その25.蛍          (ヒカル 35歳)

 

1.兵部卿宮、蛍の光で玉鬘を見る

 

 ヒカルは現在はこうした太政大臣という重々しい地位にいて、表面上は万事につけ物静かに落ち着いて暮らしていますので、ヒカルに頼っている女性たちもそれぞれ皆、自分の希望通りの生活が出来て不安もない望ましい状態にいます。

 例外は玉鬘で、気の毒なことに予期もしなかった心配事ができてしまい、「どうしたらよいものか」と思い悩んでいます。モンペリエであのサミュエルが苦しめたことと一緒にすべきではないにしても、まさか後親になったヒカル様が自分に思いを寄せて来るとは誰も想像だにしなかったことなので、一人ひそかに胸を痛めながら「変なことになって来て、疎ましいことだ」と憂えています。世の中の色々なことが分かって来る年頃なので、あれやこれやと熟慮しながら、母親がとうの昔に亡くなっている無念を今さらのように惜しく悲しく思っています。

 太政大臣も恋心を口に出して打ち明けて以来、かえって心苦しい思いでいましたが、人目を憚って、ちょっとしたことでも口にすることができません。苦しい思いのまま、玉鬘の許に足繁く通い、侍女たちが遠くにいて人気がない折りに、穏やかならぬほのめかしを言ったりしますが、その度ごとに玉鬘は胸が潰れる思いです。きっぱりと拒んで間が悪い思いにさせることも出来ないので、ただ気がつかないふりをして受け流しています。

 

 ひどく真面目ぶって用心をしているものの、元々、人柄が明るく人なつっこさがあり、やはりこぼれるような愛嬌のある感じが目立つので、兵部卿などは本気になって恋文を送って責め立てます。兵部卿が恋心を打ち明けるようになってから、さほどの月日が経ってもいませんが、縁組を忌む六月の長雨の時期に入ったことを憂いながら、「もう少しお近くに伺うことを許してくれるなら、私の心の思いの片端くらいは気が晴れますのに」と書き綴っているのをヒカルは読んで、「どうされますか。こういったお方たちが好意を寄せて来るのは見所がありますよ。あまりそっけなくなさいますな」と諭しながら、「時々は返信を差し上げなさい」と返信の文句を教えて書かせようとしますが、玉鬘はますます不愉快に感じて、「気分がすぐれないので」と書こうとはしません。

 

 侍女たちの中に、取り分けて身分がよく、実家も重きをなしている者はおりません。ただ実母の夕顔の伯父で、官位四位の宰相(参議)を務めていた者の娘で、嗜みなども悪くはないのに、親が死んだ後、落ちぶれていたのを捜し出して、侍女にしていました。宰相の君と呼ばれていましたが、文章なども上手に書き、それ相応に世間馴れもしていましたので、しかるべき折々の返信などを代筆させていました。ヒカルは宰相の君を呼び出して、書くべき文案などを授けて返信を書かせました。弟がどんな反応をしてくるのかを知りたかったからでしょう。

 当の玉鬘はヒカルとの間で、ああしたひどく不快な思いをした後、この兵部卿などがせつなげに恋文を寄越すと、少しは眼を止めて読む時もありました。それで何かをしようと計っているのではなく、「こうすればヒカル様の心無い振る舞いから逃れることができるかも」と臨機応変に洒落た手立てを思いつきました。

 

 兵部卿はヒカルが妙に面白がって待ち構えていることも知らずに、玉鬘から珍しく色よい返信があったのを喜んで、大層目立たぬように玉鬘を訪ねました。両開きのドアがある控えの間にクッションが置かれた座席に招かれましたが、衝立を隔てて玉鬘が近くに座っていました。

 ヒカルは非常に気を配りながら、どことも知れずに漂って来る心憎い香を燻らせて、その場をうまく取り繕うとしています。実の父親でもない、よこしまなおせっかいをする人の仕業でしたが、さすがにそれなりに親身があるように見えます。

 宰相の君などは玉鬘の返答を取り次ぐことも考えつかずに、恥かしそうにしているだけなので、ヒカルは「しっかりしなさい」とつねったりしますが、宰相の君は困り果てているだけでした。

 夕闇時が過ぎて、空がぼんやりと曇っています。物思わしげな兵部卿の気配がとても艶っぽい。奥からほのかに匂って来る風の中に、そっと隠れているヒカルの衣服の匂いも混じっていて、あたりは大層深い薫りが満ちるので、兵部卿は予期していた以上の優雅な様子に心をとめました。

 兵部卿が胸中の思いの様を表に出して、話し続ける言葉はいかにも大人びていて、女好きの側面は一向に見せずに特別な気配を感じさせます。「中々興味深い」とヒカルは漏れ聞いています。

 

 その後、玉鬘は東側の部屋に引き籠ってソファに横になっていました。宰相の君が兵部卿の伝言を伝えに入る際に、ヒカルも付いて行って、戸口のところで「あまりにそっけないもてなしですな。何事も相手に合わせて振る舞うのが無難ですよ。一途に若い乙女ぶる歳でもないでしょうに。こうした高貴な卿たちとは、よそよそしく取次ぎを介して対話をすべきではありません。たとえ対話をするのを渋ったとしても、もう少し近いところで応対せねばいけません」などと諌めるのですが、玉鬘は「理不尽なことをおっしゃる」と困惑します。何もしないでいるとヒカルが部屋に入って来てしまう恐れがありますので、「いずれにせよ、面倒なことになってしまうから」と部屋から出て、広間の端の間仕切りの傍らに横になりました。

 

 兵部卿はあれやこれやと長々と話しかけていましたが、何の返答もないので戸惑っていると、やおらヒカルが間仕切りに寄って来て、間仕切りの裏側の垂れ布を引き上げると、表側の垂れ布を通して、ぱっと光り動くものがありました。兵部卿は紙ロウソクを振り動かしているのか、と驚きましたが、光りの正体は蛍でした。エクス・アン・プロヴァンスの武将一行が土産に持参した幼虫がうまく成虫になって発光を始めたので、ヒカルが一計を案じたものでした。夕刻に沢山の蛍を裏側の薄い垂れ布に光りが漏れないように包み込んで、何気なく垂れ布を引き上げるふりをして、蛍を放したのです。

 間仕切りの傍らに横になっていた玉鬘が、突然の異様な光りの群れに驚いて、扇をかざす横顔が何とも美しく浮かび上がりました。

「蛍の群れの光りが射したなら、弟卿も玉鬘の容姿をうかがい知ることが出来るだろう。玉鬘を私の実の娘と思い込んで、こうまで言い寄ってくるのだろうが、人柄や器量がここまで整っているとは推測もしなかったであろう。大層女好きの弟の心を惑わしてみよう」とのヒカルの企みでしたが、実の娘であるなら、こんないたずらをして騒ぐことはないでしょう。なんとも情けない心の持ち主です。

 

 ヒカルは別のドアからそっと抜け出して行きました。兵部卿は玉鬘がいそうな場所をあの辺りと推察していましたが、実際にはもう少し間近にいる気配がするので、胸をときめかせながら素晴らしい薄い垂れ布の隙間から覗いてみると、柱の先方に思いがけない光りがほのめいているのに興趣を抱きました。ほどなくして、何者かが蛍を隠してしまいましたが、蛍のほのかな光りは艶っぽい恋の遊戯を彩るように見えましたし、蛍のほのかな光りに、ぼんやりとですが玉鬘がすらりとした恰好で臥している姿が美しく見えて、いつまでも忘れない光景となりました。ヒカルが企んだように、卿の心に沁みつきました。

(歌)鳴く声も聞えない 蛍の火の思いは 消そうとしても消えません まして私の胸の思いを 

   どうやって消すことができましょうか

お分りいただけますか」と卿が詠みました。

 こうした場合にあれこれ思案してしまうのは素直ではないので、玉鬘は返歌を即答しました。

(返歌)声を出さずに身を焦がしている蛍の方が 口に出されるより もっと深い思いでいることでしょう

などと、取り立てるほどでもない返歌を宰相の君に伝えさせた後、本人は奥に引っ込んでしまいました。

 

 ひどくよそよそしいあしらいぶりなので、兵部卿は恨み言を心底言い立てます。それでもあまりしつこく居座り続けるのは好色すぎるようなので、夜を明かすことなく、じっと目を留めて 物思いしていることは一日中です 一日中 軒の雫がとぎれる間はないと歌に詠まれているように、軒の雫に濡れながら、まだ夜が深いうちに帰って行きました。きっとフクロウなどが啼いていたことでしょうが、煩わしいので耳に留めることもありません。

 侍女たちは「気配などが優美なところは、太政大臣にとてもよく似ていますね」と卿を褒め上げていました。昨晩、ヒカルが女親のように甲斐がいしく世話を焼いていたことも、内々の事情を知らないまま、侍女たちは皆、「誠にもったいないことをされて」と語り合っていました。

 

 玉鬘はそうしたヒカルの親ぶった態度に対して、「自分の運が悪いのだろう。実の父親に出逢って、世間並みの娘の身の上になってから、こうした情愛を受けるのなら、似つかわしいことでもあろうが、現状は『父と娘』という奇妙な関係なのだから、しまいには世間の語り草になってしまうだろう」と寝ても覚めても思い悩んでいます。

 ヒカルの方でも「本当に、身も蓋もない風にまで振舞うことはしまい」と思っていました。それでも例の困った性癖が根にありますから、秋好王妃などにも表面上は生真面目に礼儀正しく話しているものの、どうかした折りには気を引くようなただならないことを口にしたりします。でも、高貴な身分の女性たちは及びもつかない煩わしさがありますので、身を入れて言い寄ることはしないでいます。これに対して玉鬘は人柄もなつっこく当世風なので、自然と堪え難い恋心が湧いてしまい、時には人に目撃されてしまうと、怪しまれてしまいそうな振舞いも混じってしまいます。ヒカルは何とか思い返しつつ堪えていますが、何とも複雑な二人の間柄です。

 

 

2.兵部卿宮の玉鬘への消息、侍女たちの騎射大会見物花散里との一夜

 

 六月六日、夏の町の馬場殿に行くついでに、ヒカルは玉鬘を訪ねました。

「昨夜はいかがでしたか。卿は夜更けまでおられましたか。これからはあの方をあまり近づけないようにしましょう。あの人は厄介なところもあるからね。まあ、他人の機嫌を損ねたり、何か間違いをしでかさないような人はめったにいませんが」などと、褒めたり貶したりしながら、注意をするヒカルはいつまでも若々しく清らかに見えます。光沢も色彩もこぼれるばかりの衣服の上に薄物のプルポワン(上着)を無造作に重ねる組み合わせが清らかさを引き立てさせて、この世の人が染め織り出したものとは思えないほどです。色を変えない、いつもの綾目模様ではなく、今日は優雅に感じる袖の薫りなど、「あんな嫌なことがなかったなら、うっとりしてしまうほどのご様子だ」と玉鬘は感じています。

 

 すると、兵部卿から便りが届きました。白い薄様の紙に由緒ありげな筆跡で書かれていました。眺めているだけなら美しいのですが、文字に書いてしまうと格別なものでもありません。

(歌)今日でさえ引く人もいない 水中に隠れて生えている 菖蒲の根のように 相手にされない私は 

   音(ね)をたてて泣くだけなのでしょうか

 恋文は後々の事例にも引き出されるような、長い菖蒲の根に結び付けられていましたが、ヒカルは「今日のうちに返信をしなさい」と言って出て行きました。お側の誰も彼もが「やはり、ご返事を」と促しますし、本人もどうしたわけか書く気になったようです。

(返歌)水中の菖蒲の根を引き抜いてみると とても浅いことが分かりました わけもなく泣くとおっしゃる 

     貴方のお心も浅いことも

交信をしだしてから、まだ日も浅いのですから」とほのかに書かれていたようです。返信を受け取った兵部卿は風雅を好む人でしたから、「筆跡にもう少し趣があったなら」といささか物足りなく感じたようです。

 

 玉鬘の許には、邪気払いの薬玉など各方面から趣向を凝らした物が贈られて来ました。モンペリエでの思い沈んだ歳月は跡形もないようになって、心がくつろぐことも多くなりましたが、「同じことなら傷つくようなことなしに、ヒカル様との関係を丸くおさめていきたい」と思わないことがどうしてありましょうか。

 

 ヒカルは花散里の住まいにも立ち寄りました。

「今日、馬場で開催される騎射競技に向けて、息子の中将が男どもを引き連れてこの町に来ると言っているから、その積もりでいてください。まだ日が明るいうちにやって来るでしょう。どういうわけか、この城内での催し事を内々にしようとしても、王族の若い者たちが聞きつけて来ますので、自然と大事になってしまいますが、準備をしておいてください」と伝えました。

 馬場はこちらの回廊から見通せるほど、遠くない場所にありました。

「若い侍女たちは回廊の戸を開けて見物したらよい。左近衛庁には立派な下士官が多くいて、なまじっかの王宮人に劣らない者もいますからね」とヒカルが言うのを聞いて、侍女たちは競技の見物を楽しみにしました。

 

 西の対の玉鬘の所からも童女などが見物にやって来ました。回廊の戸口に青々としたスダレが掛け渡され、当世風の裾が濃い衝立が立て並べられる中、童女や下仕えなどがうろついています。ゆったりした菖蒲色の中着の上に、赤みがかった灰青色の濃い長裾のドレスを着た童女は西の対の者でしょう。童女は感じがよく物馴れがしている四人だけで、下仕えは夏向けの薄い裾をつけた濃い目のスカートと撫子の若葉色のベストが本日の装いでした。花散里の侍女たちは濃い肌着に撫子模様の裾長いドレスなどをおっとりと着て、各人、競い合って気取っているのが見所でしたが、早速、若い王宮人が目をつけて流し目を送っています。

 

 ヒカルは午後二時に馬場殿に姿を見せましたが、すでに王族の人たちが大勢集まっていました。騎射の組み合わせは公式なものと違って、官位四位の次官がこぞって参加していますので、王宮とは違った目新しさで繰り広げられました。

 女性たちには勝負の判別は分かりませんが、護衛役や雑役の下級役人ですら優美な衣裳を着て懸命に腕をふるいながら、馬上から矢を打ち合って争うのを面白そうに見ています。

 馬場は南の町までずっと続いていますので、南の町の回廊からも若い人たちが見物していました。騎射競技の合い間には、騎射にちなんだ舞曲や一人舞いの披露があり、勝負が決まった際は勝者側が太鼓や笛などで騒ぎたてました。

 すっかり夜に入り、何も見えなくなってから騎射競技が終りましたが、参加した近衛の下級役人たちには褒美の品々が賜れ、大層夜が更けてから、皆が引き上げて行きました。

 

 その夜、ヒカルは花散里の許に泊り、花散里とあれこれ話を交わしました。

「兵部卿は人より格段に秀でている。容姿は勝っているとは言えないが、心配りや態度などに高貴さがあるし愛嬌もある。ちらっとでも兵部卿をご覧になったことがありますか。立派な人物だと言うものの、まだまだ不充分な点もあるが」と語りますと、花散里が返答しました。

「弟さんのことですが、ヒカル様より老けているように見えました。ここ最近は何かの機会があると欠かさず、こちらに来られておられる、と聞いています。その昔、王宮あたりでちらっと拝見してから久しくなりますが、お年を召されて、以前よりご立派になられた気がしました。今、帥の宮になられている弟様も美男子と言われますが、気配は兵部卿よりも劣っていて、一段下の王族にしか見えません」。

「ちら見をしたくらいなのに、よく人を見抜いている」とヒカルは感心しながら、微笑んでいます。花散里は他の人物の批評を続けますが、ヒカルはもう良いとも悪いとも言わずにいます。他人のことに難癖をつけたり、悪し様に言う人を苦々しく思っているからでしょう。「世間にはヒゲ黒右大将を奥床しい人物と評価する者もいるが、どうであろうか。玉鬘の婿に迎えて間近で見ると、満足しないところも出て来るだろう」と思いながらも、言葉に出して花散里に言うことはありません。

 

  花散里とヒカルの仲は、今は普通の友人同士のようになっていて、別々のベットで就寝しましたが、「どうして、いつの頃から別々に寝るようになってしまったのだろう」とヒカルは物足りない気がしました。花散里は普段は何やかやと恨みがましいことは言いませんが、このような時節に合わせた遊園などはいつも人伝に見聞きするだけでした。それが今日は珍しく自分の町で催しが行われたので、「私の町にとって名誉なことだ」と思っているのでしょう。

(歌)菖蒲は馬も食べないと評判の草ですが 水際に生える菖蒲のような私を 今日は引き立ててくれたのでしょうか

と衝立越しにヒカルに詠みかけました。大した歌でもありませんが、ヒカルは花散里の実感が身にしみました。

 

(返歌)水鶏のかいつぶりのように いつも一緒にいる若駒の私が 菖蒲のような貴女といつ別れるというのだろう

とヒカルは返しましたが、雑な返歌になってしまったのが気になってしまったのか、「始終あなたと一緒にいるわけではないが、こうやって出逢うと心が安まるね」と冗談っぽく話しましたが、花散里は穏やかな性格でしたから、ついしんみりした話し方になってしまいます。

 衝立を隔てた場所に寝ている花散里は、もはや一緒に寝ることなど不似合いであるかのように思い諦めているようなので、ヒカルも強いて話を続けることもありません。

 

 

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