その34.若菜 上        ヒカル 39

 

5.第三王女ヴィランドリー城に移る。紫上の心情

 

こうして三月十余日に、朱雀院の第三王女がヴィランドリー城に輿入れしました。ヴィランドリー城側の出迎え準備もおそろかではありません。ヒカルが若菜を食した本館の西側の離れに、四方に幕を垂らした寝所が設置され、離れに付属する一の対、二の対と渡殿にかけて整備された侍女たちの部屋まで、細心に飾り立てていました。

貴婦人として王宮に上がる人の儀式を模して、朱雀院からも調度類が運び込まれました。城入りの儀式の盛大さは今さら言うまでもありません。見送りの列には高官なども大勢加わっていました。第三王女の管理人役を希望した、あの藤大納言も胸中は穏やかではないまま付き添っています。馬車を寄せる場所でヒカルが迎えて姫宮を馬車から降ろすのは、准太上王の身分の通例とは違っていました。あくまでヒカルは臣籍の身分でしたから、万事に制限があって、貴婦人の王宮入りとも異なり、また(歌)我が家に寝室を用意して 婿となる貴方のお越しを お待ちしていますといった普通人の形式とも違った珍しい夫婦の関係となりました。三日間、朱雀院からも主人側からも、伺候している者に対して盛大で目新しい風雅を尽くしたもてなしがありました。紫上も何かにつけて、平静ではいられないと感じる騒ぎとなりました。

 

「新しい状況になったものの、自分が新参者にすっかり打ち負かされてしまうことはないだろう。けれど、これまでは並ぶ者がまたとないように暮らし馴れてきたのに、まだ生い先が長く華やかな新参者はあなどり難い存在になるだろう」と何となく居心地が悪い思いがするものの、表面上は冷静さを装って、第三王女の輿入れの準備の際もヒカルと心を合わせて、ちょっとしたことにも、目を配るなどをするいじらしい様子を見せているので、「誠に有難い人だ」とヒカルは感謝していました。

 

姫君は本当にまだ小さく、大人にはなりきっていません。大層あどけない様子で、まだまだ子供じみていました。藤壺とゆかりがある紫上を探し出した時のことをヒカルが思い出すと、紫上はまだ十歳にすぎなかったのに、才気が見えて手ごたえがありました。これに対して第三王女は十四歳になっているのに、まだ幼さが目立ちます。

「これはこれなりに良いことだろう。我を張って威張り散らしたりすることはないだろう」と思うものの、「それにしても、あまりに張り合いがない様子である」とも見やっていました。

 

 ヒカルは三日の間は毎夜欠かさずに西の離れへ通うつもりでいましたが、紫上は長い間馴れていなかった気持ちがして、我慢をするものの、やはり物悲しくなりました。ヒカルの衣装を侍女に念入りに薫りを焚き染めさせながら、ぼんやりと物思いに沈んでいる様子が言いようもなくいじらしく見えました。

「どういった事情があるにせよ、何でまた新たに女性を迎え入れてしまっただろうか。浮気性の性格の上に、気が弱くなっている自分の緩みから、こうしたことになってしまったのだ。朱雀院は、まだ若いけれど息子の夕霧中納言に期待をかけていたのだが」と、我ながら情けなくなって涙ぐんでしまいました。

「今晩だけは『義理立て』だと考えて許して欲しい。今後、あなたから離れていくことになるなら、我ながら愛想が尽きてしまう。何と言っても、あの朱雀院の手前があるから」と心を乱しているのが苦しそうに見えました。

 

紫上は少し微笑みながら、「ご自分ですら判断できかねているのですから、まして私が『義理立て』などどうして判断できましょうか」と言い甲斐もなさげに取り合いませんので、ヒカルは恥ずかしさすら感じて、頬杖をつきながらソファに寄り臥していました。

 すると紫上はインク壺を引き寄せて、歌を詠みました。

(歌)目前で 移り変わっていく世間なのに 行く末長く あなたを頼みにしておりました

さらに古い詩などを書き散らしています。ヒカルはその紙を取って読んでみると、大した内容ではありませんが、確かに的を得ていました。

歌)命には限りがあって 絶えてしまうことになるが こんな無常な世界であっても 

    不変な仲を誓い合ったではないか

とヒカルは返歌を詠んだ後、すぐには出ようとはしません。

 

「そんなにぐずぐずされていても」と紫上が急き立てるので、ヒカルはえならぬ薫りをたきしめた、よく萎えてしなやかな衣装を着て、出て行きました。その後ろ姿を見ながら、紫上の胸中は単純ではありません。

「長い間、ひょっとしたらと疑うこともあったが、今はもう浮気性からは離れたようなので、これならと安心していたのに、今頃になってこうした風に世間に外聞が悪いことが持ち上がってしまった。世の中は思い定めたようには進まないのだから、今後も油断はできないだろう」と思い返していました。

 

上辺ではさりげない様子をして紛らわせていますが、仕えている女性たちも、「思いがけないことが起きる世の中ですね」、「婦人方が大勢おられますが、どなたも皆、こちらのお方の気配を配慮して、遠慮がちにされていたので、何事も起こらずに平穏に進んでいましたのに」、「新しく来られたお方が我意を通そうとして、その勢いに負かされてしまうことはないでしょうか」、あるいは「そうは言っても、ちょっとしたことでも穏やかでもないことが起きたりすると、きっと面倒なことも持ち上がって来ますよ」などと、それぞれの思いを語りながら心配しています。

 そうした侍女たちのひそひそ話を露にも気づいていないようにしながら、紫上は機嫌良さげに夜が更けるまで、侍女たちと雑談をしていました。それでも侍女たちが意味ありげに言い合っているのが聞き苦しい、と感じたのか、侍女たちに語りだしました。

「この城にも多くの婦人が集まっていますが、『今の自分の心に叶い、時代にも適した勝れた婦人はいない』と馴れきってしまって、物足りなく思っているところに、第三王女がこうしてこの城に来られたのは、見苦しいことではありません。私はまだ子供心を失くしていないせいなのか、私も王女と親しくしたいと望んでいますが、あなたがたは、私が不愉快で王女と隔て心があるように噂されるのでしょうか。相手の身分が自分と同じか、劣っていたりすると、いわくありげに聞き耳をたててしまうことも、ついつい出て来ましょうが、王女は私より身分が高く高貴なお方で、お気の毒な事情もおありなのですから、何とか親しくしたいと考えています」とくぎを刺しました。

 

侍女たちの中で、アメリーやサラなどは目配せをしながら、「あまりにも思いやりがありすぎます」と語り合っているようでした。この二人はヒカルが若い頃に愛人として情けをかけてもらっていましたが、ヒカルがサン・マロへ下って行った後は、紫上に仕えるようになりましたから、二人とも紫上の味方になっていました。

 他の婦人たちも、「どんなお気持ちでおられますか」、「私どもなど、元から諦めがついておりますから、かえって気楽でいられますが」などと慰めの見舞いを言って来る者もいました。

「こうやって推量している人たちこそ、結構苦しんでいるのだろう。世の中はとても無常なものなのだから、夫のことで何もここまで思い詰めることもないのに」などと思っていました。

 

「あまり遅くまで夜更かししているのは普通ではないから、不審がられてしまう」と気が咎めた紫上は、寝室に入りベッドに横になりましたが、これからは本当に傍らに夫がいない寂しい夜が続くのだろうと、やはり堪えられない気持ちになって、あのサン・マロへの別れの際のことなどを思い出しました。

「『もう最後だ』とかけ離れてしまっても、『どうせ、同じ世の中に生きているのだから』と悟って、わが身のことをさしおいて、ブルターニュでの夫の新たな悲しみを心配したではないか。あの時の騒動に巻き込まれて、夫も私も命を落としてしまっていたなら、言い甲斐もない世の中になっていたことだろう」と思い直しました。

 風が吹く夜の気配が冷え冷えとして、すぐには寝入ることが出来ず、「近くに侍る侍女たちが怪しんでしまうだろう」と寝返りもしないので、さすがに辛そうになりました。深い夜に鶏の一番声が聞こえてきて、ますます物悲しくなりました。

 

 紫上がことさらに恨めしいというのではないのですが、こうやって思い悩んでいるせいでしょうか、夢に紫夫人が現れたので、ヒカルは驚いて目が覚めました。「どうしたことか」と胸騒ぎがしていると、待ち構えていたかのように鶏が鳴いたので、ヒカルはまだ夜が深いことも気付かないふりをして、急いで寝室を出ました。女君がまだあどけない有様なので、乳母たちが近くに侍っていましたが、寝室のドアを開けてヒカルを見送りました。

 明け方の薄暗がりの空に雪の光が見えて、ヒカルの姿がぼんやりと映ります。立ち去った後もヒカルの匂いが残っているので、(歌)春の夜は訳の分からないことをする 梅の花は闇が隠しても 色は見えないかもしれないが 香りは隠れものなのか いえ隠れはしないのだ と流行りの歌を独りでそらんじている侍女もいました。

 

 雪は所々に残っていましたが、真っ白な庭と雪の区別ができない中、ヒカルは「今も残る雪」と小声で口ずさみながら、本館の戸を叩きましたが、こんな朝帰りは久しくなかったことなので、侍女たちは空寝をしつつ、しばらく待たせた後、戸を開けました。

 寝室に入ったヒカルは、「外でひどく長く待たされてしまったので、身体がすっかり冷えてしまった。こんなに早く戻って来たのは、よほど貴女のことを怖がっているからだろう。別に私には罪などないのだが」と言いながら、ベッドの掛布団に触れますと、紫上は少し濡れている袖を引き隠しながら、他愛無くなつかしそうに打ち解けながら、恥ずかしげに身を整える仕草に品があります。

「限りなくよく出来た女性といっても、ここまでは行かないだろう」と思わず紫上第三王女とを思い較べてしまいました。

 

 その日は二人が辿って来た道を色々と思い出しながら、機嫌が直りそうもない紫夫人をなだめているうちに日が暮れていきました。初夜二日目でしたが、第三王女の住まいを訪れる気持ちにならないので、手紙だけを送りました。

「今朝がたの雪で風邪を引いてしまったのか、気分が悪くなったので、気楽な所で養生します」。

 すると使いの者が「そのように申し上げておきます」との乳母ヴィヴィアンの口上を伝えて来ましたので、「そっけない返事だな」とヒカルは戸惑ってしまいました。

「二日目の夜に訪れなかったことを朱雀院が聞いてしまうのは気の毒であるし、ここ当分の間は体裁だけは取り繕っておこう、と考えてはいたが、そうもできない。こうなってしまうことは分かってもいたが、中々困ったことだ」と我が身を反省してしまいました。紫上も「思いやりがない仕打ちですよ」と当惑していました。

 

三日目の朝はいつものように起床した後、第三王女あての手紙を書きました。遠慮をすべき相手でもありませんが、ペンを吟味しつつ、雪にちなんだ白い紙に詠み書きしました。

(歌)貴女と私の間の通路を 隔ててしまうほどではありませんが 今朝の淡雪に 心が乱れてしまいます

 花をつけた白梅の枝に手紙を付けて、使いの者を呼び、「西側の渡殿の方から差し上げてくれ」と指示しました。使いの男を見送りがてら、ヒカルは窓辺に寄って、外の景色を眺めました。白い夜着のまま、残った白梅の花をいじりながら、(歌)消え残りながら 後から降って来る雪を 待つ雪よ といった歌のように、雪がちらちらと降って来る空を眺めていました。

 

黒歌鳥が若々しい声で近くの紅梅の梢に留まって、鳴き出しました。(歌)先ほど 梅の花を折り取ったので 私の袖はこんなにいい匂いがする そのせいか 梅が咲いていると思っているのであろうか ここで黒歌鳥が鳴いている というよく知られた歌を口ずさみながら、白梅の花を引き下げて窓を開けて外を眺めている様子は、子どもがいる重い身分の人には夢にも見えず、まだまだ若く、艶っぽい姿でした。

 

 第三王女からの返信は少し手間取ってしまう予感がするので、ヒカルは寝室に戻って紫夫人に白梅の花を見せました。

「花というからには、こうした匂いであって欲しいものだ。この匂いを桜に移してみると、他の花は見向きもされなくなってしまうだろうね」などと話しました。

「この梅の花も、他の多くの花がまだ咲かない時分に咲くから人目に留まるのだろう。四月の桜の花の盛りと並べてみたいものだね」と言っているところに、第三王女からの返信が届きました。紅の薄様の紙で鮮やかに包まれていましたが、開けてみたヒカルは胸が潰れてしまいました。

 

「筆跡がここまで子供っぽいものは紫夫人には見せれない。分け隔てをするわけではないが、本人の身分に対してここまで幼いとは」と考えて、手紙を隠そうとしたものの、紫夫人の気持ちを気遣って手紙の端の方を広げたままにしていると、ベッドに添い臥している紫上は横目で見やっています。

(歌)風に漂う 春の淡雪のように はかない私の身は 空の途中で消えてしまう気がします

確かに筆跡は子供っぽく幼稚でした。「十四歳を過ぎた人なら、もう少し書けるものなのに」と紫上も目を留めましたが、見て見ぬふりをしていました。ヒカルも他人のことなら、「ここまでとはね」とこっそり口に出したことでしょうが、第三王女が気の毒になったので、「あなたは心配しないで安心していればよい」とだけ紫夫人に告げました。

 

 その日は昼になってから、第三王女の許へ行きました。入念に身じまいを整えた有様を初めて見た侍女などは、さぞかし「見甲斐がある」と感じ入ったことでしょう。乳母ヴィヴィアンなどのように年長の人たちは、「そうは言っても、ヒカルさまが大事にされておられるのはあの夫人だけのようですから、姫君にとって癪になることも起こりましょう」と、来訪が嬉しい中にも心配もしていました。

 

第三王女は非常に可愛げで幼い様子でしたが、居間の飾りつけはとてもきらびやかで堂々とした美しさでした。本人は無心で無邪気なままで、衣装ばかりが目立って身体がどこにあるかと思えるほど、華奢で小柄でした。別段はにかみもせず、単に人見知りをしない子供、といった印象を与え、気も張らない可愛い様子をしていました。

「朱雀院は学問などのような、重々しく真面目な方面での才分は心もとない、と世間の人は思っているが、風雅な方面には長けていて、奥床しく気品がある点では人より勝れている。それなのに、どうして第三王女に間延びした育て方をされたのだろう。それにしても、大事に秘蔵して育て上げた王女だと聞いていたのだが」と考えると口惜しくなります。それでも性格は憎げではないと見ています。少なくともヒカルの言うままに、頼りなさげに従い、返答なども分からないことは子供っぽく尋ねながら、笑みを絶やさないように見えます。

「若い頃の自分なら、ひどくがっかりしたことだろう。今の歳になると、世の中のすべては人それぞれだ、と穏やかに眺めているから、どちらにしても図抜けたような者は中々存在しない。人はとりどりに長所も短所もある。他の人が見たら、第三王女も申し分のない人なのだ」と思うものの、差し向かいで目が馴れるまでになっている歳月を経た紫上の有様が有難くなって、「我ながら、十歳にすぎなかった少女をよくもここまで育て上げたものだ」と実感しました。一晩離れただけでも、朝になると恋しく気にかかって、一層愛情が増していくので、「どうしてここまで」と薄気味悪くなるほどでした。

 

 

6.朱雀院の修道院入りと、ヒカルの朧月夜訪問

 

朱雀院は同じ月のうちにロヨーモン修道院へ移りましたが、情のこもった手紙をヒカルに送って来ました。もちろん第三王女については言うまでもありません。

「私の耳に入ったらどう思うだろう、などと煩わしいことは考慮されずに、ともかくご自分の思われるようにお世話をお願いします」と度々書いて来ました。さすがに第三姫君がまだ幼いままなのが不憫で、後ろめたさがにじみ出ていました。

 

紫上宛にも特別に手紙がありました。「まだ幼い人が他愛無い有様で、そちらへ参っておりますが、罪のない者と大目に見ていただきお世話してください。姫宮と貴女は従姉妹同士でありますし、

(歌)世を捨てましたが この世に残る子を思う心が 修道の山道の妨げになります

(歌)人の親心は 闇の中にいるわけでもないが 子を思う道に迷ってしまう といった歌もありますが、さしでがましくも書かせてもらいました」。

 

 その手紙をヒカルも読みましたが、紫上に「実感がこもったご消息をつつしんでお受けしました、といった返事を書きなさい」と言った後、侍女に酒杯を用意させて、使いの者に存分に酒を飲ませました。

 紫上は「返信をどう書いたらよいか」と書き辛そうにしていましたが、仰々しく風流深いことを書く場合でもないので、ただ心に浮かんだことを書きました。

(歌)お捨てになった世の中が そんなにご心配でしたら 去り難い妨げを断ち切って 

   愛する子と離れることはありませんのに

などと、詠んだようです。使いの者には、女性向けの衣装にロングドレスを添えて贈りました。紫上からの返信を読んだ朱雀院は「筆跡が非常に見事で、何事も気後れするほど立派な紫夫人からしたら、姫宮は幼稚に見られてしまうであろう」と心苦しくなりました。

 

朱雀院の貴婦人がたは、「いよいよこれまで」と各自思い思いにスリー城を離れて行きましたが、悲しいことが多くあったことでしょう。

朧月夜は実家のジアン城へ移りました。朱雀院は第三王女を除くと、朧月夜のことが気にかかっていました。朧月夜は修道女になることを考えていましたが、朱雀院は「こうしたはずみで私を慕うように修道女になると、気ぜわしくなるから」と諫めながら、自分の礼拝堂での催事の準備を急がせていました。

 

ヒカルにとって朧月夜は悲しくも満ち足りない思いのままで終わってしまった女性でしたから、今になっても忘れ難く、「何かの折りにでも対面できないだろうか。もう一度出逢って、あの当時のことを語り合ってみたい」とばかり思い続けていました。それでもお互い、世間の聞き耳に注意を払わねばならない身分であり、サン・マロ落ちの一因ともなった、朧月夜に気の毒な騒動があったことなども思い出すので、万事、朧月夜との出会いは慎んでいました。

それでも朱雀院が修道院入りした後は、静かな生活になって世の中をゆっくりと眺めるこの頃の様子を、ますます知りたくなって、じっとしてはいられなくなってしまいました。

「あってはならないこと」とは承知しつつ、さしさわりがない見舞いにかこつけて、しんみりした手紙を始終送るようになりました。

 もはや若い者同士の間柄でもないので、朧月夜は時々は返信してきました。若い頃に較べると、すっかり落ち着いて円熟した気配を感じるにつけ、ますます堪え難くなってしまいました。あの当時、二人の仲をとりもってくれた侍女のヴェロニクの許にも、並々ならぬ心の内を書き綴りました。

 

 ヴェロニクの兄であるカルヴァドス知事を呼び出して、青春時代に戻った気分で、朧月夜との出逢いを相談しました。

「人を介してではなく、物越しにでも直接話したいことがある。何とか朧月夜に納得してもらって、内密に逢ってみたいのだが。今の身分ではそうした外出も容易ではないことは分かっている。人目につかないように用心しなければならないが、貴殿なら他人に漏らすことはあるまいと考えるから、相手も私も安心できる」などと語りかけました。

 

 ヒカルの伝言を聞いた朧月夜は「そんなことを。段々と世の中のことを思い知っていくにつれ、若い頃から薄情な仕打ちをあれこれと味合わされて来た歳月の果てに、朱雀院の修道院入りを悲嘆している。それをさしおいて、どんな昔話など出来ましょうか。たとえ世間の人が漏れ聞くことはないとしても、(歌)噂は事実無根であると 人に対しては言い逃れもできましょう しかし自分の心が問うたら 何と答えればよいのでしょう といった歌のように恥ずかしいことです」と嘆きながら、出逢いなどもってのほか」と返答しました。

「そうと言われるが、あの時分は道理に合わないことを無視して、心を通わせ合ったではないか。確かに世を捨てた朱雀院に対しては後ろめたいことだろうが、私との仲はなかったわけでもないし、今になって急に清廉潔白ぶったとしても、(歌)群れた鳥が飛び立つように 浮名は一斉に広がってしまった 今さら何事もなかったように振る舞っても 何の効果があるだろうか という歌のように、今さら取り消すことも出来ないのだし」と思い起こして、身勝手にもカルヴァドス知事を道案内にしてジアン城に行くことにしました。

 

 紫夫人には「シセイ城に住む末摘花がこのところ長く患っているので、所用に紛らわせて見舞ってあげないと申し訳ないと思う。昼の間におおっぴらに行くと、人目について具合が悪いので、夜になってから目立たないように出掛けようと考えている。そうとは知らせないようにしている」と紫上に話した後、ひどくそわそわしながら身づくろいをしています。

「普段はそれほど訪ねてあげない人なのに」と紫上は直感で「怪しい」と感じながら、思い当たる節がありました。それでも第三王女が移り住んで来てからは、何事もそれまでのようではなくなって、ヒカルと少し心を隔てるようになっていたので、素知らぬように振る舞いました。

 

ヒカルはその日は第三王女への住まいにも行かずに、誰かと手紙だけを書き交わしていました。薫り物などに念を入れて過ごしました。宵が過ぎてから、従者は親しい者四、五人に限り、若い頃の外歩きに使ったような目立たない網代張りの馬車に乗って出掛けました。

ヴィランドリー城からジアンへは一晩では行けない距離でしたから、カルヴァドス知事が手配していた隠れ家に泊まった後、二日目の夜、ジアン城に着き、カルヴァドス知事が案内を乞いました。ヒカルが尋ねて来たことをお付きの者が朧月夜に耳打ちすると、驚いてしまいました。

「おかしいですね。はっきりお断りしたのに、どのように伝えられてしまったのでしょう」と不審がりますが、知事の妹ヴェロニクなどが「妙な風にお帰ししてしまうのは感心できません」と無理に計らって座敷に案内してしまいました。

 

ヒカルは見舞いの言葉などを取り次がせた後、「ちょっとでもこちらにお越しください。物越しであっても、直接お話がしたい。昔のような不謹慎な気持ちは残っておりませんから」としきりにせがんでいると、朧月夜は溜息を漏らしながら近くに寄って来ました。

 

「やはり今でも人なつっこさは変わっていない」と嬉しくなりました。ちょっとした身じろぎでも、お互いの気配が感じ取れるので、恋しさは一通りではありません。場所は東の館でした。東南側の控えの間に客席が据えられ、間仕切りの端はきっちりと締められていますから、「何か若い頃に戻った心地がします。あれから何年が経った、と間違いなく数えることが出来るのに、このような水臭い扱いはひどく辛いことです」と恨み言を言いました。

 夜が大層更けて行きました。庭の池のオシドリの声がヒカルの恋心をそそるように、しんみりと聞こえます。ひっそりと人気が少なくなった城内の有様を感じながら、「こうやって世の中が変わっていくのだな」と思い続けていると、空泣きをした役者の真似ではなく、本当に涙もろくなってしまいました。

 

 昔と違って、ヒカルは穏やかに大人びて話してはいますが、「この間仕切りが何とかならないものか」と引き動かしたりしました。

(歌)長い年月を経て 久ぶりに出逢えたのに きっちり堰を立てられるので 涙が落ちてしまう

 

歌)堰き止めがたい清水のように 涙だけは落ちてきますが 出逢いの道はとっくに途絶えています

などと、朧月夜はきっぱりと拒む返歌を詠んだものの、昔のことを思い浮かべて、「誰のせいで、のっぴきならない大騒動になり、ヒカルさまがサン・マロに都落ちされてしまったのか」とその原因を思い出しているうちに、「それを考慮するなら、今一度の対面もありうるかもしれない」と気弱になったりもします。

元々重々しくどっしりとしたところがない人柄でしたが、この歳月、世の中を様々に思い知っていくと、過ぎ去ったことが悔やまれ、公事につけ私事につけ、数え切れないほどの物思いが重なってしまい、すっかり身を慎んでいました。それなのに、昔を思い起こさせるヒカルとの対面で、あの頃のことがつい昨日のような気持ちになってしまい、手荒くあしらうこともできなくなってしまいました。

 

朧月夜は昔に変わらず気品があり、若々しく魅力的でした。一方では世をはばからねばならない遠慮、他方ではヒカルへの愛しさと、二つの間に揺れ動きながら、溜息がちにしている気配など、今初めて手に入れた恋人よりも新鮮で、いじらしいとヒカルは感じました。夜が明けて行くのがたまらなく口惜しく、立ち去って行く気が一向にしません。

朝ぼらけのいわくありげな空に、沢山の千鳥の声がひどく明るくのどかに聞こえて来ます。桜の花はすっかり散ってしまって、その名残りのような梢の浅緑の木立を眺めながら、「その昔、この城で藤の宴が催されたのもこの頃のことだったな」と思い出して、その折りの朧月夜とのことやその後の積もる年月のことをしみじみと感じ入りました。

 

お見送りをしようとヴェロニクがドアを開けたので、ヒカルは外に出ましたが、引き返して来て、「この藤の花だが、どうしてこんなに美しく染まっているのだろうか。やはり何とも言えない匂いが私の心を惹きつける。どうしてこの花陰を立ち去ることができよう」とどうしても立ち去りにくそうに、ためらっていました。

丘陵から射し出してくる陽の光りが花やかな中で、目もくらむ思いをさせるヒカルの姿が一段と貫禄を増しています。その気配を久方ぶりに拝見するヴェロニクは「世の常ではない人物なのだ」と思いました。

「こういうことなら、ヒカルさまに面倒を見てもらっても、悪くはないだろうに。女君は女官長として王宮に上がったものの、限りがあって貴婦人の地位にもなれなかったのに、紫陽花王太后があれこれ思い過ごしをされてしまって、世間に浮名が流れてしまった」などと、ヴェロニクは思い出していました。

 

名残が尽きない二人の会話を終いまで続けていたいのですが、ヒカルは思うようにはできない身分でしたし、城内の人目も非常に恐く、油断は出来ません。次第に陽が昇って行くので、ヒカルも急き立てられます。戸口の近くに馬車を寄せた人々も、小声で催促をしています。ヒカルは付き人に咲きかけた藤の花を一枝折らせました。

(歌)サン・マロに身を沈めたことは 忘れることはないが それにも懲りずに この城の藤の波に 

   身を投げてみたくなった

 ひどく思案に暮れながら戸口に寄り掛かっているヒカルをヴェロニクが気の毒そうに見やっていました。

女君も「今さら」と大層恥ずかし気に様々に思い乱れていますが、ヒカルという花影はやはりなつかしいのです。

(歌)身を投げると言われる淵は 本当の淵ではないでしょう そんな偽りの淵の波に 

   凝りもせずに誘われたりはしません

 

我ながら、青年のように非常に若々しく振る舞うのは良くないことだ、との思いがするものの、関守だった朱雀院の眼も緩んだことから、またの出逢いを約束してからジアン城を離れて行きました。あの当時は誰よりも心をかけて愛し合った仲だったのに、あっけなく関係が絶えてしまった間柄でしたから、中々せつなさは深いものでした。

 

ヴィランドリー城に戻って、大層こっそりと自室に入ったヒカルの寝起きを待ち受けていた紫上は「推察していた通りだ」と心得ていましたが、とぼけたふりをしていました。ヒカルにとっては、愚痴をこぼされるよりもかえって辛く、「どうしてここまで見放されてしまったのか」と感じ取ったので、これまでに増して末長い深い契りを約束しました。

 

 朧月夜と出逢ったことを漏らすべきではありませんが、紫上も朧月夜との過去を知っていますので、ありのままにではありませんが、「物越しにほんのわずかの間対話をしただけなので、残り惜しい気がする。何とか人目に咎められないようにして、もう一度くらいは」といった程度は紫夫人に打ち明けました。

 

 すると紫上は軽く笑ったものの、「青春時代に若返りされたようなご様子ですね。昔のことを今に蒸し返されて、私はどっちつかずの身になってしまうのが辛いです」とさすがに涙ぐんでいる眼差しが可愛げに見えます。

「そうやって心配されてしまうと、私も苦しくなってしまう。もっとざっくばらんに私を叩いたり、つねったりしてたしなめてください。私と分け隔てがあるように教え込んだはずはないのに、案外な性格になってしまいましたね」と何のかやとご機嫌をとっているうちに、朧月夜との出逢いを白状せざるえなくなったのでしょう。

 

第三王女の許にはあまり訪れずに、あれこれと言い訳をしていました。姫君は何とも思っていませんが、世話役たちは心中、穏やかではありません。第三王女が煩わしいことなどを言う性格なら、ヒカルも心苦しくなるでしょうが、おっとりとしていますから、美しい人形のように慰めてくれる存在、とヒカルは考えていました。

 

 

著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata