大乗仏教とキリスト教の揺りかごは一世紀前半のタキシラとガンダーラ地方だった

 

1.大乗仏教とキリスト教の親和性

「源氏物語フランス・ルネサンス版」を制作していく過程で、平安時代の仏教とルネサンス時代のキリスト教に親和性があり、源氏物語にしばしば記述されている「罪」「慈愛」とキリスト教の「原罪」「愛」の概念に共通する点が多いことに気付きました。純粋なユダヤ教である旧約聖書は絶対唯一神を信じ、戒律に厳格で、他の思想や宗教に対して攻撃性・排他性が強い側面がありますが、キリスト教にも大乗仏教と同じように他者を容認する「寛容性」があります。

三十四歳で没したイエス・キリストは三十歳で布教活動を始めるまでの十二歳から三十歳にかけての十八年間、どこに滞在していたかが不明で、あれこれと論じられて来ました。ひょっとしたら、イエス・キリストは修行中あるいは放浪中に、イラン(当時はパルティア)を経由してアフガニスタン東南部とパキスタン西北部にまたがるガンダーラ地方、ことにタキシラに滞在して、当時、タキシラを中心に勃興中だった大乗仏教に接して触発されたのではないか、という考えに至りました。

(参照:源氏物語フランス・ルネサンス版 ⇒カオル篇で紫式部が当初着想していた筋書き)

 

そこでタキシラとガンダーラ地方の歴史をより詳しく見ていくと、前326年にギリシャのアレキサンダー大王がインダス川流域に到達した後に、初期仏教(部派仏教)を信奉するインドのマウリア朝の領域となりました。

 前185年頃、マウリア朝の衰微に乗じてグレコ・バクトリア王国の分派がヒンドゥークシュ山脈を越えてガンダーラ地方に進出し、タキシラに首都を構えた頃から初期仏教とヘレニズム文化の接触が始まります。紀元一世紀前半に融合が消化された段階で大乗仏教が萌芽し、同時期にタキシラを訪れたイエス・キリストにも影響を与えた可能性が高いことが分かりました。いわば一世紀前半のタキシラとガンダーラ地方が大乗仏教とキリスト教の揺りかごであったことになります。

 

 

2.タキシラとガンダーラ地方の歴史

「源氏物語フランス・ルネサンス版」のヒカル篇の制作を始めた当初は、タキシラとガンダーラ地方だけでなく、まさかイエス・キリストとヘレニズム文化まで視野に入って来るとは予想にすらしませんでしたが、まず古代のタキシラとガンダーラ地方の歴史を俯瞰してみます。

 

(タキシラの歴史)

(第一期)初期仏教とヘレニズムの南北並立期(前三世紀まで)

 326年にアレキサンダー大王がインダス川流域まで遠征して、自分の名を冠したアレクサンドリアをガンダーラ地方のベグラーム(カーブルの北20Km)とバクトリア地方のバルフ(バクトラ)に置きました。

前322年にインドのガンジス川中流域に発足したマウリア朝が次第に北上してガンダーラ地方に入り、初期仏教を広めました。

紀元前566年~前486 仏陀(ゴータマ・ブッダ)。

326 アレキサンダー大王がインダス川流域に到達

322年~前185年頃 マウリア朝。アショーカ王(治世前268年~前232年)時代が全盛期。北西部の支配領域がタキシラとカイバル峠を越えてガンダーラ地方全域に及ぶ。

301年頃~ アレキサンダー大王の死後、シリア王国が小アジアからイラン・アフガニスタンまで支配していたが、そこから分離したバクトリア国がヒンドゥー山脈の北の中央アジアに建国される。

これにより、ヒンドゥークシュ山脈を挟んで北側のバクトリア地方はヘレニズム、南側のガンダーラ地方は仏教(初期仏教ないし上座部と大衆部から構成される部派仏教)の棲み分けが始まる。

 

(第二期)初期仏教とヘレニズムの混雑期(前二世紀)

185年頃から、マウリア朝の衰退に乗じて、ギリシャ系のグレコ・バクトリア王国の分派がヒンドゥー山脈南側のガンダーラ地方に進出し、首都をタキシラに置きます。タキシラでの仏教とヘレニズム文化の混雑が始まりますが、その好例として「ミリンダ王(即位は前163年)と比丘ナーガセーナとの問答」が挙げられます。

 

(第三期)西からイラン・パルチア勢力、東北から大月氏勢力の侵入期(前一世紀)

90 イラン・スキタイ系の部族長が最期のギリシャ系王をバクトリアから追放。

65 匈奴により天山北路を追われた月氏(スキタイ系)がバクトリアに月氏五王国を建国した後、次第にヒンドゥークシュ山脈南側のガンダーラ地方に進出して行く。

25年 イランのパルチア王国の流れを汲んだゴンドファルネスがインド・パルティア王国(前25年~135年)を建国し、首都をタキシラに置くが、先住民であるギリシャ系・ヘレニズム系と仏教系の住民がインド・パルティア王国に反発・結束したこともあって、ヘレニズムと仏教の融合化が進んで行く。

20 大月氏のクシャナ侯ヘラウスの統一事業が始まる。最初の首都はアレキサンダー大王が建国した「コーカサス・アレクサンドリア」のベグラームに置いたが、徐々にヘレニズム系と仏教系の住民と融和しながらインド・パルティア王国への圧力を強めて行く。

 

(第四期)大乗仏教の勃興。タキシラ結社とイエス・キリストの接触(一世紀前半)

大乗仏教の萌芽

仏教とヘレニズム文化の融合(仏教の罪の意識とヘレニズムの市民平等の意識)の下に初期仏教の大衆部の人々から大乗仏教が芽生えていき、仏教に帰依するギリシャ系の造形家や石工を主体にして、ヘレニズムの造形美術の取り入れが始まります。

タキシラ結社の成立とイエス・キリストの出会い

 同時期に、大乗仏教勃興の影響を受けながらも、ヘレニズム要素を主体にしたグループとして「タキシラ結社」が成立し、おりからタキシラに滞在していたイエス・キリストに刺激を与えます。タキシラ結社は私の想定ですが、大乗仏教の影響を受けながらも、市民平等意識、ヘレニズム時代へのノスタルジー、ローマ帝国皇帝への反発が基盤となっています。

 10年頃~22年頃 イエス・キリストの所在が不明。

  23年か26イエス・キリストが洗礼者ヨハネから受洗。ヨハネの斬首刑。

  30 イエス・キリストの刑死。

 

 

3.初期仏教とヘレニズムの融合

ガンダーラ地方のヘレニズム技法を仏教が取り入れて、ガンダーラ造形美術・技法が誕生し、仏舎利に加えて、仏像・菩薩像が増えて行ったことは明白な事実です。精神的な融合では三つの要素が挙げられます。基本は、厳格な戒律に縛られるのではなく、自発的な自己研鑽と友愛です。

(1)原罪

 上座部と大衆部で構成される部派仏教では、上座部の者(出家者)は輪廻転と前世の罪を断ち切るために、世を捨てて修行に励み、人間として完成させる自力的要素が強く、大衆部の者(在家者)は寺院や出家者への寄進・布施などにより善行を積んで、生天(昇天)を目指します。

 ヘレニズムには罪の意識はあまりありませんが、「前世の罪」は「原罪」と理解されて、次第にリンゴを食べてしまったアダムとイブの原罪からの脱却と見なされて行きます。

=「徴税人マタイを弟子にした理由」は「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9.)

(2)罪の償いと昇天

 初期仏教でもインドのカースト制度を否定する四姓平等の観念がありますが、これにヘレニズムの要素である市民個人主義・民主主義の観念が結びついて、

「罪の償いと祈り・善行に励むと誰でも天国・極楽に行ける、誰でも菩薩になれる」といった万人平等主義へとなります。この点が大乗仏教とキリスト教の共通点であり、大きな特徴となります。

=「求めなさい。そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる」(マタイ7.)

=罪への誘惑。「両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」(マルコ9.)

=イエスは罪深い女(人)に「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った」と言われた(ルカ7.)

=「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる(ルカ13.)

(3)慈愛

 仏教には初期仏教から、生き物を殺さない殺生の観念と他人に対して愛憎怨念の偏った心がない「慈悲喜捨」の精神があり、ヘレニズム、仏教と大月氏の異なる三系統が交雑する中で、ギリシャ神話の愛と美の女神アプロディテー(ローマではヴィーナス)も付加されて、仏教の観音菩薩 キリスト教の聖母マリアへとつながった可能性もあります。

=「しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」(マタイ5.)

=「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(ルカ6.)

=赦し、信仰、奉仕(ルカ17.)

(4)偽善者批判

 戒律や規範を強制する者への批判の強さが大乗仏教には見られないイエス・キリストの特色ですが、青年期から壮年期に入った血気盛んな様子が感じられます。この点をつかれた律法学者たちの反感がイエスを攻撃する主な原因となりました。

=「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」(マタイ23.)

 

 

4.ヘレニズムが基盤のタキシラ結社とイエス・キリストの関り

キリスト教の原点はタキシラで発生した「タキシラ結社」にあった、とする推論から、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書を読み返しながら、イエスと使徒たちの行動を追跡してみました。

1.占星術の学者たちが東の方から、エレサレムに来て、言った」「私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2.)

:この逸話を少年の頃に知ったイエスは、ペルシャより先にある東方の地に興味を抱いて旅立つことにしました。シリアでインド産などの香料や薬草を仕入れる交易商人に出会い、隊商キャラバンに同道してガンダーラ地方に入ります。その過程で薬草や病治療の知識を習得しながら、タキシラ結社と大乗仏教に接触して啓蒙されます。

2.洗礼者ヨハネによる授戒

:イスラエルに戻ったイエスがヨハネを尋ねて、結社メンバーの洗礼を受け、伝道者として認知された。

ヨハネはユダヤ教の一派で、「死海文書」で知られるクムラン教団の一員だった、という説もあります。戒律を重視するクムラン教団でも穢れを清める洗礼が行われます。ヨハネもクムラン教団に属していた可能性もありますが、その後、タキシラに滞在して結社の一員となったことも考えられます。

=ヨハネの「罪の赦しを得させるために、悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(ルカ

3.伝道を始めたイエスを見て、「なんだ、ヨセフの息子ではないか」と驚かれた逸話(ルカ4.)は、イエスが遠地、国外の地に行っていて、永らく所在が不明であったことを示しています。

4.ユダヤ教の戒律を重視する偽善者への強烈な批判とそれを裏付ける信念と自信はタキシラでの経験での裏付けがあったから、と言えます。

5.多くの病人の治癒

:タキシラやガンダーラ地方で交易商人たちからインド、バクトリアや西域の薬草・香料や治療法を修得しました。

6.何人かのギリシャ人がイエスに会いに来た(ヨハネ12.)

:イエスが果たして結社の一員であり、結社の信条を実践しているかの確認が目的でした。

7.イエス・キリストの使徒の伝道を支えたタキシラ結社

:刑死の後、使徒たちがすぐに小アジアやギリシャに出逢掛けたましたが、旅費や見知らぬ地での滞在費や現地での伝道を支援する人物ないしグループが存在したはずです。

 

 

5.大乗仏教の発展とキリスト教の成立(1世紀後半~)

A.大乗仏教のインドと西域への拡散とキリスト教の成立

大乗仏教はクシャナ朝の発展に添ってインダス川流域を越えて、ガンジス川流域に拡大し、支流のヤムナー川に位置するマトゥラ(Mathura)が副首都となり、ヒンドゥー教的要素も加味されながら大乗仏教が大発展しました。ガンダーラ地方の北側でも、大月氏の行程を逆戻りするようにバクトリア、西域、中国へと伝わりました。

  45 クシャナ朝の始まり(45年~五世紀中頃まで)

50年頃 法華経の第一期の成立。法華経の全体は50年~150年あたりにかけて成立します。

76 クシャナ朝(45年~五世紀中頃)の下で、ガンダーラ仏教美術が開花。

 

B.苦難と殉教の道を進んだキリスト教

キリスト教は大乗仏教と違って、三世紀間、苦難の道をたどることになります。イエスが30年に刑死した後、イエスはキリスト(古来約束された救世主メシア)だとする集団が生まれ、使徒たちによるイスラエル国内外に向けた伝道が始まります。

 イエスと最初の弟子となり、イエスの存命中から弟子たちのリーダー的存在であったペトロはイエスの兄弟のヤコブがエレサレム教団のリーダーとして活躍し始めると、エレサレムを離れ、各地を巡礼するようになりました。

 小アジアに在住していて、イエス・キリストとは直接出逢わなかったパウロは「熱心なユダヤ教徒で、当初はキリスト教に反感したが、霊感を得て教徒になった」と伝えられていますが、イエスに直接出会ったタキシラ結社系のギリシャ人から説得されたのではないか、とも憶測できます。

四福音書を読み返して見ると、「重い皮膚病、中風、目の見えない、口のきけない、手の萎えたなどの大勢の病人、悪霊や汚れた霊に取りつかれた人を癒すなどの場面が多く、確かに民間宗教、新興宗教的な要素が強く、ローマ帝国の為政者や知識人・教養人から、多神教対一神教の対立の図式よりも、下層階級や奴隷階層の人たちを惑わし扇動する邪教として危険視されても仕方がない印象も受けます。

ペトロなどの使徒たちよりも教養度が高いパウロと弟子ルカにより、新約聖書と旧約聖書をつなげられ、初期の体系が出来上がりました。四福音書の中でルカの福音書が最も論理付けられています。

 60年頃にパウロが刑死、67年に初代教皇ペトロが殉教した後、313年にローマ皇帝から認知されるまでに約三世紀もかかりましたが、土台に原罪・罪の意識、罪を償い、祈りと善行に励めば誰でも神の国・天国に行ける、他者への慈しみといった、タキシラ結社の信条があったことが、後の発展につながった、と言うことができ、またローマより先にギリシャより東の旧ヘレニズム社会で、布教度が高かったことも合点が行きます。

=心の貧しい人々、悲しむ人々、柔和な人々、義に飢え渇く人々、憐れみ深い人々、憐れみ深い人々、心の深い人々、平和を実現する人々、義のために迫害される人々は幸いである(マタイ伝5.)

  30 イエス・キリストの刑死。

51年~57 キリスト教の成立後、パウロの伝道が活発化。

60年頃 パウロの刑死。

64 ローマ帝国の第一回キリスト教徒迫害。

67 初代教皇になったペトロの殉教。

  313 コンスタンチヌス一世がミラノ勅令でキリスト教信仰の容認。