その50巻 東屋    (カオル 二十五歳)

 

8.母君、姫君をタンプル通りの隠れ家に引取り、将来を思案

 スペイン王国のフェリペ二世国王との交渉やカトリック派とプロテスタント派の対話を実施するポワシー会談(Colloque de Poissy)の準備で、ニオイ卿はしばらくの間、ヴァンセンヌ邸に戻らないことを知った姫君の乳母は馬車を手配してもらって、知事の邸に行きました。母君にこうこうしかじかと言うと肝を潰して、「侍女もけしからんことだと言い思っていることだろう。本人もどんな思いでいることでしょう。こうした筋の嫉妬や恨みは貴人も変わりはないのだから」と母君は自分の性格から、じっとしていられなくなって、夕刻ヴァンセンヌ邸に行きました。

 ニオイ卿がいないので気が楽になった母君はマドレーヌに「妙に子供じみた人を預け、安心してお任せいたしましたが、何だかイタチのような気がして落ち着かず、知事の邸にいると、道理が分からない子供たちに憎まれたり恨まれたりしています」と話しました。

「そうは言われますが、姫君はそれほど子供じみてはおりませんよ。後ろめたげに心配されている目つきに当惑してしまいます」と一笑に付すマドレーヌの気恥ずかしそうな顔つきを見て、邪推をした自分が恥ずかしくなりました。

「ニオイ卿との件をマドレーヌ様はどう思われたのだろう」と母君は案じるものの、どうして尋ねることが出来ましょう。「姫君がこうしてご厄介になっているのは、私の長年の願いが叶ったような気がしますし、人が漏れ聞いたとしても体裁がよく、晴れがましいことだと思っておりましたが、さすがに遠慮しなければならないことが起きてしまいました。姫君を深山に籠ってもらう本意は固く変えないでおります」と母君が泣くのが気の毒なので、「姫君がこの邸に滞在していることを、どうして後ろめたく感じているのですか。いずれにしても、私どもが姫君を疎遠にして、放ったままにしていると言うのなら不満もありましょうが、たちが良くない人が不都合なことを時々しでかしてしまうことはあるものの、その人の本性を皆、承知していますから、私はあれこれと気を使って、姫君にひどい扱いはしていないと思っておりますが、あなたはどのように感じ取られたのですか」と聞き返しました。

「私は何もそのお気持ちに違いがあるとは思ってもおりません。気の毒なことに第八卿は姫君を自分の子として認知されなかったことを、何で今さら持ち出したりしましょう。それでも母上の姪である私を思い捨てることはあるまいとの思いを拠り所にして、お頼みした次第です」などと母君は丁重に答えた後、「明日と明後日はしっかりと心身を慎むべき日に当たりますから、ごたごたしていない場所で過ごさせて、またこちらに連れてまいります」と話して、姫君を連れ出しました。

「気の毒なことだが、思うようには進まないものだ」とマドレーヌは思いながらも、引き止めることはしませんでした。母君は情けない不都合が起きたことに動揺しているので、きちんとした挨拶もしないで、姫君と邸を出ました。

 

 母君はこうした方向違えにそなえて、小さな家を用意していました。タンプル(Temple)通りの中庭の奥の家でしたが、まだ造りかけだったので、しっかりしたしつらえは出来ていません。「ああ、悲しいことに姫君一人のことで、色々と苦労をしてしまう。こんなままならない世の中では生きてはいけないものです。自分だけであるなら、ただ一途に身分や素性を捨てて、人並みに扱われてなくとも、それ相応に逃げ隠れることが出来ます。マドレーヌ様との親類づきあいは『心苦しいことだ』と聞いていたのに、親しくさせていただきましたが、具合が悪いことが起きてしまったなら、物笑いにされてしまいます。この世は味気ないものですね。この家はむさくるしいでしょうが、誰にも知らせずに我慢をしていなさい。そのうち、何とかしますから」と言い残して、自分は知事の邸に戻って行こうとしました。

 姫君が泣きながら、「この世に生きていても厄介な存在の我が身なのだ」と塞ぎ込んでいる様子は悲しいことでした。まして母君はそれ以上に、改めて無念な気持ちになって、「何とかして、問題もなく私が考えているようにして上げたい」と思うものの、ニオイ卿との気の毒なことが起きてしまって、人から軽薄だと言われはしないか、と心配でなりません。母君は思慮が浅いわけではないのですが、幾らか怒りっぽいとことがあって、少し自分の思い通りにしてしまう向きがありました。

 姫君を知事の邸に隠しておくことも出来ましたが、ああいった邸に隠してしまうのは可哀そうだと母君は思って、こうした風に取り計らったわけですが、始終、明け暮れ見馴れて来た二人なので、別れ別れになってしまうのが「心細く耐え難いことだ」とお互いに思っていました。

「この家はまだ造りかけで不用心な所ですから、その積りでいて下さい。必要な際は、侍女や使用人を呼んで言いつけて下さい。宿直人のことなども決めてはいますが、とても気がかりです。それでも知事の邸の人たちが怒って恨んでしまうのが苦しいので」と母君は泣きながら帰って行きました。

 

 知事邸では、左近少将の扱いを類のない人だからと落ち着かず、「一緒になってお世話に励まないのは体裁が悪い」と知事が怒っていました。「とても情けないことだ。この少将のお蔭で、こうした出来事が起きてしまったのだ」と、この上なく思っている姫君が今の状況になってしまったことが辛く、不快になって、少将の世話をほとんどしません。少将はニオイ卿の前では人並みに扱われてはいないように見えて、少将を見下していたので、「姫君の婿として心をこめてお世話をしよう」などと考えていたことは、もはや消え失せていました。

「少将はこの邸では、どんな風に見えるのだろう。そういえばくつろいだ様子を見たことはなかった」と母君は思って、穏やかなある日、少将がいる西側に行って物陰から覗いてみました。

 薄い紅色の絹織物に親しみが持てる今流行りの光沢をほどこした、清らかで美しい服を着て、端近くで前庭を見やっている少将の姿は、「どうして劣っていると言えるだろう。中々の美男子だ」と見えます。側にいる知事の娘はまだ無邪気な様子で、寄り添って臥しています。マドレーヌがニオイ卿と並んでいた様子を思い出すと、がっかりしてしまう有様に見えます。少将が前にいる侍女達に冗談を言いながら打ち解けているところは、ニオイ卿邸で見たような気品がなく意地が悪そうには見えないので、「ニオイ卿邸にいたのは別の少将だったのか」と思っている折に、左近少将が侍女たちに話しました。

「ニオイ兵部卿の邸の庭の萩の花は、何と言ってもとりわけ興味深い。どうしてああいった種類があるのだろう。同じ枝ぶりなどでも、とても優美で風情がある。先日伺った時は、ニオイ卿が王宮に上がる間際だったので、折ることが出来なかった。

(歌)色あせて散っていくことさえ惜しい 秋の萩に 折れてしまうばかりに置かれた露よ

とニオイ卿が誦した歌を若い侍女達に披露してみよう」と言って、自分も同じ歌を誦しました。

「いやはや。姫君にした仕打ちを思うと、まともな人とも思えないのだが。ニオイ卿を前にした見劣りとひどく隔たりがあるのに、何を偉そうに言っているのだろう」と母君は呟いて、そうは言っても満足している様子はしていないので、少将に近寄って「どんな反応をするのか」を試みました。

(歌)縄を巡らせて 他人が立ち入らないようにしている小萩は 迷わないでいたのに 

   どんな露で下草の色が変わってしまったのでしょう

と詠むと、少将は気の毒に思ったのでしょう。

(返歌)小萩が第八卿の子であると知っていたなら 露も心を移すことはなかったのだが

「是非とも私自らお目にかかって、明らかにしたいのですが」と返しました。

「どうやら、姫君が第八卿の子であることを聞いたのだろう」と母君は思って、「どうしかして姫君をマドレーヌ様と同等にしていかなければ」と思い悩んでしまって、カオル大将の様子や姿形が恋しく浮かんで来ました。

「同じように『ご立派だ』と見なしていたニオイ卿への思いは、もはや思い離れて気にはかからない。人を侮って姫君の部屋に押し入ったことを思うと、いまいましいことだ。カオル大将はさすがに姫君に逢ってみたいとの気持ちがありながら、軽率には言い寄ろうともされずに、そしらぬ顔をしているではないか。私ですら、何かにつけて大将を思い出すのだから、まして若い姫君なら、なおさら思い出して行くことだろう。あの憎い左近少将を『婿にしよう』と思いを寄せてしまったのは見苦しいことだった」などと、ただ姫君のことが心に引っ掛かって、ぼんやりと物思いをしました。「ああだこうだ」とあれこれ良からぬ予測を思い続けますが、とても難しいことでした。

「高貴な身分の振舞いを見馴れているジョセフィン様は姫君よりも今少し格別な存在だ。カオル大将はどのくらい姫君に心を留めることだろうか。世の中の人の有様を見聞きしてみると、賤しいか高貴かの身分に応じて、器量や気立てには劣り勝りがある。確かに知事と自分との子供たちを見てみると、姫君に似ているわけでもない。左近少将もこの邸ではこの上もない者に思われているが、ニオイ卿と見比べてみるととても残念な者だと推察できる。安梨王が手厚く育てたジョセフィン様を頂戴した人物の目移しの存在に姫君がなるのは全く恥ずかしいことで、遠慮すべきであろう」と思うと、母君はなんとなくぼうっとしてしまいます。

 

 タンプル通りの仮住まいにいる姫君は手持ちぶさたで、中庭に生える雑草もうっとうしく、下品な田舎訛りの声を出す者たちばかりが出入りするだけで、慰めに見るような前庭の花もありません。荒れた環境の中で晴々としない気分で明かし暮らしながら、マドレーヌ様の様子を思い出すと、田舎育ちの若い心に恋しさを覚えます。無理やりなことをしたニオイ卿の気配もさすがに思い出して、「あれはどういったことなのだろう。しきりにいじらしいほど口説こうとされていたのは」と名残惜しくなったり、ニオイ卿の移り香がまだ残っている心地がしながら、恐かったあの時を思い出していました。

 すると「母君のもとから」と言われて見てみると、母君が非常にしみじみとした文章を書いて寄越した手紙でした。「母君は一通りではない心苦しさで、親身に世話をしてくれているのに、その甲斐もなく面倒をかけてしまっている」と姫君は涙を流して、「どんなにか所在ない不馴れな気持ちをされていることでしょう。しばらくの間は辛抱して下さい」との返事をしました。

「所在なさは何とも思ってもおりません。心配はいりません」

(歌)ここは別の場所と思い込んでいるなら 世の中もひたすらに嬉しくなります

と、子供っぽく詠んでいるのを見て、母君はぽろぽろと泣いて、「こうまで動揺させて、放り出してしまったのだ」とたまらくなって、返歌を詠みました。

(返歌)この辛い世の中に 別の場所を求めても あなたの元気盛んな様子を見る手立てがあったなら

と、二人は月並みな手紙をやり取りしながら、憂さ晴らしをしていました。

 

 

9.コンフランの御殿が完成、姫君をコンフランに移す

 カオル大将は毎年、秋が深まるとコンフランへ行くのが習慣になっていて、朝寝覚める度ごとに忘れることなく、ジュヌヴィエーヴのことをどうしようもなく思い出していましたが、「コンフランの御殿が出来上がった」と聞いて、自らコンフランに行きました。

 久しく見ていなかったセーヌ川沿いの紅葉を珍しく感じました。取り壊した寝殿は今回、とても晴れ晴れしとした造りの御殿に変っていました。以前の質素で修行者めいた住まいを思い出すと、亡き第八卿が恋しくなって、建て替えてしまったのが残念になってしまい、いつもよりじっと新しい御殿を眺めました。元の寝殿の造りは、一部分が崇高で近寄りがたい父卿の住まいで、もう一方は女性らしい細やかさ、と分けてありましたが、ケヤキや小板を編み込んだ屏風や何だかの乱雑な品々は今度の御堂の修道者用の部屋に配置しました。そして山里めいた調度類を特別に命じて、費用を惜しまずに非常に清らかにたしなみ深く作らせました。

 カオルは引き水のほとりにある岩に腰を下ろして、すぐには立ち上がらずにいます。

(歌)今も涸れずに流れる水に 亡き卿とジュヌヴィエーヴの面影を留めて欲しかった

 涙を拭いながらベネディクトの部屋に立ち寄ると、ベネディクトはカオルを悲しそうに見やりながら、泣き顔をしていました。

 

 カオルは横柱に寄りかかって、仕切り布の裾を引き上げて話しかけました。ベネディクトは間仕切りの蔭に隠れていました。

 話のついでに「あの姫君は先ごろ、ニオイ卿の邸にいると聞いたが、さすがにきまりが悪くて尋ねてはいない。やはり私の思いをあなたから伝えて欲しい」とカオルが話すと、「先日、姫君の母親から手紙がありました。方向違えということで、姫君はあちらこちらを移り歩いているとのことです。『この頃は見馴れない小さな家に隠れているが、とても可哀想なので、コンフランがもう少し近かったら、そちらに姫君を預かってもらえると安心なのですが、コンフランに行く途中の坂道が大変なので、軽々しくは思い立たずにおります』ということです」とベネディクトが伝えました。

「普通の人がそうやって恐がっている道を、自分こそは忘れ難い思いで踏み分けて来たのだ。どれほどの因縁があったのだろうか」とカオルは例のように涙ぐみました。

「それなら、その安息している隠れ家に知らせて下さい。あなた自身でそこに出向くことが出来ないのなら」と言うと、「おっしゃることを伝えることはたやすいことです。今更、パリに出向くのは気が進みません。ニオイ卿邸にも参らずにいます」とベネディクトが答えました。

「何でそのようにしているのです。世間に知れたらともかく、聖ドニ(サン・ドニ、聖ディオニュシウス)ですら、時に応じて出向いたりしたではないですか。深い信念を破って、人の願いを叶えてくれる人こそ、尊いことなのだ」と言うと、「人を天国に行かせることでもないのに。私がパリに出て行くと、聞き難い噂を立てられてしまいます」と困ってしまいました。

「それでも良い機会なのだから」とカオルはいつもと違って強気になっていて、「明後日頃に迎えの馬車を寄越すことにする。それまで姫君の隠れ家の場所を尋ねていて下さい。決してみっともない筋違いな行いはしないから」と微笑みながら言うと、ベネディクトは「一体、どういう積りなのか」と煩わしく思いながらも、「カオル様は軽率で浮ついてはいない性格のお方だから、自然と自分自身のためにも外聞などは包み隠してしまうだろう」と思い直して、「そういうことなら、承りましょう。王宮の近くにあるようです。姫君への手紙を用意しておいて下さい。さもないと、私が殊更におせっかいで、余計な心遣いをしているように姫君達に思われてしまい、今さらになって、『人を騙すキツネ』のようになり、気が引いてしまいます」と答えました。

「手紙を書くのはたやすいことだが、世間の風評はとても不快なもので、『左大将はピュイ・ドゥ・ドーム知事の娘に言い寄ったそうだ』などと噂されてしまうのではないだろうか。その知事はひどく荒っぽい気性のようだ」と言うので、ベネディクトは一笑して、カオルをいとおしく感じました。

 暗くなったので、カオルは邸を出ました。趣がある下草の花や紅葉の枝を折らせて、ジョセフィンへの土産にします。ジョセフィンとの仲は不甲斐ないものではありませんが、王女なので恐れ慎むようにしていて、ひどく馴れ親しんでいることはないようです。亡き安梨王が普通の父親のように、母の山桜上にも頼み込んでいたので、カオルはジョセフィンを限りなく高貴な人として扱っていました。サン・ブリュー大后や山桜上に加えてジョセフィンへの配慮がある上に、難しい内緒事が出来て、苦しい思いをしていました。

 

 カオルはベネディクトに約束した日の夜明け前に、前々からめったには存在しないと見なしている一人の下郎に、誰にも顔を知られていない馬飼をつけて、コンフランに遣りました。加えて、「警護には荘園の田舎っぽい者どもを選んで付けなさい」と命じました。

 ベネディクトは「必ずパリに出向くように」とカオルが言っていたので、気が引けて辛いのですが、化粧と身仕舞をして馬車に乗りました。野山の景色を見ていると、昔の出来事などを思い出しつつ、外を眺めながら思いにふけっているうちに、パリのタンプル通りの隠れ家に着きました。

 まだひっそりとしていて、人目にも見えない場所だったので、邸内に気安く馬車を引き入れて、「こういったわけでベネディクト様が伺いました」と道案内の男に言わせると、姫君のシャルトル詣での際にお供をしていた若い侍女が出て来て、ベネディクトを降ろしました。見苦しい家で退屈していた姫君は昔の話をしてくれそうな人が来たので、嬉しくなってすぐにベネディクトを呼び入れました。「父親と聞く人の側で仕えていた人」と思うと、親しみがわいたのでしょう。

「なつかしいことに、人知れずお逢いしてから、姫君を思い出さない折りはないのです。でもこのようにこの世の中を思い捨てた身なので、マドレーヌ様にも伺うことはなかったのですが、あのカオル大将殿が不思議なほどせがみますので、とうとう思い立ちまして」とベネディクトが話しました。

「カオル様を婿にされたら」と乳母が母君に言ったこともあってか、姫君も乳母も「ご立派なお方だ」と見定めていた人なので、姫君を忘れてはいないように話すのは素晴らしいことですが、「こう突然にカオルの思いを伝えられる」とは思ってもいませんでした。

 

 夕暮れが過ぎた頃に、「コンフランから参った者です」と邸の表門をひそやかに叩きます。「さては」と思ってベネディクトが表門を開けさせると、馬車を引き入れて来るので「怪しい」と思っていると、「ベネディクト様に対面させていただきたく」と、コンフラン近くのカオルの荘園の管理人の名を名乗るので、ベネディクトが戸口に進み寄りました。雨が少しうち注ぎ、風がすごくひんやりと吹き込む中、言いようもない薫りが匂って来るので、「そういうことだったのか」と誰も誰もの心がときめきました。

 カオルの気配に心が引かれるものの、何の準備もなく見苦しい場所なので、来訪は考えもつかなかった侍女たちは動揺して、「何が起きたのでしょうか」と言い合っています。

「安心できる場所で、ここ数か月の思い余った気持ちを話したい」とカオルは取次ぎを介して伝えました。「どう返答すべきなのだろう」と姫君が困っていると、乳母は見かねて「こうやってお越しになったのに、立たせたままでお帰しすることがありましょうか。知事の邸はすぐ近くにありますので、『こうこうだ』と母君に内緒で知らせたら」と告げました。

「そんな初々らしいことをするまでもありません。若い者同士が話をするぐらいで、すぐに深い関係になることはありません。カオル様は不思議なほど気が長く、思いやりが深いお方ですので、いくら何でも姫君の許しなしに馴れ馴れしい振舞いはいたしません」などと、ベネディクトが言っていると、雨が少し降って来て、空が真っ暗になりました。

 夜警の男が奇妙な声を出しながら、夜回りを始めました。「この邸の東南の隅が崩れていて、非常に不用心だ」、「この馬車を邸内に引き入れて、門を閉めなさい」、「こんな人のお供どもは不愉快だ」などと言い合っているのを、カオルには薄気味が悪く。聞き慣れない心地がします。

(歌)不本意にも降って来る雨だ ノルマンディーの岬の渡しには 雨宿りをする家もないのだが などと古い歌を口ずさみながら、洗練さに欠ける縁側の端に座っていました。

(歌)門が閉ざされて 雑草が生い茂る東屋に 長い間 雨が降り注ぐ

とカオルは詠んで、追い風が袖の雫をはらうと、かぐわしい薫りが匂って行くので、田舎育ちの姫君たちも驚いたことでしょう。

 

 あれやこれやと言い逃れるすべもないので、南の縁側の内側に座をしつらえてカオルを入れました。姫君は気軽には対面しようとはしないので、乳母や侍女が姫君を押し出しました。仕切り戸を間に立て、わずかに開けているので、「こんな仕切り戸を作った大工が恨めしい。私はまだこうした仕切り戸の外に隔てられてしまうのには馴れてはいない」と愚痴りながら、どうやったのか、カオルは室内に入ってしまいました。

 亡きジュヌヴィエーヴの身代わりの人像といったことは話さずに、ただ「コンフランでふとしたことから、物陰の隙間から見た時以来、無闇やたらと恋しくなったのは、こうなる運命であったのだろう。不思議になるほど思い慕っている」といった風にでも話したのでしょう。姫君の様子が大層可愛げでおっとりしていて、想像していたことと見劣りはしないので、「とても愛しい」と思って、カオルは一晩、姫君と一緒に過ごしました。

 ほどなく、夜が明けた心地がしていると、都会の街中なので雄鶏などは鳴かないものの、大通りに近い所で、締まりがない声を出す物売り達が何を言っているのか、聞いたこともない物の名を名乗りながら、連れ立って行くのが聞えて来ました。「こういった夜明け方に見ると、頭に物を乗せている者は魔物のように見えるのだろう」と思いながら聞いていました。

 こうした雑草が生えた小家で馴れない一夜を送ったことを面白く感じていると、宿直していた者達が門を開けて出て行く音がしました。各人が自分の寝場所に寝に行くのを知って、カオルは供人を呼んで、馬車を小家の戸に引き寄せさせて、姫君を抱いて馬車に乗せてしまいました。

 乳母や侍女達の誰もが、とんでもないあっけない行為に驚き騒ぎました。「厄月の九月に入ったのに」、「心苦しい行為を。どうされたのでしょう」と嘆いていると、ベネディクトにとっても姫君がいとおしく、思いも寄らなかったことなのですが、「カオル様は何かお考えがあるのでしょう。案じることはありません。秋入りする九月は明日からと聞いています」と言って、皆をなだめました。確かにその日は立秋の前日の十三日でした。

「私はお供をしません。マドレーヌ様がお聞きになるでしょうし、マドレーヌ様に挨拶もしないで、内緒でコンフランへ戻って行くのはとても情けないことです」とベネディクトが告げますが、このことをいち早くマドレーヌが知ってしまうのが恥ずかしく思ったカオルは「それは後から謝罪をすれば良い。あそこへ行くのに道案内がいなければ、誰が頼りになるのか」と責め立てました。

「誰か一人が付き添うように」とカオルが言うので、姫君のお側に仕えている侍従がベネディクトと一緒に馬車に乗り込みました。乳母やベネディクトのお供をして来た女童などは後に残されて唖然としていました。

 

 ベネディクト達が「近い所に行くのだろう」と思っていると、コンフランへ行くということです。取り換え用の馬などもきちんと用意していました。セーヌ川を過ぎてエルブレイ(Herblay)のサン・マルタン教会にさしかかった頃に、すっかり明るくなりました。若い侍従はカオルの顔をちらっと見て、すっかり魅せられて、予期もしなかった恋心を抱いてしまい、外聞に気兼ねをしようとも思いません。

 姫君はあまりの情けなさに思い悩みながら、うつぶしに臥しているので、「この辺りは石ころが多くて難儀だから」とカオルは姫君を抱き上げました。馬車の中の目隠しに垂らしている薄物ドレスに朝日が花やかに差し込んで来るのを見ながら、ベネディクトはひどく中途半端な思いをしていました。

「亡きジュヌヴィエーヴ様のお供として、こうやってカオル様を見せてもらうはずだったのに。長生きしていると、思いもしなかったことを見るものだ」と悲しくなって、隠そうとしてもべそをかきながら泣いているのを、侍従は「癪に障る。おめでたいことの始まりに修道女の姿で同乗しているのさえ、どうだろうかと感じているのに、こうやってわざとらしくしているのは」と気に入らず、馬鹿げたことだと見ていました。「年寄りは無闇やたらと涙もろいものだ」と適当なことを思っていました。

 抱き上げている姫君の感じは良いものの、空の景色を見るにつけても、カオルも過ぎ去ったジュヌヴィエーヴへの恋しさが勝っていて、林深くに入って行くままに、眼に霧が立ってくる気持ちになりました。

 考え込みながら物に寄り添っている姫君のドレスと下着の裾が重なって、長々と外にはみ出ていましたが、セーヌ川の霧に濡れてドレスの紅色に下着の花色がべったりとくっついていたのを、急な坂道の高みでカオルが見つけて、裾を引き入れました。

(歌)姫君をジュヌヴィエーヴの形見と見るにつけ 涙が流れて 朝霧で裾が一面に濡れてしまった と、カオルが思わず独り言で詠んでいるのを聞いて、ベネディクトが絞り出るばかりに涙で袖を濡らすのを見て、侍従は「奇妙で見苦しいことだ」と、めでたい道中にとても厄介なことが付きまとってしまった心地がしました。

 ベネディクトがたまらないように鼻をすすっているのを聞いて、カオルは自分もこっそり鼻をかみながら、「姫君はどんな気持ちでいるのだろう」と愛おしくなりました。

「この道を長い年月の間、何度となく行ったり来たりしたことを思うと、何となくしみじみとしてしまう。少し起き上がって、この河畔の景色を見てみなさい。そんなに塞ぎ込んでいないで」と姫君を抱き起しました。情趣深げに扇で顔を隠して、遠慮がちに外を見ている目元などは、本当にジュヌヴィエーヴを思い出させますが、穏やかではあるものの、あまりにおっとりし過ぎているのがじれったくなりました。「ジュヌヴィエーヴはひどく子供っぽいところがありながら、心遣いは中々深かった」とやはりカオルの行方もない悲しみは果てしなく広がる大空に満ちて行くように感じました。

 

 コンフランに着いても、「痛ましいジュヌヴィエーヴの魂は今もここに宿って、私を見ているのだろう。このように無闇やたらに惑い歩いているわけでもないのだが」と思い続けて馬車から降りましたが、少し姫君に気を遣って、立ち去ることにしました。姫君は「母君がどう思うことだろう」と溜息をついていましたが、カオルが優美な様子で、心深くしんみりと話していたのに慰められて、馬車から降りました。ベネディクトは殊更にその先で降りて、馬車を回廊に寄せさせたので、「取り立てて思っているほどの住まいでもないのに、度が過ぎる心遣いをするな」とカオルは見ていました。

  近くの荘園から、いつもの人々が騒がしいほど集まって来ました。姫君の食事はベネディクトの方から差し上げました。道中は草木が繁っていましたが、ここの有り様はとても晴れ渡っていて、セーヌ川の景色や丘陵の風情が引き立たせている御殿の趣向が面白く、隠れ家でのうっとうしかった気分が晴れる心地がするものの、「カオル様は私をどのように扱うのだろうか」と、妙に落ち着かない思いをしていました。

 カオルはランブイエ城に手紙を書きました。「先頃、指示していたキリスト様の飾り付けが出来上がっていないので、今日は吉日だと思い込んで急いでコンフランにやって来ましたが、気分が悪くなってしまい、心身を清め籠る日だったことを思い出しました。そこで今日と明日はここで謹慎することにしました」などと母の山桜の上とジョセフィンに伝えました。

 カオルの打ち解けた様子はいつもより少し風情があって、姫君の部屋に入って行くと、姫君は恥ずかしいものの、逃げ隠れも出来ずにいます。姫君の衣装などは、「色取り良く」と周りが考えた重ね着をしていましたが、少し田舎っぽさも混じっているので、ジュヌヴィエーヴの着こなした姿が高貴で上品だったことばかりを思い出します。髪の端の愛らしさは細やかで優美なので、「ジョセフィンの並みではない髪の見事さに劣らない」とカオルは見入っていました。

 それにしても、「この人をどのように接遇していこうか。早速に堂々とランブイエ城に迎え入れると、世間の評判がひどくて都合が悪いことになる。そうかと言って、あれやこれやといった侍女達と通り一遍に混ぜて行くのは本意ではない。しばらくはここに隠しておくことにしよう」と思うものの、姫君を見ないでいるのは心寂しく愛しい思いもあり、いい加減でもない話しをしながら過ごしましたが、姫君を「浮舟」と名付けました。

 カオルは亡き第八卿のことを話し出して、第八卿との昔話を興味深く細やかに、冗談混じりに語りますが、浮舟はただひどく遠慮がちで、一途に恥ずかしがっているので、物足りない思いをしました。「避けようとする、こうしたじれったさも良いものだ。じっくりと教えながら、様子を見ていこう。田舎びた野暮ったさを身につけて、下品ではしゃいでいるだけなら、ジュヌヴィエーヴの人像としては必要がない」と思い直しました。

 

 この御殿にあったハープやチェンバロを取り出させて、「どうせこうした楽器は演奏できないだろうな」と惜しい気がしながら、独りで調べました。「第八卿が亡くなった後は、この邸で久しい間、こうした楽器に手を触れずにいたのだろう」と我ながら珍しく感じて、とても懐かしそうに遊びながら思いに耽っていると、月が上がって来ました。

「第八卿のハープの音は派手さがないものの、非常に風情があって、しみじみと弾かれておられた」と思い出して、「第八卿とジュヌヴィエーヴが在世していた頃に、あなたもこの邸で育っていたなら、ここの風趣を今少し意味深く感じたことだろう。第八卿の様子は私のような他人から見ても素晴らしく恋しく思い出す。どうしてあなたは長い年月、ああいった田舎で育ってしまったのだろう」とカオルが言うと、浮舟はひどく恥ずかしそうに白い扇をいじりながら、ソファに寄り臥している横顔が隅から隅まで白く、若々しい額髪が垂れかかっているのを見ると、ジュヌヴィエーヴのことをとてもよく思い出して辛くなりました。

「なおさら、こうした楽器もきちんと教えていかなければ」と思いながら、「楽器類を少しは触れたことがありますか。そうは言っても、南仏風のハープは弾き慣れているだろうね」と問うと、「南仏の方言すら満足に習わなかったのに、まして南仏風のハープなんて」と答えます。そうは言っても欠点があって、気後れがしているようには見えません。浮舟をこの邸に置いていたら、思いのままに逢うことが出来ないことを思うと、今からの心苦しさを感じて、浮舟をおざなりにすることは考えられません。

 カオルはハープを押しやって、「夜の寝室で 秋の白い扇にハープの音色」と誦すと、弓ばかり引いている無骨な田舎で暮らしていた侍従は「とてもご立派で、思っていた通りのお方だ」と聞き惚れていました。とは言っても、白い扇は秋になると捨てられてしまう、という男女の仲の古い言い伝えを知らずに、ひたすら聞き入ってしまうのは、教養不足でした。さすがにカオルは「事もあろうに、好ましくない歌を誦してしまった」と気付きました。

 

 ベネディクトから果物が届けられました。箱の蓋に紅葉やツタの葉を無造作に混ぜ合わせて敷いた紙に、不格好に書かれているベネディクトの歌を満月の下で見やりながら、カオルは急いで果物を食べたがっているように見えました。

(歌)宿り木の葉が紅葉に変る秋になりましたが 澄み切った満月はあの頃と変わりがありません と古めかしく詠んでいるのを恥ずかしくも懐かしくも思いました。

(歌)山里の名は変わってはいないが 澄み切った満月の寝室で見る顔は変わってしまった

とカオルはわざと返歌らしくなく詠みましたが、それを聞いていた侍従はベネディクトに伝えました。

 

 

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