その21.乙女        (ヒカル 32歳~34歳)   

 

1.朝顔にヒカルが贈服、第五女宮が朝顔を説得

 

 年が改まると藤壺女院の喪で黒めの服を着ていた役人たちも平常の色に替え始めて、春の衣替えの時節になると、目新しく花やかな服を着るようになりました。まして五月の葵祭の頃になると、空一帯の気配も心地よくなってきますが、前斎院の朝顔は所在なさげに前庭を眺めています。若い侍女たちは、葵祭に飾るローリエ(月桂樹)の若葉が風にそよいでいるのを見るにつけても、斎院時代の日々をなつかしく思い出しています。

 

 そうした折りに、ヒカル大臣から「今年の葵祭りの前にラ・ロワール川で行われる清め式の日はさぞかししんみりお感じでしょう」と見舞いの手紙が届きました。

「今日はこんなことを思いました」。

(歌)あなたが斎院になられる際に ラ・ロワール川で清め日がありましたが 今日は喪服を脱ぐ清めの日になりましたね

 紫の紙に書いて、礼式にそって白い紙に包んで、喪服にちなんだ藤の花枝につけてありましたが、身にしむような折柄だったので、朝顔はすぐに返信を書きました。

(歌)父宮の死で喪服を着たのは つい昨日のことと思っていたのに ロワール川の淵が瀬に変わっていくように 

   移り変わって行く世の中です

人生ははかないものです」とだけ書かれていましたが、ヒカルはいつものようにじっくりと見ています。

 

 父宮の喪があけた後の衣服の着替え用にと、付き人の執事あてに仰々しいほどの贈り物を送ってきますが、朝顔は「見苦しいことだ」と感じるだけでした。「妙に意味ありげな手紙が添えられていたなら、お返ししよう」と執事も思うでしょうが、折々にヒカルが贈ってくる習わしになっている進物と非常に真面目な手紙でしたから、「返却するとしても、どういった口実を作ったらよいものか」と執事は困惑しています。

 

 ヒカルは第五女宮へも、こういう風に折りを見ては手紙を送りますので、女宮は非常に感心しています。

「昨日今日まで、ヒカル殿をまだまだ子供と思っていましたのに、こんなに大人になられて、お見舞いをして下さる。姿・形がとても清らかなのに加えて、お心持ちすら人より勝れてお育ちになりました」と褒めそやしますので、若い侍女たちは苦笑しています。

 朝顔と対面すると「あの大臣がこれほど熱心に求愛されているのに。何も今始まったお気持ちでもありませんのに。あなたの父宮もご自分の意向を実現できなかったことを嘆いておりましたよ、『ヒカル殿と結ばせたいと思い立っていたが、意地を張って逃げてしまった』などと言われながら、残念にされている折々がありました。それでも、正妻のアンジェの姫君が存命している限りは姉の大宮が気にしてしまうのが気の毒で、私としては無理に口添えすることはしませんでした。でも今は、そうしたれっきとして、どなたよりも大切にすべき人は亡くなられたのですから、『本当に求愛を受け入れても悪くはないでしょうに』と思われます。貴女が斎院になる前に戻られて、こうやって熱心に言い寄られるのも、『そうなるはずであったから』と存じます」などと大層古風な調子で話します。

 

 朝顔は「気にくわないことを」と感じているようです。「亡くなった父宮からもそんな強情者と思われつつやり過ごして来たのですから、今さら周りの人の意見になびいてしまうのも、不似合いなことになりますから」と答えて、聞く相手の方が気恥ずかしくなってしまいそうなほど、きっぱりとした態度ですので、女宮は強いてそれ以上は勧めることができません。朝顔に仕えている上下の身分の侍女が皆、ヒカルに心を寄せていますから、侍女たちが何をしでかすか不安にかられています。

 ヒカルの方は誠心誠意、自分の心情を示しているので、「相手の心の内がほぐれて行くのを持っていよう」と考え、「本人の意思に逆らってまで強引なことをしてしまおう」とまでは思っていないようです。

 

 

2.ムーランのブルボン公后の死

 

 ヒカルが朝顔に時節見舞いの手紙を送っていた頃、ムーランを首都とするブルボン公国のブルボン公后が三十歳の若さで他界した知らせを受けました。

「ブルボン公国は共同統治の形となっている夫君のシャルル・ブルボン公が単独統治者となっていくのだろうが、確かムーラン大公后は義理息子のブルボン公とそりが合わなかったようだが」と気になりました。

 ヒカルより一歳下のブルボン公は生後まもなく孤児となってしまい、叔父であるムーラン大公后の夫ムーラン公の庇護で養育されました。ムーラン公が亡くなった後、十五歳で大公后の十四歳になる娘と結婚し、ブルボン公国を夫妻が共同統治する形となりました。ブルボン公は十七歳の若さでフランス軍のジェノヴァ公国奪還で頭角を現わし、以後、イタリア戦争の前線で活躍し、フランス軍がミラノ公国を奪還した頃は元帥まで上り詰めました。ヒカルがブルターニュからロワールに戻り、貧窮生活を送っていた末摘花を再訪した頃が、ブルボン公の絶頂期でした。

 

 そのうちブルボン公は実力があるものの、傲慢な性格から内部に敵を作るようになっていき、アンジェの太政大臣一族とも反目するようになってしまいました。待望の跡取りが誕生したものの、生後間もなく死んでしまった後、夫婦仲も冷え込んでいき、あろうことかフランスの大敵となったカール五世との接触を強めている、という噂も流れるようになりました。

 ブルボン公后の死に呼応するかのように、カール五世が率いる神聖ローマ帝国軍がフランス北部で国境を接するブイヨン(Bouillon)公国に侵入した急報がありました。

「ひょっとしたらブルボン公がフランス国内の情勢を帝国側に流している可能性もあるな。カール五世の背後にいるネーデルランドの白菊総督と何としてでも交信ができるようにしなければ」と考えているうちに、今度はピレネー山中のナヴァル(Navarre)王国が九年前にスペイン軍に奪われた領土奪還でスペイン王国に攻め入った、との急報が入りました。

 イタリア戦争が終結してから五年間続いた平和はフランス北部と南西部の辺境からきな臭くなって来ましたので、朝顔への思いに情熱をかたむけるどころではなくなってしまいました。

 

 

3.夕霧の元服と智育論、及び字付けの式

 

 アンジェ城に預けている若君が十歳になるので、成人式を急ぐことにしました。「式はシュノンソーで行おう」と思いましたが、幼い頃から面倒を見てくれている義母の大宮が立会いを切に望んでいるのももっともなので、シュノンソーでの実施は心苦しく、アンジェ城で行うことにしました。

 右大将アントワンを筆頭に若君の叔父たちは皆、高官になっていて、冷泉王の覚えもめでたい方々でしたが、主人側の一員として我も我もと競い合って、しかるべき事をそれぞれ勤めます。世間でも評判になって、盛大な催事になりました。

 ヒカルは「高貴な者の息子として官位四位から始めさせよう」とも考えましたが、「世間の人もそうなるだろう、と見なしてくれるだろうが、まだ十歳と若いし、自分の思いのままになる世の中だからと言って、四位から始めさせるのは何としても月並み過ぎる」と思い直して取り止めました。

 

 成人式の後、官位六位の者が着る薄藍色のプルポワン(上着)を着て王城に戻って行きましたので、大宮は「満足できません。あんまりです」と悲しむのも理に適っていて気の毒でした。

 ヒカルは大宮と対面して事情を説明しました。

「まだ十歳ですし、今のうちから大人の道へ進めてしまっても。思うところがありまして、まず官吏養成校に入れて、学問を修得させようと考えています。これから二、三年はまだ成人式をあげていないと見なすことにしています。いずれ公務につくような年齢になりましたら、自然と出世していくことでしょう。自分自身は学校に入って正式な学問を受けないまま、王宮内で成長しましたので、世間の様相など知るすべもなく、夜昼、王様に伺候しているだけでした。このため、正式な学問は少しばかり、ちょっとした文章を習ったにすぎません。

 ただ桐壺王から学んだでけですから、何事も広範囲に学ぶことはありませんでした。学問にせよ、ハープや横笛といった音楽にせよ、力不足で未熟な点が多々あります。頼りない親に賢い子が勝る、といった例は、中々難しいことです。まして子孫代々の時代となって私との隔たりが大きくなって行くと、どうなって行くことか、と不安になりますので、そう判断した次第です。高貴な家柄の子として、官位も叙爵も思いのままになり、栄華に慢心するようになってしまうと、学問などで身を苦しめることなどはほど遠いことと思ってしまうでしょう。そのあげくに戯れの遊びばかりを好むようになり、思い通りに官位を上げていくと、時流になびく世間の人は腹の底では冷笑しながら、いたずらに追従してご機嫌を伺いながら従っているだけなのに、自然と一角の人物と勘違いして、偉そうに振舞ってしまいます。ところが時節が過ぎて、父親など頼むべき人たちに先立たれて落ち目になって行くと、世間の人から軽んじられ侮られて、身の拠り所がなくなってしまいます。

 やはり学才を基礎として良識を身につけていると、官僚や政治家としても重く用いられるようになりましょう。差しあたってはじれったい思いをするでしょうが、将来の重責を担う心構えを学んでいますなら、私が亡くなった後も、先行きを安心できます。目下のところは、とやかく言われることもなく私の庇護下におりますから、貧乏書生と笑われ馬鹿にされることもないでしょう」などと説明していきます。

 

 それでも大宮は「それはもっともなことと存知ますが」となおも嘆き続けます。「アントワンなども『あまりに型破りなやりようだ』と首をかしげております。若君自身も幼な心地なりに悔しく、『叔父の右大将や左近衛府四位の息子など、自分より目下と見下していたのに、皆それぞれ官位を上げていく。自分だけが官位六位の服を着るのは『とても辛い』と思っているようなのが心苦しく存じます」といった話を聞いて、ヒカルは一笑に付します。

「ひどく大人ぶって不平を言っていますね。まだまだ他愛ない分際の子供ですよ」と言いながら、むしろ自分の息子が「まだまだ可愛い」と感じます。「学問などを通じて、少しは物心の道理が分かってくれるなら、そうした恨みは自然と解けていきますよ」と答えたりします。

 

 

4.若君の官吏養成校入学準備と入試

 

 トゥール(Tours)の官吏養成校に入学するにあたって、ラテン式の苗字を命名する儀式は、シセイ城の東の対をしつらえて行いました。儀式を教授宅でなく自邸で行うのは珍しいので、一見してみたいと思ったのか、我も我もとシセイ城に集まって来ましたので、パリ大学閥に属する教授連はさすがに気後れがしてしまいます。

 折りからローマ教皇と歩調を合わせるようにパリ大学神学部が「ルターの九十五か条」を否定する声明を出した頃でした。これに対する教会刷新派はパリ東部モー(Meaux)のブリソネ司教の招きでデタプル大先生も移リ住んできて、モー派集団が産声を上げていました。シセイ城にはモー派に同調する若い学生も押しかけて来て、会場に入りきれないほどになりました。

 

「時勢や聴衆に遠慮しないで、手加減せずに慣例どおりに厳格に行え」とヒカルが指示しましたので、貧乏教授たちは強いて平然を装い、借り衣裳の寸法が合わずに体裁が悪い姿でも恥じらいを見せず、顔つきや声づかいをしかつめらしくして座席に居並ぶのを始めとして、見馴れない光景となりました。リベラルなモー派の影響が強い若い学生はその様子を見ると堪えきれずにニヤニヤしてしまいます。

 教授陣は物笑いがされないようにと、落ち着いた者を選んで赤ワイン入りデカンタを持って主賓たちにお酌をしていきます。勝手が違うパリ大学流の作法に戸惑いつつ右大将アントワンや民部卿などがおずおずと杯を差し出しますが、教授たちの中ですでに酔っている者がそれを見て、「作法を知りませんな」と咎めて、こきおろしたりします。

「何と何と、相伴にあづかる方々ははなはだ非礼である。礼法の師範である私どもを知らずに王朝に仕えることができましょうか。はなはだ笑止千万ですな」と高飛車に言いますが、「パリ大学神学部特有の『はなはだ』がまた出た」と居合わせた人々は皆、噴出してしまいます。すると「騒々しい。静かになされ。はなはだ礼式に欠けている。退席なさい」と威嚇するのもおかしな光景です。

 パリ大学流の作法を見馴れない人たちは「珍しいし、興味がそそられる」と思っていますが、パリ大学出身の高官などはしたり顔で微笑しながら、「ヒカル大臣がパリ大学の教育を好まれて、若君をこの道に入れた志は何とめでたいことか」とこの上もなく感じ入っています。

 

 調子に乗った教授陣は聴衆がちょっとでも口をきくとすぐに制止して、「非礼である」と咎めます。やかましく聴衆をののしる教授陣は、夜に入ってひときわ鮮やかな灯影に照らされるようになると、道化じみていたり、貧相そうだったり、体裁が悪そうだったりと、様々に見えるので、ありふれた光景とは様子が違ったものになりました。

「礼法も知らず、教養もない私がこんな喧騒に巻き込まれてしまったら」とヒカルは敬遠して、奥の内カーテンの中に隠れて様子を見ています。席数に限りがある式場に入りきれずに帰ろうとする学生たちがいるのを聞いて、ヒカルは学生たちをシェール川を見晴らす高殿に呼び集めて引出物を授けます。

 

 儀式が終った後、退出する教授や才豊かな人たちを留めて、詩会を催します。高官や王宮人も詩文の心得がある者は、皆引き止めて同席させます。ラテン語に通じた教授たちはラテン語で八行詩、普通の人はヒカル大臣を始めとしてフランス語で四行詩を作詩することにしました。文章博士が興趣が深い題を選択します。 

 夜が短い時節でしたから、披露会は夜がすっかり明けてからとなりました。文部官五位の者が講師役を担当します。風采は大層清らかで、声づかいも重々しく、神さびた口調で詩を詠みあげていくのが興味深い。声望が高い学者でした。「高貴な家柄の生まれで世の中の栄華に耽溺できる身でありながら、謹厳実直な志で学問に励む」といった勝れた主旨を色々な故事をたとえに引いて、思い思いに作り集めた詩がそれぞれ面白く、「ローマへ持って行って伝えたいような傑作だ」と当時の世間の評判となりました。

 ヒカル大臣作の詩は言うまでもありません。父親としての情愛がよく籠もっている、と皆感涙して、ヒカルの詩を誦してもてはやしましたが、「女の身でよく知らないことを並べ立てるのは生意気だ」と批判されてしまう恐れもありますから、詳しくは書きません。

 

 苗字命名式に続いて、学問始めの式をさせた後、シセイ城に勉強部屋を設けました。ヒカルがジュアール滞在中に知り合った学者で、パリ大学閥にもモー派にも属さない、真面目で学識が深いガブリエルを呼び寄せて、勉学をさせました。大宮がいるアンジェにはめったに行かせません。

「大宮は夜も昼も溺愛して、いつまでも子供のように扱ってしまうから、あちらにいたら勉学に集中できないだろう」と、シセイ城の静かな場所に閉じ込めて、アンジェ行きは月に一度ほどしか許しません。

 

 若君はじっと部屋に閉じこもる鬱陶しさに、「これほど辛いとは。こんな苦しいことをしなくとも、高い官位に上がり、世の中で重用される人もいないわけでもないだろうに」と父親を恨むこともあります。それでも元来が誠実で、浮ついた所がない人柄でしたから、じっと辛抱します。

「何とか必要な書物を早く読み終えて、人並みに社会に出て立身出世をしよう」と腹をくくって、たった四、五か月のうちに「フランス王朝史」の入門篇などは読み上げてしまいました。

 

「ここまで来たなら、もう入学試験を受けさせよう」とヒカルは自分の面前で模擬試験をさせることにしました。例のアントワン、太政官四位、儀礼官五位、文部官五位の者たちが立ち会い、専任教師となったガブリエルを召し出して、「フランス王朝史」の難しい巻々のうち、入学試験の際に試験官が出題しそうな箇所を引き出して、一通り読ませてみました。分からない箇所もなく幾通りの学説を心得ています。ガブリエルが注意すべき点に印をつける必要がないほどの、驚くばかりの出来ぶりでしたので、「元々から才分があるのだろう」誰も誰もが感涙しました。ましてアントワンは「亡くなった父大臣が存命していたなら」と言いながら涙を浮かべています。

 ヒカルも冷静ではいられません。「世間の親が自分の子供を溺愛してしまうのは見苦しいことと思っていたが、子供が大人になっていくにつれて、親の方が代わって惚けていく、という。私はまだそれほどの歳でもないが、やはりそうなってしまいますね」と話しながら、涙を押し拭いているのを見て、ガブリエルは「嬉しいことだ。面目に存じる」と安堵しています。アントワンから盃を頂戴して、ひどく酔いしれているガブリエルの顔つきは非常に痩せこけています。世間からは偏屈者と見られ、才能の割には重用されず、支援者もいずに貧窮生活をしていましたが、ヒカルは何か感じるものがあって、ジュアールから呼び寄せました。ヒカルから身に余るまでの恩顧を頂戴して、「この若君のお蔭で、急に生まれ変わったような幸福を得た」と喜んでいますが、ましてこれから先は並ぶ者がいないほどの恩寵を受けていくことでしょう。

 

 養成校で試験を受ける日には、校門の前に高官の馬車が数知れず集まっていました。高官の中で試験に立ち会わない者は一人もいないようにも見えましたが、まタとないほどの介添え人にかしづかれながら入場してくる若君の様子は、本当にこうした学生たちの中に一緒くたにされてしまうのが不似合いで美しい。居丈高に構える教授連が居並ぶ末席に着席するのが辛そうに感じているようなのも、もっともなことです。この場でも叱りつけたり、ののしったりする者などがいて、目に余るほどですが、若君は臆することなく、課題にされた文書を読み終えました。

 

 往時を思い起こさせるように学校教育が隆盛となっている頃ですから、上中下の階級を問わず、我も我もと学問を志し集まって来ますので、いよいよ才人や見識者が多く輩出する世の中になっています。

 若君は入学試験を始めとして、どんな試験も滞ることなく合格していきますので、専任教師も生徒もひたすら身を入れて、一層励んでいきます。ヒカルの邸でも頻繁に詩文会が催され、学者や才人たちが優遇されています。総じて、何事につけてもそれぞれの道で才能がある者が出現していく時代になっています。

 

 

 

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