巻1 藤と紫

 

その8.花       (ヒカル 19歳)

 

1.花の宴の詩作会、譲位宣言と舞踏会 

 

 藤壺が中宮に、ヒカルが宰相になった翌年の三月二十一日過ぎに、王さまは紫陽花王妃が住むブロワ城で「桜の宴」を催しました。主役は紫陽花王妃と朱雀王太子でしたが、王さまはこの日に朱雀王太子への譲位と藤壺が生んだ冷泉王子を王太子に据えることを公表する決意をしていました。

 

 城の中央広場に設けられた壇上の中央に王さまが着席した後、左手に紫陽花王妃と朱雀王太子、右手に満一歳になった王子を抱いた藤壺中宮が座りました。紫陽花王妃は同じ壇上に藤壺が座るのが癪に触りますが、本日の主役は自分と息子の二人であることを自覚して、終始、笑顔を浮べています。紫陽花王妃は後見役である右大臣の一族を見物に招いています。

 

 快晴で空は爽やかに晴れ渡り、飛び交う鳥の声も心地よさげです。宮廷詩人の進行で、親王達や高官を始めとして詩作に通じた人たちによる「詩作会」が催されます。壇上に置かれた箱の中に入れられたお題が書かれた紙を参加者が次々と引き抜き、引き当てたお題を読み上げていきます。宰相中将ヒカルが「『春』のお題を賜わりました」と披露する声は、いつもながら他の人たちより格別でした。次の番となった頭中将アントワンは、人々がヒカルと自分を見較べる視線に緊張しながらも、無難にお題を読み上げましたが、その声使いは重々しく優れていました。

 

 その他の参加者の中には二人に気後れして、尻込みをしている者も多くおりました。まして下級職の官人たちは、王さまや王太子も学才があって詩作にも優れている上に、詩作に長けた高貴な人たちも揃っていることから、詩作りは難しくはないものの、晴れ晴れと曇りない広場に立ち出て行くのに当惑気味です。年老いた博士たちは、服装はみすぼらしいものではありながら、場馴れしている余裕を見せています。そうした様々な参加者の様子を眺めるだけでも楽しいものでした。言うまでもなく、詩作する間に奏でられる楽隊も秀でた演者が選ばれていました。

 

 詩作会の最後に各人が作った詩の披露がされました。講師はヒカルが作った詩を一気に読まずに句ごとに詠んでいきます。その度に場内から賛美の声が上がり、宮廷詩人たちも感服しきりです。こんな詩作の折りでも、ヒカルは光りを放ちますから、王さまもどうしてヒカルをおろそかにできましょうか。

 藤壺中宮もヒカルの姿を目に止めるにつけても、「紫陽花王妃が無闇とヒカルを憎く思っているのかが合点いかない。それにしても、どうしてもヒカルの挙動に気をとられてしまう自分が心辛い」と我が身を責めます。

(歌)何の関係もなしに 花のようなヒカルを見るだけなら 露ほどもやましい気持ちなしに めでることができるものを

藤壺はこの歌を心の内で詠んだのですが、どういうことか世間に漏れてしまいました。

 

 詩作会が終った後、王さまが譲位と朱雀王太子の即位、冷泉王子の王太子任命を宣言しますと、広場は驚きのどよめきが湧き上がりました。

 

 日がようやく沈み出した頃、篝火が焚かれ、舞踏会が始まりました。新しい時代を告げるかのように、まず「春の黒歌鳥さえずる」という舞いが大変興味深く演じられました。朱雀王太子は一昨年のパリでの紅葉賀でヒカルが「青海波」を舞ったことを思い出して、挿頭(かざし)にする桜の花枝をヒカルに渡して「黒歌鳥」を舞うことを切に要望しますので、ヒカルは辞退し辛くて、立ち上がって、緩やかに袖を振り返す一節を舞いますが、誰も真似できない程の優雅さでした。

 そんなヒカルを紫陽花王妃は警戒する目で見つめていましたが、王太子は三歳年上の腹違いの兄であるヒカルを小さい頃から慕っていますので満足しています。ヒカルの舞いを見た左大臣は日頃の恨みを忘れて、涙を浮かべます。

 

 王さまが「頭の中将はどうしたのか。早く舞を披露しなさい」と声を上げましたので、アントワンはイタリアから仕込んで来た「柳花の苑」という舞を、少し念入りに長めに舞いました。こういこともあろうかと予想して稽古をしていましたので、見事な出来でした。王さまは大変喜んで、褒美として衣服をを賜わりましたが、人々はあまりない珍しいことだと驚きました。

 

 宴は盛り上がり、高貴な高官や女官、侍女たちが入り交じって踊り続け、夜に入っていくにつれ、誰が誰とも見分けがつかないほど熱気が満ちていきます。夜が大層更けてから、桜の宴が終りました。

 桜の宴には諸国の大使や外交官は招かれていなかったのですが、桐壺王の譲位と朱雀王太子の即位のニュースはわずか一夜で国内ばかりか近隣諸国に広がりました。

 

 

2.ブロワ城の右大臣専用階の朧月夜

 

 桜の宴の主役となった紫陽花王妃と朱雀王太子が引き下がった後、高官や女官など皆々が退出して、ブロワ城内はひっそりとなりました。

 

 月がとても明るく射し寄って心地よい中を、酔いを帯びたヒカルは、城内に泊る藤壺を見過ごしでしまうのが惜しい気がして、「宿直する人々も、もう寝入った頃だろう。こういう思いがけない時に、もしかしたら藤壺に接近できる隙があるかもしれない」と藤壺一行が泊っている階をやるせない気持ちでそっと窺いましたが、仲介をしてくれる付き人ブランシュの部屋もしっかり閉ざされていました。溜息をつきながら、紫陽花王妃の後見役である右大臣の一行が泊っている階に下りてみますと、三番目の大扉が開いていました。

 

 紫陽花王妃は王室に上がっていましたので、仕える人たちもついて行ったためか、人は少なめな気配です。大部屋に上がる奥の開き戸も開いていて、人の気配もしません。

「こんな時に、世の中の過ちが起きてしまうのだろう」と思いながら、段を上がってそうっと覗いてみますが、中にいる人々は寝入ってしまったようです。

 すると、若々しく美しい歌声の、並みの者には思えない女性が、照り輝くでもなく、雲に隠れて見えないでもない 春の夜の 朧(おぼろ)月夜にと口ずさみながら、こちらにやって来ました。何となく嬉しくなって、ふっと女の袖をつかんでしまいます。女の方は「恐い」と怯えながらも、気丈に「まあ、気味が悪い。どなた様です」を声を荒げます。

 

 ヒカルは「何もそんなに疎ましくされないで」と言いながら、

(歌)夜が深まり 朧月が沈んでいく情緒をご存知とは これも貴女とおぼろげでもない約束が あったからでしょう

と囁いて、やおら女を抱いて開き戸の隅に引き入れました。 

 

 女は震えながら「ここにおかしな人が」と侍女を呼ぼうと声をあげましたが、囁きかけてきた声ですでに相手はヒカルではないかと解しましたので、それ以上はあらがいません。日中の桜の宴で噂に聞くヒカルの晴れ姿を見た女はヒカルに一目ぼれをしてしまっていましたから、「身をまかせてもよい」という気になっていました。

「他の皆は、私のことを承知していますから、人を呼ばれても何にもなりませんよ。お静かに」と続ける声で「やはり、ヒカルの君だ」と確信して、少しは安堵しました。「困ったことになってしまった」と思いながらも、「こうなったら、冷淡で強情らしい女に見られないようにしよう」と考えました。

 ヒカルは酔い心地も手伝って、女をこのまま手放してしまうのが惜しくなりました。女の方も若い初々しさでぽうとなって、抵抗する気持ちも湧いてきません。ヒカルの手をとって自室に案内しました。

 

 ヒカルは「可愛い女にめぐり合えた」と惹かれながら、一夜を過しました。程なく夜が明けていきますので、心も慌しくなってしまいます。女の方はまもなく朱雀王太子の許に上がる身であることを思い起こして、思いもしなかった出来事に様々に思い乱れている気配です。

 

「是非ともお名前を教えてください。どうやって便りをしたらよいでしょう。このままで終ってしまうとは貴女もお考えにはならないでしょうから」とヒカルが尋ねますが、女は正直に名を告げてよいものか、迷ってしまいます。

(歌)浮いた世に流されて 名前を明かさずに 死んでしまったら 草原をかきわけて 私の墓に 

   尋ね来てはくれないということですか

と答える様子が、初めて男と交わったにしては、艶っぽくなまめいていました。

「ごもっともなことです。私の言い方が悪かったようです」。

(返歌)どなたであろうかと 露に濡れたシダ(羊歯)原に 貴女の宿を探しあぐねていると 世間に噂の風が吹いて 

    うるさいことになってしまいますから

「私との関係が煩わしいと思わないのなら、お名前を隠すこともないでしょう。それとも、わざと分からないようにされるのですか」と言い終えぬうちに、侍女たちが起き出して、王室との間を行き交う人たちの物音が繁くなっていきますので、落ち着いていることができず、お互いの証拠として扇を取り替えて、女の部屋を出ました。

 

 ブロワ城からアンボワーズの王宮に戻ると、自分の宿直所である桐壺の間にも、後宴の準備で多くの人々が出入りしていました。急に戻って来たヒカルに驚く者もいました。「まったく、懲りもせずに忍び歩きをされて来たのでしょう」と突っつき合いながら知らんふりをしていました。

 

 ヒカルは寝室に入って横になりましたが、興奮が覚めないのか、寝入ることができません。

「美しい感じの人だった。案内された部屋から察すると、女官や侍女クラスではなく、やはり右大臣の娘たちの一人であろう。まだ処女のようであったから、おそらく五番目か六番目の娘だろうか。弟の師(そち)の宮の正妻である二番目の娘やアントワンの夫人である四番目の娘は美人と聞いているが、もしそういう御方であったなら、もっと味わい深さがあっただろう。六番目の娘は朱雀王太子の貴婦人として王宮入りする、と父大臣が意図していると聞いている。その女であったなら、気の毒なことをしてしまった。煩わしく詮索しても紛らわしくなるだけである。けれども相手の方も『このままで関係を絶ってしまおう』とは思っていない様子でもあった。なぜ手紙をやりとりする方法を教えてくれなかったのだろう」などと、あれこれ考え続けるのも心が惹かれてしまったからなのでしょう。それにつけても「右大臣の一行は不用心すぎる。藤壺の辺りはこの上もなく厳重で近づき難いのに」と双方の違いを思い較べます。

 

 

3.桜の宴の後宴

 

 その日は昼過ぎからアンボワーズの王宮で後宴が開催され、ブロワの桜の宴に参加した貴人たちも皆、出席しました。ヒカルはずっと後宴に関わって、ハープ演奏を担当しました。

 後宴が終って、藤壺は王室に上がりましたので、藤壺の隙を窺うことは諦めました。むしろ「昨夜の朧月夜が王城から去っていくだろう」と気が気でなく、忠臣で気が利くオリヴィエとコンスタンに右大臣一行の控え所を見張らせておきながら、宿直室に戻っていました。

 

 直に「ただ今、北門から待機させていた馬車に乗った一団が出て行きました。女性たちが大勢乗っておりまして、右大臣の息子の官位四位の少将リシャールと五位の右中辧ファビアンなどが護衛役についていますので、間違いなく右大臣の一行と見受けられます。ただの侍女たちが乗ったのではない馬車が三台ばかりありました」と報告がありましたので、落胆してしまいます。

「これでは、朧月夜の君がどなたのかは分かりはしない。どうしたら分かるものか。下手に詮索してしまうと、父の右大臣などが聞きつけて、大袈裟に婿扱いにされてしまうのもいかがなものか。まだ相手の様子を見定めていないうちに公けになってしまうのも面倒である。とは言っても、分からないままでいるのも口惜しい限りだ。どうしたらよいだろう」と思案しながら、つくづく思いをはせながらベットに臥しています。「シュノンソーの姫君は手持ち無沙汰にしていることだろう。しばらく不在にしているから寂しくしていることだろう」と可愛い少女を思いやったりもします。

 

 交換した朧月夜の君の扇は面の濃い方に霞んだ月が描かれており、その下の水面に月が映っています。見馴れた絵柄ですが、三枚重ねを桜色の皮で包んだ親骨には使い馴れた跡が残っています。「草原をかきわけて」と詠んだ様子が気にかかりますので、

(歌)今まで味わったことがない心地がする 夜が明けても空に残っている 有明の月の行方を 見失ってしまった

と扇に書きつけておきました。

 

「アンジェの左大臣邸へはしばらくご無沙汰してしまった」と思い起こしましたが、シュノンソーの若君のことも気にかかったので、「少し宥めておこう」とシュノンソーへ戻りました。

 満十二歳となった若紫は少女から大人へと変化し始めたのか、わずかの間でしたが、とても美しく成長して、愛嬌がついて利発な性格が際立っています。乳母のセリーヌが初潮があったことをそっと耳打ちしました。「何一つ欠けないように、自分の思いのままに教えていこう」との思いがかなっていくようです。「それでも、男の躾だから、女性としてずれた点も混じってしまうかもしれない」と危ぶむ心配もありました。桜の宴のことなど最近の出来事を話し聞かせながら、スピネット(エピネット)などを指導した後、アンジェに向いますが、若姫は「いつものように」と物足らず思いながらも、今ではすっかり馴らされてしまって、無闇に引き止めようとはしません。

 

 左大臣邸に到着しましたが、葵夫人は例のように、すぐには対面しません。所在なくあれこれ思い巡らしながらハープを取り出して「貴女としっとり寝る夜がなくて」と夫人をあてこするような流行り歌を歌っていますと、左大臣がやって来まして、桜の宴の日のことを語ります。

「この歳になるまで、先代王、現王とほぼ四十年ほど王宮の有様を見て来ましたが、今回のようによい詩がたくさん出て来て、舞や管弦でも才人が揃っていて、寿命が延びる気がしたことはありません。今はそれぞれの道で名手が多い時代になりましたが、貴方はその事情にお詳しいから、王さまからの指示を受けて、良い師匠たちをお選びになって準備されたのでしょう。この老いた身でも舞いだしてしまいたい心地がしました」と賞賛します。

「いやいや、特別に準備したわけではありません。ただ公事の役目でしたから、その道の先生をあちこちに訪ね歩いただけでございます。それよりもアントワンが舞った『柳花の苑』はさすがにイタリア仕込みだけあって、本当に後代の手本となることだろう、と見惚れてしまいました。その上に、盛んになっていく春に向けて左大臣も舞を披露していただけましたら、アンジュー家の誇りとなったことでしょう」と話していると、当のアントワンたちがやって来て、テラスにもたれながら、とりどりの楽器を奏で合わせて楽しんでいくのが、大層面白いのでした。

 

 

4.ジアンの右大臣邸の藤の宴 

 

 あの有明の君は、はかない夢のようだったあの夜を思い出しては、溜息をつきながら打ち沈んでいました。朱雀王太子の許に上がるのは再来月の五月と差し迫っていますので、とても分別がつかないまま思い乱れています。

 ヒカルの方は訪ねていく手立てがなくはないのですが、五女なのか六女なのか、あるいは他の娘なのか、いずれとも分かりませんし、その上、日頃からあまりそりが合っていない右大臣一族と関わりを持ってしまうのは外聞が悪い、と思い悩みます。

 

 四月二十日過ぎに、右大臣が自邸のジアン城で親王や高官たちを多く招いて、騎乗槍試合を開催し、その後、「藤の宴」が催されました。

 花盛りはすでに過ぎていたのですが、「他が散った後に」と教えられたのでしょうか、遅咲きの桜が二本、咲き誇っています。娘たちのために、女性の成人式に当る「裳着」の儀式用に建てられた新館が飾り立てられ、派手さを好む右大臣家にふさわしく、すべて今風にしつらえています。

 

 右大臣は先日、王宮で出会った折りにヒカルも招いたのですが、返事を濁して姿を出さないようなのが「口惜しく、張り合いがない」と思って、息子のリシャールを王宮に行かせました。

(歌)私の城に咲く 藤の花が ごく普通の平凡なものなら どうしてことさらに 貴方をお招きしましょうか

 折りよくヒカルは王宮にいましたので、リシャールは父大臣から託された手紙を手渡しましたが、ヒカルは王さまに助言を求めました。

 朱雀王位の即位により後見役として自分の時代が到来することを誇示したい右大臣の胸中を察した王さまは「得意顔だな」と笑いながら、「折角、使いまで寄こしたのだから、すぐに行ってあげなさい。直に右大臣の世になるのだから、親しくしておいた方がよいだろう」と勧めました。

 

 装いを入念にひきつくろって、右大臣たちが待ちわびる中、大分日がくれた頃にジアン城に着きました。桜色のフィレンツェ製の錦織のプルポワン(上着)に葡萄色のショースといういでだちで、並み居る人たちがビロードの礼服を着こんでいる中に、洒落た平常服を優雅に着こんで、敬意を表されながら入ってくる姿は際立っていました。咲き誇る花の匂いも蹴落とされてしまうほどでした。

 

 管弦楽や舞踏会がとても面白く過ぎて、夜が少しづつ更けていく頃に、ヒカルはひどく酒に酔って苦しいようなふりをして、席を立ちました。右大臣の娘たちが住む新館の方に向かい、新館と向い合わせの本館の東の戸口に寄りかかりました。

 藤の花が本館の角の方に咲いていますので、藤の花を観賞しようと新館のよろい戸をすべて開け放って、侍女たちが端に出ています。侍女たちのドレスの袖口や裾口などが舞踏会の折りの見物席のようにわざとらしく乱れているのがはしたなく、この場にふさわしくないように感じて、藤壺に仕える侍女たちの奥床しさと比較してしまいます。こんな有様では敵国のスパイも侍女たちへの取り入りがし易いことだろう、と妙な心配までしてしまいます。

 

 ヒカルは新館の方に近寄って「気分が悪いのに、酒をひどく強いられてしまって困っております。ご迷惑でもこちらの物陰に隠れさせてもらえませんか」とよろい戸の脇のカーテンを引き上げて中を覗いてみますと、「ああ煩わしい。卑しい身分の者ほど、そんなことを口実にして上がり込もうとするのですよ」と苦言を言う侍女の気配は重々しくはありませんが、そこいらの若い侍女ではなく、気品に富んだ美しい女性であることが分かります。

 

 空薫物がとても煙たいほど燻(くゆ)っていて、ドレスの衣づれの音が花やかに触れ合っているのが心憎いほどです。奥床しさに欠けてはいますが、今風の派手さを好む家風らしく、身分の高い方々が藤の花をめでようと、席を設けているようです。場所柄、差し控えるべきでしたが、さすがに衝動にかられてしまい、朧月夜はどの御方であろうか、と胸をときめかせながら、フランドル人に 扇を取られて 辛い目を見た」とおっとりした声で歌いながら、暗がりの中、よろい戸沿いに歩いて行くと、「何か怪しげで、風変わりなフランドル人なのでしょうか。帯と扇を取り違えて歌っています」と言うのは、わけを知らない女なのでしょう。

 

 答えはしませんが、時々、溜息をもらしている気配がする方に寄りかかって、カーテン越しに手をとらえてみました。

(歌)先日 ちらと見かけた朧の月影を 再び見ることができるかと ジアンの丘をうろうろ迷っています  

「なぜでしょうか」と当て推量に歌ってみますと、相手は堪え切れないのでしょう、

(返歌)本気でご執心でおられるなら 月がない夜でも 迷いはしませんよ

と歌う声はまさしく朧月夜の君のものでした。思わずヒカルは小躍りをしてしまいました。

 

 

 

                    著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata