纒向遺跡は孝霊天皇が唐古・鍵遺跡の機能を移転した商産業都市(大市)

 

1.纒向遺跡の邪馬台国首都説は欠史(闕史)八代説から着想された誤説

 

「卑弥呼の世の?桃の種か。纒向遺跡で出土、年代測定」

     (朝日新聞DIGITAL 2018514日付け)

「邪馬台国論争 新たな段階 纒向遺跡で発見続々」

     (YOMIURI ONLINE 2018624日付け)

 

 ここ十数年来、「大和盆地の纒向地区が邪馬台国の首都、箸墓は卑弥呼の墓」とする説が一部の考古学者を中心に拡散しており、それに便乗して「邪馬台国は大和で決定」を匂わす報道も少なからずあります。最近でも「遺跡から出土した『桃の種』がC14年代測定により、西暦135年~230年と見られることから、卑弥呼の時代の可能性が高まった」と、暗に邪馬台国大和説に誘導するか、「纒向王都説」の可能性が強まってきた印象を与える報道があります。

 この説の根拠は

後の巨大古墳につながる前方後円墳の発生地

箸墓などから吉備地方で誕生し埴輪の原形となった宮山形特殊器台の破片が出土している

王宮跡が予想される場所から大型建築物や祭祀施設跡らしき遺跡が出土した

といった考古学的な発見が主体となっています。

 ところが古事記や日本書紀、風土記などの文献では纒向地区に王宮を置いたのは四世紀前半の第十一代垂仁天皇と第十二代景行天皇のみで、卑弥呼が存在した三世紀半ばおろか、二世紀、三世紀に王宮が存在したとする記述は皆無です。複数の勢力が平和的に合同するか、吉備など外部勢力が進入して新首都を造営した、とするなら、この画期的な事件は伝承や文献などに何かしらの事象が残されているのが常識的に考えてみても普通なのですが、ひとかけらも存在していません。 

 

(考古学的発見と文献資料の乖離)

 考古学的発見と文献資料が乖離している原因はいたって簡単です。渡来人系学派が日本書紀編纂の過程で「自分たちが来朝し始めた五世紀初頭以前は『文明化されていない神話時代』、以後が『歴史時代』」と線引きをしたことにより、西暦八十年代に始まる大和第一王朝とそれ以前の日本の歴史を不透明にさせてしまったことに起因しています。

 奈良時代初期の線引きは渡来人系学派や漢学者、儒学者に受け継がれ、いまだに「五世紀初頭以前は『文字を知らず、文明化されていない神話時代』を前提とするのが当り前、それにさからうと、古代史学会では生きてはいけない」といった空気が日本国内では充満している印象を受けます。これにより、古事記や日本書紀の、ことに神武天皇から欠史八代(第二代から第九代天皇)の記述を無視するか、まともに読まないまま、考古学的な発見物だけに依拠して「邪馬台国は大和、首都は纒向地区」説で強引に決着させてしまおう、という誤った姿勢に大手メディアも含め、誰も疑問を呈しない状況におちいっています。

 

(纒向邪馬台国首都説は考古学者の一部が草案した平成のお伽話)

 いまだに渡来人系学派のしがらみから抜け出すことができないでいる日本国内にいるよりも、渡来人系学派の色眼鏡をはずして国外から考察していった方が、「謎とされている三世紀と四世紀の歴史」をより具体的に鮮明に描くことができます。

 この視点から見ると、纒向邪馬台国首都説は一部の考古学者グループが、「欠史八代説」という誤説を鵜呑みに信じたまま、まず結論を想定してからジグゾーパズルに考古学的発見物のピース(小片)を埋め込んでいく手法のように見受けられます。実際はパズルの15パーセントほどしか埋まっていない状況で、纒向首都説を実証するのはほど遠い状況ですが、「何とか纒向で決着をつけてしまおう」という焦りを感じます。

 

 

2.纒向遺跡の邪馬台国首都説の考察に欠けている点

 

纒向遺跡の建造時期とほど同時期に自然消滅した唐古・鍵遺跡との連鎖性

纒向遺跡の発生以前に存在した御所市秋津地区遺跡の無視

  秋津地区、ことに秋津小学校、宮山古墳と鴨都波神社を結ぶ三角形が孝安天皇の王都。

大型建築群は王室の大型倉庫群と考えても妥当

前方後円墳と平石積み石室の起源は阿波王国

  阿波国を根源地とする忌部氏との関連性。

吉備発祥の特殊壺・特殊器台が大和盆地に登場したのは西暦280年頃

  先行する巨大古墳に先行する河内の特殊壺・土木器台の出土地である八尾市は河内アマツヒコネ族の本拠地だった。吉備起源の中

  臣氏の関西地方での出発点でもある。

 

 

3.纒向遺跡は孝霊天皇が造営した大市(商業・産業副都心)

 

 渡来人系学派の色眼鏡を外して記紀(古事記と日本書紀)の神武天皇から第十代崇神天皇、第十一代垂仁天皇に到る記述は、口承で伝えられたものですが、一世紀後半から始まる大和第一王朝の歴史を伝えています。

 記紀に「国造本紀」を加えて意富氏尾張氏和邇氏吉備氏アマツヒコネ(天津彦根)族など大和王朝の主要氏族の足跡を追っていくと、渡来人系学派が無視してきた神武天皇から崇神天皇に至るまでの大和第一王朝の誕生から東西日本の統一、日本国の誕生までの歩みが具体的に浮かび上がって来ます。

参照

「大和の日本統一に関わった氏族」

    (当ホームページ)邪馬台国吉備・狗奴国大和外史 補遺2 ⇒ 大和の日本統一に関わった氏族

「欠史八代説を皇別氏族から検証すると」

    (当ホームページ)邪馬台国吉備・狗奴国大和外史 補遺3 欠史八代説を皇別氏族から検証すると

 

(1)大和第一王朝の初代から四代王

西暦八十年代から二世紀半ば 

水銀朱(辰砂)を産出する宇陀野と御所市を結ぶ街道の中間地点に位置する磯城族(師木縣主)から正后を迎える婚姻関係が四代続く。

二代目王の兄(神八井耳)から意富(おお)氏が出自し、その子孫である太安万侶(おおのやすまろが古事記を編纂。

 

(2)勃興時代の「孝」がつく四代の王

二世紀後半から三世紀前半

 纒向遺跡の時代は第六代孝安天皇と第七代孝霊天皇の時代に相応します。孝安天皇時代までは御所市から風の森峠を下って吉野川に至り、紀ノ川河口に出る街道が主道でしたが、孝霊天皇の時代から大和川を下って河内湾に到るルートが本格化して、摂津、播磨、吉備へと向う第一王朝の西進が具体化していきます。

第五代孝昭天皇  西暦180年頃 

東海三国(伊勢、美濃、尾張)を支配下に置く。伊勢のサルタヒコ族の服従。尾張氏の濃尾平野の開墾。

正后は磯城族からではなく、尾張氏の出自。

第六代孝安天皇  西暦200年ごろ

兄(天押帯日子アメオシクラヒコ)を主体に大和盆地北部の中小諸国を統合し、初めて大和盆地全域を支配。兄は和邇氏の祖となる。

生駒山周辺を拠点にする物部氏の登美(とみ)国はアマツヒコネ(天津彦根)族が占有。物部氏の主力は尾張国に移動し、三河と遠江進攻の尖兵となる。

東海三国と河内・紀伊を結ぶ横軸と北の山城とを結ぶ縦軸が交差する纒向に交易市場が自然発生する

第七代孝霊天皇  西暦220年頃 

王宮は御所市・橿原市から初めて離れて、唐子・鍵遺跡近くの黒田に置かれる。

西の山城側からアマツヒコネ族、東の美濃側から尾張氏が近江王国に攻め込む。

近江国に続いて、摂津と淡路島、続いて阿波王国を制覇。

阿波王国を制覇した後、船舶輸送能力の向上に大和川の河川改良に着手、合わせて纒向に商業産業都市を造営し、唐子・鍵遺跡の機能を移転して唐子・鍵遺跡は自然消滅。工事に向けて、阿波王国(忌部氏)から工人、東海三国から作業員を徴発。王宮跡と予測されている大型建築は王室の倉庫群。阿波の前方後円墳の技術が纏向に登場(阿波の萩原1・2号墳墓 ⇒ 纏向のホケノ山古墳)。

第八代孝元天皇  西暦230年代 

吉備邪馬台国への攻撃開始。

 

(3)邪馬台国連邦の覇者から統一日本を確立した三代の王さま

三世紀後半から四世紀初期

第九代開化天皇  西暦266年~270

吉備邪馬台国制圧。総指揮は吉備津日子兄弟(吉備氏)、陸軍の主力は尾張氏、水軍の主力は河内アマツヒコネ族

水軍のアマツヒコネ族を主体に安芸、周防、長門と西国を傘下に置いて行く。

アマツヒコネ族が吉備の特殊壺・特殊器台と河内湾に運び、合わせて中臣氏と吉備の工人を徴発。

第十代崇神天皇  西暦280年代 

河内アマツヒコネ族を基盤とする叔父のタケハニヤスビコ (武埴安彦)の天下取りの試みと没落。

丹後王国の制覇、北陸道と東山道の二方向から東国支配を開始。鹿島と香取を拠点に関東平野を制圧。最後に西出雲王国の国譲りで東西日本の統一を達成。

第十一代垂仁天皇  西暦320年代 

日本神話の原形の編纂の完了。

東西日本統合の象徴として、大和から東国への海路の出入り口となる伊勢に王家の祖神を祀る神宮を建立。

 

 

4.外来種に寡占されてしまった池

 

 目下(20187月現在)、話題になっている人気テレビ番組「池の水ぜんぶ抜く大作戦」をユーチューブで視聴していると、外来種の魚類が在来種を追いやり、在来種は細々と延命していくしかできない日本国内の池の構図が、現代の「上古代史学会」とまったく似た構図であることがよく分かります。

 外来種に相当する渡来人系学派が想定した「自分たちが渡来して来る、四世紀末までの古代日本は『神話の時代』」とした固定概念が日本の古代史の池ではいまだに支配的で、「四世紀末以前の歴史が不透明になってしまっている」ことに大手メディアも含めて 違和感を感じていないようで、それに異を唱えると村八分にされてしまっています。

 日本の裏側に住む人間がなぜ日本の上古代史を語るのか不思議に思われる方も多いことでしょうが、渡来人系学派が作り上げた色眼鏡をはずして四世紀末以前を考察していかない限り、正しい日本の歴史を把握することができないことを粘り強く訴求し続けていきます。

 

 

 

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