その40.御法       ヒカル 満50

 

1.紫上の病悩。修道女願望とヒカルの不承知

 

 紫上は四年前に大病を患って以来、すっかり衰弱がひどくなって、どこそこが悪いというのでもないままに、始終患っていました。そう大した容体ではないものの、年月が重なっていくうちに頼りなげに、ますます弱々しさが増していくので、ヒカルの心配に限りがありません。

 ヒカルは少しの間でも、自分が後に残されてしまうのは情けないことだと感じていましたが、紫上本人の気持ちは「この世に名残惜しいことはないし、気掛かりな足かせとなる子供もいない身だから、強いてこの世に生き残っていたい命」とは思っていません。「ヒカル様との長年の約束から離れて、私が先立ってしまったなら、どんなに悲嘆されることだろう」といったことばかりを、人知れぬ胸の内でしみじみと思っていました。

 

「來世のために」と紫上は功徳になることを多くさせながら、「やはり何とかして修道女となる本願を遂げて、暫くの間でも生き永らえている間は勤行に励みたい」と始終ヒカルに願い出るのですが、どうしてもヒカルが許すことはありません。というのはヒカル自身も内心では修道の道に入ることに関心を寄せているので、「紫夫人がこれほど一途に望んでいるのに合わせて、自分も同じ修道の道に入ってしまおうか」と思ったりもしているからです。「一度修道の道に入ったなら、仮にもこの世のことを顧みることはしたくない」との決意をしてもいました。

「来世に行ったなら、同じ百合の座を分かち合おう」と約束して、お互いを頼りにしてきた夫婦仲でしたが、現世で修道の道に入ってしまうと、同じ奥山であっても峰を隔ててお互いに顔を合わせることができない住まいに、かけ離れて住むようになってしまうことが気掛かりでした。

 

 こうやって、とても頼りなさげに苦しそうに患っている様子を見ていると、「今こそ」と現世を離れて行こうとしても、紫上を捨て切ることは難しく、「せっかくの清らかな山水の住まいも濁ってしまう」と思いとどまってしまうので、ほんの浅い考えで、ただ思い込んだままに修道の道に入る人々から随分と遅れてしまうことになりそうです。

 紫上はヒカルの許しがないまま、自分の一存で修道の道に入ってしまうのは体裁が悪いし、不本意なようでもあるので、結局のところはヒカルを恨めしく思うだけでした。「自分の身は罪が軽くはないせいなのだろうか」と気に病んでもいました。

 

 

2.シュノンソー城の福音書八講と、紫上の死の予感

 

 紫上は長年自身の願果たしのために、筆写させていた福音書千部を急いで供養することにして、自分の城と考えているシュノンソー城で供養の催しを行いました。七種類の祭服など、それぞれの位に応じて品々を賜りました。祭服の色合いや仕立て方を始めとして、華美なことに限りがありません。総じてどのようなことに対しても非常に厳粛に実行しました。

 仰々しくした様子をヒカルには話さず、詳しいことも知らせなかったのですが、女性の心構えとしての思慮深さがあり、キリストの道にまで通じている紫上の心持を「この上もないことだ」とヒカルは感心しながら、ただ大体の飾りつけや何やかやとしたことだけは面倒をみました。

 

 楽人や舞人などのことは夕霧が特別に手配しました。安梨王、王太子、秋好妃やサン・ブリュー王妃たちを始め、ヴィランドリー城の婦人方やあちらこちらから祈祷の寄進や捧げ物の寄贈があって、それだけでも大層な催しとなりました。その上、その頃にはこうした急ぎの準備の用を務めない者はいないほどになっていたので、色々と物々しい催しとなりました。紫上はいつの間にこうした数々の仕度をしたのでしょうか。随分と早くから準備をした願果たしのように見えました。

 

ヴィランドリー城の花散里やサン・ブリュー上などもやって来ました。紫上は南東の戸を開けて自分の席にしましたが、本殿の西の物置部屋でした。北側の控えの間を衝立だけで仕切って花散里とサン・ブリュー上の席を設けていました。三月二十九日の花の盛りの始め頃なので、空の景色などもうららかで風情があり、キリストがおられる天国の有様に遠くもない感じがして、格別信仰心が深くもない人ですら、罪が消滅する気持ちがすることでしょう。

(歌)どうやって聖典を獲得したのだろう 薪を背負い 菜を摘み 水を汲んで 得たものだ と唱和する僧たちの行道の歌が辺りを響き揺るがす厳粛さがぴたりと止んで、式場が静まり返るのは物哀れさを助長させますが、それ以上に紫上はこのところ何事につけても心細さを募らせていました。

 

 紫上は第三王子を使いにしてサン・ブリュー上に歌を伝えました。

(歌)いまさら惜しくもない我が身ですが これを最後に 薪が尽きてしまうのを思うと 

   悲しくなります

 サン・ブリュー上は紫上の心細さに共鳴したような返歌を詠んでしまうと、後で人に知られて、機転が利かないように思われやしないかと感じたのか、当たり障りがないものでした。

(返歌)貴女の行道への思いは 今日がその始まりで この世で願う法の道は 

    遠くいつまでも続くことでしょう

 

 夜通し、尊い祈祷に合わせて絶えず打ち鳴らされる小太鼓の音に趣があります。ほのぼのと明けて行く朝焼けの霞の間から見える花の色々が、紫上が好む春に心がとまるように匂い渡り、小鳥たちのさえずりも笛の音に負けない感じがして、物事の哀しみも面白さも極まります。仮面をつけた勇壮な舞「勝利を呼ぶ王」の調べが終りに近づいて、急調に変わるあたりの演奏が花やかに賑やかに聞こえる中、主だった参会者の皆が被け物として脱ぐ衣服の色合いが、時が時だけに風雅に見えます。王族たちや高官の中で芸に堪能な人たちは、技を惜しまずに披露しました。

 身分の上下に関わらず、心地よさげに興じいっている光景を見ながら、「そう長くは生きられない」と内心に感じている紫上は、あらゆることが悲しく感じました。例外的に昨日からずっと起きていたせいか、疲れでとても苦しくなって横に臥しました。

 

「長年、こうした催しの度ごとに寄り集まって音楽を奏でる人たちの顔や姿、それぞれの人の才芸、ハープや笛の音色も今日が見納めになるのだろう」といったばかりのことが思い浮かぶので、紫上はこれまでさほど眼に止まりもしなかった人たちの顔をしみじみと見渡しました。まして四季折々のヴィランドリー城での遊び事でも、何となく内心では競争心を抱きながらも、いつの間にか立ち交わるようになって、お互いに情を交し合うようになっている花散里やサン・ブリュー上も、どちらも長く存命することはないものの、まず一番先に自分独りが消えて行ってしまうのか、と思い続けると、言いようもなく悲しくなりました。

 

 二人の婦人が各自、帰ろうとしていますが、「これが永遠の別れになるのでは」と惜しみつつ、花散里に向けて歌を詠みました。

(歌)これは私がこの世で営む最後の祭儀でしたが 長い間 貴女と結んだご縁を 

   頼もしく感じています

(返歌)残り少ない命となっても 催すことができない祭儀を 立派になさいました 

    貴女様とのご縁は 絶えることはありません

 

 紫上は引き続き、不断の読経、罪を懺悔する祭事など、尊い数々を怠りなくさせました。祈祷も常にさせていましたが、これといった効験も見えずに月日が経っていきますので、引き続きしかるべきあちこちの教会で祈祷をさせました。

 

 

3.紫上の衰弱と遺言

 

 夏に入ると、紫上は例年の暑さでさえ、息が絶えそうになる時が多くなりました。どこといって取り立てた病因ははっきりしませんが、ただ段々と衰弱していき、堪え難い面倒な苦しみはありません。「どうなることでしょう」と仕える侍女たちも心配しながら、何はさておき悲しみにくれています。「改めて悲しい様子になられている」と見ています。

 そんな状態を知って、サン・ブリュー王妃はシュノンソー城に退出して、しばらく東の対に滞在することにしました。紫上は西の対の病室で王妃を待ちかねていました。王妃を迎える儀式などはいつもと変わりはありませんが、「自分が育てた王妃の行く末を見届けることが出来なくなる」と考えると、何かにつけて物悲しくなります。お供をして来た役人たちが自己紹介をする際は、あの人かこの人かと耳にとめて聞いていましたが、とても多くの高官が王妃に仕えていました。王妃との対面はしばらく途切れていたので、ひさびさの出逢いとなったことから二人は細々と語り合いました。

 

 するとヒカルが入って来ました。「王妃がこちらに来られたので、今夜は鳥が自分の巣を追われてしまうような気持ちがして、居心地が悪い。東の対に出向いて寝ることにする」と言って立ち去りましたが、紫上が起き上がっているのが「とても嬉しい」と感じているようです。しかしそれはちょっとした気休めでしかありません。

「こちらの西の対から私が滞在する東の対に来ていただくことは恐れ多いことですし、そうかと言って私の方からこちらに伺うのは、今の立場上、出来づらくなっています」と王妃は言いながら、しばらくの間、西の対に留まっていると、実母のサン・ブリュー上がやって来て、思いやりが深いしんみりした話の数々を交わしました。紫上は心中ではあれこれ考えていることは多くあるものの、しっかりした口調で死後のことを遺言のように口に出すことはしないでいました。ただ、すべての世の中の無常な有様をおっとりと言葉少なに、それでいて取るに足らないものでもないことを話す気配は、かえってあれこれと口に出して話すよりも哀れで、死期に近い心細い気配がはっきりと見えました。

 

 紫上は孫の王妃の子供たちを見やって、「あなた方の行く末を見ていてみたいと願っていたのは、その気持ちの中にこのようにはかなくなっていく身を惜しむ気持ちが混じっていたからでしょうか」と涙ぐんでいる顔の雰囲気はたとえようもなく美しいものでしたが、王妃は「どうしてそんな風にばかり思い詰めるのだろう」と感じて、思わず泣いてしまいました。不吉らしくは聞こえないように、紫上は何かのついでがあると、「長年仕えて親しんできた侍女たちの中で、特に身を寄せる所がなく気の毒なこの人、あの人は、私が亡くなった後も留意して眼をかけてやって下さい」などとだけ王妃に話しました。

 

 聖書を読誦する秋の祭儀の準備が始まる日になってから、サン・ブリュー王妃は東の対へ移りました。幾人もの王子・王女たちの中で、満四歳の第三王子はとても可愛らしげに近くで遊び歩いていますが、少し気分が良い時には紫上は第三王子を呼んで、侍女たちが聞いていない間に話しかけました。

「私がいなくなっても思い出してくれますか」と尋ねると、「きっと恋しくなりましょう。王城の王さまよりも王妃よりも、お祖母が一番好きなのです。いなくなってしまったら、機嫌が悪くなってしまう」と言いながら、目をこすりながら涙をごまかしている様子がいじらしいので、紫上は微笑みながらも涙をこぼしました。

「あなたが大人になったら、このシュノンソー城に住んで、この西の対の前庭の紅梅と桜が花を咲かせる季節には、心を留めて鑑賞してください。それに加えて、しかるべき折々にはキリスト様にお祈りもしてね」と話すと、第三王子は頷きながら紫上の顔をじっと見つめていましたが、涙が落ちそうになったのか、立ち去って行きました。

 紫上は孫たちの中でも、第三王子と第一王女を自分の手で養育したことから、この二人の行く末を見とめることが出来ないことが残念に悲しく思っていました。

 

 

4.紫上の終焉

 

 ようやく秋の季節になって陽気も少しは涼しくなってからは、紫上の気分も少しは爽やかになったようですが、それでもどうかすると容体が悪化することがありました。まだまだ(歌)吹き寄ってくると 身に染みてしまう秋風は 風情がないものだと思ってしまう といったような秋風ではないものの、紫上は涙で湿りがちな気分で過ごしていました。

 サン・ブリュー王妃は王宮に戻らざるをえなくなっていました。「もうしばらく滞在されていたら」と引き止めたい思いもありますが、それもさしでがましいようでもあり、王宮からの催促の使いが頻繁に来るのも煩わしいので、そうと言うことも出来ません。病の身ですから、紫上が東の対に行くことが出来ないので、王妃が西の対に別れの挨拶に来ました。

「王妃に対して恐れ多いことだ」と思いながらも、「会わずにいるのは生き永らえている張り合いもないから」と特別な座席を設けて王妃を迎えました。紫上はすっかり痩せ細っていましたが、「かえって上品な優雅さが限りなく勝っていて、結構なことだ」とサン・ブリュー王妃は「以前はあまりに色香が多すぎていて、女盛りの頃はいかにもこの世の花の薫りにたとえられていたのだが、今は限りなく可憐で愛らしい様子で、この世は仮初の命に過ぎないと諦観されている気配は、他に似るものもなくおいたわしいことだ」と何ということもなく物悲しくなりました。

 

 風が荒々しく吹き出した夕暮に、紫上は前庭を眺めようとソファにもたれていると、ヒカルがやって来ました。

「今日は具合がよくなって、起きているね。王妃が側にいると、さぞ気分も晴れ晴れとするのだろうね」とヒカルが話しかけました。

 自分の加減がちょっとでも良いと、とても嬉しいと喜んでくれるヒカルの表情を見るにつけ、紫上は心苦しくなって、「いよいよこれが最期という時になったら、どんなに思い乱れることだろう」と思うと悲しくなりました。

(歌)風に乱れる萩の葉に置かれた露のように ともするとはかなく散ってしまう命です

と紫上が詠みましたが、なるほど秋風にもてあそばれて、零れ落ちそうになっている花の露に自分をたとえた気配が堪え難く、ヒカルが返歌を詠みました。

(返歌)ややもすると 先を争って消えていく 露のような世の中で 

    遅れようとも先立ったりしても 一緒に消えていきたいものだ

とヒカルは涙を振り払うことが出来ません。

 すると王妃が詠みました。

(歌)秋風に吹かれると しばしも留まることもできない露の運命を 

   誰が草の葉の上の話だけだと思うでしょうか

 美貌の二人がうち揃っている姿は望ましい光景で見甲斐があるので、ヒカルは「この姿のままで千年を過ごす手立てはないものか」と思うものの、思い通りには行かず、この世に引き留めておく方法もないのは悲しいことでした。

 

「もう王宮に戻られなさい。気分が悩ましく苦しくなって来ました。こんなに弱ってしまったと言うのもひどく失礼なことになりますから」と紫上は内カーテンを引き寄せて横になりました。

 その様子がいつもよりひどく頼りなげに見えたので、王妃は「どうされました」と紫上の手を取って、泣きながら様子を見ていると、本当に露が消えて行くように、今が最期のように見えました。祈祷を依頼する使いが、数えきれないほどの教会に差し向けられ、城内は大騒ぎとなりました。

 以前にも、こうした状態になってから蘇生した折りがあったので、「今度も物の怪の仕業か」と疑って、夜通し様々な手立てを尽くしましたが、その甲斐もなく夜が明けきる頃に息を引き取りました。王妃は城を去らないうちに、こうして臨終に立ち会えたことをこの上もないことに思いました。誰も誰もが「必然のお別れで、世間にも類例があることだし」と思うことはできず、こんな不幸はめったにはなく、夜が明けきる前の暗がりに見る夢に惑わされている思いがしてなりません。しっかり気丈でいられる人などいません。仕える侍女たちも居合わせた者すべてが分別を失っています。

 

 ましてヒカルは心を静めることも出来ないでいます。夕霧元帥が近くに寄って来たので、内カーテンの側に呼び寄せました。

「見ての通り、今はもう最後の様相になってしまった。長く希望していた修道女になる本意があったのに、このような際にその願いを叶えてあげなかったことが至極可哀想だ。祈祷を勤める高徳の僧たちや聖書を読む僧たちも皆、声を止めて退出してしまったが、それでもまだ残っている者もいるだろう。この現世では何の役にも立たないであろうが、今はせめて暗い道を進む弔いとして、キリストに手引きをお願いするしかない。髪を切って修道女となるように、指示を出してくれ。しかるべき僧の中で誰が残っているだろうか」などと話すヒカルの様子は、何とか気を強くしているようですが、顔の色もいつもと変わって、とても堪えられないように涙が止まらずにいるので、夕霧は「無理もないことだ」と悲しく見やっていました。

「物の怪などが父上たちを困らせようとして、一時的に気を失わせてしまうこともありえましょう。そういうことなら、いずれにせよ、修道女となる念願を遂げさせるのは結構なことです。一日一夜でも修道の道に入った証しは無駄なことではありませんから。とは言っても、本当に息絶えておられたなら、死後に髪だけを修道女の姿に変えたところで、あの世に行く格別な光りにはなりませんし、逆に目の前の悲しみが増して行くだけのことになってしまいますから、いかがなものでしょうか」と夕霧は答えながらも、忌中の間はここに籠る志を持って待機している僧たちの中から人選して、しかるべきことを命じました。

 

「長い間、何やかやといった分不相応な考えを抱くことはなかったものの、『あのミストラルの嵐の朝に垣間見た面影を、どんな時に拝見できるであろうか。声ですら、かすかにでも聞くことはなかったが』などと、忘れることもなく思いを馳せていたのだが。とうとう本人の声を聞かせてもらうことはなかった。せめて空しくなった遺骸だけでも、もう一度見てみたいという望みを叶えられる機会は今より外にはないだろう」と思うと隠すことも出来ずに、つい涙を流しました。側にいる限りの侍女たちが引き続き騒ぎ惑っているのを「まあまあ、静かになさい」と制する顔をしながら、ヒカルが何かを話している隙に紛れて、内カーテンの垂れ布を引き上げてみました。

 

 ほのぼのと明けて行く光りではぼんやりとしたままなので、ヒカルは灯火を近くに寄せて遺骸を見守っています。飽きることなく美しく素晴らしく清らかに見える紫上の顔が残り惜しく、夕霧が覗き込んでいるのに気づきながらも、強いて隠そうとする気持ちも起こらないようでした。

「こうした具合にまだ何ら変わっていないように見えるものの、もう生きてはいない様子がはっきりとしている」と言って、ヒカルは袖に顔を押し当てています。夕霧も涙にくれて、眼も見えなくなってしまいましたが、無理に眼を開いて遺骸を拝みました。しかしかえってたとえようもない悲しみが増して行って、他に較べようがないほどに心が掻き乱れてしまいました。

 修道女の姿に切られることもなかった髪は、そのままにしておかれて、ふさふさと清らかで、少しももつれたところもなく、つやつやと美しい様子に限りがありません。明るい灯火に浮かび上がる顔色は大層白く光っているようで、何かと身繕いをして紛らわせようとする生前の姿よりも、何の気兼ねもなく無心に横たわっている有様は、「非の打ち所もない」と言うのはことさらめいています。夕霧は並一通りの美しさどころか、類もない遺骸を見つめていると、「死の世界に入り込んで行く自分の魂が、可能なことなら紫上の死体に留まっていたいものだ」と思ってしまうのも、仕方がないことでした。

 紫上に仕え馴れた侍女たちは、まだ正常に戻ってもいないので、自分自身も何も分からなくなってしまった悲しい気持ちを無理に静めて、ヒカルは葬送の準備の指図をしました。昔から死に直面して悲しいと感じたことは多く経験した身ではありましたが、ここまで身をもって葬送の世話をするのは未経験のことなので、すべて過去にも未来にも類がないような気がしました。

 

 

5.紫上の葬送と弔問

 

 いずれにしても葬送は死の翌朝に執り行われました。何事も限りがありますから、(歌)魂が抜けた亡骸を何度も拝見して 我が心を慰めている どうか魂が天に昇って欲し といったようにも行きません。人生の悲しい決まりでした。

 シュノンソーの北の丘陵にある墓地には、隙間もないほどの人が集まり、この上もなく厳かな葬儀が行われましたが、あっけなく土中の人となって、魂が空に立ち昇って行くのは、通常のこととは言え、どうしようもなく悲しいことでした。

 地に足がついていない感じで、人に支えられて墓地にやって来たヒカルの姿を見ている人は、「あれほど威厳のある身分のお方が」と、物の心を知らない身分が低い者ですら、泣かない者はおりません。まして遺骸に付き添ってきた侍女たちは夢路に迷い込んだ気がして、馬車から転び落ちてしまいそうになっているので、従者の男たちは手を焼いていました。

 

 ヒカルは昔、夕霧の母の葵君が亡くなった時の明け方を思い出しました。その時は今よりもしっかりしていたのか、月の顔がはっきりと見えた記憶がありましたが、この日はただ途方に暮れて涙で目の前が暗くなるだけでした。その月の十四日に亡くなり、葬送は翌日十五日の夜明けのことでした。

 帰路は陽がとても花やかに射し上がり、野辺の露もすみずみまできらめいている道中、馬車の中のヒカルはひとしお人生が厭わしく悲しくなって、「生き残った命も幾年のことだろうか。こうした悲しみに乗じて、以前から抱いている修道の道に入る本意を遂げようか」と考えるものの、「夫人の死で気が弱くなったからだ」と後々の人から批判されてしまうのを思い浮かべて、「もうしばらくしてから」と思い直しますが、胸がこみ上がってくるものは我慢できないほどでした。

 

 忌中の間は夕霧もシュノンソー城に籠ることにして、ほんの少しでも出掛けることもなく、終始、父の近くにいて、ヒカルの心苦しくいたわしい様子をもっともなことと悲しく感じつつ、色々と慰めの言葉を尽くしました。

 風が嵐めいて吹く夕暮に、夕霧は紫上を垣間見た昔のことを思い出して、「かすかにだけは姿を拝むことが出来た」と恋しく覚えながら、「あの臨終の際は夢見心地だったな」と人知れず思い続けていると、堪え難いほど悲しくなって、人目には大して見えないようにしながら、「天にまします我らの父よ」と繰る数珠の数に紛らわせて、涙の玉を隠していました。

(歌)あの嵐が吹く秋の夕暮れに ちらっと見た姿が恋しく 臨終の明け方の薄暗がりで 

   お顔を拝見したのが 夢のような気がする

 

 ヒカルは尊ぶべき僧たちを集めて、死後五十日間の定められた祈りは言うまでもなく、聖書の福音四書などを読誦させましたが、あれやこれやと実に悲しい光景でした。寝ても覚めても涙が乾く時はなく、眼に霧がかかったような心持ですごしました。

 若い頃からの自分自身のことを思い続けていると、「鏡に映る自分の姿を始めとして、普通の人とは異なる恵まれた身ではあるが、幼い頃から母や祖母に先立たれ、人生の無常を思い知らせるかのようにキリストなどが手引きをしてくれたのに、傲慢にもそれを見過ごしてしまい、結局のところ、過去にも未来にも例がないように感じる悲しみに遭ってしまった。紫上を亡くした今はこの世に後ろめたいことは残っていない。一途に修業の道に赴いていくのに何の支障もありはしない。となると、こんなにも静めようもない心惑いを続けていると、願っている道にも入り辛くなってしまう」と気が咎めるので、「こうした心持を少しは和らげて下さい」と天の父に念じました。

 

 王宮を始めとして、あちらこちらから通常の格式張った弔問ばかりでなく、頻繁に見舞いの使いがありました。修道の道に入る決意をした今では、もう何事も耳には止まらず、気にかかってしまうことなどありはしないのですが、「夫人の死で呆けてしまったように、人から見られないようにしなければいけない。今さら晩年になってから、見苦しいことにも気が弱くなってしまったから、現世から背いたのだ、と後々の語り草にならないように」と思うばかりに、望み通りに身をまかすことができない歎きが悲しみに添いました。

 名誉太政大臣アントワンは人の不幸を傍観してはいられない性格でしたから、あれだけ世に類のない存在だった紫上がはかなく亡くなってしまったことをいたわしく感じて、度々見舞いの手紙を送って来ました。「その昔、夕霧元帥の母上が亡くなったのも、この頃のことだった」とアントワンは思い出すと、何となく物悲しくなって、「あの時、妹の死を惜しんだ人の多くもすでに故人となってしまった。(歌)木の端に宿る露や 根元にしたたり落ちる雫は この世の中では 遅い早いの違いがあっても すべてのものが滅びていくことの 実例なのだろうか といったように、世の中とは時間に大差はないのだ」などとしんみりした夕暮に空を眺めながら、物思いに耽りました。

 

 空の気配もいわくがありそうに感じたので、次男の蔵人少将ロランを使いにして、ヒカルに手紙を送りました。人生の哀れなことを細々と書き、その端に歌を詠んでいました。

(歌)妹が亡くなった昔の秋すら 今のような気がして すでに濡れている袖に 

   涙の露を落としている

 折からヒカルも過去の様々な出来事を思い出していたので、葵夫人を亡くしたその秋のことがたまらなく恋しくなりました。こぼれて来る涙を払うことも出来ない中で、返信を詠みました。

(返歌)涙で濡れてしまうのは 葵君を亡くした昔も 紫上を亡くした今も どちらも同じです 

    大概において 秋の夜こそ辛いものはない

 ただもう一途に悲しいままを書いてしまうと、アントワンの性格からして意気地がないと見咎めて非難することは分かっているので、「無難な程度に」と留意して、「度々の忌問を頂戴して」と感謝の意を書きました。

 葵夫人が亡くなった秋には、(歌)決まりがあるので 薄い色の喪服を着ているが 涙で袖は深い淵のようになってしまった とヒカルは詠みましたが、今回はその時よりももう少し濃い喪服を着ていました。世の中には、幸せに生まれついた幸運な人でも、わけもなく世間から嫉妬されたり、自分が勝っているのを鼻にかけて、他人を困らせてしまう人もいますが、紫上は不思議なほど、どうということもない人にも人望があり、ちょっとしたことをしても何につけ世間から褒められ奥床しく、折々につけ行き届いている有難い心映えの持ち主でした。

 

 そうしたことから、さほど縁もなさそうな世間一般の人たちですら、その頃は風の音や小鳥の声につけても涙を落とさない者はいませんでした。ましてちょっとでも紫上を見たことのある人は、いつになっても忘れる時はありません。長年、親しく仕え馴れていた侍女の中には、少しの間でも生き残っている命を恨めしく悔いながら、修道女になって世間から離れた山の修道院に入ることを思い立つ者もいました。

 冷泉院の后である秋好后からも、心の籠ったヒカルへの手紙が絶えず、尽きない悲しみを綴っていました。

(歌)亡くなられた紫上は 草木が多く枯れてしまう 秋の野辺を嫌って 

   秋に心を奪われることがなかったのでしょうか

「今になって、その理由が分かりました」と書いてある手紙を思いがけない気持ちで繰り返し読んでは、いつまでも眺めていました。

「話し甲斐がある風雅の道を本当に語り合える女性は、この后だけだ」と少しは悲しみが紛れるような思いをヒカルはしますが、涙がこぼれて袖が乾くひまもないので、中々、返信を書けずにいました。

(歌)女王の位にまで昇った貴女も 振り返ってみて下さい 私はこの無常の世の中に 

   すっかり飽きてしまっている

 

 返信を書き終えた後もしばらくの間、ぼんやりと物思いに耽っていました。我ながら自分がしっかりしているとも感じられません。ことのほか魂が抜け出て、ぼうっとしていることが多いことを紛らわせようと、侍女たちの住まいの方に部屋を移しました。キリスト像を据えて、少数の侍女を侍らせるだけにして、心静かに勤行を勤めました。

「千年も一緒にいよう」と願っていた最愛の人と、命には限りがあることから、別れ別れになってしまったことは口惜しいことでした。今はもう後の世に行く願いを、雑念に惑わされることなく、ひたむきに準備していくことに没頭しています。けれどもどうしても外聞を憚ってしまうのは味気ないことでした。

 後々の追悼祭事については、ヒカルがてきぱきと取り決めて指示することもなくなったので、夕霧が取り仕切って指図していました。ヒカルは「自分の命も今日限りか」と覚悟することが多くなり、月日がはかなく積もって行くのを夢心地で送っています。サン・ブリュー王妃なども紫上を束の間も忘れずに、恋い慕っていました。

 

 

6.カール五世のフランス通過と冷泉院との再会

 

 紫上が夏の暑さで衰弱し、死を予感していた頃、神聖ローマ帝国とスペイン王国を率いるカール五世の在ロワール大使を通じて、「オランダのフランドル地方のヘント(Gent、ガンGand)で本格化した反乱鎮圧に向けて、フランス国内を通過させてもらいたい」との正式な申し入れがありました。この要請は一年ほど前にローマ教皇、カール五世、安梨王の三者連合が成立した後、カール五世と安梨王のエイグ・モルトでの会談でカール五世が切り出し、安梨王と付き添いの夕霧元帥が内々で了承していたものでした。

 王宮で秘密裏にカール五世の国内通過を承諾するか否かの協議が行われました。夕霧元帥は、カール五世は「スペイン王国が封地しているミラノ公国をフランス王国に譲っても構わない」との意向を匂わせているし、十八年間続いてきた帝国との戦争に区切りをつけることを強調しました。これに対し「元帥は文官上がりで実戦の経験に乏しく、考えが甘すぎる」、「カール五世は好人物かもしれないが、背後にいる取り巻きたちにうかうかと乗せられてはならない」などと、帝国との戦いを幾度も体験して来た軍部のベテランや長老たち、カール五世と敵対するオスマン・トルコと通じている者たちから猛反発がありました。結局、安梨王も夕霧たちの容認派に加担したこともあって、こうした批判や不満を何とかわして、カール五世の国内通過が認められました。

 

 カール五世の誕生の地で、六歳まで幼少期を過ごしたヘント市は、毛織物やタピストリーの製造が盛んで、自治の特権も認められていたこともあって、フランドル・ブルゴーニュ公国時代の伝統と誇りを堅持していました。帝国のフランスとの第三次戦役時に課せられた税負担に加えて、市政を牛耳る大商人や貿易業者に対するギルド(職業別組合)の反発が強まりました。八月十九日にギルド連合を統率する首席長が逮捕され、八月二十七日に死刑が執行されたことから、一挙に暴発して大反乱となりました。

 カール五世は従者百人を引き連れて、九月十日にスペインのマドリードを出発し、十二月にロワール地方に入り、ロッシュ(Loches)で安梨王と夕霧元帥の出迎えを受けました。アンボワーズの王城では捕虜としてマドリードに軟禁されていた際に、カール五世と絵画論争を交わした冷泉院が待ち構えていました。

 

(シャンボール城の披露)

 早速、冷泉院は自らが手掛けた、完成間近のシャンボール城にカール五世を案内しました。狩猟地の森のど真ん中に、厳選された白の石灰岩を三層に積み上げた上に、黒のアルドワーズ石で葺かれ、周りを繊細で華麗な彫刻で飾った尖塔との対照が見事な、横幅が120メートルを越える巨大な建造物がそびえ立っている姿を見て、さすがのカール五世もあっけにとられてしまったようです。

「この城は私の絵画の師匠でおられるミラノの大先生が中心になって設計されたもので、それに私の夢をはめ込んだものです。いわばミラノの大先生と私の合作、イタリアとフランスの最先端の美術を組み合わせた作品です」と冷泉院は自慢げに話しました。

 二人はミラノの大先生が考案した二重螺旋階段を上ってテラスに出て、森を見晴らしました。「それにしても市街地でも、市内を見下ろす高台でもないこんな場所に、どうしてこんな大規模な城を建造したのだろう」とカール五世が素朴な質問を投げると、「狩猟の際の宴会場にもなるし、軍隊の閲兵式や騎馬トーナメント会場にも使えます」と答えながら、冷泉院は、パヴィア(Pavia)の戦いで捕虜となってしまった十五年前のイタリア遠征の出発地は第一工事が完了したばかりのこのシャンボール城であったことを思い出していました。

 

(ヒカルとの出逢い)

「この機会にヒカル様にお逢いしたい」とカール五世が希望しました。紫上を亡くして悲嘆にくれているヒカルを思いやって、冷泉院はやんわりと断りましたが、「どうしてもヒカル様に手渡したいものがある」と言い張るカール五世に負けて、ヴィランドリー城に案内しました。

 ヒカルと対面したカール五世は、今を時めく神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼任する大王でありながら、深々と頭を下げるなど礼節を尽くしましたので、冷泉院を始めお付きの人々は皆、目を見張りました。

「ヒカル様のことは、子供の頃から叔母の白菊前総督から度々聞かされておりました。『サヴォワ公と再婚したのも面影がヒカル様にそっくりだったからです。私とヒカル様が結婚していたなら、帝国とフランスの関係はどうなっていたことだろう』などとも冗談交じりに語っていまいた。持参しましたこの楽譜はカンブレイ和平でお逢いした後、メヘレンでの再会を楽しみにしながら、ヒカル様に贈ろうと自筆で作成していたものです」と言いながら、「青海波」の楽譜を渡しました。海神ポセイドンが馬車に乗って地中海の青原を進んでいく光景を歌う楽曲で、王城での紅葉賀でヒカルはアントワンと一緒に舞ったことがありました。

「どうして『青海波』をご存じなのだろう」。

「『フランスに滞在していた少女時代に気に入っていた歌だった』とのことです。ヒカル様の『青海波』の舞の評判を噂で聞いていて、いつかは実際に見てみたい、とも話しておりました」。

「自分の人生に深い影響を与えた女性は、実母、藤壺、紫上の三人ともう一人いたはずだ。物騒な物の怪になり果ててしまったメイヤン夫人でも、葵上でもないし」と思いあぐねていたヒカルは、「その人物は白菊皇女だった」と気付きました。愛妻の死で憔悴しきっていたヒカルにとって、カール五世の突然の来訪は一時の安らぎを与えてくれたようで、ヒカルはカール五世とくつろいだ話を続けました。

 

「貴殿がスペインに行かれる前に学んでいたロッテルダムの尊師に是非ともお逢いしたかった。デタルプ先生やイングランドのトーマス・モア先生には出逢ったことがあるが、ユマニズムの先導者でおられる尊師はどのような人物だったろうか。若い頃から尊師を尊敬し、影響も受けて来た」。

「私も尊師からは薫陶を受けました。温和なお方でしたが、お話に重みがありました。いつの日か私が王か皇帝になったならば、尊師の教えに準じて良心的な人間賛歌の治世を行おう、と決意もしておりました。ところが現実はそんな甘いものではありませんでした。私が十六歳でスペイン王国に入った翌年、ドイツのマルティン・ルターが『九十五か条の論題』を発表してから、世の中が変わって行きました。祖父のマキシミリアン一世皇帝の晩年でしたが、皇帝が白菊前総督に采配を任せていたら、ローマ法王庁とカトリック教会内部での刷新化で収まり、ここまで社会的・政治的な混乱には至らなかったのではないか、と思います。スペイン王国は何とかカトリックで固まっていますが、ドイツと周辺国ではプロテスタン派とカトリック派の抗争が深刻化して、頭痛の種となっております。フランスは両派をうまく並立させているようですが」と自嘲気味に話しましたが、ヒカルは「いや、最近、ルター派よりも過激な一派が出て来たので、先行きを心配している」と答えながら、人道的ユマニズムの時代は終焉したことを実感しました。

 

 滞在予定の時間がすぎて、夕暮となりワインが供されました。少し酔いがまわって、気が緩んだのか、「私が白菊皇女と結婚していたなら、冷泉院はこの世に誕生していなかった」とヒカルは思わず口をすべらせてしまいました。カール大帝はその意味が分からずに聞き逃していましたが、側にいた冷泉院は「とうとう実の父親であることを認知してくれたのだ」と感動しつつ、失言に気付いたヒカルと阿吽の呼吸で目と目を交わしました。

 

(フォンテーヌブロー派との出逢い)

 カール五世は十二月二十四日に冷泉院の住まいとなっているフォンテーヌブロー城に滞在しました。道中では十四年前に「ネーデルランドかイタリアか、ヤン・ファン・エイクかミラノの大先生か、どちらが秀でているか」と絵画論争をした回顧話で花が咲きました。

 城の回廊では、数々の作品を背にして、イタリアから招かれたミケランジェロの弟子ル・ロッソ(Le Rosso)、ラファエロの弟子プリナティカ(Prinatica)やフランスの画家や工芸家が恭しくカール五世を迎えました。フォンテーヌブロー派が誕生して間もない頃でしたから、ローマ、ミラノに匹敵する美術の発信地にしようと意気軒高でした。

 

 お付きの人々を遠のけて、二人は作品を見て歩きましが、カール五世は「何て羨ましい」と何度も繰り返しながら、羨望と嫉妬をおり混ぜました。

「羨ましいのは私の方です。四英傑時代と称されたこともありましたが、私は脱落者に過ぎません。オーストリア、ドイツ、オランダ、イタリアにまたがる神聖ローマ帝国と、スペイン王国に加えて植民地の中南米も支配され、今や古代のアレキサンダー大王やローマ帝国を凌ぐ大王ではありませんか」。

「確かに領土的にはそうとも言えるが、実態はオスマン・トルコ、イングランドと貴国が立ちはだかっていて、その対応であちこちを奔走している毎日にすぎない。貴殿にだけ告白してしまうが、正直の話、オランダ、ドイツ・オーストリア、イタリア、スペイン、北アフリカと奔走する生活に疲れ果てている。貴殿のような優雅な生活を送りたい、というのが本音だ」と吐露して、冷泉院を驚かせました。

 

 年が明けた一月一日、カール五世は安梨王、冷泉院や夕霧元帥に守られながら、パリ市に入りました。

 

 

 

      著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata