6.サン・ブリュー大后の聖書八講と、カオルの第三王女思慕。侍女クロードと大后の対談
初夏に入り、睡蓮の花が盛りになった頃、サン・ブリュー大后は聖書の中の五巻を読む八講を行いました。ヒカルのため、紫上のためなど、故人を尊ぶために、聖書やキリスト像の供養をする厳めしく尊い法会となりました。五巻が講じられる日などは、見物する価値が充分にあるので、あちらこちらの侍女を手づるに使って拝見する人も多くいました。
五日目の朝の講座が終わって、礼拝堂の飾りが取り払われ、堂内の装飾を改めるために、北側の座敷などにも皆、人が入って元に戻そうとする騒ぎのために、西回廊の方に第三王女マルグリットが移っていました。侍女達も、日々の多くの講義に聞き疲れて、各々、自分の部屋で休んでいました。
マルグリット王女の側に仕えている侍女が少ない夕餉れ時に、カオル大将は上着を着換えて、今日退出する聖職者の一人にどうしても話しておきたい事があったので、池に臨んだバルコニーの方に行くと、聖職者たちは皆、退出していたので、池の方に行って涼んでいました。「人があまりいないが、この回廊の辺りで例のシモーヌなどが仕切りをして仮りの休憩場所にしているだろう。シモーヌもそこにいるだろうか。衣擦れの音がするから」と感じて、廊下の方の戸が細目に開いていたので、そっと覗いてみると、そうした侍女たちがいる、いつもの様子とは違って、晴れやかに整頓されていて、かえって仕切りの布を立ち違えてある隙間から、その先の室が見通されてはっきりと見えました。
氷を何かの蓋の上に置いて割ろうと騒いでいる三人ばかりの侍女と女童が見えました。美しい服や下服も着ないで、皆、くつろいだ姿をしていたので、マルグリット王女が近くにいるとは思えませんが、白く薄い服を着た人が手に氷を持っているのを、侍女たちが騒いでいる様子を、少し笑いながら見ている少女が大人に変わっていく顔が言いようもなく美しいのです。堪え難いほど暑い日だったので、ふさふさした髪を苦しく感じているのか、少し片方に寄せて靡かせている様子はたとえようもありません。
「これまでも美しい女性を数多く見て来たが、似たような女性はいなかった」とカオルは感じました。側で仕える侍女達がまるで土くれのような顔をしている印象を持ちます。それでも気を静めてよく見ていると、黄色い薄絹の上着と薄紫のスカートの侍女が扇を使っている仕草が気品があるようにふと見えて、「氷を割るのは中々扱い辛いものです。そのまま見るだけにされたら」と笑う目元に愛敬がありました。その声を聞いて、「あの意中のシモーヌだ」と分かりました。
侍女たちは強引に氷を割って、手に持ってみたり、頭に載せたり、胸に当てたりするなど、みっともないことをする人もいました。シモーヌは氷を紙に包んで王女に差し出すと、綺麗な手を差し出して拭かせました。「氷を持つのはもうしません。しずくが面倒なので」と言う声をほのかに聞いて、限りなく嬉しくなりました。
「まだ幼かった頃に、自分も無心に王女を見て、可愛らしい童女だと感じ入った。その後は絶えて王女の様子を拝見することはなかったが、どういった神がこうした折りに見せてくれたのだろうか。例のように『気を揉ませて、物思いをさせようとしているのではないか』と落ち着かず、マルグリットをずっと見守ってたたずんでいると、池のあちら側の北面で涼んでいた下級侍女が、「急いでいたので戸を閉めずに出て来てしまった」と思い出して、「誰かに見つけられたら騒ぎになってしまう」と慌てて廊下に入って来ました。
平服姿の男を見つけて、「誰なのだろう」と胸騒ぎがして、自分自身がカオルに見られていることは気付かずに近づいて来るので、カオルは立ち退いて、「顔を見られないようにしよう。覗き見は好色な男じみているから」と物陰に隠れました。この下級侍女は「とんでもないことになった。仕切り布すら奥が見通せるように立ててある。あの男は夕霧左大臣の息子なのだろう。やはり、不案内の人がここまで来ることはないし。このことが知られたら、『誰が戸を開けっ放しにしていたのだ』ときっとなってしまう。上着もズボンも薄地のものを着ているような姿だったから、誰も衣擦れに気付かなかったのだろう」と困惑していました。
「段々と修道士になろうと決めかけていたのに、一度ジュヌヴィエーヴに踏み違ってしまってから、様々に物思いをする人間になってしまった。その当時に修道士になっていたなら、今頃は深い山に住み着いて、こうやって心を乱すこともなかったのだが」などと心中は穏やかではありません。
「どうして長い間、第三王女を見てみたいとの思いを抱いていたのだろう。なまじっか苦しんだとしても、どうにもならないことなのだが」とカオルは思いました。
翌朝、ランブイエ城で起きたカオルは、ジョセフィンの容姿がとても美しく、「マルグリットがジョセフィンよりも必ずしも勝っているとは限らない」と見るものの、「やはり二人は似ていない。マルグリットは驚くほど気品が良く、言いようもなく美しかった。それとも気のせいか、時と場面のせいだったのか」と思いました。
「ひどく暑い。これよりももっと薄い服を着させなさい。女性というのはその折々につけて、いつもと違うものを着るのに風情がある。あちらに行って、ドミニクに薄物の服を縫って来るように言いなさい」と侍女に指示しました。ジョセフィンに仕える侍女達は「今が盛りのジョセフィン様の容姿をもっと引き立てようとされているのだろう」と興味深い思いでいました。
いつものように朝の祈祷をしようと、カオルは自室に戻りましたが、昼頃、ジョセフィンの部屋に行くと、指示した薄物の服が衝立に掛けられていました。「どうしてこれに着替えないのです。大勢の人が見ている時に、透き通った物を着ると俗っぽく思われてしまうが、今なら構いませんよ」と言って、自分で着させました。スカートは昨日と同じ紅色でした。髪が多く、垂れ下がった具合もマルグリットに劣ることはありませんが、やはり母親が違うせいか、二人は似てはいません。
カオルは氷を取り寄せて、侍女たちに割らせて、その一片を取ってジョセフィンに渡しましたが、風情があると心の内で感じていました。「恋しい人を絵に描いて眺める人がいないこともない。ましてジョセフィンをマルグリットの代りと考えてもおかしくはない」と思うものの、「こういった風に、昨日も侍女達に交じって、マルグリットの顔を満足が行くほど拝むことが出来ていたなら」と思うと、心にもなく溜息が出てしまいました。
「第三王女に手紙を差し上げたことがありますか」とジョセフィンに尋ねると、「王宮にいた時、安梨王がそう話されたので、差し上げたことはありますが、長い間、そんなことはしていません」と答えました。
「あなたが一般人に下ったからと言って、マルグリット様から便りがない、というのは心苦しいことです。今度、サン・ブリュー大后の前で、『あなたが第三王女のことを恨んでいる』と伝えましょう」と話しました。「どうして私が第三王女を恨んでいましょう。不愉快なことを」と答えるので、「一般人に下ったので、あなたを侮っているように思われるので、あなたも遠慮をしているのですと伝えるだけです」と返しました。
その日はジョセフィンと過ごして、翌朝、カオルは大后と面会しました。例のニオイ卿も同席していました。濃い黄赤色に染めた薄い下服を濃い目の上着の下に着ているのがとても感じよく、妹のマルグリットの姿にも劣らず、色白ですっきりとしていました。浮舟のせいなのか、さすがに前より思窶れしているのが、かえって見栄えがしました。マルグリットとよく似ていると見るにつけても、まずマルグリットのことが恋しくなりますが、「とてもあるまじきことだ」と心を静めるのは、あの日の前には知らなかった苦しみでした。
ニオイ卿は沢山の絵を持参していましたが、その中の幾つかを大后の侍女を取次役にして、マルグリットに渡しましたが、自分も妹の許に行きました。カオル大将も大后の側に寄って、聖書の八講が尊かったことや、ヒカルや紫上などの昔話を話しながら、ニオイ卿が残した絵を見て行くついでに、「私の許に嫁いだ第二王女ジョセフィンが雲の上から下って、一般人になったことに滅入っているのが気の毒になっています。第三王女から便りがないのは、自分が一般人の身分になったので、自分を見捨てたのではないかと思い込んで、納得が行かない様子をしています。時々はこうした絵を第二王女に見せて上げたらいかがなものでしょう。私が頂戴して持ち帰ったとしても、やはり張り合いがないでしょうから」と話しました。
「おかしなことです。どうしてマルグリットがジョセフィンを見捨てましょう。ジョセフィンが王宮にいた時は、部屋が近かったこともあって、マルグリットはジョセフィンを姉のように慕って、時々にしても手紙を交わし合っていました。離れ離れになってしまったので、やり取りが途絶えてしまったのでしょう。早速、手紙を出すように言い聞かせます。しかし、それよりどうしてジョセフィンは手紙を送るのを遠慮しているのでしょうか」と答えました。
「そんなことがどうして出来ましょう。第三王女が元から心にかけていなかったとしても、私が大后の子供さんたちと親しくさせてもらっている縁も念頭に入れてくれて、第三王女がジョセフィンも数の中に入れてくれたら嬉しいことです。まして以前は親しくされていたのに、今になって見捨ててしまうのは辛いことです」とカオルは話しますが、サン・ブリュー大后は「カオルがマルグリットに好意を抱いている」とは思いにも寄りませんでした。
「大后の間を出て、あの夜に心にかかったシモーヌに逢ってみよう。マルグリットを見掛けた渡り廊下も慰めになるだろう」とカオルは思ったので、大后の前から西の方に向かうと、内カーテンの中にいる侍女達はカオルに格別な気配りを見せています。確かにカオルの容姿は見事で、物腰も立派でした。
渡り廊下の先には夕霧左大臣の息子達がいて、何かを言い合っている気配がするので、戸口の前で立ち止まりました。「王宮には普通に出入りしているが、若い人たちがいる場所に入るのは難しくなって、思いもなく年寄りじみた気分になってしまう。これからはもっと若者らしくしようと決心をしても、若い人は『似合っていない』と感じることだろう」と甥達の方を見やりました。
そうしたカオルの様子を見て、「これから先、若い人たちに馴染むようにされたら、本当に若返ることでしょう」などと他愛のないことを話す侍女達の気配も何となく優雅で風情のある様子でした。シモーヌの部屋に入ったカオルは、これということもなく、世間話をしながら、いつもより、しんみりとしていました。
第三王女は大后の間に行きました。「カオル大将がそちらの方に向かったようですが」と大后が問うと、お供で付き添っていた侍女クロードが「カオル様はシモーヌと話をしたいようでした」と答えました。
「あの真面目な人が。とは言っても、その女性を気に入って話し相手にしようとしても、利発でもない女性だと困ってしまうことだろう。心の内を見透かされてしまうので。シモーヌでしたら、心配はありませんね」と大后は返しましたが、カオルとは姉弟の関係なので、カオルの挙動を観察されているのは恥ずかしく、「侍女達もその気はないような応対をして欲しい」と思いました。
「カオル様は他の侍女達よりもシモーヌに思いを寄せていて、シモーヌの部屋に立ち寄っているようです。シモーヌと細やかに話をされて、夜が更けてから部屋を出て行く折々もありますが、恋愛関係はないようです。むしろシモーヌはニオイ卿を『とても浮気っぽい人だ』と感じていて、返信すらしないようです。もったいないことですね」とクロードが言って笑いました。大后も笑ってしまって、「シモーヌがニオイ卿の見苦しい部分を承知しているのは面白いですね。ニオイ卿のそうした悪癖をどうしたら止めさせたらよいのでしょう。ここにいる皆もそう思っていることでしょう」と話しました。
「そういえば、不思議な話を聞きました。カオル大将が亡くしてしまった人は、ヴァンセンヌ邸のマドレーヌ様の妹ということです。腹違いの姉妹なのでしょう。ピュイ・ド・ドームの何とか言う前知事の夫人がその人の叔母とも母とも言われているのは、どういうことでしょうか。大将の愛人であるその女君のところに、ニオイ卿が大層忍んで通い出したということです。それを大将が聞きつけて、急に『コンフランから都に迎え入れよう』と言って、警護人に厳重な見張りをさせるようになったので、ニオイ卿はとても忍び足でコンフランへ行ったものの、みっともない有様で馬に乗ったまま立ち往生した後、パリに帰って行かれました。その女君もニオイ卿を思い慕っていたのでしょうか、突然、消え失せてしまいました。乳母のような人たちが『身を投げたのでしょう』と泣き騒いでいたとのことです」とクロードが話しました。
「とても浅ましい話しだ」と思った大后は、「誰がそんなことを言っているのです。そんなに珍しい出来事だったら、自然と世間の噂になるでしょうに。大将はそうしたことは言わずに、世の中のはかなさが堪え難いこと、またコンフランの第八卿の一族が短命であることを『非常に悲しいことだ』といった思いを話していましたが」と話しました。
「さあ、どうでしょうか。下人は確かでもないことでも言ったりするものだ、との思いはしましたが、コンフランで仕えていた下級の童女がつい最近、シモーヌの実家にやって来て、確かなことのように話した、ということです。『こういった奇妙に亡くなってしまったことは世間に知らせまい。気味が悪く、恐ろしい話だから』ということで、コンフランの人たちはひどく隠していた、ということです。そういうわけで、カオル大将には詳しくは話さなかったのでしょう」とクロードが説明しました。
「そういうことを決して二度としゃべってはならないと、シモーヌからその女童に言わせなさい。こうした方面のことでニオイ卿は台無しになってしまうし、人からも軽薄で好感が持てないと言われてしまうので」と大后は心配しました。
その後、マルグリットからジョセフィン宛てに手紙がありました。書きぶりが大層美しいのを見てカオルはとても嬉しく、「もっと早くからこういった第三王女の筆跡を見るべきだった」と思ったりしました。大后からも多くの興味深い絵などをジョセフィンに贈って来ました。
その返礼として、カオルはより勝った面白い絵を取り集めて、マルグリットに贈りました。流行りの物語で、某大将の息子が第一王女に思いをかけて、秋の夕暮に思い余って逢いに出て行く光景を面白く描いているのが、自分自身の心持ちがよく表現されていると感じていました。「とは言うものの、自分にも思い靡いてくれる人がいてくれたなら」と我が身が口惜しくなりました。実際には、マルグリットは幼い頃、メアリー・スチュアートのところに遊びに行って出逢った、真木柱の息子ロベールが初恋の人で、今でも手紙をやり取りしている仲なのですが、カオルがそれを知っている由もありません。
(歌)荻(Miscanthus)の葉に 露を結ばせる秋風も わけても夕暮れ時は身に染みてしまう
と書いて、絵の脇に書き添えたくなる思いがしますが、そんな露のようなごくわずかな気配でも涙で濡らしてしまうと、ひどく面倒になる世の中なので、ちょっとしたこともほのめかすことは出来ず、様々に何やかやと物思いをしてしまいます。
その果てに「ジュヌヴィエーヴが生きていてくれたなら、いかなることがあっても、別の女性に心を惹かれることはなかった。時の王さまが王女を賜ると言っても、頂戴することはなかった。逆に自分に思いをかけている人がいると、王様が耳にしたら、ジョセフィンを賜ることもなかっただろう。やはり、何かにつけて私の心を乱れさせたのは橋姫ジュヌヴィエーヴだった」と思いをはせて行くうちに、今度は心はマドレーヌに飛んで行って、恋しくも辛くも堪え難く、愚かしいまで悔しくなります。
二人のことで思い悩んだ次には、浅ましい死に方をした浮舟はとても思慮が浅く、ためらいもない軽々しさをしていたと恨みはするものの、さすがに煩悶し尽くしていたことや、こちらの態度がいつもと違っていると責め悩まされて、悲しみに沈んでいった様子をジゼルから聞いたことも思い出しつつ、「正式の妻としてではなく、ただ気安く、あどけない話し相手であってくれたら」との思いから見ると、浮舟はとても愛らしい人だったことを考えて行くうちに、ニオイ卿に不快の念を持つこともない、浮舟を恨むこともない。ただ自分の世間知らずの怠慢のせいだった」などと考えてしまう時が多くありました。