その52巻 蜻蛉(かげろう。Ephémère ) (カオル 26歳)
コンフランでは行方が分かなくなった浮舟を捜して、人々が騒いでいますが、何の甲斐もありません。何かの物語の姫君が人に盗まれたような朝なので、母君の使いには詳しい説明をしないでいます。
すると「昨日の使いがまだ戻って来ないので、案じています」とパリの母君が別の使いを寄越しました。「鶏がまだ鳴いている早朝に出発させたので」と告げるので、「どうやって話したら」と乳母を始めに誰もが慌てふためいていました。侍女たちは何かを思いやるすべもなく、ただ言い騒いでいますが、浮舟の心情を知っているジゼルと侍従は、ひどく思いにふけていた様子を思い出しながら、「きっと身を投げたのではないか」と思い寄りました。
ジゼルは涙を流しながら、母君の手紙を開けました。「とてもぼんやりして、うつらうつらしているうちに見た今宵の夢にすら、あなたがくつろいでいる様子が見えません。何か恐ろしい物に脅かされているようなので、気分がすぐれず気にかかっています。やはりジョセフィン様の反応を心配しているのでしょうか。カオル様が用意された所に移るのも間近になりましたが、それまでの間は私の家に迎えることにします。でも今日は雨が降りそうですね」などと書いてありました。
ジゼルは昨夜、浮舟が書きつけて小枝に結んだ母君への返信を開けて、激しく泣いてしまいました。「私の命はこれきりと母に伝えて欲しい」との歌を見て、「そういうことだから、姫君は心細いことを話していたのだ。どうしてたった一言でも私に話してくれなかったのだろう。姫君の幼い頃から気配りをすることなく、塵ほどの分け隔てなく仕えて来たのに、今を限りの死に出の旅に私を置き去りにして、何のそぶりも見せなかったのは辛いことだ」とジゼルは思って、地団駄を踏んで泣く様子は子供のようでした。
「姫君がひどく思い沈んでいる気配は感じ取っていたものの、ちょっとでもこうした並み一通りではない物騒なことを思い寄るとは見えない性格だったのに、一体どういったことなのだろう」とジゼルは合点がいかず、ただ悲しいばかりです。乳母は中途半端にどうしたら良いか分からずに、ただ「どうしましょう、どうしましょう」と言い続けていました。
ニオイ卿は浮舟が返信で「墓はどこだと あなたも恨むことでしょう」と詠んで、いつもと違う気配を見せたので、「一体、どういった思いなのだろう。さすがに私のことを憎からず思っている様子を見せながら、どうせ浮気っぽい男なのだからと、深く疑っているので、どこかに姿を隠そうとしているのだろうか」と胸騒ぎがして、コンフランに使いの者を遣りました。
山荘では居合わせている限りの人々が泣き惑っているので、使いはニオイ卿の手紙を差し出すわけにもいかず、下女に「どうしたことだ」と尋ねると、「姫君が昨晩、急にお亡くなりになったので、皆、途方に暮れています。頼りにしているカオル様もおられない折なので、仕えている者たちはただ慌てふためいて、まごついています」と答えました。
使いは事情を深くは知らない男なので、詳しく問うこともせずに戻って来ました。取次ぎを通じて「こういったことでした」と報告すると、ニオイ卿は夢のように思えて、「とてもおかしなことだ。重病とは聞いていない。近頃は加減が悪いようだったが、昨日の返信は何気なく、いつもより愛らしかったものだったが」と合点がいかないので、ジェラルドに「コンフランに行って、様子を見て確かなことを聞いて来てくれ」と命じました。
するとジェラルドは「あのカオル大将がどんなことを聞かれたのでしょうか。『宿直をしている者がいい加減だ』と𠮟りつけたということで、下人が出入りするのさえ、見咎めるようになっています。私が何らかの口実もなく出向いたりしたら、カオル殿の耳にも入って、さてはと感づかれてしまうこともありましょう。まして急に亡くなった辺りでは言うまでもなく騒がしく、人も大勢いることですし」と答えました。
「そうかと言って、事情がはっきり分からないのでは済まされない。やはり何とか手立てをひねり出して、例の事情を知っている侍従などに逢って、『どういうわけで、使いがああいったことを言ったのか』を確認してくれ。下人はいい加減なことを話すものだから」と説得するので、ニオイ卿の気の毒な様子ももったいないので、ジェラルドは夕刻、コンフランに向かいました。身分が軽い身でもあるので、直にコンフランに着きましたが、雨は少し降り止んだものの、難渋な坂道に苦戦して、下人のような姿になっていました。
山荘では大勢の人たちが立ち騒いでいて、「今宵にでも葬ることにしましょう」などと話しているのを聞いて、ジェラルドは啞然としました。ジゼルを呼んでみても出逢うことが出来ません。ジゼルは取次ぎに「今はただ何が起きたのかも分からず、起き上がる気もしません。そうとは言え、今宵お越し下さったのに、お話が出来ないのは残念なことです」と伝えさせました。「そう言われても事情がはっきりしないまま帰ることが出来ましょうか。せめてもう一人の方と」とひたすらに言い張ったので、侍従が逢いに出て来ました。
「とても意外なことに、本人も思ってはいなかった様子でお亡くなりになったので、『悲しい』と言うだけでは物足りない心境で、夢のようなので、誰も誰もがうろたえているといった旨をニオイ卿にお伝えください。私の動揺が少しは落ち着きましたら、ここ数日、姫君が物思いをされていた様子や、あの夜、ニオイ卿に対して『とても心苦しい』と思いを寄せていた有様などもお話しします。服喪など人が忌む期間が過ぎてから、今一度お越しになって下さい」とジゼルは言いながら、泣きじゃくりました。
奥の方からも泣き声ばかりが聞こえてきます。おそらく乳母でしょうか、「私の姫君はどこへ行ってしまったのでしょう。お戻りになって下さい。空しい遺骸すらお目にかかれないのはどうしようもなく、悲しいことです。毎日、姫君をお見掛けしても物足りない思いがして、『いつかは期待通りになられる様子を見たい』と朝夕に願いながら、命を延ばして来たのです。それなのに、こうして行方知らずになってしまうとは。悪霊と言えども、姫君を占有することは出来ません。ゼウス様、姫君を返して下さい。人であれ、悪霊であれ、姫君をさらっていった者よ、姫君を私に返しなさい。せめて亡骸だけでも見たいのです」と言い続けています。
ジェラルドはそうした説明の中に、理解できないことも混じっているのをいぶかしく感じたので、「やはり、本当のことを話して下さい。もしかすると誰かが姫君を隠したのでしょうか。私は『確かなことを知りたい』とニオイ卿が名代として差し向けた使いです。いずれにしても、今は仕方がないことでしょうが、後日、ニオイ卿が聞き及んで食い違いが混じっていたなら、使いに参った者の罪になってしまいます。その上、『いくら何でも』と希望を抱かれて、『あなた達と対面しなさい』と仰せられたお気持ちに対して、『面目ない』とも思わないのですか。女の道に迷い込んでしまうことは、他国の王朝でも古い例がありますが、これほどまで熱意を示されるお方は今の世ではまたと存在しない、とまで注視しているのです」と言い続けました。
「確かにこのお使い役にはとても同情してしまう。いくら隠そうとしても、こういった例がない出来事は自然とニオイ卿自ら聞いてしまうだろうし」と侍従は感じました。
「何者かが姫君を連れ出したと少しでも想定出来たなら、どうしてこれほどまでここにいる皆が慌てふためくのでしょうか。姫君がこのところ、とてもひどく塞ぎ込んでいたのは、あのカオル大将がうさんくさそうにニオイ卿との仲を姫君に問いただしたことにもありました。母君にあたる人や、ああやってわめきたてる乳母などが、『初めから心を傾けたお方の許に移られたら』と準備を急いでいる中で、姫君はニオイ卿のことを秘かに『有難く、お慕いしている』と思い詰めておられたので、心が乱れてしまったのでしょう。驚くことに心も身も捨ててしまったようなので、乳母も途方にくれて、聞き苦しいことを言い続けているのです」と侍従はさすがにはっきりとでもなくほのめかしました。
しかしジェラルドは合点がいきません。「それなら、いずれゆっくりと伺うことにしよう。立ちながら話をするのはあまりに粗略のようだから。そのうちニオイ卿自らやって来ることだろう」と言うと、「まあ、有り難いことです。今となって、姫君とニオイ卿の関係を世間の人が知ることは、亡くなった姫君にとっては、むしろ運命が良かったように見えるかも知れません。姫君が隠していたことなので、ニオイ卿が漏らさずにおられるのは亡き姫君への誠意になりましょう。こちらでは男女の間の情が通じないままで亡くなってしまった事情は誰にも話しません」と侍従はあれこれと言い紛らわしながら、「こうした話をしていると、自然と事情が漏れてしまう」と危惧して、何とかジェラルドを追い帰しました。
降りしきる雨に紛れて、母君もやって来ました。今さら何といいようもなく、「目の前で娘を亡くしてしまう悲しみは辛いことですが、世の中では普通に起こることです。それでも一体、どうしたことでしょう」と戸惑っています。母君は「このところ男女間のこみいった事情があって、ひどく物思いをしていた」とも知らないので、「身を投げた」とは思いも寄らないことでした。
悪霊が娘を食べてしまったのか。狐めいた物がさらっていったのか。確かに昔の物語で怪しい事例として、そんなことが書かれていたことを思い出したりします。
「それとも、あの『恐い』と懸念していた第二王女ジョセフィンの周りに意地が悪い乳母のような者や、カオル様がいよいよ姫君を迎え入れることを聞いて、気にくわずに何かを企んでいる人もいるのだろう」と身分の低い者などを疑いながら、「事情を知らない新参の奉公人がいますか」と母君が問いました。
「『ここはとても世間から離れています』と言って、コンフランに住みたくない人は、ここではちょっとした用事もせずに、『じきに戻って来ます』と言いつつ、皆、引っ越しに必要な急ぎの縫い物などを手にしつつ、去って行ってしまいました」と侍女が答えましたが、その一方で元から仕えていた侍女たちも段々と少なくなっていました。
侍従などは姫君の最近の気配を思い出して、「いっそのこと死んでしまったなら」などと泣き入っている様子や、書き残した文書を見てみると、「身を投げてしまっても 死んだ後で嫌な評判が流れてしまうのが気にかかる」と慰み半分に書いた歌をインク壺の下にあるのを見つけて、入水をしたのかとセーヌ川の方を見やって、響き渡る水の音を聞くと、「気味が悪く、悲しい」との思いになりました。
「とにかく、入水した人をあれこれ騒ぎ立てても」、「『どういった形になったのだろう』とどちらの方々が思い疑うのも可哀そうですし」とジゼルと言い合わせました。「内密なことと言っても、姫君ご自身の気持ちから起きたことでもありません。姫君が亡くなった後に母君の耳に入ったとしても、相手の人は肩身が狭くなる人ではありません。母君にありのままを話して、こうやって判然としないことをあれこれと嘆く様子を、少しでも晴らして上げるようにしましょう」。「亡くなった人に対して亡骸のお世話をするのは普通のことです。そうした当たり前のことをしておかないと、日が経っていくうちにますます表沙汰になってしまいます。やはり母君に話して世間の手前だけでも取り繕わなければ」と二人は話し合って、こっそりと姫君の状況を話すものの、言葉が詰まってうまく話すことが出来ません。
聞く側の母君は動揺しながら、「それではこの荒々しく感じる川に流されてしまったのか」と思って、いよいよ自分も川に落ち込んでしまいたい心地になりました。「流れて行った先を尋ねて、亡骸だけでもきちんと葬らなければ」と言いますが、侍従とジゼルは「捜そうとされても何の甲斐もありません。行方も分からない大海原に流れて行かれたのですから」、「そんなことが世間の噂に立ってしまうのは聞き辛いことです」と言い返しました。母君はあれこれ思案しますが、胸が込みあがって来る心地がしてどうして良いのか分からずにいました。
ジゼルと侍従は馬車を寄せて、浮舟がよく使っていたクッション、調度類や脱ぎ捨てていた夜着などの品々を運び入れました。乳母の息子の助祭、息子の叔父の司祭、その弟子で懇意にしている司祭などを忌みに籠らせて、いかにも人が亡くなった体裁にして邸から送り出しましたが、乳母や母君は「ひどくとんでもないことになった」と転げまわっていました。
ジゼルや浮舟に警告した宿直人たちを統率する王宮の警護役と娘婿などが駆けつけて、「葬儀の事はカオル殿に仔細を報告してから」、「日を取り決めて厳粛にするべき」などと言い張りますが、「何とか今宵中に済ませたいのです。ごく内密にと考えていますから」とジゼルは答えて、馬車を向かい側の丘陵にある墓場に行かせて、人を近くに寄りすかせず、事情を承知している聖職者たちだけで葬儀をしました。
まことにあっけなく葬儀が終わりました。地元の人たちはこうした葬儀をなまじっか大袈裟に行い、忌慎みなどもきちんとするので、「とても奇妙だ。型通りの作法などもせずに」、「下賤な者の葬儀のように仕方なくするとは」と謗る人がいたり、「兄弟たちがいる人は、ことさらにこうした風にするのが都の人の習わしなのだろう」と様々に興味なさそうに話していました。
「こういった人たちの言い思っていることすら気兼ねしてしまうのに、まして世間の噂は隠すことは出来ない世の中なので、カオル大将あたりが『遺骸もなしに亡くなった』と聞いたら、きっとニオイ卿が姫君を隠したのではないかと思い疑うこともあるだろう。逆にニオイ卿はカオル大将とは親しい間柄なので、『姫君が大将の許にいないのは、しばらくの間、どこかに隠しているからだろう』と思ったとしても、結局、そうではないことは分かってしまうことだろう。また大将はニオイ卿だけを疑うのではなく、『どんな者が姫君を隠したのだろう』と思い寄ることもあるだろう。生存中の運勢はとても気高い人だったが、実際に故人となってから、とんでもないことを疑われてしまうことになる」とジゼルは思うので、「邸の中にいる下人たちの中で、今朝の慌ただしい騒ぎの様子を見聞きした者には口封じをさせ、事情を知らない者には聞かせないようにしよう」などと工面しました。
「時間が経ってから、どなたにでも事の次第を伝えることでしょうが、目下のところは」、「カオル様の悲しみが冷めないことを人づてに聞いてしまうのは、やはり姫君には気の毒なことですし」と、ジゼルと侍従の二人は後味が悪い気持ちもあるので、真相を隠していました。
2.ニオイ卿とカオルの愁嘆、カオルのニオイ卿訪問と浮舟の追憶
カオル大将は母の山桜上が病気になったので、祈願でシャルトルに籠っていましたが、ヴァッシーの虐殺の後もあって、何かと気ぜわしくしていました。何かとコンフランのことがきがかりになっていましたが、「こういったことが起きました」ときちんと告げる人がいなかったので、コンフランでは「こんな大変なことが起きたのに、カオル様からの使いがないのは具合が悪い」と思っていました。ようやくカオルの荘園の者がシャルトルに行って、「しかじか」と報告したので、カオルは情けない心地がして、翌朝、まだ早い時間に使いを忌問に遣りました。
「とんでもないことを聞いたので、すぐに自分自身で行くべきだが、母の病気のために身を慎んで、こうした場所に日を限って籠っている。昨夜の葬送については、こちらに知らせてもらって、日を延ばしてでも、しかるべきことをしたのに、どうしてとても簡略に急いだのだろうか。言う甲斐がないことは同じなのだが、最後の儀式についてさえ、地元民たちから批判を浴びてしまうのは、私としても辛いことだ」などと、親しくしているあの事務長を通して使いが伝えました。カオルの使いが来たものの、侍女たちは何と話したらよいのかも分からず、ただ涙に溺れているばかりなのを口実にして、しっかりとした答えもしません。
「言いようもなくあっけなく悲しいことです」と聞いて、「あの場所は心苦しい場所だったのだ。悪霊などが住み着いているのだろうか。どうして今まで、あんな所に住まわせていたのだろうか。思いもかけないあたりと間違いがあったようなのは、自分がああやって放置していたから、ニオイ卿も気安く言い寄ったのだろう」とカオルは思うと、「自分が迂闊で、男女の情愛を理解していなかったからだ」と悔しく、胸の痛みを感じました。母の回復を祈りながら、こうしたことに心を乱してしまうのはまずいことなので、ランブイエ城に戻りましたが、ジョセフィンの部屋に行くことはありません。「大したほどではありませんが、身近な者に不吉なことを聞いたので、平静さを失い、縁起が悪いので」などとジョセフィンに伝えて、限りなく空しく、悲しい世の中を嘆きました。
浮舟の生前の姿・形が愛らしく美しかった気配などがたまらなく恋しく悲しいので、「どうして生存中にそれほど執着せずに、のんきに過ごしていたのだろう。やはり今となっては悲しみを思い静めることも出来ないまま、悔しさは数知れない。こうしたことがあるにつけ、自分という者はひどく物思いをしてしまう宿命なのだ。風変わりにも修道院への道を思い立っていた自分が、思いがけなく、こうやって普通の人間として長く暮らしている。キリスト様などは『憎いやつだ』と見ていることだろう。『人の道心を起こさせよう』として、キリスト様がなされる手段は慈愛すら隠して、こういった苦しみを与えるということなのだ」と思い続けて、勤行だけをしていました。
ましてあのニオイ卿はやはり二三日は何も考えることが出来ず、正気もない様子で、「どんな悪霊がついたのだろう」などと人々が騒いでいます。ようやく涙が尽きて、気持ちは落ち着いたものの、浮舟の在りし日の様子が恋しく、しみじみと思い出していました。人にはただ病が重い様子だけを見せて、「こうした予期もしなかった悲しい目つきは、他人が分からないようにうまく隠そう」との思いがするものの、自然とはっきり見えてしまいます。「一体どういうことで、こんなに愁傷されて、命も危なくなるまで沈み込んでいるのだろう」と言う人もいました。
カオル大将もニオイ卿の様子を詳しく聞いて、「そういうわけだったのか。やはり浮舟とは手紙のやり取りだけではなかったのだ。浮舟はニオイ卿を一目見て、思いをはせてしまう人だったのだ。浮舟が生きていたなら、普通の場合以上に自分にとって間が抜けたことが生じたことだろう」と考えると、浮舟を焦がれる気持ちも少しは冷める心地がしました。
ニオイ卿の病の見舞いに、毎日ヴァンセンヌ邸を訪れない人はなく、カトリック派とプロテスタント派の対立も騒がしくなっている頃、「大した身分でもない女性への思いで引き籠っている中、見舞いに行かないのもひねくれているようだから」とカオルは考えて、ヴァンセンヌ邸を訪れました。その頃、ヒカルの腹違いの弟で、蜻蛉(かげろう)卿と呼ばれる人が亡くなったので、叔父の服喪でカオルは薄鈍色の服を着ていましたが、心中では『可哀想に』と思いを寄せる浮舟への喪服のつもりでいるのがふさわしく見えます。顔が少し痩せて、優美さがとても増していました。
見舞いの人々が退出して、静まり返った夕暮れでした。ニオイ卿は沈み込んで臥しているばかりでもない気分ですが、疎遠な人に逢うことはしません。いつも内カーテンの中に入れている人とは対面しないことはないものの、カオルとの対面はわけもなく気が引けます。カオルの顔を見てしまうと、浮舟を思い出して真っ先に涙が堰き止められなくなるだろうと思うものの、何とか気持ちを落ち着かせました。
「それほどひどい容態ではないのだが、人が皆して、『用心しなければいけない病のようだ』と話すので、王宮でもサン・ブリュー大后も案じているが、とても心苦しく、本当に世の中の無常なことを心細く感じている」と言いながら、押し拭って紛らわそうと思っている涙が次第に止まらずに流れ落ちていくので、とても恥ずかしくなりますが、「この涙は浮舟のせいだと気付かれることはなく、ただ女々しく気が弱い男とカオルは見るだろう」と思っています。
そうしたニオイ卿をカオルは「確かにニオイ卿は浮舟のことだけを思っているのだ。二人の関係はいつからなのだろう。さぞかし私のことを『愚か者』と物笑いする気持ちで、長い間、思い続けていたのだ」と思うと、悲しみすら忘れてしまいました。
カオルの様子を見たニオイ卿は「カオルはこの上もない鈍感な男だ。物事を一途に思う時は、恋しい人に死なれてしまうほどでなくとも、空飛ぶ鳥が鳴き渡るのを聞くと、悲しみを催してしまうものだ。私がこんなに無闇に心弱いところを見るなら、たとえ姫君との関係を察したとしても、しみじみとした感情を見せない人でもないはずだが、人生の無情を悟ってしまうと冷静でいられるのだ」と羨ましくも、奥床しさも感じます。その一方で、「カオルも姫君と親しく寄り添った、ゆかりのある者だ」と思うとしんみりとしてしまいます。亡き姫君がカオルと差し向かいでいる様子を思いやると、「姫君を思い出させる人なのだ」とカオルを見やっていました。
ニオイ卿があれこれよもやま話をするにつれて、「ニオイ卿は浮舟のことでそれほど押し隠そうとしてもいない」とカオルは感じました。
「昔から私は心に秘めて、少しの間でも話さずにはいられないことが残っていると、気が晴れない思いがします。今は私も少しは官位が高くなっていますし、まして貴殿も隙などない様子で、ゆったりと過ごせる折りもなさそうですし、王宮での宿直などの時に話すことも出来ず、何となく尋ねて来ることもしないでいました。
ご承知のコンフランの山里で、その昔はかなく亡くなってしまった人と同じつながりがある人が意外な場所にいると聞きつけて、時々は何とか逢いに行こうと望んでいたのですが、あいにくジョセフィンとの婚姻で世間から悪口を叩かれることもあった頃だったので、取り敢えず
あの辺鄙な所に住まわせていたのに、あまり出向いて行くことも出来ず、また、あちら側も『姫君を誰か一人に頼るという気持ちは特にないようだ』とも見えた上に、この上なく重々しい本妻と考える必要もなく、さらにおかしな欠点もないことから、心配もなくいじらしいと思っていたその人が、とてもあっけなく亡くなってしまったのです。世の中のありきたりの出来事だと思ってみても悲しくなりますが、この話を聞き及んだこともあるでしょうか」と、今初めて涙を流しました。「何とかして、こうした様子をニオイ卿には見せない。笑われてしまうから」と思ってはいたものの、涙がこぼれ始めると、とても止めることが出来ない気配で、少し乱れた顔になりました。
ニオイ卿は「含みがありそうに話すが、気の毒なことだ」との思いをしたものの、何気もないように「それはとても悲しいことだね。昨日、ちらっと耳にした。どうやってお悔やみを話すべきかと思いながらも、『取り立てて世間に知られないように』と聞いたものだから」と、さりげなくしらを切りましたが、ひどく耐え難くなって、言葉少なにいました。
「あなたにお目にかけたら、きっと興味を持つだろうと思うほどの人でした。もっとも自然と目に留まっていたかも知れませんね。マドレーヌの許に滞在したこともあったので」などと少しづつほのめかしましたが、「気分がすぐれない時に、何ということもない世間話をして驚かせてしまうのは不快なことでしょう。どうぞお大事に、などと言って邸を出ました。
「ニオイ卿は浮舟にひどく執心していたのだ。浮舟ははかない人生だったが、さすがに高い運勢を持っていたのだ。安梨王やサン・ブリュー大后があれほど寵愛した王子であるし、顔や容姿を始めとして、今の世の中では類のない存在である。出逢っている人と言っても、マドレーヌやフローラのように格別で、何かにつけてこの上もない人たちなのに、彼女達を差し置いて浮舟に心を尽くしたのだ。世間の人が大騒ぎをし、その道の人たちが祈り・朗読・儀式・祓魔と気を揉んでいるのは、ニオイ卿が浮舟を恋慕するあまりに心が乱れて、病になったからであろう。自分もこれだけの身でありながら、第二王女を賜ったのに、浮舟を愛おしく思っている点ではニオイ卿に劣ることはない。まして、今はもう亡くなったのだと思うと、心を静めようがないが、もうそんなことは馬鹿げたことだし、もうとらわれることはない」と堪えてみるものの、色々と思い乱れてしまいます。
「木や石ではない人は、皆、情けを持っているのだ」と口ずさみながら、カオルは寝につきました。浮舟の葬儀なども、ひどく簡素にしたようだが、「姉にあたるマドレーヌはどのように聞いたのだろうか」と気の毒にも仕方がないとも思います。「浮舟の母君は身分が月並みで、そういった身分の人たちは『兄弟がいることだから』とそんなことを考えて、葬儀を簡略に済ませたのだろう」と気に入らない思いがします。
はっきりとしない点も限りなく、最後の様子も自分で聞いてみたいと思うものの、「コンフランに出向いて、長期間忌みに籠るのも具合が悪い。折角行ってみても、すぐに帰って来るのも心苦しい」などと思案しました。
月が替わって四月に入り、「今日は浮舟を迎える日だった」と思い出している四月十日の夕方はもの悲しいものでした。前庭近くの黄色いボタンのようなミモザの香りが快く、カササギが二声ばかり鳴いて行きます。ニオイ卿が夕霧邸からヴァンセンヌ邸に戻る日であったことを思い出して、ミモザの花を折らせて訪ねて行きました。
(歌)甲斐もなく死んでしまった あの人に向けて鳴くカササギに心が通じたなら あなたも忍び泣きをするだろう
ニオイ卿はマドレーヌの様子が浮舟とよく似ているのを「寂しいことだ」と思いながら、二人で物思いにふけっていました。カオルが詠んだ歌を味わい深く読みました。
(返歌)ミモザの香りは昔の人を思い出させると言うが ミモザの花が咲く庭では カササギも気を配って鳴くべきだ
「複雑な思いでいる」とニオイ卿は返しました。
マドレーヌは事の経緯を残らず知っていました。「悲しいことに、情けなくはかなく死んでしまった姉のジュヌヴィエーヴや妹の浮舟はそれぞれ心の中に深い思いがあったのだろうが、私一人は物思いをしなかったから、今まで生きてこられた。しかしそれもいつまで続くだろうか」と心細い思いでいました。
浮舟とのことはどうせ分かってしまうのだから、打ち明けないのも心苦しいことだと思ったニオイ卿は、浮舟との関係を少しは脚色しながら、マドレーヌに伝えました。
「あなたが姫君をどこかに隠してしまったのが辛かった」などと、泣いたり話したりするのは、浮舟に対してよりも親しげでしんみりしたものでした。大袈裟で壮麗で、加減が悪くなるとうろたえ騒ぐ夕霧邸では見舞客も多く、夕霧大臣やフローラの兄達がひっきりなしにやかましくしていますが、この邸はとても気が楽で、嬉しく感じていました。