巻1 藤と紫

 

その4.夕顔     (ヒカル 16歳)

 

1.ヒカル・ゲンジ、病気の乳母を見舞い、夕顔を知る

 

 メイヤン夫人の許にお忍びで通っていた頃、王宮からメイヤン(Meillant)に向う途中で、重病にかかったのを機に在俗修道女になったヴァンドームの乳母の見舞いをしようと、ブルジュ(Bourges)の乳母邸を訪れました。

 

 邸内に馬車を入れる正門が閉まっていましたので、乳母の息子コンスタンを呼びに従者を行かせました。待っている間、ヒカルはむさ苦しい大路の様子を馬車の中から覗いてみました。

 ブルジュの中心部に至る大路の東端に位置しており、小川から水車の音が響いてきます。小川の橋からみすぼらしい長屋が数列続いた後、乳母邸の右隣の館が見えました。前庭をはさんで、むき出しの木材の柱や斜材の間を土壁で埋めたハーフティンバー(Colombage)の三階建てで、こじんまりとした前庭の右手に一階が商店に使えそうな二階建ての小さな家が大路に面しています。

 本館の二階には真新しいブナ材で造ったバルコニーが突き出しており、よろい戸の上半分を吊り上げて、涼しげな白いレースのカーテン越しに、美しい感じがする額の透き影が幾つもこちらを覗いているのに気付きました。入れ替わりながら、背伸びをして覗き込んでいるのか、ひどく背が高い女性達のように感じます。

 

「どういう者たちが集まっているのだろうか」と不審に思います。馬車は目立たないように簡素なものにしていますし、人払いをする前駆の者もつけていませんので、「誰だか分かりはしないだろう」と気軽な気持ちで、窓から顔を出して少し仔細に覗きこんで見ますと、門の戸も上部が上げられていて、本館全体が丸見えです。土壁が傷んで、ほころんだ箇所もある、はかない住まいに哀れを感じましたが、「この世の中は どこを指して 自分の居場所と言えるのだろう 途中で足を止めた所を 宿と定めよう」という歌を思い起こして、王宮も粗末な民家も住めば同じこと、と思い直します。

 

 門の横の二本柱の板塀に、青々とした蔓草が心地よさげに葉を広げて、白い花が一つ、満面の笑みをたたえて咲いています。

はるか遠く 遠方の人に 私はお聞きしよう それ、そこに咲いている 白い花は 何の花であろうか」という歌を独り言のように歌っていると、中将付きの近衛府の隋人が跪いて「あの白い花は瓢箪と同種でありまして、夕顔と申します。人の名のような名前でありますが、こうした貧相な家の垣根に咲くものでございます」と申します。確かに、細々とした小家が密集している、この辺りのあちらこちらの傾いた軒先にも蔓草が這い回っています。

 

「気の毒な宿命を持った花だね。一房折ってきてくれ」と命じますと、随身は門の内に入って、花を折りました。すると、横手のしゃれた戸口から、黄色い薄手の裾長のスカートをはいた愛らしい童女が出て来て、随身に手招きします。色がつくほど、薫物(たきもの)を燻らした白い扇を差し出して「花をこの上にお載せください。枝には情緒がない花ですから」と言います。ちょうど、コンスタンが乳母邸の門を開けて出てきましたので、随身は花を載せた扇をコンスタンに託して、ヒカルに渡してもらいました。

「鍵の置き所が分かりませんで、大変ご迷惑をおかけしました。この辺りは場末で、良し悪しの分別がつく人がいない界隈でして、こんなごみごみした大路にお待たせしてしまいまして」とひどく恐縮しています。

 

 馬車を邸内に入れて、ヒカルを降ろします。

 室内には、コンスタンの兄の司祭、乳母の娘婿のカルヴァドス知事、乳母の娘などが、乳母を囲んで集まっていました。一同、ヒカルが見舞いに来てくれたことを、またとないことと有り難がっていました。

 乳母も起き上がって「もう惜しくはない身ではありますが、まだ捨て難く思っておりましたのは、あの世に行ってしまうと、こうやって貴方のお側で拝見させていただくなることができなくなることを、口惜しく思っておりますからです。それでぐずぐずしておりましたが、在俗修道女になった効果があって、もうこれで、天の御光も心清らかに待つことができます」などと言って、弱々しげに涙を流します。

 

「日頃から、容態がかんばしくないと聞いておりましたので、心配し続けておりましたが、このように修道女になられてしまったのを見ると、とても悲しく口惜しくもあります。どうか長生きをされて、私の官位が高くなっていくのを見届けてください。その後で天国に上りますなら、九段階があると言われる最上位に生まれ変わりますでしょう。この世に少しでも執着を残してしまうのは悪いことだとも聞いております」などと、ヒカルは涙ぐみながら話しかけました。

 

 乳母などのような人は、自分で育てた欲目から、浅ましいとは承知の上で、欠点がある者でも完全無欠に見てしまうものですが、誰よりも優れた御方の養育係として仕えた身が誇らしくとも、かたじけなくとも思いますので、わけもなく涙がちになります。子供たちは、そんな母親の仕草をとても見苦しいと顔をしかめています。「世に背いて修道女になったのに、俗世界を去り難いように、自分の泣き顔をお見せしてしまって」と肘をつつき合ったり、目配せをしたりします。

 

 ヒカルはひどく気の毒に思って、「幼かった頃に愛してくれるはずだった母や祖母が自分を捨ててあの世へ行ってしまった後、私をはぐくんでくれた人たちは多くありましたが、真底から親身に思いやってくれたのはあなた以外にはいない、と思っております。成人してからは、制限があって、朝に夜にというようにお会いすることができず、思い通りにお訪ねすることもできませんでしたが、久しい間お目にかかれない時は、心細い思いをしております。『この世の中に 避けぬことができない別れなど なければよいのに 子供のために 親には千年もの長生きを してほしい』と歌にもありますように」などと細やかに話しをされて、にじみ出る涙を拭う袖の匂いが、室の隅々まで薫り満ちます。

 そこまでしんみりしたヒカルの言葉を聞いて「母は並々ではない幸せな宿命を持っていたのだ」と母親をもどかしく見つめていた子供たちも、しんみりと母を思いやるのでした。

 

「病気治癒の祈願の修法などを、再び重ねて始めるように」などを命じて、室から出た後、コンスタンにロウソクを点させて、先刻の扇をご覧になりますと、使い馴らした人の移り香が深くしみついているのがなつかしげで、風流な筆跡で歌が書かれていました。

(歌)白露で さらにヒカリ(光)を添えた 夕顔の花のように おそらく ヒカルの君でおられようと   

   拝見いたします

 さらさらと書きしめた文字が意外にも上品で教養がある感じがしましたので、非常に興味を惹かされました。

 

 

2.コンスタン、隣家の女を調査

 

「この隣家にどういう人たちが住んでいるのか、問い聞きしたことがあるか」とコンスタンに問いますと、「例の厄介な浮気癖が出てこられた」と思いはするものの、そうとは申さずに「ここ五、六日、この邸に滞在しておりますが、病人の世話で忙しくて、隣のことはまだ聞いておりません」と無愛想に答えます。

「おやおや。私の問いが気に入らないようだね。けれど、この扇の由来を知りたいから、やはり、この辺の事情に詳しい者を呼んで尋ねてみてくれ」と命じました。

 

 コンスタンはしぶしぶ、隣家に入っていって、門番の男に問い聞きをしてきました。

「地方庁の官位六位『揚名の介』の称号を受けている人物の家であるそうです。主人は地方に出張していて、若い風流好みの妻がいて、王宮勤めをしている姉妹たちがよく通ってきている、ということです。下人のことですから、詳しくはあまり知らないようです」と報告します。

「ということは、その王宮勤めをしている女たちなのだろう。したり顔で、物馴れている仕草はそのせいだろう。きっと興ざめする身分であろう」と感じますが、こちらをヒカル・ゲンジと見なして詠みかけてきた心持ちが憎くはなく、このまま見過ごせない気がしますのも、こうした方面では重々しさがない性分を持っているからでしょう。

 

 懐に常備している二つ折りの用紙に、別人のような字体で歌を書き込みました。

(歌)もっと近くに寄って来られるなら 何者かと確かにお分りになるでしょうが 黄昏時に

   ぼんやりご覧になっただけでは 夕顔の花の私が 誰であるかは 分かりはしないでしょう

 書き終えた用紙を随身に持って行かせました。

 

 隣家の女性達はヒカルを見たことはなかったのですが、確かにそうに違いないと憶測できる横顔を見逃さずに、歌を差し上げてヒカルを驚かせたものの、返歌ももらえずに時間が経過しましたので、何となく体裁が悪く思っていたところに、わざわざ返歌が来ましたので、調子に乗って「どうお答えしたのやら」と言い合いをしていましたが、随身は「生意気な」と思って、返事を待たずに戻ってきました。

 前駆の者が馬上に掲げる松明を弱く燃えさせて、ヒカルは人目を避けるようにメイヤンに向いました。隣家のバルコニーのよろい戸の上半分はすでに下げられていました。戸の隙間から漏れる灯火は蛍の光りよりほのかで、哀れを誘います。

 

 メイヤンに近付きますと、幾つもの燈籠に浮かび上がる豪壮な城が見えてきました。木立ちや前庭なども、ありふれた大邸宅とは違っています。古くからある城をイタリア・ルネッサンス様式で改装して、とてもゆったりと奥床しく住んでいる様子が分かります。格式や品位の高さなどは較べようもないほどなので、先刻のブルジュの木造・土壁の民家を思い出す余地もありません。

 メイヤン夫人と一晩を過した翌朝は、少し寝過ごしてしまい、陽が明るくなった頃に城を発ちました。朝帰りのヒカルの姿は、人から愛でられることが頷けられるほど、凛とした美男子でした。

 今日も、ブルジュの大路を通過します。これまで何度も通り過ぎた大路でしたが、あのはかない夕顔の花の一節に気を引かされてからは、「どういう人が住んでいるのだろう」と行き来する度に、夕顔の館に眼がとまるようになりました。

 

 幾日かが過ぎて、コンスタンが参上しました。

「病人がまだ衰弱しておりますので、とにかく手が離せません」と挨拶をした後、側に寄ってきて耳打ちします。

「お話がありました隣家について、よく知っている者を呼んで、問うてみたのですが、詳しくは話してくれません。『この五月頃から、忍び隠れるように同居を始めた人たちがいるようだが、その人が何者なのか、家の内の者にも教えていない』と申します。

 時々、当方の家との塀越しに覗き見をしてみますと、確かに若い女たちの透き影が窓越しに見えます。主人がいないとつけることがない小さめの布を申し訳ない程度に腰につけている女もおりますから、かしづく女主人がいるのでしょう。

 昨日、西日が射しこんでおりました折に、手紙を書こうと机に向っている女の横顔がまことに綺麗でございました。物思いに悩んでいる気配で、お側の侍女たちも忍び泣きをしている様子がはっきりと覗けました」と報告します。

 

 ヒカルはにっこりして、「もっと知りたい」という顔をします。「自重をしなければならない程の重い身分でおられるものの、歳が若く、女性達が慕い、褒め上げる様子を考えると、浮気をしないのも風情がなく、物足りないのだろう。相手にしてはくれなそうな身分の者でも、これはと思った女性には好奇心をおぼえるものだから、捨ててはおけないのだろう」とコンスタンは納得します。

 

「もしかしたら、何か分かることも出てくるだろうと、ちょっとした機会を見計らいまして、隣家の女性に恋文をやってみました。すると書き慣れた字体で返事がありました。まんざらでもない若い侍女たちが仕えているようです」と話しますと、「もっと、侍女たちに近付いてみろ。女主人の正体が分からないでは物足りない」と即答しました。住まいは「下の下」の民家であるが、「そうした中に、思いの外、見逃せない女を見つけ出したら」とヒカルは珍重品を掘り出してみたい思いにかられました。

 

 

3.空蝉ミラノに下ると聞き、ヒカルの心乱る

 

 さて、あの空蝉の浅ましいほど冷淡であったのが、並みの女と違うことを思うと、あの女がもう少し柔順であったなら、心苦しい過ちをしてしまった、というだけで終ったところを、強情さに負けてしまうことが心に引っかからない折りはありませんでした。こうした中の品の身分の者まで思いをかけてしまうことはなかったのですが、あの「雨夜の品定め」の後、試してみたい品々が出てきて、好奇心に隅がないほどになっていました。

 

 ポンセで何の疑いも持たずに待ちわびている、もう一人を不憫に思わないことはありませんでしたが、つれない女が継娘との関係を聞き知ってしまうのが恥かしいので、「まず空蝉の心を見定めてから」と思っているうちにミラノ副公使が帰還して来ました。

 副公使は王宮の後、真っ先にシュノンソーに駆けつけました。地中海焼けかアルプス越え焼けなのか、顔が少し黒ずんだ、やつれた旅姿で、とても無骨で見苦しいのです。それでも貴人の家柄の出でしたから、容貌は老けたものの、まだまだ小綺麗で、どことなく気品を漂わしていました。

 

 副公使はミラノの現状を長々と報告します。ヒカルが十一歳で元服式を受けた後、桐壺王は第二回目のイタリア遠征を敢行し、神聖ローマ帝国側に組みしていたミラノ公国に押し入り、ミラノ公国とミラノ公国の支配下にあったジェノヴァ共和国を手中にしました。桐壺王はミラノを拠点にナポリ王国への再進出を試みましたが、スペイン勢力からの反撃を受けて第三次イタリア戦役が始まりました。ナポリ王国の支配を巡って一進一退の攻防が数年続き、ミラノ公国内も反フランス派の陽動作戦などで、治安が悪化しました。その渦中で、空蝉の夫も副公使として急遽、ミラノへ派遣されました。ナポリ王国は次第にスペイン側が優勢となって、フランス軍はナポリ王国をスペイン側に譲歩することで第三次戦役が終結しまし、ミラノは平穏を取り戻した、ということです。

 

 ミラノ報告を聞きながら、副公使を見ていると、何となく正視ができません。不在中に妻を寝取ってしまったことも含め、胸中に様々な思いが交錯します。「実直一筋の老騎士にこうした思いを抱いてしまうのは、実に愚かしい、後ろめたい行動をしてしまったからではないか。まさに一通りではない過失であった」と主馬頭エリックが諌めた言葉を思い出して、「空蝉の冷淡な気持ちは憎いが、夫のためには立派である」と考え直します。

「ミラノはベニスやフィレンツェと並びまして、美術の都でもございます。『ミラノの大先生』と畏敬されている高名な画家もおります。娘をしかるべき人に嫁がせまして、ミラノの治安も落ち着き、私の妻にも美術の宝庫を是非とも見せてやりたいので、妻を連れてミラノに戻るつもりでおります」と副公使は話を続けましたが、「妻のミラノへの同伴」を聞いて、ヒカルは一方ならず、動転してしまいます。

 

「もう一度、逢うことができないだろうか」とジュリアンに相談しますが、相手と合意した上であっても、そう軽々と忍び合いをすることは難しいのに、まして「不似合いの間柄」と信じている相手の方は、「今さら見苦しいことをしてみても」と突き放していました。そうは言ってもさすがに「すっかり忘れられてしまうのは惜しく、つまらないこと」と思って、折々の手紙の返信などは、なつかしい様子を見せつつ、なにげないような筆使いで書く文字の中に、可憐だとふっと眼を止めさせるような技を加えたりして、ヒカルの心を惹こうとする気配を感じさせますので、恨めしい人であっても、忘れ難い思いがします。

 

 もう一人の女(ひと)は、婿を迎えたとしても、必ず心を許すであろうことが明白なことを確信していましたので、とかくの噂は耳に入ってくるものの、さして動揺はしませんでした。

 

 

4.ヒカル、メイヤン邸訪問

 

 秋に入りました。この頃、ヒカルは自分の心柄とは言いながら、初恋の女性である藤壺のことで思い乱れることなどがあって、アンジェの左大臣邸へは途絶えがちになっていましたので、恨めしく思われていました。

 

 メイヤン夫人にとっても、難攻不落の気持ちでいた自分を口説き落とした後は、打って変って、さほどに思い詰めてこないことをひどく歯がゆく感じていました。一頃のなりふり構わないご執心ぶりや一途なお気持ちがなくなってしまったようなのは、どうしてだろう」と気にかかっています。

 メイヤン夫人は物事をあまりにも深く思い詰めてしまう難癖がありました。歳は八歳ほど年上で、「二人の関係を、人が漏れ聞いてしまったら」と、ヒカルの訪れがなく、ひどく辛い夜の寝覚め寝覚めにあれこれ煩悶します。

 

 メイヤン夫人の父はイギリス軍を撃破したジャンヌ・ダルクの「オルレアンの戦い」でも功績をあげた、中世から続く名門軍閥の出自で、桐壺王の第一次イタリア遠征でも片腕として活躍しました。遠征から帰還した後、連れ帰ったイタリア人の建築家や庭師などを徴用して、メイヤン城を一新しました。

 メイヤン夫人は一人娘でしたが、桐壺王の同腹の弟で坊(王太子)の座にあった王族に嫁ぎました。桐壺王が第二次イタリア遠征から帰国した後、弟は病弱だったこともあって、坊の座を朱雀王子に譲りましたが、メイヤン夫人との仲は円満で女児も誕生していました。

 メイヤン夫人の父は第二次イタリア戦役にも大将として出征し、ミラノ公国を征した後はミラノ総督に抜擢されました。ところが不慮の事故で他界してしまい、メイヤン夫人の運命は暗転します。幸いなことに父が残したメイヤン城は枢機卿の重責を担う父の弟の援けもあって、メイヤン夫人が引き継ぐことができましたが、今度は夫の前坊が病死をしてしまいました。寡婦になったメイヤン夫人は先行きを憂いながら、悶々とした日々を送っていた頃、ヒカルが言い寄ってきました。暫くの間はヒカルを拒み、操をたてていたのですが、父を失い、夫も失った寂しさに耐え切れず、ヒカリの熱情を受け入れてしまいました。

 

 霧が大層深い朝、出発をひどくせかされて、まだ眠そうな様子で溜息をつきながら、外に出て行くヒカルを見て、侍女頭の中将ジョスリンは、よろい戸の上半分を開いて「お見送りをされて下さい」という心遣いでカーテンを横に引きましたので、メイヤン夫人は頭をもたげて外を見やります。

 前庭に色とりどりに咲き乱れる花を見過ごすことができずに、立ち止まっているヒカルの姿は誠に比類すべきものがありません。テラスに座ろうとするので、ジョスリンがお供をします。この季節にふさわしい、紫苑色の薄いドレスを、鮮やかなベルトで引き締めた腰つきが粋でなまめかしいので、ヒカルは振り返ってジョスリンを見つめながら、テラスの隅の欄干にしばらくの間、引きとめました。礼儀正しい作法を崩さない身のこなし方や、ブロンドかかった髪の垂れ具合がほれぼれする、と見とれてしまいます。

 

(歌)目の前に咲く花に 心が移ってしまうのは 貴女の主君に対して 

   つつしむべきではあるけれどの 折らずにはいられない 今朝の朝顔ですね

「どうしたらよいだろう」とジョスリンの手を取りますと、物馴れたように、即座に歌を返しました。 

(返歌)朝霧が 晴れるのを待たずに お帰りになってしまうご様子は 私が仕える花に

    お心を留めてはおられないように見えます

と、さも主人に向けた歌のことにして、公事のように答えました。

 

 可愛らしい男児が、好ましいほど恰好のよいショース(タイツ)を露で濡らしながら、花の中に分け入って朝顔を取ってきました。絵に描きたいほどの光景です。

 遠くからヒカルを拝見するだけの人でも、心を動かされない者はおりません。物の情けを解しない里人でも、花陰で一休みしたいのは当然なことですが、光る君を間近に見ることができる者は、身分に相応して、可愛いと思っている自分の娘をヒカルに仕えさせたいと願い、自慢できる妹を持った兄は召使といった下仕えであっても、ヒカル邸に奉公させたいと思わない者はありません。

 ましてお帰りになるついでの言葉であってにしても、こうした優しい気配を見せる人でしたから、少しでも物事を弁えている者なら、どうしておろそかに聞き流すことができましょう。一日中、くつろいでお過ごしにならないのは、メイヤン夫人を心配する侍従頭としては、物足りないとジョスリンは思っているようです。

 

 

5.コンスタン、隣家の調査報告

 

 そう言えば、あのコンスタンに託されていた、隣家を探る件は、コンスタンがさらに詳しい材料を探ってきました。

 

「その女性が何者かについては、まだ見当が得られないでいます。ひっそりと隠れ潜んでいる様子が窺い知れます。暇がありそうな折りには、長屋街に接する小家に行って、馬車の音がすると若い者どもが、二階の窓から大路を見やっておりますが、女主人とおぼしい女性も小家に来ていることがあります。容貌は、ぼんやりとはですが観察したところ、非常に美人のように見えます。

 ある日、先払いをつけて通過する馬車がありましたが、小家から覗いていた童女が『ミモザさん、ちょっとご覧になって下さい。中将殿がお通りになりますよ』と本館に向って声を上げますと、格が高そうな侍女が出て来て、『まあ、騒々しい』と童女を手で制しながら、『どうして分かりましたの。私も見てみましょう』と小家に向かいました、本館と小家をつなぐ小路には溝を渡す小橋があるのですが、呼ばれた女は急いで渡ろうとして、ドレスの裾を小橋に引っ掛けてしまい、よろけて落ちそうになりましたので、『まあ、アルマンゴル司教さん(注:11世紀ピレネー地方の橋を架ける聖人)は危ないことをしておかれる』と腹を立てて、覗いてみる気を失してしまったようです。

 中将殿はきちんとしたプルポワン(上着)を着こなして、隋人たちも付いておりました。童女が「あの人は、この人は」と名を上げていたのは頭中将アントワン殿の隋人や近習の男児でございました」などと報告しますと、「その馬車の主を確実に見届けたのか」と問いながら、「もしかしたら、当の女主は『あの、忘れえない女性』ではないだろうか」と思い至りました。

 

 もっと知りたそうなヒカルの表情を見ながら、「私はうまく隣家の侍女に言い寄りまして、家の中の模様も余すところなく観察いたしました。『家の中にいるのは、自分と同輩の侍女たちだけ』とその若い女が言いますのを、騙された風をしてとぼけておりました。若い女は『うまく隠せた』と思い込んでいるようです。小さい童女がうっかり口をすべらせても、巧みに言い紛らして、邸内に女主人は居ない風に強いて装っています」などと言って一笑しました。

 

「乳母の見舞いに行ったついでに、隣家を隙見させてくれ」とヒカルはせがみました。

 仮の宿の住まいとしても、家の状態を思うと「まさに主馬頭エリックが蔑んだ下の品に属するだろう。その中に意外に面白い女がいたとしたら」と思いをふくらせます。コンスタンは「万事、御心に背かないこと」を信条としており、自分自身も自他共に認める好色者でしたから、段取りに手惑いながらも、何とかヒカルを女主人の許に通わせるように工面しました。この辺りの経緯はくどくなりますので、例の如く省きます。

 

 女に向けて「アントワンの『常夏の女』なのか、あるいは何者であるか」を尋ねることはなく、自分自身も名乗りをせず、思い切りやつれた姿にして、ブルジュの数キロメートル手前で馬車から降りて、徒歩で市内に入ろうとします。「そこまで思い詰めておられるのか」とコンスタンはたまげながら、さすがに自分の馬をヒカルに譲って、自分は徒歩でお供をします。

 

「色事師でならす私の、こんな姿を女たちに見られてしまうのは辛いことです」とこぼしもしますが、街中に入る橋に近付くと、人に知られないようにコンスタンは離れ、あの夕顔の花を折った随身と誰にも顔を知られていない侍童一人だけをお供にして女の家に向います。「もし気付かれてしまったら」と懸念して、隣の乳母邸に立ち寄ることはありません。 

 女の方は、ひどく怪しんで、腑に落ちない心地がしますので、恋文を届ける使者が来ると後をつけさせたり、男が帰る暁の道を窺わせて所在先を見つけようとしますが、どこからともなく行方をくらましてしまいます。

 

 シュノンソーに戻ると、すぐに再会しないではいられず、女のことが心から離れないので、「よくないことだ。軽々しくしすぎだ」と反省はするものの、しばしばブルジュ通いをしてしまいます。こうした色恋沙汰は、真面目な人でも乱れてしまうことがありますが、ヒカルはこれまではとても見苦しくないように自重して人から咎められるような行動はしてこなかったのですが、今回は不思議なほど「今朝別れても、昼間になると待てなくなる」と恋焦がれてしまいますので、「それほどもの苦しくなるほど、心にとめるべきの事でもないだろうに」と懸命に気を静めようとします。

 

 その人の気配は驚くほど柔順でおっとりしていて、思慮深い重さは乏しいですが、無性に若やいでいます。と言って、まだ男を知らないというわけでもありません。父親が爵位三位以上の貴婦人ではないようです。鼻にかかった話し方やオック語が時に混ざることから、南フランス育ちの印象を受けます。

「どこがこれほど自分を惹きつけてしまうのか」と返す返す自問します。

 

 服装はわざととってつけたような粗末な狩猟服を着て、身振りも変え、覆面をつけて素顔をちらとも見せず、夜が更け、人が寝静まった頃に出入りしますので、昔物語にある「深夜に訪れ、明け方に山に戻る蛇神伝説」めいていますので、薄気味悪いと嘆くほどでした。

 男の気配から、手探りでも貴人ではないかと分かるものの、「どなたなのだろう。やはり侍女の許に通ってくる隣家の好色男が仲立ちをしたのだろう」と、下級職五位の大夫(たいふ)であるコンスタンを疑います。

 当のコンスタンは平静さを装って、知らぬ顔で侍女に言い寄って、ヒカルのことなど気がつかない風で、侍女を連れて遊び歩いていますので、「どういうことなのだろう」と女の方は納得できず、奇妙で、普通の恋愛とは違った物思いをします。

 

 ヒカルの方は「こうして油断をさせながら、急に隠れてしまったなら、どこを目当てにして尋ね出すことができるだろう。今の棲家は仮初の隠れ家であることは確かであるから、どこかへ移って行ってしまう日がいつとも分からない」と案じます。追いかけて行ったとしても、思い通りにはいかないとなるなら、単なる一過性の遊びごととして済ませてしまってもよいのですが、どうしてどうして、そうは行きそうにもありません。

 人目をはばかって、訪れる間隔をあけてしまった夜な夜には、とても堪えることができず、苦しいほど思い焦がれてしまいますので、「世間には誰とも知らせないまま、シュノンソーに迎えよう。もし世間に知れて、不都合なことが生じたとしても、それはそれまでのこと、自分の心のままにしよう。とは言うものの、ここまで女に惚れこんでしまったことはなかったのに、どういう契りがあったのだろう」と意を決しました。

 

 その夜は馬ではなく、馬車で乗り付けました。

「さあ、もっと気安い所に移って、ゆっくりと話でもしましょう」と誘いますと、「まだまだ不可解でございます。別の場所へとおっしゃいますが、覆面もはずされず、身も明かされず、私をまともには扱って下さいませんので、不安でなりません」とごく若い乙女のように答えますと、「確かに」とヒカルは微笑んで、「イソップ物語の『狐とブドウ』の狐は『高すぎて取れないブドウの実を諦めて、くたびれ損だとぶつくさ言いながら去っていきました』が、諦めずに知恵を絞って、美味しいブドウをつかみ取って下さい」と優しげに話しますと、女はけなげにに頷いて、その気になっていくようです。

 

「世間的には不体裁なことであっても、素直に従おうとする心持ちがとても愛らしい人だ」と感じるにつけても、やはりアントワンの「常夏の女」なのではないのか、という疑念が晴れず、アントワンが「雨夜の品定め」で語った模様などを思い出すのですが、「何か隠さねばならないことがあるようだ」と強いて問いかけることはしません。

 腹を立てて、ふいに背を向けて隠れてしまうような様子はありませんが、「自分が途絶えがちに通うようになった折りには、気を変えてしまうこともあるだろう。自分の心が少しでも他の女へ気を許すことがあった時にこそ、愛しさが分かるのであろう」とさえ思います。

 

 九月の満月の十五夜でした。明るい月光が土壁の隙間から漏れてきて、見慣れない住居の有り様を珍しげにご覧になります。もう夜明けが間近になっているのでしょう。

 隣の長屋から、目を覚ました男達の声々が聞えてきます。

「ああ、すごく寒い。この寒さで今年は商いがさっぱりになってしまう。田舎廻りの行商も期待できなそうだから、心細い限りだ。北隣さん、聞えていますか」などと言い交わしているのが、聞えてきます。 

 貧しい者が、その日の糧を求めて起き出して、がやがや騒ぐ物音が間近から響いてくるのを、女はひどく恥かしく思っていました。風流ぶって体裁を気にする人なら、消え入りたいような場末の有り様です。それでも女はのんびりとしていて、辛いことも悲しいことも、恥じ入ることも、深くは気にする様子でもなく、応対する態度や仕草は非常に上品に貴人の娘のようでいて、またとないくらい下品な隣家のぶしつけさがどういうことなのか、理解もしていない様子なので、ひどく恥じ入ってしまうよりも、罪がないように思います。

 

 水車の音に加えてゴロゴロと石臼の響く音が雷よりもこわごわと寝床に聞えてきます。「ああ、やかましい」とさすがにヒカルは閉口します。ですが、それが何の響きなのか、ヒカルには分からず、「ひどくたまらない音だ」と聞いているだけです。市井の雑音がごったになって耳に入ります。小川の洗濯場から布を打つ棒や槌の音が幾つも重なって響き渡り、空を飛ぶ雁の鳴き声も聞えてきます。そうした物音が雑多に入り込んできますのが堪え難いほどです。

 大路を眺められる二階の部屋でしたので、よろい戸を開けて外を眺めます。大路では荷をどっさり積んだ商人たちが朝市へ急いでいます。こじんまりとした前庭に実を赤くし始めたしゃれたアオキが植えてあって、花々にかかっている露はシュノンソーの庭と同じように、きらめいています。コオロギの鳴く声がみだりがわしく土壁の隙間から聞えてきます。間遠からでしか聞いたことがなかったヒカルの耳に、突き刺すように鳴き乱れているのが、中々、様変わりがしていると思いながら、女を思う気持ちの深さゆえに、あらゆる欠点でも許してしまいます。

 

 女は白い裏地がある上着に、柔らかな薄紫色の平織りモスリンを重ねており、あまり晴れやかな姿ではありませんが、すごく愛らしく、華奢な感じがして、「ここが」と取り立てて優れた所はありませんが、細やかになよなよしながら物を言う様子が、「ああ、胸苦しくなる」と思わせるほどいじらしく見えます。

「これにもう少し思慮深い重厚さを添えてみたら」と見ながら、もっとくつろいで話をしてみたいと思いますので、「さあ、この近くにある館へ行って、心を打ち明けて語り合いましょう。手狭なここにいるばかりだと、窮屈でなりませんから」と言いますと、「どうして急にそんなことをおっしゃるのですか」と、とてもおっとりと答えます。この世だけでなく、あの世に行った後までの約束を誓いますと、次第に疑念をなくして、打ち解けてくる心ばえなどがどこか普通と違っていて、とても「男を知った世馴れた人」には思えません。

 人がどう思うか、もうどうでもよくなって、ミモザを呼んで随身に馬車を邸内に引き入れさせるように命じました。侍女たちも、男の志が並々でないことを承知していましたので、不安にかられながらも男を信頼していました。

 

 日の出が近付いてきました。雄鶏の声は聞えてきませんが、年老いた声で地べたに額づきをしながら、祈祷をしている声が聞えます。起き上がる気配がひどく辛そうです。ヒカルは哀切を感じて、「朝の露と異なりはしない、はかない浮世に何を求めて祈っているのだろうか」とじっと聞いていると、托鉢僧団ドミニカンの在俗信徒なのでしょう、「天国に導かれる師よ」とナザレのイエスの名を尊びながら拝んでいます。「ほら、聞いて御覧なさい。あの行者は現世だけでなく、来世のことまで考えているのですよ」と憐憫の情を感じます。

 

(歌)在俗の修行僧が 祈っているのを道しるべにして 来世に行っても 深い契りを 

   守っていきましょう

 桐壺王の祖父王が寵后アニエスと交わした「二人が両翼となって天を飛び、大地にあっては連理の枝になろう」との一節を思い起こしましたが、アニエスは若くして祖父王を残して、あの世に立去ってしまったことに気付いて、次の救世主が出現する遠い未来までの愛を約束します。

(返歌)これまでの宿命を知っている 不運な身の上ですから 行く末のことも 頼みにはできません

 

 こうした歌のやり取りは馴れていないのか、心もとないようです。女は「月夜に出ると、月に誘惑されて戻ってこれなくなることがある」という言い伝えを思って、出掛けるのをためらいますので、何とか説得しているうちに、急に月が雲に隠れて、東の空が白じんで明るくなっていく様子に風情があります。

「人目につかないうちに」とヒカルは出発を急ぎます。女を軽々と抱いて馬車に乗りますと、侍女頭のミモザも同乗しました。

 

 ブルジュの町を離れて、一時間半ほどで、ムアン・シュル・イエヴル(Mehun sur Yèvre)の王室所有の古城に着きました。管理人を呼び出している間、荒れ果てた正門の前で周囲を一瞥します。シダが一面に生い茂り、大木に育ったプラタナスの並木道は小暗くなっています。露も湿っぽく、馬車の窓を開けていましたから、プールポワン(上着)の袖もべっとり濡れてしまいました。

 桐壺王の祖父王がパリからロワール地方に疎開をしてきた当座は、シノン(Chinon)、ロッシュ(Loche)とブルジュを結ぶ地域が王朝の中枢部となっており、ムアン城もその一つでした。イギリス軍が支配するオルレアンへの攻撃の際には出陣地の一つになり、ジャンヌ・ダルクも訪れたこともあります。桐壺王の父王の時代になって、王朝の中枢部はラ・ロワール河畔のトゥールやアンボワーズに移行していったことから、次第に忘れられ寂れて行きました。

 

 濠をはさんで、中世の名残りを残す主塔(Donjon)を四隅に配置した長方形の造りで、西の対と東の対で構成されていますが、荒廃が進み、主塔の一部は崩れかけています。

 

「私はこんな経験をまだしたことはないが、妙に不安になる」。

(歌)昔の人も 恋のためには こうやって道に迷ってしまったのだろうか 私がまだ知らない

   夜明けの道を

 女は恥かしがりながら、歌を返します。

(返歌)山の端に連れて行こうとされる御方の 本心を知らずに お伴をする 月のような私は

    空の途中で 見捨てられてしまうのでしょうか

「心細うございます」と言って、恐そうに怯えている様子なので、「あんな小館に大勢で住んでいるせいだろう」とおかしくなります。

 

 城内に馬車を引き入れて、西の対に座敷を用意させている間、馬車から中庭を眺めます。

 ミモザは「由緒がある寂れた古城での逢引とは、とてもロマンチックなことだ」という心地で、頭中将が通って来た頃など、女主人の過去の恋愛のことなどを感慨深げに思い起こしていました。管理人がヒカルを丁重にもてなしていることから、覆面の男が何者であるかの見当がつきました。

 

 ほのかに物が見える明るさになってから、馬車から降りました。座敷は急な仕度でしたが、小綺麗にしつらえてありました。

「お供の人があまりおられないようですね。ご不便でございましょう」とヒカルとは顔なじみの下家司で、左大臣邸にも仕えている管理人が寄ってきて、「適当な者どもを呼び寄せましょうか」と伺います。

「いやいや、人があまり来ない隠れ家をことさらに求めて来たのだから、私が訪れたことは胸にしまいこんで、他人には漏らさないでくれ」と口封じをします。

 

 管理人は急いでミルク入りチキン・スープなど朝食を供しましたが、専任の料理人も給仕もおらず、食器も有りあわせの粗末な日常品でしたので、我慢するしかありません。まだ経験をしたことがなかった旅寝でしたが、「シェール川の流れが 絶えてしまうことがあろうとも あなたに語りたい言葉が 尽きることがありましょうか」と愛し合い語り合うしか、なすべきことはありません。

 

 日が高くなってから、起床します。よろい戸を自分で開けて外を一望します。すぐ近くに警備人小屋がありますが、一帯はひどく荒れ果てていて人影もなく、遠くまではるばると見渡すことができます。森の王様と呼ばれる楢(なら)が数本、古びた大木となって気味が悪いほどでした。目の前の草や潅木などは、これと言った見所がなく、もはや庭ではなく、すべて秋の野原の景色です。池も水草に埋れつくされて、もの恐ろしいほどです。管理人一家は東の対側の別棟の方に部屋を設けて住んでいるようですが、かなり距離が離れているようです。

 

「ここまで荒れ果ててしまうとは。と言っても、悪魔か魔女が棲んでいたとしても、私を見逃してくれるだろう」とつぶやきます。顔はまだ覆面で隠していましたが、さすがに女は「憎らしい」と思っているだろう。「ここまで親しくなって、隔てを置いたままなのは契りあった男女のあるべき様ではないだろう」と考えて、覆面を取りました。

(歌)夕刻の露で ヒカリ(光)を添えた 夕顔の花を開いて 素顔を見せるまでになったのは

   あの時もらった歌が ご縁になったからです

と語りかけますと、流し目でちらっとヒカルを見て、

(返歌)光輝いていると見ました 夕顔の上露は たそがれ時の見損ないでした

   今お目にかかってみると さほどのことはありませんね

と小声で返歌をしました。

 

 ようやく冗談を言うまでになって来たことが嬉しくなりました。くつろいでいるヒカルの姿は、場所が場所だけに、魔が差しはしないか、と思えるほど魅惑的でした。

「いつまでたっても、本当のことを話してくれないのが悔しくて、私も素顔を見せまいと思っていましたが、こうやって素顔をお見せしました。今こそ、何者なのか名を名乗ってください。あまりに気味が悪い」と迫りますと、「私は宿も定まらない羊飼いの子ですから」ととぼけて、依然として心の奥まで開かないのが、とても甘えた感じです。

「仕方ありませんね。これも私のせいだからでしょう」と恨みつつも、あれこれ語り合いながら、ゆっくりと時を過します。

 

 ようやく、コンスタンが居場所をつきとめて、菓子などを持参しました。自分が夕顔邸の侍女の許に通いながら、ヒカルについてはしらばくれていたことをミモザに咎められるのを気にしてなのか、ヒカルたちの側には近付きません。

「ここまで女と隠れ忍んで歩かれるのは珍しいことだ。それだけ夢中にさせてしまう値打ちがあるのだろう」と憶測すると、「自分が先にうまく言い寄ることができたのに、お譲りしてしまったとは、我が輩も寛大な男だ」などと自嘲してしまいます。

 

 たとえようもなく物静かな夕方の空を二人で眺めていましたが、「閨(ねや)の奥の方が暗くて、薄気味悪い」と女が気遣っているようなので、端のカーテンをはらって明るくして、夕顔に添い臥します。

 夕映えの顔を見交わしながら、女君もこうした有様に、思いの外に不思議な心地をしながら、それまでのあらゆる嘆きを忘れて、少しづつ打ち解けてくる様子が何とも可愛く、ヒカルはずっと夕顔を側に寄せて、何か「とても恐い」と不安にかられている夕顔があどけないく、いじらしい思いで抱きしめます。

 

 よろい戸を閉め、オイルランプを灯させます。

「私の方は、すっかり我が身を明かしてしまいましたが、貴女はまだ心を閉じておられる」と恨みます。

 

「王宮では今頃、どんなに私を捜しているだろう。どこを捜しあぐねていることだろう」と想像しつつ、「ここまで来たのは、自分でも不可解なことだ。メイヤン夫人も思い乱れていることだろう。恨まれてしまうのは苦しいことだが、それも道理である」と思い悩んでいそうな先々の中で、真っ先にメイヤン夫人を思い浮かべます。他愛なげに向かい合っている女を愛しいと感じながら、「メイヤン夫人はあまりにも自尊心が高く、相手まで物苦しくなってしまう点を少しでも取り捨ててくれたら」と、夕顔とメイヤン夫人とを思い較べてみます。

 

                 

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