連載小説の主旨

西暦3世紀後半に大和(大倭国)が東西日本の統一を達成する以前、1世紀末から3世紀半ば過ぎまで、吉備邪馬台国が西日本(倭国)の盟主であったことを実証していくシリーズです。

構成は「吉備邪馬台国の奴国・伊都国制覇」、「吉備勢力の出雲制覇」、「オオクニヌシと日本海」、「吉備の楯築王から倭国大乱へ」の4連作となります。

 

第二編 吉備勢力の出雲制覇

 

1章 出雲の神々

 

序  

出雲の国には、ヤツカミヅオミヅノ(八束水臣津野)、イザナギ(伊邪那岐)・イザナミ(伊邪那美)、カムムスビ(神魂)、スサノオ(須佐能袁)、オオクニヌシ(大国主)の5種の大神が混在しています。このうち、イザナギ・イザナミ―スサノオ―オオクニヌシは同じ系譜でつながりますが、 ヤツカミヅオミヅノと カムムスビは系譜が異なります。また5種の神々はそれぞれ異なった時代に出雲にやって来たか出雲で誕生しています。

 

1.ヤツカミズオミズノ(八束水臣津野)の島根半島国産み  前300年~前180年ごろ

 イザナギとイザナミが淡路島を手始めに日本列島の島々の国産みをした頃、好奇心が旺盛な巨人神ヤツカミヅオミヅノができ上がったばかりの日本列島の見学を思い立ちました。

 降り立った場所は日本海に面する出雲でした。沖合いを流れる対馬暖流が北から吹いてくるシベリア寒風とぶつかって、寒暖差から水蒸気が湧き上がり、次々と雲の塊となって陸地へと流れていきます。

 

 ヤツカミヅオミヅノが陸地の方を見やると、山々が海岸線に迫り、平地は海岸線と山々の間を細々と走っているだけでした。

「八雲立つこの国は、平地が幅狭い布地のように続いているだけの、まだ未熟な国だ。よし、我輩が国土を増やしてあげよう」。

 そう呟いて、日本海の彼方を見渡すと、朝鮮半島の先端が見えました。

「半島に余っている土地があるだろうか。あるある、あそこの岬に余分がある」。

 

ヤツカミヅオミヅノは若い乙女の胸のように初々しい平らな鋤(すき。シャベル)を手に取って、

大魚サメのエラを突くように、「エイヤ!」と岬に突き刺して、

大魚サメの肉をさばくように、岬の余分な土地を切り離します。

切り離した土地に、三本絞りの太い綱を打ちかけて、

「ホーレ、ホレホレ、オッセッセー」と霜がついて滑りやすい蔦(つた)を手繰るように、河船を曳き上げていくように、そろりそろりと手繰り寄せて、縫い付けた国は杵築(きづき)の御崎(大社町の日御碕)から去豆(こづ。平田市小津町)までです。

日本海への出口を塞がれた斐伊川は左折して、杵築に向かって西に流れるようになりました。引っ張ってきた国を固定するために立てた杭(くい)が出雲と石見の境にそびえる佐比売山(三瓶山)です。引っ張ってきた綱は砂丘、薗の長浜となりました。

 

続いて、日本海に浮かぶ隠岐諸島を見渡します。

「北の門の佐伎の国(島前の中ノ島)に余っている土地があるだろうか。あるある、あそこの岬に余分がある」。

 

ヤツカミヅオミヅノは若い乙女の胸のように初々しい平らな鋤を手に取って、

大魚マグロのエラを突くように、「エイヤ!」と岬に突き刺して、

大魚マグロの肉をさばくように、岬の余分な土地を切り離します。

切り離した土地に、三本絞りの太い綱を打ちかけて、

「ホーレ、ホレホレ、オッセッセー」と霜がついて滑りやすい蔦を手繰るように、河船を曳き上げていくように、そろりそろりと手繰り寄せて、縫い付けた国は多久の断崖から狭田の国(平田市から松江市西部、鹿島町古浦)までです。

 

もう一度、隠岐諸島を見渡します。

「北の門の良波の国(島後)に余っている土地があるだろうか。あるある、あそこの岬に余分がある」。

 

ヤツカミヅオミヅノは若い乙女の胸のように初々しい平らな鋤を手に取って、

大魚イルカのエラを突くように、「エイヤ!」と岬に突き刺して、

大魚イルカの肉をさばくように、岬の余分な土地を切り離します。

切り離した土地に、三本絞りの太い綱を打ちかけて、

「ホーレ、ホレホレ、オッセッセー」と霜がついて滑りやすい蔦を手繰るように、河船を曳き上げていくように、そろりそろりと手繰り寄せて、縫い付けた国は宇波から闇見の国(鹿島町東部から島根町、松江市東部)までです。

 

三回の縫い付けで入海(宍道湖)ができ上がりました。

 

最後に日本海の東北、越の能登半島を見渡してみます。

「半島に余っている土地があるだろうか。あるある、あそこの都都(つつ)の岬(珠洲市)に余分がある」。

 

ヤツカミヅオミヅノは若い乙女の胸のように初々しい平らな鋤を手に取って、

大魚ブリのエラを突くように、「エイヤ!」と岬に突き刺して、

大魚ブリの肉をさばくように、岬の余分な土地を切り離します。

切り離した土地に、三本絞りの太い綱を打ちかけて、

「ホーレ、ホレホレ、オッセッセー」と霜がついて滑りやすい蔦を手繰るように、河船を曳き上げていくように、そろりそろりと手繰り寄せて、縫い付けた国は美保の御崎(美保関町)です。

 

引っ張ってきた国を固定するために立てた杭(くい)が伯耆にそびえる火神(ひのかみ)岳(大山)です。引っ張ってきた綱は夜見の島(弓ヶ浜)となりました。こうして中海ができあがり、鋤からこぼれた泥塊が大根島になりました。

 

「さあ今は、国を引き終えた」とおっしゃって、意宇(おう)の杜に、御杖を突きたてて、「おう!!」と勝ちどきの声をあげました。

 

 ヤツカミヅオミヅノは天界にいる息子アカフスマオホスミヒコサワケ(赤衾伊農意保湏美比古佐和気)に声をかけました。オホスミヒコサワケはアメノミカツヒメ (天みか津日女)を后にめとったばかりでした。

「新婚旅行で、私が造った国に降りてきたらどうだろう?」

 父神の誘いに従って、オホスミヒコサワケは后を伴って、出雲郡の伊努(いぬ)に降り立ちました。二人は島根半島を巡りますが、秋鹿郡の伊農(いぬ)郷に着かれた時、「ああ、私の愛しい伊農(いぬ。夫をさす)さま」とアメノミカツヒメがささやきました。

 

 島根半島を造ったヤツカミヅオミヅノと息子神アカフスマオホスミヒコサワケの親子は末永く出雲の人々の記憶に残ります。今でも、ヤツカミヅオミヅノは薗の長浜の長浜神社(出雲市薗)に、オホスミヒコサワケは伊努神社(出雲市林木町)に祀られています。

 

 

2.イザナミと黄泉(よみ)の国   

 火の神ホノカグツチを出産する時に陰部を焼かれて亡くなったイザナミの陵墓は出雲の伯太町横屋の比婆山(標高331メートル)と備後北部と出雲の国境にある比婆山連峰の立烏帽子山(同1,264メートル)のか所にあります。またイザナミが死後におもむいた黄泉国への入り口は東出雲の揖賦屋坂(東出雲市揖屋町)と西出雲の脳(はづき)の礒(いそ)(平田市猪目洞窟)のか所にあります。さらにイザナミがおもむいた国は黄泉国ではなく、海の彼方の根国だとする説も存在し、紀伊半島の熊野市の花の窟(いわや)から根国に旅立った、とも申します。

 どうして、このように複数の聖跡が存在するのでしょうか。それはイザナギ・イザナミ神話が誕生し、各地に伝播していきながら筋書きが膨らんでいった弥生時代の歴史を反映しているからです。

 

 瀬戸内海の東端地域にあたる淡路島周辺で誕生したイザナギ・イザナミ神話は、播磨から日本海側に至る出雲街道の中間地点に位置する津山盆地で黄泉路篇が増幅されます。その要因の1つとして、弥生時代中期に入って中国山地で青銅器の材料となる銅と錫(すず)が発見され、津山盆地が銅剣や銅鐸の製造地として発展したことが挙げられます。

 イザナギ・イザナミの降臨地はオノゴロ(淤能碁呂)島ではなく、津山盆地を見下ろす那岐山(なぎせん)となります。イザナミを焼き殺したホノカグツチを怒ったイザナギが太刀(たち)で斬りつけると、太刀についた血から剣神が、斬られたカグツチの身体から山神が生まれ、黄泉の国に入って腐敗したイザナミの身体に悪霊の(いかづち)が宿ります。イザナミの死後の世界は海の彼方の根国ではなく、中国山中の奥深い地底となります。

 津山盆地の文化は中国山地を越えて伯耆・東出雲へ、中国山地に沿って備後北部と二方向に伝播していったことから、比婆山も二か所となりました。

 

 火の神ホノカグツチに陰部を焼かれてもだえ死んだ愛妻イザナミを紀伊の熊野の花の窟から黒潮の彼方にある根国へ見送ったイザナギは、国産みと神生みを終えたので禊をして隠棲しようと、淡路島に戻ってきました。スサノオがあいも変らずグズグズ泣き続けていたことので啞然とします。

「泣いてばかりいないで、早く母を慕って根国へ行ってしまえ」と何度もスサノオを叱ります。 

 そこへ津山盆地から使いが来ました。

「黄泉(よみ)の国に行けば、イザナミに再会できる? しかしイザナミは根国に行ったはずだが」。

 

 イザナギはいささか面倒くさくもありましたが、亡き妻に一目でも会ってみたい思いが勝って、半信半疑で津山盆地へ向かいました。

 津山盆地に入ると、銅剣や銅鐸を製造する、あちこちの工房から煙が立ち上り、工人たちが盛んに出入りしています。

イザナギが十拳剣(とつかつるぎ)のアメノヲハバリ(天之尾羽張)でホノカグツチを斬ると、天の安川へと流れた血が磐群に化して剣神フツヌシの祖となります。剣先についた血からイハサク(石拆)、ネサク(根拆)、イハツツノヲ(石筒之男)の神、剣の本体についた血からミカハヤヒ(甕速日)、ヒハヤヒ(樋速日)、タケミカヅチ(建御雷之男。またはタケフツ建布都、トヨフツ豊布都)の神、剣の柄(つか)についた血からクラオカミ(闇淤加美)、クラミツハ(闇御津羽)の神と、剣神が誕生します。神は磐を裂いて銅剣の型を作り、銅と錫を雷火で溶かして石型に入れ、冷水で冷やす銅剣製造の過程を神話化して誕生した神々ですが、留意する点は武神タケミカヅチと剣神フツヌシは連動しているか対をなしていることです。

 

 イザナギに斬られたカグツチの頭から正鹿(まさか)山、胸から淤(お)ど山、腹から奥山、陰(ほと)から闇山、左手から志藝(しぎ)山、右手から羽山(はやま)、左足から原山、右足から戸山の、山津見(やまつみ)8が誕生します。正鹿山、淤ど山、奥山、闇山、志藝山、羽山、原山、戸山を実在した山々と見なして候補地を探していくと、神話が成立した地を特定することができますが、その第候補として津山盆地が挙げられます。

 

 黄泉の国への入り口は津山盆地からずっと、ずっと西へと山奥に入った比婆山連峰にありました。入り口から黄泉の国に下っていくと、次第に薄暗くなり、湿気が増していきます。暗闇の中で御殿の戸らしきものにぶつかりました。戸の内側からイザナミの声がして、イザナギを中に導き入れます。

「愛しい妻よ。一緒に始めた国造りはまだ完了していません。どうか現世に戻ってきて下さい」。

「愛しい我が夫よ。わざわざ黄泉の国にまでお越しいただいて恐縮しております。私も国造り、神造りを続けたいと願っております。黄泉の国を司る神さまに相談してまいりましょう。その間は絶対に私の姿を見ないことをお約束下さい」。

 

 長い間、イザナギは妻の帰りを待ち続けていましたが、いつになってもイザナミは戻ってきません。しびれをきらしたイザナギは角髪(みずら)に挿していた櫛をはずして、櫛の太い歯を一本取り折って火を灯し、御殿の中に入ります。すると変わり果て、蛆虫がたかったイザナミの姿が暗闇から浮かび上がってきました。

 イザナミの頭に大雷、胸に火雷、腹に黒雷、陰に拆(さき)雷、左手に若雷、右手に土雷、左足に鳴雷、右足に伏(ふし)雷と、死者に巣くう悪霊の雷(いかづち)8神が宿っていました。

 

 恐怖と驚きで震え上がったイザナギは地上に向かって一目散に逃げ帰ります。

 背後から「約束を破って、私に恥をかかせたな」と怒ったイザナミの声が闇の洞窟に響きます。

 後からイザナギを追ってくる足音がします。イザナミが追跡を命じた黄泉の国の醜悪女(しこめ)達でした。イザナギは頭にかざしていた魔除けの鬘(かずら)を投げ捨てます。鬘からたちまち山ブドウの実が生えてきました。追ってきた醜悪女たちは好物の山ブドウを見て、足をとめて山ブドウに食らいつきました。その隙にイザナギは先へ先へと逃走しますが、洞窟は入ってきた時よりもずっと長い気がしました。 

 醜悪女達が追いついてきました。イザナギは右の角髪に挿している櫛をはずし、歯を折り取ってばらまきますと、たちどころに竹の子に化身しました。醜悪女達が竹の子を抜いて食べている間に逃げのびることができました。

 ところが今度は千五百にものぼる黄泉の国の兵卒を率いた雷神が追ってきました。イザナギは十拳(とつか)の剣を抜いて、後手に振り払いながら、逃げ続けます。

 なんとか黄泉の国と現世との境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)の麓までたどり着くことができましたが、黄泉の国の軍団が近づいてきました。イザナギは麓に生えていたいるの木から実をつもぎ取って軍勢に投げつけると、桃の実の魔力におののいて、軍勢は退却します。援けられたイザナギは桃の実を「オホカムヅミ(大神つ霊)の神」と名づけました。

 

 最後にイザナミが追いつきました。イザナギは黄泉国と現世を隔てる境に巨大な千引(ちびき)の大岩を置いて、亡き妻と相対し、夫婦離別の言葉を応酬します。イザナミを黄泉津大神、道敷(ちしき)大神とも呼ぶのはこのためです。

「明かりを灯して、私の変わり果てた姿を見てしまった愛しの夫よ。その罰として私は貴方の国の人たちを1日で千人殺します」。

「愛しい妻よ。貴方がそんなことをするなら、私は日千五百軒の産屋を建てましょう」。

 

日に千人が死に、日に千五百人が生まれるようになった理由はこのためです。 

 

 息も絶え絶えになりながら、イザナギは何とか地上に戻ることができました。

「オヤ、ここは黄泉の国へ入った入り口とは違うようだ」。

出口からしばらく歩いているうちに、東出雲の伯太町の比婆山に出てきたことに気づきました。

 

「北に向かってしばらく歩くと海にぶつかるはずだ」と歩を進めると中海の揖屋に着きました。

「もう山中の黄泉の国はこりごりだ。やはり、イザナミは根国に行ったことにしよう。海の彼方にある根国の入り口は海の近くにあるのがふさわしい、と考えて、中海に面する場所に伊布夜(揖賦屋)の坂を造られました。

 目の前を見ると、島根半島が見えました。

「ああ、これがヤツカミヅオミヅノ(八束水臣津野)が継ぎ足した半島か。せっかくだから見学していくことにしよう。イザナギは朝酌(あさくみ)の瀬戸を渡って島根半島に入り、隠岐島に向かう湊である日本海に面する千酌の駅(美保関町)に至りました。

 この地で禊をして子神ツクツミ(都久豆美)を造られ、「お前が日本海を守護しなさい」と指示をされて、淡路島へ戻っていかれました。ツクツミは美保関町の尓佐(にさ)神社に祀られています。

 

 

3.筑紫から到来したカムムスビ(神魂)   

 ヤツカミヅオミヅノとイザナミ・イザナギの神話の時代が過ぎて、八雲立つ出雲地方が国として本格始動を始めたのは、ムスビの神々を伴って筑紫(北部九州)から人々が移住してきてからです。

 

 北部九州は朝鮮半島北西部で衛氏朝鮮が成立した前194年頃から半島との交易が本格化して、半島や中国から先進の武器や文化が流入して、日本列島の中心としての地位が固まり、青銅、鉄、ガラス玉などを加工する産業も興りました。半島との交流は前108年に前漢の武帝が半島を植民地化するとさらに深まっていき、筑紫地方の繁栄は絶頂期に入ります。群雄割拠した都市国家群の中から、伊都国が交易国として、奴国が加工産業国として群を抜いた存在となっていきます。

 その一方で海と山が迫った狭い平野部に人口が集中したことから、人口の過密化が発生し、食料も需要が供給を上回っていきます。そこで工人を主体に、日本海、瀬戸内海、九州東南部へと信奉するムスビの神々と先進技術を携えて移住していく人々が増えました。各国は秀でた技術と知識を持つ筑紫からの工人を喜んで受け入れます。

 

 出雲に最初に到達したムスビ族はカムムスビを信奉する海人たちでした。中国の人たちが長寿をもたらす食品として珍重する干しアワビ・ナマコが半島への輸出品として需要が増したことから、石見から出雲へと海岸線沿いにアワビとナマコを追って移住してきました。

 カムムスビは農作物を豊かに実らせる大地を司る女神ですが、木の葉に乗るほどの小人神で穀物の神である愛児スクナビコナ(少名毘古那)を懐に入れて出雲にやって来ました。

 

 出雲国風土記に登場するカムムスビの子神(息子5神、娘4神、孫1神)を羅列してみます。

 

キサカヒメ(枳佐加比売)またはキサカヒヒメ(きさ貝比売) 

島根郡加賀(島根町加賀・大芦)の神埼にある加賀神社(島根町加賀。潜戸(くけど)明神)。

 カムムスビの娘神で赤貝の神キサカヒメは加賀の潜戸の岩窟で佐太大神を出産します。佐太大神が生まれようとした時、弓矢の行方が不明になりました。「生まれてくる子が麻須羅神(勇猛な神)の子であるなら、弓矢よ、出てきなさい」と祈願すると、波のまにまに角(つの)がある弓矢が流れてきました。その弓矢を手に取ったキサカヒメは「これは行方が分からなくなった弓矢ではない」と落胆して投げ捨てます。すると金の弓矢が流れてきました。キサカヒメは弓矢を手に取って「この岩屋は暗すぎる」と言いながら金の弓で矢を放つと矢は岩壁を射通し、光りが射しこむようになりました。

 キサカヒメはこの岩窟に鎮座されていますが、海人はこの岩窟の近くを通過する時は必ず大声をあげて、岩窟にこだまさせます。大声をかけずに、こっそり通り過ぎようとすると、神さまが現れて突風を吹き上げて舟を転覆させてしまいます。

 

ウムカヒメ(宇武賀比売)またはウムカヒヒメ(蛤貝比売) 

島根郡法吉(松江市法吉町・春日町)。

 蛤(はまぐり)の神ウムカヒメが鶯(ほほき)に化身してこの地に飛んできて鎮座した。

キサカヒメ(赤貝)とウムカヒメ(蛤)の貝の女神は古事記のオオクニヌシ篇にも登場します。

焼け石で大火傷をおったオオクニヌシは焼け爛れて死に絶えますが、その死を悲しんだ母神が天に参上してカムムスビに助けを請います。カムムスビは娘神の貝の二神を遣わします。

 キサカヒメがオオクニヌシの身体をきさげ集め、ウムカヒメが乳汁を塗ると、オオクニヌシは麗しい壮男に再生します。これは火傷を治療する古代の民間療法の一つを神話化したものです。削り落とした赤貝の粉を集めて、母乳に似ている蛤の汁で溶いて患部に塗る治療法です。

 

ヤヒロホコナガヨリヒコ(八尋鉾長依日子) 

島根郡生馬(松江市西生馬町・東生馬町・蔦津町・浜佐田町)。

「私の御心は安らかで、憤らない(いくまず)」とおっしゃった。

 

佐太大神  

キサカヒメの息子神、カムムスビの孫神。佐太大社(秋鹿郡鹿島町。背後の朝日山が神体山)。

 佐太大神は佐太地方一円の祖神で、佐太大社の本殿は3つの大社造り神殿を並列しています。中央の中殿に佐太大神、イザナギ・イザナミ、ハヤタモノヲ、コトサカノヲ、北殿にアマテラス、ホノニニギ、南殿にスサノオ、秘説四座の神々を祀っています。

 

アメノミトリ(天御鳥)

楯縫郡(平田市)。

 楯縫と名づける理由。「天にある私の立派な御殿が千尋(ちひろ。約2メートル)もある長い栲縄を使って、桁梁を何度も何度もしっかりと結んで頑丈に造ってあるように、天の下をお造りになった大神(オオナムチ)のために、私の御殿と同じ規模の壮大な御殿を造ってあげなさい」とカムムスビがおっしゃって、御子の天御鳥を楯部として天から下された。その時、天御鳥が天から降って、大神の御殿の神器としての楯を造り始めた場所が、ここなのだ。それで、今に至るまで、楯や鉾を造って尊い神々たちに奉っている。だから、楯縫と言う。

 

アマツキヒサカミタカヒコ(天津枳比佐可美高日子)

出雲郡漆治(しつち)。又の名は薦枕志都治値(こもまくらしつちち)。曽伎乃夜(曽枳能夜)神社(簸川町神永かんぴ。旧社地は仏経山)に祀られています。

 この神が鎮座している漆治郷には官庫がある。古事記の垂仁記では、出雲国造の祖の伎比佐都美(キヒサツミ)として登場します。

 

ツノムスヒ(角魂)

神門郡古志(出雲市知井宮町の比布知社(智伊神社)の祭神。

 

アヤトヒメ(綾門日女)

出雲郡宇賀(平田市奥宇賀町・口宇賀町・国富町)。

 天の下を造られた大神(オオナムチ)が求婚した時、女神は承諾せずに逃げ隠れました。その時に、大神が伺い求めた所がこの郷です。

 

マタマツクタマノムラヒメ(真玉着玉之邑日女)

神門郡朝山(出雲市朝山町・稗原町)。

 天の下を造った大神オホナモチが娶って、朝毎に通ったので朝山と言います。

 

スクナビコナ(少名毘古那。少彦名)

飯石郡多祢(たね)郷(三刀町南部から掛合町)。天の下を造った大神オホナモチがスクナビコナと天の下を巡った時に、稲種がここに落ちた。だから種と言います。

 スクナビコナは東出雲の国境を接する伯耆の粟島神社(米子市彦名町)でも粟の茎にはじかれて常世国に至った小さな子神として祀られています。

 

 カムムスビの子神たちを俯瞰していくと、以下のようなストーリーが浮かんできます。

 

 アワビとナマコを追って島根半島に到来したカムムスビ族の海人たちは中央部の加賀郷と恵曇郷に定着し、カムムスビの娘神としてキサカヒメ(赤貝)とウムカヒメ(蛤)の2神を祀ります。キサカヒメは加賀の潜戸で佐太大神を産みます。カムムスビ族は次第に法吉郷と生馬郷へと日本海側から宍道湖側へと勢力を拡げていきます。

 ところが伯耆からやって来たスサノオ族とぶつかり、カムムスビ族は楯縫郡、出雲郡、神門郡と出雲半島を西へと移動せざるをえなくなります。これにより、カムムスビの西出雲とスサノオの東出雲との対立関係が発生しました。

 島根半島の西部(平田市)へと勢力を移動したカムムスビ族は、スサノオ族に対抗するために、筑紫から銅剣や銅矛などを造る工人を招き入れて、楯縫郡に兵器製造業が発展します。

 

 カムムスビ族は簸の川(古代は宍道湖ではなく、日本海に注いでいた)下流域の右岸を開墾して。次第に出雲郡は肥沃な農業地帯となり、杵築が日本海に面した港、漆治が宍道湖に面した内港となります。出雲郡の中で仏経山と斐伊川に挟まれた地域が中心部となり、西出雲王国が築かれてキヒサツミが初代王となります。

 次に斐伊川を渡って左岸の神門郡に進出して、斐伊川の支流と神門川が流れ込む神門湖周辺のデルタ地帯の開拓を始めました。

 カムムスビがオオナムチのために杵築に大宮殿を建てさせたことや、オオナムチが娘神神と縁を結んだとする神話は、カムムスビ族が打ち立てた西出雲王国が、その後、スサノオとオオナムチによって征服され、被征服者側になったことを物語っています。

 

 

4.スサノオの出雲入り    

 長い長い間スサノオは出雲生まれの神として固定視され、日本神話も「大和の天つ神」対「出雲の国つ神」の図式で論じられてきました。現在でも多くの方々がこの図式にそって日本古代を眺めておられます。しかしこの構図は、4世紀前半の第十一代垂仁天皇の時代に当時の政治・社会情勢を背景に創作されたもので、スサノオは吉備(備前・美作)で生まれ、イザナギ・イザナミと同様に、吉備から出雲に入った神、とするのが持論です。

 

 出雲国風土記にはスサノオと古事記・日本書記などには登場しない多くの子神が登場しますが、東出雲と西出雲ではスサノオと子神たちの性格が異なっています。東出雲では土地開墾の神々として平和的ですが、西出雲でのスサノオは攻撃性が強く出ています。

 理由は東出雲と西出雲では入った時期が異なり、その目的が異なっていたからです。東出雲へは、イザナミの黄泉の国神話と同じ流れで、筑紫のカムムスビの島根半島入りよりも少し遅れて出雲に入りました。西出雲へはカムムスビ族が打ちたてた西出雲王国を攻撃するために備後北部の三次盆地から入っています。

 

A.東出雲のスサノオと子神

 東出雲では、スサノオが伯耆と国境を接する安来に入り、息子5神が意宇郡と島根半島東部に拠点を広げます。

(意宇郡)

スサノオ

意宇郡安来(やすき)郷 (安来市安来町から島田町付近)

スサノオが天の壁立廻り座しき。この時、ここに来座して「吾が御心は安平(やす)けく成るりぬ」と詔りたまひき。だから、安来と言います。 

出雲の神戸 (松江市大庭町神魂かもす神社付近)

イザナギの麻奈子(いとし子)であるクマノカムロ(熊野加武呂)と天の下を造られたオオナモチの2神に献じる民戸。スサノオと同神であるクマノカムロは熊野大社で両親のイザナギ・イザナミと共に祀られています。

アオハタサクサヒコ(青幡佐久佐丁壮。スサノオの子神)

意宇郡大草郷  (松江市東南部の大草町・佐草町から八雲村付近)

アオハタサクサヒコの鎮座地。

大原郡高麻山  (加茂町大西と大東町仁和寺の間)

古老の伝えでは、スサノオの御子アオハタサクサヒコがこの山の上に麻を蒔いた。だjから高麻山と言い、この山の峰にアオハタサクサヒコの御魂が鎮座している。

高麻山は意宇郡、出雲郡と大原郡の3郡が接する地域にあり、東出雲のスサノオ族がこの辺りまで進出していた、と解釈できます。

 

(島根半島)

ツルギヒコ(都留支日子。島根郡山口郷。松江市西川津町から西尾町付近)

「私が治めている山の入り口の所だ」と言った。だから山口という名を負わせなった。

クニオシワケ(国忍別。島根郡方結郷。美保関町片江付近)

「私が治めている地は、地勢(くにがた)が良い(えしこ)」と言った。だから方結(かたえ)と言う。

隣の生馬郷は、カムムスビの子神が鎮座。

イワサカヒコ(磐坂日子。秋鹿郡恵曇郷。鹿島町恵曇町から佐陀本郷付近)

国を巡った時に、ここに来て言ったことは、「ここは国が若々しく美しい所だ。地形はまるで画鞆(えとも)のようだ。私の宮はここに造ることにしよう」。だから恵伴(えとも)と言う。

ツキホコトヲヨルヒコ(衝桙等乎与留比古。秋鹿郡多太郷。恵曇郡の西部から松江市秋鹿町付近)

国を巡った時に、ここに来て言ったことは、「私の御心は明るく正(ただ)しくなった。私はここに鎮座しよう」と言って、鎮座した。だから多太と言う。

 

B.西出雲のスサノオと子神

 簸の川が流れる西出雲はスサノオ神話の原郷地と見なされ、高天原を放逐されたスサノオは仁多郡の鳥上山(船通山)に降臨し、簸の川でヤマタノオロチを退治し、飯石郡須佐を終焉の地とします。ところが不思議なことに733年に成立したと見られる出雲国風土記(古事記は712年、日本書記は720年の成立)ではスサノオの后クシイナダヒメは登場しますが、スサノオが鳥上山に降臨し、ヤマタノオロチを退治した逸話は登場しません。このことは地元の出雲では伝承されていなかった逸話を何らかの理由で大和朝廷が選択し、編纂したことを語っています。

 

 仁多郡の横田町にクシイナダヒメを祀る稲田神社があり、仁多町にサメがタマヒメ(玉日女)を慕って川を上ってきた鬼の舌震(したぶるい)がヤマタノオロチ神話の片鱗を伝えている、と解釈する見解もありますが、片思いをするワニと人食い大蛇には関連性がなく、稲田神社は出雲国風土記では掲載されていません。仁多郡のスサノオの降臨、クシイナダヒメとヤマタノオロチ伝承は、来時期の記述にそって、後世にふくらんだものと判断できます。

 

(スサノオ)

大原郡佐世郷 (大東町下佐世、上佐世付近)

古老の伝えでは、スサノオが佐世(させ)の木の葉を髪飾りにして踊られた時に、挿していた佐世の木の葉が地面に落ちた。だから佐世と言う。

大原郡御室山 (大東町中湯石室谷の室山)

スサノオが御室(みむろ)を造らせて宿った場所。近くの大東町須賀には須賀神社あり、スサノオが須賀に来て「心地がすがすがしくなった」ので須賀宮を造り、日本で最初の和歌「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣造る その八重垣を」と謡って、クシイナダヒメと結婚します。

大原郡には、天の下を造った大神が屋裏(やうち)郷(大東町)で矢を射たてさせ、屋代(やしろ)郷(加茂町で的置きの盛り土を立てて矢を射り、神原郷(加茂町)で神宝を積み置いた、とする伝承もあります。

飯石郡須佐郷 (簸川郡佐田町宮内から朝原付近)

スサノオが「この国は小さい国だが、国としては良い所だ。私の名前は、木や石などにはつけないことにしよう」とおっしゃって、自分の御魂をここに鎮め置いた。そして、大須佐田・小須佐田を定めた。だから須佐と言う。ここに官庫がある。

 

(后・娘神)

ヤノノワカヒメ(八野若日女。神門郡八野郷。出雲市矢野町、小山町、白枝町付近)

八野郷にスサノオの御子ヤノノワカヒメが鎮座していた。天の下を造った大神オオナムチがヤノノワカヒメと結婚しようとなさって、屋を造らせた。だから八野と言う。

ワカスセリヒメ(和加須世理比売。神門郡滑狭(なめさ)郷。出雲市東神西町から簸川郡湖陵町付近)

滑狭郷にスサノオの御子ワカスセリヒメが鎮座していた。天の下を造った大神が結婚をして通った時に、その社の前に岩があり、その表面がとても滑らかだった。そして「滑らかな岩(なめしいわ)」とおっしゃった。だから南佐(なめさ)と言う。

クシイナタミトヨマヌラヒメ(久志伊奈大美等与麻奴良比売。飯石郡熊谷郷。飯石郡三刀屋町から大原郡木次町上熊谷付近)

古老の伝えでは、クシイナダヒメが妊娠して、出産しようとした時に出産する場所を探した。その時、ここにやって来て、「とても奥深い(くまくましい)谷だ」と言われた。だから熊谷と言う。

 

C.スサノオが東出雲と西出雲に入った時期と目的の違い

 スサノオ神話の東出雲と西出雲の違いは、まず進入経路が異なっていることが挙げられます。

(東出雲)

 東出雲ではスサノオは伯耆から安来に入り、子神として意宇(おう)郡にアオハタサクサヒコ、島根半島にツルギヒコ、クニオシワケ、イワサカヒコ、ツキホコトヲヨルヒコの神が拡がっていきますが、いずれも土地開墾神として定住した印象を与えます。これはイザナギ・イザナミの黄泉国神話の出雲入りと同じ道筋をたどっていますが、時期的にはカムムスビ族の島根半島入り(弥生中期半ば頃)から少し遅れた時期と推定します。

 

 熊野大社にスサノオとイザナギ・イザナミ、八重垣神社にスサノオと后クシイナダヒメが祀られますが、すでに備前と美作で蒜山高天原神話とスサノオのヤマタノオロチ神話が成立しており、その延長線上にあると理解できます。

 息子神アオハタサクサヒコは現在の松江市南部に本拠地を構え、宍道湖南畔の意宇郡を開墾していきます。大原郡の高麻山に麻の種を蒔いた逸話から、出雲郡と大原郡との郡境まで東に進み、意宇郡のほぼ全域を傘下におさめたことを想像させます。

 ところが宍道湖対岸の島根半島では、スサ族が中央部にまで開墾を進めていくと、先に島根半島に定着していたカムムスビ族と土地争いで対立するようになります。武力でかなわないカムムスビ族は退いて、西出雲へ移動して西出雲王国を築いていきますが、東出雲のスサ族と西出雲のカムムスビ族の対立が始まります。

 

(西出雲)

 西出雲のスサノオは飯石郡と大原郡の境で后クシイナダヒメが出産し、大原郡の佐世で踊り、御室山に宮殿を建て、屋裏で矢を射たてさせ、屋代で的置きの盛り土を立てて矢を射り、神原で神宝を積み置き、飯石郡須佐で隠棲します。

 これらを線でつなげていくと、スサ族は三次盆地から斐伊川中流に入り、大原郡を基地にしてカミムスビ族が拠点とする出雲郡と神門郡を攻撃してカムムスビ族の西出雲王国を征服し、スサノオは飯石郡須佐郷に隠棲した、という構図となります。

  

 

第2章 三次勢力の勃興

 

1.三次盆地の開拓 

 大土地開墾集団スサの男たち(スサノオ族)は周匝(すさい)の宗家を中心に、シンボルとなった分銅型土製品を携えて、備前(拠点は下市)、美作(同、津山)、西播磨(同、龍野)、伯耆・東出雲(同、淀江)、備後北部(同、三次)のグループへと拡散していきます。伯耆に向かった仲間と別れて中国山地を西に向かったスサノオ族は比婆山連峰の山麓から庄原盆地、三次盆地へと進んでいきます。

 

 スサノオ族が驚いたことは三次盆地は1,000メートルを越える高山が連なる中国山地の窪みにあたり、標高はわずかに160メートル前後と低く、盆地を流れる江(ごう)の川には日本海の河口から舟で上って来れらることでした。盆地では馬洗(ばせん)川、西城(さいじょう)川、神之瀬(かんのせ)川の支流が江の川本流に合流し、本流や支流の周辺は平地の原野が細長く続いており、それを標高250280メートルの丘陵が左右を囲んでいました。早朝は川から発生する霧に盆地全体が覆われますが、中国山中に隠されていた肥沃な土地となる可能性を持っていました。

 さらに驚いたことは盆地から江の川を上っていくと、安芸の瀬戸内海側に接近することでした。勝田で支流に入り、峠を越えるて根谷川から峠を下ると、広島湾へ続く入江の最奥部に位置する可部に出ることが分かり、三次盆地は瀬戸内海と日本海を縦断する交易路の中継地として無限の可能性を持っていることも分かりました。

 

  スサノオ集団は鉄製の農機具を手に、三次盆地の開拓を始めます。先住民が手をつけることができなかった川周辺の湿地帯や荒地を50人から100人単位の屈強の男達が大中の石を取り除き、でこぼこを平らにして畦で囲み、またたくまに微高地に広がる水田群を切り開いていきます。大土地開拓者スサノオ族が得意とする手法でした。

 続いて江の川沿いに続く平野部を開墾していきます。江の川流域は強固な国家組織はまだ成立しておらず、幾多の部族が分散していました。各地の部族の首長はスサノオ族の進入を警戒していましたが、スサノオ族は自分達が開墾できずにいた川沿いの湿地帯や荒地を鉄製農機具を持った大集団で水田に変えていく様子に目を見張りました。鉄製の農機具はいざとなると武器の代用になりますから、各地の部族はスサノオ族に大した抵抗もせずに従属していきます。原住民の娘の多くが屈強な男たちの妻となり、少年達は開墾集団に自ら加わっていきましたから、スサノオ集団の人数も膨らんでいきます。

 

 江の川本流は、日本海に向かっていく下流は渓谷が迫って水田に適した平野部は僅かでしたが、上流に向かうと安芸高田まで平野部が帯状に続きます。 江の川は勝田から北西に上がり、千代田、大朝の高原地帯に入り、中国山地の阿佐山(標高1,218メートル)が水源となります。

 支流の馬洗(ばせん)川は矢野地あたりまで平地が帯状に続き、西城(さいじょう)川を上がると庄原盆地に至り、そこから出雲、美作、伯耆の方面へ路が分かれます。神之瀬(かんのせ)川は赤名の峠まで続き、峠を越えると西出雲に入ります。ことに江の川本流では三次から安芸高田まで、 馬洗川流域、西城川の庄原盆地の地域がことに肥沃な水田地域に様変わりした。

 

 三次盆地には旧石器時代、縄文時代から人が住んでいましたが、中心部の三次盆地が大発展し、人口が増大していきます。米の生産量が飛躍的に高まり、余剰の米で工人たちを雇う余力が出てきました。塩町式土器・凹線文、刺突線文、浮文、列点文などの装飾性が豊かな土器が手間隙をかけて創作されるようになります。花園遺跡の方形周溝墓など、大型の集団墓地が造られていきます。側面を土砂が崩れないように農閑期の農民が河原石が運び込み、工人が貼り石を積んでいきます。

 

2.王族と四隅突出型弥生墳丘墓の誕生  

 次第に三次盆地と江の川流域が王国としてまとまっていき、スサノオ族を統括する首長が王となっていきます。

 

 他国にない王国の特徴は吉備、安芸、出雲、石見の四国の接点に位置していたことでした。江の川下流からは石見、神之瀬川の上流から西出雲、西城川から吉備、江の川上流から安芸の神々や人々がやって来て、つの異なる文化が交わっていきます。

 王国としての体制が出来上がってから、国王や王族を単独で埋葬する個人墓地も造営されるようになります。家臣や祭祀者から、三次盆地には四方からやってくる神々と埋葬者への参拝者へ敬意を示す形状があったら良いのではないか、という声が挙がってきました、そこで四隅にそれぞれ突き出した入り口を持つ四隅突出型弥生墳丘墓が編み出され、陣山遺跡15号墳、宗裕池西1号方形墓などが誕生します。

 

 三次王国は未曾有の繁栄を迎えていきますが、新たな難問が浮上してきました。鉄製農機具や鉄素材の輸入の確保と同時に余剰米の輸出と処理でした。単純に考えると、鉄製品の輸入先は筑紫の奴国や伊都国でしたから、江の川の河口で鉄製品を入手して、その見返りとして米を筑紫諸国に輸出すれば、好循環となります。

 ところが江の川河口を支配しているのは筑紫系のカムムスビ族と志賀島に拠点を持つ安曇海人族でした。両族は石見に続く西出雲王国とも深くつながっていました。西出雲王国はすでに東出雲のスサノオ族との対立が問題化していましたから、カムムスビ族は江の川上流の三次盆地のスサノオ族との交易を拒否しました。

 安曇族にとっても、三次盆地よりも越地方との交易拡大が優先課題でした。越地方は高価な輸出品となるヒスイの産地であると同時に米の産出地でもありました。

 

 江の川河口が無理とすると、つの可能性がありました。一つは庄原盆地と比婆山連峰を経て、伯耆の日野川を下ってに河口の米子に出ることでした。つ目は庄原盆地を越えて高梁川流域を下って瀬戸内海に至る行路、つ目は美作に出て旭川上流の勝山か吉井川中流の津山盆地経由で瀬戸内海に至る行路、つ目は江の川上流の勝田から峠を越えて安芸の広島湾に出る行路でした。

 しかし四行路とも、海に至るまでに陸の難路や峠を越える必要があり、江の川を舟で下るだけの行路よりもはるかに難行で、日数もかかりました。日本海と瀬戸内海の双方に自前の港を持つことが三次王国の夢になっていきます。

 

 

第3章 西出雲と東出雲の対立     0年~50年頃

 

1.西出雲の神門王国

 西出雲に誕生したカムムスビ王国は出雲郡を中心に順調に発展していきます。出雲郡は島根半島の付け根の部分に位置し、日本海、入海(宍道湖)と斐伊川に囲まれた地域です。

 中心部は半島部から内陸側に入った仏経山西北麓から斐伊川沿い、ことに神立、神守(かんもり)、神氷(かんぴ)の三角形内で、キヒサツミ王の王宮がありました。古代の斐伊川は神立を過ぎると左折して旅伏山、鼻高山、八雲山と続く山麓地帯の南麓を流れて、日本海に接する杵築に流れるか、神門湾に注ぐ幾つかの支流に分かれるデルタ地帯となって、右岸は肥沃な沖積平野を形成していました。左岸の神門湾周辺は神門川も流れ込んでいるため、まだ葦が一面を覆う湿地帯で、大部分が未開墾でした。

 

 島根半島は東はスサノオ族、西は西出雲王国が折半する形となりました。スサノオ族は半島先端の美保地域をツルギヒコ(都留支日子)とクニオシワケ(国忍別)の2部族が占有し、半島の西に向かってイワサカヒコ(磐坂日子)とツキホコトヲヨルヒコ(衝桙等乎与留比古)の2部族が進出していましたが、日本海側から勢力に広げていたカミムスビ族のヤヒロホコナガヨリヒコ(八尋鉾長依日子)部族と衝突し、佐太(佐陀)大神を祀る朝日山の東麓を流れる佐陀川流域がカムムスビ族とスサノオ族の領地をめぐる攻防の地域となります。

 

 佐太大神はカムムスビの孫神で、母キサカヒメ(枳佐加比売 。赤貝の神)は日本海に面する加賀の潜戸(くけど)で佐太大神を出産しました。このため加賀から朝日山にかけてがカムムスビ族の聖地でしたから、西出雲王国は何とか死守します。

 楯縫郡(平田市)はカムムスビの息子神アメノミトリ(天御鳥)が楯部として天から下されて、神々に献じる楯や鉾を祀る場所として、筑紫の奴国で製造された銅鉾などが輸入されていました。スサノオ族との衝突が深刻さを増していったこともあって、独自の武器も作る拠点となっていき、 出雲型銅剣と呼ばれる全長5053センチメートルの中細型C類の製造が盛んとなります。

 楯縫郡と王国の中心部の間に位置する漆治(しっち)は宍道湖の港でしたが、宍道湖の出入り口がスサノオ族に押さえられてしまってからは、日本海への出入りが難しくなります。このため斐伊川河口に位置する杵築が港として発展していきますが、港が繁栄した頃の名残りで倉庫街となっていました。

 

 杵築の港は志賀島に拠点を置き、半島との交易にも従事して荒海の遠洋航海に長けていた安曇海人族が越地方との交易を拡大していくための拠点港として行き交う舟が増していきます。安曇族は半島からもたらされる絹織物や青銅製品などの舶来品や鉄製の農機具やガラス玉など奴国の加工品を筑紫から運び、越地方のヒスイや米と交換していました。

 杵築から宍道湖に至る肥沃なデルタ地帯では、カムムスビの子神で穀物の種子の神スクナビコナ(少名毘古那)が活躍して、米や稗(ひえ)、粟が豊かに実り、麻や桑も勢いよく成長していきます。左岸の神門湾の湿地帯ではツノムスヒ(角魂)部族が開拓に手をつけ始めました。

 

 西出雲王国と東出雲のスサノオ族との対立は激しさを高めていきます。当時の舟の1日の走行距離は天候や風の影響に左右はされましたが、平均は約20キロメートルでした。安曇海人族は、杵築の港を出た後、加賀や周辺の湾で一泊しましたが、加賀から東に位置する島根半島の先端部の美保地域は、スサノオ族が占領していて停泊が難しくなっため、加賀から出航した後が大きな障害となります。安曇族は仕方なく、半島先端の沖合いにある沖ノ御前島を停泊地として、スサノオ族が支配する米子や淀江を経由せずに赤埼まで沖合いを進み、東郷湾を経て青江の港に向かわざるをえなくなります。しかし、沖ノ御前島はトドの群れが占拠しており、沖ノ御前島から赤埼や青江に至る沖合いはサメ(わに)の名所で、いつ巨大なサメに襲われるか分からない地域でしたから、生死をかけた危険な航海となります。

 この影響で、米子や淀江の港での鉄製品や鉄素材の入手が困難となり、伯耆・東出雲や三次のスサノオ族はわざわざ因幡の青江の港まで出向かざるをえなくなります。安曇族はそれを見越して、青江の市場でさばく鉄の量と価格をコントロールしていきますから、スサノオ族はますます窮地に追い込まれていきます。

 

 

2.淀江の港と高地性集落

 三次盆地のスサノオ王国は海への窓口として、伯耆の日野川河口の米子か淀江が最適地と判断しました。伯耆・東出雲のスサノオ族に打診すると、カムムスビ族との衝突と安曇族の嫌がらせで困っていましたから、三次勢力の伯耆進出を渡りに舟と歓迎しました。三次勢力が合流すれば、カミムスビ族と安曇族を蹴散らせる勢力となります。

 

 場所は淀江に決まりましたが、西出雲勢力と安曇族が船団を組んで海から攻撃してくる恐れもありましたから、海から少し離れた標高100メートル前後の妻木晩田(むきばんだ)の尾根に防御を兼ねた高地性集落を築くことになりました。三次盆地や庄原盆地から屈強の男達が淀江に下ってきて、伯耆・東出雲勢と連携して、集落の建造が着手されました。すると美作勢に加えて筑紫の宗像族も加勢すると申し入れてきました。美作勢は吉井川と旭川に加えて、日本海の外港も必要と考えており、宗像族は安曇族とカムムスビ族に阻まれてきた日本海ルートへの進出と拠点造りを熱望していたからです。

 尾根の中心部に位置する妻木山地区に居住地が造られ、萱葺きの大型家屋や土葺きの小型住宅が建築されていきます。美作勢と宗像族の参加もあって、予定した以上の規模に膨らんでいきます。夜見島(弓ヶ浜)や島根半島先端の美保岬が青海に浮かび、晴天の日には遠く隠岐島まで見渡される尾根先端の洞ノ原地区には防御用の環壕(空堀)が掘られ、また首長を埋葬する、三次盆地で発生した四隅突出型弥生墳丘墓も平均4メートル四方と小型なものが造られるようになります。

 

 西出雲と東出雲・伯耆の対立は一触即発の段階にまで達します。淀江から青江の間、約80キロメートルに及ぶ海岸線の占有をめぐっての対立も、地元民を巻き込んで激しくなっていきます。兵士の数では伯耆勢が優勢でしたが、西出雲勢は筑紫からもたらされる先端の技術や武器を保有していましたから、双方の武力は拮抗しており、双方とも攻撃開始に躊躇する膠着状態が続いていきます。

 

 

第4章 西出雲王国への挑戦 

   

1.周匝(すさい)の宗家での会議

 「西出雲王国との膠着状態を打ち破るには、備前の下市王国に加勢してもらうしか、手立てはないだろう」。

 

 くしくも同じ結論に至った伯耆・東出雲勢と三次勢は、毎年、周匝(すさい)にある宗家に各地方の代表が集まる集会の場で下市国王を説得することに阿吽(あうん)の呼吸で合意しました。その根回しで宗像族へ計画をもらましたが、宗像族はもろ手をあげて賛成しました。しかし宗像族はスサノオ族の集会には出席はできませんから、側面から支援する意向を伝えてきました。

 

 1世紀半ばの頃です。備前の吉井川をのぞむ周匝(すさい)の宗家に各地方の代表が集まってきました。

 真っ先に伯耆・東出雲の代表が口を切ります。

「淀江に本格的な港を築き、妻木晩田(むきばんだ)の丘陵地に高地性集落を整備しましたが、西出雲のカムムスビ族と筑紫の安曇族に邪魔をされて、計画どおりに進まず困っております」。

「実は我々もカムムスビ族と安曇族の仕打ちに困り果てております。三次盆地で米が大量に生産できるようになりましたので、江の川を下って江津から米をムスビの国々に輸出したい。宗像族も米の輸送を担いたがっておりますが、西出雲王国が横槍を入れている、とこぼしております。いっそのこと、 三次から西出雲に攻め込んでみたい気持ちです」。

 

 三次王の言葉を受けて、伯耆の代表が結論を切り出します。

「問題は西出雲王国も強力で、私どもと三次勢がまとまってみても、相手方を凌ぐことができません。下市王国と播磨勢が加勢して下されば、西出雲王国を圧倒できるのではなかろうか、と思う次第です」。

 協議はあらかじめ伯耆・東出雲勢と三次勢がしめし合わせた筋書きに沿って進行します。ところが下市王はあまり関心はなさそうでした。西播磨の代表は寝耳に水、といった表情できょとんとしていました。下市王の頭の中は日本海よりも津山盆地を中心にした美作をどうするかで占められていました。後代にオオモノヌシと尊称されるようになる下市王は吉井川、旭川、高梁川と大中河川の周辺の微高地の水田開拓が軌道に乗り、備前から備中に続いて、備後まで勢力を広げていました。これに讃岐を加えれば、瀬戸内海の中央部を握ることになります。問題は備前の背後にある美作でした。

 

 美作は全体を治める勢力が不在で、津山を分岐点として備前、西播磨と伯耆の勢力に分かれていました。慎重居士すぎると陰口を叩かれる下市王でしたが、腹の底では背後の美作を我が物としたい欲望がうずいていました。

 しばらく場内の沈黙が続きますが、宗主が沈黙を破りました。

「スサノオ族の勢力拡大の意味合いから、この際、備前・備中と播磨も協力して、西出雲王国に攻め込んでしまったらどうだろう」。

 宗主の唐突な発言に場内は動揺しましたが、風向きは西出雲王国への攻撃へと流れていきます。数日前に宗像族が宗主の許を訪れ、贈り物を献じていましたが、その時に宗像族が計画を宗主にそっと耳打ちしていたのかも知れません。

 

 一同の視線は下市王に集まりました。下市王はやはり黙考を続けています。次第に「ここで伯耆・東出雲勢と三次勢に恩を売っておけば、美作の併合に際して味方につけることがげきるのではないか」との考えに傾いていきます。

「宗主のご意見に従って、西出雲王国攻撃に参加しましょう。兵士は何名ほど送ったら良いのでしょう」。

 場内は再び騒然となりました。西播磨の代表は「地元に戻って、皆と相談して決めましょう」と結論を先送りにしましたが、吉備王国の支援発言で西出雲王国攻撃が確定しました。攻撃開始は稲の収穫が一段落し、雪が積もりだす前の晩秋から初冬にかけてが選ばれました。

 

 

2.西出雲王国への攻撃

 米の収穫が片付いた後、真っ先に三次勢力が三次盆地から赤名の峠を越えて飯石郡に入り、来島郷へと進軍します。常備兵はわずかで、農民兵が中心の千人の部隊でした。三次軍は三次国王が直々に指揮をとり、身重の后も帯同しました。その知らせは伯耆・東出雲勢と備前国王への密使が伝えます。めざすは出雲郡の斐伊川と仏経山の間にある西出雲王国の首都制覇でした。来島郷で一部は須佐川(神門川)・波多川沿いに神門湾へ進みますが、主力は三屋(三刀屋川)から本流の斐伊川へと向かいます。

 密使の知らせを受けた東出雲勢は宍道から出雲郡に攻め込み、健部郷の神庭(かんば)を占拠しました。しかし、そこからの西進は西出雲王国軍に阻まれ、神庭と武部(たけべ)・三絡(みつがね)の間でにらみ合いとなります。西出雲は安曇族を通して、奴国や伊都国に救援を要請しました。

 

 三次軍の主力が斐伊川に近い三刀屋に入った時、三次王の后クシイナタミトヨマヌラヒメ(久志伊奈大美等与麻奴良比売)が産気づき、出産する場所を探しました。三刀屋から熊谷に着いて「とても奥深い(くまくましい)谷だ」と言われたので、それ以来、熊谷と呼ばれるようになります。

 三次軍は斐伊川を渡って大原郡里方に入ります。すると無事に出産の知らせが入りました。生まれた子は跡継ぎとなる男の子でした。古老の伝えでは、三次王は跡継ぎが生まれた嬉しさで、大原郡佐世郷で、佐世(させ。ツツジ科)の木の葉を髪飾りにして踊られました。その時に、挿していた佐世の木の葉が地面に落ちました。それ以来、佐世と呼ばれます。

 

 斐伊川支流の赤川に出た三次王は后のために赤川上流の大原郡御室山(大東町中湯石室谷の室山)の麓に御室(みむろ)を造らせ、日本で最初の和歌となる「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣造る その八重垣を」と謡います。スサノオ族との接触が初めてだった地元の民は、三次王をスサノオに見立てて、後の世になって御室の近くの須賀にスサノオと后を祀りました。

 三次軍は赤川下流の加茂に到達した後、宍道の東出雲軍と連絡が取れるようとしてになり、東出雲軍の武将が兵士数名を伴って加茂にやってきました。武将は仏経山を挟む形で、神庭と武部・三絡の間でにらみ合いとなっている状況を説明し、三次軍は仏経山の南側から西出雲王国の首都を襲う要請をして、連れて来た兵士を道案内として残していきます。

 三次軍は加茂に陣地をはり、屋裏(やうち)郷で矢を射たてさせ、屋代(やしろ)郷で的置きの盛り土を立てて矢を射り、農民兵は突撃の訓練に励みます。

 

 勝負の分かれ目は仏経山となりましたが、仏経山の各所には西出雲軍が砦を築いていたため、東出雲勢と三次勢の双方とも攻めあぐねます。

 均衡が破れたのは、雪が降り始めた頃、備前国の援軍が備中から比婆山連峰を越えて斐伊川を下り、三次軍に合流してからです。援軍の兵士は二千人でしたが、これは第1陣で、第2次、第3次の援軍が準備されているということで、東出雲勢と三次勢の士気が高まります。

 備前勢は第の手段を提案します。筏(いかだ)を組んで斐伊川を下り、首都に奇襲攻撃をかけるとこでした。木次と熊谷の山から丸太が切り出され、筏が三十艘造られました。筏隊は早朝に出発しますが、その前夜、仏経山の砦をめざした三次軍は暁に砦を征服し、日が上る頃に狼煙を上げます。

 

 狼煙を見て、東出雲勢は攻撃を始め、神立手前の川辺に到着した備前勢も次々に上陸します。三次勢と備前勢の混成軍も仏経山南の峠を越えて、神氷に下っていきます。

 三方からの同時攻撃で、西出雲軍の指揮が乱れてパニック状態となります。西出雲軍の一部は島根半島の楯縫郡へと逃げましたが、主力は斐伊川を下って杵築で、筑紫からの援軍の到着を待ちながら、態勢の立て直しをはかります。

 主戦場は伊努郷と塩冶(やむや)郷となりましたが、待ちわびる筑紫の援軍は到着せず、ついに西出雲勢は力尽きて、白旗をあげました。東出雲勢の陣地となった荒神谷に西出雲勢から奪った銅剣類、三次軍の陣地となった加茂岩倉には銅鐸が集まられ、厳重に保管されます。神原郷に神宝を積み置いた、という伝承はこれに由来します。

 

 三次王が率いる一団は斐伊川を渡って神門郡を征し、飯石郡の須佐郷(簸川郡佐田町宮内から朝原付近)に入ります。三次王は「この国は小さい国だが、国としては良い所だ。私の名前は、木や石などにはつけないことにしよう」とおっしゃって、自分の御魂をここに鎮め置いた、と伝承が伝えます。

 その後、東出雲軍と三次軍の合流隊は日本海沿いに西進し、江の川河口の港を占拠しました。筑紫の奴国は元々、常備兵の数が少なかったため、大規模な援軍ではないものの、数百名の兵士を送り込みました。江の川河口に近づいた時はすでに江の川河口はスサノオ族の手に落ちていましたので、筑紫に引き返していきますが、これをきっかけに、奴国王は吉備と出雲のスサノオ族の動向を留意するようになり、57年の奴国の後漢への遣使派遣と冊封体制入りにつながっていきます。

 

 

第5章 神門王国の誕生    

 

1.三次王が西出雲へ

 西出雲王国の支配を達成した三次王は出雲郡、楯縫郡、神門郡の順で王国内をじっくりと巡って行きます。出雲郡の中心部から楯縫郡に入り日本海を臨んだ後、斐伊川に沿って杵築の港に出ます。その後、斐伊川と神門川が流れこむデルタ地帯 の神門郡に進みましたが、三次盆地の江の川と支流流域の湿地帯を豊かな水田に変貌させてきた経験の積み重ねから、家臣たちは神門湾(水門)地域に将来性があることに気づき、三次王に開拓を進言します。スサノオ族が得意とする湿地帯の開墾事業が、征服されたカムムスビ族も駆り出されて開始されます。

 

 ヤツカミヅオミヅノを信奉する出雲の先住民と筑紫から到来したカムムスビ族はすでに同化していましたが、三次王はヤツカミヅオミヅノ族とカムムスビ族で構成される被征服者に対して柔軟な態度でのぞみました。その証しとして、カムムスビ族の聖地で佐太(佐陀)大神を祀る朝日山と佐太大神の母神キサカヒメ(枳佐加比売 。赤貝の神)を祀る加賀の潜戸(くけど)は破壊行為をせずに、手付かずのままとしました。島根半島の生みの親ヤツカミヅオミヅノは杵築に祀られていましたが、スサノオ系の大土地開墾神オオナムチに交替され、ヤツカミズオミヅノを祀る場所は神門湾の対岸の長浜に移されます。

 

 三次王は神門湾周辺のデルタ地帯の開墾と杵築港の発展を祈って、オオナムチを祀る大規模は宮殿を築くことを思い立ちます。建造に向けてカムムスビ族の農民達が徴発されましたが、不平をもらす者もおりました。すると天のカムムスビから「私の十分に足り整っている天の立派な御殿の縦横の規模が、千尋もある長い栲縄を使い、桁梁を何回も何回もしっかり結んで、たくさん結び下げて造ってあるのと同じように、この天の尺度をもって、天の下をお造りになった大神の住む御殿を造ってさしあげなさい」との託宣が下ってきました。伝説では「天の下を造った大神の宮を造ろうと、諸々の神々たちが杵築に集まって地面を突き固め(きづき)なさった」と伝えます。

 

 神門湾をとりまくデルタ地帯の開墾は着々と進み、三次王は新王国を神門王国と名乗ることを決め、王宮を構える場所を神門郡の高岸郷に定めました。高岸郷の上手に位置する上塩冶町付近の丘陵が集合墓地となり、三次盆地で発生したヒトデの形をした四隅突出墳丘墓群が西出雲地方でも一般化していきます。

 神門王はカミムスビ族を懐柔する意味もあって、見初めたカミムスビ族の二人の女性を后にしようとします。最初に見初めたアヤトヒメ(綾門日女)が住む出雲郡宇賀(平田市奥宇賀町・口宇賀町・国富町)に何度となく通いました。しかしアヤトヒメは神門王の求婚を承諾せずに逃げ隠れました。噂では筑紫に逃げて行ったようです。神門郡朝山(出雲市朝山町・稗原町)に住むマタマツクタマノムラヒメ(真玉着玉之邑日女)は神門王を受け入れました。神門王が朝毎に通ったので朝山と言います。

 

 神門王は斐伊川上流の飯石郡、仁多郡へと開拓を進めていきます。伝説では、天の下を造った大神オオナムチがカムムスビの子神スクナビコナと天の下を巡った時に、稲種が飯石郡多祢(たね)郷(三刀町南部から掛合町)に落ちました。だから「たね」と申します。

 

 

2.弥生中期から弥生後期への道

         (参照:「吉備邪馬台国の奴国・伊都国制覇」 第3章)

 首都を神門郡に置いた神門王は東出雲勢力と調整しながら、新王国の領域を定めていきます。

 

 伯耆と東出雲では全体を治める王は出現せず、スサノオの息子神を信奉する氏族がそれぞれ分割して支配する形になっていました。伯耆との国境から出雲郡との境まで宍道湖の南側を占める意宇郡はアオハタサクサヒコ(青幡佐久佐丁壮)、島根半島では島根郡山口郷をツルギヒコ(都留支日子)、 島根郡方結郷をクニオシワケ(国忍別)、秋鹿郡恵曇郷をイワサカヒコ(磐坂日子)、秋鹿郡多太郷をツキホコトヲヨルヒコ(衝桙等乎与留比古)の各部族が分け合っていました。

 神門王は東出雲には踏み込まず、出身母体である三次盆地と江の川上流に西出雲と江の川下流の東岸を加えた地域を、神門王国の領域と定めました。

 西出雲王国から没収した銅剣などの武器や銅鐸は荒神谷と加茂岩倉に保管されていましたが、荒神谷の銅剣類はアオハタサクサヒコ族、加茂岩倉の銅鐸類は神門王の手で、呪禁の儀式を経て埋葬されます。

 

 西出雲王国制覇と神門王国の体制作りに一段落がついた後、下市王へのお礼に備前を訪れます。訪問の秘かな狙いは安芸の太田川河口の入海地域を中継貿易港として共同開発することをもちかけることでした。

 三次盆地から瀬戸内海側の芦田川に下り、備後、備中、備前と東に進みながら、下市王が治める備前王国が勢いを増していることを実感します。道中の町中にあふれる商人や水田の農夫の明るい笑顔から、王国内の経済が順調なことを肌で感じます。

 

 下市王へのお礼と周匝の宗主への挨拶を無事に済ませた後、神門王は下市王に安芸の太田川河口開発の計画を切り出します。

 神門王の説明に下市王はじっと耳を傾けます。備後の芦田川まで勢力を伸ばした後、王国の発展をどのようにしていくかが悩みの種となっていましたが、妙案は浮かんできていませんでした。話を聞きながら、讃岐と美作を併合し、安芸の太田川も押さえることになれば、瀬戸内海の覇権を握ることができることに気づきました。

 

 神門王の話は太田川の新都市開発に筑紫の宗像族と伊予のオオヤマツミ族を巻き込んでいく、とより具体的に進みます。

 まず讃岐を併合して瀬戸内海中央部の覇権を握り、次に美作を併合して背後を固める。宗像族に加えて、オオヤマツミ族も陣営に加わるならば、安芸を拠点として筑紫の奴国と伊都国に攻め込むことが可能となり、倭国の盟主となることも夢ではない、と具体的な光景が浮かんできました。

 

 下市王は、最初に讃岐の併合に踏み込みます。その頃、讃岐の忌部族の兄弟国である阿波国が讃岐国を凌ぐ勢力に成長してきて、兄貴格の讃岐を飲み込んでしまう恐れが出てきていました。スサノオ族の宗主にとっても心配の種となっていましたから、宗主の仲介で讃岐との併合は大きな波乱もなしに成功しました。

 次に美作の併合です。美作は備前、伯耆、播磨の勢力がからみ、微妙ないがみ合いもありました。播磨勢力は備前勢力による美作併合に反対の声を上げましたが、西出雲王国征服で借りがある伯耆・東出雲勢は、神門王の後押しもあって併合に同意しましたから、何とか併合化に成功しました。

 倭国の盟主への道を歩みだした下市王は王都を下市から足守川河口の吉備津に移します。吉備邪馬台国の誕生です。

 神門王国も繁栄が始まり、日本海の覇者への道を歩み始めます。

 

 日本海への進出を目指していた宗像海人族は安曇族の警戒をかいくぐりながら、ゆっくりとですが、石見、出雲、伯耆へと進出していき、江の川河口の江津、神門国の窓口である杵築の港、伯耆の淀江の港に寄航する船舶の数が飛躍的に増大していきます。ことに淀江は美作を併合した吉備邪馬台国が日本海の外港として重要視するようになったことから、港周辺と高地性集落の妻木晩田が大発展していきます。

 神門王国も太田川河口の開発により、瀬戸内海の外港を確保できました。瀬戸内海と日本海を結ぶ交易路が整備され、江の川上流から三次盆地に至る流域が発展していきます。

 

 瀬戸内海は吉備、日本海は出雲の形で本州西部の中央部が爆発していき、倭国の盟主の座にある奴国への攻勢が強まっていきます。奴国の吉備・出雲勢力への警戒が一層強まり、両者の衝突は時間の問題となっていきます。オオヤマツミ族は筑紫対吉備・出雲の中で中立を保っていましたが、宗像族の説得もあって吉備・出雲側に傾斜していきます。

 

 時代は、筑紫が中心だった弥生時代中期から吉備・出雲を中心とする後期へと移行していきます。

     

 

                    第二編 吉備勢力の出雲制覇    完

 

 

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