その背後には尾張氏と阿倍氏の思惑がありました。

 

 伊勢神宮の祭祀は渡会氏に加えて中臣氏系の荒木田氏も加わるようになりましたが、次第に渡会氏と荒木田氏の対立が激しくなっていきます。伊勢神宮の建立から約一世紀半が経過した470年代、雄略天皇の御代に荒木田氏は内宮、渡会氏は外宮で棲み分けることになりましたが、渡会氏は尾張氏を通じて丹波のトヨウケビメを高天原のアマテラスと神々の食料を司る女神として外宮に勧請しました。

 

 

丹後の神々を祀る代表的な神社

ワクムスビを祀る神社

三柱(みはしら)神社 京都府京丹後市丹後町に11社など、丹後半島の各所に点在。

        ワクムスビに加えて二柱にウケモチかウカノミタマ、三柱にアメノコヤネ等を祀る。

 

トヨウケビメを祀る神社

元伊勢籠(こもり、この)神社 京都府宮津市字大垣)  

   トヨウケを主祭神としていたが、トヨウケの伊勢神宮への遷座以降は尾張氏系のアメノホアカリを祀る。

豊受大神社  (京都府福知山市大江町天田内) 元伊勢外宮と呼ばれる。

 

高天原の神々を祀る神社

皇大神社 (京都府福知山市大江町内宮) 

   アマテラス(天照皇大神)、アメノタヂカラヲ(天手力男)、タクハタチヂヒメ(栲幡千千姫。タカムスビの娘神、ホノニニギ

   の后神)。豊受大神社との対をなして元伊勢内宮と呼ばれる。

 

ヒコイマスを祀る神社

網野神社 (京丹後市網野町網野。ヒコイマスに加えて、水江浦嶋子、住吉大神を祀る)

丹波国造

  :初代の大倉岐は尾張国造と同祖・建稲種の四世孫。

 

 

 

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