その7.紅葉賀    (ヒカル 17歳~18歳)

 

4.藤壺の王子誕生と喜憂

 

 藤壺の出産は予定された一月を過ぎても兆候がなく、「二月中には」と王宮の人々も待ち望み、王さまもその心づもりでいましたが、何事もなく過ぎて行きました。

「これは物の怪のせいではないか」と世間の人たちも騒ぎたてますが、藤壺はひどくやるせなくて「この事で我が身は汚名を負ってしまうのか」と思い歎くと、気分がとても苦しくなって悩み続けます。

 中将の君ヒカルはあれこれ思い当ることがあって、はっきりとした事情を知らさずに祈祷をあちこちでさせます。「無常な世の中だから、このままはかなく亡くなってしまうのだろうか」と、そんな不安もして案じているうちに、三月二十日過ぎに男の子が誕生しましたので、心配はすっかり消えました。王さまも王宮の人々も大喜びします。

 

 藤壺は「このまま長生きをしてしまうのも」と思って心は暗くなりますが、「紫陽花王妃などが呪わしげに語っている」と聞いて、「むなしく死んでしまったら、物笑いの種にされてしまうだけ」と気を引き締め直しましたので、ようやく少しづつ爽やかに回復していきました。王さまは「新王子を早くみたいものだ」とたまらなく待ち遠しそうにしています。

 ヒカルも人知れない胸中で、様子をひどく知りたくて、人がまばらな折々に藤壺邸を訪問して、「王さまが赤子を見るのを待ち遠しがっています。まず私が赤子を見させていただいて、王さまに報告いたします」と申し入れます。「まだ生まれたばかりで、見苦しいお顔をしていますから」と言って見せようとしませんが、それにも一理ありました。というのは、赤子は浅ましすぎて信じることができない程、ヒカルを生き写しにしたようで、見間違えることができないからです。

 

 藤壺は良心の呵責にさい悩まされるのがとても苦しく、「人がこの児を見たら、ヒカルと犯した不義の誤りに気付いて、咎めることだろう。世の人はさほどでもない些細な事でも、傷口をあら捜しするものである。私についてどんな悪名が漏れ出して来ることか」と思い続けていくと、我が身がとても情けなくなります。

 ヒカルはブランシュにたまさかに面会することができると、しんみりと言葉を尽くして藤壺との出会いを懇請するのですが、何の甲斐もありません。

「一目でも赤子の姿を」としつこくせがみますが、「どうして、そんなにまでご無理をお頼みになるのですか。そのうち、自然とご覧になることができるようになりますのに」とブランシュは答えるものの、ブランシュの心中も穏やかではありません。表沙汰にはできないことでしたから、ヒカルもそれ以上はせっつくことができません。

 

「いつになったら、人伝てではなく、藤壺と直接、話せることができるのでしょう」とヒカルが涙をこぼすのを見ているとブランシュも心苦しくなります。

(歌)前世で どのような約束を交わしたのでしょうか こんな隔ては 納得できません

こんなことは理解しかねます」とヒカルがこぼします。

 

 ブランシュは、藤壺が煩悶する様子を見聞きしていますし、二人の仲をとりもった身でもありますから、ヒカルをそっけなく突き放してしまうこともできません。

(歌)赤子を見ている宮さまも 物思いに悩まされ 見ることができない貴方も どんなに嘆かれることでしょう 

   親心は子を思うと 闇の中にいるように何も見えなくなって 道に迷ってしまいましょう 

「本当においたわしくなるほど、お心が休まる暇がないお二人ですこと」とブランシュは忍び声で答えました。

 

 ヒカルはいつも、こうやって取り付く所もないままに帰っていくのですが、藤壺はヒカルが頻繁に訪れてくるのを人が噂にしてしまうことを心配して、ブランシュに対して以前ほど信頼を寄せず、打ち解けて接することはありません。人目が気付かないようにブランシュを穏便に扱っていますが、「ヒカルとの仲介をしたことが許せない」と恨んでいる時もあるのを、ブランシュはとてもわびしく、心外な気持ちになります。

 

 藤壺は五月に入ってから乳児を連れて王宮に上がりました。王子は通常の赤子より大きく、そろそろ寝返りもしだしています。浅ましくなるほど、紛れる所がないほど、ヒカルとそっくりの顔つきをしていますが、王さまはヒカルと藤壺の関係は思いもよらないことでしたから、「二人とも父親が同じで、桐壺愛后と藤壺も似ているから、似通っているのだろう」と解釈していました。赤子をこの上もなく可愛く感じて寵愛します。

 

 王さまはヒカルを限りなく大切な者と愛されながら、母親の身分が劣るため、世間の人たちが容認しないだろうと考えて、王太子に据えなかったことを絶えず残念に感じていました。ヒカルが一般の臣下としては、もったいないほどの様子や容貌を持つようになっていくのをご覧になっていると、心苦しい思いにとらわれます。これに対して新生の王子は王族を母にして、ヒカルと同じように光り輝く子として誕生しましたから、「疵がない宝玉」と寵愛しますが、藤壺は何かにつけて気が晴れる暇もなく、不安な物思いにかられます。

 

 中将の君ヒカルが集会所で管弦の遊びなどをしていますと、王さまが赤子を抱いてやってきて、「私は多くの子宝に恵まれたけれど、お前だけは幼少の頃からずっと手許に置いて育ててきた。それだからこの児も同じように思えるのだろう、二人は本当によく似ている感じがする。小さい頃は皆、こんな風なのだろう」と言いながら、「たまらないほど可愛い」と自慢げです。

 ヒカルは顔色が変わる心地がして、恐ろしいとも、かたじけなくとも、嬉しくも、あわれにも、様々な感情が交錯して、思わず涙を浮べてしまいます。赤子がものをしゃべるように口を動かして、にこにこしているのが気味悪いほど美しいので、我が身ながら「この児と似ていることはとてももったいないことだ」と思うのは身贔屓というものでしょう。

 王さまと一緒にいた藤壺は辛く、いたたまれなくなって冷や汗がしとどに流れて来ます。ヒカルも複雑な思いに掻き乱されてしまいますので、王宮から退出して行きました。

 

 シュノンソーに戻ったヒカルは自室に臥しながら「胸のやるせなさを静めてから、アンジェに向おう」と考えていました。前庭の青葉が生い茂る中に常夏の撫子が花やかに咲き出しているのを折って、それを添えてブランシュへ手紙を送りましたが、書くべきことは多かったことでしょう。

(歌)この撫子の花を 赤子に擬して見ていますが 気持ちは慰まず ますます涙の露が 勝ってしまいます

「二人の仲が花開くと願っていましたが その甲斐がない世の中のようです」と書いてありました。

 

 上手い具合に人に見られない隙がありましたので、ブランシュは藤壺に手紙と撫子の花を手渡して、「ほんの塵のほどでも、この花びらに書いていただけますなら」と申し上げますと、自分自身も人生の哀しさを思い知っていたせいか、思わず筆をとりました。

(歌)生まれて来た撫子は 涙の露を流されている御方に ゆかりがあると思うと やはり疎ましくなってしまいます

 ほのかに、中途で書き止めたような歌を書いた紙を、ブランシュは大喜びでヒカルにすぐに送りました。「いつものことだから、返信はないだろう」と沈みがちにぼんやり臥していたヒカルは、手紙を受け取ると胸がときめいて、あまりの嬉しさに涙を流します。

 

 物思いにふけながら、じっと臥しているのもやるせない心地がしますので、慰めを得ようと例のように西館へ行きました。しどけなく乱れた髪をなおさず、着馴れた部屋着のままで、笛を懐かしげに吹き鳴らしながら若紫の部屋を覗きますと、若姫は前庭に咲く撫子の花が露に濡れたような風情で横に臥している様子が美しく、可愛く、愛嬌がこぼれるようでした。

 ヒカルが帰邸しながら、すぐにこちらにやって来ないのが、何とはなく恨めしいのか、いつもと違って拗ねていました。居間の端の方に座り込んで、「こちらへいらっしゃい」と声をかけますが、そ知らぬ顔をしています。

(歌)潮が満ちて 沈んでしまう 磯の海草のように 逢うのはほんのちょっぴりで 恋しく想う時間の方が 何と多いことよ

と口ずさみながら、袖で口をおおっている様が、とても洒落ていて色っぽいのです。

 

「憎たらしい歌ですね。いつの間に、そんな歌を覚えたのですか。『飽きるまで人を見ていたい』というのもよくない事ですよ」と言って、侍女に命じてハープを引き出させて、若紫に弾かせようとします。

「ハープは中絃が高すぎるとしっくり行かないから」とホ短調に下げて調整します。調子合わせの小曲を掻き合わせた後、若姫に弾かせますともう拗ねてはいず、大層美しく弾きだしました。身丈がまだ小さいので、身体を伸ばして絃を揺らす手つきがとても美しく、「可愛い」と感じながら笛を吹き鳴らしつつ教えていきます。とても飲み込みが早く、難しい調子などもたった一度で習得します。何事につけても才が長けている性格でしたから、「望んでいた通りの人を得た」と満足します。

「保曾呂倶世利(ほそろぐせり)」という曲は変わった曲名ですが、笛で面白く吹きすましますと、若姫はそれに掻き合わせて、まだ未熟でしたが、拍子を間違えず上手めいて聞えます。

 

 夕暮れになって灯火をともして、一緒に絵を見ていましたが、西館に来る前に「お出まし」を伝えていましたから、お供をする人々は促すように咳払いをして「雨が降ってきそうですが」などと言います。それを聞いた姫君は例のように心細がってしまいます。絵を見るのをやめて、うつぶしてしまったのがひどく可愛くて、ふさふさとした栗色の髪がこぼれかかるのを掻き撫でながら、「私が外出していると恋しくなるのですか」と問いかけますと素直に頷きます。

「私も一日でも貴女を見ないでいると、とても苦しくなります。けれど、まだ子供でおられる間は安心していてください。私が行かないと捻くれて恨んでしまう人の機嫌を損ねないようにと、今のうちは外歩きをしているのです。あなたが大人になったら、外歩きはしませんよ。『人の恨みを受けないように』と気を使っているのも、『長生きをして、貴女と思いのままに暮らしてみたいから』と考えているからです」などと細々と説明しますと、さすがに気恥ずかしくなったのか、とかくの答えもしません。

 

 やがてヒカルの膝に寄りかかって寝入ってしまいましたので、ひどくいじらしくなって、「今夜は出掛けないことにした」と仰せになりましたので、仕え人は皆、座を立って、夕食を西館に運んできました。姫君を起こして「外出はとりやめました」と話しますと、気を取り直して起き上がります。

 一緒に食事をとりましたが、ほんの少ししか食べずにいます。「それではお寝になって下さいな」と外出していくのがまだ不安なようなので、このような人を見捨てては、どんな道でも赴くことはできないと感じます。

 

 こんな具合に若紫に引き留められてしまう折りが多くあることを、自然と漏れ聞く人が左大臣邸に伝えますので、「一体、何者なのでしょう。まことに心外なことですね」「これまで『どういう御方なのか』聞いたこともありませんが、そんな風にまとわりついて甘えているような人は上品で教養が高い人ではありませんよ」、「大方、王宮辺りなどで、ふと眼に留まった女官か侍女をもったいぶって、『人から咎められてしまう』とあやうまれて、シュノンソーに隠してしまったのでしょう。『まだ分別のない年端もいかない幼い人』とも聞いています」などと侍女たちが言い交わします。

 

 王さまも「そんな女性がいる」と聞きつけて、「気の毒なことだ。左大臣が嘆いているのももっともだ。まだ幼い頃から精一杯、後見をされてこられたお心がどれほどのものか。それが分からない年頃ではあるまいに。なぜ左大臣の娘を冷たく扱ってしまうのだ」と詰問しますが、ヒカルはただ恐縮してかしこまっているだけで返答もしません。

「きっと夫婦仲が気まずいのだろう」と王さまは逆に不憫にも思います。「と言って、好色で放縦なところは見えない。王宮にいる女官や侍女や、ここかしこの女性を情人にしている、という噂も聞かないのに、一体、どこを隠れ歩いて、こうやって義父に恨まれてしまうのだ」と話を続けました。

 

 王さまは四十歳に近付いていましたが、こうした色めいた方面に無関心ではなく、給仕係や雑用係といった身分が低い者まで容貌や心映えが優れた者を選りすぐっていますので、他国の大使や外交官が羨ましがるほど、王宮には容色が高い女性たちが多くおりました。

 そんな女性たちにヒカルがちょとした言葉をかけますと、相手をしない者はいませんでしたが、ヒカルは見馴れてしまっているせいか、浮ついたことを全く好んでいないようです。女性たちの中には戯れ言をヒカルに試す者もいましたが、非礼ではない程度にあしらって、取り乱すことはありませんから、「生真面目すぎて、物足りない」と思い嘆く女もおりました。

 

 

5.夕立の夜の副女官長ニナ騒動

 

 五十歳を過ぎて初老の域に入った王室仕えの副女官長(典侍ないしのすけ)ニナは良家の出で、人柄も良く才女でもありましたから、人々から敬慕されていました。ところがどういうわけか、多情な性格で、色事に関しては尻軽でした。

「初老に入りながら、どうしてこうまでふしだらなのだろう」とヒカルはいぶかしく思って、戯れに言い寄って試してみました。するとニナは不似合いとは思っていないようなのです。ヒカルは「浅ましいこと」と思いながらも、ゲテモノを賞味してみたい衝動にかられて関係をもってしまいました。それでも人が漏れ聞いてしまうと体裁が悪い老女でしたから、その後はよそよそしく冷淡に扱っていましたが、女の方は「それきりなのはあんまりな」と恨んでいました。

 

 ある日、ニナは王さまの整髪係を勤めていました。整髪が終ると王さまは衣裳係の者を呼んで着替えに出て行きましたので、室内にはニナ以外に誰もいなくなりました。たまたま通りかかったヒカルはニナがいつもよりこざっぱりしていて、容姿や髪の恰好がなまめしく、着こなしている衣裳も非常に花やかで色気たっぷりに見えましたので、「いつまでも若作りをしているな」と嫌らしく感じるものの、さすがに見過ごすことができず、「私に対してどんな気でいるのだろう」と、そっと室内に忍び込んで、ニナのドレスの裾を引っ張って驚かせてみました。

 

 ニナは派手な絵を描いた蝙蝠型の扇で顔を隠すように見返りましたが、瞼はひどく黒ずみ落ち窪んでいて、髪の毛の先も非常にほつれて乱れていました。「この扇は花やかすぎて、容貌とは似つかわしくないようだ」と感じて、自分が持っていた扇と交換してみますと、ニナの扇は顔に照り返すほどに濃い目の赤い紙に、金泥と青色で小高い森を厚く塗りつけていました。

 横端にはひどく古風でしたが、雅味がある筆跡で、

(歌)オルレアンの森で 雑草がおい(生い、老い)茂ってしまうと 馬も寄って来ないし 刈りに来る人もいない

と書き散らしてあります。

「何とまあ、意味深な心持ちだ」と笑いながら、「そうではなく『オルレアンの森の 木陰こそ 真夏の恰好の宿になりましょう』ということでしょうに」と、何だかんだと痴話めいた会話を交わします。そのうち「人に見られてしまったら、恥さらしになってしまう」と気になってきましたが、女の方はそうと思いいたってはいないようです。

 

(歌)あなたが おいでになったなら 盛りを過ぎた下葉ではございますが 乗ってこられた馬に 

   飼い葉を刈ってさし上げましょう

と、この上なく色気たっぷりに歌います。 

(返歌)いつも大勢の馬が慕い寄って来る 森の木陰に シダ(羊歯)を踏み分けて入って行ったら

    人に咎められてしまいましょう 

煩わしくなりますからね」と立ち去ろうとしますのをニナは引き止めて、「こんな扱いを受けたことはまだありません。この年になって、身の恥を味わうとは」と言って泣く様子がひどく大袈裟です

「近いうちに便りでもしますよ。いつもそう思いながら、実行できかねていますが」とヒカルは袖にすがるニナを振り切って立ち去ろうとしますと、「せめて」とニナは追いすがって「どうせ私は朽ちて消滅した橋に残された橋柱なのでしょう」と恨みかかります。

 

 この光景を着替えを終えた王さまがドアの隙間から目撃してしまいました。

「何と何と、似つかわしくない不釣合いな組み合わせだな」とおかしく思って、「常日頃、『ヒカルには色好みがない』と周りが心配しているが、そうは言ってもさすがに抜け目はなかったのだ」と爆笑しました。ニナはばつが悪くなったものの、「憎からず思う人のためなら、濡れ衣を着てしまう者もいることだし」と強いて弁解もしません。

 

 王宮の人たちも「意外なこともあるものだ」とニナとヒカルの仲を取り沙汰しているのを、イタリアのジェノヴァ遠征から帰還して間もない頭の中将アントワンが聞きつけました。

「ヒカルの内緒事は把握しているつもりだが、あの女には考えも及ばなかった」と思うにつけても、「幾つになっても止みもしない好色ぶりを見てみたい」と好奇心が湧いて、ニナに言い寄ってみます。

 この貴人も人よりは秀でていますので、ニナは「あのつれない人の代りに」と思いついて、アントワンと関係を持ったのですが、「やはり本当に逢いたい人の代りにはならない」と失望してしまいます。何とも酔狂な話です。

 

 アントワンとニナの関係はごくごく人目を忍んでいましたので、ヒカルはそれに気付きませんでした。ニナは王宮でヒカルを見つけると、真っ先に恨み言を言います。ニナの年齢のことを思うと同情する気持ちも湧いて、慰めてあげたいとは思うものの、気持ちが進まないままにだいぶ久しい時が過ぎました。

 

 夕立の後、涼しくなった宵の薄暗みの中、典侍の控え所辺りをぶらぶらと歩いていると、ニナがリュート(ギターの前身)をとても心地よく弾いているのが聞えてきました。王さまの前などで、管弦をする男たちに交じっても勝る人がいない程のリュートの名手で、恋の恨みを抱きつつ奏でますから、一塩しんみりと聞えます。「恋する人に ふられてしまったので いっそのこと メロン作りの妻になってしまおうか」ととても面白く歌っている美声は少し不似合いで、気味が悪いほどです。

「半身半鳥の海のニンフ(ニュンペー)『セイレン』も、このような美声をしていただろうか」と耳をとめて聞き入ります。ニナは弾き終えてとてもひどく思い乱れている気配です。

 

 ヒカルは雨に降られて 立ち濡れてしまった私です どうか扉を開けてください」と流行り歌の「東屋」を忍びやかに謡いながらドアに近付きますと、「鍵はかかっておりません どうぞドアを開けてお入りください」と歌の続きをつないで歌うので、さすがに並みの女とは違った感じがします。

 

(歌)軒先に立ち寄って 雨だれに濡れようという人もいない この東屋に 情け容赦なく 雨が降りかかってきます

とニナは溜息をつくのですが、ヒカルは「ニナの嘆きは私一人を対象としているのではないだろうが、何とも疎ましいことだ。どうしてここまでしつこいのだろう」と不快に感じます。

(返歌)人妻は 面倒が起こりやすいですから 東屋の軒先に立ち寄って あまり馴れ馴れしくする気はありません

と歌って、その場を去ろうとしたのですが、「それはあまりにそっけなさ過ぎはしまいか」と思い直して、ニナの言葉に促されるように部屋に入り、少しだけ戯言などを言いかわしているうちに、「こうした機会は中々にはないことではないか」という心地になって、そのままニナと一夜を過すことにしました。

 

 アントワンはヒカルが非常に真面目な風を装って、いつも自分の行動を非難するのが憎らしく、ヒカルもこっそりと忍び合う女性達が多いことを「どうやって馬脚を現わせて見せようか」と狙い定めていましたから、ヒカルがニナの部屋に入るのを見かけて大喜びしました。「こうした機会に少し嚇かして、ヒカルを困惑させて『懲りましたか』と言ってやろう」と思い立ちました。風がひんやりと吹き通って、夜が更けて行く時分、「二人はまどろみ始めただろう」と思える気配を見計らって、そうっとニナの部屋に忍び入りました。

 

 ヒカルは気を許して寝入ってしまう気持ちではいませんでしたので、ふっと物音を聞きつけました。まさかアントワンだとは思いもよらず、「おそらく、かってのニナの愛人で、忘れ難い思いを捨てきれない建築造営局の官位四位の大夫あたりが忍び込んで来たのだろう」と思います。あんな年寄りにこんなふしだらな現場を見つけられてしまうのは恥かしいことですから、「何か面倒なことになって来たようだから、私は部屋を出ますよ。蜘蛛の振舞を見て愛人が来るのを承知しておきながら、浮ついた気持ちで私をたぶらかすとは」と言いながら、急いで上着だけを取って、衝立の背後に隠れました。

 

 アントワンはおかしさを堪えながら、ヒカルが隠れた衝立に近寄って「ガタガタ」と揺すり動かして大袈裟に騒ぎ立てます。ニナは年はとっていますが、ひどく気取っておしとやかにしている人で、これまでもこんなように情人同士がかち合って肝を冷やすことが度々ありましたから、物馴れていました。心中ではひどく慌てながらも「この御方をどうしようとされるのですか」と、慌ててブルブル震えながらアントワンをしっかりとつかまえていました。

 

 ヒカルは「誰とも知られないうちに部屋から出てしまおう」と思いますが、だらしない姿で、帽子などを横っちょにして逃げ出していく姿を連想すると、「あまりにぶざま過ぎる」とためらってしまいました。アントワンの方は「自分だと分からせまい」と思って、何とも言いません。ただただ凄まじく怒ったふりをして、剣を引き抜きました。ニナは「あなた様、あなた様」と手を擦り合わせて拝みますので、アントワンは思わず吹き出しそうになりました。日頃は派手に若作りをして、外見は風流ぶっていますが、五十二から五十三歳になる女が見得も忘れて夜着を乱し、しかも二十際前後の若者に挟まって、びくついているのは滑稽な光景でした。

 

 アントワンは別人のように見せかけて、恐ろしい形相を見せていますが、ヒカルは目敏くアントワンだと勘付いて「私であることを承知の上で、わざと騒ぎだてているのだ」と馬鹿馬鹿しくなりました。

「確かにアントワンだ」と見定めますと、とてもおかしくなって、剣を抜いたアントワンの腕をつかんで、ひどく痛くつねりますと、アントワンは「しまった」と思いながら、堪えきれずに笑い出してしまいました。

 

「本当に、正気の沙汰ですか。冗談にもほどがありますよ。ともかくこの上着を着てしまいますから」と言いますが、アントワンはヒカルの上着をしっかりつかんで放そうとしません。

「それなら、おあいこにしましょう」とヒカルはアントワンの帯を引きといて、夏用の官服を脱がそうとしますと、「脱がせまい」とアントワンが抵抗します。二人が引っぱりあってもみあううちに、ヒカルの上着の幅広の袖端の縫い目がビリビリと破れてしまいました。

(歌)引っ張り合って 袖端が綻びましたが この綻んだ上着の中から 隠している浮き名が 

   漏れ出てしまうかもしれませんよ 

袖がとれた上着を着てしまうと、人目について浮気が明るみになってしまいます」とアントワンが歌いかけます。

 するとヒカルがっすかさず返歌をします。

(返歌)女との仲を知られてしまうのを承知の上で 薄物の夏衣を着て来るのは 薄っぺらな気持ちだからと 察します 

 二人は何やかやと言い交わしながら、恨みっこなしに両者ともだらしない姿のまま、一緒にニナの部屋を出て行きました。

 

 幸いにも人に見咎められずに、ぶざまな恰好で宿直所に戻ったヒカルは、アントワンに見つけられてしまったことを口惜しがりながら、寝につきました。

 翌朝、ニナは「情けない」としょんぼりしつつ、床に落ちていたタイツと帯などをヒカルに届けました。

(歌)お二人が立ち重なってやって来られて 荒波を巻き起こした後 連れ立って帰られたのを 

   幾ら恨んでみたところで 何の甲斐もありません

恋の楼閣が底まで崩れてしまい、貴方が去った後、悲しい涙を流しています」と書いてありました。

「何という厚かましさか」と憎らしく感じましたが、さすがに昨夜のニナの動転ぶりに同情もわきましたので、

(返歌)荒波を立てた相手に 驚きはしませんが そんな荒波を寄せ付けた磯を どうして恨まずにいられましょうか

とだけ、嫌みったらしい返信をしました。

 

 官服は位に応じて服と帯の色合いが異なりますが、届いた帯は「自分のものより薄藍(鏢はなだ)色が深いな」と感じて、アントワンの帯だと気付きました。確認のため、自分の上着を見ると袖端がちぎれているのに気付きました。「はしたないことがあるものだ。女漁りをしていると、こんなことが多くあるのだろう」と改めて自制の念を強めました。

 アントワンが自分の宿直所から「とりあえず、まずこれを縫い付けなさい」と袖端を包んで寄こしましたので、「いつの間に持ち帰ってしまったのだろう」と憎らしくなります。「アントワンの帯がこちらに渡っていなかったら、私の負けになってしまっていた」と苦笑いをしました。

 

 帯を同じ薄藍色の紙に包んで、

(歌)帯を取られてしまったから あの女との仲が絶えたのだなどと あなたから怨み言を言われるのが嫌ですから 

   この鏢はなだ)色の帯は 手にも取らずにお返しします

と書いて届けさせます。

(返歌)私の帯を 貴方に引き取られてしまったのだから あの女との仲は切れたことにしましょう

「私の怨みから逃れることはできますまい」と折り返し返信がありました。

 

 昼近くになって、二人とも殿上に上がりました。ヒカルが取り澄まして、とぼけていますのが、アントワンにはとてもおかしいのです。その日は公事の奏上や宣下が多いので、家臣たちは威厳正しく、かしこまっていましたが、二人の眼が合うと自然に微笑が浮んできます。人がいない間にアントワンがヒカルに寄って来て「内緒事は懲りたでしょうな」と憎たらしげに横目で睨みつけます。「いやいや、そうでもありませんよ。それより、せっかく女の所に忍んで来ながら、無駄骨で帰っていってしまった人の方がお気の毒です。本当に男女の仲は思い通りに進まない世の中ですね」と言い合いながら、「古歌にも『恋人は誰ですか と問われても さあ分かりませんととぼけて 私の名はもらさないでくれ』とありますから」と、お互いに口を固く閉じておくことを約束します。

 

 それからというものは、ともすると何かのついでにアントワンは冷やかしの種に持ち出してきますので、これも「厄介な老女をつまみ食いしてしまったからだ」と思い知りました。一方のニナはいまだにヒカルに色気たっぷりに恨みかかってきますので、「困ったものだ」とヒカルは閉口します。

 アントワンはこの一件をヒカルの夫人である妹に話すことはしませんが、「何かがあった折には、ヒカルをやり込める素材にしよう」と虎視眈々と狙っていました。高貴な身であるヒカルの腹違いの王子たちですら、王さまのヒカルに対する扱いがこの上もないことを気にかけて、一目を置いているのですが、アントワンは「何もひけをとることはあるまい」とささいなことでもヒカルと競い合います。左大臣の正妻である大宮の子はアントワンと妹の二人だけでした。「ヒカルは『王さまの子』と言っても家臣の身である。私だって、父は大臣の中でも王さまの覚えがとりわけ高い人物であるし、母は王さまの姉である。由緒あるアンジュー公家の跡取りとして大事に育てられてきたのだから、それほど劣っているわけでもない」と自負していました。人柄もすべての点で行き届いていて、何事においても不足しているところはありません。

 この二人の間の凌ぎあいはあれこれありましたが、煩わしくなりますから、省略しておきます。

 

 

6.藤壺の立后と、ヒカルの宰相昇進

 

 藤壺は王宮入りして以来、準王妃格の貴婦人として遇されていましたが、八月になって、正式に王妃と同等の地位となる「中宮」の称号を与えられました。同時にヒカルは官位三位の中将のまま、太政官の参議である宰相に任じられました。王さまはまだ四十歳手前の若さでしたが、昨年末のパリへの行幸の際に感じたイタリア遠征での古傷と胸の痛みが増していましたので、おい先が長くはないことを自覚しました。

 

「自分が世を去った後の準備を今のうちからしておかねば」と思い立った王さまは「朱雀王太子に王の座を譲り、自分は院政をしく」布石を、家臣たちにも内証に打ち始めました。

「王太子には藤壺が生んだ若宮を据えよう」と考えましたが、王太子の後見人になるべき適切な人物がおりません。藤壺の実兄である兵部卿宮は優柔不断で頼りなく、ヒカルはまだ政治を担うほどではありませんでしたから、「まず母親である藤壺を中宮に固めておけば、何かの場合に力になろだろう」と王さまは考えていました。

 

 当然のように紫陽花王妃は藤壺が中宮の座につくことを警戒します。王さまはそれを承知していますので、「貴女にだけは知らせておくが、朱雀王太子の即位が近付いている。貴女は皇太后になられるのだぞ。だから安心していなさい」と王妃を説き伏せました。

 巷の人たちは「紫陽花王妃は王太子の母となって十六年になられる。ブルターニュ公国併合のこともあるから、王妃をさしおいて藤壺を中宮に引き立ててしまうのは難しいことではないか」と例によって穏やかではないことを噂し合います。

 

 藤壺が中宮として参内する行列のお供の一人として、宰相となったヒカルも加わりました。王さまが愛する貴婦人たちの中にあって、藤壺は前王の弟を父とする王族であり、宝玉のように光り輝き、王さまの覚えも類ないほどなので、王宮の人たちは前にも増してお仕えすることを喜びました。それに対してヒカルはやるせない気持ちで馬車の中の恋しい御方を思いやり、ますます手が届かないようになられていくのを見ているといても立ってもいられなくなる程でした。

(歌)はるかに高い所に 行かれてしまう人を 仰ぎ見るにつけても 尽きない心の闇に 目が曇ってしまいます

とだけ、独り言を歌いながら、悲しみがつのっていきます。

 

 冷泉王子は成長していく月日と共に、本当にヒカルと見分けがつかないほどになっていくのを、藤壺は「何とも苦しいこと」と悩みますが、その秘密を思い知る人々はいないようです。

 

「本当に、どう作り替えてしまったのか、ヒカル殿に劣らない様子をした者が世に現れてしまった。冷泉王子とヒカル殿は月と日が同じ空で並びあって光りを放っているようだ」と世間の人は思っていました。

 

 

 

                     著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata