その34.若菜 上        ヒカル 39

 

7.フランス軍のナポリ攻撃と撤退

 

昨年八月、ジェノヴァ共和国攻撃に成功した後、ナポリ王国の再奪取を目指して陸路でイタリア半島を南下して行ったロートレック元帥が率いるフランス軍は、フランス側に転じたジェノヴァ海軍の支援もあって、二月九日にナポリ王国入りに成功しました。反対にローマ虐殺の後、国際世論の非難を浴びていた神聖ローマ帝国軍は占領を継続していたローマからの撤退を余儀なくされたこともあって、イタリア半島での勢いが減退してしまいました。

桐壷王が三十二年前に占領に成功したしたものの、退却せざるをえなくなってしまったナポリ王国を再占領したロートレック元帥は「桐壷王が抱いていたナポリを拠点にパレスチナを復活させる構想も夢物語ではなくなった」と部下たちを鼓舞しましたし、ナポリ占領の報を受けた冷泉王と重鎮たちは「これでパヴィアの大敗と冷泉王のマドリード捕囚の屈辱を払いのけることができた」と狂喜しました。

 

パレスチナ復活は当然なことに、スレイマン一世が治めるオスマン・トルコが障壁となりますが、数年来、神聖ローマ帝国とスペイン王国を率いるカール五世に対抗する同盟をオスマン・トルコと結んで来たこともあり、話し合いの余地はあるとフランス側は楽観していました。オスマン・トルコはハンガリーの覇権をめぐって帝国軍と一進一退の攻防を繰り広げている状況下でしたので、同盟関係の強化を進言する高官もいました。

一月二十二日にイングランド王国とフランス王国がカール五世への戦争を共同宣言した後、イタリア半島でも守勢に立たされたことから、三月に入ってからカール五世はフランスの反撃に向けて仕切り直しを始め、第二次帝国戦役が始まりました。

 

二十一歳と血気盛んな年代に入っていた冷泉王はナポリ王国制覇の知らせを受けた後、自分の名前を歴史に残す野心を抱き始めていました。その第一は王国の首都を疎開先のロワール地方からパリ市に暫時復帰させていくことで、時折りパリの王城に居住するようにしました。この試みは反ルター派の動きを鮮明に打ち出したパリ、リヨンやブルジュのカトリック派とパリ参事会を牽制し、尊敬するデタルプ先生が五年前の新約聖書に続いて、旧約聖書のフランス語訳を出版したことを後押しする意味合いも含まれていました。

二つ目の野望はローマ虐殺で終焉した本家のルネサンス運動をフランスで引き継ごうとするものでした。少年時代に薫陶を受けたミラノ大先生への敬意を示す意味合いもありました。王家の狩猟用に使用されて来たフォンテーヌブローの小城を改装して、国内やイタリアの画家、美術工芸家を招聘して、フランス・ルネサンスの拠点とする構想でした。さらに四月に入ってから、スペイン王国に対抗する形で、北アメリカの大西洋沿岸の探検で名を上げた、フィレンツエのヴェラゾノ(Verrazano)率いる探検隊をアメリカ新大陸の派遣しました。 

 

 五月一日にロートレック元帥はナポリ王国の本格統治を始めましたが、残念なことにわずか数か月で若い冷泉王の野望は頓挫することになってしまいました。フランスへの巻き返しを始めたカール五世はまずジェノヴァ公国の自立を試みる独立派に接近し、七月にジェノヴァ海軍を統率するアンドレア・ドリア大将の帝国側への寝返りに成功しました。大将の甥であるフィリピノ・ドリアが率いる艦隊はナポリのフランス軍包囲を始めました。

 不幸にもジェノヴァ艦隊に疫病チフスが発生してしまいました。チフスの脅威は瞬く間にナポリ市内に伝染し、八月十七日、チフス猛威の中、ロートレック元帥も倒れて死亡に至りました。ナポリのフランス軍は壊滅状態に陥り、ジェノヴァ駐留のフランス軍も帝国艦隊の援けもあって放逐され、九月十二日、ジェノヴァ共和国は独立を宣言しました。

 

 

サン・ブリュー姫君の里帰り。紫上サン・ブリュー姫君と第三王女対面

 

サン・ブリュー貴婦人は王宮に上がってから一年余りの間、ヴィランドリー城への里帰りを心待ちにしていましたが、安梨王太子の許しが中々おりません。まだ満十一歳の若さでしたから、自由が欲しく王宮生活が窮屈に感じていました。夏頃になって、気分がすぐれなくなっても許しが出ないので、ひどく難儀なことだと思っていました。どうやら懐妊した様子でしたが、まだいたいけな年齢ですから、誰も誰もが危惧しました。王太子は冷泉王に随行してパリへ行く機会が増えたこともあって、ようやく里帰りの許しが出ました。

 

ヴィランドリー城では第三王女が住む離れの東面にサン・ブリュー姫用の部屋が用意されました。サン・ブリュー上も娘に付き添って退出して来ましたが、何不足ない幸運な運勢の身の上となっていました。

紫上はサン・ブリュー姫の部屋へ行って対面するついでに、「第三王女へも挨拶をしてみます。前々から、そう考えていたのですが、その機会がなく遠慮しておりました。この折りに出逢って顔見知りになったら、気が楽になるでしょうから」とヒカルに告げました。ヒカルも微笑んで、「私が希望する通りの仲になってくれたら。まだ子供っぽくいるので、気にしないで仕込んでください」と同意しました。

 第三王女よりも、見る側がはずかしくなるほど立派になったサン・ブリュー上との出逢いを紫上は思い浮かべながら、髪を洗い身繕いをしましたが、類まれな美しさに見えました。

 

ヒカルは第三王女の住まいに渡って、「本館におられるお方がサン・ブリュー貴婦人との対面に出向くついでに、こちらに寄ると言っていますから、ゆっくり話し合ってください。非常に気立てが良い方です。まだ若々しいので、遊び相手にもなってくれるでしょう」と話すと、「きまりが悪くなります。どんな話をしたら」とおっとりした返答をします。

「人への返答は、その場その場で、相手に合わせてすればよいのです。あまり他人行儀ではないように応対しなさい」と細々と教えました。

「二人の仲がうまく進んでくれるように」と願うあまり、あまりに無邪気な王女の有様を紫上に見透かされてしまうのが、恥ずかしく味気なくもなりますが、「本人からの申し出を止めだてしてしまうのもつまらないことだ」と考えていました。

 

 紫上はヒカルの新しい婦人となった第三王女との出逢いを考えながら、「正夫人である私より上の人ではないだろう。幼い頃に母を亡くしたことを見透かされてしまう弱みもあるが」などと思い続けながら、物思いに沈んでいました。気晴らしに手習いの文字を書いていても、自然と物悲しい思いをさせる古い歌や物語の筋書きを書いているので、「そうなると私も思い悩みがある身だったのだ」と自分ながら気付きました。

 そこへヒカルがやって来ました。第三王女やサン・ブリュー姫などといった、まだ少女のような様子を「可愛く美しい」と見て来た眼では、長年見馴れてしまっている人の顔立ちなどは、並一通りではないと驚かされるはずもないのに、「さすがに較べる人はいない」と紫上を見やりましたが、ヒカルにとって結構なことです。どこまでも気高く、恥ずかし気に整っていることに加えて、花やかで今風に漂うみずみずしさと上品さが詰まった薫りを放ち、艶っぽい姿の盛りに見えます。去年より今年の方が勝り、昨日よりも今日が珍しげ、といつも新鮮に見えるので、「どうしてこんなにまで」とヒカルは思いました。

 

気晴らしに書いていた手習いの紙を、紫上はインク壺台の下に差し隠していましたが、ヒカルはそれを見つけて引き出してみました。筆跡などは取り立てて上手というわけではありませんが、才がたけて美しく書き散らしていました。

(歌)身の近くに 秋が来たのだろうか 眺めているうちに 青葉のような貴方の心の色が 変わって来ています

と詠んだ箇所に目を留めました。

歌)常緑のような 水鳥の青羽の色は変わりません 萩の下葉の貴女の様子こそが 変わってしまったのです

などとヒカルは書き加えて、紫夫人を慰めました。何かにつけて、胸中の苦しみが自然と漏れ出して来るのを、何気ないように抑え込んでいる夫人の様子が有難く、殊勝なことと感じました。

 

 とは言いながら、その晩は、どの婦人にも逢わずに済みそうだったので、あの忍び場所である朧月夜の許に、無理をして出掛けました。「あってはならないことなのだが」と幾度も思い返してみるものの、どうすることも出来ません。

 

安梨王太子の貴婦人となったサン・ブリュー姫は実母よりも紫上を頼りにして、睦まじくしています。紫上も非常に美しく、一段と大人びたサン・ブリュー姫に隔てを置かずに「愛しい子」と見なしています。なつかしそうに語り合った後、中廊下のドアを開けて、紫上は第三王女にも対面しました。サン・ブリュー姫より三歳も年上なのに、非常に幼げに見えるので、気安く感じて年配の母親のような気持ちになりながら、王女の母と自分の母は腹違いの姉妹同士、といった血縁の話をしたりしました。

乳母ヴィヴィアンを呼び出して、「血縁を辿ってみると、恐れ多くも従姉妹同士にあたるようです。今まではついでがなくてお逢いできませんでしたが、これからは疎遠にはしないで、私の方にもお出でいただいて、行き届かない点などを指摘してくださったら嬉しく存じます」と言うと、「頼みとする方々に次々と死に別れてしまい、心細く思っております。そのようにおっしゃっていただきますと、この上なく有難く存じます。世俗を離れた朱雀院のご意向も、『紫上から隔たりがないようにしていただいて、まだ子供っぽい我が子を育て仕込んでいただければ』ということでした。王女も内々に貴女様を頼みにされております」などと返礼しました。

 

「私も朱雀院さまから大層恐れ多いお手紙をいただきましたし、何とかお力になれたら、と考えております。何事につけても数ならぬ身に過ぎないのが口惜しいのですが」と話しながら、穏やかな年長者らしい気配で、王女が気に入りそうな絵などのこと、人形遊びはやめ難い、といった話などを若々しく話しますので、王女も「本当に気が若く優しい人だな」とあどけない気持ちにで打ち解けていきました。

それから後は、始終手紙をやり取りするようになって、興味がありそうな遊び事などについても、仲良く交し合うようになりました。高貴な方々の動向を噂したがる世間の人も、初めのうちは「紫夫人はどんな思いでおられるだろう。殿のご寵愛も今までのように受けることはなくなることだろう。愛情が少し薄らぐはずだ」と言っていたのですが、ヒカルが前にも増して深い志を寄せているらしいので、そうなるとそうなるで、紫上と王女の仲をあれこれ詮索する人たちもいました。それでもこのように、二人が仲良くやり取りをしているようなので、打って変わって悪口も消えて行きました。

 

 

.紫上・秋好王妃・夕霧の各人主催の四十賀

 

(紫上による四十賀)

フランス軍のナポリとジェノヴァからの撤退の動揺から少しは冷めた十一月になって、紫上はヒカルの四十賀として、ソーローニュ地方のロモランタン(Romorantin)の礼拝堂で医薬の聖人ルカ像の供養を行いました。ヒカルが盛大にすることは切に制止したので、あまり目立たないように準備されました。キリスト像、聖典の箱や巻物が整えられ、本当の天国が想像できるほどでした。護国、精進や長寿の祈祷書が盛大に読まれていきました。

 非常に多くの高官が参列していました。その半数近くは、沼地が多い周辺の興趣が面白く、何とも言いようがない紅葉と黄葉をかき分けて行く野辺を始めとした、風情がある景観を見たさに競って集まって来たのでしょう。霜枯れの野原を行き交う馬や馬車の音がひっきりなしに響き渡っています。ヴィランドリー城やシセー城の婦人たちも、我も我もとおごそかな誦経をお布施として依頼していました。

 

 十一月二十三日は供養の終了日でしたが、ヴィランドリー城では婦人たちの思惑が交錯し合ってしまう、と紫上は気を遣って、「自分の城」と考えているシュノンソー城で「精進落としの日」の饗宴を開くことにしました。ヒカルの衣装を始め、万端のことを一手に進めましたが、花散里などの婦人たちも作業分担を申し出て手伝いました。  

本館に対面する館は侍女たちの部屋にあてがわれていましたが、そこを片付けて王宮人、官位四位・五位の上級役人、上級・下級職員向けの饗応所を設けました。本館の離れを例のように飾り立てて式場として、主賓用に螺鈿張りの椅子を置いています。西の間に衣装などを飾る机十二卓が置かれ、夏冬用の衣装や夜具が積まれていますが、恒例のように紫色の綾の覆いが整然と掛けられていますから、中の品々を見ることはできません。

 

 ヒカルが座る椅子の前には置物机二脚が据えられ、裾に向かって濃くなっていく、黄色に赤味な覆いが掛けられていました。髪飾りの台の沈木の脚には飾りが彫られていて、サン・ブリュー姫が担当した髪飾りは金の鳥や白銀の枝に至るまで実母のサン・ブリュー上が担当して作らせたものでしたが、趣味が深く心が籠っていました。

椅子の背後の屏風四面は紫上の父、式部卿が注文したものでした。おきまりの四季の絵が描かれていましたが、非常に凝ったもので、目新しい山水や滝の淵が描かれていて、見馴れない面白さがありました。北側の壁に沿って、置物用の棚が二具立てられていて、慣例通りに調度品が並べられていました。

 

 南側の控え所に高官、左右の大臣、式部卿を始めとして、その以下の人々が欠席者もなく次々と着席しました。シェール川を背にした舞台の左右に奏楽者用の天幕が張られていて、西と東側には四十にちなんで軽食を詰めた箱八十、引き出物が入ったイタリア製の大箱四十が並べられていました。

 午後二時頃に奏楽者が入場しました。祝賀用の楽曲に合わせて舞が披露され、日が暮れていくにつれて、笛だけでフランドルの舞曲が舞われました。大半の人には見馴れない舞のようだったこともあり、舞が終りに近づいた頃、夕霧中納言と柏木衛門督が庭に下りて、ほんの少しばかり舞いながら、モミの木陰に退いていったのが、名残り惜しい印象深さでしたから、観衆は「中々の味わいだ」とざわつきました。

 もう二十二年も前になりますが、桐壷王がパリへの行幸の前に催したアンボワーズ王城での紅葉賀の宴で、ヒカルとアントワンが舞った「青海波」の夕暮れを思い出した人々は、二人の息子である夕霧と柏木が父親に負けずに後を継いだこと、世の中の評判や容姿と気構えなども「父親と少しも劣っていない」、「官位の昇進は父親よりも勝っている」など、父親との年齢の差も数えながら、「父親の二人はやはり昔からしかるべきつながりがあって、その仲が息子たちに引き継がれているのだ」とめでたがっていました。ヒカルも自然と思い出すことが多く、しみじみと涙ぐましくなりました。

 

夜に入ってから、奏楽者たちが退出しました。紫上付きの職員が下男どもを引き連れて引き出物を入れたイタリア製の大箱に寄って、順々に手渡しました。皆、引き出物の白絹の布を肩にかけてシェール川の堤を過ぎて行く列は、長寿を願う流行り歌で歌われる鶴の行列のように見えました。

夜の宴が始まりましたが、これもまた面白いものになりました。ハープは安梨王太子自らが調整したものでした。朱雀院から譲られたリュートやハープ、王宮から提供されたチェンバロなど、すべて昔が偲ばれる音色で、珍しい合奏となりましたが、どの曲も過ぎ去った王さまたちの有様や王宮の模様などを思い出させました。

 

「三十六歳で物故された藤壺が存命していたなら、こうした四十賀の祝いなども自分が率先して実行しただろうに。何一つ私の志をお見せすることが出来なかった。いつになっても残念なことだ」とヒカルは思い起こしていました。

冷泉王も母宮が亡くなったしまったことが、何につけても張り合いがなく、物足りなく感じていますから、ヒカルに対して慣習通り、息子としての礼を尽くしたいのです。しかしそんなことは実行できませんから、いつも満ち足りない思いをしていました。そうしたことから、今年は四十賀の祝いにかこつけてヴィランドリー城への行幸を計画していました。ところが「チフスの疫病でフランス軍がナポリ支配から撤退せざるをえなくなってしまった年になったこともあり、実施されない方が」とヒカルが度々辞退したので、残念に思っていました。

 

(秋好王妃主催の四十賀)

年末の十二月二十日過ぎに、秋好王妃が王宮から退出して来て、四十賀の最後の祈祷として、パリの七大教会に誦経と布地四千人分、ロワール地方の四十の教会に一巻きが二人分の絹四百巻きを分けて寄進しました。王妃はヒカルの有難いお世話への恩を感じていますから、「どのような機会に、深い感謝の念をお見せしようか」と考えていました。「亡き父宮や母のメイヤン夫人が存命していたなら、こうしたかった」といった気持ちも加えて、四十賀を祝おうと考えていましたが、ヒカルが冷泉王の申し入れすら辞退したこともあって、色々な多くの計画を中止してしまいました。

「これまでの例を調べてみると、四十賀というものは残りの寿命が短くなってしまうようです。ですからこの度は世俗的な騒ぎは止めてもらって、本当に次の五十賀を祝っていただけたら」とヒカルが言いますが、やはり公けの儀式として大層盛大に行われました。   

 

西南の王妃の町の住まいに式場をしつらえて、これまでの様々な事例と特に変わりなく、王妃が高官への引き出物などを正月に供する大饗宴に準じて、親王たちには女性向けの格別な衣装、官位四位の非参議以下の下級王宮人たちには白い細長一揃いや巻き絹などを一人一人に贈りました。ヒカルに贈る衣装はこの上もなく美麗で、それに加えた王妃の父の元王太子の遺品である貴石をはめ込んだ名高い皮ベルトや剣などは、一塩哀れ深いものでしたが、古くから天下一と評判が高い品々がすべて集められた祝典となりました。古い物語にも、こうした贈り物を善行のように数え上げて紹介していますが、煩わしくなるので、一つ一つ数え上げることはしないでおきます。

 

(夕霧主催の四十賀)

 王宮でも「せっかく冷泉王が思い立ったことをむげに中止としても」と考えて、息子の夕霧中納言の催しとして実施することにしました。

その頃、右近衛府の大将が病のため辞任しましたので、「この祝賀に添える喜びとして、中納言を大将に据えよう」と急遽、夕霧を近衛大将に任じました。ヒカルも夕霧の昇進を喜びましたが、「このように急に昇進させていただくのは身に余る喜びではありますが、早すぎる気持ちもいたします」と謙遜しました。

 

 四十賀は花散里が住む東北の町に会場を設けて、目立たないように実施されましたが、やはり今日もまた、王宮の意向で正式な儀式として行われ、幾つかの宴席の料理も王宮の宝物・調度品庫と穀物庫の職員が担当しました。軽食類は公的な催しの時のように、王さまの指示を柏木中将が承って担当しました。

 会場には親王が五人、左右の大臣、大納言二人、中納言三人、参議五人、上官たちはしきたり通り王さま、王太子、朱雀院付きの者がほとんど参列しました。主賓の座席や調度品などは太政大臣アントワンが冷泉王の詳細な指図を受けて用意しました。

 

 そのアントワンも王さまの勅命を受けて、会場にやって来ました。ヒカルはアントワンの出席に恐縮しながら着席しました。太政大臣の席は、母屋のヒカルの席と差し向かいに設けられていました。アントワンは堂々とした恰幅で、今を時めく高僧のように見えました。反対にヒカルは今も若い頃のように見えました。

四面の屏風は冷泉王自らが描いたものでした。フランドル製の綾織りの画布の下絵の模様などもおろそかにはしていません。絵付きが輝く様子は、美しく描かれた四季の彩色画よりも目がくらむほどで、これが王さま直筆と考えると結構なもので、さすがに少年時代にミラノ大先生から直々の教えを受けただけのことはありました。置物用の棚や弦楽器、管楽器などは、王さまの執務所が用意したものでした。

 

 近衛大将に抜擢された夕霧の勢いも加味されて、当日の儀式は厳粛で格別なものとなりました。大将昇進祝いとして、左右の厩舎の者と六近衛府の官人が四十匹の馬を順々に引き並べているうちに、日が暮れて行きました。

 慣例の祝いの楽曲が形ばかり舞われた後、太政大臣が宴席に加わりました。楽器の名人の参加が珍しいことへの興奮もあって、皆、気を引き締めて演奏会を始めました。リュートはいつものように蛍兵部卿の担当です。何事にも世にもまれな巧者でしたから、真似ができる者などはおりません。ヒカルはハープ、アントワンはフランス型ハープを弾きました。若い頃から聴き慣れたアントワンのフランス型ハープを久しぶりに聞いたヒカルは、言いようもなく優美にしみじみと感じながら、自分もハープを弾く手に秘術をつくしたので、のっぴきならない合奏音となりました。

 

 ヒカルとアントワンは昔話などを交わしましたが、夕霧と雲井雁の結婚後は、二人の仲に親密さが戻っていましたから、会話も睦まじく弾んで酒杯が重なりました。帰宅するアントワンへの贈り物として、ヒカルは秀でたフランス型ハープ一つに、自分が好むフランドル笛を添え、暗紅色で堅い紫檀の箱一つにイタリアやフランスの書籍を入れて、アントワンの馬車に積み込みました。

右近衛府の人々がフランドルの楽曲を奏でて騒ぎ立てる中、夕霧大将は馬寮の者から馬四十匹を受け取りました。六近衛府の官人への引き出物は夕霧大将自らが手渡しました。

 

夕霧とヒカルはなるべく簡素に簡略にと、盛大で仰々しいことや止めようとしましたが、冷泉王、安梨王太子、朱雀院、秋好王妃といった、言いようもなく威厳が高い由縁者が次々と揃っていますから、やはりこうした機会になると、ヒカル一家の隆盛ぶりが分かります。ヒカルは息子が夕霧一人だけであるのが物足りなく、張り合いのない気がして来ましたが、一人息子が大勢の人に勝った学識があり、人望もあり人柄も悪くなく育ってくれました。夕霧の母とメイヤン夫人の確執が根深く、競い合ったことを考えると、メイヤン夫人の娘が王妃になり、葵君の息子が大将に昇進した運命を考えてみると、「世の中、様々なことが起きるものだ」と感慨深い思いがしました。

 その日の衣装は花散里が用意しました。引き出物やその他すべてのことは、夕霧夫人の雲井雁が急いで準備しました。ヴィランドリー城で開かれる折々の催しの内々の支度なども、花散里にとっては他所事のように考え、「私などは何事につけても、こうした重々しい方々の数には入らない」と静観しているだけでしたが、今回は夕霧の養母という縁で、堂々とした人たちの数の中に入っていました。

 

 

                著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata