その35.若菜 下     

 

10.紫上の物の怪         ヒカル 四十六歳

 

 ヒカルは久しぶりに山桜上の住まいを訪れたので、すぐに去ろうともしないまま落ち着かない気持ちでいると、「紫上が息を引き取りました」と使いの者が知らせましたので、目の前が真っ暗になって、すぐにシュノンソー城へ戻りました。

 道中は気が気でなく、城に近い大路に着くと、人々が立ち騒いででいました。城内に入ると、泣きわめく気配が不吉な予感を駆り立てました。我を忘れて室内に入ると、「ここ数日、少しはお加減が良いように見えたのですが、急に悪化してしましました」と控えている侍女たちが一人残らず、「私も後を追います」と泣きむせぶ様子は言いようもありません。祈祷用の檀も片付けられて、詰めている僧たちも、必要な者を除いて皆、退出しようとばらばらにざわついているのを見て、「もう、これ限りだ」と観念せざるを得ない情けなさは、何にたとえることができるでしょう。

 

「これはきっと物の怪の仕業に違いない。そんなに無暗に騒ぐことはない」とヒカルは侍女たちを静めて、ますます並々ならぬ祈祷を続けさせました。

 ヒカルは物の怪を去らしたり、病の治癒にすぐれた修験者だけを集めました。

「限りある寿命になって亡くなってしまうにしても、もう少し猶予をいただきたい。大魔王への誓願の誓いもありますから、その日数だけでも命を引き止めてください」と修験者たちは魔除けの黒煙を立てながら、のっぴきならない法力を奮い立てせて祈祷を続けました。

「ただただ、もう一度目と目を見合わせてください。あっけない臨終の間際に会わずじまいだったことは悔しく悲しすぎる」とヒカルが取り乱している様子は、紫夫人が亡くなるとヒカルも生き残りことができなそうに見えるので、見守る人々の心持は推して知るべきです。

 

 そうしたのっぴきならない心中を神もご覧になったからでしょうか、ここのところ全く姿を現すことがなかった物の怪が、小さい童子に乗り移って、わめき声をあげだしました。その間に紫上はようやく息を吹き返しましたが、嬉しさと共に不安もよぎりました。

 ひどく調伏された物の怪は「皆、ここから離れなさい。ヒカル殿一人の耳に伝えたいことがある。この月頃、私を調伏して困らせるのが情けなく辛いので、同じ事なら思い知らせてやろう、と思ったものの、さすがに自分の命が耐えられないほど、身を粉にして悲嘆に暮れている様子を見ると、今でこそ、このような浅ましい身に変ってしまっているものの、現実世界にいた頃のヒカル殿への愛執が残っているせいか、ここまでやって来たものの、気の毒な苦しみようを見過ごすことができず、とうとう姿を現してしまった。私だと、知られたくまいと思い詰めていたのに」と髪を振り乱して泣く気配は、葵上の臨終の際に見た物の怪の姿と同じでした。

「浅ましく不気味だ」と肝に銘じた物の怪はいまだに変っていないことが恐ろしいので、ヒカルは童子の手を捕まえて、その忌まわしい姿を人にはみせないようにしました。

 

「本当にあのメイヤン夫人なのか。意地悪い狐といったものが乱れ狂い、亡きメイヤン夫人の面汚しで言い出していることもあるから、はっきりと名を名乗ってみろ。ついでに誰にも知らないようなことで、私にだけ合点が行き、思い出すことを言ってみろ。そうであったなら、少しは信じてやろう」と厳しく言い放つと、物の怪はぽろぽろと激しく泣きながら、

(歌)私の身は こんなに変わり果てた姿になってしまったのに 空とぼけておられる貴方は 昔のままなのが恨めしい

「とても辛いことです」と泣き叫びながらも、そうは言っても恥じ入るようにしている気配は、葵上の枕許に現れた物の怪と変わりません。その点が余計に疎ましく不愉快なので、「これ以上はしゃべらせまい」と考えたものの、物の怪が語り出しました。

「娘の秋好妃については、天空を翔けながら、『とても嬉しく、かたじけない』と眺めておりましたが、住む世界が異なりますので、我が子と言っても深くは感じなくなっております。それでも自分が『ひどい人だ』と感じた方への執着は消えずに残っています。その中でも、私の在世中に、人より軽い扱いをされて私を捨ててしまったことよりも、気を通じ合った人との会話の折りなどに、私について好ましくない、憎たらしいといった様子を話されているのをまことに恨んでおります。

今はただ、『物故した者だから、と許してくださり、私に関して他人が悪口を言っても打ち消して、かばっていただきたい』ということを願うばかりに、こうした忌まわしい姿になって、紫上に祟っているのです。紫夫人を深く憎んでいるわけでもありませんが、神やキリストの貴方へのご加護が強いせいか、貴方の身辺は遠い感じがして近寄ることができません。ようやくお声をかすかに聞くことができましたが、今はもう、私の罪障が軽くなるような手段を講じてください。修法や読経でいじめられるのは私の身にとっては苦しく、情ない炎にまつわりつかれ、その上、尊い教えの声などが聞こえてこないことが本当に悲しいことです。

 秋好后にもこの旨をお伝えください。夢々、王宮仕えの折にも、他人と競い合い、嫉妬心を起こしてはいけません。秋好后が斎宮であった頃に犯した罪を軽くする功徳を必ずさせてください。誠に残念なことです」と言い続けますが、物の怪を相手に話をするのは気が引けることですから、物の怪を封じ込めて、紫上をそっと別の部屋へ移しました。

 

「そのように紫上が亡くなられた」といった噂が巷にあふれて、忌問に来る人々がいるのを、ヒカルは『縁起でもない』と見なしました。昨日の祭りの翌日の行列を見物に出掛けていた高官などは、帰り道にそうした噂を聞いて、「大変なことになった。生き甲斐を満喫した幸福な女性が光りを失った日になったから、しとしとと小雨が降っているのだ」と無遠慮に言い出す人もいました。あるいは「ああした風に何もかも備わっている人は、必ず長生きをしないものだ」、「(歌)待てと言って 散らずにいてくれるものならば これ以上 何を桜に望むだろうか といった古い歌もあるではないか。そういった人物がとても長生きをして、世の中の楽しみの限りを尽くしたら、はたにいる女性にとっては辛いことだろう」、「これでやっと山桜上は本来の寵愛を受けることになるだろう。これまではお気の毒にも圧倒されてこられたのだから」とささやく者もいました。

 柏木は昨日は引き籠っていたので、今日は弟の左大辨ロランや頭宰相フェリックスたちを馬車の奥に乗せて、祭りの見物に出掛けましたが、街中で人々がそうした噂を言い合っているのを聞いて、胸がどきっとしました。

(歌)散るからこそ 桜は一層すばらしいのだ この辛い世の中で 

   一体何がいつまでも変わらずにいることができるだろうか いやできないことだろう

と独り言のように誦じながら、皆うち揃ってシュノンソー城へ見舞いに行きました。

「亡くなったか否かは確かではないので、縁起でもないことを言っては」と、ただ普通の病気見舞いの形で訪ねたのですが、大勢の人が泣き騒いでいるので、「噂は本当だったのだ」と弟たちも驚いていました。

 

 紫上の父の式部卿も見舞いに訪れて、ひどく茫然とした様子で奥へ入って行きました。一般の見舞客の忌問がさばききれずにいました。夕霧大将が涙を拭いながら奥から出て来たので、「いかがでしょうか。縁起でもないふうに話している者もおりますが、信じがたいことです。ただ久しく病に臥せておられるのをうかがって、心配になって見舞いに参りました」と柏木が声をかけました。

「重態になってから長くなっていますが、今日は明け方から気を失っております。物の怪の仕業に違いありません。何とか息を吹き返された、と聞いて、今しがた皆が安心したところです。ただ、まだ心もとない様子なので心配です」と夕霧は本当にひどく泣いた様子で、眼も少し腫れていました。山桜上に対する自分のけしからぬ思いと較べてのことなのでしょうか、柏木は「夕霧は、さして親しい関係でもない継母のことを、どうしてここまで気にしているのか」と気になりました。

 ヒカルも色々な方々が見舞いに訪れた旨を聞いて、「重病人が急に息を引き取ったふうになったので、侍女たちが冷静さを失って取り乱して騒いでしまい、それに引きずられて私も平常心をなくしてしまった。わざわざお見舞いにお越ししただいたお礼は、後日改めて申し上げます」と告げました。

 ヒカルの言葉を聞いた柏木は胸が潰れる思いでした。こうしたのっぴきならない機会がなければ、訪ねて来ることはなかっただろう、と気が咎めるのは、心の内によこしまな思いを抱えているからでした。

 

 紫上が何とか蘇生してくれた後も、ヒカルは恐ろしい気がして、並々ならぬ修法の限りを、さらにまた追加しました。メイヤン夫人は現世に生きていた時にも、不気味な気配があったのに、まして死後の世界に移って異形の姿になったことを思いやると、ひどく情けなくなって、秋好后の世話をすることまでもが、今は気がすすまなくなったりします。

「せんじつめると女性の身というのは、皆同様に罪深い一因になるのだ」と世の中のすべての男女関係が嫌になりました。それにしても、誰にも聞かれたはずがない、女楽の後の紫夫人との会話で、メイヤン夫人について少し触れたことを言い出したので、「確かにメイヤン夫人の物の怪だったのだ」と思い返すと、まことに煩わしい思いがしました。

 紫上は「髪を短くして修道女に」としきりにせがみますので、「忌むことも快方する力になるだろう」と形ばかり紫上の髪を切り、修道の道に入る五つの戒めだけは受けさせました。戒を授ける師が忌むことの功徳をキリストに伝える文面には、しみじみと尊い言葉が混じっていました。ヒカルが体面もいとわず紫上に寄り添って、涙を押し拭いながら、戒の師と一緒に神に念じる様子は、どんなに賢明な人物でも、こうした心配事がある場合は、冷静にはいられないことを示しています。

「どんな手立てを講じても、夫人をこの世に引き止めてください」とだけ、ヒカルは昼夜、嘆き続けるので、気が抜けたように顔も少し面やつれしていました。

 

 五月に入ると、まして天候が悪く、晴れ晴れしない空模様で紫上も爽やかな気分になれないものの、少しは加減がよくなったようです。けれども今なお、絶え間なく苦しんでいます。物の怪の罪障から救う手立てとして、日ごとに聖書の一篇づつを読ませながら、何やかやと尊い供養をさせました。枕もと近くでも、不断の読経を声が尊い僧を選りすぐってさせました。物の怪は一度出現してからも時々現れて、悲しげなことを話しますが、どうしても退散しません。

 ひどく暑い頃は、紫上は息も絶え絶えになって、いよいよ衰弱してしまったので、ヒカルは何とも言いようもなく嘆いています。紫上は意識を失いようになりながらも、ヒカルのこうした様子を心苦しく感じて、「自分が死んだとしても、口惜しい気持ちは残らないが、ヒカル様がここまで途方に暮れておられるのに、私がむなしくあの世に行ってしまったなら、あまりに思いやりがないことだ」と気を奮い立たせて、スープなどを少しづつ食すようになりました。

 六月に入ると時々、頭をもたげるようになりました。ヒカルは素晴らしいことだ、と嬉しくなりましたが、「まだまだ油断できない」と、わずかの間でもヴィランドリー城には戻らずにいました。

 

 山桜上はあの怪しく訳も分からなかった出来事を嘆いていましたが、次第に身体がいつものようでもなく、悩ましげになっていました。そうひどい状態ではないのですが、六月に入ってから食欲が減退し、顔がひどく蒼ざめて痩せていきました。

 例の人物は分別もなく、思い余った時々は、夢を見ているようにヴィランドリー城に忍び入って来ましたが、山桜上はどこまでも迷惑がっていました。ヒカルをとても畏怖している心では、柏木の態度も品性もヒカルと同等と見る価値はありません。容姿だけは由緒ありげで優雅なので、一般の人の眼では並の男より勝っていると賞讃されるでしょうが、少女の頃から世に類がないヒカルの有り様を見馴れて来た山桜上にとっては、柏木は目に余る心外な男としか見えません。それなのに妊娠した兆しで苦しむ、というのは悲しい宿命でした。

 妊娠に気付いた乳母たちは「ヒカル様はたまにしか、こちらにお越しにならない」と恨んでいましたが、ヒカルは「何かで患っている」と聞いて、ヴィランドリー城に行くことにしました。

 

 シュノンソー城の紫上は「暑くて気分が悪い」と言って、髪を洗って少しは爽やかになったようです。そのままベットに横になりましたが、髪はすぐには乾きません。まだ濡れている所々がたわみ膨らんでいて、乱れた毛筋もなく、清らかにゆらゆらとしています。病んで青くやつれた顔もかえって青白い美しさになって、透き通ったように見える肌付きなど、世にもない可憐な感じですが、まだまだ虫が抜け出た殻のように、頼りなさげにふらついています。

 長い間住んでいなかったせいで、少し荒れていた城内に急に大勢の人が住むようになって、手狭になった感があります。昨日、今日と紫上の気分が良い時に丹念に手入れさせた導水や前庭が急に心地よさそうになったことにヒカルは気付いて、「紫上も何とか持ちこたえてくれた」と一塩な思いでした。池は大層涼しげで、蓮の花が一面に咲き渡り、葉が非常に青々として、葉に浮かぶ露はきらきらと玉のように見えました。

「あの蓮を見てみなさい。自分だけが涼しそうにしているよ」とヒカルが話すと、紫上は起き上がって庭を見る光景が実に珍しいので、「そうしているところを見れるのは、夢のような心地がする。私までが死んでしまうのではないか、とひどく思うことが度々あったのだよ」と涙を浮かべながらヒカルが話すと、紫上もしんみりしてしまいました。

(歌)蓮の露が 消え残っている間だけでも 生きられましょうか たまたま病がちょっと良くなっただけですから

と、詠みました。

(歌)この世だけでなく あの世に行っても 契り合っていこう 蓮の葉の露玉のように 心を隔てることなく

 山桜上がいるヴィランドリー城に行くのは気が進みませんが、「王さまも朱雀院も耳にすることだろう。山桜上の加減が悪くなった知らせを受けてから日が過ぎていったが、目前にいる紫上の容態が気になって、ほとんど見舞いに行けなかった。紫上は少しは持ち直した、この雲の晴れ間に出掛けてみよう」と考えて、ヒカルはヴィランドリー城に向かいました。

 

 山桜上は良心の呵責に苛まされて、ヒカルと逢うのもきまりが悪く、気が引けてしまって、何か聞かれても答えることもありません。

「上辺はさりげなくしているが、このところの御無沙汰が辛い、と感じているのだろう」とヒカルは気の毒に思って、あれこれと慰めました。年配の侍女を呼んで、加減が悪い様子を尋ねてみると、「普通のお身体ではなく、ご懐妊のようです」と気分がすぐれない模様を伝えました。

「妙なことだ。この歳になって妊娠とは珍しいことだ」とだけ呟きましたが、内心では「長年連れ添ってきた婦人たちでさえそうしたことはなかったから、本当かどうかは分からない」と思えたので、ヒカルは別段、何かを言うわけでもなく、ただ辛そうにしている様子を愛おしく、いたわしく感じました。

 ようやく思い立ってヴィランドリー城に戻って来たので、すぐにシュノンソー城へ戻ることはせずに、二、三日泊まりましたが、その間も「どんな容態でいるだろうか」と不安にかられて、紫上宛の手紙ばかりを細々と書いていました。

 

 

11.山桜上の密事露顕     ヒカル 四十六歳

 

「いつの間に、あんなに言葉がたまって行くのでしょうか。いやはや、山桜上の心中は穏やかではないでしょうに」と山桜上の過ちを知らない人たちが言い合っていました。

 ただドニーズだけはそうしたことにつけても、胸騒ぎをしてしまいます。あの柏木も「ヒカル様がヴィランドリー城にやって来た」と聞いて、身の程も知らずに心得違いして、のっぴきならないことを書いた手紙を送り続けました。

 ヒカルが紫上の住まいに行っている間に、ドニーズは人がいない隙を見て、こっそりと柏木からの手紙を山桜上に見せました。「厄介なものを見せますね。とても困ります。ますます気分が悪くなってしまう」と言って、山桜上はベットに横になりますが、ドニーズは「このはしがきの部分に愛おしいことが書かれていますよ」と柏木の手紙を広げたものの、人がやって来たので折り合いが悪くなって、ドニーズは内カーテンを引き寄せて去って行きました。山桜上が困惑しているうちにヒカルが内カーテンの中に入って来たので、うまく隠すことが出来ずに、とっさにソファのクッションの下に手紙を挿し込みました。

 

 夕刻にシュノンソー城へ行くつもりなので、ヒカルは暇乞いを言いに入って来たわけです。

「貴女は具合がそんなに悪いようには見えませんが、ただあまり頼りなさげにされているので、見捨てて行くように思われてしまうかもしれない。その点は心苦しく感じている。見苦しいことを言う者もいるだろうが、決して気にしないで下さい。今に分かってもらえるでしょう」と慰めました。

 普段なら打ち解けて、あどけない冗談などで応答するのですが、山桜上はひどく沈んでいて、まともに顔を見合わせようとはしません。それでもヒカルは「ただ世間によくある嫉妬の様子を見せている」と解釈しました。ヒカルがソファに横になって、あれこれ話をしているうちに、日が暮れました。

 少し寝入ってしまいましたが、カササギが派手に鳴く声に驚いて眼を覚まして、「道が覚束なくなる前に」と衣服を着替えました。すると山桜上が「(歌)宵闇は 暗くて道が覚束ないものです 月の出るのを待ってから お帰りください といった歌もありますよ」と若々しい様子で引き止めようとしているのを、ヒカルは憎からず感じました。「月の出るのを待ってから」と言いたいのだろうといじらしくなって、ヒカルは去って行くのを躊躇しました。

(歌)私の涙の夕露で袖を濡らせと カササギが鳴くのを聞きながら 起きて行かれるのですか

と、あどけない心のままを詠んだ山桜上を可愛く感じたヒカルは、ソファに座り直して、「さあ、どうしたものか」と溜息をつきました。

(歌)シュノンソーで待つ人も どんな気持ちで聞いているのだろう 人の心を騒がすカササギの声

などと、ヒカルは留まるか去るかを決めかねていましたが、やはり薄情だと思われるのが心苦しくなって、もう一晩泊まっていくことにしました。それでも気分が落ち着かず、あれこれ案じながらデザートだけを食べて就寝しました。

 

 翌朝、まだ涼しいうちに城を出ようと起床しました。

「昨夜、扇をどこかに落としてしまった。代用のこの扇だと、風が生温かい」と、ヒカルはその扇を置いて、昨日うたた寝をした場所の辺りに立ち止まって物色していると、ソファの上のクッションの少ししわが寄った所に、浅緑の薄様の手紙を巻いた端が見えたので、何気なく取り出してみると、男の筆跡でした。紙の香りなど非常に艶っぽく、意味ありげな書きぶりでした。

 二枚の紙に細々と書いている手紙を読んでみると、紛れもなく「あの柏木の筆跡だ」と分かります。鏡などを開けて身支度の準備をしている侍女は「普通の手紙を読んでおられる」と気にもしていませんが、それを見たドニーズは「もしかしたら昨日の柏木からの手紙の色と同じだ」とはっとして、胸がどきどき鳴る心地がしました。朝食を食べ始めたヒカルの方を見やることも出来ません。「いや、いくら何でも、それはありえない。こんなありえないことを、迂闊にもされることはありえない。うまく隠されたはずだ」と思い込もうとしました。山桜上はまだ無心に眠っていました。

「山桜上はなんて子供っぽいのだろう。こんなものを散らかしてしまって。自分以外の者に見つけられてしまったら」とヒカルは思いながら、山桜上に失望して「これだから、ひどく思慮深さに欠けている有様を案じていたのだ」と思い詰めてしまいました。

 

 ヒカルがヴィランドリー城を立ち去った後、侍女たちが少しずつ散っていったので、ドニーズは山桜上に近寄って、「昨日の手紙はどうされました。今朝がた、ヒカル様がご覧になっておられた手紙の色と似ておりましたが」と話すと、山桜上は「大変なことをしでかしてしまった」と気が付いて、ただ涙を流すだけなので、「お気の毒ではあるが、ふがいないお方だ」とドニーズは見つめていました。

「あの手紙はどこに置かれたのですか。あの時は侍女たちが入って来ましたので、『仔細ありげに側にいても』と気づかって、『まあ、その程度のことならひどいことにはなるまい』と判断して席を離れたのです。ヒカル様が内カーテンの中にお入りになるまで、少し合間がありましたので、うまく隠されたと思っておりました」と話すと、山桜上は「いいえ、まだ手紙を読んでいるうち入って来られたので、すぐに隠すことが出来ずに、クッションの下に差し挟んだのですが、その後、忘れてしまいました」と答えるので、全く二の句が告げられません。すぐにクッションに寄って探しましたが、手紙は見つかりませんでした。

「大変なことになりましたね。あのお方もひどく恐れておられて、『ちょっとした素振りでも、ヒカル様の耳に入ってしまったなら』と気にかけておられますのに、もうこんなことが起きてしまうなんて。何事も子供じみた振る舞いぶりで、あのお方に姿を目撃されてしまい、それ以来、貴女のことをとても忘れ難くなって、私にも出逢いをせがみ続けて来ましたが、ここまで深い関係になってしまうとは。どなたにとっても、困ったことになりますよ」とドニーズは遠慮なしにまくしたてました。

 ドニーズは気の置けない若い女性なので、ずけずけと話すのでしょうが、山桜上は答えもしないで、ただ泣きじゃくっていました。ひどく悩ましそうにして、何一つ食べないので、侍女たちは「こんなに苦しんでおられるのに、それをほっておかれて、今は回復されたお方のお世話に熱心になっておられるなんて」と薄情に思っていました。

 

 ヒカルは手紙の一件を不審に思わずにいられないので、人が見ていない所で繰り返し読んでみました。「仕えている者たちの一人が、柏木中納言の筆跡に似せて書いたのか」などとも思いますが、言葉遣いが鮮やかで、他人が書いたものとは思えません。長い間、思いを掛けて来たことがたまたま実現して、心にかかってならないといった内容を書き尽くした文章は非常に読みどころがあって、感心したりもしますが、「何もここまであからさまに書くことはないだろう。柏木ともあろう者が思慮分別もない手紙を書くとは。『もしかして人目に触れてしまったら』と注意を払うべきである。私も昔、こうした細やかな内容を書く際は、言葉を簡略にして、書き紛らわせたりしたものだが。そこまで深い用心ができなかったのか」と、柏木の心構えすら見下してしまいました。

「それにしても、今後、山桜上をどう扱っていくべきだろう。普通ではない身体になったのも、こうした柏木との過ちからだったのだ。何て情けないことだ。こうやって人伝てではなく、自分で直接嫌なことを知ってしまった後に、今まで通りに扱うことができるのだろうか」と自分のことながら、そうとは出来ないだろうと感じました。

「本気でもない気紛れ、と当初からあまり愛着を抱かなかった女性だとしても、『別の男と心を分け合っている』と知ったら、嫌気がさして離れていくものだが、まして今回はとりわけ山桜上に関してである。柏木も身の程知らずな考えを持ったものだ。王さまの妃が過ちを犯した類は昔にもあったが、それとこれとは事情が違う。王室勤めで男も女も主君に仕えているうちに、自然に何らかの機会に心を通い合って間違いを起こすことも稀ではない。王さまの上位・下位の貴婦人と言っても、こうした身持ちに関してはどうかと思われる人もいるし、思慮分別が必ずしも深くはなくて、とんだ心得違いをしでかしてしまうこともある。そうした過ちがはっきりと露見しない間は、普段通りに振る舞うので、すぐには表沙汰にならないこともあるだろう。とは言うものの、ここまでこの上ない厚遇をして、内々に愛情を注いでいる紫上よりも、大切な恐れ多い人として世話を焼いてきた人物を差し置いて、こんなことをしでかすとは、類例のないことだ」とヒカルは不満そうに爪を強くはじきました。

 

「王さまに仕えると言っても、ただ一通りの表向きの奉公だけにすぎないだけの場合もあるので、王宮仕えに興覚めしている際に、ねんごろに言い寄って来る誘い言葉に靡いてしまい、お互いに心中を打ち明け合って、放っておけない折に返答するようになると、自然と心を通わせ合っていく、というのは、同じけしからぬ事と言ってもそれなりに合点が行く。それなのに私という者がいるのに、あの程度の男に心を開いてしまう、とは信じられないことだ」と不愉快になるものの、「それにしても顔色には出すべきことではない」などと煩悶しました。

「ひょっとしたら亡くなった父の桐壷院も、藤壺と私の関係に気付いていたのに、知らないふりをしていたのではないだろうか。それを考えると、自分の青春時代の頃の行いは非常に恐ろしく、あってはならない過ちであった」と、(歌)恋の山路は どれほど深いのか 出入りする男女も迷ってしまう といったように、「他人の行いをとやかく言える資格もない」という気持ち入り混じりました。

 ヒカルは何気ないふりを装っていますが、内心ではむしゃくしゃ荒れているのを感じ取った紫上は、「何とか命を取り留めた私を哀れんで、こちらにお帰りになっていただいているが、内心はヴィランドリー城のあの人のことを人任せに出来ずに、心苦しく思いやっているのだ」と感じ取りました。

「私はもう気分が良くなっております。山桜上のお加減が良くないようなので、こんなに早く戻られたのはお気の毒なことです」と紫上が告げました。

「そうだね。加減が悪いように見えたが、別段どういったこともないようなので、安心してこちらに戻って来れた。山桜上には安梨王が度々、便りを寄こされている。今日も手紙があったようだ。安梨王は父の朱雀院から大事にするように依頼されているので、そうやって気をつかっておられる。少しでも山桜上を粗略にしてしまうと、お二人の思し召しに申し訳ないことになる」とヒカルは絞り出すように答えました。

「王さまのご意向もありましょうが、それよりご本人が恨めしいと思っていらっしゃる方が気の毒なことです。あるいは、ご本人がそう咎めなくても、良からぬように告げる人々が必ず存在することを思うと、私の立場が辛くなってしまいます」と紫上が続けました。

「確かに私が心から愛している貴女にとっては、山桜上は煩わしい存在だろうが、貴女はあらゆる方向に気をつかって、ああだこうだと、大方の人たちの思惑を気にかけているね。これに対して私はただ、安梨王が私のことをどう思われているのか、といったばかりのことを気にしているというのは、思慮が浅いことだ」と苦笑しながら、話しを紛らわせてしまいました。

 

 ヴィランドリー城へ戻ることについては、「貴女と一緒に帰って、のどかに暮らすことにする」とだけヒカルが言うと、「私はもうしばらく、ここで気楽にしております。まず先に戻られて、山桜上を慰めてあげてください」と紫夫人が促しましたが、そんな話をしているうちに日が経過して行きました。

 その間にヘンリー八世の離婚とローマ教皇からの離反に異議を唱えて、刑に処せられていたロチェスターのジョン・フィッシャー司祭が六月に、翌七月にトーマス・モアも刑死した報が入り、ヒカルの沈鬱さはますます増していきました。

「それにしても、死刑に処することはなかったろうに。願果たしのお礼でモン・サン・ミシェルに参詣した後、檄文事件、紫上の重病、山桜上の密事と妊娠と辛らつな出来事が重なった上に、畏敬するトーマス・モアの死を知らされた。これはメイヤン夫人の物の怪による祟りどころの話ではない。藤壺と私との関係に気付いていた桐壷院が、今になって私が犯した罪に罰を課しているのではあるまいか」とヒカルは人生のカルマ(業)と無常と痛切に感じました。これまでの罪の償いをするべく、紫上と同時に修道の道に入ることも頭に浮かんできました。

 

 山桜上は、ヒカルが戻って来ない日々が経っていくので、ヒカルの辛らつさを嘆いていましたが、次第に「自分の至らなさでこうなってしまったのだ」と考えるようになっていました。「父の朱雀院があのことを聞きつけてしまったなら、何と思われることだろう」と身がつまされてしまいます。

 あの柏木は手引きをしつこくドニーズに頼んで来ますが、ドニーズも面倒になって嘆いています。「こんな出来事が起きてしまいました」とドニーズが柏木に伝えたので、柏木はひどく驚いて、「いつの間にそんなことが起きてしまったのだろうか。こうした発覚は長い間には起きうることだし、気配だけでも自然と感づかれて行くのだろうが」と思っただけでもとても気が引けてしまい、天から目をつけられてしまったように感じました。まして、あんなに間違えようもない手紙を見られてしまったとしたら、いたたまれないし何とも苦々しいことである。(歌)夏の日でも 朝夕の涼しさはあるのだが 私の恋には なぜそんな折がないのだろうか といったように、朝も夕刻も涼しい時がない頃なのに、身がひんやりしてしまう心地がして、何とも言いようもない思いがしました。

「長年、公務でもちょっとした遊び事にも間近に呼んでくれて、親しんでいただいた。他の誰よりも細々と留意してもらった様子を、意味深長になつかしく思い出すが、そのお方から浅ましい身の程知らずな者と見なされるようになってしまった今は、どうして顔を合わすことができるだろうか。そうかと言っても、ふっつりお側近くに寄りつかなくなると、人が怪しんでしまうだろうし、ヒカル様も『やはりそうだったのだ』と思い合わせになるのはたまらない」などと、柏木は不安にかられて、気分がひどくすぐれないまま、王宮にも上がりません。自分が犯したことはさして重い罪には相当しないだろうが、「自分の身は無意味なものになった」という気がして、「やはり懸念していた通りになった」と自分がしてしまったことを辛く感じました。

「とは言うものの、山桜上には落ち着いた、嗜み深い気配は見えなかった。まず第一に、カーテンの隙間から自分の姿をさらしてしまったではないか。一緒に目撃した夕霧大将も『軽率な行為だ』と感じた気配も見えたし」と、今更になって気が付きました。強いて山桜上への熱を冷まそうとするあまり、無理やり難癖をつけているのでしょうか。

「幾ら生まれが良いと言っても、あまりに一途におっとり上品にしている人は、世間の様子も知らず、また侍っている侍女たちに用心もしないので、こうやって大事な自分の身にとっても、相手にとっても、のっぴきならない事になってしまったのだ」と柏木は山桜上の立場の苦しさを思いやる気持ちを捨て去ることはできません。

 

 ヒカルは、山桜上が痛々しげにあれこれ悩んでいる様子を目に浮かべると、やはり気の毒になって、もう見限ってしまおうと思いながらも、辛い中でも消せない恋しさに堪えられず、ヴィランドリー城に出掛けてみました。実際に顔を合わせてみると、愛おしい思いになって胸が痛んでしまい、祈祷などをあれこれとさせました。

 山桜上に対する大方の態度はこれまでと変わりはなく、かえっていたわり深くなって、うち捨ててはおけないかのように、ますます大事にしてあげました。それでも間近に語り合う段になると、心に隔たりが非常に出来ていて体裁が悪いので、ヒカルは人前だけはうまくつくろいながらも、内心では煩悶していましたので、山桜上の心中もさぞかし苦しかったことでしょう。

「あの手紙を見つけて読んだよ」とヒカルがはっきり話すこともないので、「自分自身、どうしたらよいものか」と当惑している山桜上の様子はまだまだ子供のようでした。

「こんな有り様だから、あんなことを起こしてしまったのではないか。『良いように』と言いながら、あまりに他愛も無く頼りなさげにしていたのだろう」と思うと、世の中の男女の仲のすべてが心もとないことになってしまいます。

 

「サン・ブリュー王妃もあまりに柔軟でおっとりしているところがある。もし柏木のように言い寄って来る男がいたら、やはり心を乱してしまうのではないか。こうしたように女が内気でなよなよと振る舞っていると、男も遠慮がいらないものと思うのだろう。そうであってはならないと思っている女性でも、刹那的に気が緩んで、過ちを犯してしまうこともある」とも思いました。

「黒ヒゲ右大臣の本妻は、取り立てた後見役もいず、幼い頃から各地を流浪する中で成長したものの、才覚も見識もあった。私も表向きには親らしくしながら、恋心が必ずしもなかったわけでもないが、そんな私を玉鬘は穏やかに受け流していた。黒ヒゲがあの心ない侍女フロランスとしめし合わせて寝室に入り込んで来た時でも、自分は受け付けなかったことを明白に周囲の人に示しながら、ヒゲ黒との結婚は父親や身内に特別に許された風にして、自分には落ち度がないような形にしたなど、今から思うと賢明なやり方をした。縁が深い夫婦ならば、その始めがどうであれ、長く連れ添うことに変化はないだろうが、同じ事でも『自分の意思で自発的に結ばれた』と世間の人に思われてしまったなら、『少し軽率だ』といった批判も出て来るだろう。そうした意味からも、玉鬘は上手に身を処したものだ」と見直しました。

 

 

            著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata