箸墓物語

 

[その五] トヨとミマキイリヒコ

  

一.オオビビ王の急死

 

トヨの不安と回顧  

二六年末

底冷えの寒さに次いでトヨと侍女二人が閉口したのは、魚が古くてまずいことだった。スミレが市場から買ってくる魚は塩辛い魚ばかりだ。王宮での食事に較べたら土民の食事だった。塩サバ、干しイワシ、干しアジ。干し魚にはいい加減飽きてしまった。チリメンジャコはカビがはえているような臭みがする。塩の質が悪いせいか魚しょうの質もひどく、水に塩を溶かし込んだだけの味だ。干しキノコや塩漬け野菜はあったが冬の青物がない。肉は鹿、猪、鶏、鴨と比較的豊富にあったものの、捕り立てのサワラ、タイ、スズキが恋しい。吉備、讃岐への郷愁がつのる。

「また今日も干し魚ですか。新鮮な鯛は売ってないのかい」

「山国ですからね。でも是里や周匝でもこれほどひどくはなかったです」と買い物役のスミレも口をこぼす。「魚を諦めて、肉類を食べるしかありませんね」と肉が嫌いなアヤメに嫌みたっぷりな視線を返した

 

イサセリビコの采配で、三人の生活費として年間で二石分(約三六0㎏)の米の支給が約束され、二か月ごとに支給されることになった。一人分の食費を一日一合(約一八0g)とすると一年間の三人分の食費は一石となり、残りの一石が衣類や雑費などの経費となる計算だ。人質の身としては恵まれたほうかもしれない。

 

 トヨの気持はすこしは落ち着いた。少なくとも殺害されることはないようだ。トヨは護衛付きなら住居の周辺や春日野の散策が許されるようになった。時おり、オオビビ王の后に強いられたら、どうやって拒もうかと気をんだ。最初の出会いの後、オオビビ王からは何の連絡や招請はなかった。后の話はおそらく思いつきだったのだろう。

晩冬に椿の赤い花に雪が舞い落ちる。あれ以来、椿の花を見ると楯築王とヒミコが思い浮かび、辛くなった。

 

二六七年春

 ようやく春になった。春日の山にウグイスの美声が響きわたる。心のよどみが吹き飛ばされていくようだ。吉備の中山での祝宴の日を夢のように思い出す。あれから一年がたって私は東国の山国にいる。去年の春と今年の春の境遇の違いに嘆息をついた。王宮の庭には梅の花にメジロがいた。狗奴国ではまだメジロを見かけない。メジロが好む梅の木はまだ伝来していないのだろう

晋への遣使一行は今ごろ、どうしているだろう。晋の王さまにうまく謁見できたのだろうか。金印を授与されただろうか。帯方郡から帰国の途についている頃だろうか。吉備王国の敗北をどこで知ったのだろうか。ハタツミたちはどうしているのだろう。吉備と讃岐の人たちは無事に生活できているのだろうか。狗奴国軍に虐げられているのだろうか。次々と心配ごとが頭をよぎっていく。私は何もしてあげられない。一刻も早く吉備に戻りたい。

 

トヨは気晴らしも兼ねてスミレ、コイワ、カエデたちと山菜りに春日の山に入った。コイワとカエデはすっかりスミレになついていた。是里育ちのスミレは山菜に詳しく、トヨたちに手ほどきする。一年前は山菜りをするスミレを叱ったことを思い出す。今では得がたい存在だ。スミレはまだ六歳の若さだが、逆境を明るくはねのけていく芯の強さがあり、頼りがいがあった。 

山桜が散り、山ツツジの季節になると心も幾分かはなごんできた。讃岐や吉備より気温が低いせいかツツジの花は心なし赤色が鮮やかだった。

 

二六七年六月(旧暦四月)

 梅雨のうっとうしい季節になった。野山に紫陽花が咲き乱れる。

 

カエデを連れて市場に出掛けていたスミレが戻ってきた。

「オオビビ王が大病にかかったうですよ。吉備のタタリだという噂が飛び交って、市場に行くといじめられるような視線を浴びて、辛いです」とこぼすようになった。

しばらくしてスミレが「オオビビ王がハシカにかかって亡くなったらしい」という話を聞いてきた。

「噂が事実とするなら、私たちはこれからどうなるのだろうか」

 

二六七年七月

しとしとと雨が降る夕暮れ時に来訪者があった。門番のナガヒコからオオビビ王の弟のタケハニヤスビコと紹介された。タケハニヤスビコは大仰に土間に頭をつけて慇懃に挨拶した。「トヨ さまが八尾の湊に御着きなられた際、お迎えにあがりましたが、憶えておれらるでしょうか」との言葉で、トヨはイサセリビコが統領と紹介した人物であることに気づいた。

「大和でのご生活はいかがでしょうか。ご不足なものがありましたら、何なりとお申し付けください」

 

 物言いも丁重だった。オオビビ王の無骨さに較べると、如才ない商人のような顔立ちだった。愛想笑いは絶やさないが、目尻のあたりに小ずるさがひそんでいる印象を受けた。

あなたは、本当にオオビビ王の弟さまなのですか」

母は違いますが、弟のタケハニヤスビコと申します。誠に残念ではありますが、兄は急死しました。オオビビ王の王子たちはまだ未熟なので、順序からいって私が兄を継いで大王に即位することになるでしょう。そこで本日は姫さまに大国運営の秘伝を伺いにまいったわけでございます」

 

 しばらく吉備、讃岐大和の自然や風俗の違いなど世間話が続く。この人物は何の目的で私に会いにきたのだろう。後継者と名乗るものの、言葉の端はしから王としての品格に欠けていることが伝わってくる。表情はにこやかだが、貴人というよりずる賢い商人の印象が強まっていくこの人は王者となる顔ではない。

 

ところで中国の魏とかいう国から財宝をもらっておられたと聞いておりますが、財宝はどこにあるのでしょうか」とタケハニヤスビコがふいに訊ねた。直感でタケハニヤスビコは吉備の財宝のありかを探りにきたのだとピンと来た

「吉備には財宝はさほどにございませんのよ。すべて配下や農民に分与しておりますから」

「まさか、ご冗談を。そんな国なぞ、初耳です」

タケハニヤスビコは怪訝な顔で引き上げた。

 

王位継承

二六七年七月~一二月

 オオビビ王が急死した後、皇太子のミマキイリヒコイニエ王子の即位が順当だったが、まだ八歳のミマキ王子自身は大王を即位することにあまり乗り気ではなく、母親のイカガシコメをやきもきさせた。頑健な父王は長生きをするものと思い込んでいたし、新妻となった紀伊のマクハシヒメがみごもっており、新婚生活を楽しみたかった。とりあえずは同腹の三人の叔父の誰かが跡を継げばよいのでは、と考えていた。同腹ではないが、いつもにこやかで愛想がよいタケハニヤスビコの顔も浮かんだ。

 

 宮中の臣下はミマキ王子の優柔不断な態度にやきもきすると同時に、主導権争いが水面下で続いた。オオビビ王は四人の后から四人の王子をもうけていた。最初の后タカノヒメは丹波尾張系の丹波県主ユゴリの娘でヒコユミスミを生んでいたが、ひ弱な体質で病弱だった。父王の后からオオビビ王の后となった穂積氏のイカガシコメがミマキ王子を産んだ後、三番目の后、ワニ臣ヒコムニオケツの妹オケツヒメがヒコイマスを、四番目の后、垂見スクネの娘ワシヒメがタケトヨハヅラワケを産んでいたが二王子ともまだ幼少だった。

 主導権を握ったのはオオビビ王の同腹の長兄オオビコだった。オオビコは、娘ミマツヒメをミマキ王子に嫁がせることで外戚の座を確保しようとする魂胆があった。

「やはりミマキイリヒコ王子を王に立てよう」

 

イカガシコメの実家筋にあたる物部・穂積系ミマキ王子を推し、尾張氏からも后を出すことで尾張オオマツと調整した。ミマキ王子は大柄の父オオビビとは違い、小柄で武道派というより知的で物静かな性格だった。オオビコと尾張オオマツは、武道派ではないミマキイリヒコを操りやすい人物見定めていた

ミマキ王子は、自分の知らぬ間に新たにオオビコの娘ミマツヒメとオオマツの娘オオシアマヒメを后に迎えることが決まって面食らった。従のミマツヒメとは幼馴染だったが、一歳年上で気位が高く、性格も高飛車であまり好きなタイプではなかった。 

オオビコの画策どおりに外堀が埋められていった。蒸し暑い夏が過ぎ秋になった頃、母のイカガシコメと叔父のオオビコに諭される形で、しぶしぶ王位継承に同意した。

 

春日の山が紅葉した。ミマキ王子即位の噂はトヨたちには聞こえてこなかった。幸いなことにオオビビ王の死後もトヨたちの処遇に変りはなかった。秋の萩を鑑賞する余裕も出てきた。トヨの日課は吉備津時代と同じように、毎朝、日の出の頃に東に向かって太陽神オオヒルメを拝み、西に向かってスサノオとオオモノヌシを拝むことだった 

秋の味覚も楽しんだ。大和盆地の柿が好物になった。火を囲んで三人で栗を焼く。山百合の球根も焼いた。球根の味に覚えがあったが、それが山百合の球根だと初めて知った。スミレの案内でキノコ狩りも楽しんだ。

 

冬至祭を身内だけで祝った。トヨがオオヒルメ、スミレがスサノオ、アヤメがアメノコヤネに扮した即興劇で太陽の神の復活を祈った。スミレが舞いを披露した。観客はナガヒコ一家と警護人だけだったが物珍しそうに魅入っていた。大和軍の襲撃がなかったら、今頃、吉備津の王宮で盛大な冬至祭りがとり行われているはずだ。今のおちぶれぶりにトヨは悲しくなった。生きているだけでも幸せ、と我が身を慰めるほかない。

 

二六八年二月に即位 (治世一年)

 オオビビ王のもがりが済み、陵墓が王宮と佐保川の間に造られ。旧暦の年が明けた二六八年二月、ミマキイリヒコイリエ(崇神天皇)が九歳で第十代王を即位した。前年に紀伊のマクハシヒメが第一子トヨキイリヒコを産んでいた。

 

「新しい王さまはまだ九歳とお若いようです。武術は今一歩ですが、利発なお方のようですよ」

スミレが市場から仕入れてきたニュースでトヨ新王の就任を知った。利発とはいうものの、どうせ父王に似て粗野な青年だろう。会ってみたいとも思わなかった。

スミレは佐保の市場に買出しに行くのが気重になった。冷たい視線を浴びるだけでなく、わざとくず野菜を渡されるなど嫌がらせに泣いた。狗奴国王はクニクル、オオビビと二代続けて四代前半で若死にしていた。吉備のタタリに違いないという風評がますます飛び交っていた。モモソヒメこそ、大和に疫病をもたらした厄病神だ。

 

 二度目の春が来た。新しい王の時代になって、私たちはどうなるのだろう。懸念するあれこれが周期的に頭をよぎるようになり、うなされる回数が増えていった。

「吉備と讃岐はどうなっているのだろうか」

「神官や語り部は健在だろうか」

「なぜ、こんな山国の貧しい国に吉備が屈服してしまったのだろうか。どこに落ち度があったのだろうか」

「なぜ宗像族が裏切ったのだろうか」

 

いずれにせよ、吉備にはまだ戻れない。くよくよしても仕方がない。アヤメとスミレに心配をかけるだけだ。気分一新をしよう。トヨはナガヒコに花壇を作らせた。アヤメは自分の花だと池の菖蒲を丹精に手入れした。スミレも花壇にスミレを植えた。讃岐から持参した着物を売って機織二台と絹糸、麻糸を購入し、アヤメと一緒に機織を始めた。

 

船団を使って北九州の伊都国まで支配

 ミマキ王は大王に就任したものの、宮廷の実権はオオビコと尾張氏が握っていた。吉備に陣取ったイサセリビコ兄弟は西方への拡大戦略を続行していた。山陽地方は山岳部が多く、ウラの弟オニ(王丹)を中心に、吉備邪馬台国の残党が各地でゲリラ戦を引き起こしていた。このため、陸路より海路からの攻撃に重点が置かれ、タケコロ(建許呂。後の筑紫刀禰)が率いる河内アマツヒコネ・アメノユツヒコ水軍は、穴海急襲に使用した二百艘の船を駆使して、宗像族の導きで安芸投馬国、周防、長門、伊予、豊前の国々を次々と恭順させていった。宗像アシヤミミの事前の根回しも功を奏して、オニ派ゲリラの抵抗はあったものの、国々は大和を新しい盟主として受け入れていった。奴国、伊都国も大和の軍門に下った。荒海を渡る必要がある壱岐と対馬は後回しとなった。九州東部の豊後と日向も宗像族の影響が強く、日向は初代王イワレビコの故地でもあるため、支配に大きな問題はなかった。

 河内アマツヒコネ族をあやつるタケハニヤスビコの指示もあってか、水軍は捕虜や工人と共に、各地の戦利品を河内湾に持ち帰った。この中には、倭国の盟主の象徴である吉備の弧帯紋板や特殊壺・器台(向木見形)も含まれていた。

 

 西征第二陣

次の目標は九州西部の攻略だった。ことに筑後川流域には高良(こうら)玉垂(たまたれ)を祖神とする強国が存在しているようだ。ミマキ王の義父となったオオビコは討伐軍の将軍に、初代王イハレビコの次男カムヤイミミを祖先に持つ意富氏タケヲクミを指名した。

タケヲクミは九州西部征伐軍を組織したが、下級兵士は吉備の捕虜たちが主体となっていた。西播磨、備前、美作で捕虜となった吉備の兵士や住民は殺戮される代わりに、河内・和泉の開拓に送り込まれ、重労働を強いられか、かつて伊勢サルタヒコ族や東海の避難民が淡路島や阿波の前線に送り込まれたように、タケヲクミ軍の先兵役を強制された。その中に河内湾で行方が分からなくなったトリヲとタケカシマも混じっていた。

 

河内湾でトヨたちの舟と引き離されたハタツミ、トリヲ、タケカシマの三人は和泉の捕虜収容所に入れられた。 

事前の話とは違う。約束を破ったではないか」

 激昂したハタツミは数人の兵士の槍で刺され、憤死した。ハタツミの死に衝撃を受けたトリオとタケカシマは収容所で虚脱した毎日を送った。トヨさまをお守りする任務を果たせなかった。ハタツミも非業の死を遂げた。警護が厳重で収容所からの逃亡もままならない。悶々とするトリオとタケカシマはある日、突然、どこに行くかも告げられずにタケヲクミ軍に組み込まれた。

 

タケヲクミ軍は総勢一人の軍勢だった。吉備の捕虜の逃亡を用心して讃岐ルートは避けられ、讃岐山脈の裏側の阿波ルートが選ばれた。紀ノ川河口から阿波の鳴門に入り、吉野川をさかのぼって伊予に進み豊後海峡を渡った。大分川の河口に上陸したタケヲクミ軍は筑後川ルートを回避して、大分川と大野川の二手に分かれ、肥後をめざして西に進軍していく。   

網磯野(あみしの)でシノカオキ・シノウカミ夫婦が率いる土グモ、血田(ちだ)でアオとシロの土グモ、竹田の禰疑野(ねぎの)でウチサル、ヤタ、クロマニの精悍な土グモを破り、肥後に入った。阿蘇山の外輪山を抜けた後、白川を下っていくと、益城(ましき)で難敵が待ち構えていた。朝来名(あさくな)峯を根城にするキクチ族だった。禰疑野の敗軍もキクチ族に合流していた。激しい矢の応酬となり、トリオが討ち死にした。 

 捨て鉢になったタケカシマは報復に燃えあがった。椿の木を切り取って剣先が長い堅固な木刀を作り、部下たちに持たせた。夜がふけた頃、朝来名峯の砦に奇襲攻撃を仕掛けた。秘策は目潰しだった。敵の土グモに目潰しをぶつけた後、視界を失った土グモを長い木刀で打ちのめし、短剣で殺戮していった。朝が明けると砦のキクチ族と禰疑野の残兵も一網打尽に撃沈されていた。

 

 タケヲクミ将軍は吉備の捕虜であることも忘れてタケカシマの武勇を賞賛した。大和軍のどう猛さと勇猛さはあっというまに肥後中に知れ渡り、以後はさしたる抵抗もなく白川河口の熊本まで進軍した。

キクチ族の熊本の砦も陥落した。タケヲクミ将軍は肥後南部征伐隊と肥前征伐隊の二手に分け、肥前征伐隊の隊長にタケカシマを抜擢した。タケヲクミ軍は南下して八代(やしろ)を攻め、タケカシマ軍は海を渡って対岸の島原半島に上陸した。

タケカシマ軍は雲仙岳の海沿いの山麓を進んで諫早に出た後、有明海に沿って北進し、塩田川流域の能美郷で、オオシロ、ナカシロ、ヲシロの三人が率いる土グモを破り、塩田川河口の杵島(きしま)に本営を置いた。部下のほとんどが吉備王国の捕虜だった。

 

 

二.若き王の苦悩

治世二年(二六九年)

ミマキ王は、トヨには無関心だった。その存在をほとんど忘れていた。父のオオビビ王がトヨを后に迎え入れようとしていた話は聞いていたが、ミマキ王にとっては敵国から伝染病をもたらした女性にすぎなかったし、トヨのことまで気にかける状況ではなかった。九歳の若さでの王位就任は、義父にあたるオオビコが尾張氏と組んで政局を動かしているものの。父王からの引き継だけで精一杯だった。大和軍の西征は事後報告でしかミマキ王に知らされなかった。

 

ミマキ王は何かおかしい、何か歯車が狂っているのではないか、と感じてはいた。安芸、周防、長府、伊予、豊前、筑紫を征服したはずなのに、戦利品が都に届かない。どこかで誰かが、戦利品を横取りしているようでもある。それが叔父タケハニヤスビコの配下の仕業であることには気づいてはいなかった。

都には負傷した戦士だけが戻ってくる。備中や備後の島々、讃岐の塩飽諸島の沖合で吉備讃岐の残党ゲリラに襲われる事例が多いとも聞く。淀川周辺も危ないようだ。オオビビ王の死後、指令系統も乱れていた。 

命からがら大和に戻ってきた東国の下級兵士たちは、俸給がないことを怒って荒れ狂い、小規模な反乱が相次ぎ、大和盆地の治安が乱れていった。農民もオオビビ王時代からの過重な税に苦しんでいた。王室の財政は破綻したも同然だった。

 

王宮は春日から金屋に

治世三年(二七0年)

トヨの一日は、門番一家が飼う雄鶏の鳴き声で始まり、森に帰るカラスの声で日が暮れた。終日、アヤメと機織に専念する。というより、それしかやることがなかった。疲れると花壇の手入れをしたり、護衛付きで散策に出た。飢えた帰還兵は佐保の町にも出没して略奪事件が起きたりしていたが、春日のトヨの住居は警護人がいることもあり、危険度は低かった。

ナガヒコ一家とは気心が通じ合うようになっていた。ナガヒコはイサセリビコ軍の一員として播磨に滞在していたことがあり、瀬戸内の魚や物産をなつかしがっていた。スミレは大和方言を習得し、ナガヒコ一家とも家族のようになじんでいた。

 

しかし米の支給が遅れだした。米にヒエ、粟、豆類の雑穀が混じるようになり、実質的な支給が減った。ナガヒコ一家の手当ても減ったようだ。絹糸や麻糸の仕入れには、讃岐の田村宮から持参した衣類や宝飾を市場で売るか、物々交換しなければならなくなった。佐保の巷は相変わらずトヨたちに冷たい視線をあびせていた。トヨはスミレと春日山に上り山菜取りをするのが気晴らしになった。新鮮な海の魚が恋しい。市場に出回る川魚のヤマメ、アユ、イワナにはうんざりだ。

 

秋の末、ミマキ王は心機一転をはかるために、王宮を春日から大和川を上る舟の最終地点にある海石榴市(つばきち)に近い金屋(かなや)に遷した。伊勢街道の起点にも近い。王宮に隣接して、后たちの宮も造られた。紀伊のマクハシヒメの長男トヨキイリヒコが一人歩きをするようになっていたが、叔父オオビコの娘で正后となったミマツヒメにも第一子イクメイリビコ(垂仁天皇)が誕生した。

 

治世四年(二七一年)

 トヨとアヤメが織る絹織物は佐保の市場で評判となり、よい値で売れるようになった。絹糸は市場に行けば、どこからともなく入手できた。播磨や山城の産出らしい。あるところにはある、ないところにはない。しかし王室の財政が逼迫しているというのに、いったい誰が絹織物を買っているのだろうか。

 

警護が緩やかになり、護衛つきならトヨも市場に行くことができるようになった。市場はどことなく荒んでいて、トヨに気をとめる者もいなかった。トヨは大和王国の権勢が市場の末端にまで届いていないことを感じとった。

「あ、宗像族がいる」

 入れ墨で宗像族と分かった。青銅製の小物を売っていた。「宗像族など、見たくもない」と顔をそらして通り過ぎる。阿波の忌部族もいた。吉野川産の青石赤石の加工品、装飾品を売っていた。身分は宗像族より低いようだ。

 

 遷都から一年が経過した。年の末になっても事態が好転する兆しは出現しない。

「祖神と先祖たちが営々と築いた王国を私が継ぎ、維持していかねばならない。臣下たちよ、天下泰平に向けて忠孝をつくしてくれ」とミマキ王は詔を発したものの、むなしく年が暮れていった。

 

棄民の増大

治世五年(二七二年)

社会不安は深刻度を増していった。ハシカ、風疹、オタフクカゼ、インフルエンザ、赤痢などの伝染病が蔓延し、手のうちようがなかった。巷には病をかかえた乞食が増えていき、戦場から戻ってきた負傷兵士が農民を襲う。前途をはかなんだ棄民が増える。若き王への批判も高まった。 

大和軍も、依然として瀬戸内海の島々や中国山地の吉備の残党ゲリラに難渋していた。ウラの弟オニが率いるゲリラ隊は、備後の島々、讃岐の男木島・女木島、塩飽諸島の三地点を拠点に神出鬼没の攻撃を続けていた。大和軍が島に上陸するとゲリラ軍は山中に入り行方をくらませる。陸地でも備中の山陽道、ことに神辺、井原周辺でゲリラが勢力をはっていた。オニの本陣は備中の山中の鬼が嶽温泉にあるらしいが、所在がはっきり分からない。伯耆に逃れたタケカガミ中将は溝口を拠点として日野川沿いを固め、オニのゲリラ隊とも連携しあっていた。

 

トヨはミマキ王から放置されて、春日の街を自由に歩き、吉備時代にはできなかった市井の生活に触れることが新たな楽しみになった。佐保川の市場では下流から農民が野菜を舟に積んで運んでくるが、川幅が狭く、市が立つ日は舟の渋滞で喧騒が絶えなかった。奈良坂を越えて木津川の先の山城からやってくる商人も多くいた。大和特産の葛粉、葛餅がトヨの好物となる。夏の夜に遠出をして佐保川の蛍の舞いも楽しんだ。 

「この様子だったら、大和から脱出できるかもしれない。舟を確保して佐保川を下っていけば河内湾から瀬戸内海に出られる。淡路島に着けば吉備と讃岐は目前だ。吉備か讃岐が無理だったら、小豆島に潜んでもよい」

 

 絹織物の商人タドマツがトヨの住居に出入りするようになった。市場よりも高い値で織物を買っていくので、トヨたちを驚かせた。代金は米で支払う場合が多かったが、佐保の市場で売っている米よりも良質だった。

「このご時勢で、いったいどなたが織物を購入されているのですか」

「世間は広いですから、中には大金持ちもおりますさ」

「誰なのですか。トヨさまも知りたがっています」

「あまり口には出せませんが、王族のタケハニヤスビコ夫妻も上客ですよ」

 

 タドマツはよくタケハニヤスビコ夫婦の話しをした。かなり親密なようだった。

「一度、タケハニヤスビコ王の御殿に皆さんでお越しください。王妃のアタヒメもぜひトヨさまにお会いしたいと申しております」

オオビビ王の弟で王位を継承すると吹聴していた、あのタケハニヤスビコは大富豪なのか。トヨは愛想笑いを浮かべタケハニヤスビコを思い出した。如才ない応対振りだったが、何か作り事をしている印象が残っている。このご時節で大富豪というのも不思議だったあの男には用心しておいた方が無難だ。

 

 トヨは何度誘われてもタドマツの誘いに乗らなかった。あまりのしつこさに、一度だけスミレカエデを連れて八尾の湊に面するタケハニヤスビコ王の御殿を訪れた。

「びっくりするほど豪勢な御殿に住んでおりました。警備が厳重で、ゴロツキのような、得体の知れない男たちがごろごろしていました」、「八尾の町に吉備の人らしき者も見かけました。ヒミコさまの陵墓に飾られていた大きな特殊壺と器台にそっくりなものが墳墓に置かれていました」との報告に、トヨとアヤメは半信半疑で顔を見つめあった。

 

アマテラスとオオクニタマ

治世六年(二七三年)

 旧暦正月の宮廷での儀式をめぐって御所派と磯城派の二派が対立した。九州の日向由来の伝統と磯城国の伝統、しきたりが異なっていることが原因だった。

王家の故地である御所派は祖神のアマテラスを祀ることを主張した。地元の磯城派は蛇神でもあるオオクニタマを優先することを言い張った。王家の祖神のアマテラスは故地の日向で祀るべき、との意見もあがったが日向は遠すぎる。祭祀のやり方でも対立した。語り部も神話の始まりをアマテラスから始めるか、イザナギ・イザナミから始めるかで、一騒動も二騒動もあった。水掛け論ばかりで収拾がつかない。オオビコも尾張オオマツも妙案は浮かばなかった。

 

仕方なくミマキ王は、喧嘩両成敗の形でアマテラスとヤマトオオクニタマを宮中から放した。三輪山麓の笠縫村の磯堅城(しかたき)にヒモロギが作られ、アマテラスを祀る桧原(ひばら)神社が造られた。ヤマトオオクニタマは王宮から少し離れた長柄(なが)に遷された。

ミマキ王は暗うつの毎日だった。どん底だ。どうするか。空回りするばかりだ。即位すべきではなかった。王位を放棄してしまうことも考えた。農民の棄民は続き、朝廷にはむかう者、小規模な一揆も多発していた。

 

 春日でのトヨたちの生活も困窮していった。米の支給がほとんどなくなった。雑穀の支給すら遅れがちとなっきた。幸いにトヨとアヤメが織る織物が生活費を稼いでいた。出入りするタドマツが必要品を手配する時もあった。佐保の市場殺伐として、さびれていく。わずかに野鳥や鹿、猿、熊、猪の野獣を売る出店があるだけで、陶器や雑貨、衣料を売る出店が消えていった

 

 

三.トヨとの出会い

トヨの大和脱出

治世六年(二七三年)春~夏

トヨは食事中に器台からふと手をとめた。

「吉備に戻りましょう。この国は滅びます。吉備か讃岐に戻って出直しをしましょう」

 アヤメとスミレはきょとんとして眼を見合わせた。

「でもどうやって大和から脱出するのですか。何か手立てはありますか」

 手立てとなるとトヨも困った。

「駄目かもしれないが、タドマツに相談してみてはどうだろう」

 

スミレが伝令役となって、春日脱出作戦が密かに進行した。脱出作戦をもちかけられたタドマツ驚いた顔をしたが、費用が出るならと引き受けた。タドマツが求める経費を捻出するため、トヨは讃岐から持参した持ち物を売り払った。計画は大和川から河内湾に出て、大和軍の警戒をかいくぐって瀬戸内海の備前か讃岐の海沿いの村まで三人を運ぶという筋書だった。河内湾に入ったら、用心して三人は男装して漁師に偽装する。無謀ではあるが、他に大和脱出の手段はなかった。無事に備前か讃岐に着いたら、住民が三人をかくまってくれるだろう。その後は神さまが何とかしてくれるだろう。

 

「お父さん、この頃、なぜだか頻繁にタドマツがやってきますね」

コイワの一言でナガヒコも異変に気づいた。ナガヒコは早くからタドマツを警戒していた。タドマツは善良そうな顔を装ってはいるが人さらいの噂もあり、ナガヒコは勘でうさんくさい用心すべき人物とにらんでいた。戦利品を横取りしているとの悪い噂が広まっているタケハニヤスビコの御殿に出入りしていることも人づてに聞いている。 

スミレさんたち内緒で所持品を市場で売り払っていますよ」

 カエデの話で合点がいった。これはきっと何か起こるに違いない。ナガヒコは吉備のイサセリビコに急使を送り、至急、大和に戻るように伝えた。内々に夜間の見張りを増やした。

 

 二か月後、タドマツは佐保川の市場から舟で脱出するてはずをつけた。脱出は夏の早朝だった。まだ暗いうちに、すでに逃走用に細工をしていた茂みから木柵をかいくぐり、林の中をぬいながら佐保川に向かった。しかし見張りが三人の脱出をしっかり目撃していた。すぐにナガヒコに伝えられた。ナガヒコは兵士たちを呼び集め、トヨたちよりも先に佐保川の船着場につき、様子をうかがっていた。

 

空が明かるくなる頃、しめし合わせた場所で三人はタドマツと落ち合うことができた。タドマツはトヨをタケハニヤスビコに引き渡す段取りを済ませていた。

小舟に乗ろうとした時、突然、草陰からナガヒコと兵士が現れて、タドマツたちを追い払った。

 

 トヨたちはあっけにとられて立ちすくんだ。

「トヨさま、危ないところでした。タドマツは人さらいですよ。どこに売り飛ばされていたかしれません」

「まさか」

「いえ、本当です。とにかく私を信じて、舟にお乗りください」

 

ナガヒコと三人を乗せた舟は佐保川を下っていく。前後に護衛の舟がついた。思いも寄らないなりゆきにトヨたち呆然とするだけだった。 

 佐保川と初瀬川が合流する平端(ひらはた)で舟から降ろされ、番人小屋に閉じこまれた。数人の兵士が見張りをしていて逃げ出すことはできない。隙間から外を覗くと、河畔で白サギが三匹、川底を漁っている。私たちと同じ三匹だ。白サギになって吉備か讃岐に飛んでいくことができたら。何とか自由な身になりたい。

 

悄然としたまま数時間たったあと、扉が開いた。イサセリビコが立っていた。

「また、あなたですか。また私を騙しに来られたのですか」

「トヨさま、お気持は分かりますが、どうか早まらないでください。ナガヒコから急報を受けて、吉備から駆けつけたばかりです。明日にでもトヨさまにお目にかかろうと思っておりました。是非とも一度、ミマキイリヒコ王にお会いください」

 

 無理やり乗せられた舟は平端から大和川を左折して初瀬川に入り、三輪山に向かっていく。行き先は分からないが、トヨは牢獄行きを覚悟した。

「もうこれまでだ。神さまたちは私に味方してくれなかった。いっそのこと川に飛び込んでしまおうか。でも飛び込むにしては浅すぎて、話にもならない。情けないことだ

 

ミマキ王との出会い 

初瀬川畔の海石榴市(つばきち)に着くと、イサセリビコは緊張と不安の面持ちの三人をいきなり金屋の王宮に案内した。侍女二人は外宮で待たされ、トヨだけがイサセリビコと内宮に入った 

すでに急使で連絡を受けていたミマキ王はトヨを待ち受けていた。吉備の女王はどんな人物なのだろう。どうせ大した女性ではないだろう。会ってみたい好奇心はあったが、さほどの期待感はなかった。

 

イサセリビコと一緒に現れたトヨを見てはっと胸がときめいた。高慢な女性像を思い描いていたが、小柄でやつれた顔をしているものの、これまで出会ったことがない気品をたたえている。これこそ本物の貴人だ。なぜもっと早く出会っておかなかったのだろう。 

トヨも父王オオビビと異なる風貌のミマキ王に驚いた。体格は父より劣っているが、聡明そうな顔をしていた。この人はただ者ではない。カリスマ的な華やかさはないが、二人には共通点があるようだった。

 

「父のお后になるために大和にお越しいただいたようで」

「いえ、私はそんなお話は聞いたことはありません。私は人質として大和にまいっただけです」

「春日での生活はいかがです」

 

トヨはもう、なるようになれとなげやりだった。今さらおべんちゃらを言って何になる。きっとなって、ミマキ王を見つめ返した。

「このままではあなたの国は滅びますよ」

ふいをつかれた年若いミマキ王はむっとなった。

「それでは、あなたが王だったなら、どうされます」

あなたのお国は農民も兵士も疲弊しております。まず農民の負担を軽くすることです。私なら、一年か二年間、無税にいたします。賦役もなくします」

「そんな無茶な。そんなことをしたら、兵士や役人に俸禄を払えないではないですか」

ミマキ王が苦笑する。

「王室の財宝を放出すればよいのです」

「それは無謀というものです」

「王室を支えるのは農民の年貢です。年貢を払えないほど農民は疲弊しています。すると王室も国も疲弊し、国は滅びます。農民を税でいじめると国は栄えません。王室の財宝を市場に放出すればよいのです。王室が率先すれば、貴族や豪族たちも従わざるをえないでしょう」

 

 トヨは一気呵成に言い放った。同席するイサセリビコもトヨの大胆な発言に度肝を抜かれた。

「……」

ミマキ王は返答できなかった。確かにトヨの言うことに一理はある。しかし無税など、絵空事にすぎない。

 

「鶏が先か、卵が先か。あなたは卵ではありません。鶏です。鶏が卵をかえしてヒヨコを育てるのです」

確信にあふれたトヨの言葉に、ミマキ王はトヨに国を統治する資質を感じとった。さすがに大国の女王は常人とは違う。ただ者ではない。何かを持っている。じっと考え込んだミマキ王を見てトヨも若き王は、無骨だった父親のオオビビ王よりも資質が高いことに気づいた。でも私は何でここまで言い切ってしまったのだろう。二人は見つめあいながら、孤独な王の座にある者同士しか分からない、以心伝心の何かを感じあった。

 

 トヨには無税を言い切るだけの裏づけがあった。美作で冷害がおきた時、東部の郷では飢饉がひどくなったが、西部の郷では被害は軽度でおさまった。不審に思った王室が内偵すると、東部では農民への課税が高く、賄賂も横行していた。西部では飢饉が始まると、豪族が財宝を放出して日本海から来る行商人から穀物を買い、農民に分け与え、翌年まで無税とした。

 それを教訓として、日照りで讃岐地方が凶作となった年に、トヨは周囲の反対を押し切って、王宮の財物を放出して米や雑穀を確保して配布した。以来、女王トヨは讃岐で絶大な信頼と尊敬を勝ち得た。

 

「兵士たちはどうします」

「兵士たちは、きちんと報酬をもらえるなら、上に従います。規律も戻ります。農作には灌漑用の池も必要ですから、兵士に灌漑用の設備を整備させていくのです。これで農産物の収穫が増え、国家の経済も順調に機能していきます

 

 ミマキ王は目からウロコが落ちる思いだった。さすがに邪馬台国の女王は違う。確かに道理に適っている。飢饉に対応する経験もあるようだ。

「しかしつき詰めると、王室の財宝が消滅していくことになります

「大和に入る関所の役人の賄賂を取り締まれば良いのです。関所の管理をしっかりやれば、出入りする商人たちが支払う関税が、王室の強固な財源となります」

 

 やはり大国を統率してきた女王は違う。自分はそこまで考えが及んでいなかった。

「トヨさま、春日から金屋に移って、あれこれお知恵をお貸しください」と唐突に告げ、頭を下げた。

 今度はトヨが驚いた。ミマキ王の言葉は本心なのだろうか。トヨは改めてミマキ王を見つめ直した。目が輝いている。誠実さに加えて、頭の回転も速いようだった。覚悟していた暗闇に旭光(きょっこう)が射した思いだった。外宮で待機していたアヤメとスミレも胸をなでおろした。二人も牢獄行きを覚悟していたという。

 

トヨが金屋に

治世六年(二七三年)秋 

 初秋になってトヨが金屋に招かれた。ミマキ王が急ごしらえした住まいだったが、大和に来て七年目で初めて高殿の住まいとなった。トヨは三八歳になっていた。王宮は河畔の海石榴市から数百メートルほど先の、三輪山の麓の高台にあった。王宮ができてから整備されたのだろう、王宮まで若木のケヤキ並木の道となっていた。王宮の右手に棟、左手に二棟の高殿があった。右手の高殿にはミマキ王の母イカガシコメと尾張オオシアマヒメ、左手の高殿には紀伊のマクハシヒメが住んでいた。トヨにはマクハシヒメの隣棟があてがわれた。新築で杉とヒノキの香りがきついほどだったが、竪穴住居の煤で黒ずんだ薄暗さと湿気から解放された。アヤメとスミレの部屋もあった。食事も召使いが作るという。

 

「でも、大和の召使いが作る料理はさぞかしまずいでしょうね」

スミレの言葉に三人は爆笑した。吉備の王宮を逃れて以来、忘れていた笑いだった。アヤメとスミレの表情が明るくなっていくのトヨには嬉しかった。河内からの早便でタイ、ヒラメの刺身を食べられるようになった。何年ぶりのことだろう。東方の伊勢から届くサザエとアワビも堪能できた。イサセリビコはトヨの新生活を見届けてから、吉備に戻っていった。

 

敵国の女王を王宮の近くに招いて、ミマキ王はどうするおつもりだろう、と后たちがいぶかった。ミマキ王は二五歳、トヨは一回りほど年上で后にするには、年令は離れすぎているものの、外戚のオオビコや尾張オオマツも警戒心を強めた。

トヨに好意を示したのは隣人となったマクハシヒメだった。息子のトヨキイリヒコと娘のトヨスキイリメはすぐにスミレになついて、よくトヨの高殿に遊びにきた。春日のコイワとカエデに代わって新しい弟と妹ができたようだ。 

ミマキ王の母イカガシコメとも対面した。不思議に気心が通じあった。イカガシコメは先々代クニクル王と先代オオビビ王、二代の后だったと聞いた。吉備を攻め滅ぼした二人の王の后だった女性と気心が通じ合うというのもおかしな話だと複雑な気持になった。私がオオビビ王の后にとりこまれていたなら、イカガシコメの態度も違っていたことだろう。

 

 秋の米の収穫を目前にして、ミマキ王はトヨの助言どおり大和盆地全域の農民に無税を公布した。王族や豪族は気が狂ったのかと唖然とする。財務大臣も正気の沙汰かと息を飲みこんだ。誰もがミマキ王を諌めたがミマキ王は泰然としていた。オオビコたち外戚に頼らない、ミマキ王自らの治世の始まりとなった。 

父王のオオビビの時代から軍事費の増大で重税にあえいでいた農民ですら、若き王はとうとう気が狂ってしまったと嘆いた。次第に無税の公布が本当だと分かると、大和盆地の村々に狂喜の波が渦巻いていった。農民は収穫したばかりの米を市場で売り冬用の衣服や農具、雑貨を買った。海石榴市や纒向など各の市場がにぎわいを取り戻していき、どこからともなく棄民も戻ってきた。

 

「無税という破天荒な思いつきはトヨの入れ知恵に違いない」

「若き王は気がふれてしまわれた」

「父王と同様に吉備の伝染病に感染してしまったのだ

 

 王族、家臣のほとんどが無税化に反対した。豪族たちの抗議を背景にオオビコたちがミマキ王を改心させようと試みたが、逆に「お前達の財宝市場に放出して、兵士たちの食料、俸禄を工面しろ」と若き王に一蹴された。

まずイサセリビコ一族が率先して宝物を手放した。なりゆき上、オオビコ、尾張族、ワニ族もしぶしぶ従わざるをえなくなった。これまで貯めこんでいた吉備、北越、丹波、播磨の戦利品や銅鏡を放出した。俸禄を支給された兵士に秩序が戻り、軍隊は再編制されていった。晩秋から冬にかけて、ミマキ王は兵士を使って貯水池を作り、農地の灌漑設備を整備させた。 

無税化して王室や家臣が宝物を放出すると、どこからともなく米や雑穀、物資が市場にあふれるようになった。豪族や兵士がくすね、農民や商人が隠匿していた物資だった。大和盆地の治安が回復し、支配地からの戦利品も都に入るようになり、関所での通交税と市場税の収入が無税化を補っていった。ミマキ王即位六年目でようやく歯車がからみあいだした。

 

金屋に移ってから、トヨは王族の待遇を受けるようになった。年間の手当ては二石から三倍の六石となった。アヤメとスミレにも召使いがつくようになった。しかし案の定、召使いが作る食事は口が合わず、アヤメとスミレが作った。アヤメは織物、スミレは舞いを貴人の子女に手ほどきするようになった。スミレはことにマクハシヒメの娘トヨスキイリビメに熱心に舞いを教えた。トヨも琴を弾くようになった。トヨスキイリビメは吉備の神話が紀伊の神話に似ていることに気づき、トヨにあれこれ質問をする。

ミマキ王は何かにつけてトヨを内宮に招き、トヨに意見を求めるようになった。アマテラスとオオクニタマの処遇をどうするかで悩んでいたこともあり、ことに吉備の神々について質問をする。

 

「倭の国をお造りになったのはイザナギ・イザナミさまです。まずこの夫婦神をお祀りする必要があります」

「しかし王家の祖先神は初代イハレビコ王以来、アマテラスさまです」

「アマテラスさまはよく知りませんが、オオクニタマの祖神はスサノオさま、その両親はイザナギ・イザナミさまです」

「オオクニタマは吉備の神々の系譜に属するのですか」

「イザナギ・イザナミ夫婦が国造りをされた後、太陽神オオヒルメ、月神ツキヨミ、嵐神スサノオなど数々の神々をお造りになりました。その後、オオヒルメとツキヨミは天に上り、オオヒルメは昼を、ツキヨミは夜を司っています。スサノオは大地に降りイナダヒメとカミオオイチヒメのお二人を后にされました。オオクニタマはカミオオイチヒメの子神の系統です。吉備ではイナダヒメの系統が栄え、子神のオオナムチが国土開拓神となりました。オオナムチは吉備ではオオモノヌシ、出雲ではオオクニヌシとして崇拝されています」

「なるほど、神々のしっかりした系図ができているわけですね

 

ミマキ王は、吉備と大和の神々を比較しながら、アマテラスは吉備のオオヒルメ、オオクニタマは吉備のオオモノヌシに該当すると理解していく。大和の国も神々の系図をきちんと整えていかねばならない。

 

急にミマキ王が真顔になった。

「トヨさま、吉備王国の象徴である弧帯文を使用しても構いませんか」

「なぜですか? なぜ大和は敵だった王国の象徴が必要なのですか?」

「トヨさまだから正直に申しますが、倭国の盟主が吉備から大和に遷った証しが必要なのです。征服した国々への求心力、説伏に必要なのです」

  トヨは返答を躊躇した。

 

オオモノヌシ勧請(かんじょう)

治世七年(二七四年) 

 旧暦正月の纒向まきむくの市場はかつてないにぎわいとなった。トヨは七日ごとに開かれる纒向の太市を訪れるのが楽しみになった。護衛はついたものの、女王時代にはなかった自由を堪能することができた。

瀬戸内海の良質の焼き塩とギョショウも出回るようになった。タイ、ヒラメ、イカ、タコ、アナゴやハモも出回っていた。市場は人並みでごったがえしていた。重税にあえいでいた農民たちも家族総出で物珍しげに出店を覗きながら、持参の米と商品を交換している。吉備津の市場の熱気を思い出した。

 

サイコロ賭博や闘鶏賭博に人が群がっていた。山から物を売りに来た人たちが巻き上げられていた。猿回しやツキノワグマの曲芸に人が群がっている。若い男女の歌垣の輪もあちこちに見える。見るもの、聞くものが珍しい。

「吉備津の市場と同じだね。あの派手な色のヒレをつけている女性は何者なの?」

「あれは浮かれ女ですよ」

 

トヨは大和にこれだけ雑多な人たちがいたことに驚いた。佐保の市場とは大違いで、もはや海から離れたひなびた山国とは言えなかった。東は近江までしか知識がなかったトヨは、東海、北陸の物資と人間が物珍しかった。初めて見た東国の住人は瀬戸内海の人間よりも体格が頑丈で、ヒゲが濃く彫りが深く眉毛が盛り上がっている。北陸の人間は吉備、伯耆の人間とさほど変わらなかった。入れ墨の仕方も出身地で異なっている。宗像の交易人、阿波忌部の商人に加えて、伊予の大三島系の人間もいて驚いた。吉備津の市場と異なる点は、伽耶国や帯方郡など朝鮮半島の交易者を見かけないことだった。 狗奴国は東と北に領土を拡げて強国になったのだ」。狗奴国の強さの源泉を知ると同時に、トヨははっと自分の誤りを悟った。私はあまりに帯方郡に頼りすぎていたのだ。私は瀬戸内海と帯方郡を結ぶ地域にしか眼中になかった。倭の国々、ことに東の国々との交流と交易を増やすべきだったのではないか。北陸や東海地方の存在すら私は希薄だった。

 

 阿波の商人の出店で珍しいものを見つけた。特産の青石、赤石の加工細工に並んで、大きな黄色いガラス玉のような宝飾があった。

「これは何なの?」

「コハクと申します」

 ああ、これが評判を聞いていたコハクなのか。

「でも阿波国でコハクが採れるのですか」

「阿波ではなく、安房で採れます」

「アワはアワでしょ?」

「安房は阿波の住民が東国に打ち建てた新しい国です」

「東国に新しいアワの国ができたということですか」

「大和が阿波を攻めた時、阿波の南部の住民が船で逃げました行き着いた先が東国の房総半島の先端で、故郷を偲んで安房の国を建国しました。安房近辺の浜辺からコハクが採れるそうです」

 

 時代の風は西から東に吹いていることを実感した。阿波の人たちは安房に新天地を見出したのだ。

「あら、この壷はどこか吉備の壷に似ていますね。吉備の陶工が大和にもいるのかしら」

 トヨは露天に並ぶ壺を手に取った。この頃から庄内式に代わって新タイプとして市場に出回るようになっていた吉備・伯耆の陶器の影響を受けた布留式だった。

 

「やはり女王さまだ。トヨさまだ。噂どおり、ご無事だったのだ」

露天の商人が突然、歓声をあげてトヨにひれ伏した。数人が駆け寄ってきて、地べたに額をつけ「トヨさま、トヨさま」とトヨを拝んだ。 

「やはり、吉備の人たちでしたね。あなたたちもご無事でよかった。今はどこにお住まいですか」

「私どもは備前から和泉に徴発され、和泉で陶器造りに従事しております」

 

 その夜、トヨは熟考した。身分は落とされただろうが、吉備の人たちは無事に生ていた。大和に敗れた阿波の忌部族は安房の国を建国した。時代が変わっても人々はたくましく生きていく。

 

二七四年四月

大和盆地の治安は収まったが、相も変わらず瀬戸内海のゲリラと盗賊の出没に大和軍は頭を痛めていた。日本海側でも伯耆のゲリラの抵抗が継続し、出雲への西進を阻んでいた。

 

「ミマキさま、思い切ってオオモノヌシを大和にお招きされませんか?勧請していただけますなら、吉備の弧帯文をあなたにお譲りします。あなたは倭国の盟主としての資質を充分にお持ちですから」

 ミマキ王はふいのトヨの申し入れに驚いた。

「吉備の神さまのオオモノヌシを大和に勧請するのですか。オオモノヌシは吉備のどこにお棲みなのですか」

「瀬戸内海と穴海を見下ろす吉備の熊山にお棲みです。瀬戸内海を平穏にするには、大和にオオモノヌシを招くしかないのではと思います」

 ミマキ王は即答を避けて考えこんだ。トヨの申し出は常識を越えていた。敵国の神さまを大和の聖山である三輪山に勧請する。オオビコや尾張オオマツを筆頭として臣下たちが反対するのは目に見えている

 

春三月末になって、ミマキ王はトヨを伴って笠の浅茅原(あさぢはら)のヒモロギに出かけて、八十万(やそよろず)の神々に祈った後、占いをした。すると前触れなしにトヨに神がかりした。トヨはうわごとのようにつぶやいた。

「汝は国をうまく治められないことを憂うことはない。私を祀れば倭の国は平穏となる」

「あなたはどなたでしょうか」

「わしは倭国の域内に住むオオモノヌシだ」

 

 すぐにミマキ王はオオモノヌシを祀らせた。しかし良い兆しは出現しなかった。やはり吉備の神さまを大和に招くには無理があるようだ。

 念のため、ミマキ王は沐浴をして王宮を清めた。就寝すると夢にオオモノヌシが現れた。「愁うことはない。国が治まらないのは、私の意志による。オオタタネコにわしを祀らせれば、すみやかに泰平となる。域外の国も帰服してくる」

 

オオタタネコとの再会

二七四年九月

それから数か月が経過した後もミマキ王はトヨの神がかりのつぶやきと夢に現れたオオモノヌシが頭から離れなかった。一つの賭けだが弧帯文を使用できるなら、名実共に大和は倭国の盟主と認知される。ミマキ王はオオモノヌシの大和への勧請案を慎重に進めた。義父のオオビコと尾張オオマツには内密に、母イカガシコメの実家である穂積氏大水口宿禰、伊勢臣麻積をみ君など、傍系の氏族をからめ手から説得していった。

 

 秋に入って、トヨ、穂積氏、伊勢臣の三人から、同じ夜に一人の貴人が夢に現れ、「オオタタネコにオオモノヌシを祀らせるなら、必ず天下泰平となる」と語った、との報告があった。

 オオタタネコはオオモノヌシを祀る神官であるようだ。トヨにオオタタネコの素姓をたずねると、備前の熊山の麓に住んでいるはずだ、という。吉備に急使を送り、イサセリビコにオオタタネコを探させたが、行方が分からないとの返事が戻ってきた。

 

ミマキ王は畿内中におふれを出して、オオタタネコの居場所を捜させると、オオタタネコは和泉の陶邑(すえむら。古事記では美努みの村)に住み、吉備の陶工たちを束ねていた。

オオタタネコを金屋に呼び寄せ、笠の浅茅原のヒモロギで臣下を従えてオオタタネコに試問した。確かにオオモノヌシを祀る家系の人物で間違いはなさそうだ。トヨを呼び出し対面させると、二人は手を握り合って再会の涙を流した。吉備の王宮での祝宴以来、八年ぶりだった。

 

オオモノヌシの勧請に対して、想像した通り宮中では反対の声が多かった。

「それでは、瀬戸内海のゲリラをどう撃退するのか。ためしにオオモノヌシを三輪山に勧請してみて、その結果を見てみよう。失敗だったら、勧請をとりやめればよいだけの話だ。オオモノヌシと一緒に、吉備の弧帯文も勧請することをトヨさまが同意された。これで吉備から大和への禅譲が成就し、名実共に大和は大倭国となる」

「これを機に大和の神々もきちんとお祀りする。大和の神と吉備の神が一緒になれば、倭の国はますます栄えていくことになる」

 

 ミマキ王の説き伏せにオオビビたちもしぶしぶ承諾した。トヨの助言に従って無税化が成功していたこともミマキ王に味方した。神々を祀る儀式、体制を整備していった。天つ神を祀る天社と国つ神を祀る国社、神地と神戸が定められた。

 

二七四年一一月

トヨはオオタタネコを高殿に招いた。オオタタネコはトヨが王族の扱いを受け、アヤメとスミレも元気な様子を見て、胸をなでおろした。

 

「噂では、トヨさまは春日で悲惨な生活を余儀なくされておられると聞いておりましたので、安堵いたしました」

「あなたもご無事で安心しました。私は大和軍が吉備、讃岐の人々を虐殺しないという条件で人質になることに同意して、大和にまいりました。備前、美作、讃岐の住民はどうされておりますか

「ある者は河内や和泉の原野に開拓民として送り込まれました。屈強な男たちは兵士に狩り出されて前線に送られました。私は備前の陶工たちと一緒に和泉に送られました」

「皆殺しや虐殺はありませんでしたか」

「飢えには苦しみました。大和の兵士たちの強姦も聞いています。しかし虐殺行為は私の知る限りではなかったようです」

「でも周匝の町は大虐殺で全滅したと伝え聞きましたが」

「確かに周匝は全滅し、宗家の方々も全員、憤死されました。大和も行き過ぎたと感じたのでしょう。それ以後は虐殺された町や村はなかったようです」

「吉備に残った農民や住民はどうしています」

「土地を大和勢に奪われたり、私どものように徴発されて吉備を離れざるをえなかった者もおりますが、残った農民は奴隷の身分まで落としこまれることはないようです」

 

トヨは胸をなでおろした。吉備、讃岐の住人は生き残り、吉備の文化も残っている。西播磨、美作、備前での大和による支配は私が恐れていたよりは穏やかに進んでいるようだ。 

イサセリビコは私との約束を守ってくれたのだ。私が人質になったかいもあった。イサセリビコに対する不信感が少しは薄らいだ。

 

「中臣のアメノコヤネ族も無事でしょうか」

「アメノコヤネを祀るカムキキカツ(神聞勝)たちは河内の信貴山麓の恩智(おんぢ)に移住しております。近くに天の岩戸も祀られたようです」

「信貴山が新しい高天原となったのですか」

「少なくとも信貴山から朝日を拝め、瀬戸内海が臨めますから」

 トヨは春日の里から毎日のように眺めた信貴山の連峰を思い出した信貴山の側にアメノコヤネ族たちが移住していたのか。

 

「舟が河内湾に入ってから、ハタミツ、トリヲ、タケカシマの三人と別れてしまいました。三人の消息を知りませんか」

「さあ、存じません。新市にいたタケカシマの父君も私と一緒に和泉の陶邑に送られました。いつもタケカシマの行方を心配しておりましたが、残念ながら病いに倒れて先立たれました」

「河内湾で三人がはぐれた話は、タケハニヤスビコ一味のたくらみのような気がします。タケハニヤスビコは天下を狙っている、との噂を耳にしますし、吉備から連れてきた陶工に特殊壺っと器台を造らせている、との話も聞きます」

 

邪馬台国から大邪馬台国(大倭国)への禅定

治世八年(二七五年) 

大和盆地に平穏が訪れ、盆地を取り巻く青垣の緑も、心なし生き生きしてしてきた。病疫が終息し、帰還兵士の略奪行為がなくなり治安が回復した。五穀も豊かに実り、農民たちの顔つきがふっくらしてきた。トヨの大和滞在は九年目に入っていた。

 

 宮中や巷では、巫女(みこ)としてのトヨの評判が高まった。モモソヒメはさすがに吉備の女王だけのことはある。外戚たちもトヨに一目を置く、敵国の女王に対してそれなりの敬意を払うようになっていた。ただ、トヨの評価と人望が高まるにつれ、正后ミマツヒメだけは気が気でなかった。

ミマツヒメは、紀伊のマクハシヒメが自分より先に長男トヨキイリヒコを生んでいるため、トヨスキイリヒコが後継の皇太子になるのではないかと気をもんでいた。世間ではミマキ王とミマツヒメは従兄弟同士で仲がよいように見られているようだが、ミマキ王はなぜだか自分を疎んでいるような気がする。マクハシヒメといる時は笑い声を出すのに、自分といる時はむっつりしていることが多い。 

 トヨは紀伊のマクハシヒメと気があっているようだ。大和に来てから初めて気を許せる友人ができたとトヨが喜んでいる、という話も聞こえてくる。マクハシヒメはトヨに神がかりのお告げをさせて、私の息子イクメイリビコをさしおいて、トヨスキイリヒコを皇太子にしようと企んでいるのではないか。

 

夏六月、天理の櫟本(いちのもと高橋邑のイクヒが三輪の神の酒人に任命され、新米が収穫される秋になって、オオタタネコの指示で吉備の杜氏(とじ)が吉備流の酒造りを伝授した。

 

 旧暦二月、オオモノヌシ勧請を祝して三輪山の麓に豪華な拝殿が完成した。オオタタネコが三輪の大神を司どる神主に任命され、三輪君の姓を賜った。拝殿の落成を祝って盛大な祭りが催され、真冬にもかかわらず多くの者が集った。拝殿に詣でた人々は大和で初めての豪奢な神社建築を目のあたりにして、大和が倭の王者になったことを実感した。巷では、倭国を護る白蛇が吉備から三輪山に移り住んできた、との風評が流れていた。

 

 オオタタネコの先導で巫女たちが登場した。先頭はスミレだった。後に続く乙女たちはスミレの生徒たちでマクハシヒメの王女トヨスキイリヒメもいた。乙女たちはオオモノヌシに奉げる舞を演じた。晋への遣使の旅立ちを祝った舞と同じだった。舞台が三輪山ではなく吉備中山であったなら、どれだけよかっただろう。あの時の主役は私だった。今日の主役はミマキ王だ。

 

イクヒが自ら醸造したお神酒(みき)をミマキ王に献上した。

(歌謡)このお神酒は私のお神酒ではない 倭国を造られたオオモノヌシが醸造したお神酒だ  倭国が永久に栄えんことを

 祝宴が始まり、ミマキ王は列席した諸大臣に明言した。今宵だけは無礼講とする。大判振る舞いをしよう。

(歌謡)美味い酒をたんと朝まで飲みあかせ 酔いしれて 三輪の門を開けて朝帰りすればよい

 

 ミマキ王は即位後、八年目にして初めての幸福感、充足感に酔いしれた。ようやく倭の盟主となったことを実感した。

トヨはミマキ王の嬉しさがよく理解できた。ミマキ王の悦びを分かち合っている自分が不思議だった。敵国の王なのに、身内の弟のような気がした。九年前の晋への遣使の旅立ちを祝う祭りの時の自分を思い出した。でも私の悦びは数日でしぼんでしまった。ミマキ王の悦びはずっと続いて欲しい。

 

治世九年(二七六年)

しばらくしてイサセリビコの同腹の兄ヒコサシカタワケが病死した。ミマキ王とイサセリビコは、トヨに吉備の特殊壷と特殊器台の製作を願い出た。大和にとっては倭国の盟主の象徴である弧帯文を使う絶好の機会到来だった。

 

 オオタタネコは初めは弧帯文を入れた特殊壷・器台の製作を嫌がった。

「トヨさまのご命令ではありますが、なぜ吉備の王家の象徴を大和の王家のために使わなければならないのですか」

「吉備は大和に敗北しました。今となっては吉備が大和を打ち破ることは不可能です。私は吉備の神さまであるオオモノヌシを大和に勧請することの見返りに弧帯文をミマキ王に譲りました。邪馬台国の首都、魂は吉備から大和に移ったとお考えください。オオモノヌシを大和に勧請したお陰で、あなたも復活され、三輪君の称号を賜りました。勧請がなかったなら、あなたは和泉の村で朽ちはてていたことでしょう。あなたは新しい倭国の神官に生まれ変わりました。ミマキ王は邪馬台国の王家の紋章を背負うだけの資質をお持ちです。統一倭国の王としてふさわしいお方です。吉備王国は消滅しても、吉備邪馬台国の魂は残るとお考えください」

 

「トヨさまがそこまでおっしゃるなら、いたしかたありません」

 オオタタネコは和泉の陶邑から陶工を呼び集め、大和の陶工も加えて作業を始めた。向木見形を踏み台にした宮山形の特殊器台、都月型埴輪や円筒形埴輪が造られた。トヨもミマキ王と一緒に作業所を訪れた。吉備の陶工たちは故郷に残してきた妻子を大和に呼び寄せることも許可された。

 

 ヒコサシカタワケの葬礼でトヨは吉備から上って来たイサセリビコと再会した。

「オオタタネコから美作、備前、讃岐の住民の虐殺はなかったと聞きました。約束を守ってくれたのですね」

「ようやく疑念がはれましたか。トヨさまのおかげで吉備から大和への禅定が達成でき、私の苦労も実りました」

「王宮はどうなっています」

恐れながら私たち一族が住んでおります。若干の改装はしましたが、トヨさまがおられた頃とほとんど変りはありません」

「ヒミコさまと楯築王の墳墓は無事でしょうか」

「ご安心ください。部下たちに、下手にいじらぬように命じております。住民たちが毎日、花を供えております」

 

 王宮の財宝はどうなったのだろうか。大和の手にわたったのだろうか。それにしてはミマキ王もイサセリビコも吉備の財宝についてあまり口にしない。

 

「河内湾で見失った従者三人の行方は分かりましたか」

「私も気にかけて行方を追いましたが、消息は分かりません。申し訳ありません」

イサセリビコがウラの最後をトヨに語った。

「私はその場におりませんでしたが、ウラ将軍は敵ながら、あっぱれな戦いをして見事な死を遂げたと聞いております」

 

うは答えたものの、イサセリビコはいまだにゲリラ兵に悩まされていた。九年がたってもウラの怨念も続いていた。野ざらしにされたウラの首は何年たっても大声を発してうなり響いて止まらない。

「アソヒメはどうされましたか」

「アソヒメとはどなたのことですか」

「ウラ将軍の夫人です。確か鬼城山の麓に住んでいるはずです。アソヒメを大事にしてあげてください。ウラ将軍もあつく祀ってください」

「分かりました。お約束します。ところでトヨさまは、オニ(王丹)という人物をご存じでしょうか。吉備の残党を率いるゲリラの首領で、中々しぶといツワモノです。大和の兵士たちは鬼が来るといって、非常に恐れています」

 

ウラの弟オニは生き延びていたのだ。吉備の復活をめざして、九年間も頑張ってくれているのだ。

「いえ、存じません」

トヨはオニについては知らないそぶりをした。

 

治世九年(二七六年)五月

オオモノヌシが三輪山に鎮座した後、不思議なことに瀬戸内海での吉備勢力ゲリラの出没が次第に薄らいでいった。ゲリラたちはトヨが健在で、オオモノヌシが狗奴国に勧請されたことを知ったらしい。女王トヨはミマキ王の信頼を得ている、オオタタネコはオオモノヌシを祀る三輪君の称号を得たという風の便りが吉備にも伝わった。

 

吉備に戻ったイサセリビコがトヨとの約束をすぐに実行して、吉備津にウラを祀る御殿を作り、アソヒメを探し出して守り役にした効果もあった。伯耆のタケカガミがとうとう、白旗をあげた。ゲリラから恭順した者は穏便に扱われた。オニと配下たちは賀陽郡に住みつくことを条件についにオニ勢も恭順した。

 

大和盆地に入る東の宇陀の墨坂、西の大坂、南の風の森峠、北の奈良坂と、四方にある関所が整備され、市場税と通行税を徴収する体制が固まった。墨坂の神には赤色の八つの楯と矛を祀り、大阪の神には黒色の八つの楯と矛を祀った。坂の麓の神と河瀬の神にみてぐらを奉った。オオモノヌシに次いで、吉備の石上布都魂神社からスサノオの神剣と共に剣神フツタマ(フツヌシ)が勧請され、天理の布留に石上神宮が創建された。

 

大国を統治する体制が整っていった。疾病が終息し、国家は泰平となった。吉備邪馬台国が滅亡してから年が経過して、名実共に大和が倭の国の盟主となった。

 

 宗像族が三輪山に宗像神を勧請したいとミマキ王に申し入れた。ミマキ王はトヨと宗像族の出会いを仲立ちしようと試みたが、トヨは出会う気になれず、会見を拒んだ。ミマキ王はトヨの気持を察して仲裁を断念した。三輪山の山麓に宗像神が勧請されたのはトヨが他界した後だった。

 

 

四.四道将軍と反乱

治世一0年(二七七年)九月

 ミマキ王の残る課題は臣下に俸禄を授けることだった。当然なことに臣下たちは領地を欲しがった。しかしすべての臣下を満足させるだけの土地はない。下手をすると不服派が反乱を起こしてしまう。何か妙案はないものか。

 あれこれ対策を思いめぐらせるうちに、ミマキ王は夢に現れたオオモノヌシの言葉を思い出した。

わしをオオタタネコに祀らせれば、倭の国はすみやかに泰平となる。域外の国も帰服してくる」

 そうだ、倭の国を拡大していけばよいのだ。新たに獲得する領地を臣下に分け与えていけばよい。オオモノヌシの言葉は正夢だったのだ。

 

秋九月、ミマキ王は臣下たちに言い放った。

「神々をきちんと祀ったので災いが消え、国は平穏となった。しかし遠国の人々はまだ王化されていない。兵を四方に送って私の教えを知らしめよ」

 

 同十一月、ミマキ王は吉備からイサセリビコを呼び寄せた後、オオビコ親子、腹違いの弟ヒコイマス、イサセリビコの四人を王宮に招き、倭の国の拡大戦略を説いた。その頃の大和の支配領域は西は九州中部まで、東は東海の三河までだった。日本海は北陸の越前、若狭と丹波地方は支配下に入っていたが、丹後半島、伯耆と出雲は土着勢力が独立を守っていた。

ミマキ王は義父のオオビコ北陸、オオビコの息子タケヌナカハワケ東国、ヒコイマス丹後半島、イサセリビコ兄弟西方(日本海の伯耆と出雲、九州南部の熊襲)の討伐命じた。兄のイサセリビコは九州のさらなる征服、弟のワカタケヒコは日本海側の伯耆と出雲征伐の担当となった。恭順した部族の首長に与える印として、舶来の銅鏡に加えて三角縁神獣鏡の模造品などの銅鏡が準備された

 

 第一陣としてオオビコ軍が北陸地方に向けて出発した。木津川手前の平坂(へらさか)を越えて野原で一休みしていると、通りがかった一人の少女が口ずさむ歌が耳に入った。

(歌謡)わが身の危険を知らずに 女遊びにほうける ミマキイリヒコさん

少女を呼び止め「今の歌は何だ」と問うと、「流行の歌を歌っているだけよ」と答えて同じ歌を歌いながら野原の端の少女たちの群れに加わった。気になったオオビコが少女の後を追って近づくと、少女たちは輪を作って歌っている。

(歌謡)

ミマキ ミマキのイリヒコよ お前の命を奪おうと 後手から忍び 

ま正面から狙い定める敵に気づかない 哀れなミマキイリヒコ

 

 これは単なる流行り歌ではない。誰かが反乱を起こそうとしている徴候に違いない。オオビコは都の金屋に引き返し、ミマキ王に報告した。たまたまトヨとイサセリビコが居合わせた。

「二人だけでお話がしたいのですが」

「いや、お二人の前で話しても構わない」 

三人がそれほど親密なことにオオビコは驚いた。オオビコは、年齢は年下だが叔父にあたるイサセリビコを政敵と警戒していた。

しかしことは急を要する。

「木津川の近くで童女たちがしい、こんな歌を歌っています」と切り出した。

 

トヨは春日時代におしかけ、次代の王を宣言したタケハニヤスビコの顔が頭に浮かんだ。オオタタネコが耳打ちしたように、ハニヤスビコは天下取りを狙っているに違いない。

「木津川近辺ならタケハニヤスビコの母が出自したアマツヒコネ族の領域ですよね。ひょっとしたら、タケハニヤスビコが謀反を起こそうとしている兆しかもしれませんよ。淀川の近くにたいそう豪奢な御殿に住んでいると聞いています。私どもが織った織物をよく購入されましたが、なぜそれほど裕福なのか、腑に落ちません」

「トヨさまはタケハニヤスビコをご存知なのですか?」

 

 ミマキ王は怪訝な顔で聞き返した。

タケハニヤスビコの祖父カワチアオタマカケは八尾に本拠地を置き、大和川河口から宇治川、木津川に至る一帯を支配する豪族だった。娘のハニヤスビメが第八代クニクル王の后となり、タケハニヤスビコが産まれ、祖父と母から地盤を継いでいた。

「オオビビ王が亡くなられた直後、オオビビ王の後を継ぐのは自分だ、と私に会いに来られたことがあります」

そのようなことはありません。タケハニは好人物の叔父として信用しております。謀反を起こすような人間ではありません。トヨさまの思い違いでしょう」

 

 オオビコもトヨの言葉を疑った。淀川周辺に出没する盗賊の取り締まりに苦労が絶えませんとこぼしながらも毎年、心づけをきちんと贈ってくる。腹違いではあるものの、殊勝な弟だと目をかけていた。

 

「瀬戸内海からの帰還兵が淀川周辺で盗賊に出会うとよく聞きます。盗賊はタケハニヤスビコの手下だ、と兵士たちも耳にします。念のためタケハニヤスビコの周辺を調べてみたらいかがでしょうか」

 イサセリビコの言葉に従って、ミマキ王は叔父の周辺を内偵すると、大変な悪党だったことが明らかになった。河内湾から淀川に入る物資を横取りしている盗賊たちは盗賊になりすましたタケハニヤスビコの手下だった。生糸の買占めを行い、あちこちに賄賂をばら撒いていた。織物商人のタドマツも手下の一人で、トヨから倭国を禅譲させる目的で、トヨをタケハニヤスビコに手渡そうと企んでいたことも判明した。ミマキ王をからかう流行り歌は手下のごろつきどもが作ったものだった。后のアタヒメがひそかに香具山に登り、初代王イハレビコ王の故事にちなんで『これこそ倭国の象徴だ』と香具山の土をヒレに包んで持ち帰った、という噂も流れていた。

 

タケハニヤスビコが天下とりを狙っているのは間違いないようだ。ミマキ王は他の将軍の遠征も中断して討伐策を練り始めた。金屋に放っていたスパイから宮廷の動きを察知したタケハニヤスビコは、先手を打って反乱を起こした。本軍は山城側から、后アタヒメの軍勢は生駒山を迂回して大坂側から大和盆地軍をた。 

イサセリビコ軍は大坂に向かい、枚岡から大和川を越えて進軍してきたアタヒメ軍を壊滅した。歴戦練磨のイサセリビコにとっては赤子をひねるに等しいあっけない戦さだった。

 

オオビコはワニ臣ヒコクニブクと共にタケスキノサカ(奈良坂)に陣地を置き、木津川を挟んでタケハニヤス軍と対峙した。タケハニヤスビコはヒコクニブクに向かって「なぜ攻撃に来たのか」と毒づいた

「王に逆らうことは非道な行いである。王室を倒そうとしているから、お前を討つ。王さまの命令だ」

 大将同士の矢合戦が始まった。まずタケハニヤスビコがヒコクニブクに向けて矢を射ったが、矢ははずれた。次にヒコクニブクがハニヤスビコに矢を射ると、見事に胸を貫いて一撃で倒れた。ハニヤスビコ軍の兵士たちはおびえきって木津川の西北に敗走していく。追撃するオオビコ軍は、兵士の半分の首を切り落とした。残りの兵士も逃げ切れずに頭を地面につけて「あぎ」と言って降参する。その場所をアギ(山城町)という。死体が積み重ねられた場所をハフリソノ(精華町祝園)という。逃げ延びた兵士がおじけづいて袴から大便をもらし、鎧を脱ぎ捨てて逃げる。鎧を脱いだ地をカワラ(田辺町河原)、袴から大便が落ちた地をクソバカマ(枚方市楠葉)という。

 

ハニヤスビコ軍を撃退した後、冬一二月にミマキ王は宣言する。

「反乱者は罰せられた。これで畿内は安泰となった。しかし畿外ではまだ抵抗が続いている。四道将軍たちよ、畿外の敵の討伐だ」

 

治世一一年(二七八年)

 雪溶けを待って、四道将軍が大和を旅立っていった。

 

 初夏を迎えた頃、丹後半島に遠征したヒコイマスが凱旋する。ヒコイマスは丹後王国のクガミミのミカサを退治して、丹後半島を占領した。

 秋が深まる頃、オオビコ親子が凱旋してきた。オオビコは山城、近江を経て越前の敦賀に入り、日本海沿いに越中を攻略し、立山にイザナギを祀った(雄山おやま神社)。次いで越後を苦もなく征服し、弥彦山(やひこさん)から阿賀野川に沿って磐梯山麓の会津に進んだ。タケヌナカハワケは伊勢、美濃から東山道に入り、伊那谷、諏訪湖、碓井峠を越えて、高崎、前橋と上野(こうづけ)、次に小山、今市と下野(しもつけ)を抜け、那須高原を越えて会津に出て、父のオオビコと感激の再会を果たした。大和の東の領土は福島県南部の猪苗代湖まで拡大した。二人が出会った会津にもイザナギが祀られた(伊佐須美神社)。

 

ミマキ王はオオビコの報告をもとに北陸、東国への開拓者の派遣を開始した。越後には尾張氏の一族が送られ、弥彦山を拠点に開拓していった(彌彦神社)。東国では、すでにフトニ王(孝霊天皇)時代に逃亡した阿波の忌部族を追う形で尾張や遠江の尾張氏や物部氏が房総半島の上総に進出していたが、下総への北上は阻まれていた。

 

 ワカタケヒコは伯耆の鬼住山に居残ったタケカガミ軍の最後の残党を平らげた後、東出雲に攻め込んだ。しかし斐伊川手前の仏経山に近づくと西出雲の神門王国の大軍が待ち受けていた。この大軍は手強い。手におえそうもない。ワカタケヒコは東出雲征服で見切りをつけ、吉備に戻っていった。出雲征服の報告を受けた宮廷はアメノホヒの子孫を国司として出雲に派遣し、国司は東出雲の意宇(おう)郡に定住した。

 

 兄のイサセリビコは北九州の奴国の太宰府に陣を構えた。大和は九州東部は日向まで支配下に置き、豊後の大分を拠点に意富氏タケヲクミ将軍が肥後と肥前の大半を支配化に置いたが、北部の奴国と中部の肥後・肥前の間にある筑後川流域はまだ未征服の空白地域だった。筑後川河口の御井(みい)王国を主体に幾つかの強力な王国、部族が存在しており、大和軍の南下は東は甘木、西は吉野ヶ里で遮られていた。筑後川流域を攻めるには、北の筑前、南の肥後。西の肥前の三方から同時に攻め込むしか手立てはない。イサセリビコは豊後経由で肥後のタケヲクミ将軍に筑後川攻撃の伝令を送った。

 

 その頃、タケカシマは肥前の杵島にすっかり腰を落ち着けていた。河内湾でトヨたちとはぐれてから二年が経過していた。時折りトヨやスミレの安否が気にはなったものの、護衛役として任務を果たせなかったことが心の傷跡になっており、あまり思い出したくなかった。杵島の生活には満足していた。吉備から遠く、倭国の西の端にあるが有明海は瀬戸内と同じで魚が旨い。近くに嬉野温泉もある。気候も温暖だ。ことに春と秋の歌垣が気に入っていた。杵島山に三つの峯があり、夫婦神と子神の三神が祀られていた。歌垣の季節には農民、漁民たちが一家総出で酒ごちそう、琴笛を手に杵島山に登り、歌い、踊った。浮立(ぶりょう)と呼ばれる杵島の踊りにはいくつもの種類があった。タケカシマも現地妻のヤソヒメを伴って杵島に登った。風の便りで吉備のオオモノヌシが大和に勧請され、トヨさまも無事らしいと耳にしてはいたものの、定かではない。吉備には戻れない。河内に戻らされると捕虜生活となる。もう杵島に永住してもよいと思うようになっていた。

 

 タケヲクミ将軍から筑後川に向けた攻撃命令を受け取った。戦いを忘れて久しくなっていたが、タケヲクミ将軍の命令とあっては動かざるをえない。

 タケカシマは精鋭部隊を組織し、小城(おぎ)郡、佐嘉郡、神埼郡へと進軍した。タケカシマの勇猛さを恐れた土グモたちはさしたる抵抗もせずに、山中に逃げ込んだ。吉野ヶ里に近づいた頃、太宰府から下ってきた筑紫刀禰軍と合流して、御井王国を滅ぼした

 

 肥前の杵島に吉備出身の勇猛な武将がいる。筑紫刀禰軍から報告を受けたイサセリビコはタケカシマを太宰府に呼び寄せた。見ると見覚えがある顔だった

「ひょっとしたら、お前はトヨさまの従者だった者ではないか」

 タケカシマはきっと見つめ返した。

「さようでございます。私もあなた様をよく覚えております。あなた様を心底うらんでおります」

「なぜだ」

「あなたは嘘をつかれました。私どもをだましたではないですか」

「河内湾で見失ったことか。あれは私が企んだことではない。本当だ。信じて欲しい。私も必死になってお前たちの行方を追った。私は本心でトヨさまと一緒にお前たちも春日に案内するつもりだった。河内湾でトヨさまとお前たちを引き離した策略は、どうもタケハニヤスビコの配下が仕組んだようだ。どうか私を信じてくれ」

 

 イサセリビコの真剣な眼差しを見て、タケカシマの心が動いた。嘘をついてはなさそうだった。長年の怨みが少しは溶けていった

「確かハタツミと記憶しているが、他の従者たちはどうしている。トヨさまも心配されておられる」

「ハタツミさまは河内の収容所で惨殺され、トリヲさまは阿蘇で討ち死にされました。トヨさまはどうされておりますか?」

「トヨさまと侍女二人は大和で幸せに暮らしておられ。トヨさまはミマキ王からすっかり信頼されておられる。トヨさまはオオモノヌシを吉備から大和に勧請された後、倭国の盟主の座をミマキ王に禅定された」

 

イサセリビコはタケヲクミ将軍とタケカシマを伴って大和に凱旋した。タケヲクミはミマキ王に謁見し、肥後の八代の海上に出現する火の玉を報告した。ミマキ王はそれにちなんで、火君と大分君の称号をタケヲクミに授けた。

 

 

五.トヨとタケカシマの再会

 

 スミレが庭で菊の花を摘んでいた。トヨはアヤメと機織りをしていた。春日のナガヒコを先頭に護衛に守られた一行が高殿に入ってきた。

「あっ、タケ……」

スミレの甲高い歓声が高殿に響いた。何事だろう。トヨが外を覗くと、にこにこと笑うイサセリビコの横にタケカシマがいた。右頬に深い刀の傷跡がある。少年から精悍な壮士に変貌していた。スミレがタケカシマの懐に飛び込んでいる。

 

 夢のような光景だった。生て会えるとは思っていなかった。トヨもアヤメも感涙にむせんだ。

「吉備のオオモノヌシが大和に勧請されたこと、トヨさまがご健在なことは風聞で知っておりましたが、こうやってお目にかかれることは諦めておりました」

「よくもまあ、ご無事で。河内湾で舟がはぐれてしまってから、ずっとあなた方のことを心配しておりました。あれから二年になります。その間、あなたたちはどうされていたの」

「はぐれたのは潮の流れではなく、狗奴国のたくらみでした。イサセリビコ将軍の言い訳かもしれませんが、タケハニヤスビコの仕業ということです。私どもは和泉の捕虜収容所にぶちこまれました」

「ハタツミとトリヲはどうされました」

「ハタツミは捕虜収容所で憤死されました。トリヲは私と一緒に豊後へ従軍しましたが、阿蘇で戦死されました」

 

 タケカシマは九州転戦の話をした

「肥前という国はどんな所だろう」

「有明海という内海に面しております。有明海には歩く魚がおるのです」

「歩く魚? 本当ですか?」

「ムツゴロウといいまして、潮が引くと穴から干潟に出てきて胸ヒレを器用に使って、こうやって干潟を歩いていくのです」

タケカシマのおかしなしぐさに三人は笑いこけた。

「ついでに肥前の杵島の踊りも披露しましょう。本来は仮面をつけるのですが浮立(ふりゅう)と呼ばれています」

 タケカシマは歌いながら、悪霊を追い払う勇壮な剣舞を披露する。

「歌だけでなく踊りもお上手ですね」とアヤメとスミレが感心する。

「もう一度、ムツゴロウの踊りを見せてくださいな」とスミレがねだった。

 

 三人が先回よりも笑いころげた後、一瞬、笑いがとぎれ沈黙がおとずれた。

トヨは真顔になっていた。

「タケカシマはもう妻子はいるのですか」

「まだ独り身です」

 

タケカシマは杵島に現地妻のヤソヒメがいて子供ももうけていたが、正式な結婚ではなかったこともあり内緒にした。

「あなた、スミレをめとってくださいな」

突然のトヨの言葉に二人は見つめい、微笑んだ。二人に異論はなかった。

「よかった、よかった」

アヤメがしきりに目をぬぐう。

 

 結婚の挙式はトヨの御殿で行なわれた。タケカシマは二八歳、スミレは二七歳になっていた。オオタタネコが婚礼の儀式を司った。吉備の王家の伝統にのっとった祝典だった。イサセリビコとタケヲクミも式に出席し、ミマキ王は豪勢な祝い品を贈った。オオタタネコが和泉の陶邑で亡くなったタケカシマの父の遺品をタケカシマに手渡すとタケカシマはむせび泣いた

「吉備王国の立派な子孫を作っておくれ」

 

タケヲクミ将軍の推薦もあって、タケカシマは肥前の杵島時代の精鋭たちと共に内宮を護る近衛兵となり、王族や貴族の若者たちに武道を教え始めた。スミレは日中だけトヨに仕え、高殿の侍女としてオオビコの差し金でミマツヒメの息がかかったヤマブキが暮らすようになった。スミレとタケカシマはトヨの高殿での同居も構わないと申し出たが、いずれ子供ができて家族が増えるだろうとのトヨの配慮で、高殿から徒歩数分ほどの場所に新居を構えた。

 

 

六.税制の整備と巨大古墳の登場

 

税制の復活

治世一二年(二七九年)

 旧暦三月にミマキ王が詔みことのりを発した。

「私が王位を継いでから、国政は保つことができたものの、光りに陰がさし順風万帆とはいえなかった。天候不順が続き疾病が流行り、農民が災禍を受けた。しかし罪を祓い、過失を改め神々を篤く祀った。教えを垂れて荒ぶる人たちを和らげ、兵を送って服従しない者を退治した。ここにようやく内政が整い棄民も消滅した。財政が健全となり国民が楽しんで働くようになった。異国の民も訪れるようになり、倭国の域外の国々も服従した。新たに戸口調査を行い、戸籍を作り課役制度を作る用意が整った」

 

詔に偽りはなく、神々が共になごみ、天候も順調で百穀が豊作となった。農民も豊かになり、天下泰平の時代が訪れた。旧暦九月、稲の収穫を前にして、大和盆地だけでなく近畿地方全域にわたる大規模な国勢調査が実施された。治世六年から続いた無税化が中止され、男のゆはずのみつき(調)、女のたなすえのみつきという課役、人頭税などの税制度が整備された。

 

巨大古墳の登場

中山の尾根を利用して、阿波の墳墓造りに吉備の技術も加わったヒコサシカタワケの大規模な前方後円墳の古墳が築かれ、特殊壷、円筒埴輪、都月型埴輪が飾られた。全長十メートル、後円部径六メートル、竪穴式石室は長さ七・五メートル、天井までの高さ二メートルの大きさで、石材は河内の羽曳野の輝石安山岩が使われた。石室内には銅鏡、鉄槍、鉄刀、鉄剣、鉄鏃が供えられた

 

苦節の二年だった。父王の急死で、財政が破綻寸前となっていた国を引き継ぎ、倭の国の盟主の座を吉備王国から禅譲し、福島県南部から九州中南部までに至る、吉備王国をしのぐ広大な統一王国を初めて誕生させた。苦しい二年ではあったが、気がつくと大和盆地に葛国を建国した初代イワレビコ王に肩を並べる偉業を成し遂げていた。まだ三一歳の若さではあったが、大王の風格をたたえるようになっていた。人々はミマキ王を「初めて大倭国を統一した大王」と喝采した。

 

トヨもすっかり心は吉備から大和に移っていた。邪馬台国は西から東に移り、さらに東に向けて拡大していく。トヨはミマキ王が息子のような、弟のような、恋人のような複雑な思いにとらわれていることに気づき、はっとした。ミマキ王を好きになっていることを自覚した。心臓の鼓動が高まり、顔が紅潮していくのがわかった。これが恋というものだろうか。トヨには初めての体験だった。

 

 

              著作権© 広畠輝治 Teruji Hirohata