「大和国」が「狗奴国」であったとする発想はタブーのようですが

 

1.   大和国が邪馬台国の敵国の狗奴国であったはずはない、との固定概念

 

暦が二十世紀からに二十一世紀へと変わる頃、古事記の神武天皇から第十代崇神天皇までの氏族の動きをじっくりと読み込んでいくうちに、第七代孝霊天皇の王子である吉備津彦兄弟の吉備征服に着目しました。この逸話は「桃太郎伝承」の原型と言われていますが、吉備津彦兄弟の吉備征服の後、第八代孝元天皇、第九代開化天皇,第十代崇神天皇の比較的短い期間で、大和王権は九州中南部(肥後と日向)から東国(陸奥の阿武隈川と越後の阿賀野川流域)にまで勢力下に置いて、初めて日本(東西倭国)の統一を果たしています。このことから、ひょっとしたら邪馬台国は吉備国で、敵国の狗奴国は大和国ではないか、との図式が浮かび上がって来ました。

この仮説に沿って青山光雅氏のプロデュースで、20024月(平成十四年四月に「邪馬台国-岡山・吉備説から見る古代日本の成立」、20091月(平成二十一年一月)に「邪馬台国吉備説〔神話編〕」を上梓した後、当ホームページで続編の投稿を継続していますが、邪馬台国吉備説は誤りではないことを日々確信しています。

 

 そうこういるうちに、二十三年の歳月が流れていますが、「邪馬台国吉備・狗奴国大和説」の認知度は広がらず、相変わらず世間では、右派系は「神武天皇の即位は紀元前660年説」、左派系は神武天皇と第九代開化天皇までの歴史的存在を否定する「欠(闕)史八代説」の二説が並行する形で論議が続いています。

紀元前660年説」は奈良時代初めの紀元720年に編纂された日本書紀の歴代天皇の暦年に基づいたもので、「欠史八代説」は前者の反動として1945年の第二次世界大戦以降に定着したものですが、両説には幾つかの共通点があります。

  西暦一世紀後半に実在した神武天皇(イハレビコ、磐余彦・伊波禮毘古)を、実在しなかった神話上の人物ないし神さまと位置付づけている。

  縄文時代、弥生時代を経た一万年に及ぶ日本列島の歴史には無関心か無視して、日本の文明化は五世紀初頭に渡来人系学派が漢字を含む中国文化を伝えたことに起因し、それ以前は文明化されていない未開の神話時代とみなしている。

  九州と大和の間にある吉備と出雲の存在を軽視している。倭国(西日本)の中心は弥生中期は伊都・奴国、弥生後期は吉備・出雲、古墳時代は大和の流れの中で、吉備・出雲を重要視していないがために、迷路にはまり込んでいる。

  九州など他の地にあった邪馬台国が大和に移った可能性はあるものの、最終的には大和国こそ邪馬台国であり、敵国の狗奴国であったはずはない。

 

どうして「欠史八代説」でも、「邪馬台国は大和説」に固執しているのかは理解に苦しみますが、この結果、「大和狗奴(葛)国説」は右派でも左派でもご法度となっている印象を受けます。

 

 

2.   大和狗奴国説は不敬ではなく、実在した神武天皇の尊厳につながる

 

大和国が狗奴国であったはずはない、と信じ込んでいる方々の中には「大和狗奴国説」は皇室に対する冒涜だ、不敬だと非難される人もおられるでしょうが、むしろ歴史的に実在した人物を神話上の架空の人物と見なす方が、よほど失礼に当たります。何らかの政治的・社会的要因に影響されているだけにすぎません。さぞかしイハレビコは「いつになったら、実在した人物として認知されるのだろうか」と心待ちにされておられることでしょう。

新井白石以来、「紀元前660年説」と「欠史八代説」の双方でもさほど留意されていない、①縄文時代からの日本列島の流れ、②神武天皇から崇神天皇に至る主要氏族の動向、の二点を追跡していくと、紀元57年の「奴国の金印」の後に吉備邪馬台国や宗像氏の意向を受けて、日向のイハレビコが宇陀野の水銀朱鉱山を確保した後。大和の南葛城地方に狗奴(葛)国を建国し、第八代目孝元天皇と九代目開化天皇にかけて、吉備邪馬台国の制覇に成功した筋道は明白です。

 縄文時代から一本の糸でつながる日本列島を統一した世界最古の王家の存在は日本人としての誇りであり、その王家を継続させていくのは、必然であると自負しています。

 

 

3.   大和に女王国は存在しなかったことは明白

 

 飛鳥時代末期から奈良時代初期の大和朝廷が、ヒミコ(卑弥呼)とトヨ(台与)の二女王を百二十年後の神功皇后に擬して日本書紀の神功皇后紀を編纂していることは、朝廷は女王国の所在地を知らないか、女王国が大和盆地にあったとする伝承など存在しなかったことを明白に示しています。

 ヒミコとトヨを神功皇后に擬さざるをえなかった事情は、「邪馬台国論争が新井白石以来、三世紀以上も決着がつかない二つの理由」(参照:自説の要旨2.)で詳しく説明しましたが、渡来人系学派に対峙する、中臣氏を代表とする国内派は、女王国は大和ではないことを承知していたことから、二女王が神功皇后と同一人物と見なして「邪馬台国は大和国」と特定することに反対しました。この結果、「おそらくヒミコとトヨは神功皇后のことであろう」といった、曖昧な記載となりました。

 

 

4.   箸墓に祀られたトトビモモソヒメをなぜ女王トヨと推定したのか

 

日本書紀の崇神天皇紀の箸墓に埋葬されるヤマト-トトビ-モモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)に関する部分を読んでいるうちに、モモソヒメは吉備の女王トヨだったのではないか、とのシナリオが頭に浮かびあがりました。

モモソヒメは吉備津彦兄の同腹の姉で、讃岐一の宮の田村神社の筆頭祭神です。同神社の伝承では弟の吉備制覇を鼓舞するためにやって来た、とのことですが、同神社の近くに百相(ももそ。もまい。意味は多くの家並みがある町)があり、東香川市の水主(みずし)神社など讃岐に幾つかの伝承があります。

即位して間もない崇神天皇は国内外の治安の悪さに苦慮しますが、モモソヒメがオオモノヌシ(大物主)を纏向を見下ろす三輪山へ招請する助言をしました。オオモノヌシは大和系のムスビ神の系譜ではなく、イザナギ系の瀬戸内海の神で、金刀比羅宮の祭神でもあります。トヨの助言を守ると内外の治安は穏やかになりました。さらにモモソヒメは崇神天皇の叔父タケハニヤスビコ(武埴安彦)の謀反を察知しました。

 

ここから私が思い描いた筋書きは以下のようです》

 266年、吉備邪馬台国はアマツヒコネ(天津彦根)族が率いる大和国の水軍の急襲により敗北。女王トヨは生まれ故郷の讃岐に逃亡したが、吉備津彦兄の説得で開化天皇の后候補兼人質として大和入りして、讃岐の百相から来たモモソヒメと呼ばれるようになった。紀元266年時でトヨは三十一歳か三十二歳くらいでした。

 開化天皇の急死を受けて、二十歳前後の崇神天皇が即位したものの、国内外の治安の悪さや病災害の流行に悩んでいたことから、開化天皇の急死で中途半端な存在になっていたトヨに国主としての心構えやノウハウを尋ねて行きます。

 トヨが真っ先に提案したのは、備中・備後・安芸・讃岐や伯耆でゲリラ活動を続ける吉備邪馬台国の残党を鎮めるために、大和の三輪山にオオモノヌシを招請し、併せて、水軍の河内アマツヒコネ族が吉備から河内湾周辺に移住させていた太田田根子などの人々や特殊壺・器台などの技術者を首都の大和盆地に招き入れることを提案しました。トヨのアドバイスに従った結果、崇神天皇は倭国(西日本)の盟主の座を確立しました。

 

 崇神天皇は西日本の足固めと東日本への進出により、大倭国(日本列島の統一)の構想を始めました。すると母方が河内アマツヒコネ族である、叔父タケハニヤスビコが反乱を起こしました。トヨの忠告もあって反乱を鎮圧した後、崇神天皇は四道将軍として西の有明海に吉備津彦兄、北の丹後王国に弟ヒコイマス(彦坐)、北越に義父オオビコ(大彦)、東国に義兄タケヌナカハワケ(武渟川別)を派遣し、オオビコ親子(安拝氏、阿部氏)は岩代国の会津で合流して東日本を手中にしました。

 ところが東国の最大の拠点である関東平野は手つかずのままであることが判明しました。「吉備王国は海からの攻撃で大和国に敗れた」とのトヨの述懐にヒントを受けた崇神天皇は意富氏と中臣タケカシマ(建借間、建鹿島)を房総半島の付け根に当たる銚子の水道に遣り、常陸・下野・上野の関東平野の制圧に成功しました。

 東国を手中に入れたい阿部氏(オオビコ親子)はトヨと中臣氏の台頭を警戒してトヨいじめを繰り返し、それを苦にしたトヨは自害に追い込まれてしまいました。それに激怒した崇神天皇はトヨを弔う箸墓の造成を決め、同時にオオビコ親子の分断を狙ってタケヌナカハワケを筑紫に送り、逆に筑紫や周防・安芸に地盤を固めていたアマツヒコネ族とアメノユツヒコ(天湯津彦)族の一部を東国に移動させ、東国全体の統括者としてトヨキイリヒコ(豊城入日子)王子を下野に送りました。

 崇神天皇の晩年になって、最後まで独立を堅持していた西出雲王国を制覇し、敗者となった残党が東国に送られて武蔵・下総の征服に成功して、大和による初の日本統一が達成され、第十一代垂仁天皇の時代に、日本統一の記念碑として、大和から海路での東国への出発点である伊勢の五十鈴川に伊勢神宮が造営されました。

 

 日本書紀を素直に読んでいけば、大和王朝の日本統一までの経緯がくっきりと浮かび上がって来ますが、なぜか「欠史八代説」を振りかざして、「中国を主眼とする東洋史学から解き明かして行くのが革新的、先進的である」と誤解されている方々が依然として大多数なことは至極残念でなりません。

 

 

5.   邪馬台国吉備説が実証されるには

 

 吉備地方には大中規模の水田耕作が可能な吉井川、旭川、高梁川、芦田川の四大河川が存在しますが、総社市北部の井尻野辺りで高梁川の支流が東に流れ、足守川と合流して吉備津の川入に注いでいました。これにより総社市から川入までは飛躍な平野部として、吉備地方の中心部となっていました。春になると川の土手に無数のワラビが吹き出すことが、キビ(黄色いワラビ)という地名の語源となっています。

吉備発祥の特殊壺・器台が大和の埴輪の土台となっただけでなく、楯築遺跡の弥生墳丘墓は阿波王国を経由して、大和の前方後円墳の源流となったことは、いずれ実証されるでしょう。

吉備津神社の内陣はヒミコとトヨの女王の間であり、鯉喰神社弥生墳丘墓は地元の方々が大事に護ってこられたヒミコの墓、と推察していますが、吉備邪馬台国説を裏付ける、「魏王の金印」級の品々が発見される候補地として、

  吉備津神社の広域な意味での敷地内、

  吉備津彦兄弟に抵抗したウラ(温羅)軍の拠点があったと見られる、総社市阿曽から鬼城山に至る地点、

の二か所を予想しています。