その39.夕霧               50

 

1.夕霧、オービュッソンを訪問し、落葉に恋を告白

 

四十四年ほど前に、桐壷王がイタリアに遠征して以来、断続的に繰り返されて来た神聖ローマ帝国・スペイン王国と手を結ぶことを危うんで、反対する声を何とか抑え込んで、

ローマ教皇、カール五世と安梨王が結束して、西のイングランドのヘンリー八世、東のオスマントルコのスレイマン一世に対する対抗していく連合がまとまり、一区切りがついた夕霧は、落葉上への思いを具体的な行動で示していこうと、腹を固めました。

 

 世間からの「堅物」との評判どおり、品行方正を自負してきた夕霧でしたが、落葉上の様子が「やはり心に止まる女性だ」と気にかかっていました。世間からの視線に対して、亡き柏木と親密な仲であったことを忘れてはいない風に見せながら、落葉上への見舞いを手厚くしていました。教皇やカール五世などとの国際外交で奔走していた時でも、それだけでは済みそうにない思いが募っていました。

 ル・リヴォ夫人も「大変もったいなく、めったにない親切な気持ちをもっておられる」と、今はますます寂しさが増して行く所在なさの中で、しばしば訪れて来るようになった夕霧に慰められることが多くありました。当初から、落葉上に恋心を抱いていることを口に出すことはなかったので、夕霧は「打って変わって恋心を見せて、色っぽく振る舞ってしまうのもきまりが悪い。ただ落葉上に対する深い愛情を見せて行くなら、相手も心を許してくれる折もあることだろう」と思いながら、そうなっていく運命であることを信じて、落葉上の気配や様子をうかがっていました。それでも落葉上自身が夕霧と面会して対話をすることはありません。

 

「どういった機会に自分の思いをじかに話して、その反応を見ることができるであろうか」と考え続けているうちに、ル・リヴォ夫人が物の怪に取りつかれて、ひどく患ってしまったため、タペストリーの製作地と知られるようになっていたオービュッソンに所有している山荘に移りました。以前からル・リヴォ夫人が祈祷を依頼していて、物の怪を追い払ことにも長けている律師が、「隠者として山に籠り、人里には出ないことにする」と誓いを立てて、ル・ピュイ・アン・ヴレイに籠っていたのを、ル・ピュイに近いオービュッソンにまで下りてきていただこう、という意図もありました。

 夕霧はオービュッソンに向かう馬車や前駆の者などを差し向けましたが、逆に亡き柏木とつながっている弟たちは、めいめい仕事が多忙なことを口実にして、そういったことにさして気が付かないふりをしていました。ことに柏木のすぐ下の弟のロランは未亡人になった落葉上に思い寄る気もなくはない、といった素振りを匂わせたのに、思ってもみない不快な反応を落葉上が示したことから、ル・リヴォ城を訪れることはなくなっていました。

 

 結局、夕霧だけが大層賢く、さりげない親しさで面倒をみたことになりました。「修法などをさせる」と夕霧は聞いて、僧への布施や浄衣などのような細かい点まで留意して贈りましたが、病気に臥しているル・リヴォ夫人は返礼もできないでいました。

「通り一遍な女官の代筆では不愉快に感じられましょう。元帥にまでお上りになられた重々しいお方なのですから」と侍女たちが忠告するので、落葉上は返礼を書きました。

筆跡はとても趣がありましたが、ほんの一行ほど書き添えた文はおっとりした筆つかいで、文面もなつかしみがあるように書かれているので、ますます返信を読んでみたくなって、夕霧はしきりに手紙を送るようになりました。正夫人の雲井雁が「この調子だと、しまいにはそれ相応の仲になってしまう」と察しているようなのが煩わしいので、山荘を訪ねてみたいと思いながらも、すぐには実行できないでいました。

 

九月十三日頃なので、野山の景色も美しい時分となって、山荘の様子も見てみたくなりました。

「何とかいう、五位の身分の律師が山からオービュッソンに下りて来られた、ということだ。その律師に是非とも相談したいことがあるから、病気中のル・リヴォ夫人の見舞いがてら出掛けてみる」とさりげない訪問のように言い訳をして、アゼイ・ル・リドー城を発ちました。前駆も大袈裟にせずに、親しい者だけ五、六人を狩り姿にさせてお供にしました。大した山深い道ではありませんが、ゲレ(Guéret)を過ぎると、峰の色なども奥山ではないものの、秋の気配がしています。山荘も贅を尽くしたロワールの住まいではないものの、風流さも情緒もロワールより勝っているように見えました。

 ちょっとした小柴垣すら由緒があるように造っていて、仮りの住まいではあるものの、ロワールでは見かけたことがない、野辺の風景と野花を織り込んだ新しいタペストリーが飾られていて、品が良い住まいになっています。寝所と思える東側に張り出ている部屋に祈祷用の祭壇が設けられていて、北側の控えの間にル・リヴォ夫人が、西側の間に落葉上がいました。

「物の怪が厄介だから」と夫人はロワールに留まっているように落葉上に言ったのですが、「どうして母上と離れていられましょうか」と同道していました。それでも物の怪が落葉上に乗り移ってしまうのを恐れて、少しでも離れていなければと、夫人の間と落葉上の間に物置を設けて落葉上が夫人の間に近づけないようにしていました。

 

 客人を迎える場所などないので、落葉上がいる間をカーテンで仕切った場所に夕霧を招き入れて、上級の侍女たちが夕霧と夫人の会話の取り次ぎをしました。

「もったいないほどに、こんな所にまでご親切にお訪ねくださいました。もし甲斐もなく私が死んでしまったなら、お見舞いして下さったお礼をすら申し上げることができなくなってしまう、と思いますと、今しばらくはこの世に命を引き留めておきたい気持ちになります」と伝えました。

「こちらへ移られる際に、お見送りをしよう」と考えておりましたが、父から頼まれた用事をしている際中でした。それから後も、何ということもないことで忙しく、どうされておられるか案じていながらも、不本意にも疎遠にしていると思われているのではないか、と心苦しく感じておりました」と夕霧が話しました。

 

 落葉上は奥の方にひっそりと隠れていましたが、仰々しくもない仮り住まいの山荘でしたから、奥行きは深くはなく、自然とじっとしている人の気配がはっきり分かります。とても物静かに身じろぎする時の衣擦れの音を、夕霧は「ああ、あそこにおられるのだ」と耳を傾けていました。心も上の空になりつつ、ル・リヴォ夫人との取次ぎが少し手間取っている間、夕霧はいつもの少将の君などと言った侍女たちと雑談をしました。

「柏木殿が亡くなり、こうやって伺うようになってから、かれこれ三年にもなるのに、いまだに他人行儀な扱いをされるのは恨めしいことです。このような内カーテンを隔てて、人づてに挨拶をか細げにやり取りするなんて、これまで経験したことはありません。『何て古くさい作法をしているのだ』と人から笑われてしまうだろう、と体裁が悪い思いです。まだ歳も若く官位も低く、身軽に振る舞うことが出来た時代に、こうした色めいたことに馴れていたなら、こんな初々しい気持ちなどありはしないでしょう。私のように生真面目に愚かしいまま年月を送って来た者など、例はありませんよ」と愚痴をこぼしました。

 

 夕霧の態度があまりに無視できない様子なので、侍女たちは「やはり中途半端な返事で済ませてしまうのは気が引けます」と互いにつつき合って、「あそこまで不満を言われるのですから、きちんとした返答をなされないと」と落葉上を説得しました。

「母上が直々に挨拶ができないのが心苦しく、代わってこの私がお相手をすべきでしょう。とは言うものの、母が恐くなるほど苦しんでおりまして、その看病をしているうちに、私までが生きているのか、死んでいるのか分からない気分になってしまっております」と落葉上は侍女を通じて伝えました。

「本当に落葉上のお言葉ですか」と夕霧は居ずまいを正しました。

「ル・リヴォ夫人の病苦を自分の身に替えてでも、とまで嘆いておられるのはどういうことでしょうか。恐れながら、夫人が物事を判断できるように晴れやかな気分に回復されるまで、貴女がしっかりと平穏に過ごしていくことが、どなたにとっても頼りになることだ、と私は推察しております。それにしても、私の積もり積もった貴女への思いを、他人事のようにとりなされて、認めていただけないのは、不本意な気持ちがいたします」と答えましたが、侍女たちは「全くもっともなことです」と落葉上に伝えました。

 

 日が沈んで行くにつれ、空模様もしっとりと霧が立ち籠って来て、山蔭が薄暗くなっていく心地がする中、南フランスに近いせいか、ヒグラシ蝉がしきりに鳴いて、垣根に咲いている撫子の花が風になびく色合いも趣があります。前庭の花々が思い思いに乱れ咲く中、小川の流れの音がとても涼しげです。山おろしの風がぞっとするように吹いて、松風の響きが木深い中から聞こえて来ます。十二時間ごとに交代する不断の祈祷の交替を知らす鐘が鳴って、座を立つ僧と入れ替わりの僧の声が一つに合わさって、誠に尊く聞こえます。

 場所柄、あらゆるものが心細く感じられて、夕霧はしんみりともよおしているうちに、立ち去って行く気持ちがなくなりました。律師が祈祷を始め、貴い声で旧約聖書をヘブライ語で読みだしました。「夫人の苦しみがひどくなってしまった」と言い合いながら、侍女のほとんどが夫人の病室に集まって行きました。こうした山荘に大勢の人を連れてきていないので、落葉上に侍る侍女の数も少なくなる中で、落葉上は思いに耽ってしました。

「こうしたひっそりとした時こそ、自分の思いを告げる機会だ」と夕霧が考えているうちに、霧が軒先にまで迫って来ました。

「帰っていく方角も霧で見えなくなって来ました。私はどうすべきでしょう」と言って夕霧が詠みました。

(歌)山里の物寂しさに添えるように 夕霧が立ち込めてきて 帰って行くこともできない心地がします

 すると落葉上が返歌をしました。

(歌)この山荘の垣根を包んで 立ち込めている霧も 貴方のように浮かれた心をお持ちの人は 

      引き留めたりいたしません

 

 小声で落葉上が返歌を詠む気配に気持ちが慰められて、夕霧はいよいよ立ち去ることを忘れてしまいました。

「どうしたらよいか分からなくなってしまいました。帰り道も見えなくなり、霧が立ち込めた垣の中で立ち止まることもできないのに、私を追い出そうとされるのですから。こうしたことには不馴れな私なのに」などと、ためらいつつも堪えきれない恋心を夕霧はほのめかしました。落葉上はこれまでも夕霧の思いを全く気付かなかったわけではなく、そんなことは知らぬ顔でやり過ごしてきたのですが、ここまで言葉に出して話すのが面倒になって、返答をしないでいました。

 夕霧はひどく溜息をつきながら、心の中で「こんな機会はめったにないことだ」と思案をめぐらしました。「情ない軽薄な男と思われても仕方がない。ずっと思い続けて来た恋心だけでも打ち明けよう、と意を決して、従者を呼ぶと右近衛府の官位六位の将監から五位に昇格し、夕霧が信頼している者がやって来ました。

 夕霧は小声で、「律師に是非とも話したいことがあるのだが、今は護身法などの実施で、暇がおありでないようだ。そのうち休息をとられるだろうから、今夜はこちらに留まって、夕刻の例時の作法が終わった頃に、律師のところに行こうと考えている。この者とあの者はここに残ってもらうが、随身などの男たちはゲレとオービュッソンの間のアウン(Ahun)にある荘園へ行って、馬に秣を食べさせるなどして、ここで大勢の声が立たないようにしてくれ。こういった所での旅寝は軽率なことだ、と取り沙汰する人もいるだろうから」と指示すると、将監は「そのようにいたします」と了承して、立って行きました。

 

 その後、夕霧は「帰る道が霧ではっきりしなくなったので、この辺りに宿を得ようと思う。同じ事ならこの内カーテンの近くをお借りしたい。もちろん、司教たちのお勤めが済むまでだが」とさりげなく侍女たちに告げました。それを奥で聞いていた落葉上は「いつもはこのような長居をして、浮ついた様子も見せたこともなかったのに、情ないことになってしまった」と困惑しましたが、わざとらしく

さっさと母の病室に逃げこんで行くのも体裁が悪い気がするので、ただ音も立てずにひっそりとしていました。

 すると「とにかく、そのことだけでもお伝えしておこう」とする取次ぎ役の侍女に隠れて、夕霧も内カーテンを抜けて奥に入ってしまいました。まだ残っている夕暮の霧に閉ざされて、室内は暗くなっていました。後ろを振り返って夕霧に気付いた侍女は呆れかえっていますが、落葉上が侍女が出入りする北側のドアの外に出ようとしているのを、夕霧はうまい具合に探り当てて引き止めました。

 身体はドアの外に出たものの、ドレスの裾が残ってしまっています。ドアは外側には掛け金がないので閉めることができないため、落葉上は汗を水のように流しながら、震えているだけです。侍女たちも驚き呆れて、どうしたらよいかも考えがつきません。内側には掛け金がありますが、外側からではどうしようもできません。相手は元帥と身分が高いこともあって、手荒く裾を引っ張るにも失礼にあたるので、できずにいます。

 

「まあ、何て浅ましいことを。こんなことをなさるとは思いも寄りませんでした」と、落葉上は泣かんばかりに裾を放してもらうように懇願しますが、「この程度の近さでお話をしようとしているだけなのに、誰にもまして疎ましく、目にあまる男だと思われるのでしょうか。人の数にも入らない私ですが、もう聞き慣れておられる私の思いには年月が重ね積もっております」と、夕霧はとても落ち着いて体裁よく胸中の思いをドア越しに伝えますが、落葉上は聞き入れるどころではなく、「ここまでとは、何て悔しいことを」と感じることしか出来ないままで、まして返答をするなど思いも寄りません。

「何と情けないほど少女じみた振る舞いなのでしょう。人知れず、心の中で思い詰めてきた好色さは罪にもあたりましょうが、今夜はこれ以上、馴れ馴れしい行為は、お許しが出るまではいたしません。ただ、

(歌)ひとたび恋しいと思ってからは 恋する苦しみが ばらばらに砕けてしまっている

といった思いに堪えかねていたことか。いくら何でも、私の貴女への思いは自然とお分かりになっておられたことでしょうに、強いて知らないふりをされ、私を嫌っているように応対されているので、これ以上話すこともできません。どうしたら良いのでしょう。分別がないのが憎らしい、とお思いでしょうが、このまま空しく終わってしまう嘆きをはっきりとお耳に入れておきたいだけなのです。つれない扱いは言い尽くせないほど、面目ないことですが」と言いながら、むやみなことはしないまま、情け深げに慎んでいました。

 

 外側から押さえているドアを押し開けるのは造作ないことでしたが、夕霧はあえて開けようとはせずに、「この程度の防御で拒めると、無理に考えておられるのはお気の毒ですね」と苦笑いをしていると、ドアを押さえる手が緩んで、夕霧は落葉上と対面することが出来ました。それでも夕霧はあえて思いに任せた厭わしい行動はせずにいました。

 落葉上の様子には、心が引かれる高貴さと優雅さがあり、何と言っても類なく見えました。ずっと続いて来た物煩いのせいで、痩せに痩せた弱々しい印象を与えますが、普段着のままの服の袖のあたりがしなやかで優美で、服に染み込んだ薫り物の匂いなど、何から何まで可愛げで柔順な感じがしました。

 

 とても心細く吹く風の中で夜が更けて行く風情、虫の音色も鹿の鳴く声も、滝の音も一つに入り乱れ、しっとりとなまめかしい気分が漂います。ありきたりな情緒など解さない人間ですら、ふと目を覚ましてしまいそうな風情の中、よろい戸を閉めていない室内から沈んで行く月が山の端に近づいいていく光景を見ながら、夕霧は物悲しい思いにとらわれました。

「なおも私の恋心を理解して下さらない様子は、かえって貴女のお心が浅薄なことを思い知らせます。ここまで世間並みとは言えないほど、愚かな正直者は世の中に例がないと存じます。何事においても、軽々しく考えてしまう人こそ、私のような男を『愚か者』と嘲笑して、つれない仕打ちをするものです。あまりにもひどく私を見下されていると、もうとても我慢はしていられない気持ちになります。貴女も男女の仲というものを全く知らない、というわけでもないでしょうに」とあれこれ言い責め立てますが、落葉上は「どのように返答すべきなのか」と困り切った思いでいました。

 

 夫を持った経験があるので、もう処女ではなく心配はいらない、といったような意味合いを夕霧が折々ほのめかすのも心外で、落葉上は「本当に私のような不運な者がいるだろうか」と思い続けていると、死んでしまいたい気持ちになって、「自分の辛い因果を思い知ってはいるものの、ここまで侮られしまうことを、どう解釈したらよいのだろう」とそっと悲しげに涙をこぼしました。

(歌)私一人が 不幸な結婚をした女の見本として すでに涙で濡れている袖をさらに濡らして 

   自分の名を汚せねばならないなんて

と、落葉上がと口に出すつもりもなく漏らしている歌を、夕霧は心中で読み取って、ひそやかに誦じたので、落葉上は気恥ずかしくなって、「どうして漏らしてしまったのだろう」と悔やんでいると、「いやいや、誤解されやすい言い方をしてしまった」と夕霧は微笑む仕草をしました。

(歌)涙で濡れた服を 私が貴女に着せなくとも 一度立ってしまった浮名は 隠すことができません

「ここまで来たら、もう仕方がないと思いこんでください」と夕霧は言って、月が明るく射している方へ誘います。「そんな浅ましいことを」と感じた落葉上は気強く拒みますが、夕霧はたわいもなく引き寄せました。

「これほどまでに類がない私の愛情を理解されて、心安く相手をして下さい。お許しがなければ、これ以上、無謀なことはしませんから」と大層はっきりと話しているうちに、明け方近くになりました。

 

 月が曇りなく澄み渡り、霧にも邪魔をされずに光りが射しこんで来ました。奥深くもない控えの間の軒は端近な感じがして、月面が自分の顔をさらしてしまうのが妙にきまりが悪く、月光から隠れるように顔を背ける仕草などは、言いようもなくなまめいています。夕霧は故人となった柏木のことも少し話したりしながら、体裁よくしんみりと話しました。それでも、さすがに柏木のようには扱ってくれず、他人行儀なことを恨んで咎めたりしました。

 落葉上は心中では、「亡き夫はまだ官位四位の中納言で、さほど官位が高くはなかったものの、誰も彼もが縁組を許したことから、自然と周囲から促されて妻となった。とはいうものの、夫は私に目に余る冷淡な扱いをした。まして未亡人として、この人とあってはならない関係になってしまったら、夕霧の本妻で亡き夫の妹である雲井雁がとやかく言うだけでなく、柏木の父大臣などもどう思われることだろう。すべての人の謗りを受けてしまうことは言うまでもなく、父の朱雀院にもどのように思われることだろう」などと、つながりがあるあちらこちらの人たち反応を思いめぐらして行きました。

「こうなってしまったことは非常に残念なことだ。自分だけは心を強くして操を守り通したとしても、世間の人はどういった取り沙汰をするであろうか。母上が承知していないのも気が咎めるし、後で知って、思慮に欠けていたと叱られてしまうのも、せつないことだし」と考えて、「せめて夜が明ける前にお帰り下さい」と夕霧をせきたてることしかありません。

 

「情ないことだ。何か事を成し遂げたかのように帰って行く私の姿を、朝の霧がどう感じることだろう。そういうことなら、察しておいてください。私を愚か者のように思われて、うまく追い出したつもりで、その後からよそよそしくされてしまうと、その時にこそ、けしからぬ行動をしてしまうようになる、と考えておいて下さい」と夕霧は、後ろ髪を引かれてしまいそうな未練は並々ではないものの、軽率に取り乱すことはできない気持ちが勝りました。これ以上は落葉上が気の毒であるし、落葉上が私に幻滅してしまうと、どちらのためにもならないと悟ったので、ぼんやりした霧に隠れて立ち去りましたが、心は上の空でした。

(歌)荻原の軒端の露に濡れながら 立ち込める霧をかき分けて 寂しく帰って行かねばなりません

「貴女も涙に濡れた服を乾かす気にはならないでしょう。無理やり私を追い出した、良心の呵責にさいなまされて」と告げました。

 これを聞いて落葉上は「確かに自分の名は噂になって漏れ聞こえていくだろうが、せめて自分の心に問われた時だけでも、潔白だと答えよう」と考えて、つとめて冷ややかな態度でいました。

(歌)帰って行かれる草葉の露に ご自分が濡れてしまうのを口実にして 私にも濡れた服を着せたいと 

   思っておられるのですか

「心外な言い方をされますね」と落葉上が夕霧元帥を咎める様子には、大層立派で第二王女らしいらしい気品がありました。

 

 夕霧は今までは、人とは異なる人情深い人物になって、様々な思いやりを見せて来たのに、この日は態度を一変させ、油断していた相手に好色な側面を見せてしまったのが、相手に対して気の毒であるし、自分も気後れがしてしまう、と少なからず反省しながらも、「こうすんなりと相手の言葉に従ってしまうと、これから先、みっともない思いをすることになるのではないか」と、あれこれ煩悶しながら去って行きました。

 途中で休憩をはさみながらロワールに戻る道中も、朝露にじっとりと濡れてしまいました。こうした恋の忍び歩きは馴れてはいない気持ちをしながら、風流なようにも気がもめるようにも感じながら、「自邸のアゼイ・ル・リドー城に戻ると、雲井雁がこうした濡れ姿を見て、怪しいと疑うに違いない」と考えて、ヴィランドリー城の花散里の住まいに向かいました。まだ朝露は晴れないままでしたが、「それ以上に、あの山荘はどんな様子であろうか」と思いやりました。

 花散里の住まいに着くと、「いつになく忍び歩きをされて来たようですね」と侍女たちはひそひそささやき合いました。しばらく休んだ後、夕霧は着替えをしました。花散里邸では常に夕霧用の夏・冬の衣服をきちんと用意してあるので、侍女が香りを入れたイタリア製の櫃から取り出しました。

 夕霧は朝食をとった後、父ヒカルの住まいに出向きました。

 

 

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