第二王朝の誕生  「謎の四世紀解読」 第三篇   

   

〔1〕タラシナカツヒコ(足仲彦)の筑紫遠征

 

1.タラシナカツヒコの少年時代

 

  タラシナカツヒコ(足仲彦。仲哀天皇)は父ヲウス(小碓。ヤマトタケル)、母両道入姫(ふたぢのいりひめ)の次男として誕生しました。父は第12代オシロワケ王(大足彦忍代別。景行天皇)の王子、母は第11代イクメ王(活目入彦五十狭茅。垂仁天皇)の王女ですから、血筋としては十二分に王位を継げる毛並みの良さを持っていました。

 長男の稲依別(いなよりわけ)は頭の方が利発とは言えず、幼少の頃から素行が悪く反抗的でしたので両親はもてあまし、 長じるとぐうたらと評判が悪い尾張五兄弟と親密な仲となってしまいましたので、 重臣たちの間でも評判が悪く、王位継承者としては落第の烙印を押されていました。順位的には兄の稲依別に継ぐ位置にいるタラシナカツヒコは兄より知性が秀で、大柄の容姿が父ヲウスにそっくりなので、ヲウスの後継ぎとして将来を嘱望され、幼い頃から周囲の期待を一身に集めていました。

 

 成人と見なされる満14歳が近づいた頃、父ヲウスが不慮の死を遂げ、それをはかなんだヲウスの実母、播磨稲日大郎姫(いなびのいらつめ)が故郷の播磨に引っ込みました。タラシナカツヒコは祖母の付添いとして播磨の加古川に入り、祖母の妹、稲日稚郎姫(わかいらつめ)がオシロワケ王との間にもうけた彦人大兄(ひこひとのおおえ)の娘、大中津日売と知り合って后としました。

 稲日大郎姫の死をとむらった後、大中津日売を連れて都に戻ったタラシナカツヒコは、白鳥と化して天に上った父と祖母を鎮魂する意図で、ヲウスの御陵の濠に白鳥を放つことを思い立ちました。

 その趣旨に応じた越国が白鳥を献じ、白鳥を運ぶ越の使人が宇治川の辺に宿った時、タラシナカツヒコの腹違いの弟にあたる蘆髪蒲見別(あしかみのかまみわけ。足鏡別)が「白鳥と云えども、焼けば黒鳥になるだろうが」と言い放って強引に白鳥を奪って持ち去りました。越の使者から報告を受けたタラシナカツヒコは直ちに兵卒を遣わして蒲見別を誅しました。オシロワケ王の統治に苦りきっていた刷新派の面々は「さすがにヲウスさまの王子だけのことがある」と感銘して、次代の王に立脚すべく行動を開始しました。

 

 しかしタラシナカツヒコは外見とは違って臆病な上、剣術も弓矢も不器用で戦ごとも嫌いでしたので、武勇に長けていた父といつも比較されるのが重荷でした。蘆髪蒲見別の白鳥事件でタラシナカツヒコは英雄に祭り上げられてしまいましたが、自分にとってはたまたまの出来事で、蒲見別を誅したのも自分ではなく配下の兵士でしたので、刷新派や世間の期待を集めるようになってしまったことが思歯がゆく、有難迷惑の話でした。

 一歳年長のまたいとこの大中津日売との仲は平穏無事で、カゴサカ(香坂)に次いで二番目の王子オシクマ(忍熊)も誕生し、外側から見ると満ち足りた幸せな毎日のようでした。しかしタラシナカツヒコは平凡で常識的すぎる性格の大中津日売に飽き足らず、何故なのかと分からぬまま新鮮な刺激に憧れていました。親オシロワケ王派と和邇氏大口納を筆頭とする刷新派の対立と緊張は深まっていくばかりでしたが、その政争の渦中に巻き込まれてしまうことを嫌い、都から抜け出したい願望を抱きながら、退屈な毎日を送っていました。

 

 

2.第二后と筑紫遠征の王令 

 

 そんな折り、北葛城地方に住む、若く溌剌としたオキナガタラシヒメ(息長帯日売)と出会いました。オキナガタラシヒメの父はヒコイマス(日子坐)の曾孫で、近江の米原に拠点を置く息長宿禰でした。母は大和盆地の湿地開発で徴発された但馬氏出自の葛城高額比売でした。父は朝鮮半島の辰韓地方から来訪したアメノヒホコ(天日矛)の五代目にあたる但馬比多訶、母は但馬比多訶の兄で但馬国の本家を継いだ清彦の娘、管竈由良度美でした。

 オキナガタラシヒメは身分的には大中津日売より一段低くなりますが、4歳ほど年下で、播磨や吉備の瀬戸内海では見られない色合いの衣裳や髪飾りを身につけている山陰系の女性で、さらに母親が異国からやって来た家系であることが新鮮でした。

 

 オシロワケ王が東国から伊勢に戻った後、王位をめぐる刷新派とのごたごたが続き、親オシロワケ王派と刷新派の緊張の糸が今にもはじけてしまいそうな状勢でしたので、第二の后に迎えたオキナガタラシヒメと縁が深い日本海への蜜月旅行は喧騒な都を逃れる恰好の口実となりました。

 敦賀の笥飯(けひ)宮に落ち着いた翌月、タラシナカツヒコはオキナガタラシヒメを敦賀に残して、淡路島に造られた自分自身の屯倉(淡路屯倉)の落成式に出掛けました。従ったのは二、三の卿大夫および兵卒百人ほどでしたが、淡路島に向う難波の港で官人数百人が合流して盛大な披露宴となりました。

 

 滞りなく落成式を終えた後、紀伊半島を周遊して伊勢のヤマトヒメに挨拶してから、敦賀に戻る予定で、対岸の紀伊国に渡り徳勒津(ところつ)宮に落ち着いた翌日、オシロワケ王の急使から、筑紫行きの命令を受け、茫然としました。

「父ヲウシの後継ぎとして熊襲を退治をせよ、ということだろうが、あまりに急すぎる話だ」と愚痴をこぼしはしますが、王の命令には従わざるをえません。都合がよいことに、難波から帯同していた摂津海人の船団が停泊中でした。

「敦賀にいるオキナガタラシヒメへ『長門(穴門)の豊浦津で落ち合おう』と伝えてくれ」と伝言を残して、 兵士は百人と共に船に乗り込みました。

 

 鳴門海峡を越え小豆島を過ぎ吉備の穴海に到着して、ようやく一息をついたタラシナカツヒコは早々に吉備建彦に面会します。

「貴殿を見ると、あなたの父ヲウスさまを思い出します」と吉備建彦は上機嫌で出迎えました。

  ヲウスの話をしてタラシナカツヒコを勇気付けようとするのでしょうか、あるいはなつかしさがこみ上げたからなのか、駿河の焼津であやうく死にかけた話や東国での逸話など、深夜まで話がつきませんが、「また父の話か」とうんざりしてしまいます。

 吉備建彦は熊襲退治に向けて、二百人の兵士をつけて息子の鴨別(かもわけ)を同道させましたので、軍勢は百人から三百人に膨らみました。穏やかな瀬戸内海の島々を抜けながら、船団は九州島が眼前に浮かび上がる豊浦津に到着しました。

「関門海峡を渡って筑紫入りしてから南下して、熊襲を退治する。目的を達成して都に戻るのは1年後のこととなるだろう」。

 上陸すると予期もしなかった報告を受けました。

「ただ今、筑紫国内は大混乱となっており、とても筑紫入りができる状況ではありません。しばらくは、当地でご逗留をお願いいたします」。

 

 

3.朝鮮半島の斯盧(シラ、シロ。新羅)の台頭と筑紫   

 

 筑紫の混乱は都の官人が予想していたより深刻でした。筑紫国は国造の阿倍氏が治めていましたが、東部九州勢力と有明海沿岸の西部九州勢力の抗争が激化して、国造では制御不能の状態に陥っていました。

 その背景には朝鮮半島南部の三韓地方の変化と斯盧(シラ、シロ。新羅)国の台頭がありました。

 半島が中国と倭国を結ぶ中継地点としての重要度を高めたのは、秦の始皇帝(治世紀元前221~前210年)の死後から秦の滅亡と前漢成立(前202年)に至るまでの中国の混乱期に、中国東北部から大量の難民や亡命者が半島に流れ込んできたことに始まります。半島北部では前194年に亡命者として入った衛満の謀略により衛氏朝鮮が誕生しますが、半島南部の三韓地方にも亡命者や難民が定住しました。

 

 前109~前108年に前漢の武帝が衛氏朝鮮を討伐して半島北西部に楽浪郡、北部に玄菟郡、北東部に臨屯郡、南部に真番郡の四郡を設置して半島を植民地化しました。三韓地域を統括する真番郡は前82年に廃止されますが、中国からの亡命者や難民の子孫が打ち立てた辰国が真番郡の役割を代行していきます。

 三漢地方は西部は馬韓、南部は弁韓、東部は辰韓に分離していきますが、半島南部の鉄鉱山に近い辰韓の斯盧(シラ、シロ。新羅)国が東海岸側の鉄産業の中心地となり、倭国の海賊や海人が鉄鋋(てつてい。鉄の延べ板)や武具・農機具の鉄製品を狙って、襲撃することが度々ありました。斯盧にとっては倭人が目の上のたんこぶのような、迷惑千万な存在となりました。

 

 三韓地方は次第に都市国家が分立していきます。馬韓は50余国、弁韓と辰韓では12国が誕生しましたが、辰国は三韓の象徴的な盟主として存続していきます。三韓に誕生した主要国は楽浪郡だけでなく、後漢の都がある洛陽にまで遣使を送り、後漢の冊封体制に入るようになりましたが、筑紫の奴国や伊都国もその流れを受けて後漢に朝貢するようになりました。

 辰韓地方の斯盧国では倭国の丹波地方から流れ着いた脱解が国王の娘婿となり、57年~87年の約30年間、第四代王として統治しました。脱解王(尼師金)は故郷との交易に力を注ぎ、その窓口となった丹後王国は飛躍していきます。斯盧国は脱解尼師金の死後も丹後王国とは良好な関係を維持していきますが、倭国の海賊や出雲王国、さらに筑紫の伊都国や奴国を支配下に置いて倭国の盟主となった吉備邪馬台国の手先が鉄製品を求めて、しばしば斯盧国を攻撃します。倭国からの度重なる侵攻は斯盧国の伸張を妨げましたが、辰韓12カ国、ことに半島の東岸地域の均衡を保つことにもつながりました。

 

 奇妙なことに250年代から280年代にかけて倭国の侵攻は空白となりました。その理由は247年に吉備邪馬台国の女王ヒミコ(卑弥呼)が他界しトヨ(台与)の時代に入って、大和国が吉備攻撃を強めて、倭国の盟主が吉備邪馬台国から大和国へ移行する交代期となったためでした。斯盧国の第12代沾解王(尼師金。治世247261年)と第13代味雛王(尼師金。治世262284年)はこの空白の間に勢いを伸張させて、周辺諸国を呑み込んでいきます。斯盧国に呑み込まれた周辺諸国の王族・貴族の一部は倭国に亡命して、日本海側の但馬地方に集まり、アメノヒホコ(天日矛)を代表とする但馬国が形成されていきます。

 再び倭国からの侵攻が再開したのは大和国が吉備邪馬台国圏を制覇して倭国の新たな盟主の座を確定させた頃からです。大和国は富士山以東の東国も支配下に納め、最後まで独立を保っていた出雲王国の制圧も間近でした。筑紫国造となった阿倍氏タケヌナカハワケ(建沼河別)と息子の大屋田子が287年から300年頃まで散発的に新羅攻撃を繰り返しましたが、300年に和平交渉が成立します。

 

 310年代に入ると、後漢と魏を受け継いだ西晋の衰微により、満州系の遊牧騎馬民族に属する高句麗と扶余族が半島への南下を進め、313年に楽浪郡、314年に帯方郡が消滅しました。これにより中国―楽浪郡―帯方郡―加羅(伽邪)の半島西部と筑紫の伊都国と奴国を結ぶ交易ルートが衰弱し、辰韓地方がある半島東部の交易ルートが浮上して斯盧(新羅)勢力が伸張していき、友好政策に切り替えた倭国との交易も隆盛しました。

 オシロワケ王の治世となった330年代から大和朝廷は九州南部の熊襲の制覇を試みますが、これに抵抗する熊襲地方、ことに熊(球磨)地方の主要部族が鉄製武器を大量に求めたことから肥前・肥後を経由した有明海ルートで斯盧(新羅)との密貿易が盛んになっていきます。これを阻止するべく、筑紫国は345年に斯盧(新羅)との国交を断絶します。ところが西部勢力は阿倍氏大屋田子の息子で国造を継いだ田道に賄賂攻勢をかけて、新羅との密貿易を暗黙に容認させ、宗像氏も阿倍氏側につきました。これに対抗する親加羅(伽邪)の伝統勢力は伊都縣主や岡縣主が主体となり、志賀島の安曇族も組みしました。二派の拮抗は激烈となり内乱の様相となって、よそ者はしばらく筑紫に踏み入れることができなくなっていました。

 

 

4.オキナガタラシヒメの長府到着

 タラシナカツヒコの急使から長府行きの指示を受けたオキナガタラシヒメは、敦賀の港から出雲に戻る、出港寸前の船に飛び乗ることができ、日本海航路で長府に向かいました。船の乗組員はオオクニヌシ(大国主)の子神コトシロヌシ(事代主)を信奉する島根半島の美保の海人でした。

 若狭湾の渟田門(ぬたのみなと)に到着して船上で食していると、鯛の群れが物珍しげに船の傍に寄って来ました。オキナガタラシヒメが酒を鯛に注いでみると、酒に酔った鯛が浮んできました。鯛を大量に獲た海人は「オキナガタラシヒメが賜わった魚である」と喜びます。これが縁(きっかけ)となって、渟田門の魚は六月になると、決まって酒に酔ったように傾浮(あきと)してきます。

 丹後半島の港に着くと、オキナガタラシヒメの父である息長宿禰の母、高材比売が丹後王国の末裔である遠津臣の娘であることから、思わぬ歓迎を受けました。但馬の港に入ると歓迎の波がさらに高まりました。母の葛城高額比売は父がアメノヒホコ(天日矛)の五代目にあたる但馬比多訶、母が但馬比多訶の兄で但馬国の本家を継いだ清彦の娘、管竈由良度美でしたから、オキナガタラシヒメは但馬氏から出自して大倭国の王子の后となった初めての事例は、但馬の人々にとっては誇りでした。オキナガタラシヒメが但馬を訪れたのは初めてでしたが、幼い頃から母や叔父たちから、但馬氏の祖アメノヒホコ伝承や辰韓12か国復興の願いを聞いて育ちましたから、自分の故郷に戻ったような親しみを感じました。

 

 辰韓諸国からの亡命者たちが但馬に定住してから約1世紀が経ち、五~六代目の世代に入っていましたが、「辰韓諸国12カ国の復興」の願いは信仰と言えるほど強い執念となって脈打っていました。

「斯盧による辰韓統一が間近に迫ってきたようです。斯盧は弁韓の加羅(伽邪)諸国も狙っているだけでなく、西部九州勢力と結託して倭国への侵攻も画策している、と聞いております。筑紫入りされたら、まず斯盧と西部九州勢力を結ぶ糸を断ち切って下さい。続いて斯盧を叩いて、辰韓12か国の再興をされてください。私どもも出来る限りの支援をいたします」との懇願をオキナガタラシヒメは痛いほど理解できました。

 

 島根半島の美保に着いて長門行きの船に乗り換えた後、関門海峡に入りました。船乗りの誘いで門司の沖合いで和布(わかめ)刈りを試みました。和布をすくい上げると和布の中から如意珠が出現しました。

「この珠は安曇磯良神が潮干珠、潮満珠の法に使われる珠に違いありません。この珠を携えていると願い事が叶います」と船頭が如意珠をオキナガタラシヒメに手渡しました。

「願い事は、但馬の人たちが待望する辰韓12か国の復活とすることにしよう」。

 豊浦津に着いて四か月ぶりにタラシナカツヒコと再会しました。ところが開口一番で「蜜月の続きで、道後の温泉に行こう」と言われて面食らってしまいました。「筑紫を拠点に、辰韓12か国の復活を、と意気込んで到着したのに、この人はこの大事な時に、いったい、何を考えているのだろう」とオキナガタラシヒメは拍子抜けしてしまいました。

 

 

〔2〕近江朝廷

 

1.武内宿禰対尾張氏・阿倍氏

 

 12代オシロワケ王(大足彦忍代別。景行天皇)が崩御した後、第13代王としてワカタラシヒコ(若帯日子。成務天皇)の治世が始まりました。王宮は前王と同じ近江国志賀の高穴穂宮でしたが、真っ先に母の八坂入媛を皇太后に立てましたので、八坂入媛が出自した大和尾張氏は「自分たちの時代が到来した」と大満悦でした。

 しかしワカタラシヒコ王は、オシロワケ王がワカタラシヒコの片腕、補佐役として大抜擢し、二人の生年月日が同じこともあって気持ちが通じ合う武内宿禰に筆頭大臣の座を与えましたので、大和尾張氏は期待はずれになってしまいました。

 

 ワカタラシヒコ王と武内宿禰の二人三脚の最初の仕事はオシロワケ王を、自身の在世中に大和の中心部である纒向を見下ろす渋谷向山に築造した巨大な前方後円墳に埋葬することでした。皇太后はオシロワケ王の本葬をせっつきますが、ワカタラシヒコが大和に復帰することはまだ不可能な状況でしたので、武内宿禰は都を押さえる刷新派との交渉に手間取りました。ようやく没後、丸2年が経過して、山辺道上陵に葬ることができましたが、当然なことに刷新派は埋葬式には参列せず、近江朝廷側も武内宿禰や皇太后の八坂入媛など限られた者しか参列できませんでした。 ワカタラシヒコ王も参列を望みましたが周囲が止めたため、第12代から第13代王への引継ぎ儀式も履行されず、人影がまばらな寂しい埋葬式となりました。

 喘息の持病持ちで脆弱なワカタラシヒコ王は父王と正反対で、性には淡白でした。迎えた后は一人で、他に后・愛人を持つ気持はありませんでした。ワカタラシヒコ王は趣味人でしたが、政治には関心が薄く、行政は武内にまかせっきりとなりました。唯一の后である弟財郎女(おとたからのいらつめ)の父は穂積臣の建忍山垂根(たけおしやまたるね)で、外戚として勢力を強める好機でしたが、筆頭大臣の武内宿禰を押しのけるほどの実力を持ちあわせてはいませんでした。

 

 尾張氏は前王時代よりも立場を強めはしましたが、倭得玉彦の五人息子である弟彦、玉勝山代根古、若都保、置部与曽、彦与曽は口は達者なものの、態度が横柄なことから評判が悪く、五人兄弟の中から周囲がこれぞと認める、抜きん出た人物も不在でした。父の倭得玉彦は尾張国造家と丹波国造家を陣営につけようと何度も試みますが、不発に終っています。尾張国造家の建稲種は、何事もまず伊勢のヤマトヒメ(倭姫)に相談することにしていますが、ヤマトヒメは近江王朝だけでなく、大和尾張家に批判的でした。丹波国造家の彦和志理は尾張国造に追従するのを常としていました。

 孝元天皇の王子オオビコ(大彦)から始まる阿倍氏はオオビコの息子タケヌナカハワケ(建沼河別)の孫、雷別が総領となっていました。一族は本家に加えて、那須国造家、筑紫国造家、膳(かしわで)氏、軍事系の難波氏に分派していましたが、那須国造の大臣(おおおみ)と筑紫国造の田道の失態により一族の勢いは地盤沈下していました。

 

 大和尾張氏と阿倍氏が結束すれば、武内宿禰を追い出すことができる一大勢力となることが可能でしたが、共に一族をまとめきることができなかったこともあり、武内宿禰を追い詰めるまでには至りません。そうした尾張氏と阿倍氏のふがいなさを横目で見ながら、永らく尾張氏の下で甘んじてきた物部氏の総領の胆咋(いくひ)は近江朝廷の一員に加わりながらも、本格的な物部氏復権の機会到来を待っていました。

 

 

2.国と縣の境と国造・縣主

 

 オシロワケ王の本葬を終えた後、ワカタラシヒコ王と武内宿禰はオシロワケ王時代から持ち越され、近江朝廷派も刷新派も含めて誰もが注目している、国・縣の明確化に手をつけました。国造・縣主の整理編纂事業は前王が八十人を越える王子・王女に各国の長に割り振っていく意図がきっかけとなりましたが、刷新派や地方の豪族たちから反発を招いて、オシロワケ王の治世晩年の政情不安と近江遷都を引き起こした主因となりましたので、触れるのが微妙な問題でした。

 まずそれまで曖昧となっていた国と縣、郡の堺を山と河を基点に特定し、境に楯・矛を置いて表(しるし)とすることを発令しました。東西を日縦とし、南北を日横としました。山の陽を影面、山の陰を背面に区分しました。

 

 国・縣の境の特定には、批判めいた声は上がりませんでしたが、続いて大国小国の国造、大縣・小縣の縣主、郡邑の稲置の特定となると、紛糾の声が飛び交いました。

 衆目が唖然としたことは、オシロワケ王の意向にそって王族の子女を中心に国・縣の首長を割り振って再編成することを回避し、国造も縣主もほぼ従来どおりのままに留める、という内容でした。王族の子女を主体とした再編成は地方豪族の猛反発をもたらして国内が政情不安の混乱に陥り、朝廷の権限が弱体化する、と武内宿禰が判断し、ワカタラシヒコ王も承認したからです。

 真っ先に異を唱えたのはワカタラシヒコ王の異腹の兄弟姉妹である王子・王女と母后たちでした。先頭に立ったのは、讃岐の国造となった五十河媛の王子である神櫛、日向の国造となった御刀媛(みはかしひめ)の王子である豊国別への対抗心を抱いて伊予国造の座を狙っていた、阿倍氏出自の高田媛と王子の武国凝別(たけくにこりわけ)でした。近江への遷都の後、オシロワケ王の唯一の楽しみとなった、自分の子女たちを国造・縣主に割り振っていく作業を内々に察知していた后の髪長大田根と襲武媛や庶后たちも目算がはずれしまったことから、一斉に反撃しました。王子や王女が国造か縣主となったあかつきには、おこぼれに預かることを期待していた中小の氏族も反発の輪に加わりました。

 

 自分たちに有利な割り当てを目論んでいた尾張氏と阿倍氏や配下の家臣たちは、尾張五兄弟が音頭とりとなって王子・王女たちや取り巻きを取り込んで、しきりに武内宿禰を攻撃します。 

 苦境に追い込まれた武内宿禰は孤立感を強めました。武内の弱みは身分が劣っていることでした。武内の祖父である彦太忍男武雄は第8代クニクル王(大倭根子日子国玖琉。孝元天皇)と伊香色許売(いかがしこめ)の王子でしたから、武内も皇別氏族の枠内に入りますが、父の屋主忍男武雄心(やぬしおしをたけをごころ)の后となり、武内を産んだ影姫は紀国造・宇豆比古の娘でしたから、身分的には一段下に見なされています。武内の腹違いの弟、甘美内(うましうち。味師内)宿禰は、母の葛城高千那毘売が尾張連等の祖である意富那毘の妹で、尾張氏の出自でしたから、尾張氏に接近していて頼りにはなりません。

 

 武内宿禰のとっておきの武器は情報収集能力でした。敵にスパイを送り込んで内情をつかんだ後、敵の裏をかいて意表をつく戦略です。この手法は東国辺境地を視察した際に、父から学んだものでした。兵力に負担をかけずに敵側を欺くことができます。手下を行商人や下人に変装させて、近江派の阿倍氏と尾張側、刷新派の和邇氏側の双方の情報をつかんでいきます。

 次第に武内は、一つにまとめきれていない近江派よりも、吉備氏に加えて豊城入彦一族やアマツヒコネ(天津彦根)族・アメノユツヒコ(天湯津彦)族など地方の有力豪族も束ねている刷新派の方が、天秤で計ってみると実力的に秀でていることに気付きました。刷新派の代表格である和邇氏大口納と秘かに接近し、妥協策の交渉を始めました。

 

 

3.タラシナカヒコを皇太子に

 

 近江朝にとっての悩みはワカタラシヒコ王に子供が中々誕生しないことでした。唯一の后である弟財郎女(おとたからのいらつめ)との間に、待望の王子、和訶奴気(わかぬけ)が誕生したものの、早世してしまい、ぬか喜びに終ってしまいました。以後は後継ぎ誕生の兆候がありません。

 誰もがワカタラシヒコ王の同腹の弟、五百木入彦を皇太子に立脚させようと急ぎます。ところが五百木入彦は、乎止与を継いで尾張国造となった宮簀媛の兄、建稲種の娘である志理都紀斗賣(しりつきひめ)の入り婿となって、誕生した息子のホンダマワカ(品田真若)を囲んで平穏無事な毎日を満喫していましたので、政争の火中に飛び込むことを拒みました。

 

 ワカタラシヒコ王の優柔不断さに我慢できずに、実母の八坂入媛が幾度も説得を試みてきましたので、五百木入彦は改めて伊勢のヤマトヒメに相談します。近江派にも刷新派にも接触できるヤマトヒメは中立の立場を貫いていましたが、近江派の大和尾張氏を毛嫌いしていました。加えて、ワカタラシヒコは王としては無能で、側近の武内宿禰は油断ができない策士ととらえていました。徐々に近江派と刷新派の双方を鎮めるためには、刷新派が求めるようにタラシナカツヒコ(足仲彦。仲哀天皇)を皇太子に据えること、との結論に至っていました。ヤマトヒメの意見に同意した五百木入彦は近江朝廷からの皇太子の座の申し入れをきっぱりと断わりました。

 それを聞きつけた刷新側は、タラシナカツヒコ擁立の動きを急ぎます。これに対抗して近江側の尾張氏と阿倍氏はタラシナカツヒコの兄、稲依別(いなよりわけ)を皇太子に担ぎ上げる意向を強めました。美濃に定着して、守君、大田君、島田君の祖となるオオウス(大碓)の一族も王位継承を主張しだし始めましたので、混乱の度が深まっていきます。

 

 近江派と刷新派の両派にはさまれ、オオウス一族まで口を挟んできたことから、武内宿禰は打開策を急ぎます。まず近江側の中小氏族を「刷新派を静めるためにはタラシナカツヒコを皇太子に立てるしか手立てはない」と説得して近江王宮内の空気を固めた後、尾張氏と阿倍氏をしぶしぶ納得させました。

「タラシナカツヒコさまをお連れ戻すために、私自身が筑紫に出向きます」と武内宿禰は近江の志賀を発ちました。

 

 

4.武内宿禰と物部氏の寝返り

 

 武内宿禰は、近江から難波の港に直行せずに秘密裏に大和へ入り、かねてから折衝を重ねてきた和邇氏大口納と密会しました。

「私はすでに尾張氏と阿倍氏が跋扈する近江王朝には見切りをつけました。タラシナカツヒコさまを都にお連れ戻した後は、和邇氏と意富氏、それに私の主導の下で近江朝を倒して、タラシナカツヒコを新王に担ぎ上げる覚悟を固めました」と切り出しました。

 

「この男を心底、信用して良いものかどうか」。

 大口納はいぶかりながら、武内の話に聞き入りましたが、熱がこもった武内の話を信じるように傾いていき、夜がふける頃には、タラシナカツヒコの上京の折りには、和邇氏が都の防衛を担うことを約束しました。

「それに向けて吉備氏・中臣系を味方につけておくことが肝心です。筑紫に出向く途中で、是非とも吉備建彦に会われ、味方に引き入れなさい。筑紫への同伴者として、中臣氏巨狭山の息子、烏賊津(いかつ。雷大臣)連と大友主の孫 の大三輪君と軍事に長けた大伴武似(たけもつ)連の三人をつけましょう」。

 

 すると、和邇氏と武内宿禰が密会している屋敷をどうやって嗅ぎつけたのか、物部氏胆咋(いくひ)連が秘かに訪れてきました。

「どうやって、ここの居場所を知ったのか」。

「非礼を承知の上で、配下の密偵に武内殿の後をつけさせました。私も筑紫へ同道いたします」との胆咋の言葉に、大口納と武内は驚愕します。

「しかし、お主は近江派、ことに尾張氏に忠節であるはずであろうに」

「確かに物部氏は永年、尾張氏の下に置かれておりました。しかし尾張氏の束縛から抜け出したい気持ちを以前から抱いておりましたし、近江朝の前途に見切りをつけました」。

 

 物部氏の母体は初代王イワレビコ(伊波禮毘古)王に恭順した登美(とみ)国です。イワレビコ王が大和葛国を建国した後も登美国は生駒山をはさんだ大和西北部と河内を地盤に存続していましたが、東海三国の制覇を通じて兵力と富で抜け出した大和葛国が第六代クニオシビト王(国押人。孝安天皇)の御世に大和盆地全域を飲み込んだことから登美国は消滅し、河内地方では物部氏に代ってアマツヒコネ族が支配するようになりました。物部氏の一部は尾張国に徴発され、三河地方攻略の尖兵役となり、尾張氏の丹波攻略に際しても尾張軍の下で活躍しましたが、以来、物部氏は常に尾張氏の下に甘んじていました。

 状況が変わったのは、第十代ミマキ王(御真木入日子印恵。崇神天皇)の時代に入ってタケハニヤスビコ(武埴安彦)の反乱に連座してアマツヒコネ族が中央勢力の座を失ったことから、大和盆地西北部の地盤を取り戻したことでした。物部氏は急速に中央での権限を高め、第十一代イクメ王(伊玖米入日子伊沙知。垂仁天皇)の時代には五大夫の一角を担うほどになりました。しかしいまだに尾張氏との上下関係は崩せないままでした。

 

 十市根の息子 、物部胆咋連はオシロワケ王の時代を生き抜きましたが、高齢となって息子五人に後を譲る身となっていたものの、子孫の繁栄を願って、尾張氏の束縛から脱する最後の試みを決意しました。

 本心から発せられる言葉であることを感じ取った大口納と武内は、物部氏も味方に加わるのは願ってもないことですから、胆咋連の申し入れを受け入れました。

「胆咋殿はご高齢ですから、息子さんを代りに筑紫へ送られたらいかがでしょう」。

「いや、刷新派への寝返りは一族の将来を見据えての私の一存で決めたことです。息子五人は交代で近江朝廷に出廷しておりますので、秘密が漏れる恐れがございます。息子たちには筑紫から戻った後に、説明いたします」。

 

 武内宿禰は大伴武似連、中臣烏賊津(いかつ。雷大臣)連、大三輪君、物部胆咋連を四大夫として、母の地元である紀伊の港から鳴門経由で筑紫に船出しました。

   

 

〔3〕タラシナカツヒコ(足仲彦)の筑紫入り

 

1.道後温泉との往復

 

 穴門(長門)の豊浦で夫に再会したオキナガタラシヒメ(息長帯日売)は「蜜月の続きで、道後の温泉に行こう」といきなりタラシナカツヒコ(足仲彦。仲哀天皇)から言われて面食らってしまいました。しかし頭の回転が速いオキナガタラシヒメは筑紫入りはすぐには無理であることを理解し、二人の新居となる豊浦宮(忌宮神社)も建造が緒に就いたばかりでしたので、伊予行きに納得して、7月に道後に向いました。

 2か月後の9月に豊浦に戻り、落成した豊浦宮での生活を始めましたが、筑紫入りにはかなりの時間がかかりそうなことが分かってきました。眼前に広がる九州島へ一刻も早く渡りたい気持ちを抑えながら毎日を過すことも癪なので、再度、道後の温泉に行くことを決めました。それを見た吉備氏鴨別はしびれをきらして従卒を連れて吉備へ戻ってしまいました。

 

 以来、豊浦と道後との往復が続き、歳月が流れていきます。二人とお付きたちを運ぶ船団は、豊浦入りした際と同様にタラシナカツヒコ付きには摂津海人が、オキナガタラシヒメ付きには出雲の美保の海人が担当しました。摂津海人は第九代オオビビ王(若倭根子日子大毘毘。開化天皇)から第十代ミマキ王(御真木入日子恵。崇神天皇)の時代にかけての、吉備邪馬台国、安芸投馬国、周防、伊予、長門へと続いた瀬戸内海西征に、アマツヒコネ(天津彦根)族の指揮下で活躍したことを誇りとしています。美保の海人は大和国の東西倭国の統一に最後まで独立を保った出雲王国を支えた一員でしたから、半世紀余り前までは敵と味方の関係でした。

 祀る神さまも摂津海人は住吉三神(上筒之男、中筒之男、底筒之男)、出雲の美保海人はオオクニヌシ(大国主)の子神コトシロヌシ(事代主)と、それぞれ異なっていました。それでも長門と伊予の往復を重ねるうちに次第に気心が知れた間柄となり、タラシナカツヒコとオキナガタラシヒメの二人を盛り立てていくことで意気投合していきました。

 

 何度か豊浦と道後を行き来する間に、第十二代オシロワケ王(大足彦忍代別。景行天皇)の近江遷都と崩御、ワカタラシヒコ(若帯日子。成務天皇)の即位、オシロワケ王 の遅ればせの葬礼と変動が続きましたが、都に戻れば否応なく近江派と刷新派の騒動に巻き込まれてしまうことが厭でしたし、王になる野心も持たないタラシナカツヒコはそうした風の便りを別世界の出来事のように聞き流していきます。刷新派からの使いが秘かに訪れて、都への帰還を要請することも数回ありましたが、近江のワカタラシヒコ王の使者から、引き続き筑紫行きを要請する訓令を受けていたこともありましたので、刷新派の要請を聞き入れることはなく、瀬戸内海の島々を巡遊しながら本州と四国を往復する生活に飽きることはありませんでした。

 オキナガタラシヒメとの夫婦仲は円満でした。気丈夫なオキナガタラシヒメは短気で怒りっぽいところが短所でしたが、母方を通じて異国の文化の血が流れているせいか、意外な発想や視点を持っているのが新鮮で魅力的でした。歳はタラシナカツヒコより四才ほど年下でしたが、物怖じしない性格でもあることから、時には夫を尻にしいてしまう場面もありました。

 

 タラシナカツヒコには第一后であるまたいとこの大中津日売との間にカゴサカ(香坂)に次いで二番目の王子オシクマ(忍熊)も誕生していましたが、どういうわけか都に残して来た后と王子二人にはあまり愛着を抱いていませんでした。「そろそろオキナガタラシヒメとの子供が欲しい」という望みが募っていきますが、子作りのご利益があると評判が高い道後の温泉に通いつめているものの、中々妊娠の兆候がありません。

 

 

2.筑紫入り

 

 伊予の道後温泉を発って周防の沙麼(佐波)の浦に近づくと、浜辺から一艘の船が近寄ってきました。五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を抜き取って、上枝に白銅鏡(ますみのかがみ)、中枝に十握剣(とつかのつるぎ)、下枝に八尺瓊(やさかに。大珠)を掛けて、船の舳(へ)に立てていました。高貴な御方を恭しく迎える礼法でした。

 船に乗っていたのは筑紫の遠賀川流域を治める岡縣主の熊鰐(わに)でした。

「ようやく筑紫入りが可能となりましたので、沙麼までお迎えにあがり、お待ちしておりました」。

 一行は、沙麼(佐波)縣主の内避高(うつひこ)国避高(くにひこ)松屋種(まつやたね)も付き添って、直ちに豊浦に戻ります。慌しく筑紫入りの準備をしていると、「筑紫でのご成功を祈願しまして」と穴戸直の践立(ほむたち)が「大田」と名付けられた水田を寄進しました。

 

 年が明けた14日、船団は筑紫に向けて船出しました。船中で熊鰐が魚と塩をとる御料地を献じました。

「まずは穴門から宇佐の向津野大済に至るまでを東門、関門海峡を越えた名籠屋大済を西門とする区域を献上したします。続いてブリやマグロ等の大魚が捕れる外海の響灘に浮ぶ没利嶋(六連むつれ島)と阿閉嶋(藍島)を料物を盛る御筥(みはこ)といたします。スズキや鯛等の中小魚が捕れる内海の洞海(きのうみ。洞海湾)の柴嶋(資浪島)を割って好漁場の御甌(みなへ)とします。逆見海を塩の生産地として献上いたします」と申します。

 関門海峡を抜けると、天皇の行幸を聞いた伊都(伊覩)縣主の五十迹手(いそとて)が引嶋(彦島)まで出向いていました。岡縣主の熊鰐と同様に、五百枝の賢木を抜き取って、上枝に八尺瓊、中枝に白銅を、下枝に十握剣を掛けて船の舳艪(ともへ)に立てて参迎しました。

「臣があえてこの物を献る由縁は、タラシナカツヒコさまが、八尺瓊の曲がりのようにしなやかに治世をされるように、白銅鏡のような分明さで山川と海原を看行されるように、十握剣を手に天下を平らげられることを願っているからです」と申します。タラシナカツヒコは「伊蘇志(いそし)な者よ」と五十迹手を褒め称えましたので、時の人は伊覩国を「伊蘇国」とも呼ぶようになりました。

 

 船団は二手に分かれて遠賀川河口の岡の水門に向かいます。タラシナカツヒコの乗せた主力隊は響灘から玄界灘へと日本海側を進み、オキナガタラシヒメを乗せた船団は、風波が激しい日本海を避けて内海の洞海を抜けることにしました。

 荒波にもまれながら海路を進んだタラシナカツヒコの船団は、山鹿岬から岡浦に入ります。ところが岡水門がある遠賀川河口に近づくと、船が進まなくなりました。

「どうしたことだ」とタラシナカツヒコが熊鰐(わに)に詰問します。

「船が進まなくなったのは私の落度ではございません。この浦の口を男女二神が護っております。男神を大倉主(おおくらぬし)、女神を莬夫羅(つぶら)媛と申します。この二神が、挨拶もせずに水門に入るのを許さない、と申しておるのでしょう」。

 そこでタラシナカツヒコが祷祈して、挾杪(かじとり)者である倭国の兎田の人、伊賀彦を以って二神を祀りますと、たちまち船が前進を始め、水門に入港することができました。

 

 オキナガタラシヒメの船団は洞海に入りましたが、洞海は遠浅で水深が浅いことから、洞海を遠賀川へつなぐ江川に入る手前で、引き潮で船が動かなくなってしまいました。短気なオキナガタラシヒメがすぐに怒り出してしまいましたので、海人たちは震え上がります。運よくオキナガタラシヒメの到着が遅いことを心配して江川から洞海へと急いでいた熊鰐がその場に到着しました。熊鰐は機転をきかして、魚が群れる魚沼と鳥が飛び交う鳥池に案内します。魚鳥の遊ぶ様に興じたオキナガタラシヒメの忿(いかり)の心がようやく解け、ご機嫌が直りましたので、事なきを得ることができました。そのうちに潮が満ちてきて、岡の津に無事に到着しました。

 

 

3.香椎宮

 

 岡の湊から宗像の湊を素通りして、かっては不弥国の港として知られた津屋崎を過ぎて、121日、儺県(なだあがた)に到り、沖に志賀島を臨む高台にある香椎(橿日。かしひ)宮に落ち着きました。福岡湾の東端に位置しています。

「ここは筑紫国の中心部ではないようですね。なぜですか」と真っ先にオキナガタラシヒメが不審がりました。

「確かに、筑紫国の中心部は福岡湾の真ん中あたりを流れる那珂川の下流地域で、中流にはかって奴国の首都がありました。残念ながら、中心部はまだ治安が悪く、とてもご案内ができない状態です」と伊都(伊覩)縣主の五十迹手(いそとて)が言いつくろいます。

 

 するとオキナガタラシヒメは以前から気にかけていた辰韓諸国の状況を五十迹手(いそとて)に単刀直入に問いました。

「私の母方の祖は辰韓諸国の出自ですのでお尋ねします。半島の南東部にある辰韓諸国は斯盧(新羅)による統一が間近に迫っている、と聞いたことがありますが、その後、どうなっているのでしょう」。

「私どもにとって、斯盧(新羅)は頭が痛い存在です。すでに数年前に辰韓諸国統一を成し遂げ、余勢をかって洛東江を越えて弁韓諸国への侵攻を進め、さらには対馬と壱岐島の腹黒の海人や密林に潜む海賊どもと組んで、西部九州と結ぶようになっており、下手をすると筑紫に攻め込んで来る恐れもあります。斯盧(新羅)と西部勢力は国造の阿倍氏田道に賄賂攻勢をかけて、新羅との密貿易を暗黙に認めさせ、宗像氏も阿倍氏側につきました。これに対抗する親加羅(伽邪)の伝統勢力は私どもや岡縣主が主体となり、志賀島の安曇族も加わりました。二派の熾烈な争いで数年間、筑紫国は内乱状態となりました。タラシナカツヒコさまが長門の豊浦で足止めとなってしまわれたのは、これが理由でございます。

 ようやくにして、私ども伝統勢力が勝利して、那珂川流域を支配下におさめましたので、皆様をお迎えすることができました。 阿倍氏田道と息子たちは筑後の筑後川河口の高良山麓へ逃げ込んだようです。しかし、まだまだ油断は禁物です。荷持田(のとりた)村の羽白熊鷲(はしろくまわし)と名乗る盗賊集団が肥前との境にある背振山に巣くっておりますし、肥後との国境近くにある、有明海に臨む山門縣の山川村には田油津(たぶらつ)姫を首領とする土グモが西部勢力と結託しております」。

 

「名前を聞かれたことがあるかも知れませんが、第十一代イクメ王(伊玖米入日子伊沙知。垂仁天皇)の晩年、但馬氏の田道間守(たぢまもり)が王命で、不老不死の妙薬を求めて半島を訪れました。私の母タカヌキヒメ(高額比売)は田道間守の姪でしたので、帰還後に病床に臥した田道間守のお世話をいたしました。その際に、『半島では辰国という国が馬韓、弁韓と辰韓の三韓地方の盟主となっていた』と聞いたことがある、とよく母から聞かされました。その辰国は今でも盟主の座を維持しているのでしょうか」。

「さあ、私はそこまで詳しいことは知れかねます」。

 オキナガタラシヒメは新羅と半島の情勢について、五十迹手からさらに話を聞き出だそうとしますが、タラシナカツヒコは半島の事情には興味を示さず、耳を傾けることもなく、退屈したのかあくびをしながら、中途で席をはずしてしまいました。 

 

 

4.熊襲が先か、新羅が先か 

 

 オキナガタラシヒメが寝屋に入ると、先に寝床に入っていたタラシナカツヒコが不愉快そうに問い詰めてきます。

「そなたの母方は半島からの渡来者であることは承知しているが、なぜ、そこまで海の向うの国に気をかけているのか。私は筑紫には熊襲を退治するためにやって来た。南の熊襲と東北の蝦夷を抑えれば、大倭国は天下泰平となり、領地も広がる」。

「その熊襲を押さえ込むには、新羅と西部九州を結ぶ糸を断つ必要があります。それを是非ともご留意ください」。

「たとえ海の彼方の西北に新羅という国があったとしても、海を越えてまで他所人が住む外国に手出しをする必要もないし、興味も持たない。要するに、新羅の鉄製武器が行き着く先は熊襲の諸部族ということだ。熊襲を殲滅してしまえば、自ずから新羅と西部九州を結ぶ密貿易も衰退していく」とにべもない返答をしながら、オキナガタラシヒメを抱きもせずに寝入ってしまいました。

 

 それ以来、熊襲退治が先か、新羅退治が先か、という「卵が先か、鶏が先か」の押し問答が二人の間で繰り返されます。

 95日に至って、タラシナカツヒコは群臣を集めて熊襲討ちの協議を始めました。その時、ある神がオキナガタラシヒメに神がかりをして神託を告げました。

「なぜタラシナカツヒコは熊襲の不服従を憂えているのか。熊襲の地は火山で荒れ痩せた不毛の国にすぎず、挙兵をして征伐をするほどの国ではない。熊襲の国よりも勝り、宝であふれ、乙女のまよびき(眉引)のような国が海の向うに存在する。眼がくらむばかりの金・銀・彩色が多にその国に在る。これをたく(楮)の白布がたなびく新羅国と言う。もしよく吾を祀るならば、剣の刃を血で染めることなく、その国が必ず自ずから服従し、それに次いで熊襲も服従する。吾を祀るにあたっては、汝の船と穴門直の践立が献じた大田の水田を幤(まいない)としなさい」とのたまいました。

 

 タラシナカツヒコは神の言葉を聞きはしたものの、その託宣に疑念を抱きました。翌日、宮地獄に登って、はるか彼方まで大海を眺望しましたが、新羅の国を見出すことはできません。

 そこでタラシナカツヒコは神に向けて宣言します。「吾は山に上って眺望してみたが、海ばかりで国などは見えなかった。大空の彼方に、本当に国が存在するのか。吾をあざむこうとしているのは、いずこの神なのか。その神は、どうせ但馬の神か辰韓の神であろう。王家の祖神ではなかろうし、大倭国の天つ神と国つ神はすでに十二分に祀っている。他国の神をあえて加えて祀る必要はない」と言いきりました。

 すると神が再びオキナガタラシヒメに乗り移って告げました。

「水に映る影のようにはっきりと、自分が空から見下ろしている国があるのに、そんな国など見えやしないと言い放って私の言葉を信じないなら、汝はかの国を獲ることはできないだろう。オキナガタラシヒメは直に子を初めて孕むことになる。かの国を獲るのはその子となるであろう」。

 

 タラシナカツヒコは神託を信じようとはせずに、徒にむきになって熊襲退治の準備を進めます。

 

 

〔4〕タラシナカツヒコ(足仲彦)の急死

 

1.武内宿禰と四大夫の到着と神託

 

  熊襲退治が先か、新羅退治が先か、という出口がない二人の論議が繰り返されていることはお付きの者たちだけでなく、伊都(伊覩)縣主の五十迹手(いそとて)など筑紫土着の豪族たちや海人の耳にも入っていきました。

 晩秋を迎えた頃、都から武内宿禰一行が到着しました。吉備に戻っていた吉備氏鴨別も穴海で合流して兵卒を連れて一緒に到着しました。前触れもない、唐突の訪問でしたので、タラシナカツヒコ(足仲彦。仲哀天皇)はいぶかしげに武内宿禰に問いました。

「そなたに中臣烏賊津(いかつ。雷大臣)連、大三輪君、 物部胆咋連と大伴武似連の四大夫も揃って、はるばる筑紫までやって来る、とはどういうことか?近江のワカタラシヒコ(若帯日子。成務天皇)の身辺に何か火急な異変が起きたのか?」。

「ワカタラシヒコ王はお元気です。筑紫まで私どもが出向いて来ましたのは、皇太子としてタラシナカツヒコさまをお迎えするためです」。

「しかし皇太子はワカタラシヒコ王の実弟の五百木入彦がなるのが既定路線だろうに」。

「五百木入彦さまは一身上の都合を理由にされて、皇太子に就くことを断わられました。そこで和邇大口納を代表とする刷新派も推されているタラシナカツヒコ さまに是非とも皇太子に就いて欲しい、というのがワカタラシヒコ王のたってのご要望でございます」。

 

 奥まった場所で聞き耳をたてていたオキナガタラシヒメ(息長帯日売。神功皇后)はそれを聞いて喜びましたが、同時に、都に戻る前に何としてでも新羅討ちを実現させたい気持ちがはやりました。武内宿禰は自身や付き添った四大夫とも近江朝廷に見切りをつけ、自分や物部氏が刷新派側に寝返ったことには触れませんでした。筑紫から都へ帰還する道中で、様子を見ながら刷新派側に寝返った理由、近江朝廷を打ち倒して誕生する新王朝の初代王に担ぐことをじわじわと説明していくつもりでした。

「とにかく、優先事項は熊襲征伐だ。皇太子として都に戻ることは征伐を完遂した後に検討してみることにする」とタラシナカツヒコは承諾を先送りとしました。。

 

 オキナガタラシヒメは次第にタラシナカツヒコより一歳年上でワカタラシヒコ王と同年の武内宿禰と親密になっていきました。きっかけは武内の后、葛比売は葛城氏の出身でしたが、母方は但馬氏の出自であることを知ったからでした。葛城荒田彦足尼に嫁いだ葛比売の母の父は但馬比多訶で、神功の母とは異腹の姉妹にあたります。葛比売とオキナガタラシヒメ は異腹の従姉妹で、幼い頃からの旧知の仲でしたので、オキナガタラシヒメはすぐに親近感を抱きました。武内宿禰の話では、葛比売は息子の葛城襲津彦を産んで間もないということでした。

  オキナガタラシヒメは夫がほとんど関心を見せない新羅征伐を武内宿禰に理解してもらい、味方に引き入れようと試みます。

 タラシナカツヒコを伴って都に戻り、近江朝の転覆を図る思惑しか念頭になかった武内宿禰は、海の彼方の国にまで関心を抱く余裕はありませんでしたが、オキナガタラシヒメから話を何度も聞くうちに、新羅と西部九州勢力を結ぶ糸を断ち切ることは近江朝廷の一翼を牛耳る阿倍氏の勢力の一部をそぐことにつながることに気付いていきました。新羅を討伐して半島から鉄製武器や宝物の入手が増えれば、熊襲討ちだけでなく、近江朝転覆に向けての援けにもなります。

 

 武内宿禰は複数の部下を使って情報収集を進めると同時に、伊都縣主の五十迹手などに、タラシナカツヒコには悟られないように注意しながら、自ら実情を探っていきます。

「オキナガタラシヒメさまが主張されておられる通りでございます。 タラシナカツヒコさまにも状況を説明しておりますが、どうしても理解されません」と誰もが似たような答えを返してきたことから、武内宿禰は本気で新羅征伐の検討を始めました。

 

 

2.熊襲退治と新羅退治のどちらが先か

 

 新羅征伐を実行するとなると、まずは肥前の末羅(松浦)、壱岐島、対馬と半島を結ぶ制海権を確保した後、半島に攻め込んでいくことになります。そのために必要な兵士、海人と船を確保していく必要があります。

 真っ先に、紀の川河口の港から武内一行を運んできた志摩海人の活用を思いつきました。志摩海人は志摩国の伊雑ノ浦から英虞湾にかけてを本拠地としており、伊勢湾や紀伊半島と瀬戸内海を結ぶ交易路を担っていました。武力にも秀で、紀伊から筑紫までの護衛役を立派に果たしましたから、実力は折り紙つきです。

 志摩海人は土着の太陽神ワカヒルメ(稚日女)を伝統的に信奉していましたが、伊勢神宮の土台を築いたヤマトヒメ(倭日売)が神宮の御贄(みにえ)の地として、伊雑ノ浦の間近に伊雑(いざは)宮を創建したことから、志摩海人はワカヒルメを王家の祖神アマテラスの妹神と位置づけ、ヤマトヒメと共にアマテラスも信奉するようになっていました。志摩海人はヤマトヒメが武内宿禰を油断ならない人物として懐疑的なことを知っていたため、当初は武内を警戒していましたが、筑紫に向う間に武内が刷新派に寝返ったことを知ったこともあり、警戒心を溶かしていき、筑紫に到着した頃には武内宿禰に忠誠を誓うまでになっていました。

 

 次に武内宿禰は、タラシナカツヒコ付きの海人である摂津海人に接近していきます。意外なことに摂津海人はすでに新羅討ちの先鋒役になっていました。摂津海人は武内一行が到着する前から、地元の志賀島の海人である安曇族との交流を深めていくうちに、鉄製品と財宝があふれる新羅の存在を知って、新羅討ちに関心を高めていました。半島との交易に経験が豊富な志賀島海人と手を組めば、宗像海人を省いて、瀬戸内海ルートを独占できるようになるかも知れない、との思いを強めていました。新羅が先か熊襲が先かの夫婦間の論争を伝え聞きながら、タラシナカツヒコ付きの海人でありながら、オキナガタラシヒメ側に組みするようになっていました。オキナガタラシヒメに神がかりをした話を漏れ聞いて、新羅討ちを勧めた神は、ひょっとしたら自分たちが祀る住吉三神ではないだろうか、とも感じていました。 

 

 好都合なことに志摩海人も摂津海人や志賀島海人との接触を通じて、自分たちなりの情報をつかんで行き、次第に新羅征伐に賛成の意向を示すようになっていましたので、武内宿禰は半島遠征時の水兵の主力を志摩海人と摂津海人とする構想を煮詰めていきます。

 武内宿禰はそれとなくタラシナカツヒコに新羅討ちを匂わせていきますが、タラシナカツヒはオキナガタラシヒメや武内宿禰の説得を理解しようとはせず、もっぱら熊襲遠征の計画を練っています。

 

 年が明けて2月に入ると、タラシナカツヒコも皆の声を無視することができなくなりました。そこで家臣たちの前で神に占うことを決めました。

 すると、神はまず沙麼(佐波)縣主の松屋種(まつやたね)に乗り移って、タラシナカツヒコに誨(おし)え諭しました。「汝が、もし宝の国を得たいと欲するなら、授けてあげよう。オキナガタラシヒメに琴を弾かせなさい」。

 神託に従ってオキナガタラシヒメが琴を弾き出しますと、神がオキナガタラシヒメに乗り移って誨えて語りました。

「タラシナカツヒコ付きの船と穴戸直・践立(ほむたち)が献上した水田「大田」を幣(まいない)として我を祀るならば、美女の眉引(まよびき)のような、金銀を始めとして、眼がくらむばかりの種々の珍しき宝が多にある西方の国をそなたに授けよう」。

 

 タラシナカツヒコは神に向って言い放ちました。

「その国について聞くのは二度目となる。宮地獄に登って大海を俯瞰してみたが、国なぞ見えなかった。いったい何処にその国が存在するのか。汝は偽りを語る神にすぎず、人を欺いているだけだ。吾が乗る船を神に奉ってしまうと、吾はいづれの船に乗れば良いのか。汝がいづれの神であるかを知らない。その名を告げてみよ」。

 すると神は神名を名乗りました。

「まず表筒雄・中筒男・底筒男の三神である。それに重ねて、(対岸の港にまで勢力を及ぼす厳粛な御魂である)向匱男聞襲大歴(むかひつをもおそほふ)五徳魂(いつのみたま)速狭謄(はやさのぼり)である」。

「摂津海人が信奉する三神のご登場とは意外である。 速狭謄というのは聞き覚えがないが、聞き悪いたわごとをのたまう女神のようだな」とせせら笑いました。

 すると神は怒ってタラシナカツヒコに告げました。

「汝が信じないなら、その国を獲ることはない。オキナガタラシヒメが懐妊して誕生する子がその国を獲ることになる」。

 

 神が託宣を終えると、神の怒りにふれたかのように、タラシナカツヒコは気を失って倒れてしまいました。慌てたオキナガタラシヒメたちが介抱するうちに、しばらくして目を覚ましたタラシナカツヒコは家臣たちに向けて宣言しました。

「とにかく、 最初の目的通り、熊襲を退治してから都に凱旋することにする。それが私の結論だ。その新羅という国の征伐は都に戻ってからでも遅くはないだろう」。

 その夜、 「神の託宣だと、そなたはすでに子をお腹に宿しているようだ。冗談にしても、めでたい話ではないか」と笑みを浮かべながら、いつになく、激しく后を抱きました。

 

 

3.タラシナカツヒコの出陣と急死

 

 翌日、タラシナカツヒコは勇んで香椎宮を出発しました。有明海まで西下してから、筑後を下って肥後に入る進路をとりました。従うのは紀伊から自分に伴ってきた兵卒と吉備鴨別と大伴武似が率いる軍隊でした。オキナガタラシヒメは夫に付き添って従軍を望みましたが、押し留まれてしまい、武内宿禰等と香椎宮に残りました。

 幼い頃から、父ヲウス(小碓)の後継ぎとして期待され、いつも父と比較されて育ったことがタラシナカツヒコの重荷となっていました。それに輪をかけて武力では父に劣ることから、劣等感も抱いていました。王位にも関心を持たず、わざと触れることはありませんでした。しかし香椎宮で周囲から皇太子へとおだて上げられるうちに、それも宿命だったのかも知れないと、次代の王となっても構わないと思いこむようになっていました。都に凱旋する前に、大将としての実績を見せようとして、我が身を奮い立たせながら、先頭に立って進軍します。

 

 街道を進み、筑前と肥前、筑後の境で西部九州への入り口となる基山(きやま)にさしかかった時でした、密林から突如、矢が放たれました。背振山に巣くいながら、平野部に勢力を伸ばしている野盗集団、羽白熊鷲(はしろくまわし)の手下の仕業でした。実戦の経験がないタラシナカツヒコは部下たちの制止をふりきって、むきになって密林に突進していくと、返り討ちを浴びて深手を負ってしまいました。

 出発して三日後の25日に香椎宮に戻って来たタラシナカツヒコは翌日、身罷(みまか)ってしまいました。「今になって、速狭謄の神は伊勢の大神アマテラスの荒魂だったことを悟った。私が罵倒してしまったため、神の怒りをかってしまったのだ」と、死ぬ間際に住吉三神とアマテラスを無視したことを後悔しました。「何か大事があったら、必ずヤマトヒメに相談するようにしなさい」と伊勢のヤマトヒメの名をしきりに口にしながら、息を引き取りました。

 

 

4.オキナガタラシヒメの動揺と武内宿禰

 

 オキナガタラシヒメは夫の急死に動転した様子も見せずに、気丈に振舞いました。亡骸を殯宮(あらきのみや)に安置した後、武内宿禰と四大夫を呼び集め、すべての罪穢れを祓う大祓を行いました。

「まだ、宮外の人たちはタラシナカツヒコさまの死を知りません。外の人たちが知ったら、大変な騒ぎになってしまうでしょう。暴動が起きるかもしれません。くれぐれも内密にされてください。 四大夫は香椎宮から出ずに宮中を守ってください」と宣言した後、小山田(をやまだむら)邑に造った斎宮(いはひのみや。斎王が忌みこもる宿)に向いました。

 

 斎宮にこもりながら、オキナガタラシヒメはタラシナカツヒコが神託を無視し、嘲笑したことが神の怒りを買い、不慮の死を遂げてしまったことを思い返します。「新羅征伐は神が告げられていることでもある。神の怒りを鎮め、但馬の人々との約束を果すためには、新羅退治しかない」との思いがつのりました。

 夜が更けた頃、オキナガタラシヒメは少女一人だけをお付きにつけて、斎宮を抜け出し、秘かに武内の宿を訪れました。

「これからどうしたら良いのかを、相談しに参りました」と突然の訪れに驚く武内宿禰に切り出しました。戸惑いながら、武内宿禰は誰にも気付かれていないことを確認した後、付き人にも話しが聞えない奥の間にオキナガタラシヒメを導きました。

「よくよく考えてみても、神託は間違いがないように存じます。夫も死ぬ間際になって、新羅討ちの神託をした神は住吉三神とアマテラスだったことに気付きました。何としてでも新羅討ちを実現せねばなりません」。

「しかし四大夫はまだ神託には半信半疑のようです。新羅討ちをするとしても、用意周到の準備をして、兵士と船舶を確保する時間が必要です」。

 小声でのやり取りが続くうちに、互いの手と手が触れあいました。武内宿禰はオキナガタラシヒメの両手を握り締め、抱き寄せました。夢の中の出来事のように、時が経過していきました。鳥のさえずりが始まった頃、眼を覚ましたオキナガタラシヒメがはっと気付くと、武内が隣で寝息をたてていました。寝衣は乱れていました。武内と交わってしまったのだろうか、それとも悪夢を見ているのか。頭の中が混乱しますが、とる物も取らずに、まだ暗いうちに宿を出ました。幸い、警備兵に気付かれることはなかったようです。

 

「とにもかくにも、まず四大夫に新羅討ちを納得してもらうことが先決だ」と武内宿禰は判断を下しました。四大夫を納得させるべく、神おろしをする沙庭に四大夫を招聘し、神託を請いました。オキナガタラシヒメは昨夜の出来事を「まさか、まさか」と反復しながら、傍らで成り行きを見守ります。

「先日、告げたことに相違はない。その国はオキナガタラシヒメの御腹に坐す御子が知る国である」と神が諭しました。

「畏れ多き我が大神よ、御腹に坐す御子は男子なのか女子なのか」と武内宿禰が問いますと、「男の子である」と神が告げました。

「是非とも、神名をお知らせたまえ」と問いますと、「これはアマテラス大神の御心である。また底筒男、中筒男、上筒男の三柱の大神の御心でもある。今、誠にその国を求めようと欲するなら、天神地祇(天つ神国つ神)、加えて山神また河神の諸の神に、ことごとく幣帛(みてぐら)を奉りなさい。吾の御魂を船の上に坐せ、杉や檜の真木の灰を瓠(ひさご。ひょうたん)に納め、箸また葉盤(ひらで。木葉皿)を大量に作って、すべてを大海に散らし浮べて海峡を渡りなさい」と示唆しました。

 四大夫は啞然としたままでした。長老の物部胆咋連も黙り込んだままでした。アマテラスと住吉神が教示した神託も新羅討伐もまだ半信半疑の様子でした。

 

 オキナガタラシヒメはタラシナカツヒコの屍を収めて、秘かに穴門の豊浦宮に海路で運び、殯(もがり)をすることを武内宿禰に託しました。

 豊浦宮までの船中で、武内は思い悩み、煩悶を繰り返します。このまま畿内に戻るとなると、タラシナカツヒコを死なせてしまった、と近江朝からも刷新派からも責められることだろう。近江朝の多くはすでに自分と物部氏が寝返ったことに気付き、斬首をせまってくることだろう。海人たちは新羅討ちで固まり結束してきているようだから、やはり新羅討ちをした方が良いのだろうか。しかし討伐に失敗したら、どうなるのか。失敗したら阿倍氏に替わって筑紫に居続ける手もある。成功したら、余勢をかって都に攻め込み、近江朝を倒すことになるだろうか。

 結論を出せぬまま、222日に穴門から還った武内宿禰は、無事に殯(もがり)の場に安置した旨のみをオキナガタラシヒメに復奏しました。

 

  

〔5〕西部九州勢力と熊襲退治

 

1.羽白熊鷲征伐

 

 あの夜のことがあって以来、オキナガタラシヒメ(息長帯日売。神功皇后)と武内宿禰との仲はぎこちなくなっていました。一方で武内を頼りにしながら、他方では武内を避けたい気持ちがつのるオキナガタラシヒメは武内との面談には家臣たちも同席させるようにして、二人きりとなる機会を避けました。幸いにも、あの夜の二人の共寝に気付いた者はいないようで、噂の火の粉が舞い上がることはありませんでした。

 武内宿禰も、オキナガタラシヒメと眼が合う度に新羅討伐を催促するか、それとなく討伐を臭わせることに閉口していましたから、なるべくオキナガタラシヒメと目を合わせることを避けるようになりました。新羅討ちを躊躇する慎重論も相変わらず強くありましたから、実行を決めかねている状況でした。

 

 タラシナカツヒコ(足仲彦。仲哀天皇)亡き後の軍事の指揮は当分の間、二人が共同で行うことにすることが公表されて、家臣たちは二人の間柄が緊密であることを再認識しましたが、二人の関係がぎくしゃくし始めたことにはまだ気付いていないようです。

「都に戻るとしても、何はともあれ、タラシナカツヒコの弔い合戦だけはしなければならない」ことで衆目の意見が一致しました。しばらく武内から離れていたい気持ちもあったオキナガタラシヒメは自ら率先して弔い合戦に従軍することにしました。

 家臣たちは亡き夫の復讐を果たしたいオキナガタラシヒメの気持ちを察して、従軍を承知しました。オキナガタラシヒメは自分も兵士と共に実戦に加わることを言い張りましたが、万が一のことを懸念する周囲は、目前の敵である羽白熊鷲(はしろくまわし)の一味が潜む基山(きやま)から東に距離を隔てた栗田(朝倉郡三輪町)にある松峡宮にオキナガタラシヒメを滞在させることにしました。 周囲から宥められて、松峡宮から戦局を見守ることにしぶしぶ納得したオキナガタラシヒメは朝倉郡に向いましたが、松峡宮を目前にした道中で、突然、つむじ風が襲ってきて、オキナガタラシヒメの御笠を吹き飛ばしてしまいました。そこで時の人はその地を「御笠」と名付けました。

 

 討伐軍は大伴武似連が総大将となりました。タラシナカツヒコ直参の兵卒が先頭に立ち、吉備鴨別が率いる兵卒がこれに続きます。武内宿禰と、中臣烏賊津(いかつ。雷大臣)連、大三輪君、 物部胆咋連は香椎宮に留まりましたが、武内宿禰は遠征軍に敵の動向を探る兆候兵をつけることを忘れませんでした。老齢のため出陣を控えた物部胆咋(いくひ)連も、肥前周辺にちりじりとなっている物部君の郎党たちとの接触をはかることを従軍させた部下に命じました。

 317日に討伐軍と荷持田(のとりた)村に拠点を置く羽白熊鷲が率いる匪賊との衝突が始まりました。 羽白熊鷲一味は森林に潜みながら樹から樹へと巧みに飛び移って矢を放つ戦法を得意としており、退治に手こずりました。武内宿禰が帯同させた兆候兵が密偵役として先回りし、木々に隠れる敵を目敏く見つけ出して合図を送るようになってから、形勢が逆転していきます。基山から背振山地へと逃げ込んだ匪賊集団を追って、じわりじわりと北に追い込んでいき、320日に糸(伊都)郡雷山の層増岐野(そそきの)で一味を殲滅しました。

 

 知らせを受けたオキナガタラシヒメは「熊鷲を退治されて、私の心は安らかになりました」と喜びました。 そこで時の人はその地を「安(夜須郡甘木市)」と名付けました。 

 

 

2.田油津(たぶらつ)媛退治と吉備氏鴨別の熊襲遠征

 

 討伐軍は当初の目的である有明海勢力と熊襲勢力の退治へと駒を進めていきます。すると筑後に逃げこんでいた阿倍氏田道と日道の一党が西部九州勢力に見切りをつけたのか、大和側に寝返ってきました。大伴武似連と吉備鴨別はオキナガタラシヒメの承諾も得て、敵側の情報交換と引き換えに阿倍親子を許すことにしました。阿倍親子はまず第一に肥前と肥後を分断している、山門縣の山川村の田油津(たぶらつ)媛を壊滅することを示唆します。

 肥国は第十代ミマキ王(御真木入日子印恵。崇神天皇)の治世下で、意富(おう)氏建緒組(たけおくみ)が制覇した後、筑後を中に挟んで肥前と肥後に分かれていました。意富氏は肥後を本拠地としたため、肥前は意富氏の下で物部氏一族が実質の統治役を務めるようになりました。

 

 西暦313年以降の満州系騎馬民族の南下に始まる半島の大変化、交易の窓口である半島南部の治安悪化により、最も重要度が高い鉄器や鉄素材の供給が不安定となったことから、半島と北部九州地方を結ぶ交易は低迷していきました。食い扶持を失った船乗りや郷氏の中には海賊や山賊に身をやつして人里を荒らしまわる者が目立つようになりました。

        (参照:「景行朝の爛熟」No.3 )

 肥前に巣くった海賊や山賊は辰韓地方の統一化を進める新羅と鉄製武器を切望する熊襲地方の諸部族を結ぶ密貿易を担うようになり、勢力を伸張させていきます。オシロワケ王(大足彦忍代別。景行天皇)が内密に日向行きをした後、意富氏武緒木(たけもろき)がオシロワケ王の名代として物部君夏花の案内で肥前地方を巡行したことにより、肥前地方はしばらくは平穏を取り戻しはしました。しかしその後の約25年間、オシロワケ王と筑紫阿倍氏の失政により、大和王家の威光が衰えて、海賊や山賊と手を組んだ地場勢力がのし上がって、肥前の物部氏一党はちりぢりに分散してしまい、息を潜めていました。

 

 有明海を臨む山門縣の山川村の部族は夫の亡き後、田油津(たぶらつ)媛が首長をになっていました。田油津媛の実兄、夏羽は有明海の対岸の塩田川(嬉野、武雄)流域を拠点としながら、海賊を巻き込みながら、佐世保にまで勢力を広げて、新羅と熊襲地方を結ぶ密貿易の一翼を担っていました。

 大和軍は325日に山川村を襲いました。羽白熊鷲退治で実戦を経験をつみ、兵士の数で圧倒していた大和軍は苦もなく山川村の砦を占領し、田油津媛を誅しました。兄の夏羽は大和軍の来襲を聞いて船団を組んで救援に向っていましたが、沖合いで妹の敗北を知って、有明海の対岸に引き返してしまいました。

 

 ここで軍勢は二手に分かれました。吉備氏鴨別軍は熊襲退治で南下、大伴武似連は肥前西部の賊軍の拠点制圧へと進みました。タラシナカツヒコ直参の兵卒はオキナガタラシヒメの護衛役も兼ねて大伴軍に加わります。

 南下した吉備鴨別軍は肥後の意富氏と合流します。国造は建緒組の曾孫となる建川名でしたが、熊(球磨)勢力が球磨川を越えて肥後国の中心部に迫ってきている危機的な状況でしたので、援軍の到来に命拾いをした思いでした。鴨別軍は建川名の従衆(ともがら)を案内役として熊勢力退治に挑んでいきましたが、屈強な敵はしぶとく、一進一退の状況が続きます。しかし大伴軍が肥前西部の海岸線の密貿易者の砦を潰した後、肥後の国造勢力が制海権を奪い返すようになってから、徐々に熊襲勢力を押さえ込んで、球磨川以南に追いやることができました。吉備氏鴨別軍は球磨川を越えて、水俣に拠点を構えて熊襲勢力を押さえ込んでいき、肥後南部を割いた葦分国の国造になっていきました。

 

 

3.オキナガタラシヒメの懐妊

 

 熊襲退治で南下した吉備鴨別軍と分かれた大伴武似軍とオキナガタラシヒメは物部君の郎党の案内で、有明海沿いに北上して肥前に入りました。夏羽勢力との全面対決は回避しながら、佐世保、平戸など肥前西部の海沿いに点在する海賊、密貿易者の拠点を潰しながら、北松浦半島を横断する形で四月上旬、日本海側の末羅(松浦)県の玉嶋里に出ました。ちりじりになっていた物部氏の手勢が息を吹き返し、肥前の立て直しを進めていきます。

 

 オキナガタラシヒメは玉嶋里の小河で昼食をとりました。何か思いついたことがあったのでしょうか、ふいに針を曲げて鉤(ち。釣り針)を作って米粒をつけ、裳の糸を抜き取って緡(つりのを。釣り糸)にします。川中の大石に上り、「私は海の西にある宝の国を攻め落とすことを願っております。川の魚たちが鉤に食いついてくるなら、私の願いはかないましょう」と呪文を唱えながら、裳の糸を投げ入れますと、すぐに食いついてきました。竿をあげてみますとピチピチと跳ねる細鱗魚(アユ)でした。

「とても希見(めずら)しい物が釣れました」とオキナガタラシヒメが歓声を上げましたので、時の人はその地を「梅豆邏(めずら)」の国と云うようになりました。これが訛って、今は「松浦(まつら)」と呼ばれます。これ以来、その国の女人は四月の上旬になると、鉤を河中に投げて年魚(あゆ)を捕ることが慣習となりました。男夫が釣ろうと試みても、魚を獲ることができません。

 末羅県は壱岐島、対馬を経て半島に向う出発地でした。オキナガタラシヒメは高台から海の彼方に思いを馳せました。

「これまでも神の宣託を信じて、神をきちんと祀ると願いがかなったし、信じずに神を祀らないと罪を受けた。海の彼方の西にある国を打ち破るために、改めて神祇(あまつかみ・くにつかみ)を祀らねばならない」と思いを新たにしました。

 

 その晩、前触れなしに急に嘔吐してしまいました。食あたりなのか、風邪をひいたのか、遠征の疲れが出たのか、お付きの下女たちが慌てますが、年長の下女が「ひょっとしたらつわりなのではないか」と気付きました。月のさわりもなく過ぎていくことから、妊娠は確実のようです。

 虫が知らせたかのように数日して武内宿禰がお供を従えて香椎宮から迎えにやって来ました。

「どうやら、オキナガタラシヒメさまはご懐妊のご様子です」と武内が手なずけた下女が耳打ちしました。

「それはめでたいことだ。やはり神託は誤りではなかった」と武内は破顔一笑しながら、「お腹の子はひょっとしたら、私の子かも知れない」という思いが頭の中をよぎりました。「それが本当だとしたら、私は未来の大倭国王の父親ということになる」と気持がはやります。その気持ちを押し殺しながら「神託によれば生まれてくる子は男の子とのことだ。タラシナカツヒコさまの後継ぎのご誕生だ」と手放しで喜ぶ素振りをしました。

 

 新羅征伐をすべきか否か、都に戻った際に受けるであろう「タラシナカツヒコを見殺しにさせてしまった」という批判にどう対処すべきか、で思い悩んでいましたが、「新羅を討伐して、タラシナカツヒコさまが残された王子を先頭に掲げて、都に凱旋していく。近江朝を倒して幼児を王に立てれば、私は外戚に相当する位置を確保できる」とする筋書きが具体的に思い描くことができたことから、武内宿禰は新羅討ちの覚悟を固めました。

 武内宿禰はオキナガタラシヒメと対面しても、あえて懐妊については触れませんでした。「もしかしてお腹の児が武内の子だったとしたら」とオキナガタラシヒメは背筋が縮む思いでしたが、「あの夜の出来事は悪夢を見たに過ぎず、現実に起きたことではない」と自分自身を信じ込ませます。そんな悩みを抱えていることに気付かぬまま、武内宿禰は「色々思い悩みもしましたが、私も新羅討ちの決意を固めました」と単刀直入に新羅討ちを伝えますと、オキナガタラシヒメは満面の笑みを浮かべました。

 

 一行は香椎宮への帰途につきました。儺の河(那珂川)にさしかった時、オキナガタラシヒメは、神おろしをする沙庭(さば)に四大夫を招聘した際に「今、誠にその国を求めようと欲するなら、天神地祇(天つ神国つ神)、加えて山神また河神の諸の神に、ことごとく幣帛(みてぐら)を奉りなさい」との神託を受けたことを思い出しました。

「この荒地を開墾して神への幣帛(みてぐら)として神田(みとしろ)といたしましょう」。

 荒地の開墾に向けて雑兵たちがの儺の河の水を引こうと溝(うなで。運河)を掘り進めていきますと、迹驚岡(とどろきのおか。那珂川町安徳)に至って大磐にぶつかって溝を掘り進めていくことができません。オキナガタラシヒメは武内宿禰を呼び寄せて、神祇(あまつかみ・くにつかみ)に剣と鏡を捧げて祀らさせますと、たちまち雷電が轟き、大磐を蹴(ふ)み裂きました。そこで時人はその溝を「裂田溝(さくたのうなで)」と名付けました。

 

 

4.新羅討伐の決定

 

 香椎宮に戻ったオキナガタラシヒメは四月下旬、吉日を選んで斎宮に入り、神を祀る主人役を果すことを誓い、「今日は私とお腹の子の未来を決める一日となりましょう」と気を引き締めました。

 その後、沙庭に武内宿禰と四大夫を筆頭に群臣を招聘し、さらに志摩、摂津と出雲の海人の首領たちも招き入れました。

 布を織り上げた幣帛を左右にうず高く積み上げた琴の前に武内宿禰を座らせ、神を呼び寄せるべく、琴を弾くことを命じます。中臣烏賊津連を喚して審神者(さには)に命じました。武内宿禰が琴を弾き出しますと、中臣烏賊津が「先の日、タラシナカツヒコさまに神託を下ろされた神はどなたでありましょう。願わくはその名をお知らせください」と吟じました。

 

 神はすぐには答えず、数日が経過していき、家臣たちがじれ出した頃、神の返答がありました。

「その神とは、神風が吹く伊勢国の百(もも)伝う度逢(わたらい)県の拆鈴(さくすず)五十鈴宮に居る神、名は撞賢木(つきさかき)厳之御魂(いつのみたま)『天疎向津(あまさかるむかつ)媛』(アマテラスの荒魂)」である。

 中臣烏賊津が重ねて「この神の外にも神がおりますか」と問いますと「幡荻穂(はたすすきほ)に出る吾は、尾田の吾田節(あがたふし)の『淡郡に居る神(ワカヒルメ)』である」と答えます。

 さらに問い重ねますと「天事代(あめのことしろ)虚事代(そらにことしろ)玉籤入彦(たまくしいりびこ)厳之(いつの)『コトシロヌシ(事代神)』である」と出雲の神を挙げました。

「他にも神もありますか」との問いに「いるかいないかは分からない」と答えますが、問い重ねますと「淡路国の橘小門の水底に居て、海草のように若々しい生命に満ちた神、名は『表筒男・中筒男・底筒男』の神(住吉三神)である」と答えます。

「さらなる神は」と問いますと、「その他の神は知らない」と告げて神託を終えました。

 

 登場した神は王家の祖神アマテラス、志摩海人が信奉するワカヒルメ、出雲の美保海人が信奉するコトシロヌシ、摂津海人が信奉する住吉三神の四神であることを居合わせた誰もが理解しました。「これまで名を挙げなかった出雲の神まで登場した。美保の海人はオキナガタラシヒメ付きの海人だからだろうか」と臣下たちは小声でささやき合います。志摩、摂津と出雲の海人の首領たちは「オキナガタラシヒメさまと私たちの願いが神意を得た。いよいよ待望する新羅討ちとなる」と納得顔でした。

 

 翌朝、オキナガタラシヒメは、福岡湾の浜辺に出向きました。海に臨んで髪を解き、沖に向って叫びました。

「吾は神祇の教えを受け、王家の祖神の霊を頼って、滄い海原を乗り越えて、自ら率先して西の国を征しに参ります。今から吾の髪を海水にそそぎます。効験を下さるなら、髪は二つに分かれるでしょう」と髪を海水に入れますと、髪はごく自然に両側に分かれていきます。 オキナガタラシヒメは左右の髪を髻(みづら)に結い上げました。

 その日の午後、香椎宮に集う群臣の前に男装した武将の姿を現わしました。

「高天原でスサノオを待ち構えたアマテラス大神のお姿を彷彿させる」と一堂が啞然としました。

「征伐軍を興し、兵士たちを動かすことは国にとって一大事となる出来事です。安らかに勝利をおさめるか、危ない目に遭遇するか、敗退するかは分かりませんが、今、征伐すべき国が存在します。その国の征伐を群臣に託します。征伐に失敗することははなはだ不如意なことですが、罪は群臣にはありません。私は女の身ではありますが、雄々しい武将の姿に身をかえて、この謀(はかりごと)の先頭に立つ覚悟です。

 上は神祇の霊を仰ぎ、下は群臣の助けを得て、兵甲(つはもの)を率いて険しい浪を度り、艫船(ふね)を整えて財土を求めます。もし成功するなら、その功は群臣にあります。事がならない場合は、私独りの罪となります。この私の意思を汲み取って、是非とも私と共に戦ってください」と群臣に確言しました。

 

 群臣は躊躇なく、声を揃えて即答しました。

「オキナガタラシヒメさまが天下国家のために、宗廟(くに)社稷(いえ)を安鎮されました。罪が臣下に及ぶこともありません。慎んで詔を承ります」。

 もはや四大夫が新羅討ちに疑問をはさみこむ余地はありません。征伐軍の派遣が正式に決定しました。世間に漏れないように細心の注意を払いながら、遠征軍の準備が始まりました。

 

 

〔6〕新羅討伐

 

1.半島遠征準備

 

 新羅征伐の総大将はオキナガタラシヒメ(息長帯日売。神功皇后)となりました。夫の亡き後、正妻が部族の首長を継ぐことは、退治した山門縣の田油津(たぶらつ)媛の例に見るように古くから存在する慣習でもありましたから、女婦が総大将となることに違和感はありません。それに加えて群臣は実質的には武内宿禰が采配をふるうことになることを承知していましたので、タラシナカツヒコ(足仲彦。仲哀天皇)の座を未亡人が継いだ象徴的な名誉職に過ぎないことと解釈して、異議を唱えるものはありませんでした。

 最初の課題は船乗りの確保でしたが、志摩、摂津と出雲の三海人が主力となることが決まり、船舶の確保も一任されました。群臣の中には宗像海人を推す者もありましたが、宗像海人は筑紫国造の阿倍氏との結びつきが強かったこともあり、対象から外されました。

 

 志摩、摂津と出雲の三海人とも筑紫と半島の間を横断する外航は未経験でしたから、半島までの水先案内人が必要でした。その候補として、真っ先に岡縣主の熊鰐(わに)が響灘の吾瓮(あへ。 阿閉嶋、藍島)の海人、烏摩呂(をまろ)を推薦しました。そこで烏摩呂 を西海に出して、新羅国の有無を視察させました。阿閉嶋から船出した烏摩呂は半島への直行をめざしましたが、流れが速い対馬暖流を横断することができず、船は北東に流されて丹後半島に漂着してしまいました。海岸線沿いに筑紫に戻った後、香椎宮に出頭して、西方の国は発見できなかった、と頭を下げました。

 そこで磯鹿(志賀)島の「草」と名乗る海人を視察に派遣することにしました。志賀島の海人は奴国王が後漢の光武帝に遣使を派遣した頃から半島とを結ぶ交易の船乗りとして活躍し、奴国と伊都国が吉備邪馬台国の支配下に組み込まれた後も、さらに大和国が吉備邪馬台国を制覇して倭国の盟主となった後もしぶとく存続し、壱岐島、対馬経由の半島との往復の経験が豊富でした。草を含めた志賀島の海人はワタツミ(綿津見)三神( 底津綿津見、中津綿津見、上津綿津見)の子、宇都志日金拆(うつしひがなさく)を祖とする安曇(あづみ)一族に属していました。志賀島海人の中には、金官国の女人を妻にして誕生した子で、金官国で成長して金官国の言語を話す者も混ざっていました。

 草は予定よりも日数を費やしたものの、無事に帰還して「海中の西北に確かに山々が見え、山々の上には人家があることを示す雲が横たわっておりました」と報告しました。

 

 910日、地元で入手できる船だけでは不足なので、諸国に命令して船舶を掻き集めました。出雲海人が日本海、摂津海人が瀬戸内海を担当し、手分けして集めた船は総計200艘に上りました。しかし外洋の対馬暖流と朝鮮海峡を乗り越えるには脆弱すぎて、遭難の恐れがある小型の船や老朽化した船も混ざっていたため、出航可能な船を選別すると百艘に減ってしまいました。

 船を操る海人は確保できたものの、上陸して戦う兵士集めに難航してしまいます。するとオキナガタラシヒメが「羽白熊鷲(はしろくまわし)退治の際に滞在した松峡宮がある朝倉郡三輪で兵士集めをしてみたら」と提案しました。

「三輪周辺の農民や住民達は永年、羽白熊鷲一味や匪賊たちに農地や家屋を荒らされ、流浪の身に落ち込んでしまった者も多いと聞いております。私どもが匪賊を一掃したことに恩義の念を抱いているに違いありませんから、意気に感じて志願してくる者がいるはずです」。

 オキナガタラシヒメは妊娠中の身でしたから、大三輪君と 中臣烏賊津(いかつ。雷大臣)連が派遣され、刀と矛を奉って大和の三輪山に鎮座するオオナムチ(大己貴。オオモノヌシ)を祀りました。報酬が間違いなく支給されることに魅力も感じたのでしょうか、数日後、流浪の身に落ち込んでいた流れ者を先頭にして、続々と兵卒志願者が集まってきました。

 

 

2.討伐軍の出発

 

 9月下旬、伊都国からの出発に先立って香椎宮で出陣式が執り行われました。大将姿に男装したオキナガタラシヒメが正面に座り、左右を武内宿禰と四大夫が固めました。オキナガタラシヒメは膨らんできたお腹を隠すようにしていましたが、身重であることはすでに誰もが分かっていました。

 討伐軍の指揮官は異論も出ずに武内宿禰となりました。武内は志摩海人の首領を補佐役に任命し、「志摩(斯摩)宿禰」の称号を授けました。次に摂津海人の依網吾彦男(よさみのあびこを)を水軍の将として祭の神主に指名し、垂見(たるみ)の称号を授与しました。四大夫のうち大伴武似連と大三輪君は出軍し、中臣烏賊津(いかつ。雷大臣)連と高齢の物部胆咋連は香椎宮に残ることになりました。

 

「私は総大将ですから、先頭の船に乗り込むことにします」とオキナガタラシヒメが切り出しますと、家臣の大半が啞然としてぽかんと口を開けてしまいました。

「身重の御身で自ら半島へ出征なさるお積りですか」。

「勿論です」と毅然とした返答に場内は騒然となりました。

 真っ先に志賀海人の首領が顔を真っ赤にして「私はヒメさまのご乗船を拒否いたします。対馬暖流の恐さをご存じでないでしょうが、荒波に船が翻弄されます。お腹におられるタラシナカツヒコさまの愛児ををむざむざあの世に送ることは許されません」と声を荒げて反対しますと、武内宿禰以下、一同も揃って反対の意を示しました。四面楚歌となってしまったオキナガタラシヒメは自らの出征を撤回せざるをえなくなりました。

「それでは、せめて伊都国の港まで見送りに行くことにいたします」。

 

 吉日を卜(うら)なって出立となった早朝、大将姿のオキナガタラシヒメは自ら斧と鉞(まさかり)を執って、出征する家臣たちの前で声を振り絞って鼓舞しました。

「鼓の音節が乱れ、振り上げる旗がまい乱れると士卒の士気も乱れます。財宝を欲して私欲に走り、妻子に思いをはせてしまうと、敵に捕らわれてしまいます。敵を軽んじてはなりません。敵が強くとも怖じけてはなりません。暴力を以って婦女を犯すことはなりませんが、服従しない敵は殺しなさい。戦に勝てば必ず報償がありましょう。逃げ走ってしまうと、自ずから罪を受けましょう。すでにアマテラスと住吉三神が『神の和魂(にぎみたま)は王臣の身を守り、荒魂(あらたま)は先鋒に立って師船(みいくさのふね)を導く』と教示されています。恐れることはありません」。

 オキナガタラシヒメは大軍の先頭にたって香椎宮から那珂川を渡り伊都国へと進軍します。先頭に立つ総大将がオキナガタラシヒメだと沿道の誰も気付きません。田で働く農民たちは大軍に驚き、何事かと顔を見合わせます。唯一、半島へ向う征伐軍と気付いたのは迹驚岡(とどろきのおか。那珂川町安徳)で神に献じた地の開墾作業に汗を流す雑兵たちで、「必ず勝って来いよ」と叫びながら手を振り上げました。

 

 

3.ホムタ(誉田、品陀和気)王子の誕生

 

 伊都の港に一行が到着すると、すでに百艘の船が整然と並び、朝倉郡で徴用した兵士たちも待機していました。総勢約二千人の軍勢となりました。

 翌朝、上げ潮が始まり出すと、兵士たちが続々と船に乗り込んでいきます。オキナガタラシヒメは隙を見て、制止を振り切って船に乗り込もうと一艘の船に狙いを定めていました。「今だ」と狙った船に飛び込もうとした矢先、お腹の子が暴れ出しました。さすがに身の危険を悟りました。断腸の思いで船に飛び乗ることを諦めました。お腹の児を鎮めようと、石を取って御裳の腰に纒いて「無事に生まれて、征伐軍の凱旋を待望することにしましょう」と祈りました。その鎮懐石は、今でも伊都県の深江に残っています。

 

「新羅退治は但馬の人々の積年の願いです。幼い頃から母や叔父たちに聞いてきた辰韓の地を自分の眼で確かめたかった」と悔みながら、船団の船が見えなくなるまで見送りました。

 お腹の児をいたわるように、ゆっくりと間を置きながら香椎宮に戻ったオキナガタラシヒメは、しばらくして人目を避ける意味合いもあって、香椎宮から奥に引っ込んだ場所に移りました。その地は不弥国の旧地で、奴国の中心部から不弥国の港である津屋崎に至る街道沿いにありました。

 

 11月に入り、無事に男児が誕生しました。それにちなんで、赤子が生まれた地は「宇瀰(宇美。うみ)」と呼ばれるようになりました。オキナガタラシヒメは赤子の顔をじっと見つめながら、眼つき、唇、頬、額などタラシナカツヒコと似た部位や面影を探しますが、これと言った箇所が見つかりません。

「武内宿禰さまに似ておられる」と言いだす者が出てきたら、と気が気ではありません。

 すると敦賀から付き添って来た侍女で、実母がタラシナカツヒコの乳母を務めた者が、赤子の上腕を指しながら「上腕の宍(しし。贅肉)は鞆(ほむた。弓を射る際に肘にはめる皮具)によく似ております。タラシナカツヒコさまもご誕生された際に『上腕に鞆に似た贅肉があった』と母が申しておりました。やはり親子は似るものですね」と嬉しそうに微笑みました。その一言でオキナガタラシヒメは「救われた」と叫び声をあげたくなりましたが、じっとこらえて平静を装いました。赤子は躊躇なく「ホムタ(誉田、品陀)」と名付けられました。

 

 

4.壱岐と対馬の海賊退治

 

 征伐軍はまず壱岐島と対馬島に巣くう海賊や密貿易者の拠点潰しをはかりました。壱岐島が間近にせまると船団は前衛隊と後衛隊に分かれました。大伴武似連が指揮する前衛隊は壱岐島には寄航せず、対馬島へ先回りしました。大三輪君が指揮する後衛隊は壱岐島に進んだ後、郷ノ浦から右回り 芦辺から左回りの二手に分かれ、海岸線に沿って海賊や密貿易者の拠点を襲い、匪賊の船を焼き払っていきながら、勝本で合流しました。ふいをつかれた匪賊は船数と兵士の数に肝を潰し、大きな抵抗もせずに山中の密林に逃げ込んでいきました。

 対馬島へ先回りした大伴武似連が率いる先行隊も二手に分かれ、厳原から右回りで浅茅湾に進み、 別働隊は芦浦から日田勝へと右方に進んで左周りして、和珥津(わにつ。鰐浦)で厳原隊と合流しました。壱岐島の海賊の基地を退治した大三輪君軍も無傷のまま和珥津に入港してきました。

 

 103日に対馬の和珥津から半島の洛東江向けに出立しました。水先案内は金官国育ちの志賀島海人が務めます。曇天でしたが、「好天が続くと、突然、嵐に襲われることが頻繁にあります。曇天の方が海は平穏です」と海人が語るように、幸い海は穏やかで、船団は追風に乗って、鉏海(さひのうみ。朝鮮海峡)を快調に進みました。

 

 

5.洛東江急襲

 

 征伐を目指す新羅について、武内宿禰たちは詳しくは知りません。志賀島の海人たち、ことに金官育ちの海人たちから事情を聞きだして、概略を把握していきます。

 新羅(斯盧国)は三世紀後半から辰韓12か国の中から抜け出して膨張を始め、敗れた近隣国の王族や貴族が倭国にも逃亡してくるようになりましたが、その動きは四世紀に入ってからさらに強まっていきます。第16代訖解王(泥師今。姓は昔。治世310356年)の時代に入ると、満州系騎馬民族、ことに扶余族や高句麗の南下が進行します。313年に楽浪郡、314年に帯方郡が滅亡したこともあって三韓地域の象徴的な盟主だった辰国が衰微し、扶余族が馬韓地方を346年に統一して、近肖古王(治世346375年)が百済を建国しました。辰韓の新羅(斯盧国)の訖解王は南下してきた満州系騎馬族を迎え撃ちながら、捕らえた敵兵を通じて、敵が得意とする騎馬戦術を習得していきました。第17代として奈勿王(麻立干。姓は金。在位356年~402年)が即位した356年に新羅は辰韓地方の統一を遂げました。新羅は飛ぶ鳥を落とす勢いで洛東江まで飲み込んでいき、対岸の弁韓諸国に侵入を始め、さらに対馬と壱岐島の海賊や密貿易者と手を組んで西部九州勢力とも手を結んでいきました。

 

 情報を集めながら武内宿禰は戦略を練っていきます。武内宿禰にとって実戦は少年の頃、父の屋主忍男武雄に従って蝦夷退治をして以来のことでした。父から学んだ戦術は敵の動きを把握し、敵を騙し欺くことでしたが、先手必勝も父から教わりました。最初の目標は洛東江の河口を占拠して、対馬・壱岐島とをつなぐ糸を分断することでした。金官育ちの海人たちの話では、新羅と対馬とを結ぶ新羅の港は洛東江の河口右岸に突き出ている蹈鞴津(たたらのつ。多大浦)ということです。

 夕暮れが近づいた頃、先頭の船に乗った水先案内人が目指す方角に一匹のカモメを見つけると、停止の合図を船団に発しました。夜が更け、東方の空が白け始めると、岸辺に近づいていた、先行隊の船が篝火を焚きました。突撃の合図でした。沖合いで待機していた船団は一斉に蹈鞴津にこぎ入り、砦を急襲しました。徴用で集めた兵士以上に、船乗りを兼ねる志摩海人と摂津海人が活躍しました。予想だにしていなかった倭軍の急襲に慌てふためいたのか、大きな抵抗もなく、砦は陥落しました。摂津海人の依網吾彦男垂見は砦の門に杖を立て、倭軍を守る神として住吉大神の荒御魂(あらみたま)を祀りました。

 

 主力の船団は洛東江河口の対岸に横付けした後、金官国育ちの志賀島海人の案内で王宮に向いました。王門はすでに開かれており、金官(金海、南伽羅)国王は突然の助っ人の登場に大満足の様子で武内宿禰一行を出迎えました。同行した志賀海人が通訳を務め、対話がはずみます。

 金官国は初代の金首露王以来、金海金氏が王を継承していました。金首露王が奴国と伊都国に後漢への遣使を助言した経緯もあり、金首露王以来、金官国は筑紫とを結ぶ交易の出発地として、倭国と友好関係を維持していました。国王は洛東江の対岸から新羅兵が度々侵入して、防御に苦戦していましたから「救済軍の到来」と手放しで大歓迎でした。倭軍と同盟を結び、倭軍の駐留を認め、倭軍と力を合わせて新羅討伐を進めることに合意しました。

 

 倭軍は束の間の休息の後、金官国の兵士も加わって 、東莱の砦と梁山の草羅城(さわらのさし)を同時に急襲しました。ふいをつかれた東莱の砦と草羅城はあっけなく陥落しました。兵士を殺し、数名の将校を人質としました。厩には十数頭の馬がいましたが、倭軍の兵士の多くが馬を見るのは初めてでした。草羅城内の宝物庫に入ると、金官国、卒麻国、散半奚国など弁韓地方の近隣諸国から収奪した金・銀器や玉類、錦や絹織物などが燦然と輝き、倭軍の兵士たちは息を飲みました。草羅城に入った武内宿禰は倭軍の占有を示すべく、オキナガタラシヒメが託した矛(ほこ)を王門に突き刺しました。

 翌朝、武内宿禰が眼を覚ましますと新羅の反撃隊が城に迫っていることを知らされます。遠望すると、新羅の軍隊の中に馬にまたがった騎馬隊が約50騎ほど混じっていました。武内は騎馬兵の存在を耳にしてはいましたが、実際に見るのは初めてでした。倭軍を威嚇するかのように、馬にまたがった兵士が矢を射、槍を振り上げながら原野を疾走しています。その光景を見て、これではまともに戦っても敵わない、草羅城を守るだけで精一杯で、これ以上の前進をすることは不可能だ、と瞬時に判断しました。武内宿禰は「今回は新羅と筑紫を結ぶ密貿易の糸を断ち切ったことで良しとしよう」と、新羅の領内への深入りを回避することを決めました。

 

 血気にはやった兵士の中には「眼前の敵を蹴散らしながら、新羅の都まで進軍すべきだ」と不平をもらす者もおりますが、武内宿禰は自重を促し、草羅城の死守だけを命じました。新羅の反撃軍を目撃した大伴武似連と大三輪君も武内宿禰の決断に同調しました。

 金官国に戻った武内は、金官国に新羅退治の司令部を設置して、腹心の志摩宿禰を首班に任命しました。徴用兵と武内直参の斥候隊など総計千人を駐留させ、草羅城、東莱と蹈鞴津の砦の死守を命じました。同時に、乗馬と騎馬戦の修得、斥候隊には新羅に忍び込ませるための現地語の修得を命じました。

 

 捕虜とした将校数名と草羅城で奪った財宝に加えて馬も20頭ほどを乗せて、帰国の途に着きました。立ち寄った対馬には三百人、壱岐島には二百人の徴用兵を駐留させた後、伊都国の港に凱旋しました。

 

 

〔7〕近江朝討伐の決意

 

1.討伐の決意

 

 オキナガタラシヒメ(息長帯日売。神功皇后)はすでに武内宿禰が送った急使から、新羅征伐の突破口となる蹈鞴津(たたらのつ。多大浦)を占拠した知らせを受けていました。それから換算してみると、帰還は早くとも半年後、恐らく1年後だろうと予測していましたが、伊都国の出発から2か月ほどと、思いのほか早く戻って来たことに驚きました。

 武内宿禰を筆頭とする凱旋軍を香椎宮で迎えました。真っ先にオキナガタラシヒメは赤子を披露しました。「神託どおり、やはり男子でしたね。王子のご誕生とは喜ばしい限りです。出発前にお話しましたように、都に上り近江朝を倒して王子を新王に擁立いたしましょう」と赤子を大事そうに抱き上げます。ひょっとしたら、自分に似た顔立ちかもしれない、としげしげと赤子を見つめますが、タラシナカツヒコと同じように鞆(ほむた)が上腕にあることにちなんで、「ホムタ(誉田、品陀)」と命名されたことを知って、幾分か気落ちしてしまいました。

 

 武内宿禰は新羅国から連れ帰った捕虜たちを顔見せした後、燦然と輝く金・銀器や玉類、絹織物などを戦利品として次々に披露しました。金・銀や玉類の器はそれまでに見たことのない逸品で、一目で稀少な物であることが分かります。ところがオキナガタラシヒメは浮かぬ顔をしています。

「それにしても、新羅を制覇したにしてはお帰りが早すぎる気がします。新羅の都を占拠されたのですか。首都や王宮の様子はどうでしたか」とやんわりと質問を重ねます。

 自分自身は半島に足を踏み入れたことはなく、洛東江や新羅、金官国の地勢もよく分かりません。単純に辰韓地方は約12か国が存在したものの、新羅が無謀にも寡占していってしまったことなど、幼い頃から母や叔父たちの話を聞きながら、辰韓12か国時代の復活を漠然と願っていただけです。しかし大和から敦賀へ、そして筑紫に入り筑後から肥前へと実戦に従軍した体験から、出発してからわずか2か月ほどでの帰還は幾らなんでも早すぎる、と首をかしげます。

 

 最初のうちは話をはぐらかしていた武内宿禰も征伐したのは新羅のごく一部にすぎず、本体にはほとんど踏み込まずに引き返してきたことを白状せざるをえなくなりました。新羅の最前線の城と砦だけの制覇で、新羅内部には踏み入れなかったことを知って、オキナガタラシヒはぬか喜びをしただけだった、と落胆の色を隠せません。

「姫さまは御覧になったことはないでしょうが、話に聞いていた馬に騎乗した兵士の群れを初めて見ました。騎馬軍を持つ新羅は手強い相手です。我が軍も騎馬戦法を修得して、それから後に新羅の首都へと進撃しよう、と判断いたしました」などと説明をしても、合点がいかない様子です。 

「三韓の盟主という辰国とは接触できましたか」。

「さあ。新羅の侵入に悩む金官国とは同盟を結びましたが、辰国については耳にはしませんでした」。

 

 オキナガタラシヒメに半島の実情を幾ら説明したところで、埒が明かないことに気付いた武内は「とにかく、この勢いで都に凱旋いたしましょう。新王朝が固まった後に半島と新羅対策に本格的に着手いたします」と結んで王宮を去りました。それからというもの、半島や新羅に対するオキナガタラシヒメと武内の思惑の歯車は空回りしていきます。

 

 

2.吉備での準備

 

 武内宿禰は都入りまでの体制作りを吉備で行うことに決めました。そこで吉備建彦との仲介役として、肥後に遠征中の吉備建彦の息子である鴨別を筑紫に呼び戻すことにしました。吉備鴨別が到着する間に、金官国に残してきた志摩宿禰とを結ぶ窓口として、筑紫の中心部にあたる那珂川河畔に代表部を設置して、捕虜達も預けました。さらに志賀島海人の功績を称えて、福岡湾の沖合いにある志賀島に棲む安曇三神( 底津綿津見、中津綿津見、上津綿津見)に寄進しました。

 年が明け、吉備鴨別が筑紫に上ってきました。肥後は熊(球磨)勢力をようやく退け始めて、一息がついた、ということでした。二月に入り、オキナガタラシヒメは群卿や百寮を引き連れて穴門の豊浦宮に移りました。真っ先にタラシナカツヒコ(足仲彦。仲哀天皇)の殯(もがり)宮を詣でた後、四大夫たちを面前にして、正式に近江朝討伐の決意を発表しました。

 すると新羅征伐軍を導いた表筒男・中筒男・底筒男の三神がオキナガタラシヒメに「吾の荒魂を穴門の山田邑に祀りなさい」と教え諭しました。それに呼応するかのように、穴戸直の践立(ほむたち)と津守連の祖である田裳(たもみ)宿禰も「神が望まれる場所に祀らねばなりません」と進言しました。そこで践立を住吉三神を祀る神主として山田邑に祠を建てました(住吉神社。下関市一の宮町)。

 

 穴門の豊浦から、タラシナカツヒコの柩を喪船に乗せて吉備に向けて船出しました。吉備の高梁川河口に到着した一行は一足先に吉備鴨別を父の吉備建彦の許へ送りました。吉備鴨別は父と兄の御友別に、タラシナカツヒコの戦死、西部九州勢力退治、新羅征伐、ホムタ王子の誕生、都に戻って近江朝を討伐する計画などを手短に報告しました。吉備建彦親子は噂で聞いていた以上の変転に耳を疑いましたが、元々、近江朝廷に対する不満が鬱積していましたから、近江朝の討伐にも賛同しました。

 翌日、吉備建彦はオキナガタラシヒメと武内宿禰を迎え入れました。オキナガタラシヒメと出会うのは初めてでしたが、顔立ちがよく利発そうな様子を見て、タラシナカツヒコが惚れた理由も分かりました。ヲウスの義父でもある吉備建日子はヲウスの孫にあたるホムタ王子を抱き上げて「祖父のヤマトタケルを越える人物になりなさい」と言葉をかけますと、赤子は元気そうな泣き声をあげました。

 

「貴殿は近江朝廷の筆頭大臣のはずです。それでも本当に近江朝廷を倒すお積りですか」と吉備建日子は武内宿禰の腹のうちを探りました。

「ワカタラシヒコ王(若帯日子。成務天皇)は尊重しておりますが、行政には無頓着です。大和尾張氏の五兄弟を筆頭とする王を取り巻く家臣たちが跋扈し、その腐敗ぶりに愛想がつきました。隙を狙って私を蹴落とそうともしております。今、近江朝廷を倒さないと大倭国は奈落に落ち込んでいくだけだと判断しました。近江朝に反目する和邇氏大口納殿とも話し合いを済ませております。もう後戻りは出来ません」。

 

 武内宿禰の眼差しをじっと見つめながら、武内宿禰を信用しても問題はないと判断をした吉備建彦は近江朝廷と戦う武器や兵士の調達にも同意しました。一行は戦いの準備をしつつ、しばしの休息をとりました。

 ところが「壁に耳有り」でした。播磨の分家筋が本家での見習い修行の名目で送り込んでいた下男と下女が一部始終を聞いており、すぐに播磨に詳細を知らせる使いを送りました。加古川河畔に住む彦人大兄にも即座に伝えられました。彦人大兄はヲウスの母、稲日大郎姫の妹イナビノワカイラツメ(稲日稚郎姫)がオシロワケ王との間にもうけた王子で、娘の大中津日売はタラシナカツヒコの第一后となってカゴサカ(香坂)とオシクマ(忍熊)の二王子の母となっていました。

「タラシナカツヒコの死を受けて皇太子の座を継ぐ者は、新たに生まれた子ではなく、自分の孫である年長のカゴサカとオシクマの二王子であってしかるべきだ。おまけに神功の母方は半島からの亡命一族ではないか」と腹を煮えくらせながら、近江朝廷に急使を送りました。

 

 

3.迎え撃つ近江朝軍

 

 彦人大兄の知らせを受けた近江朝廷は俄かに騒然となり、次々と家臣たちが王宮に駆けつけました。「風の便りで流れていたタラシナカツヒコの死と遺児の誕生は本当だった」と頷き合います。その上、「海を渡って新羅を討ち、余勢をかって都に上り、近江朝廷を倒して赤子を新王に立てようとしている」との知らせは青天の霹靂(へきれき)でした。

 直ちに緊急会議が開かれました。普段はあまり感情を表に出さないワカタラシヒコ王もさすがに激昂しました。「タラシナカツヒコを皇太子として呼び戻す名目で筑紫に送った武内は吾の信頼を裏切った。おまけに物部胆咋連も寝返ったとは何事だ。すぐに刺客を放って武内を処分してしまえ」と怒声をあげました。

 しかしいつも通り、細部は家臣たちにまかせっきりでした。当座の対策として家臣たちは直ちに播磨の彦人大兄と手を結び、彦人大兄の孫であるカゴサカとオシクマの二王子を皇太子候補として近江へ招請することを決めました。カゴサカとオシクマは10歳前後でまだ成人には達していませんでしたが、すぐに状況を把握して武内とオキナガタラシヒメに敵意を燃やしました。

 

 近江朝廷の主導権は大和尾張氏の倭得玉彦の五人息子である弟彦、玉勝山代根古、若都保、置部与曽、彦与曽と阿倍氏本家の雷別が握っていました。しかし尾張五兄弟は声を張り上げて右往左往するだけで、肝心な時は役立たずであることを露呈してしまいます。

 苦々しい思いで尾張五兄弟を無視した阿倍氏雷別は、同族の難波吉師部の祖、五十狭茅(いさち。伊佐比いさひ)宿禰を武内宿禰討伐の将軍に据えました。討伐軍には真っ先にタラシナカツヒコの同腹の兄、稲依別(いなよりわけ)の息子である犬上君の倉見別が加わりました。続いて美濃のオオウス(大碓)の息子、押黒の兄日子(えひこ)と弟日子も馳せ参じました。武内の腹違い弟である甘美内(うましうち)宿禰も、母が尾張連の祖である意富那毘(おほなび)の妹、葛城の高千那毘賣で、大和尾張氏の出自でしたから、自然と近江側に付きました。近江朝は尾張国造や毛野(上野国と下野国)の豊城入彦族など東国勢力にも兵士の派遣を要請しました。

 

 オキナガタラシヒメと武内宿禰一行を迎え撃つ討伐軍は五十狭茅(いさち。伊佐比)宿禰が左の大将、倉見別が右の大将となり、カゴサカとオシクマを先頭に押し立てて、莬餓野(とがの。神戸市灘区都賀川)に進軍し、明石海峡を封鎖する指示を播磨の彦人大兄に伝えました。

 指示を受けた彦人大兄は、タラシナカツヒコの陵墓の築造を口実にして、船をつなぎ組んで淡路島と結び、明石海峡を封鎖すると同時に、淡路島から石を運んで砦を築きました。

 

 

4.明石決戦

 

 オキナガタラシヒメ一行の船団は吉備建彦の跡取りである御友別も同行して、難波をめざして穴海から出立しました。オキナガタラシヒメは、敵の疑念を惑わす意図もあって、タラシナカツヒコの柩を乗せた喪船に愛児を乗せ、船乗りたちに「御子はすでに崩御された」と言い漏らさせました。

 船団は彦人大兄の部隊が封鎖する明石海峡に近付きました。彦人大兄軍は敵の船に乗り込もうと浜辺から続々と小舟を漕ぎ出しましたが、船団の前列に乗り込んだ兵士が淡路島と明石を結ぶ小舟列に火矢を放つと、幾つかの小舟から火が燃え上がっていきます。小舟線列が乱れて封鎖が解けたことから、船団は難なく最初の関門を突破しました。

 

 明石の海峡封鎖を破った後、近江朝の内通者から「武内暗殺の刺客が放たれた」という通知も受け取っていたこともあって、武内宿禰は赤子の守り役として赤子を抱いて紀伊に向いました。武内宿禰は紀伊で生まれ育ったことから、安全な場所を熟知し知人も多く、さらに敵軍が「裏切り者」と連呼する武内を先頭に立たせることをはばかったこともありました。

 オキナガタラシヒメは夫が息を引き取る前に「何か大事があったら、必ずヤマトヒメに相談するようにしなさい」と言い残したことを思い出し、武内に紀伊に着いたら、すぐに伊勢のヤマトヒメに連絡するように指示しました。紀の川の水門に到着した武内は大和の和邇氏大口納に急使を派遣し、河内への出兵を依頼しました、同時にヤマトヒメを信奉し、絆も強い志摩海人を使者に立て、これまでの経緯をヤマトヒメに報告しました。

 

 

5.莬餓野と難波の決戦

 

 明石海峡を突破したオキナガタラシヒメ軍はさらに東進していきます。幸運の女神に祝福されたのか、莬餓野で待ち構える近江軍の兵卒の大半の士気がすでに萎えていました。敵の到来を待つ間に「誓約(うけい)狩り」が行われました。神に誓って狩りをして、吉凶の神意をうかがう儀式でした。歴木(くぬぎ)で建てられた仮庪(さずき。桟敷)にカゴサカとオシクマが陣取り、獲物を狙っていると、大猪が突進して来ました。仮庪で脚を止めた大猪は歴木(くぬぎ)の柱を掘っていき、仮庪を倒してしまいました。大猪はふらつきながら起き上がったカゴサカを牙で突き殺してしまいました。「神意は凶と出た」と兵士達は震え上がり、怖気づいてしまいました。

 

 沖合いにオキナガタラシヒメの船団が見えてきました。まだ幼さが残るオシクマは兄よりも勇気がありました。敵の喪船を攻撃しようと兵卒を鼓舞しますが、兵卒の動きは緩慢で、もたつくうちに敵の尖兵隊が喪船から上陸し、近江軍と対峙します。動揺した近江軍の兵士たちの中から敵に向かって突撃していく者は現れません。敵兵は続々と上陸してきます。形勢が不利と判断した近江軍の将軍、五十狭茅(伊佐比)宿禰は河内湾の入り口にあたる難波への退却を命じました。

 近江軍を追う形で、オキナガタラシヒメ軍は河内湾を目指して難波に進みます。近江軍は難波の海峡を挟む形で、河口左岸と右岸の上町台地の二か所に陣地を置いていました。オキナガタラシヒメ軍は難波を素早く通過して河内湾に入ろうとしましたが、折り悪く引き潮で淀川や河内湾から下る水の流れが速く、先に進めず立ち往生となってしまいました。近江軍が両側からおびただしい量の矢を放ち、敵兵が乗った小舟の群れも近付いてきました。やむなく船団は務古(武庫)水門に引き返しました。

 

 務古水門に落ち着いたオキナガタラシヒメは神託を占いました。するとまずアマテラスが現れ、「吾の荒魂はオキナガタラシヒメの許から離して、広田の地に祀りなさい」と教示しました。そこで山背根子(やましろのねこ)の娘、葉山媛を祭女にしてアマテラスを祀りました(広田神社。西宮市)。

 次に志摩海人が祀るワカヒルメ(稚日女)が現れ、「吾は活田の長狭を望む」と教示しました。そこで海上五十狭茅(うながみのいさち)を祭人としてワカヒルメを祀りました(生田神社。神戸市生田区)。

 次に、出雲の美保海人が祀るコトシロヌシ(事代主)が現れ、「吾を御心の長田に祀りなさい」と教示しました。そこで葉山媛の妹、長媛を祭女にしてコトシロヌシを祀りました(長田神社。神戸市長田区)。

 最後に、摂津海人が祀る表筒男・中筒男・底筒男の三神が現れ、「吾の和魂を大津の渟中倉の長狭に祀りなさい。行き交う船を監視する」と教示しました(本住吉神社。神戸市東灘区)。

 

 渟中倉の長狭に拠点を構えた摂津海人は地勢に精通していましたから、難波攻略の先頭に立ち、活田の長狭から志摩海人、長田から出雲の美保海人が後に従います。

 難波では近江軍が士気を盛り返したこともあって、激戦となりました。摂津海人は上町台地の住吉の陣地への攻撃に手こずります。運が良いことに、大和から下って来た和邇大口納の息子、建振熊(たけふるくま)が率いる援軍が上町台地に肉薄してきたことから、近江軍は難波防衛を諦め、淀川を上って菟道(うじ。宇治)へと撤退しました。近江軍の誤算は援軍の派遣を依頼した尾張国造一族も毛野の豊城入彦一族を筆頭とする東国勢力も何の反応も起こさなかったことでした。

 

 摂津海人が住吉の砦を占拠した後、四大夫は難波から大和に向かい、オキナガタラシヒメは務古水門から紀伊へ下り、武内宿禰と赤子に再会しました。武内は赤子を神功に託して、和邇大口納との面談に向けて大和に上りました。

 

 

〔8〕近江王朝の崩壊と第二王朝誕生

 

1.ヤマトヒメと和邇氏大口納の出会い

 

 武内宿禰が派遣した使者から状況を知らされた伊勢のヤマトヒメ(倭比売)は、すぐさま都に上り、和邇氏大口納の屋敷を訪れました。突然の来訪に大口納はヤマトヒメも近江朝に批判的であることを承知しているものの、「何事だろう。ひょっとしたら武内宿禰との密約を近江朝が知ったので、それを警告するための訪問か」といぶかりながら、とりあえずヤマトヒメを座敷に招きいれました。

 大口納とほぼ同じ世代にあたるヤマトヒメは50歳代に入って小太りになって貫禄を増していました。血色はよく、若い頃と同様に凛としてしています。心ある畿内の中小氏族の多くは「ヤマトヒメが王子だったら、後継王に指名していた」とのイクメ王(活目入彦五十狭茅。垂仁天皇)の言葉を忘れず、オシロワケ王(大足彦忍代別。景行天皇)に代ってヤマトヒメが王位を継いでいてくれていたら」とヤマトヒメを思い慕う人が今なお少なからず存在していました。

 

「武内宿禰から使いが参りまして、事の重要さを知り、急遽、ご相談に大和に上ってきた次第です」とヤマトヒメが切り出しました。

「事態はすでに動きだしております。私の所にも武内からの使いが参りました。実は武内宿禰が筑紫に向う前に私の許を訪れ、腐敗した近江朝を倒してタラシナカツヒコ(足仲彦。仲哀天皇)さまを王に立てる決意を語り、私も含めた反近江朝派との連合を願い出た次第です。私も使いから話を聞いて、昨年に入ってからタラシナカツヒコさまが急死され、その後、西部九州勢力と朝鮮半島の新羅とを結ぶ糸を断ち切る目的で新羅征伐を実施し、その間に王子が誕生した、などなど風の噂が本当であったことを確認しました。タラシナカツヒコさまの遺児を立てて都に上って来たところ、河内湾への入り口で近江軍の攻撃を受けているから、と援軍を要請してきました。それに答えて、息子の建振熊に兵卒をつけて河内に送ったところでございます」。

「私もほぼ同様の内容を使者から受けました。ご相談にあがったのは、これからをどうするかについてです。私は武内宿禰の本性について分りませんし、タラシナカツヒコの第二后となったオキナガタラシヒメ(息長帯日売。神功皇后)に出会ったことはありません。二人とも信頼に足る人物なのでしょうか」。

 

 武内宿禰は近江朝廷の筆頭大臣から寝返った人物となりますから、ヤマトヒメは武内に対して警戒心を抱いていましたし、オキナガタラシヒメの人となりも分かりません。

「筑紫に下る前に武内とじっくり話し合いました。武内は行政の手腕は抜き出ておりますが、嫉妬する家臣たちのいじめにあって改革が思うように進まず、おべっかいだけは巧みだが無能な家臣たちをうまく操縦できないワカタラシヒコ王(若帯日子。成務天皇)に見切りをつけたとのことです。大倭国の将来を憂えておりますが、自ら王に立つ野心はないようです。第二后となったオキナガタラシヒメに私も出会ったことはありませんが、父の息長宿禰はヒコイマス(日子坐)の曾孫、母の葛城高額比売はイクメ王に忠義をつくした田道守の姪ですから、信頼を置いても問題はないでしょう。タラシナカツヒコさまも惚れこんで、正后にしようと考えておられた、と聞いております」。

 

「父王(伊久米伊理毘古伊佐知。垂仁天皇)は大倭国の統一を達成した祖父王(御真木入日子印恵。崇神天皇)の意思を継がれて、大倭国をまとめあげる体制を築きました。それを兄オシロワケ王(大足彦忍代別。景行天皇)が腐りきった治世でおかしくしてしまいました。王朝の腐敗を断ち切るためには新王朝を創った方が良いとは思います。しかし近江朝を倒すことに自信をお持ちですか」。

「兵力では私どもの方がはるかに勝っております。近江側は尾張国造や毛野(上野国と下野国)の豊城入彦族など東国勢力に兵士の派遣を要請したようですが、尾張国造や東国勢力は近江朝と距離を置いておりますから、援軍を送ることはありえません。課題は畿内の氏族を納得させ、支持を得ることですが、それをできる人物はヤマトヒメさましかおりません。是非ともお力をいただきたい所存でございます」。

 

 近江王朝打倒の点で合意に達した二人は新しい王に誰を立てるか、の話し合いに進みました。

「私が可愛がっていたヲウス(小碓)が王に立っていたならよかったのですが、不慮の死を遂げてしまい、今度は期待をかけていたタラシナカツヒコも若死にしてしまいました」。

「武内たちはタラシナカツヒコさまが残された遺児を新王に立てようと考えているようですが」。

「でもまだ一歳にも満たない幼児を王に立てることはいかがでしょう。無事に成人してくれるか否かも分かりませんし、反対する氏族も多く出ることでしょう」。

「中継ぎとしてワカタラシヒコ王の同腹の弟である五百木入日子を立てることも考えられます」。

「五百木入日子とは日頃から親しくしておりますので、よく存じておりますが、元から王位に興味を抱いてはおらず、今は病に臥しております。王に立てるとするなら、息子の品田真若が考えられます。品田真若は叔母の金田屋姫と結ばれたばかりです。でも尾張氏の色彩が強まり、大和尾張氏との関係も微妙となりましょうし、近江朝側についた氏族を遠ざけることは難しいでしょう」。

「亡きタラシナカツヒコさまを第二王朝の初代王に据え、遺児の息子を皇太子としてオキナガタラシヒメが摂政をする、という形態も想定できますが」と大口納が提案しましたが、新王については結論が出ないまま、ヤマトヒメは大口納の屋敷を去りました。

 

 

2.ヤマトヒメと武内宿禰の出会い

 

 難波決戦に勝利をおさめ、近江軍が宇治に撤退した後、難波から大和入りした四大夫が大口納の屋敷を訪れました。開口一番、息子の建振熊軍を河内に送ったことに礼を述べました。事が成就したなら、「難波根子」の称号を建振熊に贈るように新王に進言することを約束します。ヤマトヒメも同席しているので驚きましたが、ヤマトヒメも味方についたことで、四大夫は反近江陣営の勝利を確信しました。筑紫行きからの詳細を大口納とヤマトヒメに報告しましたが、ほぼ武内宿禰の使いからの話と相違はありません。

 

 数日後、武内宿禰も紀伊から大和入りして、大口納とヤマトヒメと面談しました。ヤマトヒメは武内を正面から見つめながら、武内の人となりを観察します。

「どうして新羅討ちを決めたのですか」とヤマトヒメが問いました。

「新羅討伐は、元々はタラシナカツヒコさまの筑紫入りと熊襲退治から始まりましたが、新羅と西部九州勢力や熊襲勢力との糸を分断するためです。もう一つは鉄資源の確保にあります」。

「オキナガタラシヒメとはまだ出会ったことはありませんが、どういった人柄なのでしょうか」。

「まだ若いですが、知性に秀で行動力もあり、タラシナカツヒコさまも一目を置かれておりました。神々からの信頼も篤く、新羅討伐もアマテラス大神の荒魂がオキナガタラシヒメに神がかりして神託を告げたことがきっかけとなりました」。

「新王朝となっても、父王が編纂した大倭国神話は間違いなく継承してくれますでしょうか」。

「もちろんですとも。私はイクメ王がまとめ上げられた大倭国の体制を継続するには、近江朝を倒して新王朝を樹立するしかない、と判断しております」。

 

 武内宿禰の言葉に嘘偽りはなさそうです。自ら王となる野心も見受けられません。ヤマトヒメは新王に品田真若を立てるか、タラシナカツヒコの遺児を立てるかで迷っていましたが、武内一行が筑紫を訪れた際に、タラシナカツヒコが父王時代から続く近江朝の腐敗振りを憂えて討伐を決意し、自ら新王朝の初代王を宣言した、という筋書きにすることも可能ではないか、と思い至りました。第一王朝下では未亡人が摂政の形をとることはなく、母方は半島出自の但馬氏であることも懸念となりますが、新しい扉を開けることをオキナガタラシヒメと武内宿禰に託してみよう、という気持ちに傾いていきました。

 

 

3.オキナガタラシヒとニブツヒメ(丹生都比売)

 

 紀ノ川から南に位置する日高で武内宿禰とホムタ(誉田、品陀)王子と落ち合ったオキナガタラシヒメ(息長帯日売。神功皇后)は、土地に詳しい武内宿禰の判断でさらに南に下った安全度が高い小竹宮(しののみや。御坊市新町)に遷りました。ホムタ王子が誕生して以来、信頼を深めた侍女サクラを話相手としながら、 都へ上った武内からの便りを心待ちにします。

 気になっていたことは、摂津海人から紀伊のニブツヒメ(丹生都比売。爾保都比売)を筒川の藤代の峰に鎮め祀ることを託されていたことでした。新羅征伐で一番の功績をあげた摂津海人たちの話では、「新羅征伐の際、ニブツヒメが石坂比売に神がかりして神託され、自分をよく祀るならば、善き験を出して新羅平定を助けようと語って、赤土(辰砂。水銀朱)を賜わりました。その赤土を逆鉾に塗って船の艫舳に立て、さらに船や軍衣も丹で染めると、軍の威力が増し、無事に朝鮮海峡を渡ることができ、新羅征伐も成功をおさめることができた」ということです。

 筒川の藤代の峰の所在地を調べさせますと、紀ノ川の支流である丹生川の水源付近と分かりました。またニブツヒメは橋本の手前に位置する伊都郡の天野(かつらぎ町)に祀られている(丹生都比売神社)ことも分かりました。どちらも小竹宮から少し距離が離れていましたので、参拝に出掛けることを躊躇し、しばらくの間は様子を見ることにしました。

 

 それ以上に気掛かりとなっていたのは、小竹宮に遷ってからというもの、昼も夜のように暗い日々が続いていたことでした。時人は「常夜が続く」とおののいておりましたが、縁起が悪く不吉だと、オキナガタラシヒメも縁起が悪く不吉だと不安がりました。「この怪現象はどうしてでしょう」と紀伊直の豊耳に問いますと、一人の古老が「言い伝えによりますと、こうした怪現象を『阿豆那比(おづなひ)の罪』と申します」と答えます。その意味を問いますと、「死者二人を同じ穴に合葬して不吉を呼び寄せてしまう罪でございます。おそらく異なる神社に帰属する祝者(はふり。神職の下級職)を一緒に合わせ葬むっているためでしょう」と答えました。

 里人に推問していくと、一人の者が「かって小竹(しの)祝と天野祝という仲が良い友達同士がおりました。悲しいことに小竹祝が病にかかって他界してしまいました。天野祝は血涙しながら『私は小竹祝の生存中は親友だった。小竹祝が埋葬された穴に私も一緒に埋葬されることにする』と決意して、屍の側に伏して自決してしまいました。言い残した言葉どおりに合葬されましたが、これがおづなひの罪にあたるのでしょう」と解明しました。

 小竹祝の墓を開けてみると確かに合葬されていました。オキナガタラシヒメは天野祝はニブツヒメを祀る神職であったことに気付き、常夜が続くのは「ニブツヒメが天野祝を戻してくれ」と懇願しているためであることを悟りました。早速、天野の祝の柩を取り出し、サクラをつけて天野に運んで埋葬し、合わせてニブツヒメに新羅討伐のお礼の奉納しますと、たちまち太陽の輝きが復活し、日と夜の別々となりました。

 

 

4.宇治の決戦

 

 いよいよ、近江軍との決戦を迎えました。和邇氏建振熊は約三千の兵士を率いて都を発ち、木津川を越えて宇治川で近江軍と対峙しました。敵から「裏切り者」と怒号を浴びせられるのを危惧した武内は前線に出るのを避け、参謀役として背後で秘策を伝えます。

 決戦の朝、兵士たちは、みづらをほどいて髪を頭の上に椎のように束ねることを命じられました。

「これは蛮族の蝦夷の結い方ではないか。なぜ俺たちが蛮族のふりをせねばならないのか」と不平をあげる者もおりました。しかし「束ねた髪に儲弦を隠し入れ、木刀(こだち)を佩け」との命令が出されて、誰もが策略に合点がいきました。これは武内が少年の頃の蝦夷退治で身につけた戦法でした。

 

 宇治川を挟んだ対岸では忍熊(おしくま)王を中央に、左に五十狭茅(伊佐比)宿禰、右に倉見別の左右二大将が並び、決戦の火蓋が開くのを待ち構えていました。軍の先鋒をになう忍熊王の親衛隊長である熊之凝(くまのこり。葛野城首の祖または多呉吉師の遠祖)が兵衆を奮い立たせようと、勝ち鬨の歌を高唱します。

彼方にある松がまばらに生える原へ あの松原へ進軍し 

槻の弓に鏑矢をつがえ 貴人は貴人同士で 親友は親友同士で いざ闘おう 我々は。

武内宿禰の腹の中に小石が詰まっているはずはない さあ 闘い抜こう 我々は

 

 近江軍の士気が高揚します。対岸の敵軍の蝦夷風の髪型をめざたく見つけて、「敵は兵士の数が足らず、陸奥の蝦夷まで調達せざるをえなくなった」と小ばかにして、嘲笑する兵士もいました。

 建振熊が対岸から声を張り上げました。「オキナガタラシヒメは難波の戦いで崩御された。我々に天下を強奪する意思はない。忍熊王が王位を継がれるなら、幼い王子は腹違いの兄に従うこととなる。もはや戦闘する必要はなくなった。共に弦を絶ち兵を捨て、連和しようではないか。君王となる忍熊王は天業(あまつひつぎ)に登り、席(みまし)に安住して、独断で政事を行うことができる。忍熊王に帰服する証拠として、自軍の兵士たちに弦を断ち、刀を解いて河水に投げることを命じよう」。

 

 建振熊の命令におとなしく従った兵士達は 弦や木刀を川に投げ捨てました。それを見た近江軍の兵士たちは敵兵が怖気づいた、と歓声をあげました。忍熊はまだ子供でしたから、敵の策略を見破ることはできません。大将二人も兵卒の歓声に浮かれてしまったのか、建振熊の虚偽を信じてしまい、弦を断ち刀を解いて河水に投じることを軍衆に命じました。

 それを見た武振熊軍の兵士たちは直ちに頂髪の中に隠した弦を取り出し、草むらに隠していた真刀を佩いて、河を渡って進んでいきました。謀られたことに気づいても、もう手遅れでした。欺かれたことを知った忍熊王は五十狭茅宿禰と倉見別に「吾は見事に騙されてしまった。今は余分の武器もなく、兵士もいない。戦いの続行を止める」と慌てふためきながら、兵士を曳かして退却してしまいました。建振熊軍の精兵が近江軍を追っていきます。近江軍は山代と近江の国境にある坂に逃げ退いて、追っ手に立ち向かいましたが、あえなく敗退します。それ以後、国境の坂は「逢坂」と号されました。

 

 

5.近江朝の崩壊と第二王朝の開幕

 

 琵琶湖南部の沙沙那美(ささなみ)まで追い詰められた近江軍の残兵は栗林に逃げ込みましたが、追いついた建振熊軍の矢に射られ刀で斬られ、おびただしい血が流れ、栗林が真っ赤に染まりました。この戦いの後、この栗林で実る栗の実は王宮に献上されないようになりました。

 切羽詰った忍熊王と五十狭茅(伊佐比)宿禰は小舟に飛び乗りました。さざなみに揺れながら、忍熊が五十狭茅(伊佐比)宿禰に呼びかけました。

さあ君よ。建振熊の手で深手を負ってしまうより 鳰(にほどり。カイツブリ)が潜る 近江の湖に 沈んでいこう

 

 小舟が瀬田の渡しに差し掛かった時、二人はうち揃って入水し、二人の姿は水中に没しました。遠くからその光景を目撃した武内宿禰が詠いました。

淡海の海 瀬田の渡りに 潜った鳥が 見当たらなくなった どこに行ったのか 不安でもある

 二人の亡骸は捜索しても見つかりません。数日が経過した後、二人の亡骸は宇治川に浮かび上がりました。武内宿禰は再度、詠いました。

淡海の海 瀬田の渡しで 潜った鳥は 田上を過ぎて 宇治で捕らえることができた

 

 生き延びた、数少ない敗兵はちりぢりになって逃亡していきました。もう一人の大将である倉見別は捕らえられ、即刻、打ち首となりました。建振熊軍が王宮に踏み込んだ時、すでに大和尾張家の五兄弟は行方知らずとなっていました。ワカタラシヒコ(成務天皇)は愛后の弟財郎女(おとたからいらつめ)と奥宮に潜んでいましたが、そのまま幽閉の身となりました。

 固唾を呑んで動静をうかがっていた畿内の中小豪族は雪崩をうって、武内・和邇連合につきました。オシロワケ王と五十河媛(いかわひめ)との間に生まれた王子で、讃岐国造となった神櫛と播磨国造となった稲背入彦(いなせのいりびこ)が近江朝へ援軍を派遣しましたが、摂津に駐留する海人たちの手で近江入りを阻止されてしまいました。

 

 畿内でも近江朝の復活を狙う分子がまだ残存していましたし、讃岐を主体に抵抗を示す勢力もあり、畿内外の氏族との調整も必要でしたが、ヤマトヒメ、和邇氏大口納と武内宿禰の三者の先導で、第二王朝誕生の新しい風が吹き始めました。

 

 吉野と宇陀野地域に産出する水銀朱(辰砂)の確保を目的に、西暦80年代に大和入りしたイハレビコ(伊波禯毘古。神武天皇)が大和盆地南西部の南葛城地方に建国した葛(狗奴)国が第一王朝の発端となりました。第五代カニシエ王(御真津日子訶恵志泥。孝昭天皇)が180年前後の倭国大乱の渦中で、伊勢、美濃、尾張の東海三国の制覇をしてから葛国の膨張が始まりました。267年頃に倭国(西日本)の盟主である吉備邪馬台国の制覇を達成した後、倭国の支配化が一挙に進み、290年頃に第十代ミマキ王が東西倭国の統一を達成して大倭国が誕生し、第十一代イクメ王の治世下で第一王朝は絶頂に達し、大倭国の神々と神話が体系がまとめあげられました。第十二代オシロワケ王の治世に入ってから、王朝の爛熟腐敗化が急速に進行した結果、約280年間継続した第一王朝は361年に終焉し、第二王朝の幕開けとなりました。

 

 

 

       ―― 謎の四世紀解読」 第三篇 第二王朝の誕生 ―― 完

 

                               

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