その28.野分             (ヒカル35歳)

 

1.秋好王妃と紫上方の被害。夕霧、紫上を見て悩む

 

 秋好王妃の住まいの前庭に植えられた秋の草花は、例年よりも見所が多く、色々な種類を網羅しており、皮付きのままの小木や皮をはいだ小木を風雅に粗く結い混ぜた低い垣根で囲っています。同じ花と言っても、枝ぶりや姿、朝夕の露の光りも通常とは違って玉のように輝き、野辺の景色を写し取ったような庭の風情を見ていると、春の野山を忘れて涼しげで面白く、心が奪われていくようです。

 春か秋かの優劣論争は昔から秋の味方をする人が多いのですが、南の町の名高い春の花園に心を寄せていた人たちも、また引き返して来て秋の庭に見入っている光景は、移り気な世の中の有り様とよく似ています。

 秋好王妃はこの秋の庭が気に入って里住みを続けています。管弦の遊びなどもしてみたいのですが、あいにくこの月は父の元王太子の忌み月なので、残念に思いながら草花が盛りになっていく風景を明け暮れ楽しんでいました。

 

 ところが南仏の嵐ミストラルがロワール地方にも襲って来たのでしょうか、例年になく空の色が変わり、物恐ろしいほどの強風が吹き出しました。次々と草花が萎れていくので、さして草花に愛着を持たない人ですら、「ああ、困ったことだ」と胸を痛めています。秋好王妃は草むらの露の玉数珠が乱れ落ちていくのを見るにつけ、心が動揺して悲しんでいます。大空をすっぽり覆ってしまう袖があったなら 春に咲く花を 風にまかせて散らすこともないだろうにといった情景を、秋の空にこそ欲しいと思われるほどです。日が暮れていくままに、物も見えなくなるほど風が吹き荒れて非常に気味が悪く、よろい戸を閉めざるをえませんが、王妃は「どうなるか不安でたまらない」と秋の花の身を案じて嘆いていました。

 

 南の町でも、ちょうど前庭の手入れをさせた後に、こんなにひどい風が吹き出しましたので、ピカルディーの野に繁る 枝ぶりがまばらな萩が 重い露を吹き払ってくれる 風を待っているといった歌以上の、激しすぎる風で落ち着かない風景になっています。枝々が折られ、露も草花に留まることなく吹き散らされていくのを、紫上は窓辺近くに寄って眺めていました。

 

 ヒカルはサン・ブリュー姫の部屋にいましたが、息子の中将(夕霧)が南の町にやって来て、東の渡殿の小さい衝立越しに、両開きのよろい戸が開いている隙間を何気なく覗いてみると、大勢の侍女たちが見えたので、立ち止まって物音をたてないようにしながら注視しました。

 風がひどく吹くので、屏風は畳んで隅の方に寄せていて見通しがよく、出入り口の部屋に座っている女性が、侍女たちと見間違えができないほど気高く清らかで、さっと匂いが立ち出る感じがします。春の曙の霞の間から、美しい山桜の紫がかった赤い花が咲き乱れているのを見る心地がします。夢中になって見やっている自分の顔にまで移ってくるような愛嬌はこぼれるばかりで、これまで見たこともないほど類のない美貌でした。

 内カーテンが吹き上げられるのを侍女たちが押さえながら、何かしでかしたのでしょうか、にっこり笑っているのが何とも美しく見えます。紫上は花が散っていくのが気掛かりで、花を見捨てて奥に入ろうともしません。側に仕えている侍女たちも、とりどりに綺麗な姿でいるのが見渡せますが、侍女たちに目移りすることもありません。

 

「父大臣がこれだけ自分を紫上から遠ざけて、隔てを置くようにして来たのは、こんな具合に紫上を見た人が、ただではすまされないと思わずにいられない美しさをひどく懸念して、万が一そのようなことが起きてしまったら、と考えてのことだった」と夕霧は悟って、隙見をした罪が恐くなって、その場を立ち去ろうとしました。

 ちょうどその時、西側のドアを開けてヒカルが室に入って来ました。

「ひどく嫌な慌しい風が吹くね。よろい戸を閉めなさい。男どもが近くにいることもあろう。奥が丸見えになったら大変だから」と言っているのを聞いて、夕霧がまた近寄って覗いてみますと、父大臣は何かを話しながら、紫上を見て微笑んでいます。自分の父親とは思えないくらい、若々しく優雅で、今が盛りの立派な容貌でした。紫上もすっかり成熟していて、二人の飽きることもない様子を見ていると、夕霧は身にしみる思いがします。渡殿の横木戸も吹き飛ばされて、立っている所が中から見通せるようになったので、恐くなって立ち退きました。

 

 一呼吸を置いた後、たった今到着したように咳払いをして、テラスの方へ歩いて行きました。息子に気付いたヒカルは、「だから言っただろうに。見られていたかもしれない」と言いながら、東側の両開きのよろい戸が開いていたことを今になって気付きました。

「長い年月の間、紫上を拝む機会など露ほどもなかったが、風というものは大岩をも吹き上げてしまうものだ。これほどの用心をされているのに、風が騒ぎ立ててくれたお蔭で、珍しくも嬉しい目にあえた」と夕霧は喜んでいました。

 

 

2.夕霧の祖母見舞いと、紫上への思慕

 

 職員たちが駆けつけて来て、「ひどく吹き荒れる風でございます。東北から吹いていますので、この館は大丈夫でございます。しかし馬場殿や南のテラスなどは危険です」と何やかや騒ぎながら手当てをします。

「息子さんはどこから戻って来たのだね」。

「アンジェ城の大宮の所に伺っておりましたが、『風がさらに吹き荒れる』と人々が申しますので、こちらが心配になって駆け戻ってまいりました。アンジェ城の大宮はまして心細くしておりまして、まるで子供に戻ったかのように、風の音にすら怖気づいていました。気になりますので、戻ってみようと思います」と答えます。

「なるほど早く行ってあげなさい。歳をとると、再び子供に戻るという理屈はありえないことだが、確かにそうしたこともありえるからね」と大宮の不安を思い計って、すぐに大宮に宛てて「このような騒がしい天気でございますが、この中将が付添いますので、万事を中将に委ねます」との手紙を託しました。

 

 アンジェ城に戻る道中も風が荒れ狂いますが、夕霧は律儀な性格ですから、日頃から大宮とヒカルへの挨拶は欠かすことはありません。王宮での謹慎などで余儀なく宿直せざるをえない場合を除くと、多忙な公事や酒宴行事などで時間をとられる多忙さの中でも、ヒカルと大宮への挨拶を済ませてから公務に向いますが、ましてや今日のような悪天候の風が吹き騒ぐ中で、ヴィランドリーからアンジェへと往復するのは殊勝な心がけです。

 

 大宮は待ちわびていた夕霧が戻って来たので、「とても嬉しく頼もしい。この歳になるまで、ここまで騒がしい嵐に遭ったことがありません」とただ震えてばかりいます。大木の枝などが折れる音も物凄いものでした。「城のアルドワーズ石の黒瓦さえ、残らず吹き飛ばされそうなのに、よくぞ戻って来てくれました」と感謝しています。

 その昔は所狭しと勢いがあったアンジェ城も今は静まり返っていますので、孫の中将が頼もしく思える、というのは無常な世の中そのままです。大宮は今も世間全般の評判が薄らいだわけではありませんが、一人息子の内大臣は少し疎遠気味になっていました。

 

 夕霧は夜通し、吹き荒れる風の音を聞きながら、何となくしんみりした気持ちでいました。心から恋しいと思う雲井雁のことは差し置くとして、その朝垣間見た義母の面影を忘れることができません。

「これは一体どうした塩梅なのだろう。あるまじき恋心が芽生えてしまったのか。とても恐ろしいことだ」と自分の気を紛らわさせ、別のことを考えようとするものの、やはりふっと紫上の面影が浮んで来ます。

「過去でも未来でも、あれだけの美貌の女性がいただろうか。それにしても、あれほどのお方がおられるのに、東の対の花散里が、父が愛する女性の一人に数えられて肩を並べている、ということはどういうことなのだろう。花散里が気の毒にもなる」と思いながらも、父大臣が花散里も大切に扱っている心構えは「有り難いことなのだ」と思い知りました。

 非常に真面目な性格でしたから、紫上を恋愛の対象とするような、けしからぬことは考えもしませんが、「同じことなら、ああいった女性を眺めながら暮らしてみたい。そうしたら限りある寿命も、必ずもう少しは延びるだろう」と思い続けました。

 

 

3.夕霧の花散里訪問、大宮の状況報告と内大臣評

 

 明け方になると、風が少し湿気を帯びて、断続的に激しく降る村雨のように降り出しました。

「ヴィランドリー城では離れ屋などが倒れたようです」などと人々が話しています。

「この風が吹き荒れている間、敷地が広大で高い館が多くあるヴィランドリー城だが、父大臣が住む、風が穏やかな南の町辺りには大勢の人々が詰めているだろう。しかし北東の町などは詰めている者が少ないことだろう」とふと気付いた夕霧は、空が白々として来た時分に、再度ヴィランドリーに戻ることにしました。

 

 アンジェ城からヴィランドリー城までの道中、夕霧は従者が追いついて来れないほど、馬を走らせました。横なぐりの雨がとても冷やかに降り続けます。空の様相も凄まじいのですが不思議と何かそわそわして、ヴィランドリー城に向うのが待ち遠しい気分がします。

「どういうことなのだろうか。また自分の心に新たな物思いが加わったのだろうか」と思い至ったものの、真面目な自分には似つかわしくないことでした。

 

「ああ、物苦しい」とあれやこれや思い悩みながら、真っ先に北東の町の花散里を見舞いました。怖気づいている花散里をあれこれと慰め、「職員を呼んで、壊れた所々を修理させなさい」旨を言い残してから、南の町の本館に行きましたが、まだよろい戸も開けていません。居間に近いベランダの欄干にもたれて庭を見渡しますと、築山の木々が吹き倒されて、数多くの枝が折れ伏しています。草むらが荒れているのは言うに及ばず、屋根を葺く木片やアルドワーズ瓦、所々の細木を縦横に組んだ目隠し用格子戸や少し間を空けた板垣などのようなものが散乱しています。

 

 日の光りがわずかに射し出して、憂い顔の庭の露がきらきらと光り、空は物凄い霧がたちこめています。何と言うこともなく、涙がこぼれてくるのを夕霧はそっと拭って咳払いをしました。

「咳をしているのは夕霧のようだ」とヒカルは気がついて起き上がりました。紫上が何を話しているのか、夕霧には聞えませんが、ヒカルが笑いながら「若い頃でも、貴女には暁の別れを味あわせたことはなかったね。今、それを経験させるというのは心苦しいことだが」と話しながら、仲睦まじい様子を夕霧は興味深く感じました。紫上の返事はかすかにしか聞えませんが、こうしたように戯れ合う言葉の端々に「水も漏らさない仲なのだな」と夕霧は痛感しました。

 

 ヒカルがよろい戸を自分の手で開けたので、よろい戸の間近にいたばつの悪さで夕霧は後ろに引き下がってから一礼をしました。

「どうであった。昨夜は、大宮が待ちかねていて、喜ばれたことだろう」。

「そうでございます。ちょっとしたことにも涙もろくて、不憫に感じました」と答えると、ヒカルは一笑して「大宮も先は長いことはないだろうから、誠実にお仕えしておいた方がよい。『内大臣は細かいところまで配慮してくれない』とこぼされていたことがある。内大臣は妙に派手で男っぽさがあり過ぎて、親への孝行ぶりも見た目は威厳正しく見せて、人目を驚かせようとしている下心がある。しかし心底からしみ出るような深いところはない人物だからな。そうは言っても思慮深く、非常に賢い人物で、今の時代にあっては才覚があり優秀である。誰であっても欠点がない、ということはありえないことだし」などと語りました。

 

 

4.夕霧、秋好王妃を慰問してヒカルに復命

 

「それにしても、こんなものすごい大風の中で、王妃にはしっかりした執事がお仕えしていたのだろうか」とヒカルは夕霧を見舞いの使者として遣りました。

「昨夜の風の音をどのようにお聞きなられておられましたか。吹き荒れていましたが、あいにく私は熱をだして堪え難く、養生しておりました」と夕霧に伝えさせました。

 

 中将は南の町から中回廊の戸口を通って秋の町に行きました。朝ぼらけの中の夕霧の姿が大層優雅で愛らしい。東の対屋の南側に立って、主殿の方を見やるとよろい戸が二柱分ばかり開けられていて、ほのぼのとした朝ぼらけの中、カーテンも引き開けて侍女たちが揃っていました。

 欄干に寄りかかっている若い侍女ばかりが大勢見えます。うちくつろいでいますが、近づいていったら、どういった反応を見せるのでしょうか。若者たちの間でよく話題にあがる、イングランドから来た虹バラも混ざっているかもしれない、と目をこらしてみます。はっきりしない薄暗い夜明け前なので、色とりどりの衣服を着ている女性たちは誰が誰かは分からないものの、心が引かれます。

 

 王妃は女童たちを庭に下ろさせて、生き残った草花を籠に入れさせています。薄紫の紫苑色や撫子色など、濃いか薄い色合いの中着の上に、女郎花(おみなえし)のような縦糸が青、横糸が黄色の、秋の季節に合わせた上着を着た女童が四、五人連れ立って、色々な籠を持ちながらあちらこちらの草むらを物色しています。撫子など悲しげに吹き散らされた枝などを折っていますが、霧が立ち込める中、とても優艶に見えます。

 室内から吹いて来る追風は、紫苑の花が残らず匂う薫りがして、「王妃の袖に手が触れる気配がする」と想像すると嬉しく、王妃の心遣いへの思いから立ち去りにくいのですが、そっとその場を離れて声をかけながら欄干に向って歩き出ました。侍女たちは夕霧を見て、格別驚いた顔はしないものの、皆、室内に入って行きました。侍女たちは王妃が王宮に入る頃は童女だったので、夕霧と馴れ親しんでいたことから、よそよそしくはしていません。

 女王にヒカルの伝言を奏上しましたが、見知っている侍女四位の宰相の君や女官が側にいるのに気付いて、小声で私的な話を交わしました。そうしながらも王妃も女官や侍女たちも気高く暮らしている気配や有り様を見るにつけ、昨日の紫上の様子などをあれこれ思い出しました。

 

 南の町ではよろい戸をすっかり開いて、昨夜見捨て難かった草花が見るかげもなく萎れているのを眺めていました。すると夕霧が戻って来て、欄干の階段から王妃の返事をヒカルに伝えました。

「ヒカル様がこの強風を防いでくれないだろうか、と子供のように心細く思っておりましたが、ただ今お見舞いをいただいて安心しました」との王妃の言葉を聞いて、ヒカルは「王妃は不思議と気が弱いのだね。それでも女性だけだったら、さすがに恐かったことだろう。まして真夜中のことだったから、さぞかし私のことをいい加減で不親切な男だと思われたことだろう」と感じて、即座に王妃を訪ねることにしました。

 

 ヒカルが上着に着替えるため、内カーテンを閉めて奥に入る際に、短めの衝立を引き寄せる女性の袖口がちらっと見えたので、「きっと、あのお方の袖先だろう」と思うと、胸がどきどきと高まる気持ちがして情けなく、夕霧は別の方向に目をそらしました。

 ヒカルは鏡の自分の顔を見つめながら、紫上にそっと「中将の朝の姿は清らかで美しいね。まだまだ年少だが、不体裁でなく見えるのは、人の親の心は 闇夜ではないものの 我が子を思う道に迷って 分別をなくしてしまうという歌の気持ちだからだろう」と言いながら、「まだ老け込んではおらず、大丈夫だ」と自分の顔に語りかけています。ひどく気配りをしながら、「王妃にお目にかかる時は緊張してしまう。それほど趣味深そうにも見えないのだが、奥床しい気品がおありなので、気を使ってしまう。とてもおっとりしていて女性らしいのだが、きりっとした鋭いところもおありだからね」と言いながら内カーテンから出ますと、夕霧がまだ戸外から室内を覗いていて、すぐにはヒカルに気付かない様子です。

 

 察しがよいヒカルの目にはどう映ったのでしょうか。振り返って紫上に「昨日の大風に紛れて、中将が貴女を見てしまったのではないだろうか。よろい戸が開け放しだったからね」と言いますと、紫上は顔を赤らめて「どうしてそんなことがありえましょう。渡殿の方から人の物音などしませんでしたもの」と弁解します。

「そうだろうか。どうもおかしい」とヒカルは独り言を言いながら出て行きました。

 

 夕霧はお供をして王妃の町へ行きましたが、ヒカルが王妃の室に入って行った後、渡殿の戸口に侍女たちの気配がするので近寄って行って、侍女たちと冗談を言い合ったりしますが、あれこれと思いが浮んでくるのが煩わしく、いつもより湿りがちでした。

 

 

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