その30.藤袴(薄紫の蘭の花)                (ヒカル36歳)

 

5.柏木、内大臣の使いをして玉鬘の冷淡を恨む

 

 八月に大宮の服喪期間が終了して、玉鬘も喪服を脱ぎました。神聖ローマ帝国とスペイン王国を治めるカール五世陣営との冷泉王の返還交渉は難航して、目処はたちませんが「とにかく忌み月の九月をはずして十月に玉鬘を王宮に上げて、王宮勤めに馴れさせておこう」とヒカルは考え、王宮からもその旨の要請がありました。

 玉鬘に言い寄っていた男たちは、誰も誰もが非常に残念で、「王宮へ上がる前に」と仲介役をしてくれる玉鬘の侍女たちに泣きつきました。

 ところが、「『アルプス山麓のティオザ渓谷(Gorge de la Diosaz)の滝を 堰き止めるよりも難しいことだから いたしかたないといった歌のような状況ですから、どうしようもありません」と侍女たちが答えています。

 

 夕霧中将は「なまじっか恋心を打ち明けてしまったが、どう思っているのだろう」と不安なまま、出仕の準備などでとても親切そうに忙しく駆け歩き、普通の世話をしているように付き添っていました。もう気軽に玉鬘に話しかけることもせず、恋心も体よく押さえつけていました。

 実の兄弟と知った内大臣の息子たちはヴィランドリー城に来ることはせずに、「王宮勤めを始めてから後見役をしてあげよう」と各自、出仕を待ち遠しがっていました。

 

 長兄の柏木中将は、それまで心をこめてやりきれない恋文を送っていたのに、急に止めてしまったので、玉鬘の侍女たちは「あからさまにも」とおかしがっていましたが、今夜は父大臣の使いとしてヴィランドリー城にやって来ました。姉弟の間柄はまだ公けにはされていなかったので、玉鬘とはひそかに手紙のやり取りを続けるいるふりをして、月の明るい夜、菩提樹の陰に隠れて訪れを告げました。以前なら相手にしてくれず、話すこともできなかったのに、何のこだわりもなく南向きのカーテンの側に設けられた席に案内されました。とは言うものの、玉鬘は直に対話をするのは恥かしいので、侍女頭を介して応答しました。

 

「父が特に私を使いとして選んだのは、侍女を介してではできない伝言があるからです。こう隔たっていますと、どうやって直に話せましょう。数にも入らない私ですが、姉弟の縁は切っても切れないものですから、いかがなものでしょう。古臭い言い草ですが、私を頼もしい存在と考えてください」と柏木は不満げでした。

「お言葉通り、私も本当にこれまでの積もる話も含めてお話ししたいのですが、このところ妙に気分がすぐれず、起き上がるのも大儀な有り様です。そこまで私をお咎めになるのは、かえって疎遠な間柄の心地がいたします」と玉鬘は非常に真面目に答えました。

「それなら、ご気分が悪くて臥しておられる内カーテンのすぐ近くまで寄らせてください。でもまあ、そこまで言うのは思慮に欠けるということでしょう」と言って、内大臣の伝言をそっと侍女頭を通して伝える気配りは、夕霧の態度に劣らず感じがよいものでした。

 

「王宮に上がられる際の案内は詳しく聞いておりませんが、内々で私に相談してくれたら良いでしょう。それにしても何事でも人目をはばかって、訪問も話すこともできないのを鬱陶しく思っております」などを伝えるついでに、「もはやみっともない手紙は出せなくなってしまいましたが、いずれにしても私の切ない恋情をやり過ごすことはなかったのではないか、といまだに恨めしい気持ちを引きずっています。それに加えて、今夜の扱いぶりはいかがなものでしょう。上級侍女たちには気に食わないと思われても、北側にある下級侍女たちの部屋に案内され、下仕えの者たちと打ち解けて話した方がましでした。姉弟の間柄なのにこんな仕打ちはないでしょう。まったく珍しい扱いをされます」と首を傾けながら、不平たらたらで言うのがおかしいので、侍女頭はそのままを玉鬘に伝えました。

 

「人前がありますので、露骨に親しげに振舞うことははばかっています。胸に秘めた長年の鬱陶しいことなどを打ち明けずにいますのは、とても辛い話もあるからです」としっかりと答えましたので、柏木はきまり悪くなって、それ以上は飲み込んでしまいました。

(歌)実の姉弟であるという 深い事情を調べずに 遂げられない恋の道に 踏み迷ってしまいました

「本当に」と恨み言を詠んだのは本心からでした。

(返歌)姉弟という関係を知らずに 恋の道に迷ってしまわれたとは分からずに 不思議な思いで

   お手紙を拝見しておりました

と侍女頭は玉鬘の返歌を伝えた後、「何事でもむやみやたらと世間の声を気にされますので、返信をされなかったのでしょう。そのうち自然とそんなことはなくなるでしょう」と口を添えました。

 

 それももっともなことですから、柏木は「分かりました。長居をしても興ざめをするだけの時刻になりました。これからは誠意を積み重ねてから、恨み言も申し上げることにしましょう」と言って去って行きました。

 月が明るく高く上がって、空の様子も艶めいている中、優雅に清げな様子の上着姿は好感が持て、花やかで見ごたえがありました。夕霧中将ほどの気配や様子に並ぶほどではありませんが、それなりに見事ですから、「どうして大宮のお孫さんたちは男前なのでしょう」と例のように若い侍女たちは誇張して褒めあっていました。

 

 

6.ヒゲ黒の素性、玉鬘への人々の懸想文

 

 官位三位の黒ヒゲ大将は四位の柏木中将と同じ右近衛庁の勤めでしたから、いつも柏木を呼んでねんごろに語らいながら、玉鬘との縁組を内大臣に取り次いでくれるように頼んでいました。

 黒ヒゲ大将の人柄は良く、安梨王太子の叔父として後見役となる素地がありましたから、内大臣は「何の差支えもない」と思う一方で、「太政大臣は玉鬘を女官長にさせてから、どういう計画を持っているのかを問うこともできないが、何らかの考えがあるのだろう」と慮っている事情もありましたから、「玉鬘のことは太政大臣にお任せしているから」と返答させていました。

 

 黒ヒゲ大将はメディチ家のアヤメ貴婦人の次兄でしたが、太政大臣と内大臣に続く勢力になりつつありました。年齢は三十二か三十三歳くらいでした。正妻は紫上の腹違いの姉で、式部卿の長女でした。黒ヒゲ大将より三つか四つ年上なのは特に言うほどのことはありませんが、どんな風な人柄はどんなだったのでしょうか、「老婆」と黒ヒゲは呼んでいて、心にかけることもなく、「何とか別れたい」と考えていました。

 冷泉王が捕虜の身になった後は、ローマ教皇との内密な交渉役を名目に、足繁くヴィランドリー城に通ってくるようになっています。紫上との縁故から、そうした内情をヒカルは承知していましたから、「黒ヒゲ大将との縁組は不似合いだし、嫌なことだ」と思っていました。黒ヒゲは色好みな女性に対する奔放な所もなく、並々でない心を尽くして玉鬘を獲得しようとしていました。

 

「実父の内大臣は不賛成とは思っておられない。当の本人も王宮仕えに気乗りしていないようだ」と親しくしている柏木から内々の様子も詳しく漏れ聞いていましたから、「ただ一人、太政大臣だけが反対されているのです。それでも実の父親は同意されているのだから」と黒ヒゲは仲介役の侍女フロランス(Florence)を責め立てました。

 九月に入りました。下旬になって、珍しく初霜が降りて心がそそられる朝、玉鬘は例のように、それぞれの求婚者の取り持ちをしている侍女たちが隠し持ってくる恋文を見ることもなく、侍女たちがそっと読み上げるのを聞いていました。

 

 黒ヒゲ大将からの手紙には「今月は忌み月なので、王宮に上がることはないと安心しておりましたが、その月が過ぎてしまいそうな空の景色を眺めながら、気を揉んでおります。

(歌)人並みの者であったなら 忌み月の九月を嫌いもしましょうが この九月に命をかけている 

   はかない身の上なのです

「月が改まったなら」とも書いてありますので、玉鬘の状況をよく聞いているのでしょう。

 

 蛍兵部卿からは「王宮勤めはもう決定したことですから、何とも申し上げようはありません。

(歌)朝日がさす王さまの光りを見られても シダの葉にかかった霜を 忘れないでください

私の恋心を認めてくださるなら、慰むすべもありましょう」と書いてありました。霜で萎れたシダに手紙が結んでおりましたが、それを届けた使いの姿とうまく釣り合っていました。

 

 式部卿の息子である兵衛庁の官位四位の督は紫上の腹違いの兄弟でしたが、ヴィランドリー城に親しく出入りしていましたから、自然と玉鬘の出仕に関してもよく聞き知っていて、ひどくがっかりしていました。手紙にはくどくどと恨み言を綴っていました。

(歌)貴女のことを忘れようと 思うにつけても この悲しさをどのように どのようにしたらよいのでしょうか

 

 人それぞれ、紙の色、インクの付け加減、たきしめた匂いなど様々でした。侍女たちも「皆さん、すっかり諦めておしまいです。張り合いがなくなりますね」などと話していました。

 玉鬘は蛍兵部卿には気があるのか、どんな思いでいたのか、短くでしたが卿宛に返歌を詠みました。

(返歌)自分から好んで日の光りに向う 葵の花ですら 朝降りた霜を消すものでしょうか

とうっすらした字で書かれた返歌を「珍重すべきことだ」と卿が読んでみると、玉鬘は心の内では卿に愛情を感じている気配を匂わせていますので、露ほどのわずかな手紙でしたが、大層嬉しくなりました。

 

 こうしたように、どうと言うこともありませんが、様々な人たちから恨み言を告げる手紙がありました。どちらの大臣も「女性としての心遣いは玉鬘をこそ、手本にすべきである」と判定していた、ということでした。

 

 

7.メヘレンの白菊総督とマドリードの冷泉王

 

 冷泉王の返還交渉が難航する王宮に、新たな頭痛の種が国内から持ち上がって来ました。パヴィアの大敗をきっかけとして、不満が鬱積していたパリ大学神学部を核とするカトリック側がルター派だけでなく、刷新派のユマニストたちへも攻撃を始め、異端者審議特別委員会を設置し、それに呼応してパリ議会も王宮の政策に苦言を表明しだしました。パリ大学神学部はロッテルダムの尊師の著作四冊を断罪、ブリソネを中心としたモー・グループへの攻撃、二年前にデタプル先生が出版した新約聖書のフランス語訳を含む、すべての聖書のフランス語訳を禁止しました。

 

 ジュアールに滞在した頃から、教会刷新派の支援を公表して来たヒカルも窮地に立たされてしまいました。熟考を重ねた後、意を決してヒカルは白菊総督の宮城があるネーデルランドの首都メへレン(MechelenMalines)に密使を送ることにしました。

 密使として、息子の夕霧の専任教師となって以来、顧問として親交を深めているガブリエルをヒカルは選んで、白菊宛の私信を託しました。手紙では、あえて冷泉王の返還問題には言及せず、ネーデルランドやドイツでのカトリックと刷新派との対立、ロッテルダムの尊師とマルチン・ルターとの関係について教えを乞う内容で、文末に「自分の息子のような存在である冷泉王の安否を気遣いながら」とだけ加えました。

 

 メヘレンに遣ったガブリエルは出発から十日間が経過しても音沙汰がなく、「ひょっとしたらスパイ容疑で囚われの身になってしまったのか」と」危惧しましたが、予定より数日遅れで白菊総督自ら編纂したミニアチュール画入りの「コーラス楽譜集」を手土産に、すっかりメヘレン贔屓になって戻って来ました。

 ユマニスト会議に出席する名目でメヘレン入りしたガブリエルは、時機が時機だけに冷やかな視線を浴びました。会議でも末席に座らされましたが、休憩時に旧知のフラマン人ユマニストへ白菊総督宛の手紙をそっと託しました。

 驚いたことに翌朝からガブリエルへの対応が一変しました。宿泊先としてロッテルダムの尊師やイングランドのトーマス・モアに代表されるヨーロッパ各地からのユマニストたちが宿泊して、ユマニストの聖地とまで言われるホフ・ヴァン・ビュスレイデン(Hof van Buskeyden)邸が提供された後、白菊の宮殿に招かれました。

 

 いきなりの好待遇に戸惑っていると、未亡人が着る黒い衣裳と純白の頭巾姿の白菊総督が満面の笑顔で入って来ました。

「ヒカル殿は相変わらず女漁りがお盛んなようですね」との開口一番の言葉にガブリエルは一瞬ぽかんとしてしまいましたが、それで緊張が解けたのか、ロッテルダムの尊師などネーデルランドやヨーロッパのユマニストたちの動向だけでなく、詩歌、音楽、演劇などで話がはずみました。

「冷泉王はマドリードの城塞におられますよ。甥のカール五世は七歳年長ですが、絵画の話で妙に気が合ってしまったようです。甥がスペイン語よりもフランス語に堪能なことに驚かれたようですが、甥はトレドから城塞に足繁く通って、『絵画ではネーデルランドかイタリアのどちらが優越しているのか』など他愛もない水掛け論に興じているとのことです。冷泉王はミラノ大画伯から直接の指導を受けられたことが自慢のようですが、目下のところ『ミラノ大画伯と油彩技法の確立者と呼ばれるフランドルのヤン・ファン・エイク(Jan van Eyck)のどちらが偉大か』で論戦していますよ」と総督は初めて冷泉王の幽閉場所を明らかにしました。

 

 ガブリエルは蔵書、フランドルが誇る絵画やタピストリー、水晶やヴェニスのガラス器、中国産の磁器、新大陸のメキシコの輝石ナイフ、西アフリカのナイジェリアの木彫りなど、白菊の豊富な収蔵品を披露されたり、管弦の宴や舞踏会にも招かれたりで、すっかりメヘレンの文化度・洗練度の高さに感銘してロワールに戻って来ました。

 いまだに興奮が冷めやらぬガブリエルが去った後、ヒカルは白菊が託した手紙を開けてみました。

十年前にサン・マロで受け取った手紙と同じ、幾度となく夢に浮んできた香りのような、亡き母の匂いのような、何とも言えない香りに懐かしさがこみ上がって来ました。

 

「冷泉王の処遇などについてはスペインのカール五世とラノワ筆頭顧問に任せております」と肝心の冷泉王に関しては一文で片付けていましたが、カトリック対ユマニスト、ルター派については自分の見解を詳しく、正直に綴っていました。

「ロッテルダムの尊師はネーデルランドの誇りでもありますし、カール五世がスペインに発つ前は名誉参議官になっていただきました。私も良心的なユマニストが提唱するローマ教会の内部からの刷新化に同調する立場におります。マルチン・ルターが『95条の論壇』を発表した当初は尊師はルターに好意的で、励ましの手紙を送ったほどでしたが、ドイツ国内外での『95条』の反響があまりにも過激になってしまいました。ルター派は今では『教会内部の刷新化』の枠を乗り越えた活動を推進していることもあって、ローマ教会の恩恵を受ける側と受けない側との政治・経済対立へと複雑化しています。私自身、総督としてカトリック派、ユマニスト刷新派、ルター派の三者をどのように並立させていくか、頭を悩ませております」。

 

 

 

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