その36.柏木        ヒカル 満47歳

 

1.柏木の重態と山桜上(第三王女)との贈答

 

 右衛門督の柏木はなおも引き続き患っていて、快方に向かうこともなく年が改まりました。

 

 父アントワンや母親が嘆き悲しんでいる様子を見ていると、「『無理して命を落としてしまうのは甲斐がないことだし、罪も重くなる』といった気持ちがする一方で、身勝手にもこの世から離れがたく、残り惜しい身である気もする。幼い頃から志が高く、『何事につけても人よりは格別に一段階抜きん出て行こう』と、公事私事のいずれに関しても並々ならぬ望みを抱いていたが、『そうした希望は叶え難いものだ』と一つ二つの節目ごとに、自分の無力さを感じるようになってしまった。

 それからは、世の中のすべてが興覚めに思うようになって、後の世に向けた修行を真剣に進もうとしたものの、親たちの落胆を考えると、山野にさすらい出る道の重い足かせになってしまうと考えたので、あれやこれやと気を紛らせながら生きて来た。結局、やはり世の中に交じらい合うことができないような物思いが通り一遍ではなく、自分の身に付きまとうになったのは、自ら招いたことで自業自得である。自分の料簡違いから破滅を招いたのだと思うと、恨むべき人もいない。神もキリストをも恨むことができない状況に堕ちてしまったのは、こうなる運命であったからであろう。

(歌)悲しいことに この世で願いが叶わなかった 誰も千年を生きる松ではないのだから といった世の中に、何とか留まっていられるものでもないのだが、こうやって少しはあの人から不憫に見られて、かりそめの憐れみをかけてくれる人が存在してくれているのが、一筋の思いに燃えた証しということにしよう。

 無理に生き永らえたとしても、とんでもない悪名が自然と立って、自分にもあの人にも心中穏やかではない騒動が出てきてしまうだろう。それよりも、今のうちに死んでしまうなら、『不届き者だ』と立腹されておられるお方も、いくら何でもお許しになってくれるだろう。今を最後とするなら、すべての罪も消えて行くことになる。この一件を除くと、何の過ちを犯したことはなく、長年、何かの催しの機会には恩顧を賜って来たのだから、私の死が可哀想だ、というくらいは思ってくださるだろう」などと柏木は物思いに沈みながら、何度となく考え続けていましたが、実にどうしようもないことでした。

 

「どうして自分はこうした短い間に、我が身を破滅させてしまったのだろう」と心も暗く思い悩んで、枕も浮かんばかりに涙にくれていましたが、誰のせいでもありません。

「少し具合が良くなったようだ」と介護の人たちが席を離れたのを見て、柏木は山桜上に手紙を書きました。

「私が今を限りの命に迫っている様子は、どこからともなく聞き及んでおりましょう。せめて『どんな加減ですか』と尋ねてもくれないのは無理もないことですが、私にとってはとても情けないことです」などと書きましたが、手がひどく震えて、思っていることもすべては書けません。

(歌)もうこれまでと 土に埋まれてしまう私の身体から まだ貴女への思いを諦めきれずに 

   魂は空に昇らずに そのまま残ってしまうことでしょう

可哀想とだけでもおっしゃって下さい。そうしたら心を静めて、誰のせいでもなくこれから入っていく闇夜に迷わない光りといたします」と詠んでいます。

 

 まだ懲りもせずにドニーズにもせつせつとした気持ちなどを綴って送りました。「もう一度、直接会って話したいことがあります」とも書いてありました。ドニーズは柏木の乳母が叔母であることから、幼い頃からソーミュール城に出入りして、柏木と馴れ親しんでいましたから、柏木の大それた恋心と行動を不快に感じていたものの、「もうこれまで」と聞いて、さすがにとても悲しくなって、山桜上に「やはりこのお手紙の返信をしてください。本当にこれが最後に違いませんから」と泣く泣く頼みました。

「私だって、死んでしまうのが今日か明日かのような心地がして心細いので、重病と聞くと普通のように可哀想と同情はいたします。けれども『もう本当に厭なことだった』と懲り懲りしていますから、返信を書くなどとてもその気になりません」と一向に書こうとはしません。しっかりした自重心はあまりない性格ですが、ヒカル様が折々不満そうな気配で話す様子がとても怖くて、気が滅入っているからでしょう。それでもドニーズはインク壺などを持ってきて強要しますので、山桜上はしぶしぶ返信を書きました。ドニーズはそれを持って、宵闇に紛れて柏木の所へこっそりと行きました。

 

 父親のアントワンは「優れた行者」と評判の者をアミアンから招いて、祈祷をしてもらおうと待ち構えていました。ソーミュール城内は修法や読経などで大変な騒ぎになっていました。アントワンは人が勧めるままに、聖僧めいた験者だがあまり世間に知られずに深い山中にこもっている人などをも、柏木の弟たちを遣って様々に招請したので、不愛想で心も惹かれない修験者などもとても多く集まっていました。

 重病人は何ということもなく心細く感じていて、時々は声を出して泣いていました。占星術師なども多くの者が「魔女の怨霊の仕業」とだけ占うので、アントワンは「そういうことなのだろう」と思うものの、物の怪はさっぱり現れ出て来ないので、困り果ててこうした具合に国中のあちこちから、験者を呼び集めたわけです。

 アミアンから招いた聖僧は背丈が高く、眼光が鋭く荒々しい恐ろしい声をたてて呪文を唱えるので、柏木は「何て気に食わない。罪が深い身ではないのだが。呪文を唱える声が甲高くてとても気味が悪くなり、いよいよ死にそうな気がしてしまう」とそっと病床を抜け出して、ドニーズと語り合いました。

 

 アントワンはそんなことは知らないでいます。柏木に言い含められた侍女たちが「お休みになっておられます」と告げるので、そうだと思い込んだアントワンは小声でこの聖僧と話をしていました。歳をとったというものの、まだまだ華やかさを失わずに闊達に笑ったりしますが、こうした者と向かい合いながら息子が病にかかった当初からの様子や、何となく油断しているうちに重くなっていったことを説明しながら、「是非ともこの物の怪がはっきり現れてくるように念じて欲しい」などと頼んでいるのも誠にいたわしいことです。

「あの呪文を聞いてごらん。何が原因の罪かを分からずに、占いで魔女の怨霊だと思い込んでいる。本当にあの人の執念が私の身に取りついているのなら、厭わしい私の身も打って変わって貴いものになってくれるだろう。それにして『身のほど知らずの望みを抱いて、あってはならない過ちをしでかして、相手の名を穢し、自分の身の破滅も顧みない』といった類のことは、昔の時代にもないではなかったことだ、と思い起こしてみるものの、やはり気分は悩ましい。とりわけ自分の過ちをあのヒカル様に知られてしまい、この世に生き永らえていくのがとても面はゆく感じてしまうのは、確かにヒカル様が常人とは異なる威光をお持ちだからなのだろう。大きな罪でもないのに、ヒカル様と顔を見合わせた試楽の夕刻から、心がかき乱されて抜け出した魂が自分の身体に戻って来ないようになってしまった。もし私の魂がまだヴィランドリー城をさまよい歩いているなら、どうか結び留めておいて欲しい」などと、柏木は見るから弱々しげに魂が抜け出た殻のような様子で、泣いたり笑ったりしながらドニーズに語りました。

 

 ドニーズは、山桜上も何かと恥ずかしく、顔向けできない思いでいる様子を知らせましたが、山桜上が塞ぎ込んで面痩せした様子が面影として立った気がして、眼の前に浮かんで来たので、柏木は「確かに我が身から離れてさまよう魂が二人の間を行き通っているのだろう」などと、ますます気持ちが乱れてしまいました。

「今さら、山桜上のことは話さないようにしよう。はかなくこの世を終えてしまうのだから、長いあの世の足かせになってしまう、と考えてしまうのも困ったことだ。ただならぬ身体のようだから、『安産だった』と聞いてから死にたいものだ。猫を見た夢を自分一人で合点するだけで、語り合う人もいないことがひどく気がかりになっている」などと、あれこれと深く思い詰めている柏木の様子をドニーズは異様に恐ろしく感じますが、さすが哀れさに堪えられずに激しく泣きました。

 

 柏木は紙ロウソクを手にして、山桜上の返信を読みました。大層弱々しい筆跡でしたが、きれいに書かれていました。

「ご病気でおられることを気の毒に聞いておりますが、お見舞いに行けませんので、お察しするばかりです。お手紙には『魂は空に昇らずに残る』と書かれていますが、

(歌)私もあれこれ心配事のために 思い悩んでおります 貴方に立ち添って 

   私も土に埋もれてしまうことでしょう

私も遅れはとりません」とだけ書いてありましたが、柏木は「悲しいながらも、かたじけない」と感じ入っていました。

「いやもう、この歌の『立ち添って私も土に埋もれてしまう』という言葉だけが、この世の思い出になってしまうとは。はかない人生だった」と一層強く泣き入りながら、ベッドに横になって休み休み返信を書きましたが、文面の続き具合も覚束なく、筆跡も奇妙な鳥の足跡のようになっていました。

(歌)私の魂の行方が分からなくなっても 思いを寄せるお方の辺りから 離れることはありません

「とりわけ夕暮に空を眺めて下さい。私が亡き者になってしまったなら、貴女を咎めるお方の目ももはや気になさらずに、もう甲斐のないことですが、絶えず憐れみを私にかけて下さい」などと乱れ書きをしていましたが、苦しさがつのっていきました。

 

「もうこれまでです。夜があまり更けないうちに戻って、『このように今が限りの有り様でした』とも伝えて欲しい。今さらながら『何か仔細がありそうだ』と世間の人が怪しがるのを、私が死んだ後にですら気にされてしまうのは辛いことです。どういった過去の因縁で、こうした道にはずれた思いが心に沁み込んでしまったのだろう」と泣きながら寝床に戻りました。

「いつもは際限もなく引き止めて、とりとめのない話をされるのに、今日は言葉も少なくて」と思うと、ドニーズは悲しくてならないので、すぐに帰る気もしません。ドニーズの叔母も柏木の容態を話しながら、ひどく泣きうろたえています。父アントワンなどの心痛も痛々しいもので、「昨日、今日と少しは加減が良さそうだったのに。どうしてこんなに弱ってしまったのだろう」と騒いでいましたが、「どうせ助からない命なのに」と言いつつ、柏木自身も泣いていました。

 

 

2.カオル(薫)誕生。ヒカルと山桜上の心理

 

 山桜上はその日の夕暮れあたりから、苦しそうになりましたが、「産気づいた」と見て取った経験者たちが騒ぎだして、ヒカルにも伝えたので、ヒカルは驚いて山桜上の住まいに行きました。胸中では「ああ、口惜しいことだ。生まれて来る子を疑わしい点もなく見ることができたなら、めでたく嬉しいことだろうに」と思いながらも、「そんな素振りを人に気付かれてはいけない」と考えて、験者などを呼びました。修法はいつまでとなく休みなしに続けさせましたが、待機している僧侶たちの中で効験があらたかな者ばかりが皆集まって、祈祷をして騒ぎ立てました。

 

 山桜上は一晩中苦しんだ後、日が射し昇る頃に赤児が誕生しました。

「男の子」とヒカルは聞いて、「何とか秘密にしているのに、生憎なことに父親が誰かとはっきり分かる顔つきをしていたなら、困ったことだ。女子であったら、何となく紛らせることも出来るし、大勢の人に顔を見られることもないから安心していられるのだが」と思いました。その一方で「このように心苦しい疑いがつきまとっているなら、世話が焼けない男の子の方が気が楽でもあるだろう。それにしても何とも不思議なことだ。自分の人生の中で『恐ろしいことをしでかした』と思い詰めた藤壺との密通に対する報いなのかもしれない。この世に生きている間に、こうした思いがけぬ応報を受けたのだから、後の世に受ける罪は少しは軽くなってくれるだろうか」と思い直したりしました。

 周囲の人々はやはり、そうした秘密は知らないことなので、「高貴な王女を母にして晩年に誕生したのだから、さぞかし寵愛されることだろう」と考えて一生懸命に仕えました。産室での儀式が盛大に厳粛に行われ、婦人方が様々に意匠を凝らした出産祝いの品々、慣例の折り箱、食器台、一脚台で支える盆などの趣向にも、婦人たちが意識して競い合う様子が窺えました。

 

 出産五日後の夜には、秋好后から産婦への祝膳や侍女たちにも身分の違いを考慮した饗応物が公けの作法に乗っ取って配布されました。ポーリッジ(穀物粥)やサンドイッチ五十箱に加え、所々で行われた饗応ではヴィランドリー城に勤める召使や下級職員などあらゆる者にまで、厳粛な接待がされましたが、冷泉院に仕える官位五位以上の上級役人が皆、接待役を務めました。

 七日後の夜には、王宮から公けの儀式に倣った祝いがありました。アントワンなども格別な祝宴をすべきでしたが、このところ息子の看病にかかりきりなので、通り一遍の祝い品を贈ってきただけでした。親王や高官たちも大勢、祝いにやって来ました。大体の儀式もこの上もなく実施されましたが、ヒカルの心中には「面白くもない」と感じる点もあるので、大した賑やかなことはせずに管絃の催しなどもしませんでした。

 

 山桜上はひどくか細く弱々しい様子で、初めてのお産が薄気味悪く恐い思いがしたので、薬湯なども服用しないでいました。こうした折りにつけても我が身の辛い運命を考え込んで、「こうなったら、いっそのことこの機会に死んでしまいたい」と思っていました。ヒカルは人目をうまくつくろっていましたが、生まれたばかりで、まだ見栄えがしない赤子を格別見ようともしないので、老いた侍女などは「何てそっけなくされておられるのでしょう。おめでたく久しぶりに生まれたお子様がこんなに可愛いらしいのに」などと慈しんでいました。それを耳にした山桜上は「ヒカル様のそうしたよそよそしさは、段々と増していくことになるだろう」と恨めしく感じるものの、我が身が情けなくなって、「修道女になってしまおうか」との気持ちが湧き上がってきました。

 

 ヒカルは夜なども山桜上の住まいに泊まることはなく、昼の間にちょっと顔を出して覗くだけでした。

「世の中のはかなさを知っていくにつれ、余命も短くなり何となく心細くなってもいるので、このところ勤行をしがちに暮らしている。こうした状態の中で、赤子がいるこちらに来ると騒々しい気持ちになってしまうので、あまり寄りはしませんがご気分はいかがですか。爽やかになりましたか。私もいたわしい気持ちでいます」と内カーテンの端から中を覗きました。

 横になっていた山桜上は頭をもたげて、「もはや生きていられそうもない気がします。こうしたお産で死んでしまうのは罪が重いと申しますから、修道女となって、もしかしたらその功徳で生き永らえるかどうかを試してみたいです。たとえ死んでしまうとしても、罪が消えることにもなるし、と考えています」と日頃の様子より随分と大人びて話しました。

「そんなとんでもないことを。縁起でもない話だね。どうしてそんなにまで思い詰めてしまうのです。お産は確かに恐ろしいものだが、お産をして死んでしまうとは決まっているわけではないだろうに」とヒカルは話しました。

 それでも心中では「実際にそのように考えて言っているのなら、修道女にしてあげて、思いやりをかけてあげようか」と思いつつ、「これから連れ添ってみても、何かにつけて気兼ねをさせてしまうのは心苦しいことだし、自分自身でも気持ちを改めることができずに、悲しませてしまうことがうち混じってしまい、自然と冷淡な扱いをしているように人から咎められてしまうのも残念なことだ。ましてそんなことが朱雀院の耳に入ってしまったら、私の落ち度になってしまう。やはり病気にかこつけて修道女にさせても良いのでは」とも思い寄りますが、逆にとても惜しいほど可愛げで、まだ生い先が長くてもったいない長髪を切って、修道女にさせてしまうことは心苦しいことです。

「何とか、気を強くお持ちなさい。もう助からないと見えた紫上も平癒した好例が先日あったくらいだから、世の中というものはさすがに頼み甲斐があるのだよ」などと話して、薬湯を勧めました。

 山桜上は青白く痩せてしまって、言いようもなく頼りなさげに臥している様子がおっとりしていじらしいので、「ひどい過ちがあったにせよ、こちらも心をやわらげて、許してあげねばならないのだろう」と思ったりもしました。

 

 

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