その2 帚木(ははきぎ)      (ヒカル 16歳)

 

12.ヒカル、再びポンセの邸を訪ねる

 

 しばらくの間、アンジェの左大臣邸にずっとおりました。あれっきり便りも出さないでいるのを、女はどう思っているのだろう、といとおしくなり、始終心にかかって思い侘びるのも苦しいので、トロワ知事を呼び寄せました

 

「先日の故中納言(衛門府の督)の息子を寄こしてくれないか。可愛く見えたので、身近で使ってみようと思う。王宮への伺候も私が面倒をみよう」と言いますと、「まことに結構なお話でございます。姉なる人に相談してみます」と答えます。思いをはせる女が話しに出てきましたので、胸が潰れる思いでした。

「その姉君というのは、君の弟を産んでいるのかね」と探りを入れますと、「いえ、そういうことはありません。父の後妻となって二年ほどになりますが、『宮仕えに出したい、という父親の望みと違ってしまった』と思い嘆いて、不満があるように聞いております。

 

「それは気の毒なことだ。とても評判がよい女性と聞いていた。本当にそうなのかね」と問いかけますと、「さあ詳しくは存じ上げません。『歳をくった息子は若い継母と親しくしないものだ』というしきたりに従って、疎遠にしておりますから」とトロワ知事は返答します。

 

 五、六日が過ぎて、トロワ知事がその児を連れてきました。名はジュリアンと言いました。仔細に見ると、そう整った顔でもありませんでしたが、優美な所があって貴人の子らしい感じがします。側へ呼んで、親しげにお話になります。子供心に「ヒカル・ゲンジ様と接することができるのが有り難く嬉しい」と思います。姉君について詳しく尋ねます。答えられることは返事をするものの、恥かしそうにおとなしくしていますので、話を切り出しにくかったのですが、順々とうまく言い聞かせていきました。

 

 ジュリアンは「そうか、そういうことがあったのか」とぼんやり分かって来て、意外な思いはするものの、幼な心で深く詮索しようともせずに、ヒカルから託された手紙を姉の許に持って行きました。

 

 女君はソファに横になっていましたが、浅ましさに涙すら浮んできました。弟が何と思っているか、せつなくあります。そうは言っても手紙を開けて、きまりの悪さを隠すように、横たわった顔の上に広げました。手紙は長々と書かれていました。

(歌先日の夜に見た夢に 再び出逢える夜があるかと 思い嘆いているうちに 

   お目にかかれない 日々がたってしまいました

この恋しさを 何につけて慰めたらよいのやら 眠れる夜がないので 夢も見れません」と流行りの歌も添えて書き記した筆跡は、眩しいほど立派ですので、涙で目が曇ってしまいました。心にもしなかった宿命が新たに加わってしまった身を案じ続けながら、打ち臥しています。

 

 翌日ヒカル・ゲンジ邸からお召しの連絡が来ましたので、ジュリアンは「これから御殿に参上します」と言いながら、姉に返信を求めました。姉が「このようなお手紙を見る人はおりませんでした、と答えなさい」と言いますと、ジュリアンはにっこり笑いながら、「人違いではないようにおっしゃっておりましたから、そんな風には申せません」と言いますので、胸騒ぎがして「それではこの児に残らず話してしまったのだ」と思いますと、限りなく辛くなります。

 

「そんなことを言うものではありません。それなら御殿へ行きなさんな」と不機嫌になってしまいましたので、「お召しになったからには、行かねばなりません」とジュリアンは出掛けていきます。

 

 女好きなトロワ知事は、自分の継母を新たに登場した希少な女性のように思って、気を引きたい心境から弟のこの児にも優しくして、連れ歩いています。

 

 ヒカルはジュリアンを呼んで、「昨日はずっと待ち暮らしていた。私がお前を思うほどには、お前は私のことを思ってはくれないのだね」と怨じますと、ジュリアンは顔を赤らめてかしこまっています。

「返事はどこにある」と尋ねますので、「これこれしかじか」と報告しますと、「お前は言うほどの甲斐性もない児だ」と言って、新しい手紙を手渡しました。

 

「お前は知らないだろう。私はミラノ副公使より先に、お前の姉さんを見知っていた。それなのに『私は頼みにならず、心細い』と見限り、つまらぬ老人を後見人にして私を侮ってしまったのだ。せめてお前は私の子でいておくれ。姉さんが頼みにしている後見人は、この先、長いことはないだろう」と仰せになりますと、「そうだったのか。お気の毒なことだ」と思う様子に、ヒカルは「可愛いらしい」と感じます。

 

 ヒカルは始終、ジュリアンを側に置いて、王宮にも連れて行きます。自分を担当する衣裳部に命じて、ジュリアンの衣裳を新調させたりして、文字通り、親代りとして、面倒を見ます。

 

 手紙を頻繁に女君に送りますが、「弟はまだ幼い。不用意に他人に漏らしてしまうか、手紙を落としてしまったら、『軽々しい』という浮き名まで背負い込んでしまう。お志は有り難くとも、釣り合いというものがある」と思いますので、「どんなにめでたいお話でも、自分の身分が」と思い留まって、打ち解けた返信もしません。ほのかに見聞きしたヒカルの感じや有り様は「本当に、普通の人とは違う良さがあった」と思い出さないわけではないものの、「そんな素振りを見せたところで、今さら何になるだろう」と反復をしてばかりいます。

 

 ヒカルは片時も女君を忘れる間がなく、やるせなくも恋しくも思い出されます。憔悴しきった様子などをいとおしく思い出す胸中が晴れることがありません。軽々しくポンセへ立ち寄ったとしても、「人目が多い所で、けしからぬ振る舞いをしてしまったら、あの人のために良くはないだろう」と煩悶します。

 

 例のように王宮で幾日も暮らしていましたが、外出の口実に都合がよい「方塞がり」の日を待ち構えて、急に王宮を退出しました。異腹の弟、師(そつ)宮がいるル・リュードに向うふうを装って、道の途中からポンセに方向を変えました。

 

 ポンセに着いて「弟の邸に行く予定だったが、途中で馬車が故障してしまった。修理が遅れて日暮れが近付いてきたので」と、トロワ知事にその夜の宿を乞いました。トロワ知事は驚いたものの、「庭に水をかけていただくような光栄でございます」とかしこまって喜びます。ジュリアンを先にポンセに帰らせ、「こんな手順で思い寄るから」と事前に示し合せていました。始終、側に置いて召し使っていますので、その晩もすぐにジュリアンを呼び出しました。

 

 女君にもすでに知らせをしていました。そこまで思い詰めてくれているお志を嬉しいとは思いながらも、「そうかと言って、気を許して見栄えもしない姿を見せてしまうのは味気なく、夢のように過ぎたあの夜の嘆きを、また繰り返すことになってしまっては」と思い乱れて、やはり、愛人気取りになってお待ちするのは気恥ずかしいので、ジュリアンが召されて離れていくと、「ここは客人と近過ぎて、失礼な感じがします。それに身体がだるく、腰でも叩いてもらいたいので、少し客人と離れた場所へ」と言って、西館とをつなぐ渡り廊下の端にある中将の君の部屋に隠れ移りました。

 

 前々から計画していたことですから、お供の人々を早々に寝かせて、ジュリアンを介して女君に知らせてはいましたが、ジュリアンは姉の居場所を尋ねあてることができません。あちこち捜し回って、ようやく渡り廊下の端で見つけ出しました。

 

「何とも浅ましい仕打ちで、辛くなります」と悲しんで、「これでは私は役立たずと思われてしまいます」と泣かんばかりに文句を言いますと、「何でお前はこうした不埒な心遣いをするのですか。子供がこんな事の取次ぎをするのは、とても忌まわしいことです」と言い脅して、「気分がすぐれないので、侍女たちを側へ呼んで身体を揉ませております、と申し上げなさい。誰もが『変だ』と不審がりますよ」と突っぱねましたが、心中では「こんな風に後妻として身分が定まってしまわずに、亡くなった親の面影を留めた実家にいて、たまさかにでもお越しをお待ちしているのなら、楽しいことであっただろうに。強いて思い知らぬ顔のふりをしているものの、どんなに身の程を知らない女だと思われることだろう」と、自分の意思でそうしているものの、胸が痛くなって思い乱れます。

「どっちみち、今はどうにもならない人妻の身であるから、どこまでも情知らずの冷やかな態度を押し通そう」と覚悟を固めていました。

 

 ヒカルは「ジュリアンがどううまくとりなしてくれるか」と、まだ幼い児を心もとなく待ち臥していましたが、うまくいかなかった由を聞きますと、「浅ましいほど頑固一徹な御心を持った女だ。私も恥かしくなってきた」とひどく落胆した様子でした。しばらく物も言いません。そして、苦しそうにため息をついて、「辛いことだ」と思い沈んでいます。

(歌)帚木(ははきぎ)という 遠くから見るとあるように見え 近くで見ると形が見えないという

   伝説の木の正体を探りにエジプトまで訪ねていったが いたずらに道に迷い込んでしまった

「何とも言いようがないね」と言って、ジュリアンに歌を託しました。

 

 さすがにまどろむこともできずにいた女君はジュリアンから歌を聞いて、返歌を送ります。

(返歌)物の数にも入らない みすぼらしい家で生活している私は すでに妻という名がついている情けなさに 

    いてもいられない気持ちになって 帚木のように消えてしまいたい

 

 ジュリアンはひどくヒカルに同情して、眠たがりもせずに往ったり来たりしていますので、女君は「侍女たちが『怪しい』と感じるのではないか、と心配します。

 

 毎度のように酔ったお供たちはいぎたくなく寝入ってしましました。ヒカル一人は白けてしまった気分のまま、考え続けます。

 並みの女と違って、簡単にはなびかない心構えの女が、 帚木と違って消えもせずに、すぐそこにいるのが悔しいものの、「こういうことがあるから、ますます惹き付けられてしまうのだ」と思いながら、あまりにひどい仕打ちが辛いので、「もう、どうにでもなれ」と投げやりになるものの、そうすっぱりと諦めることもできません。

 

「とにかく、隠れている場所へ連れていってくれ」と頼みますが、「開けるのが大変難しいように戸締りをしておりまして、侍女も大勢侍っていますので、危なっかしすぎます」と申し上げます。

 ジュリアンは「お気の毒でたまらない」と思い詰めています。

「よし、分った。お前だけは私を見捨てないでおくれ」と言って、ジュリアンを側に寝かせました。若々しく心がひかれる有様のヒカルの側に寝れるのを「嬉しく光栄なこと」と感じているようなので、つれないあの人よりも、中々いとおしい、と思ったようです。

 

 

                著作権© 広畠輝治Teruji Hirohata