その31.真木柱             (ヒカル 36歳 ~37歳)

 

1.玉鬘、ヒゲ黒大将に嫁して悔恨に落涙

 

「王宮に知られてしまうのは恐れ多いことです。しばらくの間は世間に広く知られないように内緒にしていなさい」とヒカルが忠告しますが、ヒゲ黒大将は玉鬘を手中にしたことを隠す通すことができません。

 一方の玉鬘は時が経っても少しも打ち解けた様子もなく、「思いのほか不運な宿命だったのだ」と一途に沈み込んでいます。そんな玉鬘を見て、ヒゲ黒も「ひどく辛いことだ」と感じながらも、格別な契りを結べたことがしみじみ嬉しく、見れば見るほど佳麗で申し分ない容貌や仕草を見るにつけ、「もし他人のものにしてしまっていたなら」と想像するだけで胸が潰れる思いです。ロカマドゥール(Rocamadour)の聖アマドゥール(Amadour)と仲介役をしてくれたフロランスを並べて拝みたいほど感激していましたが、玉鬘の方は「何とも不愉快なことをしてくれた」とヒゲ黒を自分の閨に引き入れた侍女フロランスを憎んでいました。それを察したフロランスは玉鬘の室に出仕もせずに、自室に閉じ籠っていました。本当に多くの人がとりどりに痛々しいほどの苦労をしたものの、ロカマドゥールの聖アマドゥール(Amadour)の霊験は玉鬘の愛情が薄い人物に現れた、ということでしょう。

 

 ヒカルも納得ができず、「口惜しい」と思うものの、今さら仕方がないことですし、実父の内大臣を含めた誰もが二人の仲を許容してもいるので、それに反して自分が許さない態度を見せたとしても、「当人にとっては困ったこと、面白くないことになってしまうだろう」と考えて、婚礼の儀式をヴィランドリー城で華麗に行い、婿となったヒゲ黒も大事に扱いました。

 ヒゲ黒大将は一日でも早く自邸のボールガール(Beauregard)城に引き取ろう」と考えて、準備を急ぎますが、ヒカルは「軽はずみに気を許してボールガール城に行かせたとしても、そこには不愉快に感じている人物が待ち構えているのが気の毒だ」ということを口実にして、「まあ、急ぐこともない。平静でいて、波風が立たず目立たないようにして、どちらの方面からも謗りや恨みを受けないように振舞っていなさい」と助言しています。

 

 実父の内大臣は「王宮に上がるより、かえってこの結婚の方が無難であった。細やかな後見を親身にしてくれる人もいないまま、なまじっか派手な王宮仕えをしたところで、苦労が多いだけだと不安だった。玉鬘の後見をしてあげたい気持ちもあるが、王宮にはすでにアンジェリク貴婦人が出仕しているのだから、世話をしてあげようもないのだから」と内々で語っていました。確かに王宮に上がって王さまの寵愛を受けたとしても低い扱いを受け、たまさかの出逢い程度で重々しい待遇を受けないのなら、軽率に王宮に上がったことになりかねません。内大臣は結婚三日目の夜の祝いで、ヒカルとヒゲ黒大将が交わした様子を伝え聞いて、「本当にかたじけなく、有り難いことだ」と感謝していました。

 

 このように二人の縁組は内密にされていましたが、自然と興味深い話題として世間に漏れて行き、人々は恰好の語り草として囁き合っていますが、噂は王宮にも伝わりました。

 王宮の重臣たちは「残念だが、王さまとはご縁がなかったのだろう。しかし本人は王宮仕えをしたい本心もあるようだ。女官長として勤める気持ちがあるなら、断念する必要もない」と鷹揚な判断をしていました。

 

 十一月に入りました。例年、神事で繁忙する月でしたが、ことに今年は冷泉王の無事と帰還を願う祭事も加わったため、女官所が関わる案件が多くありました。王宮の上級・下級の女官たちが新任の女官長の意見や判断を仰ぐために、ヴィランドリー城を訪れる機会が増え、自然と人の出入りが賑やかになっていますが、ヒゲ黒はなるたけ目につかないようにしながらも、昼になっても居座っていますので、玉鬘は「嫌なことだ」と困っていました。

 玉鬘に失恋した人の中でも、まして蛍兵部卿は「ひどく残念だ」と思っていました。式部卿の息子である兵衛部四位の督はヒゲ黒の正妻である姉が世間の物笑いにされている嘆きに重ねて、失恋した憂いに沈みながら、「今さら、さしでがましく恨みを言ったところで、どうにもならない」と思い返していました。

 

 ヒゲ黒大将は評判になるほどの堅物で、長年ふしだらな浮気沙汰などいささかもなかったのですが、今はそんな名残りはなく、これまでと打って変わって気も晴れ晴れと色男ぶって、人目を忍ぶ宵と早朝の出入りも艶っぽい仕草を見せていますので、侍女たちは「おかしなこと」と見ています。

 女君はにこやかに陽気に振舞う性分でしたが、今はそんな本性を隠して、ひどく塞ぎ込んでいます。ヒゲ黒との結婚は自ら求めてのことではないことは誰もが承知していることですが、太政大臣の胸中や心を寄せていた蛍兵部卿の志しが深く、情愛があったことなどを思い出すと、この結婚が悔しい思いばかりがして、不満げな表情が絶えません。

 

 ヒカルの方は、「気の毒なこと」と人々が思い疑っていた疑惑が潔白であったことが明白になり、「自分の性分はその場限りのねじけた行為は好まないのだ」と若い頃からの自分の行動を思い出して、紫上にも「貴女も疑っていたのだろう」と言ったりしました。そうは言いつつ、「今さら、例の悪い癖を出したところで」と思う一方で、何か物苦しさを覚える時は「いっそのこと玉鬘をここに置いたままにしておこうか」と思いいたることもありますから、玉鬘への思いがまだ絶えたわけではありません。

 

 ヒゲ黒大将が不在の昼頃にヒカルは玉鬘の住まいを訪れました。女君は不思議なほど悩ましげにしているばかりで、陽気な折りもなくしょんぼりしていましたが、ヒカルの訪れなので少しベットから起き上がって、内カーテンの端に隠れるように座りました。ヒカルも改まった態度で、少しとりすました、よそよそしい様子を見せながら世間話などをしました。

 真面目だが平凡な男に過ぎない夫を見馴れるようになってしまった目では、今まで以上に言いようもないヒカルの立派な気配や様子を理解できるようになっていましたから、予期もしていなかった今の自分の身の置き所がなく、恥かしさで涙がこぼれてしまいました。

 

 会話は段々と細やかな内容になって行きますが、ヒカルは内カーテンに近い肘掛けに寄り掛かって、内カーテンの中を少し覗き見しながら話しかけました。大層愛らしく、面やつれした様子を見てみたいような、いじらしい風情が添えられているにつけても、「余所の男に譲ってしまったのは、あまりにも気紛れなことだった」と残念な思いがしました。

(歌)貴女とは立ち入った深い関係などなかったものの 三途の川ステュクス(Styx)を渡る際に 

   他の男に手を取らせるといった約束はしなかったはずだが

思いもしなかったことになってしまった」と鼻水をすする様子がなつかしげで哀れでした。

 玉鬘は顔を隠しながら詠みました。

(歌)そのステュクスを渡らないうちに 何とかして 涙の川に浮ぶ泡となって 消えてしまいたかったのですが

 ヒカルは「ステュクスを渡る前に、というのは幼稚な考えですよ。ステュクスの川を避けて通る道などはありませんから、渡る際は手の先でも引いてあげましょう」と微笑みました。

 

「確かに本当だった、と思い知ったこともあるでしょう。世の中にありそうにない私の愚かしさや気がよいところは類例がないことを。そう思ってくれると、私も頼まれがいがありますよ」と続けますが、玉鬘が「七面倒な話しは聞き苦しい」と感じているようなので、ヒカルは気の毒になって話をそらしました。

「せっかくの王宮の配慮が気になりますから、ほんの少しでも王宮に上げてみたいと考えています。このままヒゲ黒大将が貴女を自分のものとして家の中に閉じ込めてしまったなら、王宮での勤めがしづらくなってしまいます。私が当初考えていたことと違うようになってしまいましたが、ソーミュールの内大臣はヒゲ黒大将との結婚に満足されているようですから、安心していなさい」などと細やかに話しました。

 玉鬘はヒカルの言葉をしんみり、恥かしくも聞きながら、ただ涙に濡れていました。打ち沈んでいる様子が心苦しいので、玉鬘への自分の思いを思うように打ち明けることもできず、ただ女官長として王宮でなすべきことや心構えを教えましたが、ヒゲ黒大将の自邸のボールガール城へ移り住むのはすぐには許可しない様子でした。

 

 

2.ヒゲ黒の、玉鬘を呼ぶ準備と、本妻への説論

 

 ヒゲ黒は心中では玉鬘が王宮へ上がることに穏やかではありませんが、それを機会にして自邸に引き取ろうと思いつき、ほんの少しの期間だけ、ということで許可を出しました。

 これまでのように人目を忍んで通う行為は不馴れな心地がして息苦しいので、自邸のボールガール城の修理を始めさせ、久しく荒れたままで打ち捨てていた設備やしつらえを万端に造りかえるように急ぎました。本妻が悲嘆にくれている心情を分かろうともせず、可愛がっていた子供たちにも今は眼もくれません。物柔らかで情け深い心持ちの者なら、あれやこれや人が恥ずかしがることを推し量るところもありますが、ヒゲ黒は生一本で突き進んでしまう性分なので、人の気に障ることが多くありました。

 

 本妻は人に劣る点はありません。身分的にも尊ぶべき父親王が大切に育てたこともあって、世間の信望も軽くはなく、器量もよかったのですが、奇妙なことに執念深い物の怪に取りつかれてしまって、この数年来は常人のようではなく、正気を失う時が多くなってしまい、夫婦仲は久しく疎遠になっていました。

 それでもヒゲ黒は「本妻として尊重すべき人」として、並ぶ者はいないと思っていましたが、珍しく心が惹かれた女性が一通りどころではなく、人よりも勝っている様子でした。その上、太政大臣との仲を疑っていた皆が想像していたことと違って、清らかな処女でしたので、「有り難く、愛しい」との思いが増していくのはもっともなことでした。

 式部卿はそうした事情を聞いて、「今はもう、目新しい人を連れて来て、大事にかしづこうとしているのに、その片隅で縮こまって暮らしていくのは世間体も悪く、肩身も狭いことになる。私が元気なうちはそんな物笑いになる状況に落ち込む必要もない」と言って、ヴィルサヴァン城の東の館を整理して、そこに住まわせよう」と決めました。ところが本妻は「実家だから、と言うものの、成れの果ての身となって戻っていくのも」と煩悶して、ますます気分が悪くなって、ずっとベットに臥したままでいました。

 

 本妻の生来の性格はいたって冷静で、心も素直でおっとりしているのですが、時々、心が乱れてしまい、人に疎まれるような行動をしてしまいます。住まいもとんでもなく乱雑になっていて、身奇麗な感じもなくやつれて、見る影もなく引き籠っていますので、玉を磨いたような玉鬘を見馴れた眼では心も引かれません。それでも長年連れ添って来た愛情に引き換えるものはありませんから、内心ではひどく可哀想に思っていました。

「昨日や今日にすぎない、夫婦の仲になったばかりの間柄であっても、貴族の身分であるなら、皆、我慢しあって、最後まで添い遂げるものです。貴女は非常に苦しそうにされているので、言うべきことも口に出しづらいのです。かねがね約束しておりますように、常人ではない有り様でも、最後までお世話してあげます。こちらも長い間、じっと堪えて辛抱してきたのですから、もう我慢できずに別れよう、といった料簡は起こさないでください。

 幼い子供たちもいますから、あれこれあったところで、貴女をおろそかにはしない、と申しているのに、嫉妬心に狂って私を恨んでばかりいます。私の心情を最後まで見きわめないうちは、それもありえましょうが、今しばらくは私に任せて冷静に見ていてください。貴女の父宮が聞いて気分を害し、『この際、きれいさっぱり引き取ってしまおう』と仰せになるのはかえって非常に軽率です。本当にそう決心されているのでしょうか。それともしばらくの間、懲らしめてやろう、ということでしょうか」と笑いながら話しますが、聞く側にとっては憎らしく不愉快です。普段から夜の側女(そばめ)としても身近に仕えているオディール(Odile)、テレーズ(Thérèse)といった侍女たちすら、それ相応に「面白くもなく辛いことだ」と恨んでいました。

 

 まして本妻は正気な時でしたから、親しみが持てそうに、ただ泣いていました。

「私のことを『老い呆けて、ひねくれている』とおっしゃって辱めるのは当然なことです。それなのに父宮のことまでひっくるめて引き合いに出しているのを漏れ聞いたら、何と思われることでしょうか。『私のような因果な者を娘に持っているのは可哀想だ』と世間から軽々しく言われてしまいます。私の方は、もう聞き慣れていますので、今さら何を言われてもどうとも思いませんが」と背を向けている姿はいじらしいほどです。

 大層小柄な人ですが、長年の持病で痩せ衰えて、か細く弱々しく、とても清らかで美しかった髪も抜け落ちたかのように薄くなっていて、梳くこともしないので涙でべっとりと濡れているのはひどく哀れでした。細やかな愛嬌などはないものの、父宮に似て上品で優雅な容貌でありながら、もう何も構わずにいますので、花やかな気配はどこにもありません。

 

「貴女の父宮のことをどうして軽々しく言いましょうか。人に聞かれたら恐ろしく思われるようなことは言わないでください」と宥めるものの、「目下、私が通っている所は非常に眩く立派なお城なので、物馴れない生真面目な恰好で出入りするのは、人目について都合が悪く、もっと気楽なこちらに引き取ろうと考えている。

 あの太政大臣は今の時代にあって、類のない威勢をお持ちであることは言うまでもなく、こちらが恥じ入るほど何事にも行き届いているお方だから、こちらの騒ぎを漏れ聞いてしまうのは、誠に申し訳なく、かたじけないことなのです。ですから、お連れして来る方と穏やかに仲良く暮らしてください。実家へ戻っていったとしても、忘れることはありませんよ。どちらであっても、今さら気持ちが隔たることはありませんが、世間に知られて物笑いにされてしまったら、私としても軽率の謗りを受けてしまいます。長年、契りあって来たのですから、お互いに助け合っていこう、と考えてください」と説得していきました。

 

「ともかく貴方の冷酷な仕打ちは気にはしておりません。ただ常人にはありえない病にかかってしまって、父宮も思い歎いて『今さらながら、世間に笑われてしまう』と胸を痛めておられるのが気の毒ですから、どうして実家に戻ることができましょう。太政大臣の正夫人と言われる方は、私にとって他人ではありません。その方は母親も父親も知らない状態で育ちました。父宮は『今になって大将のものになった女性に母親のように世話を焼き、こちらに辛い思いをさせた』と恨んでおりますが、私はそうとは思っておりません。ただ貴方のなさり方を見ているだけです」と答えました。

 

「貴女は正常な時は殊勝なことを言うが、例の病気が出てくると面倒なことが起きてしまう。太政大臣の正夫人はこの件に関してはあまりご存知ないようです。神に仕える箱入り娘のように大事にされていますから、余所から突然現れた女性に関心を持つことはありえませんし、あの人の親らしく振舞うことなどありませんよ。そんな話まで聞いていたら、面倒なことになってしまう」と一日中、正夫人の部屋で語り合いました。

 

 

 

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