その4橋姫 

     

1.第八卿の寡居生活と女君二人の養育    (カオル  十六歳まで)

その当時、世間から存在を忘れられた、歳をがいった親王がいました。母方なども高貴な家柄で、一時は王太子として立つ可能性もありましたが、時勢が変ってヒカル一族の時代になってから、世の中から冷たく扱われるような騒動があってからは、一時の勢いも跡形もなくなってしまい、後見をしていた人々も無念な思いを抱きつつ、それぞれ見切りをつけて政治の世界から離れて行きました。本人も王宮があるロワールには住み辛くなって、パリ盆地の南東、マルヌ川がセーヌ川本流に合流するアルフォールヴィル(Alfortville)に移り住んで、公私ともに頼りとなる拠り所もなく、世間から見放されて行きました。

正夫人はかっての大臣の娘だったので、こうした状況が悲しく心細く、親たちが描いた願望を思い出すとたまらない気持ちがすることが多くありました。それでも深い契りに結ばれた夫婦仲がいたって睦まじいことを不運な人生の慰みとして、お互いにこの上もない頼りにし合っていました。

 

長い年月の間、子供ができないのが気掛かりでした。「何とかして寂しさや所在なさの慰めに愛らしい児がいてくれたなら」と卿は時々こぼしていましたが、思いがけなくとても可愛らしい女君が誕生しました。「限りもなく貴重なことだ」と寵愛していると、引き続いて妊娠の兆しがありました。「今度は男の子であったなら」と期待していたものの、同じように女君が無事に誕生しました。ところが夫人が産後の肥立ちが悪くて亡くなってしまったので、親王は呆然として途方に暮れてしまいました。

「何とか生き延びながらも、ひどく暮らしにくく、堪え難いことも多い人生となってしまったが、思い捨てがたい夫人の様子や気立てにいまだに惹かれていて、それが手かせ足かせになって、修道の道に入らずに今日まで過ごして来た。この世に一人残っていても寒々としたものとなってしまう。幼い二人を男手一人で育てて行くのも、格式のある親王の身としてはみっともなく、外聞も悪いことだ」と考えながら、「自分は修道の道に入る本意を果たさねば」とは思いつつも、二人の女君の面倒を誰かに頼んで残して行くあてもないまま、ひどくためらっているうちに歳月が過ぎて行きました。

 

その間に二人はそれぞれ成長して行き、見目形が美しく、申し分のない姿になって行くのを日々の慰めとして、何となく毎日を過ごしていました。

 仕えている侍女たちは妹君について、「いやはや、このお方が生まれたばかりに夫人が亡くなってしまったのだ」とぶつぶつ呟きながら、身を入れてお世話をしなかったのですが、亡き夫人が臨終の床で気が遠くなりながらも、妹君を不憫に思って「どうかこの児を私の形見と考えて、可愛がってあげて下さい」とわずか一言だけを言い残したので、親王は運命のはかなさを歎きつつ、「やはりこうなってしまう宿命だったのだろう。いまわの際まで妹君を気の毒に思って不安げに話していた」と思い出しながら、妹君をことさらに可愛がっていました。

 

 二人の女君の器量は本当にとても美しく、不吉と思えるほどでした。姉のジュヌヴィエーヴは気立てが物静かで優雅さがあり、容姿も物腰も気高く奥床しく見えました。妹のマドレーヌよりも柔和で上品な点で勝っていましたが、親王はどちらともそれぞれに可愛いがって大切にしていました。それにしても思うように行かないことが多く、年月が経つにつれて、邸内は何となく物寂しくなっていくばかりでした。仕えている人々も先行きの見込みがない気がして、辛抱できずに一人一人と次々に去って行きました。マドレーヌの乳母は夫人が亡くなる騒ぎの渦中で、しっかりした人物を選択する余裕もなく雇った者でしたから、ありきたりの薄っぺらな情愛しか持たずに幼いマドレーヌを見捨ててしまったので、親王がたった一人で育て上げました。

 

 セーヌ川とマルヌ川を見晴らす邸内はさすがに広く見事なもので、川や丘陵の風景だけは以前と変わりはないものの、次第にひどく荒れていくのを親王は所在なく眺め暮らしていました。管理人などもしっかりした人物もいないので手入をする人もいず、雑草が青々と生え繁り、軒下の雑草が我が物顔ではびこっています。四季折々の花や木々の色も香りも亡き夫人と同じ気持ちで賞美して、慰められることも多かったのですが、ますます寂しく興を催すこともなく、ただキリスト像の飾りつけだけをことさらにして、毎日の勤行をしていました。

「二人の女君という足手まといにまといつかれて、心外なことにも口惜しい自分の心弱さではあるのだが、修道僧になれないことも何かの因縁なのだろう」と思いつつ、「まして今さら俗世間の人間らしく振る舞うことができようか」と年月が経っていくにつれて、世間から離れて気持ちだけは僧になりきっていました。

 夫人が亡くなった後も、普通の男性のように後添いの女性をもらうことは、冗談にしても思うことはありませんでした。「何もそこまで思い詰めることはないでしょうに。夫人を失った悲しみは確かにありえないように感じることでしょうが、時間が経てばやはり人並みに準じる心持を抱いて、新しい女性をお迎えになると、ここまで見苦しく不体裁な邸内も自然と整って行くでしょうに」と忠告して、何やかやともっともらしい話をしたり、縁故を辿って再婚話を持ってくるものもいましたが、親王は聞く耳を持たずにいました。祈りの合間には二人の女君を心の慰みとして一緒に遊び、次第に成長していくにつれてハープを教えたり、チェスや言葉パズルなどちょっとした遊びをしながら、二人の気立てなどに注意を傾けました。姉のジュヌヴィエーヴは上品で奥深さがあるように見え、妹のマドレーヌはおっとりとした可愛いらしい様子を見せながら、控え目な気配があるなど、それぞれの魅力がありました。

 

 春ののどかでうららかな陽射しのもとで、川の水鳥たちが羽を交わしながら、めいめいにさえずっている声を、いつもは何でもないことと見聞きしていますが、つがいが離れずに泳いでいるのを羨ましく眺めながら、親王は女君二人にハープを教えていました。まだ小さいなりにとても愛らしく、とりどりに搔き鳴らす音色にしみじみとした哀愁を感じて、涙を浮かべました。

(歌)父鳥を見捨てて 母鳥は去って行ってしまったが どうしてこのはかない世に 娘二人を残していったのだろうか

気苦労の絶えないことだ」と目を押し拭いました。

 容姿が実にさっぱりと小綺麗な親王でした。長年に渡る勤行で痩せ細っていましたが、それがかえって上品に優雅に見えます。衣服は着慣れてよれよれになってはいますが、女君たちの世話をしっかりとしようとの気持ちからか、きちんとした上着を着てくつろいでいる姿には奥床しさがありました。

 

 ジュヌヴィエーヴがインク壺を引き寄せて、手習いのように文字を書き散らしているのを見て、「これに書きなさい。インク壺は聖カトリーヌの眼であるという話もあるから、文字を書いてはいけませんよ」と親王が紙を渡したので、ジュヌヴィエーヴは恥じらいながら歌を書きました。

(歌)どうして私が成人できたのだろうか を思うにつけて 水鳥のような辛い運命が思いやられる

 良い出来でもありませんが、この状況では身に染みるものでした。筆跡はこれからの上達を感じさせるものでしたが、まだすらすらと続けては書けない年ごろでした。

「マドレーヌも書いてみなさい」と言われて、姉よりももう少し幼い字で書きました。

(歌)涙にくれながら 羽を着せてくれた父上がおられなかったら 私は大人になれませんでした

 姉妹が着ている衣服も着古していて、側に仕える侍女もいず、久しい間、所在なさげにしながら、それぞれ愛らしく振る舞っているのを、父の親王はどんなにか不憫で、心苦しく思っていることでしょうか。聖書を片手に持って読む一方で、唱歌もしていました。姉にはリュート、妹にはスピネットを教えて合奏させますが、まだ小さいなりにも、そう聞き憎いこともなく面白く弾くようになっていました。

 

 

2.第八卿の生い立ちと、カオルの第八卿への崇敬  (カオル 十七歳から十九歳)

 親王は父の桐壷王、母の貴婦人とも早く先立たれて、しっかりした後見人もとりたてていなかったので、学問などは深く学んでいません。ましてや世の中を生きていく処世術の心構えなどを修得しているわけでもありません。高貴な人物と称される中でも、あきれるほど上品でおっとりした女性のような性質だったことから、先祖から受け継いだ宝物や外祖父の遺産とかが何やかやと尽きないほどあったのに、行方も分からなくなって、あっけなく失ってしまいました。わずかに身の回りの調度類などばかりが、ことさらに立派に残っていました。参上して手伝いをしたり、好意を寄せて協力する者もおりません。手持無沙汰のまま、音楽院の勝れた熟練者を呼び寄せて、ちょっとした管絃の遊びに心を打ち込んだので、この方面の腕前は非常に見事で秀でていました。

 ヒカルの弟として第八卿と呼ばれていましたが、冷泉院が朱雀院の王太子でいた頃、朱雀院の母の紫陽花太后が邪まな企みを計画して、この第八卿を王太子に据え変えようと、その当時の自分の威勢を使って第八卿を盛り立てようとする騒動がありました。生憎なことにその後は、ヒカル一門からは遠ざけられてしまい、ヒカル一族が次々に栄えて行く世の中になってしまってからは爪はじきになってしまいました。それ以来は僧のようになりきって、「もうこれ限り」とすべてのことへの望みを諦めてしまいました。

 

 そうこうしているうちにアルフォールヴィルの邸が火事で焼けてしまいました。不運な世の中が浅ましく、仕方なく移り住む場所を物色しました。折りからフランスの首都がロワールからパリに復帰して、貴族や高官も続々とパリに移って来ており、落ちぶれた有様を見せるのもたまらないので、パリ市内や周辺に住みたくはありません。たまたまパリ盆地(イール・ド・フランス)の西北端のコンフラン・サントオノレ(Conflant Sainte Honoréに瀟洒な山荘を持っていたので、移り住むことにしました。もう見切りをつけた世の中ですが、「今日を限りに」とパリから離れて行くのは悲しいことでした。

 コンフランは支流のオワーズ(Oise)川がセーヌ本流に合流する港町で、小鯉のブリーク(Ablette)の群れを採る漁も盛んな騒々しい場所なので、物静かな思いに耽るにはふさわしくありませんが。仕方ありません。花や木々の葉の色の変化、セーヌ川の流れに心を慰さめるよすがにしながら、ますます寂しい物思いに耽るより他のことはありません。

「こうやってパリ盆地の西端に引き籠ってしまったが、亡き妻がいてくれたなら」と思い出さない時がありません。

(歌)連れ添った妻も邸も 土に消えてしまったのに どうして我が身は 生き残っているのだろうか

もはや生きている甲斐もなく、亡き妻を恋焦がれていました。

 パリと丘陵を重ね隔たったコンフランを訪ねて来る人もいません。身分が低い賤しい者や田舎びた土地の人とかいった者がまれに出入りして雑用をしています。早朝から垂れこめたセーヌ川の霧が晴れる時もないままに、暗い気持ちで毎日を送っていました。

 

 その頃、オワーズ川を少し上ったポントワーズ(Pontoise)に近いモウブイソン(Maubuisson)修道院の敷地に徳が高い導師が住んでいました。デタルプ先生の晩年の弟子でユマニズム時代の生き残りとも言われる人物で、学識も深く世間からも軽んじられてはいませんが、王宮からの要望があってもめったに出向きはしないでモウブイソンに籠っていました。たまたま第八卿が近くのコンフランに住み移って、寂しい日々を送りながらも尊い勤行をしながら聖典を読み習っていることを奇特なことに感じて、時々尋ねて来るようになりました。

 導師はこれまで学んで会得した深い意味と解釈の仕方を説明して、ますますこの世は仮初の味気ない所だと、よく理解できるように説明しました。第八卿は「心だけは百合の花の上に思いを馳せ、清浄な水の中に住むべきなのですが、まだまだ小さい二人の娘を見捨ててしまう後ろめたさがあるので、一途に修行僧に姿を変えることも出来ないでいます」と打ち解けた話をしていました。

 

 この導師は冷泉院にも親しく出入りしていて、聖典の講釈などをしていました。ある時、パリへ出たついでにフォンテーヌブロー城にも足を延ばしました。いつものようにしかるべき書物を取り出して、質疑応答をしているついでに「第八卿は非常に聡明で、キリスト教に関する学問にも深く通じておられます。そうした宿命があって生まれて来た人物なのでしょう。心の底から行い澄ましておられ、本当の僧侶の心構えをお持ちのように見えます」と話すので、冷泉院は「まだ姿を変えていないのですか。ここらにいる若い者たちは『俗僧』とか名付けているが、殊勝な話ですね」と応じました。

 十七歳のカオル宰相中将も冷泉院の側にいながら、「自分こそ、幼い頃から何となく原罪を意識していて、世の中がひどく興覚めなものと思い知りながら、勤行なども人の眼に止まるほどのこともしないでいるのを悔やんで来た」と人知れず反省しながら、「世俗にいながら僧になる心構えはどのようなものだろうか」と耳を傾けていました。

「第八卿は元々修道者になる志を抱いておりました。それでも夫人がおられるなどちょっとしたことで思い留まっていましたが、今に至っては愛おしい二人の女君を思い捨てることが出来ないでいる、と嘆いています」と導師が話しました。そうは言っても音楽も愛好する人なので、「そうした中で二人がハープなどを合奏して楽しんでいると、川波と競い合うように聞こえるのがとても興趣深く、天国での遊びが想像できます」と古風な褒め方をしました。

 冷泉院は微笑んで「そうした僧侶のような人に育てられてしまうと、そういった世俗の音楽などは心もとないのでは、と察せられるのに珍しいことだ。第八卿も気が咎めて、二人を見捨て難く困っていることだろう。万が一、私の方が少しでも長生きするようなら、二人を私に託してもらえないだろうか」とまで話すのは、貴婦人として上がったソフィーが第二王女を出産したりして、「自分はまだ若いのだ」などと気を大きくしているからでしょうか。冷泉院は桐壷王の十番目の王子でした。朱雀院がヒカルに預けた山桜上の例を思い出して、「二人を譲ってもらえば、退屈している時分の遊び相手になってくれるだろう」などと思いを馳せています。

 一方のカオルは「第八卿が信仰に専念する心映えを、実際に出逢って教示してもらいたい」と思う気持ちが深まって行きました。導師がモウブイソンに戻って行く際にも「是非ともコンフランを尋ねて、第八卿から教えを聞かせて欲しいので、前もって内々に意向を打診しておいて下さい」などと頼みました。

 

 冷泉院は第八卿に使いを送って、「寂しそうな住まいの様子を人づてに聞きました」などと書いて、歌を詠みました。

(歌)自分の世を厭う心持ちは 貴方が住まれるコンフランに通じているものの 

   幾つもの雲で 私を隔てておられるのでしょうか

 導師はこの使いを連れて第八卿を尋ねました。ありふれた人の使いすら稀な山蔭へ、実に珍しいことに冷泉院の使者が尋ねて来たのを喜んで、土地柄にふさわしい料理などを用意してねぎらいました。

(返歌)この世と縁を切って 悟り澄ましているわけでもないまま 

    このコンフランの仮の住まいに暮らしております

 修道の側面について、意識的に謙遜した第八卿の返信を詠んで、冷泉院は「やはりこの世への未練は残っているのだな」といたわしく感じました。

 導師は「カオル中将は修道心が深いようにしています」などと第八卿に伝えました。

「中将は『キリストの教えなどの真意を修得したい望みを持っている。幼い頃からそうした気持ちを深く抱いていたが、修道の道に入ることも出来ずに世の中に流されながら、公私ともに暇なく明け暮らしている。わざわざ部屋に閉じ籠って聖典を習い読むことなどは、世間的に有能な身でもないので、世を捨てる顔をしても遠慮することはないものの、何となく気が緩んでしまい、俗事に紛れて過ごして来てしまっている。第八卿の非常に尊い有様を承ったので、真底、教えを乞いたいものです』などと本気で申しております」と告げました。

「世の中は仮初のものに過ぎないと悟り、厭わしい気持ちを感じるようになるのは、自分の身に憂いごとが生じ、大方の世の中を恨めしく思い知ることがきっかけとなって、修道心が起こるものです。それなのにまだ十七歳と若く、世の中が思い通りに叶い、何事も不満などはありそうにないと思われる身でありながら、それほどまで後の世のことまで知りたがっている、というのは奇特なことです。

 私の場合は、こうなる宿命だったのか、ただ『世の中を厭い離れなさい』とことさらにキリスト様などがお勧めになるような状況の中で、ごく自然に道心への静かな思いが叶うようになりました。しかしこの先、長くは生きられない心地がするので、しっかりした悟りは得られないでしょう。今までもこれから先も、修道を極めることもなく死んでしまうと分かっているので、逆に彼のような人は私の方が恥じいってしまうが、同じ志を抱いた友なのだろう」といった話しが卿の反応でした。

 

 それ以来、第八卿とカオルは手紙を交し合うようになり、カオル自らコンフランを訪ねて行くようになりました。

 なるほど導師から聞いていたよりも寂しい住まいの様子を始めとして、思いなしかほんの仮初の粗末な世捨て人の住まいに簡素に暮らしているように見えました。同じ山蔭と言っても、それなりに風趣に富んで人の心を惹きつけるような、のどかな場所もありますが、ここは船乗りたちの喧騒に加えて、荒々しい水の音や波の響きの中、昼は物思いもうち消され、夜などは夢すら安心して見れないほど、風がすさまじく吹き通しています。

「修道僧のように暮らしている人にとっては、こんな風でこそ、世間を捨てる誘い水になるだろうが、女君二人はどんな気持ちで暮らしているのだろう。世間の普通の女性らしさや物柔らかな振る舞いとは縁遠いことだろう。まして淡い初恋の人になりながら、冷泉院の貴婦人になった玉鬘の長女ソフィーなどとは比較するすべもない」と推察できる有様でした。女君二人はキリスト像を配置している部屋と薄い壁を隔てて生活していました。好色心がある者なら気色ばんで近づいて行き、どんな性格の人たちなのか見てみたくなる雰囲気ですから、カオルもさすがに「どんな女性たちなのだろうか」と知りたくなりました。

とは言うものの、「そうした浮ついた考えから離れたいと願って、こんな山里を訪ねて来た本意をなくして、好色めいた戯れ言を口にしながら、きざな振る舞いをしてしまうと、本来の主旨とは異なることになってしまう」と思い返して、第八卿の気の毒な生活を手厚く手助けしようとの思いで、度々コンフランに通うようになりました。

 

 カオルが期待していたように、第八卿は在俗のまま山に籠って修行をする意義、キリストの教えなどをことさらめいて賢ぶることもなく、平易に説明しました。修道者めいた人や学才のある僧侶などは世の中に多く存在しますがあまりに堅苦しく、世間離れした高徳な司祭や司教といった地位にある人は、常に多忙でそっけなさ過ぎて、物事の道理を明らかにしようとする際も仰々しい印象を与えます。そうかと言って、それほどでもない並みの僧となると、きちんとした戒律を守っている尊さはあるものの、言葉遣いに癖があったり、無作法に馴れ馴れしくしたりして、不愉快なものです。日中は公務で忙しくしているカオルのような者にとっては、物静かな宵に寝室近くに招き入れて、話し相手になってもらうのもさすがに気が進みません。

 これに対して第八卿は気品を保ちながら、日々の苦しい思いから口にする言葉は、同じキリストの教えと言っても、耳に入りやすい例えを引用します。この上もない深い悟りに達しているわけではないものの、高貴な人は直感でものを理解する点が普通の人とは違っているので、段々と親しくなって行くにつれて、始終逢っていたくなりました。公務などで会えない時は第八卿が恋しくなりました。

 こうしたようにカオルが第八卿を尊敬するようになり、冷泉院も常に便りをするようになったので、長年、世間の噂にも上らず、ひどくひっそりとしていた住まいにも、次第に人が出入りする時もあるようになりました。折りに触れて冷泉院から丁重な見舞い金がありました。カオルもそれ相応に風流な面でも、暮らし向きのことにも本心から好意を示しながら、三年ほどの月日が経過して行きました。

 

 

3.晩秋、カオル、コンフランで女君達の合奏を聞く  (カオル 二十歳)

 カオルが二十歳になった秋の末、毎年四季毎に分けて行う祈祷の際、「川辺に近いこの山荘では川船やブリーク漁の仕掛けに当たる波音が耳障りとなって、心が落ち着かない」と第八卿が語って、あの導師がいる修道院の礼拝堂に七日間、籠ることにしました。

 女君二人はひどく心細く、ますます寂しさが増して過ごしていましたが、カオルは「久しく訪問をしていなかった」とコンフランのことを思い出して、夜が明けても空に残る有明の月が夜深く昇る時分に、人目につかないようにお供の数も少なくして、コンフランに向かいました。

 船は使わずにセーヌ川沿いに馬で進みました。林の中を進んで行くうちに霧が立ち込めて、道も見えない繁みの中を分け入っていると、とても荒々しい風の勢いでぱらぱらと落ち乱れる木の葉の露が散りかかってひどく冷たく、自分のせいとは言うものの、ひどく濡れてしまいました。こうした夜間の外歩きなどはめったにしたことがないので、心細くなったものの、楽しさも感じました。

(歌)丘おろしの風に堪えられない 木の葉の露よりも 妙にもろい涙が わけもなく落ちてしまう

「地元の人が驚いて目を覚ますと面倒だから」と、お供の人に先払いの声もさせないまま、柴で粗く編んだ垣根の間を抜けながら、はっきりしない水の流れを踏み越える馬の足音すら立てないようにと、用心はしているものの、隠しようもないカオルの匂いが風に乗って漂うので、

(歌)主が分からない香りが漂っている 初秋の野に 誰がオレガナ(花はっか)に脱ぎかけたのだろう

と驚いて、目を覚ます家々もありました。

 

 山荘近くになると、何の楽器とも聞き分けられない物の音色がすごいほど澄み切って聞こえて来ました。「第八卿一家はいつもこうやって合奏し合っていると聞いていながら、それを聞く機会もなく、名高い卿のハープの音も耳にしたことがない。ちょうど良い時に来た」と思いながら山荘の門に入ると、響きはリュートの音でした。短調を主音とする調べで、ありきたりの搔き合わせながら、場所柄なのか耳馴れない心地がして、掻き返すピックの音も何となく冴えて面白いのです。スピネットの音色寂しげに途切れ途切れに聞こえます。

 しばらく聞いていたいので物陰に隠れていましたが、カオルの匂いにはっきりと気付いた、どことなく無骨な当直人が出て来て、「卿はこれこれの理由で修道院に籠っております。早速、連絡をいたします」と告げました。

「いや、それには及ばない。日数を限った勤行を中途で邪魔してしまうのは筋違いだ。しかし露に濡れながらわざわざやって来たのに、空しく帰って行くのは辛い。女君に知らせて『お気の毒に』とでも言ってくれたなら、慰められるのだが」とカオルが言うと、見苦しい顔で笑いながら「そう伝えて来ましょう」と立ちかけたのを、「ちょっと待て」と呼び寄せて「長い間、人づてに聞いていて、是非とも聞いてみたいと思っていたハープの音を聞く嬉しい機会だ。しばらく物陰に隠れていたいので、適当な場所はないだろうか。無遠慮に近付いて二人が弾くのを止めてしまうのは、本意ではないから」と告げました。

 

 こうした愚直な男なりに、カオルの気配や容貌がとても立派で恐れ多い人物と思うので、「人が聞いていない時は、こういった風に明け暮れ弾かれていますが、たとえ身分が低い者がパリからやって来たりすると、第八卿は弾かせることはありません。大体、第八卿はこのように女君がおられることを隠していて、『世間の人に知らすまい』と考え、そう話しております」と言うと、カオルは笑って「つまらない隠し立てをされるのだね。そんなに人に知られまいとしても、皆人は世にも稀な女君たちがおられるのを聞き出しているのだから」と言った後、「とにかく案内をしてくれ。私は好色がましい料簡などは持たない男だから。ただこうやっておられる様子が不思議で、普通とは思えないのだ」と親しげに頼み込むと、「分かりました。後で物をわきまえない奴だと叱られてしまうでしょうが」と答えながら、女君たちがいる庭先の、板を少し間を開けて編んだ垣で仕切った場所に案内しました。そして、お供の人たちを西側の廊下の一室に案内して、相手をしました。

 

 女君たちがいる居間に通じているらしき垣根の戸を少し開けて覗いてみると、カーテンを開けて月にほんのりと霧がかかっているのを眺めている女性たちがいました。上り口にはひどく寒そうな、痩せてよれよれの服を着た女童とそれと同じ格好をした侍女がいました。

 居間の中にいる女性の一人は、柱に少し隠れていますが、リュートを前に置いて、ピック(撥)を何気なくもてあそんでいました。雲に隠れた月が急にぱあっと明るく射しこんで来たので、「扇でなくても、この半月の形をしたピックで月を招き寄せることが出来ますね」と言いながら、月を覗き込もうとする顔は言いようもなく可憐で、艶やかな美しさがありました。

 その側で横になっている女性はハープに身をもたれるようにしながら、「入り日を呼び戻すピックというのは聞いたことはありますが、変ったことを思いつきますね」と笑っている気配は、もう少し重落ち着きがあり、優雅さがありげでした。「月を呼び戻すわけにはいかないとしても、半月形のピックは月とは縁がありますからね」と他愛がないことを打ち解けて言い合っている様子は、カオルがこれまで勝手に思い描いていた光景とは違って、とても感じが良く、親しみが持てるものでした。

「昔の物語などで語り伝えているのを若い侍女などが読んでいるのを聞いていると、こういった場面が決まって出て来るが、そんなことは実際にはありはしない」と馬鹿らしい気がしていましたが、「なるほどこうした隠れた場所に風雅な世界があるのだ」と心が動きました。しかし霧が深くなって来たので、はっきりと見ることが出来ません。

「再び月の光りが射し出してくれたら」と願っていると、奥の方から「どなたかがお越しになっています」と告げる者がいたのでしょう、カーテンが閉められて、皆が中に入って行きました。それほど驚いたふうでもなく、静かに奥に引き込んで行きましたが、衣擦れの音もたたさずに物柔らかなのがいじらしく、たとえようもなく上品で優雅な動作にカオルは深い印象を受けました。

 

 カオルはそっとその場を離れて、パリから馬車を呼ぶように急ぎの使いを走らせました。先刻の当直の男に「具合悪く卿の留守中に訪れてしまったが、かえって嬉しい思いをして幾らか慰められた。私が来ていることを伝えてくれ。ひどく露に濡れて、難儀していることも話したいから」と言うと、男はすぐに女たちのいる所に行って知らせました。

 女君たちはカオルに透き見をされていたとは思いも寄らないのですが、「気を許して話をしていたのを聞かれたのでは」とひどく恥入りしました。「そう言えば、妙に香ばしく匂う風が吹いていましたが、思いがけない時刻だったので、気が付かなかったのは迂闊でした」と動揺して、きまり悪い思いがしました。

 取次ぎ役の侍女も物馴れていない様子なので、「何事も時と場合に応じて臨機応変に動かねば」とカオルは考えて、霧がまだ晴れないのを幸いに、先刻のカーテンの前の上り口に座りましたが、田舎びた若い侍女たちは受け答えをする言葉も分からず、敷物を差し出す恰好も危なげでした。

 

「こうしたカーテンの前では落ち着きません。一時の軽く浅い気持ちでは中々思い立つこともしない、遠い野山の難路を越えて来たのに、変った扱いをされますね。このように露に濡れながら、訪問を重ねていますので、いくら何でもご理解いただけるだろうと頼みに思っているのです」とカオルは真面目な態度で話しかけました。

 若い侍女たちの中に如才なく口がきけそうな者はいず、消え入るようにもじもじしているだけです。間が悪く感じたジュヌヴィエーヴは奥に下がった老侍女を呼びにやらせたのですが、もたもたしているのがわざとらしいと感じたのか、「何事も事情が分かりませんので、知った顔をしてお答えするのも」と、とても由緒ありげな品が良い声で、消え入るようにほのかに答えました。

「心の中では分かっているのに、相手の憂いを気付かないふりをされるのは世の習いであることは承知していますが、ほかならぬ貴女があまりに空々しい返答をされるのは残念でなりません。有難いことにすべての事を悟り澄ましておられる卿の住まいにおられるのですから、卿の心を見習って何事もお見通しのことと推察します。私が抑えかねている胸の思いの深さ・浅さを理解して下さっておられるなら、その甲斐があります。私が普通にいる好色な男であるとは思わないで下さい。そういった浮ついた方面は、ことさらに勧める人がいたとしても、聞き入れはしない心強さを持っています。そんなことは自然と耳にされていることでしょうが、ただ退屈な日々を送っている私の世間話の相手になってもらいたいのです。またこうした世間から離れた暮らしをされている貴女の気を紛らわすことにもなりましょうから、手紙をやり取りするお付き合いをさせていただけたら、どんなに嬉しいことか」などと、カオルは多くを語りかけましたが、気恥ずかしくて答え辛いジュヌヴィエーヴは、起こしにいった老侍女がようやく出て来たので、応答を譲りました。

 

 するとこの老女はどうしようもない出しゃばり者でした。「まあ、恐れ多いこと。こんな失礼な席にご案内するなんて。カーテンの内にお入れしなければ。若い人達は物の道理を知らないようですね」などと年寄りらしく、大げさな声でずけずけと言うので、二人の女君は当惑していました。

「都合が悪いことに、第八卿は世の中にいる人の数にも入らない暮らしをされていて、当然訪ねて来るべき人々すら、縁遠くなってしまっておりますのに、貴方様の有難いお志のほどは私のような、数にも入らない者ですら、驚きで目を見張っております。まだお若い女君たちもそれを承知でいながらも、口に出せないでおられるのでしょう」と臆面もない物馴れた口調は小憎らしいのですが、その気配も人柄も悪くはなく、品が良い声使いなので、カオルは「取りつきようもない者ばかりだったのに、嬉しい気配りをしてくれますね。何もかも分かっておられるようなのは、この上もないことです」と女君たちがいる内カーテンに身を寄せました。

 そんなカオルを老女は衝立ごしに覗いてみました。夜明けの光りでようやく物の識別が出来る頃でしたが、人目につかない地味な旅装姿が露に濡れていて、全くこの世のものではないような不思議な芳香が満ちていました。

 

 

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