その33.藤裏葉          (ヒカル 38歳)

 

4.神聖ローマ帝国軍のローマ虐殺

 

 昨年八月にヒカルがハンプトン宮殿に出向いで調印された、神聖ローマ帝国とスペイン王国を統治するカール五世対策でフランスとイングランドが共同戦線を組むロンドン条約を補足する形で四月三十日にウエストミンスター条約が締結され、コニャック同盟に合わせて、ローマ教皇と西ヨーロッパ諸国のカール五世包囲網が強まっていきました。

 イタリア北部では神聖ローマ帝国軍とコニャック同盟側との対立が激化していき、帝国軍は反教皇の方向を強めました。カール五世からミラノ公国の統治を任されていたシャルル・ブルボン元帥はミラノを発ってローマに向けて進軍、ドイツから遠征してきたフォン・フルンスベルグ(George von Frunsberg)軍と合流した後、五月五日に教皇が住むローマを包囲しました。

 

 翌五月六日、ブルボン元帥はローマ市内を取り巻く城壁を巡回中、敵側が撃った鉄砲の流れ弾に当たって、あえなく死に至ってしまいました。ブルボン元帥は、イタリア、スペイン、ドイツ出身の兵士が混合する多国籍軍を巧みに操縦してきましたが、元帥の急死により、ローマ教皇に対する兵士たちの士気は高まりはしたものの、元帥に代わって多国籍軍を統制できる者がいなかったことから、帝国軍は混乱していきます。

 

 兵士たちは、長期の行軍に加え給料の遅延もあって、餓えた兵士が多数存在しました。ことにドイツの傭兵にはカトリックを敵視するルター派が多くいたこともあって、ドイツ傭兵を主体としたローマ市内での略奪、虐殺、破壊行為が八日間に渡って継続しました。

 教皇は市外のサンタンジェロ(Saint-Ange)城に逃れて窮地を脱しましたが、市内に集まっていた文化人・芸術家は殺戮されるか、他の都市へ逃亡していきました。カトリック教会なども破壊され、文化財も略奪されたことから、1450年代から続いてきたイタリアの「盛期ルネサンス」の時代は終わりを告げました。

 

 ブルボン元帥の戦死とローマ大虐殺の報を受けたヒカルは、定めがない世の中の無常を思い知りました。元帥とはじかに出会ったことはありませんが、義母にあたるムーラン公妃から愚痴を含めて詳しい話を聞いていました。本来ならヒカルに代わって太政大臣になってもおかしくはない血筋でしたし、戦術に秀でた元帥がフランス軍を統括していたなら、ナポリ王国を足掛かりにして、パレスチナを手中におさめる、という桐壷王の夢が実現できていたかもしれません。過激化しているドイツのルター派の影響がフランスにも飛び火してくる不安もよぎりました。

 

 

5.サン・ブリュー姫の王宮入り、紫上の葵祭見物、ヒカルの訓戒

 

 ヴィランドリー城の姫君の王宮入りは五月二十日過ぎとなりました。紫上は姫君の王宮入りの祈願に、トゥールの聖ガティアン大聖堂に詣でようと、城内の婦人方を誘いましたが、花散里やサン・ブリュー上は紫上の後ろに付いて行くのは何となく面白くない、と思ったのか、誰もが思い留まりました。参詣の行列は仰々しいほどではありませんでしたが、ヒカルも同道して馬車二十輌ばかりとなりました。前駆の人数は多くもなく、簡略にしていましたが、さすがに立派な気配が漂っていました。

 

 たまたまその日は葵祭の日でしたので、一行は早朝に大聖堂に詣でた後の帰りがけに、祭の見物桟敷に入りました。ヴィランドリー城の婦人たちの侍女たちも、めいめい馬車を立ち並べて所々を占めた光景はきらびやかで、「あの馬車はあの婦人の侍女たち、この馬車は」と遠目でも眩いばかりの勢いでした。

 

 そんな光景を見ながら、ヒカルは秋好王妃の母メイヤン夫人が葵祭の際に馬車の梶棒台を押し壊された時のことを思い出しました。

「葵夫人のお供どもが権勢をかさにして起こした騒動だった。それを無視するようにしていた葵夫人はメイヤン夫人の恨みを負う形で亡くなってしまった」とヒカルは紫上に語ったものの、あの物の怪の一件は濁しました。

 

「それにしても二人が残した子供のうち、夕霧中将は臣下の身分として少しづつ出世して来ているし、秋好王妃は並ぶ者がいない地位を得ているのも、考えてみると誠に感慨深い。何事も無常な世の中だから、自分の思うがままに、生きていける限りの世を過していきたいが、私が亡くなった後に残された貴女が言いようもなく落ちぶれてしまうのではないか、と思って躊躇している」とも話していましたが、桟敷に王宮の上官たちが参集して来たので、そちらの方に向かいました。

 葵祭で王宮の近衛府が派遣した勅使は頭中将の柏木でした。柏木はソーミュール城から出立して来ましたが、上官たちもソーミュール城に集まって柏木と一緒に来ていました。王さまの使いとして副女官長のコンスタンの娘エレーヌも来ていました。柏木の評判が高いためもあってか、王宮や王太子を始めとしてヴィランドリー城などからも数々の祝儀物があり、柏木が将来を期待されていることがよく分かります。

 

 エレーヌには、王城から葵祭の会場に向うせわしない間際にまで、夕霧から便りがありました。二人は内密に愛を交し合っている仲でしたから、エレーヌは夕霧が高貴な女性と結婚したことを、さすがに心中穏やかでない思いでいました。

(歌)今日の祭りに 女性たちが頭にかざしている草は 目の前にいながら その名をはっきり思い出せなくなっています

「情けないことです」と書かれていました。

 エレーヌの気持ちを気遣って手紙を送ってきたわけですが、エレーヌは何と思ったのでしょうか。慌しく馬車に乗り込みながらも、すぐに夕霧に返歌を送りました。

(歌)私自身 頭髪に挿していながら はっきりと思い出せない草の名は 月桂樹の枝を折られた御方なら 

   ご存じでしょうに

「あなたのような学識者でおられるなら」と書いてありました。ちょっとした返信でしたが、「中々心憎い返歌だ」と夕霧は感じました。雲井雁との結婚後も、夕霧のエレーヌへの思いは終らず、人目に紛れて出逢い、愛し合うことになるでしょう。

 

 姫君が王宮入りした後は、紫上が面倒をみるべきでしたが、「常にお側に長くいてお世話をすることはできないだろう。この機会に実母を後見役につけたら」とヒカルは考えました。紫上も「いずれはそうなるべきことであるし、これまで離れて暮らさざるをえなかったことを、あの人も『不愉快なことだ』と思い歎いていたことだろう。姫君も今になって、胸中では実母のことが気掛かりになって、物苦しい思いをしていることだろう。姫君に私と実母の双方に気兼ねをさせてしまうのもつまらないし」と感じていました。

 

「この機会に実の母を付き添わせてください。満十歳になったばかりの姫君はまだ他愛がない年齢なことが気になりますし、仕える侍女と言っても、多くが若い人ばかりです。乳母たちと言っても、状況を見定めて判断するのに限度がありましょうから。私自身はそんなに長く付き添うことができませんから、そうしていただけると安心です」と返答しました。

「よくぞそこまで考えてくれた」とヒカルは嬉しくなって、早速サン・ブリュー上に告げました。感激したサン・ブリュー上は、長い間の願いが叶った気持ちがして、仕える侍女の衣裳や何やかやとした用意を高貴な紫上がするのに劣らないように、仕度を急ぎました。

 

 姫君の祖母の修道老女は、孫の先行きをまだまだ見届けたい思いが深くあって、「せめて今一度、孫の顔を見る時もあるだろう」と命を惜しみながら、執念深く祈り続けて来たので、「王宮に上がったら、どうやって逢えるのだろうか」と悲しい思いをしていました。

 

 その夜は紫上が付き添って王宮に上がりました。サン・ブリュー上は紫上が乗った手車の後ろに徒歩でついていました。身分が低くて、外聞が悪い自分のことは気にはしていませんが、「自分の存在がヒカル夫妻が大切に磨き上げてくれた玉の瑕(きず)になりはしないか」と長生きをしてしまった自分をひどく心苦しく思っていました。

「王室入りの儀式は世間の目を驚かすような派手なことはしまい」とヒカルは控え目にしたつもりでしたが、普通の世間並みにするわけにもいきません。紫上はこの上もなくサン・ブリュー姫にかしずきながら、「本当に姫は美しい」とせつない思いをしながら、姫を生母に譲りたくはなく、「自分の実の子であったなら」と感じていました。この一点だけは、ヒカルも夕霧も物足りない思いをしていました。

 

 紫上は三日目の夜の祝いを済ませてから、王太子の住まいを退出し、入れ替わってサン・ブリュー上が上がりましたが、その際に二人は初めて差し向かいの対話をしました。

「このように、姫が成人への節目をつけるまで、もう長い年月の知り合いなのですから、今さら他人行儀な気持ちなど残っておりません」と紫上は親しげに語りかけました。これが二人が打ち解けて行く端緒となるでしょうが、サン・ブリュー上がものを言う気配を見ながら、「夫が惹かれるのももっともだ」と紫夫人は感じました。

 

 一方のサン・ブリュー上も今が盛りの気品高い紫上の様子をじっくり見ながら、「ご立派なお方だ。多くの女性たちの中でも、ヒカル様の寵愛を最も受けて、並びようもない地位におさまっているのは、確かにもっともなことだ」と理解しました。

「そんなお方とこうして肩を並べあっている自分の運命も悪いものではない」と思う一方で、紫上が退出する儀式が実に美しく盛大で、手車に乗ることを許される王さまの貴婦人と違わないことを、自分の立ち位置と較べてみると、やはり身分の違いを実感せずにはいられませんでした。ただ成長した自分の娘が美しく、雛人形のような様子を夢見心地で見るにつけ、涙だけは止まりませんが、これは(歌)嬉しいことも 憂うことも 心は一つで それを区別できなくするのは 流れる涙なのだ といった歌のような心境だったのでしょう。

 久しい間、何事につけても悲観して、何もかもが辛い身だ、とくじけていた自分の命も、今は長生きをしたいと晴れ晴れした気持ちになっていて、本当にモン・サン・ミシェルの聖人の言い尽くせない霊験を思い知りました。

 

 サン・ブリュー姫は紫上が自分の望むように養育して、さらに行き届かない点もほとんどなく、気高く美しく育ちましたので、世間の人の期待や声望を始めとして、並一通りではない容姿や器量をしていることから、まだ十一歳の若さながら安梨王太子も、それなりに格別な女性と思っていました。

 王太子の恩寵をめぐってサン・ブリュー姫と競う貴婦人に仕える侍女たちは、サン・ブリュー姫の実母が世話をしていることを疵であるかのように言い触らしたりしていますが、そんなことに負けてしまうほどでもありません。姫君は今風で、並ぶ者はいないほどなことは勿論のこと、実母が何と言うこともなく心憎いほど奥ゆかしい気配で巧く取り回して行きますので、姫君が住む桐壺の間は王宮人にとっては仕える侍女たちを物色できる、珍しい挑み場所となっていました。折りに付け侍女たちに懸想をするようになったので、サン・ブリュー上は侍女たちのたしなみや態度すら、きちんと仕込んでいました。

 

 紫上もしかるべき折節には王宮へ上がりました。サン・ブリュー上との間柄は望ましいほど睦まじくなっていきましたが、と言ってサン・ブリュー上は出過ぎて馴れ馴れしくしたり、侮った応対をすることは露ほどもなく、不思議とそうあるべき人の様子や心映えを持っていました。

 

 ヒカルは「長くはないと感じる自分の存命中に、何とかして、と念願していたサン・ブリュー姫の王宮上がりも十二分に実現できたし、心の持ちようとは言え、身が定まらずに浮ついたように見苦しかった息子も今は心配することもなく、見た目もよく落ち着いてくれた」と、一段落が付いた思いがして、「ここいらで身を引いて、在家修道僧になって静かな余生を送る本心を遂げようか」という気持ちになっていました。

「ただそうなると、紫上のことが気掛かりになってしまうが、秋好王妃が拠り所になってくれるだろう。サン・ブリュー姫も表向きの母親としてまず第一に心をかけてくれるだろうから、何とかなるだろう」と思いをめぐらせました。時々は慰めの声をかけている夏の町の花散里も、宰相中将の夕霧がついているし」と婦人たちのそれぞれに「後顧の憂いはないし」とも考えるようになっていました。

 

 

6.フランス軍のジェノヴァとナポリ攻撃

 

 ローマを制圧した帝国軍と教皇は、六月五日に平和調印を結びましたが、実質的には教皇が帝国軍に降伏したもので、帝国軍のローマ占領が続きました。しかしながら、カトリック教徒であるカール五世は配下が犯したローマ虐殺にはかりしれない動揺を受けましたし、カトリック教徒主体のスペイン・イタリア兵はルター派のドイツ傭兵に対する非難を高めたことから、帝国とスペイン王国との間の軋轢が強まり、双方を治めているカール五世は予想だにしなかった苦境に立たされました。

 

 帝国・スペイン王国連合のひび割れは、パヴィアの敗北、冷泉王のマドリード捕囚の屈辱をはらす好機到来でした。八月に入ってから、フランス軍を率いるロートレック元帥はイタリア北部のロンバルディ(Lombardi)地方に攻め入り、ジェノヴァを奪取。ジェノヴァを拠点にミラノ公国とナポリ王国への攻撃準備を始めたことから、第二次帝国戦役が始まりました。

 

 ブルボン元帥の死により、ムーランを首都にしたブルボン公国とブルボン本家は消滅したことから、ブルボン家は分家のヴァンドーム家に引き継がれることになりましたが、新ブルボン家の采配は冷泉王の手に委ねられました。

 帝国との第二次戦役が始まったことから、「自分の政治能力はさほどではないが、まだまだ冷泉王を支えていく必要がある」と、ヒカルは静かな余生に入ることはまだほど遠いことを自覚しました。

 

 

7.ヒカル四十賀の準備と、太政王の称号譲与。夕霧夫妻がアンジェ城へ引越し

 

 翌年、ヒカルは数え年で四十歳になることから、その祝賀の準備が王宮を始めとして世間の関心事となりました。

 秋には譲位した王さまの称号にあたる太政王の称号が与えられ、封地と封戸が増え、年官や年爵を推薦できる特権も高まりました。そうでなくとも、すでに世の中でヒカルの思いにならないことはなかったので、ここまでの厚遇はやはり珍しいことでした。やはり冷泉王の実父を尊重する思いが強かったからでしょうか。昔からの慣習通り、譲位した王さまの事務を執る院司が任命されたり、あれこれの付加もありましたから、「こうなると、王城へ上がるのも難しくなって来た」とヒカルは困惑していました。ところが冷泉王はこれだけでも不充分だと思っていて、世間をはばかってヒカルに王位を譲れないことを朝夕につけ歎いていました。

 内大臣アントワンは官位最高位の太政大臣に昇格し、宰相中将の夕霧は官位三位の中納言になりました。昇進を喜んだ夕霧は挨拶廻りをしようと、ソーミュール城を出ました。輝きがますます増していて、その容姿や容貌を始めとして足りないところがない様子をアントワンが見て、「雲井雁が貴婦人として王宮に上がって、王さまの寵愛をしのぎあって辛い思いをするよりもよかった」と感じ入っていました。

 

 夕霧は雲井雁の乳母ポーリンが「官位六位の男と一緒になるなんて」とブツブツ呟いていた夜のことを、何かにつけて思い出していたので、大層見事な色に色づいた菊の花をポーリンに差し出しながら詠みました。

(歌)貴女はあの当時 浅緑の色をしていた菊の若葉を見て いずれは濃い紫色になろうとは 

   露ほどにも予想しなかっただろうね

「あの辛かった頃のあなたの一言を忘れることができない」と花やかに微笑みました。

 ポーリンは恥かしく感じながらも、すっかり美男子に成長した夕霧をいとしいと見ていました。

(歌)貴方さまは まだ二葉の頃から 名高い園の菊のような若君でしたから まだ色が浅いと 軽蔑する者など 

   露ほどにもおりませんでした

「それほど気に掛かっておられたとは」といかにも物馴れたように苦しい弁解をしました。

 

 中納言に昇進して勢いが増し来訪者も増えてきて、ソーミュール城の住まいでは手狭になって来たので、夕霧夫妻は思い出深いアンジェ城に引越しました。祖母の大宮の没後、少し荒れ出していたのを大層立派に修繕して、大宮が住んでいた場所を改めて飾り立てて新生活を始めました。

 二人にとってアンジェ城は昔のことを思い出せる、しんみりと感じる住まいでした。前庭などに生える小さかった樹木も大きく繁って木陰を作るようになっていました。(歌)君が植えた ススキの一叢も しきりに虫の音がする 伸び放題の野辺となってしまった と歌われているような一群れのススキも思い放題に乱れ生えていたのを手入れさせました。池の水草も除かせて、趣のある夕暮れの庭と眼下のメーヌ(Maine)川の景色を二人揃って眺めながら、離れ離れになった少年・少女の頃の話をしていると、昔を恋しく思い出すことが多くありました。雲井雁は人々からあれこれと思われたことが恥かしかったことを思い起こしていました。その頃に二人に仕えていた侍女たちの中で、お暇をとらずに城内のあちこちに散っていた者たちが再び集まって来て、お互いに嬉しがっていました。

 

(歌)池の清らかな真水よ お前こそが この石造りの邸を見守る主人なのだから 可愛がってくれた 

   大宮の行方を知っているであろう

と男君が詠むと、女君が返歌を詠みました。

(返歌)池の水面には 亡き大宮の影すら見えません 知らぬふりして 何事もなかったように ちょろちょろと 

    水が流れ出しているだけです

などと語り合っていると、太政大臣となったアントワンが王城を退出してから、アンジェ城に立ち寄って、ツタなどの紅葉に驚いていました。かって大宮が住んでいた当時とほとんど変わりなく、部屋部屋を飾り立てて、居心地よさげに暮らし出している様子を見て、アントワンは深い感慨が込みあがりました。

 

 義父ともなった叔父の太政大臣を迎えて、夕霧中納言は居ずまいを正し、顔を少し赤らめながら、いつも以上にしんみりと対面しました。望ましいほど初々しい新夫婦でしたが、雲井雁は「これくらい美貌な女性はいないのではないか」とまで見えました。夕霧の方はこの上もなく清らかに見えました。

 古くからの侍女たちも太政大臣の面前で、得意げに昔のことを話しました。アントワンは先刻、二人が歌を書き散らした紙を見つけて、それを読みながら深い思いにとらわれてしまったようです。

「この池の水に尋ねてみたいこともあるが、年寄りは不吉なことは言わないことにする」と告げました。

(歌)あの当時の老木が朽ちてしまったのも 当然なことだ 大宮が植えた小松も 

   今では苔が生えるまでになってしまったのだから

 

 夕霧の乳母コレットはアントワンがした、あの時のひどい仕打ちを忘れることができずにいましたから、したり顔で詠みました。

(歌)二葉だけの頃から 根を絡み合わせた二本の松のような お二人ですから どちらも頼りあえる木陰と存じます

 他の古侍女たちも同じような筋書きの歌を詠むのを、夕霧は興味深く感じていましたが、雲井雁の方は、面白くなさそうに顔を赤くしながら、聞き辛そうにしていました。

 

 

8.ヴィランドリー城への行幸と、紅葉鑑賞

 

 十一月二十日過ぎに冷泉王のヴィランドリー城への行幸がありました。紅葉と黄葉の盛りで、興が多くなりそうな行幸でしたから朱雀院も招かれ、実際に病弱の身の朱雀院がやって来ると、人々は「世にも珍しく有り難いことだ」と心底驚いていました。迎える側のヒカルも心を尽くして、眩いほど立派な準備をさせていました。 

 午前九時に王さまが到着して、まず馬場舎に左右の馬寮の馬と左右の近衛兵が整列する中に、王さまが迎えられました。その作法は五月の節会とよく似ていました。

 

 午後一時過ぎに一行は南館に移りました。途中の反り橋と渡殿にはカーペットが敷かれ、外から露見しそうな場所には幕が張られて、おごそかな演出がされていました。東の池に舟を浮かべて、料理場の調理長が飼いならした青サギ(Heron)を池に下ろすと、青サギはガルドン(鯉科。Gardon)やペルシュ(スズキ科。Perche)の小魚をついばみます。わざとらしく見せるのではなく、通りすがりの一興としていました。

 野山のカエデの黄葉はどこのものでも劣りはしませんが、ことに西館の前庭は格別でした。中の廊の壁を崩して中門を開け、目障りなものを除けてご覧に入れました。王さまとヒカルの席が用意され、ヒカルの席は一段低くされていましたが、王さまの指示で同じ高さに直されました。ヒカルにとっては光栄なことに見えましたが、王さまは実の父に対して、まだまだ充分な恭敬の気持ちを示せないことを物足りなく感じていました。

 

 左近府の少将が池で捕った魚を、蔵人所の鷹匠がシノン(Chinon)の森で狩った鳥一つがいを右近府の少将が捧げて、西館の東から前庭に出て、階段の左右に膝まづいて奏上しました。太政大臣アントワンが祝言を述べた後、魚と鳥は調理場に回されました。

 親王や高官たちなどの饗膳も目新しいもので、通常とは趣向が変わったもてなしでした。皆が酔い、日が暮れかかる時分になって、王宮の音楽所の演者が呼ばれました。大掛かりではありませんが、優雅に演奏がなされ、王宮の近習を務める童児たちが舞いを披露しました。

 

 ヒカルは若い頃の桐壺王のパリへの行幸の際での、ラ・シャペル宮の庭の「紅葉の宴」を思い出していました。祝い曲「王の恩を祝う」が演奏されると、アントワンの十歳ばかりの末っ子が実に上手に舞いました。王さまが自分の上衣を脱いで男児に賜わると、父の太政大臣が階前で拝謝の舞いを演じました。

 主人役のヒカルは菊の枝を折らせながら、パリへの行幸の前に王城で開かれた宴の折りにアントワンと二人で「青海波」を舞ったことを思い出しました。

(歌)今は高位に昇って 色が濃い衣装を着ている菊でも その昔 私と一緒に 袖を振り回して舞った 秋のことを 

   時々は恋しく思い出すことだろう

 

 アントワンも「あの折は『青海波』を一緒に舞ったものだ。自分も太政大臣にまで上り詰めて、人より勝った身になったが、太政王にまでなったヒカルは格段に優れた人物なのだ」と思い知りました。それを承知していたかのように、時雨が時知り顔で降り注ぎました。

(歌)紫の雲と見紛うほどになった 菊のような貴殿は 濁りのない世の中の 星に見える

「まさに時期を得た菊ですな」とヒカルに話しました。

 

 夕風が吹いて紅葉や黄葉の濃いのや薄い色々が、綿殿の上に敷かれたカーペットに見紛うほどに散っている庭に、可愛らしい姿の高貴な家の子ども達が、青か赤系の濃いねずみ色の上衣の下に、赤紫や薄紫色に染めた長衣を着て、いつものように真ん中で左右に分ける童子髪の額にちょこんと天冠をつけて、短い曲目を舞いながら紅葉と黄葉の葉蔭に入っていくのは、日暮れが惜しいような光景でした。

 大袈裟な演奏場などは設けずに王さまの面前で演奏が始まり、図書・楽器所の者にハープなどが渡されました。宴がたけなわになった頃、王さまや朱雀院、ヒカルなど皆に楽器類が渡されました。秘蔵されていた桐壷王の祖父王の遺品「ロヨーモン(Royaumont)の高僧」が奏で出す音色を、朱雀院は非常に珍しそうに、身に染みいるように聞いていました。

 

(歌)幾年となく 秋を経験して 時雨とともに歳をとってきた里人でも こんな美しい紅葉の折りは見たことがない

と朱雀院が詠んだのは、恨めしく思っているのでしょう。

(歌)昔の先例にならった 今日の宴の紅葉の錦です 世にありふれた紅葉と ご覧になりましても

と王さまが朱雀院に向けて詠みました。

 

 王さまの容貌はますます立派に熟成して、ヒカルと瓜二つに見えますが、控えている夕霧中納言も同じように見えるのが、目を見張らせます。優雅で立派な気配は冷泉王に劣ってはいますが、目の覚めるような優美な所は勝っているようにすら見えます。

 その夕霧が大層面白く笛を吹きました。それに合わせて歌う階下の唱歌隊の王宮人の中で、弁少将ロランの声が抜きん出ていました。その様子は、ヒカル家とアントワン家の仲は「最後はこうなるはずだったのに」と思わせるように見えました。

 

  

 

                           著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata