「神武天皇が奈良県宇陀市で見つけたものは飴(アメ)なのか水銀朱なのか」

     

            ※参照ページ 邪馬台国吉備・狗奴国大和説

                 第五章 大和の歴史  第六章 大和の日本統一

                 補遺2.大和の日本統一に関わった氏族

               箸墓と日本国誕生物語

                 その4.大和狗奴(葛)国の歴史

 

 先日、日本での「飴(アメ)の歴史」を確認しようと、ネット検索してみたら、

『紀元前から日本には飴があった!! 初代天皇が愛した飴とは!?』

      https://www.kanro.co.jp/sweeten/detail/id=694

と題した記事が目に飛び込んできました。

 どういうことなのか、と一読してみると、1912年(大正元年)の創業で、カンロ飴に代表される㈱カンロのホームページSweeten the Futur201896日付けの記事でしたが、日本書紀の「神武天皇紀」の記載を生噛りして、「日本のアメの生みの親は神武天皇」と、とんでもない誤った解釈をされていて驚愕しました。

 内容は「天香具山(あまのかぐやま)の土(埴はに)を使って、水を入れずに飴ができたなら、天下を治めることができる」の一節から、水飴を日本で初めて作ったのは、縄文時代の紀元前712年に生まれた神武天皇、と結論づけたものです。

 

 ところがこの逸話の続きと読むと、「飴を入れた瓶(かめ)を川中に入れ、瓶の口先を下に向けて飴を流すと、飴に酔った大小の魚が槙(まき)の葉のようにプカプカ浮かんでくる」という記述があり、神武天皇が作った飴は、「甘い飴」ではなく、「辰砂から作る水銀朱」であったことが明白に分かります。

 「神武天皇即位紀元前660年説」と「神武天皇と第二代から第九代天皇までは神話上の人物で実在しなかった、と見なす闕史(欠史)八代説」の両極端の説がいまだに並立していますが、「大和第一王朝」を開いた神武天皇(イハレビコ磐余彦、伊波禮毘古)は西暦一世紀後半に実在した人物で、王朝を始めた原動力は奈良県宇陀市に産出する水銀朱の確保にありました。

 

 「神武天皇即位紀元前620年説」と「闕史(欠史)八代説」のどちらの説でも、水銀朱の重要性に着目した論考はほとんど見かけませんので、改めて神武天皇が建国した大和第一王朝と水銀朱の結びつきの強さを説明しながら、一世紀後半から二世紀後半のかけての「奴国・伊都国→吉備邪馬台国→大和第一王朝→倭国大乱」の流れは後代に創作された神話ではなく、一本の糸でつながった歴史的な事実であったことを描いてみます。

 

1.ホームページ「Sweeten the Future」のアメ(飴)説

 日本書紀の「」を「甘い飴」と単純解釈された原因は「たがね」を「たがに」と読んだことにあります。「たがね」は「掌と指とで握り固める」という意味で、「たがに」は「水なしで握り固めた飴」となります。岩波文庫版の注によれば、「たがね」を「たがに」と誤読した古写本が一因のようです。

 

(原文)

飴を作ったとされる人物、その人こそが初めて天皇として即位したとされる初代天皇の「神武天皇(じんむてんのう)」でした。神武天皇は紀元前712年頃に生まれたそうで、天照大神(アマテラスオオミカミ)という神様の子孫だと言われています。

天皇に即位する前は、「神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ)」と呼ばれ、天照大神の孫であるニニギノミコトのさらに孫である父「鸕鶿草葺不合尊(ウガヤフキアワセズノミコト)」と海の神の娘である「玉依姫(タマヨリビメ)」との間に、四兄弟の末子として誕生しました。
 元々、天孫降臨伝説の残る日向国(現在の宮崎県)に住んでいましたが、神武天皇45歳の時に、東方に美しい土地があることを聞き、天下を治めるためにそこに都をつくることを宣言します。そして賛同した一族を率いて東征を開始し、幾多の戦いを経て、52歳の時に美しい土地・奈良盆地にて初代天皇として即位しました。

その後、神武天皇は紀元前585年、奈良県にあったとされる橿原宮(かしはらのみや)にて崩御されたそうです。

日本書紀の神武紀の項にはこのようにあります。

われ今まさに八十平瓮(やそひらか=たくさんの平らな皿)をもちて、水無しに飴(たがね)を作ろうと思う。飴ができたならばわれは武力を用いずに天下を治めることができるだろう

つまり神武天皇は水飴を作ったのです。

飴の「あめ」という言葉は「あま味」や「あま水」など、甘いという言葉が語源になっていると言われています。それだけ古代の人々にとって甘いものは貴重であり、そしてこの甘い水飴を振舞うことができれば、皆が幸せに包まれて、争いなく天下が治まることを知っていた神武天皇には、民への思いやりと先見の明があったのですね。

 

2.奈良県宇陀市周辺の水銀朱関連地

 水銀朱はまだ日本列島から金と銀が産出されない弥生時代から、金と同等の価値がある貴重な品でした。主に天竜川から海中に入り、三重県(伊勢)から奈良県(大和)、和歌山県(紀伊)、徳島県(阿波)、愛媛県(伊予)、大分県(豊前)に至る中央構造線に沿って産出されますが、ことに阿波の若杉山が代表格でした。

 水銀朱に加工される辰砂(しんしゃ)は硫黄と水銀の化合物(硫化水銀)で、辰砂を棒などで速くこね回して熱をおびていくと、硫黄成分が蒸発してドロドロした水飴状の水銀朱が出来上がっていきます。

 奈良県では宇陀市周辺が主要産地で、1971年(昭和46年)に閉鎖されるまで、「大和水銀鉱山」が稼働していました。丹生神社(宇陀市榛原雨師)は、神武天皇が祭祀を行った「莬田川の朝原」の伝承地です。「丹生」は「水銀朱が産出する地」の意味で、吉野川の支流に神武天皇が水銀朱を入れた瓶を沈めた丹生川があります。

 

3.日向から遠賀川河口、広島湾から吉備穴海へ

 神武天皇(イハレビコ)の東征の伝承を解く鍵は、神武天皇一行(リーダーは神武天皇の長兄ヒコイツセ彦五瀬)が日向を離れた後、まず最初に遠賀川河口の「岡の湊」に滞在したことです。一行が当初から東方の美しい土地である大和を目指すなら、関門海峡を越えずに大分県(豊前)で右折したはずですが、どうしたわけか関門海峡に入り、左折して遠賀川河口に向かいました。

 

 私の解釈では、折りから奴国・伊都国を攻撃中だった吉備・出雲連合に遠賀川河口の警護役を依頼されたことが理由となります。リーダー役のヒコイツセの思惑は、警護役で得る資金を豊かとは言えない自国の整備や田畑の開墾費に当てることでした。仲介役は宗像氏と推定していますが、宇佐で中臣氏の天種子(あまのたねこ。中臣氏が祀る四神のうちの一神アメノコヤネのひ孫)を紹介されます。これはすでに豊前は吉備邪馬台国の軍事・祭祀の担い手である中臣氏の影響下にあったことを示していますが、ヒコイツセは天種子の面接を受け、岡の湊での任務を説明されました。

(安芸投馬国)

 吉備邪馬台国連合が紀元70年代前半に奴国に勝利をおさめた後、警護団としての有能さを評価された一行(総勢約百人)は、安芸投馬(伴)国の中心部の警護役を依頼されました。投馬国の中心部は宮島から太田川を経て瀬野川に至る広島湾でした。

 当時の太田川の河口は可部でした。現在のJR山陽本線が通過する辺りまでは海中で、その奥の可部に至る地域は「安佐湾」とか「可部湾」とも言える入海でした。可部は瀬戸内海西部・伊予と根の谷川・江の川・三次を経由して出雲・日本海を結ぶ良好で重要な港(湊、水門)でした。可部の西部を流れる帆待川に神武天皇一行が立ち寄った伝承があるのは、警護団として巡回していたことを物語っています。

(吉備邪馬台国)

 次に一行は吉備邪馬台国の海の警護役を依頼されました。警護の海域は高梁川、足守川、旭川と吉井川の四河川を結ぶ地域です。一行が滞在した伝説地の一つである「高島」は、笠岡沖と旭川河口近くの二か所にありますが、兄のヒコイツセと弟のイハレビコが二手に分かれて警備を行った、と考えれば、二か所でも違和感はありません。四河川流域の微高地に広がる水田風景を見ながら、ヒコイツセ兄弟は日向に戻って、大規模な水田を切り開いていくことを夢見たことでしょう。

 

4.水銀朱を求めて大和入り

 奴国を倒して倭国(西日本)の覇者となった吉備邪馬台国は水銀朱が朝鮮半島と後漢(中国)向けの貴重な輸出品であることに気付きました。当時の水銀朱の主要産地は忌部氏が治める阿波国でしたが、河内国から山側に入った大和地方に有望な辰砂鉱山がある、との情報を得ました。

 この鉱山を何とか手中にして、倭国の盟主としての地盤を固める資源の一つにしようと考えた吉備邪馬台国の首脳部は宗像氏と相談して、ヒコイツセ一行に白羽の矢を立てました。日向を出立してからすでに数年を経ていることから、吉備を最後に日向に戻ろうと予定していたヒコイツセは、大和入りに躊躇しましたが、水銀朱を確保できれば日向に持ち帰る資金をさらに増やすことができる、と気持ちを切り替えて、説得に応じました。

 瀬戸内海を東に進み、浪速の岬から河内湾に入り生駒山麓の湊に着けば、物部氏が治める登美(とみ)王国の者が迎えてくれ、辰砂鉱山がある現地まで案内をしてくれるように依頼する使者をすでに送っている、とのことです。登美王国は、弥生時代中期初めに青銅の鋳造と銅剣・銅鐸等の製造で発展した津山盆地で興隆した「富(とみ)族」が瀬戸内海東部に進出していった流れをくんだ王国で、剣神フツヌシを信奉しています。

(河内湾)

遠征隊は伊予の久米(来目)氏等も加わって総勢二百人、船二十艘の集団となりました。無事に河内湾に入った一行は日下(くさか)の白肩の津に着きましたが、登美王国の迎え人はおらず、人気もなく閑散としていました。

「おかしい。どういうことだ」と不審の思いのまま、生駒山、信貴山の山麓沿いを進み、大和川から大和盆地の入り口に当たる竜田へ向かっていきましたが、通行不能な難所続きで前進を阻まれてしまいました。やむを得ず日下に戻り、生駒山の上り坂を登り始めると、突如、ナガスネビコ(長脛彦)軍が襲って来ました。

 不運なことに流れ矢がヒコイツセの肱脛に突き刺さってしまったこともあり、慌てふためきながら一行は船に飛び乗り、河内湾を出ました。

(紀伊の竈山)

 泉南市の雄水門(おのみなと)に着くあたりから、流れ矢に仕込まれていた毒でヒコイツセは苦しみ出し、紀ノ川河口に着いた頃はもはや助かることはない瀕死の身となっていました。イハレビコは涙にむせながら竈山(かまやま)に兄を埋葬しましたが、先行きを不安視して離反していく者も出て来ました。

 兄に替わってリーダーとなったイハレビコは名草邑の首領を退治した後、辰砂の産地と確認できた吉野を目指して紀ノ川を上って行こうとしましたが、途中の橋本に強力な部族がいて、今の戦力ではとても太刀打ちができないことを悟りました。少し遠回りとなるが、紀伊半島の先端の熊野へ行けば吉野に行けることを聞いて、一行は熊野に向かいました。

(新宮市と熊野市)

 熊野の新宮市では吉備邪馬台国と親交がある高倉下(たかくらじ)が一行を迎えました。ところが吉備王国の指示で辰砂の産地を探しに来たと言い張るものの、疲労困憊の上に衣服も汚れ破れている有様に、本当は海賊もどきの連中ではないか、と疑った高倉下はそっけない態度でした。吉野行きも「危険すぎるから」と言って協力的ではありません。仕方なくイハレビコは支援を求める使いを吉備に遣りました。

「一番の近道は熊野市から」と部下が地元の住民から聞き出したので、イハレビコは「その行路は険峻な山々の連続で、巨大な熊も出没する」との忠告も無視して、熊野市に向かい、現地の丹敷戸畔(にしきとべ)を破った後、山中に踏み入れました。すると忠告通りあまりにも巨大な熊が襲って来て、一行は気を失ってしまいました。

 同じ頃、高倉下の夢に中臣氏が祀る軍神タケミカヅチが現れ、「武器を送った」と告げました。翌朝、目が覚めると確かに剣などが届いていたので、高倉下は「吉備王国は本気で吉野の辰砂を確保する気なのだ」と悟り、意気消沈して戻って来たイハレビコと一行に道案内の八咫烏(やたがらす)と部下数十名を差し出しました。

(五条から吉野、宇陀へ)

 八咫烏の案内で十津川から五條への難路を経て、吉野に入りました。いよいよ宇陀野は目前でしたが、宇陀はエウカシとオトウカシのウカシ(猾)兄弟が治めていました。敵意をむきだしにする兄に対し、弟は一行に好意的でした。オトウカシの助言でエウカシを殺すことができたイハレビコは遂に水銀鉱山を確保することができました。

「さて、水銀朱を紀ノ川河口まで、どうやって運び込んだらよいのだろう」。

 通過してきた吉野から五條へのルートはあまりに険峻すぎるので、磯城(しき)から大和盆地に入り、風の森峠を下って五條で吉野川を下っていくのが得策だ、と地勢に詳しいオトウカシが説明しました。磯城はエシキとオトシキ兄弟が支配していましたが、まず兄のエシキを殺すと、弟のオトシキは降参してしまいました。

 艱難辛苦を乗り越えて、ようやく大和盆地の入り口に入ることができたイハレビコですが、兄の仇の強敵ナガスネビコが待ち構えていました。

(登美王国物部氏の恭順)

 吉備王国は新宮のイハレビコに武器を送ると同時に、登美王国のニギハヤヒ(饒速日)王に使いを派遣しました。「なぜイハレビコ一行が熊野まで下っていったのか」を不審がる使者の説明を聞いて、ニギハヤヒ王はナガスネビコの陰謀に気付きました。ナガスネビコは王妃の兄でしたが、登美王国の乗っ取りを謀り、宇陀野の水銀朱も手中にしようとしていたのです。白肩の津で吉備の使者を確保したナガスネビコは、ヒコイツセ一行の到来を知って、口封じで使者を殺した後、一行を待ち構えていました。

 事情を知ったニギハヤヒ王は早速、ナガスネビコを殺し、イハレビコの陣営を訪れ、これまでの事情を説明して、ヒコイツセ軍の盆地入りを容認しました。その後、イハレビコ一行は幾つかの部族を破りながら、畝山の東南に位置する御所市に入りました。

 

5.御所市が首都の葛国建国

(葛国の建国と御所市)

 御所市は宇陀から磯城を経て風の森峠を下り、五條で吉野川に出会い、紀ノ川河口に下っていく交易路のちょうど中間地点にありました。

磯城から大和川を下って河内湾に至る路もありましたが、王子から河内湾に下る激流が難所でしたし、大和川周辺は耕作が無理な湿地帯が続いているだけでした。

国見山に登ったイハレビコは眼前にそびえる、交尾しているトンボの姿のように見える葛城山と金剛山から流れ出る河川にも恵まれた肥沃な平野に感嘆しました。

「故郷の日向は兄弟や一族に任せて、この地に自分の王国を作ろう。竈山の長兄の墓地を祀る必要もあるし、日向の一族も水銀朱を送れば納得してくれるだろう」。

 

 こうしてイハレビコは吉備王国の望み通り、大規模な水銀朱鉱山の確保と交易路の構築を成し遂げました。紀ノ川河口まで運ばれた水銀朱は宗像氏か阿波王国の船に乗せられて吉備に運ばれました。

 紀元80年頃、御所市の掖上に王宮を構えたイハレビコは、磯城一族からイスズヒメ(五十鈴媛)を王妃に迎えました。イスズヒメは日向から同伴して来た長男タギシミミ(手研耳)とほぼ同い歳でした。

 大和盆地の南西部の南葛城地方に誕生した王国は北西部の登美王国よりも小さな中規模な国に過ぎませんが、桜井市の磯城氏との連携で水銀朱交易路を固めたことが新王国の強みでした。

南葛城地方は葛の名産地であったことから、新王国は「葛(くづ)国」と呼ばれるようになりましたが、吉備など距離が離れた地域では「くづ」がなまって「くぬ(狗奴)国」と呼ばれることもありました。

 

6.孝昭天皇と倭国大乱

 イハレビコ王が崩御した後、タギシミミと二人の王子カムヤイ(神八井)とカムヌナカハミミ(神渟名川耳)との間で王位継承の内紛がありましたが、弟王子が王位を継いで、兄王子は王朝を補佐していく意富(おふ。又は多おほ)氏の祖となりました。

(倭国大乱)

 二代王から四代王との間は、初代以来の磯城一族と密接な関係を維持しつつ、王国の地盤を固めていきましたが、五代目の孝昭天皇(カエシネ王)の時代に入ってから、紀元170年頃に吉備邪馬台国が盟主となっている倭国に大乱が発生しました。

 原因は王国の楯築王が後継者不在のまま急逝したことに始まります。吉備邪馬台国の弟格で縁戚関係も持つ出雲王国の国王が後継者となることを宣言しました。これに邪馬台国の副首都がある讃岐国と隣接する阿波王国が異議を唱えたことから、倭国の盟主の座を巡って、吉備北部・出雲王国対吉備南部・阿波王国の南北で争う倭国大乱が始まりました。

 情勢は北部勢力有利で進み、出雲王国は盟主国の象徴である特殊壺・特殊器台を自国に運び込むほどになりました。焦った阿波王国は財力強化の必要から、宇陀の水銀朱に目を付け、伊勢のサルタヒコ(猿田彦)王国をけしかけました。

(伊勢サルタヒコ軍の宇陀攻撃と伊勢・美濃・尾張の東海三国制覇)

 阿波王国の支援を背にサルタヒコ軍は宇陀に攻め込みましたが、尾張氏オキツヨソ(奥津余曾)等の活躍により、反撃されてしまいました。余勢を駆った尾張軍は伊勢王国を破った後、一挙に長良川、揖斐川と木曽川へと進軍して、美濃と尾張も占領してしまいました。

 伊勢、美濃、尾張の東海三国を支配下におさめたことが葛国の大成長につながって行きました。ことに征服した地域の住民を巧みに活用していくノウハウを蓄積していったことが東西倭国の統一、日本国誕生へとつながっていきます。